守護にゃんこ様


 

黒いもやもや

 桜の花が咲き誇る四月。周囲の圧力や期待、それらのストレスを耐え、激しい受験戦争を勝ち抜き、本日をもって晴れて山百合高校の生徒となった新入生は今、保護者と共にさして広くもない体育館に寿司詰め状態にある。  大型のヒーター四台が一生懸命に熱を放出する館内は、人口密度も手伝い、もわもわと体にまとわりつくような気持ちの悪い温度を保っている。  ぬるい空気と校長や来賓、PTA会長などのノッタリした激励に、一部例外を除いた黒い集団の睡眠欲は強まるばかりだ。 「桜舞う季節となりました。今日この良い日にこの学校に入――」  式の終盤、新入生代表挨拶。  空気が変わる。凛と澄んだ声が、館内の澱んだ空気を清廉なものに変えていくかの様に思われた。 ――パチッ  彼の声に睡魔という名の魔物が一人振り払われる。瞬きをすれば音がしそうな長い睫に縁取られた瞼が開かれ、黒曜石のごとく深い黒色の双牟が露わになる。  そこは前に述べた例外であるところの眠気のやってきていない集団の中心。そのなかでドーナツの穴のように一人うとうとしていたのは、この状況を作り出した張本人でもある藤本陽(ふじもとよう)だ。そして、彼が目を覚ましたことにより、周囲の緊張は何倍にも跳ね上がる。  恐怖を感じるほどの美しさがここにあった。少し長めの黒髪は癖が無く、艶々として、天使の輪が幾重にも折重なり、白い肌は肌理が細かすぎて陶器のよう。豊かな睫毛の下の大きな瞳は見つめられたら最後、何処までも落ちていく錯覚を覚える、黒と言うには黒すぎる底知れない漆黒。  長い脚を窮屈そうにして座る姿は、この世のものとは思えず、彼の周囲はその美貌に頬を染めるどころか青ざめていた。  目を覚ました美貌の少年は、壇上に目を向け、一瞬その大きな瞳を見開くと視線を一点に固定する。 (自分は、彼を知っている)  陽は、壇上で挨拶をしている彼の名前を聞き逃したことを後悔した。高鳴る胸を服の上からそっと抑える。彼は人生で二度目の運命を感じていた。  一方壇上の新入生代表こと白鳥美千代(しらとりみちよ)はその頃、新入生の中に一際目立った生徒を見つけた。その生徒が顔を上げて真面目に代表挨拶を聞いていたことも気になった理由かもしれないが、それを差し引いても目立つ容姿だ。  イケメンなどと軽い言葉で表現するのもおこがましい。その美貌に見つめられれば、距離が離れていても意識せずにはいられない。その視線に気持ちを持って行かれて、心臓が嫌な音を立てる。鼓動と共に言葉も早くなり、舌がもつれた。 ――やばい。  そう思った時、美貌の彼の表情が変わった。頬を染めて小刻みに震えながら、潤んだ瞳で切なげにこちらを見つめているのだ。  その顔を見た美千代は、胸がきゅうっと苦しくなるのを感じて、原稿を握る手に自然と力が入った。  気づけば見つめあっていた二人。見つめあったまま挨拶は終わり、微かな甘さを残しつつ入学式が終わった。  整列したまま体育館を出ると、美少年の姿は見えなかった。まあ、同じ学校なのだし、あれほどの容姿だ。すぐに噂になって簡単に見つかるだろう。そんなことを考えながらのんびり歩いて教室に着くと、座席表の前に人だかりができていた。  出席番号一番が「影木」二番が「阿部」になっている。 「なんだ、これは」  美千代が首を傾げる。と、その時。 「見つけた!!」  何とも麗しい声に振り向くと、かの美少年がこちらに駆け寄ってきた。  入学式の後、見事に新入生代表を見失ってしまった陽はそれでもどうしても諦めたくなくて、自分の教室である五組に行くまでのすべての教室を覗いていった。  人間離れした美貌のおかげで、各教室を覗く度にそこにいる全員がこちらを振り向いてくれることは、人探しをしている身としてはなんともありがたいことである。しかし、それでもまだ教室に入っていない者もいれば、他の教室で中学からの友人と話している者も居るのだから、なかなか一人を捜し出すことは難しかった。  そうして五組までやってくると、なんとそこに探し人がいた。 「見つけた!!」  思わず、体当たりというか、掴みかかるというか、抱きつくというか、そんな勢いに任せた接触をしてしまう。 ――その時、衝撃が走った。 「~~っぁあ!?」  美千代はぞくぞくと体を駆け抜けるそれに、体を震わせてその場に崩れ落ちる。脳が痺れるような感覚に、鼻を抜けるような高い悲鳴が上がった。  美千代が叫んだ時、陽の目には信じられない光景が映っていた。彼の体から、黒い靄(もや)が吹き出し霧のように消えていく。  靄がすべて消えた後には、とろっと瞳を溶かした美千代が、胸と口を押さえて座り込んでいた。 ******  山百合中学はごくごく普通の公立中学校である。  一日のカリキュラムを終えると、生徒たちは部活に精を出すもの、委員会に顔を出すもの、早々に帰宅するものにだいたい分かれる。  帰宅する生徒の中に一際目を引く少女がいた。  腰まで伸ばしたふわふわウェーブの髪の毛と、眉の高さで切り揃えられた前髪に囲まれた、卵型の美しい輪郭。その中に並ぶ筋の通った鼻、長いまつ毛に囲まれた大きく黒目がちな瞳、桃色の唇はどれも整っていて、前髪から覗く濃く細い眉が意志の強さを感じさせる。加えてボンキュッボンの中学生とは思えない誰もが認めるナイスバディ。 「明(あかり)様」  門を出る少女にランドセルを背負ったツインテールの少女が声を掛ける。 「分かっているわ、まゆちゃん」  明と呼ばれた少女が、ツインテールの少女に微笑むと、二人は肩を並べて歩きだした。  放課後、美千代がケータイを開くと新着メールが一件届いていた。送り主は愛場(あいば)明(あかり)、一つ年下のオカルトマニア、と言うには行き過ぎた行動力と能力を持った美少女である。 「今回はどんな用件で俺を呼んだんだ」  桜の花弁がひらひらと舞い落ちる公園で、美千代は二人の少女と向き合う。 「あら、分からないの?」  心底不思議そうに聞き返す少女明を前に、美千代は今日一日のことを思い返した。 「今日は体が軽いでしょう?」  美少年に掴みかかられたあと、憑き物が落ちたように体が軽くなったことを思い出した。そしてそれに伴う――  美千代は瞳を閉じて思考を止める。これは無かったことにしたい。 「――まさか」 「そう、そのまさか。あなたは運命の出会いをしたのよ。いえ、再会、と言うべきかしら」  明は含みのある笑いを浮かべながら、もう一人の少女まゆから離れた。 「運命、必然、宿命、定め。日々生まれる繋がり、その繋がりは消えることなく、消すことはできません」  まゆの体から閃光が迸る。 「再び巡り会った。それが証拠。  繋がりの強さは時間ではない。絆ではない。生まれた時からそうあるもの。  細い繋がりがある、色のない繋がりがある。太い繋がりがある、光輝く繋がりがある」  光の中から現れたのは、先の少女とは似ても似つかぬ金髪金目の女性。 「その少年は貴方の運命の人。貴方の運命に深く関わり、貴方を照らす。……でも、」  その美しい女性は言葉を切り俯くと、その細い肩を小刻みに震わせた。  美千代には普通の人には言えない秘密がある。それは彼の守護霊が猫だということ。これを明は守護にゃんこ様と呼ぶ。  普通、人間には人間の守護霊が憑くことになっている。それがどういう手違いか、美千代には猫の守護霊が憑いてしまった。動物霊は力が弱いと言う訳ではないが、人間との相性が悪い。そのために美千代は今までたくさんの何かにとり憑かれ、穢れを背負ってきた。昔はそれが何なのか分からず、ただ体が重いと感じるだけだった。  六歳の夏、美千代は猫になった。これは外部からのプレッシャーに耐えられなくなった守護にゃんこ様のとる最後の手段であり、一日もすれば元に戻る。だが、そんなことは知らない美千代はその時大いに混乱した。そんな美千代を救ってくれたのが明と今目の前で華麗な変身を遂げた天使のまゆちゃんなのである。 「え、お、おい、どうしたんだ?」  泣いているのか!? それほど悲惨な運命が俺に待ち受けているのか!?  一気に不安になる美千代だが、しかし彼女は泣いてなどいなかった。 「――くくく、だからって……っ、ぶふ、そんなに、しなくったって――っ! ぶはっ!!」  笑っていた。それも盛大に。 「おい?」  ついには腹を抱えてしゃがみ込み、呆然と立ちつくす美千代を指さして、こんな言葉を突きつける。 「繋がり強っ! 強すぎて! 怖いですわっ!! 美千代様、貴方、だってっ!! 直径二十センチはありますわよその繋がり! もう紐とかロープとかのレベルじゃありませんもの! それも眩しい程に輝くメタルレッドって――っ!!」 「そんなにか!?」 「それも全身雁字搦めですわ」 「本当に?」  美千代は半信半疑で体を見回すが、霊感ゼロの彼に見える筈はなく、実感は湧かない。明は戸惑う美千代の肩をぽんと叩いた。 「猫になることもなく、お祓いしてもらえるなんて良かったじゃない。し・か・も、気持ち良かったんでしょう?」  そう言って彼女は妖艶に微笑んだ。美千代の血がぶわっと沸騰するように頭部に昇り、顔面を赤く染める。  それは、美千代が思い出さないように、気にしないようにしていた問題だった。 ****** 「黒いもやのように見えました」 「――そう」  東京の郊外にある小さな集落。その中心に立派なお寺があった。その住居スペースの一室で、陽は和服姿の女性と向かい合う。純和風の室内には香が焚き染めてあり、畳の匂いと相まって鼻腔を擽った。  少年と向き合う女性、天見家照夜(あまみやてるよ)は多少小皺が目立ってはいるものの、彼ととてもよく似た顔立ちをしている。 「あれは何だったのでしょうか」  陽が瞳を揺らすと、照夜は立ち上がり襖を開けた。廊下のガラス戸越しの檀家の墓地を見て、陽は息を呑み、半歩下がる。 「何が見えますか」  照代は陽を振り返り、血の気の引いた白い顔で墓地を見つめる彼に聞いた。 「黒い……、靄が見えます……」  喉から絞り出したような声に照夜は一つ頷いた。 「それは穢れよ」 「……穢れ……」 「死の穢れ。陽、あなたを陽一さん――あなたのお父さんの元へ送り出す際に封じた、見鬼の力が目覚めかけているわ。あなたには生まれた時からそういう力があったの。今までは結界で封じ込めておけていたけれど、ついに押さえられないところまで力が大きくなってしまったようね。そして、そのきっかけとなったのが、彼」 「待ってください! あの靄が死の穢れだとしたらどうしてそんなものが白鳥から出ているの!?」  悪い想像をして、思わず敬語が外れてしまった。 「安心なさい。靄が消えていったという事は穢れは彼から出ていたと言うより、彼にとりついていたと考えるのが妥当。そしてあなたはそれを払う力がある」 「じゃあ、俺が白鳥についた穢れを払えば良いんですね!」  陽の言葉に照夜は首を横に振った。 「彼は今まで普通に生きていた筈だわ。それに、除霊にも副作用はある。あなたが触れた時、彼は過剰な反応を見せたのよね。だったら、今しばらくは様子を見るのが賢明だわ」  その言葉にやるせない気持ちになる。自分は何もしなくて良いのだろうか、何もできないのだろうか。 「そのかわり、彼のことをよく見ていて。何かあったらすぐここに連れて来なさい」 「……はい」  干渉したい気持ちは、彼と関わりたいと思う陽の我儘だ。陽は多少残る不安と邪念を振り払った。





 

ホワイトアウト

 入学初日、声を上げ座り込んだ美千代を、座席表を囲んでいたクラスメイトたちはどうしたどうしたと遠巻きに見つめた。 「わ、悪い」 「いや、いきなり飛びついたのはこっちだし」  そう言いながらも、陽は腰を抜かした美千代に差しのべようとした手を一瞬ためらった。  翌日教室に入ると、美千代の隣の席で、出席番号二十番の藤本陽と出席番号一番の影木幻十郎が話していた。  昨日問題となった席順は、名前の順ではなく背の順だったのだ。廊下側の一番前が一番背の低い人で、窓側に向かって二番、三番と徐々に背が高くなり、一番端まで行ったら廊下側に戻る。授業を受けるには効率的かもしれないが、身長にコンプレックスを抱えている人には全くありがたくない制度である。その点、ほぼ平均身長の美千代には何ら問題は無い筈だったのが、そうもいかなかった。彼の出席番号は十九番。かの美青年、藤本陽の隣の席だったのである。 「――これも運命……、か?」 「え、何か言った?」  陽が苦しそうな渋い笑顔を向ける。 「いや、別に。体調悪いのか?」 「朝に弱いだけだよ」  陽は青白い顔で眉を下げた。  美千代は机の横に鞄をかけ、隣を見る。動物のグラビア雑誌が広げられていた。 「白鳥は、猫派? それとも犬派?」  幻十郎が聞いてきた。  出席番号一番の幻十郎は、男らしい名前を裏切って可愛らしい顔立ちをした、小柄な男子だ。何故かいつも首にカメラを下げている。 「俺は猫派かな」 「ふ~ん、僕は犬派。藤本も犬派」 「なんでだ? 猫、可愛いだろ」  陽の方を見て言うと、彼は目を細めて白い頬に憂いの影を落とした。 「……猫、怖いんだよね」 「トラウマでもあるの?」  呟いた陽に、幻十郎が問いかけると陽は寂しげに笑う。朝に弱い青白い顔に相まって、とても儚げに見えた。 「大好きだった仔がいたんだけど……」  死んだか、行方不明のまま帰って来ないのか。美千代は続きを追求しないまま、適当に相槌を打って聞き流した。 ******  美千代はだいたい四ヶ月に一回の周期で猫になる。  このことは家族や、一部の関係者しか知らない。最初はこの体質をどうにかしようと巫女さんや陰陽師を呼んでみたりもしたが、どうにもならなかった。最終的には、四ヶ月に一度位なら猫なっても良いのではないかと投げ出した。  そう、四ヶ月に一度なのだ。明の言うことには、陽が掴みかかってきた時に一度憑き物はすべて落ちたらしい。だから次に猫になるのは八月頃になる筈なのだ。なのに、まだ五月の今こんなにも体が重いのはどう言う訳か。 「おはよう」 「……おはよう」  陽が朝に弱いというのは本当のことのようで、彼の登校時間は徐々に遅くなり、今ではホームルームの始まるぎりぎりの時間に登校するようになっていた。  いつものようにチャイムと同時に登校した彼に挨拶すると、彼は眉間に皺を寄せて美千代を見つめ、視線を逸らすと考え込むように俯いた。  調子が悪くなってから、この顔を頻繁に目にするようになった。やはり何か気づいているのだろうか。 だが、そのことを深く考えるだけの元気はもはや美千代には残されていない。今日は本当に体が重い。いっそ休めば良かったかな、なんてそんなことを考え、机に沈んだ。 「――とり、白鳥ってば」 「ん……」  陽の声に起こされると、すでに帰りのショートが終わっていた。重い頭を働かせてみるが、昼休みからの記憶が全くなかった。 「悪い、今日掃除どこだっけ」 「今週は掃除休みだよ」  そういえばそうだった。鞄を持って立ち上がると、足元がふらついた。陽が美千代を支えようとして手を差し出す。その手から逃げようとして余計にバランスを崩し、すんでのところで机に手を突き転倒を回避した。 「わ、悪い!!」  なんだか彼を避けているようかのような、いや、実際避けているのか。そんな行動をとってしまい、美千代はとっさに謝罪する。  陽は素早く手を戻して眉をハの字にして微笑んだ。 「別に」  別にって顔じゃないだろ、それ。 ――ずん  体がまた重くなるのを感じた。  ふらつく美千代に、慌てた様子で彼がまた手を差しのべようとするが、その手は宙を掻いて止まり、右手を左手で包むようにして戻される。美千代は一緒に帰ろうと言われるまで、虚ろにその手を見つめていた。 「最近調子悪そうだな」  駅まで歩いて約二十分。人通りの少ない裏道を二人で歩く。 「そうか?」  隣を歩く美千代は、平静を装おうとしているのだろうが、全くできていない。顔色は悪いし、汗がすごいし、ふらついているし。なにより、陽には美千代を取り巻く黒い靄が見えていた。  横目で靄を確認すると、一瞬美千代と目が合い、つと逸らされる。 「――別に……、藤本には関係ない」 「……そう」  黒い靄がぶわっと濃く広がる。  まただ。俺と話していると、靄が濃くなる。ストレスになってるのか? でも、見ていないと何が起こるか分からない。いっそ、触れてしまえれば祓えるのだけれど……。  初対面の時の叫び声を思い出し、拳を握る。もしそれが、苦痛を伴うものなのだとしたら――  陽は未だ美千代との距離を測りかねていた。  大通りに出る。アスファルトに初夏の太陽が反射して、網膜を刺激する。陽は思わず顔を顰めた。眩しい。 ――眩しい?  いつの間にか漂っていた靄が消えていること気がついた。 「白鳥?」  隣にも後ろにも彼の姿は無い。その代り、いつの間に居たのか、グレーの毛並みの猫が逃げるように走り出した。  体が重い、重い重い。  藤本が心配そうに見ている――そんな目で見るな。  藤本が気遣ってくれる――大きなお世話だ。  事情を話すわけにはいかなくて、差し出された手に見ない振りをした。  寂しそうなその顔が嫌だ。  そんな顔をさせる自分が一番嫌だ……。  重い体が一瞬軽くなったと思った次の瞬間には、地面がとても近くにあって、美千代は自分が猫になっていることに気がついた。 (ど、どうしよう)  先を歩いていた陽が振り返る。美千代は反射的に逃げ出した。 「待って!」 (どうして追いかけてくるんだ!)  美千代は角で近道しようと塀をかけのぼる。 「待って、待って――ミィ君!!」  何故彼がその呼び名を知っているのか、思わず振り返った美千代は、足を踏み外して落下した。  陽が振り返ると、美千代がいたところに彼はおらず、代わりにそこにいたグレーの猫が駆け出した。 「待って!」  一瞬しか顔を見られなかったが、俺はこの猫を知っている。忘れる筈がない。間違える筈がない。 「待って、待って――ミィ君!!」  名前を叫ぶと、彼は振り返って――消えた。 「ミィ君!?」  急いで角を曲がると彼が目を回して倒れていた。  慌てて彼に駆けより、意識を失っているだけだと確認する。 「良かった……」  ほっと息をつき、その体をそっと抱き上げる。 「やっと会えた」  呟いて、柔らかな毛並みに頬を擦り寄せた。





 

藤本邸

 コの字形の建物の中央には大きな池。中庭と中島をつなぐ反橋、平橋。大きな平屋は神殿造り。ここは現代日本なり。  ミィ君を抱えた陽が、西と東にある二つの門のうち東側の東四足門から家の敷地に入ると、車宿(車や自転車をお置く所)の方から、この時代錯誤な風景にはおよそ不釣り合いな金髪青眼が現れた。藤本家の末っ子光である。 「陽、お帰りぃ!」  挨拶と同時に両手を広げる光をいつもならハグするところだが、今日は代わりに腕の中のミィ君を軽く揺すって眉を下げた。 「猫!? どうしたのその子」 「塀から落ちて気絶しちゃったんだ。とりあえず連れて帰って来た」 「だから自転車じゃないんだ」  学校から家までは電車と自転車の併用だ。電車はミィ君を鞄に入れて乗ってきたが、自転車の籠に入れてガシャガシャするのは可哀想なのでこうして抱いて連れ帰ってきた。  光は猫と陽を交互に見比べ、くりくりの目をもっとくりくりにした。 「陽、何だか嬉しそう」 「うん。今すごく幸せ」  陽はミィ君を愛おし気に抱き寄せる。幸せそうに顔を綻ばせる陽を見て、光も自然に笑顔になった。 ――ピンポーン  高音の安っぽいチャイムが鳴る。明が冷たく重い玄関の扉を開けると、ツインテールの少女が立っていた。 「あら、まゆちゃんいらっしゃい」 「明様」 「分かっているわ、とっても面白いことになっている気がしていたの」  無表情のまゆに明がにっこりと微笑んだ。 ****** (うわぁっ!!)  美千代が目を覚ますと、すぐ近くに陽の顔があった。気を失っていた美千代と一緒になって横になりながら顔をのぞき込んでいるのだが、無駄に造形が整っているために顔面アップの破壊力は凄まじい。 「おはよう、ミィ君」  陽が涼しげな瞳を溶かして笑う。 (お前、こんな顔出来たのかよ……)  傷ついたことを隠すための笑顔ばかり見てきたから、こんなに暖かく笑うやつだと思わなかった。こんなの、反則だ。  陽はふいっと目を逸らす美千代を抱き寄せて、鼻先、頬、額、耳の付け根につぎつぎと口づける。その度に美千代は、「にゃんっ」と短く鳴いた。 (な、何してんだこいつ?!) 「わぁ、この子顔真っ赤だ」  美千代がドキマギしていると、頭上から声がした。陽の手から抜け出して仰ぎ見ると、これまた陽に匹敵する美貌の人がちょこんと座っていた。ショートにカットされた金髪が、くせっ毛なのか所々ハネているのも可愛らしい。明らかに異国の血が混ざっているこの子と藤本はいったいどんな関係なのだろうか。  状況を把握しようと周囲を見渡す。木目の天井に畳に襖、美千代は座敷に敷かれた座布団の上に寝かされていたようだ。障子の向こうから暮れかかった太陽の柔らかい光が透けている。 「ミィ君かわいい」  陽が赤くなった美千代の頬をつついた。 「名前があるの?」  小首を傾げて可愛らしく尋ねる美少女に美千代を手渡すと、陽は少女を両足で挟むようにして後ろから抱きしめた。少女の膝の上でおどおどしている彼の額を撫でてやる。 「光は覚えてないかもしれないけど、俺たちミィ君に会ったことあるんだよ」 「そうなの?」 (そうなの!?) 「そうだよ。俺と照が六歳だから、光が五歳の時。兄弟三人とこの子で公園で一緒に遊んだんだよ」  どうやらこの光という少女は藤本の妹らしい。そして美千代は覚えていないが、猫の自分は陽と面識があるらしかった。 「へぇ」  光は声を発してから直ぐに、ん? となった。 「この子そんなおじいちゃんには見えないよ」  光が五歳の時といったら、今から十年も前の話である。 「でも、この子はミィ君だよ」 「何で分かるの?」 「ミィ君はミィ君だから」  陽が理由にならない理由で言い切ると、納得したのかしないのか、光はふぅんと鼻を鳴らした。 「この子、首輪してるよ」 「うん。直ぐに向こうからコンタクトをとってくると思う」 「こんたくと?」 「コンタクト」  陽がそう言うと、申し合わせたように電話のベルが鳴りだした。  陽が障子を開けると目の前に広い空間が広がる。その光景に美千代は息を飲んだ。白い砂利の庭に、大きな池。池に浮かぶ島や、池の向こう側に植えられた松が夕日を浴びてオレンジ色に輝いている。 (なんだ、これ!?)  時代錯誤な間取りは、国語の資料集でしかお目にかかったことのない平安時代のそれと瓜二つだ。おおよそ個人の家とは思えないその風貌に目を剥いた。  電話は、神殿を出て直ぐの廊下である孫庇の、寝殿側の柱に取り付けてある。陽はその受話器を取った。 「もしもし。――明か」  それは美千代が今一番連絡を取りたい相手の名前だ。美千代はここぞとばかりにニャーニャーと声をあげた。 (明!! 俺、俺だよ俺!!) 『そこにおれおれ詐欺をしている猫が居るでしょう』 「なんでお前なんだ?」 『――それは、どういう意味かしら』  陽の問いに明の声色が変わる。 「金の瞳で、横髪だけが長い、金の髪を銀の髪留めで留めてる女の人と知り合い?」  陽のこの問に美千代は目を見開いた。その特徴に該当する女性を知っている。それはまゆちゃんの真の姿だ。  どうして彼がまゆちゃんを知っているのか。 『そうよ。それより、その仔明日まで預かっていてくれないかしら』 「喜んで」 『じゃあ、明日の朝迎えに行くわね。それまでこれでもかってくらい可愛がってあげてちょうだい。それじゃあ』  用を済ませ、直ぐに回線を切ってしまおうとする明を陽が慌てて止めた。 『ちょっと待って!――この子はミィ君?』 「――そうよ」 「明様?」  受話器を置き、楽しそうに目を細める明にまゆが声を掛ける。 「向こうは、十年も昔のことを覚えていたわ」 「まあ! さすがメタルレッドですわ」 「雁字搦めのメタルレッドよね」  二人の少女は楽しくてたまらないといったように、顔を見合わせふふふと笑った。  陽は回線が切られても、受話器を置くという動作すらできずに固まっていた。その頬に透明の雫が一筋流れる。  じっと彼を観察していた美千代は、肌理細かな肌を濡らすそれを、冷たそうだと感じた。冷たい位に綺麗なのだ。 「陽、泣いてるの?」  陽は光に言われて、初めて自分が涙を流していることに気がついたのか、頬を触って驚いた表情をした。 「大丈夫?」 「大丈夫だよ。嬉しくて泣いてるんだ」  陽は美千代を抱き上げ、頬を摺り寄せる。美千代の毛に染み込む涙はちゃんと暖かかった。 (当たり前か)  整いすぎた彼の容姿は、作りものなのではないかと疑うことがある。特に、美千代に対してはいつも寂しげな笑顔向けていたから、その表情だけインプットされた精巧な人形のように思えたのかもしれない。お互いに接触を避けていたから、体温だって知らなかった。 「電話、明なんて?」 「ミィ君を明日の朝まで預かってって」 「その仔ほんとにミィ君だったんだ」 「そう」 「だから嬉しいんだ」 「そう」  美千代を抱いた陽がふわっと微笑む。名前通りの暖かい笑顔だ。今日の彼は、美千代の知らないたくさんの表情を見せてくれた。 ******  三人と一匹が食卓を囲んでいる。光と陽、そして帰ってきた三兄弟の真ん中照だ。驚いたことに、陽と彼は一卵生の双子で、まったく同じ顔をしていた。陽の美貌と全く同じ顔がもう一つ。末っ子の光も合わせて、人知を越えた造形の三つの面に圧倒される。  いつもそうなのか、今日がたまたまそうなのか、両親の姿は無い。食事は用意されており、皿に盛り、暖めるだけで食べられるようになっていた。美千代は分けてもらった焼き魚を頂きつつ、兄弟の会話に耳を傾ける。 「ミィ君って、陽君がかくれんぼの途中で見つけてきたミィ君?」 「照覚えてるの!?」  光が驚きの声をあげた。 「二人のことは何でも覚えてるよ」 「すごい!」 「それこそ俺が聞き取れる範囲内で言った言葉は一言一句誤らずに空で唱えられるくらい覚えてるよ」 「すごい!」  照の発言が本当だとしたら怖すぎる。それに「すごい」と答えて良いものか。 「でも、本当に十年以上生きているとは思えないよね」 「「明関係な訳だから」」  光の問いかけに兄二人が声を合わせて答えた。 「あ~」  納得したように感嘆の声をあげる光。それを「あ~」で済ませて良いものか。美千代は、明が周囲にどう思われているのか不安に思った。  その後も食事の間中、世間一般の兄弟とは少し、と言うか大幅にずれた会話が続いた。  当番制の片づけは今日、陽の番。陽が食器を洗っていると、ホカホカと湯気を立てた照と光が帰ってきた。  いくら家族とはいえその年で一緒にお風呂はどうかと思う。 「光、髪」  光の髪を拭こうとする陽から、照がタオルを奪い取る。 「光は俺に任せて、陽君も入って来なよ」 「うん、じゃあ行こっかミィ君」 (俺も一緒にか!?)  思わず叫んだ言葉はふつうの人間にはにゃあとしか聞きようが無かった。





 

恥ずか死ぬ

 雀の声で目を覚ます。見上げた木目の天井は西洋建築の美千代の家にはありえないもので、目覚めたばかりの思考を巡らせば、すぐにここが陽の家であることを思い出した。  雨戸を閉めなかったのか、それとも先に起きた兄弟が開けたのか。障子ごしに差し込む日差しは先に抜けた庭木の陰で、畳やふとんを斑模様に飾り立てていた。  よく眠れたと思う。最近は体が重くて眠りも浅かったから、久しぶりの快眠にとても気分が良い。すぐ隣で眠る陽の規則正しい寝息を聞いて、昨晩のことを思い起こした。  昨日は夕食の後、陽に連れらて風呂に入った。  彼は着やせするタイプだったのか、長い手足には程よく筋肉が付き、顔同様とても綺麗な体をしていた。白い肌は湯気で淡い桃色に染まり、湯に濡れた黒髪はより一層艶やかにうなじを彩る。浴室で、彼の色香は何倍にも跳ね上がり、美千代は見てはいけないものを見ている気がして無意味に視界を巡らせた。  水捌けが良い床は乾いていて、桶や椅子、入口の引き戸、浴槽からは檜の香りがした。  陽は美千代を桶に入れると、手早く石鹸を泡立てて、優しく体に触れてきた。耳の間や顎、背中を撫でられるのはとても気持ちが良い。機嫌よく「にゃぁー」となくと「気持ち良いか?」と陽もにこやかに応えてくれた。  指の間まで足を洗われ、肉球を弄ばれる。これは洗う目的ではないのだろう。陽は幸せそうに頬を染めてふにゃっと笑った。その顔が可愛くてドキリとする。心臓に悪いから、止めてほしい。  次に腹を洗われた。そこは少しくすぐったい。身を捩るが「め、」と言って当然放してはくれない。少し変な気分になって情けなく「ふにゃぁ」と鳴いても「んー?」と鼻歌交じりに流された。  耳を触られると小さな体がふるりと震える。  「ふ、にゃぁあ!?」  耳の中を指で掻かれると全身から力が抜けて、唇がわなわな震えた。思わず尻尾を股に挟むと、動いたことで視界に入ったのか、今度はその尻尾を掴まれる。敏感な部分に触れられて、美千代は悲鳴をあげて桶の端にしがみついた。根元から端に向かって撫で上げられ、先っぽを擦られる。付け根の部分をもまれると、訳も分からず「ふにゃぁ、ふにゃぁ……っ!」と奇声を止めることができなかった。  そうやって結局のぼせ上がるまで構い倒された美千代が、次に目覚めたのが今だ。  自らの回想に顔が火照ってしまったのが分かる。両手で頬を叩くと違和感を覚えた。肉球が無い。全身を覆う毛が無い。体が大きい。そして――服がない。  赤い顔が一気に青ざめる。全身から血の気が引いていった。一晩にして人の姿に戻った美千代は今、裸で陽と同じ布団に入っている。こんな状況で隣の彼が目覚めたら美千代は変態扱いされるに違いない。  美千代が猫に変わる時、着衣は首輪となる。風呂に入る際に外された首輪はどこに遣られたのか。素早く辺りを見回すがそれらしきものは見当たらない。 「う~ん……」  身じろいだ陽に鼓動が跳ね上がる。 (起きるな、起きるなよ!) 「みぃ、くん……」  ふにゃふにゃとした口調で名前を呼ばれ、美千代は硬直した。 (寝言?)  思った瞬間、寝返りを打った陽に圧し掛かられる。 (うえぇぇ!?)  美千代は何とか押し返そうと試みるが、首筋にかかる息に力が抜けてなかなか思うようにいかない。しかも美千代がもがくほどに陽は逃がすまいとその体を絡めてくる。 「ふぅ……ン、みぃくぅん……っ」  耳に直接吹き込むように名前を呼ばれれば、体の深い所から熱い何かかこみ上げた。 「――っ、」 (なんでこいつ、こんなにエロいんだよぉっ!)  熱い体を持て余し、美千代は陽にしがみつく。美千代が逃げないことが分かると陽はますます大胆に、その存在を全身で確かめるように動き出した。  彼の左手が美千代の肩から指先にかけてを滑っていく。ぐりぐりと首筋に顔を埋めるように動かされると、散った黒髪が頬にあたってくすぐったくて、逃げるように首を逸らせた。  その間にも下半身を絡め取られ、太股で股間を刺激されて、美千代はますます狼狽する。 「ちょ、ま、そこは……っ、」  思わず力が入り、両膝を上げると自分の股で彼の太股を挟む格好になってしまい、さらなる刺激に熱い吐息が漏れる。 「あ……っ、」  陽の右手が尻から膝までを半ば揉むように撫でまわす。左手が腰から脇腹を伝って胸に到達した時、思わず陽の体に回した腕に力が入った。  二人の体に挟まれて、行き場を失った彼の左手は、もぞもぞと動いて小さな突起を発見し、執拗にそれを弄りだす。親指の腹で押しつぶすように転がされて、くすぐったいような、気持ち良いような、もやもやとした感覚に脳が痺れた。 「ふ、ぁ……っ、やだ……っ」  彼の手は、美千代の反応を楽しむ様に緩急を付け、角度を変えて、新しい快感を生み出そうとしてくる。未知の感覚に恐怖を覚え、吐息が震えた。 「ひぁあ……っ!?」  二本の指で背骨を挟むようにして、もう片方の手が這い上がってきた。ゾクゾクと背筋が震えて、下っ腹がきゅうっと苦しくなる。  上半身を両手で弄られ、絡んだ足で下半身を刺激されて、突然の状況に思考が付いていくことができずに考えるより先に体が反応した。  視界が霞んでよく見えない。心臓が壊れたみたいにバクバク煩い。声を出さないように唇を引き結ぶのに、絶えず熱い息と共に甘く掠れた声が鼻から抜けて、ふとした拍子に悲鳴が漏れた。  股間を滑る感触が、ざらざらとしたものから徐々にぬめるように滑るものに変わる。意識してしまえば、頭が沸騰しそうになった。全身が熱い。  熱くぬるりとしたものが耳に侵入してきた。何を思ったか陽が美千代の耳孔を舐めたのだ。 「ひゃぁ、―――っっ!!」  追い打ちをかけるその感触に、彼の足を挟む腿に力が入る。美千代は彼の足に局部を押し付けるようにして、全身を震わせ熱を放った。  ぎゅっと目を閉じて肩で息を繰り返す。 「――白鳥?」  陽の声に、ひっと喉が鳴る。熱かった筈の体が一気に冷えた気がした。恐る恐る目を開けると、目を丸くした陽に見下ろされていた。 ――終わった。  美千代の心を、絶望の文字が支配する。  朝起きたら裸の同級生が布団に入っていて? 自分のパジャマがその同級生の精液でべったり?  なんの言い訳も出てこない。とにかく混乱して震える。  だって、どんな状況かと思う。ストーカーか、変態か。どう考えても絶望だ。ああ、気持ち悪いと思われた。嫌われた。取り返しがつかない。考える内に視界が滲んだ。 ******  幸せな夢を見た。ミィ君とじゃれあって遊ぶ夢だ。きっと一緒にお風呂に入ったのがとても楽しかったから、それと同じような夢を見たのだろう。逃げる小さな体を捕まえて全身を愛撫する。いやいやをするミィ君が可愛くて仕方なかった。 「ひゃぁ、―――っっ!!」  突然響いた悲鳴と太股の熱に目を覚ますと、昨日突然消えた筈の美千代が自分に組み敷かれていた。  顎をそらせて、眉間に皺を寄せ唇をわなわなと震わせている姿はひどくそそられた。どうして彼がここにいるのかとか、何故裸なのかとか、他に考えるべきことはたくさんあったが、寝起きの思考は目の前にある刺激を受け取ることで精いっぱいだ。 「――白鳥?」  ひどく上ずった声が出た。それも仕方がない。汗で猫っ毛が額に張り付いているのも、紅葉した頬も、うるんだ瞳も、濡れた唇も、すべてが自分を誘っているようにしか思えなかった。不意打ちでそんなものと正対してしまった自分はとても間抜けな面をさらしているに違いない。  熱を出し切った彼と目が合う。彼は「あ、あ……っ」と意味のなさない声を漏らして震えだした。 「――いやだ、ちがくて、――これは、はなしを――」  ほろほろと瞳から涙が零れ落ちる。彼は今この状況を説明しようとしているのか、必死で言葉を紡ぐが、ひどく混乱しているようで、なかなか話が進まない。そんな自分に苛立ったのか、ますます顔をくしゃくしゃにして泣き出してしまう。陽はごしごしと目を擦る手を外させて、そのままその身を抱き寄せた。 「大丈夫、ちゃんと聞くから。大丈夫だから」  そう言って背を撫でてやれば、彼はだんだんと落ち着いて、やっと話し出してくれた。 「そっか、ごめんね。無意識とはいえ寝起きを襲っちゃって」 「て、そこかよ!」  脱衣所にあった制服を着た美千代は、パジャマから私服に着替えた陽に、守護にゃんこ様のことから、まゆちゃんのことまで全てを話した。その後に彼が言ったのがこともあろうかこれである。  引っかかったのはそこですか!?  陽はキョトンと小首をかしげた。普通の男がそんな仕草をしても寒いだけなのだが、彼がやると似合ってしまうから尚更いただけない。美千代は小さく溜め息をついた。  こうしていても仕方がない。美千代は、長居していても迷惑だろうと腰を上げ、右手を差し出した。 「そのパジャマをよこせ。こっちで処分して代わりのパジャマ用意する」 「え、別に良いのに」 「俺が嫌なんだよ!」  真っ赤になって声を荒げる美千代に、陽は顔を綻ばせる。 「ふふ、白鳥は可愛いな」 「……バカにしてるのか?」 「なんで?」 「…………もういい」  天然すぎる彼に軽い頭痛を覚える。美千代は眉間を抑え、二度目の溜息をついた。そんな美千代を、大丈夫? と伺ってから、陽は思わぬ提案をした。 「まあ、どっちにしろ今から一緒に来てほしい所があるから、パジャマのことは後でね」 「今から?」 「ごめん、学校休むことになるけど大丈夫?」 「いや、別に平気だけど…………どこに?」  不安気に尋ねる美千代に、陽は安心させるように微笑んだ。 「俺の生家。お前の体質、何とかなるかもしれない」 ******  時刻は前日の夕方まで遡る。  門から建物まで何キロあろうかという完ぺきなシンメトリーになった前庭を抜けると、西洋の城さながらの建築が現われる。装飾の割にけばけばしくなく、その上品な佇まいは良家の紳士、あるいは淑女のよう。  都内の一等地で贅沢に土地を使った、世界的な大企業である白鳥財閥の社長宅では、メイドや執事達が慌ただしく動いていた。社長子息に持たせていたGPSが作動しなくなったのだ。 「もしかするとまた変化なされたのではないでしょうか」 「バカな、それはまだ先の筈だ」  りりりりりりり  使用人室の電話が鳴った。外からの電話は、全てここに繋がるようになっている。  使用人室には、ホールや食堂のような豪華な装飾は無いものの、執事長の趣味で、北欧から取り寄せた家具や雑貨で可愛らしく飾られている。休憩用の雑誌や書籍、新聞などが入れられた棚の上、羽飾りのついたペンとセットになった、スイスらしい独特の愛嬌をもつイラストが添えられたメモ帳の横にそれはあった。  控えめに光沢を放つ、ダイアル式のアンティークの電話が、それと似つかわしくないけたたましい叫び声で皆の視線を集める。 「白鳥でございます」  執事長の安部隆正は受話器を取ると、深く優しく響く声でそれを受けた。御年四八歳、アラウンド・フィフティーの中年男性だが、そこらの脂ののったおじさんや、疲れやつれたサラリーマンとは一線を画した美中年だ。皺の数だけの経験と、それに伴う自信が彼を魅力的に見せている。 「明です。お久しぶりです」 「明様!」 「ひどく慌ててらっしゃいますね」 「はい、実は美千代様の信号が途絶えまして」  きっちりとオールバックに固めた髪型と、切れ長の瞳は、表情がなければこの可愛らしい部屋とは不釣り合いな強面の印象を与えたであろう。しかし今の、眉を下げた情けない顔で電話越しの相手に縋る彼の姿は、助けを求める迷子の子犬のようで、不思議とこの部屋の空気に馴染んでいる。 「大丈夫。場所は分かっていますわ。住所をお教えしますので明日の朝迎えに……いえ、車を出して差し上げてください。きっと要り用になりますから」  鈴の音のように可愛らしい声がうふふと空気を震わせた。  受話器を置いた隆正は使用人たちに通常の業務に戻るように指示を出す。彼女が大丈夫と言うのなら大丈夫なのだろう。この家の住人並びに使用人たちは一様にこの少女に絶対的な信頼を置いていた。





 

対面

 一歩部屋から出れば広い庭が一望できる。平安の神殿を意識した、大きな池を持つ優雅な庭だ。  陽と美千代は、そのまぶしさに目を細めた。  椿のような硬い葉は朝日を浴びて、磨き上げられた銀細工のような光沢を放つ。庭樹や池が光を浴びて、爽やかで生き生きとした空間を演出していた。  とてとてと、床が音をたてる。そちらを見ると、手足の長い、日本人離れしたプロポーションの光が駆け寄ってくるところだった。  美千代は金の髪と青い瞳の、この庭とのミスマッチさに、空間が捩れてしまったかのような錯覚を覚える。ジャージ姿の彼女は何か運動をしてきたのか、全身をしっとりと汗で濡らしていた。毎朝の日課か、早起きなのはこっちの兄妹。雨戸を開けたのもきっと彼女だろう。 「――だれ?」  大きな瞳に見つめられる。 「あぁ、えーと……?」  どう言ったら良いものか。 「ミィ君だよ」  美千代が答えあぐねていると、陽が代わりに答えた。昨日拾ってきた猫のミィ君だと。しかし、その返答はいかがなものか。 「ふぇ!?」  案の定、奇声をあげた光が大きな目で見つめてきた。  じー……  不躾な視線を送られることは、社交の場ではよくあることだ。好きになることは無いが、もう慣れた。しかし、この子ような邪気のない瞳に見つめられると、どうして良いか分からない。体がむずむずする。 「ミィ君ですか?」 「え、はい」  改めて確認されて、思わず敬語で答える。光は、ふぇ、とか、ふぁ、とか空気が漏れたような声を上げながら距離を縮めて、尚も美千代を観察してきた。 「それより光、何か用があるんじゃないの?」  そう陽が声を掛けると、光はぴょこんと跳ねるように美千代から離れ、思い出したと手を打ち、東の方を指さした。 「そうそう、東の門の方にお客さん! ミィ君の飼い主さんみたい!」  無邪気に言われた言葉に転びそうになる。 「……飼い主って……」  お前ら兄妹おかしいよ。美千代は諦め顔で頭を垂れた。  光の案内で門まで向かうと、門のすぐ内側に風変りな服装の男性が姿勢よく佇んでいた。警備服の後ろの裾を、燕尾服の様に長く採ってある、独特の形状のダークグレーのそれは、白鳥家の使用人の制服だ。  一歩間違えれば中二病と言われかねないそれをシックに着こなして、豊かな黒髪をきっちりオールバックに纏めた執事は、目力の強い強面だ。  しかし、彼の隣の小型の自動車は彼に似合わず可愛らしい。カーブを駆使したフォルムのレトロスタイル・シトロエン。愛らしいそれと、堅物そうな外見の彼が並ぶと、ひどくアンバランスに見える。  彼は三人に気が付くと、恭しく礼をした。 「隆正?」 「明様からの指示でお車をご用意いたしました」  美千代が声を掛けると、執事長の安部隆正は車を指して答える。 「……へえ」  彼女は先見の術でも使えるのだろうか。こちらが出かけると決めたのはつい先ほどの話であるのに、早すぎる手回しに美千代は引いた声を出した。  対して、陽は気にならないのか、気にしないように努めているのか、早速光に行き先を伝える。 「じゃあ、俺たちは今から照夜母さんのところに行ってくるから」  照代母さん。その言葉を聞いて、光はすぐに「ああ」と何かを察したようだ。そして、陽の袖を白く細い指先でもってきゅっと摘まんで、例の蒼の瞳で彼の漆黒の瞳をじっと見つめた。 「帰ったらちゃんと説明してくれる? 僕だけ仲間外れは嫌だよ?」  光のその瞳はある種の凶器。その視線に絡め取られて、己の意思で逃げられる者はいるのだろうか。  逃げる意味すら持たない陽は、その視線に絡め取られたまま、ふっと息を吐き、柔らかな金糸に指を絡ませゆっくりと引き寄せた。日の光を存分に浴びてきらきらと輝くそれは、柔らかな温もりを持って陽の指先を包み込む。 「光を仲間外れになんてしないよ」 「絶対?」 「絶対」 「照も?」 「もちろん」  至近距離で見つめあう二人に、兄妹とはこういうものだったかな、と美千代は顔を強張らせた。  シトロエンの後部座席に、美千代と陽は並んで腰を落ち着ける。慣れ親しんだ顔と空間。赤子の時から世話をしてくれている隆正の存在と、乗りなれた車内は美千代を一気に日常へと引き戻した。 ――ぐう  陽の家にいた時には知らないうちに緊張していたのだろう。体から力が抜けると腹が鳴った。 「お二人とも朝食はまだでございましたか」 「ああ、何となくバタバタと出て来てしまったから」  美千代の答えに隆正は助手席を指し示す。 「こんなこともあろうかと、サンドウィッチをご用意して参りました」  美千代は運転中の彼の脇から手を伸ばしてそれを取った。  サンドウィッチはレース柄の紙ナプキンの敷かれた、楕円型のバスケットの中に行儀よく並んでいた。サーモンやベーコン、ツナやエビのピンクが可愛らしく、レタスの緑とトマトの赤、卵の黄色が鮮やかだ。一緒に置いてあった水筒の中身はミックスフルーツのフレッシュジュース。  窓を全開にして、風を感じながらの朝食は気持ちを豊かにした。 「そういえば明とはどういう関係なんだ?」  美千代が尋ねると、陽は食べる手を止めずに器用に口を閉じたまま答える。小さいころから行儀を叩きこまれた美千代にはできない芸当である。  陽の家もそれは立派なものであったが、行儀や作法にうるさい旧家という訳ではないのだろうか。 「保育園からの幼馴染。俺は違うけど、照と光とは同級生で、今も同じ学校に通ってる」 「あれ、お前と照くんは双子じゃないのか?」 「四月一日と四月二日って、日を跨いで生まれたんだ。普通はどちらかに合わせるんだろうけど、手続きで色々あって。双子だけど学年が違うんだ」 「へぇ……。そう言えば、俺が明と初めて会ったのも幼稚園の時だな」 「俺と白鳥が初めて会ったのも保育園の時だよ」  陽の言葉に美千代は目を丸くする。 「ふぇ!? そうなのか!?」  思わず出た間抜けな声に、陽は顔を綻ばせた。 「何それ、可愛い」 「はあ? か、可愛いとか言うな」  笑う陽に、美千代は顔を赤くして抗議するが、その姿にまた陽が可愛いと思っているなんてことには一向に気づかないのだろう。 「白鳥」 「え? なに……」  呼ばれて振り向くと彼の顔が思わぬ程近くにあった。驚いて、身を引いて目を瞑ると、唇の横に柔らかく、暖かい感触が。 「!?」  目を開けるとやはり彼の顔がすぐ近くにあって。 「付いてた」 「な、な、な、何してんだよ!?」 「だから、食べかすを取っただけだって」 (口でかよ!?)  叫びたかった言葉は、隆正の存在を意識して、声に出さなかった。  狼狽する美千代にしらっと答える陽。訳が分からない。こいつは兄弟にだけでなく、他人にもこんなに距離が近いのだろうか。 「だ、だからいきなり……っ」 「いきなりじゃないよ。本当はずっと触れたかった」  陽がそっと美千代の頬に触れると、上気したそこがびくっと震えた。  初めて陽に触れられた時、体の奥から何かが暴れだして、その感覚に頭がついて行けなくなった。しかし、今はそれがない。それでもとても、心臓に悪い。  彼は今朝のことを忘れてしまったのだろうか。あんなことがあったのに、すぐにこんなに距離を縮めてくるなんて、と心がざわつく。  いや、あんなことが無くてもだ。変な兄弟と一晩過ごして美千代の感覚も狂っていたらしい。前提がなくとも近すぎる。例えば指で拭う位であったら、気障な奴だと罵倒し、顔が良いから許されるのだと理不尽に怒りを覚えたかもしれない。  しかし舐めとるだなんて。  考えて、叫びそうになる。舐めるとは、何と卑猥な響きだろうか。彼は自分になんてことをしてくれたのだ。 「でも、靄が出ている時には触れられないから……」  美千代は、混乱した頭のまま彼をみつめた。はっ、と息を吐き出すのと同時にやっと声を出す。 「も、もや?」 「白鳥の周りに集まる黒い靄。お前のダメージが俺にはそういう風に見えてる。俺は、お前に触れることでその靄を祓えるけど、そうするとお前は苦しそうな顔をする」  彼に触れられた場所が熱を持つ。その声が心地いい。美しい人は、どこもかしこも人を魅了するように出来ているのだろうか。彼の腕に抱かれて、このまま溶けてしまいたいなどと世迷言を考えた。 「別にあれは、苦しんでいる訳じゃ……」  震える声で答える。ああ、胸がきゅんと締め付けられるようで、泣きたくなる。 「苦しくないの? じゃあ、どういう感じ?」  小首を傾げる仕草一つに、美しい芸術作品を鑑賞したかのような感動を覚える。 「いや、それは……」  美しい彼に見つめられ、触られて、ともすれば蕩けそうな思考を巡らせる。  彼に触られた時?――快がってます。 「――なんて言えるか!」  美千代は自らの思考を断ち切るように勢いよく立ち上がると、そのままの勢いで天井に脳天を打ち付けた。 「うわ、白鳥!?」 「美千代様、大丈夫ですか? 藤本様、次はどちらでしょう」 「え、あ、右です」  美千代は後頭部を抑えつつ隆正の涼しげな声に小さく悪態をついた。 ******  車じゃ入れないからと、隆正は少し前に帰らせた。  見渡す限りの畑に田んぼ。隙間にぽつりぽつりと佇む民家は、皆年季の入った木造や漆喰づくり。そよと風が吹けばどこからかせっかちな風鈴の音が聞こえた。踏み締める舗装されていない地面の感触と、肥料と土と草の匂いが、都会の生活しか知らない筈の美千代に、何故だか懐かしさを感じさせた。 ――ここは本当に東京なのか?  美千代が余りある自然に感動していると、男がカラカラと小石を散らして木の車を引いてきた。首にタオルを、頭に麦藁帽を被って、小皺の目立ち始めた男は人の良さげな笑顔を浮かべる。 「こりゃあ、天見家様の。近頃はよく来るねぃ。いやいや、喜ばしいことだよ」 「こんにちは、安藤さん。売れ行きはどうですか?」 「今日はまだ五月だってぇのに暑くてねぇ。おかげさまで、アイスが売れる売れる。そうだ、一つ奢ってやるからどうだい? お連れさんも」  アイスキャンデーの旗を揺らした車には、大きなアイスボックスが三つも積まれている。安藤はその一つを開けると、白いキャンデーを二本取り出した。漏れだした冷気が初夏の日差しに溶けていく。 「良いんですか? ありがとうございます。安藤さんの所のアイスは市販のとは全然違うから、毎回ここに来ると食べたくなるんですよ。捕まらない時はちょっとがっかりして帰るんです。今日はラッキーだな」 「本当かい。そりゃあ嬉しいね」  お世辞でない陽の讃辞に、安藤は頬を淡く染めて鼻を擦った。  舌先でとろっと溶けるキャンデーは甘く濃厚で、なるほどスーパーのアイスなどとは全く違う。 「あ、おいしい」 「だろ?」  思わず出た美千代の素の感想に、陽が得意げに笑う。  安藤も二人の反応を見て、目を細めた。 「じゃあ、俺は仕事に戻るから」 「ありがとうございます」  安藤はまた、カラカラと小石を蹴散らしながら去って行った。 「なあ、天見家様って?」  キャンデーを舐めながら石段を登る。山の斜面を切り取って造られた石段だ。自然のままの石を敷き積めたそれに、木漏れ日が当たって斑に揺れる。石の隙間に顔を出した小さな野草と石段を囲む木々が同じにそよいだ。高い木々の緑に囲まれて、帯状に切り抜かれた空は高く澄んで見える。  すでにキャンデーを舐め終えた陽は、木の棒を唇で挟んで上下に揺らして弄んでいた。彼はそれを右手で口から放し、左右に振る。ベニヤ色の棒は唾液を含んだところだけワントーン色を落として見えた。  彼の仕草は、何でもないものでも鮮明に美しく見える。 「俺と照は光とは母親が違うんだ。俺の生みの親は照夜母さん、育ての親はオリビア母さん。藤本は父親の名字。天見家はこの集落唯一の寺で、七五三に成人式、結婚式や果てはクリスマスも集落の人たちがそこに集まる。葬式をあげるのも骨を埋めるのもそこなものだから、集落の人たちは天見家の家の者を『天見家様』関係者を『天見家様の』って呼んでいるんだ。だから俺は『天見家様の息子』で『天見家様の』」 「……複雑、なんだな」  言葉に詰まる美千代に、陽はなんでもないと笑った。 「照夜母さんとオリビア母さんは姉妹みたいに仲が良いし、俺と照にとってはどっちも本当の母さんなんだ」  石段を登りきると、緑の芝が広がっていた。ブランコが揺れてキィと鳴く声が、来る者を感傷的な気持ちにさせた。その奥にあるのは、背の高い棟を左右に持った半円柱の屋根をした建物で、両の棟の三角屋根の下には大きな鐘が下がっている。窓には色とりどりのガラスが嵌められ、壁には様々な装飾が彫り込まれていた。 「……これ、寺か?」 「教会って、言うなれば西洋の寺だろう?」  日本の気候に合わせたのだろう木造のそれは、西洋の石造りのそれよりも暖かく、馴染みやすい空気を纏っていた。  飛び石を踏んで入り口の前に立つ。戸の上の半円形の飾りであるリュネットには、一人の少女と豊かな羽で少女を守るように包む天使が描かれている。 「平日だから人が居ないけど、土日は賑やかなんだよ」  そう言って陽が手をかけた両開きの扉は、キィと軽い音を立てて開いた。木造のそれは出先で立ち寄った喫茶店の気軽さで、二人を迎いれた。立ち入れば、屋内まで森の香りが満ちている。  木彫りの装飾が可愛らしい長椅子が、中央の通路を残して左右に並べられている。その一つに、髪の長い女性が座っていた。  ステンドガラスを通った光が木目の床を鮮やかに彩る。中央の通路と祭壇に埋められたモザイクタイルが光を反射して、宝石のように輝いた。  天井には青空、正面の壁にはリュネットと同じ少女と天使が描かれている。また、絵の天使に向かい合うようにして楽器のようなものが置かれていた。透明の筒が何本もそびえるそれは、オルガンだろうか。 「ガス・オルガンよ。ガスの力で音を出すの。叩いた音階のパイプに小さく火がともって、それと同じに儚く優しい音色を奏でるの。それは、天使様をお迎えする火と音色」  振り向くと、先ほどの女性が長椅子から立ち上がっていた。 「初めまして、白鳥さん」  美千代は、陽によく似た美貌のその人を前に息を呑んだ。





 

祓い祓われ

 東京都郊外のとある集落に、それはそれは美しい巫女が居た。  薄紫色の着物の襟元から桜色が覗く、落ち着いた色柄のそれは、彼女の絹のような白い肌と切れ長の瞳、緑に艶めく黒髪によく似合っている。日本人的な雅でしっとりとした美しさを持つ彼女の名前は天見家照夜、集落唯一の寺の一人娘だった。  いつものように照夜が飛び石にかかる砂を掃いていると、芝の向こうの石段を上がってくる人が居た。茶色い髪を無造作に散らした若い男だ。ファッションなのか不精なのか、中途半端に長い髪が肩口で跳ねている。  彼は彼女に気が付くと頬をぽうっと染めて目を見張った。ぽかんと開いたままの口が滑稽だ。彼はその口をパクパクと動かし、彼女に近づいて言った。 「写真、撮らせてください!」  男の名前は藤本陽一。写真家の彼は撮影の為にその集落を訪れたのだと言う。陽一は照夜に一目惚れをした。  緑の芝と山の桜に囲まれた、木造の西洋風の寺で、青空を背負って箒を手にする彼女の、揺れる髪が、わずかにひらめく裾が、そのすべてが芸術作品のようで、夢の世界に迷い込んだものかと疑った。  澄んだ黒い瞳に神秘の力を秘める彼女は、冷たいとさえ思わせる整った顔立ちを、絶えず湛える微笑みで溶かした。毎日のように寺に通い、困った様に対応してくれる彼女を見るたびに、陽一はその想いを確認した。  毎日のように寺を訪れる陽一に、次第に照夜も惹かれていった。彼は撮影のために住居をこちらに移したのだと言ったが、照夜は彼が自分のためにそうしたのだと分かっていた。彼は世界を渡り歩き、仕事をしている。集落から出たことのない彼女にとって彼の話はとても刺激的で、興味深いものばかりで。 「いつか君と二人で旅がしたい」  そう言って、照夜を連れ出した先のことを楽しそうに語るから、いつしか照代も彼に連れ出して欲しいと願っていた。  陽一と照夜は神社の外でも会うようになった。照夜は彼のころころ変わる表情が好きだ。特に笑うと垂れ目が強調されて、それをとても可愛いと思った。 「照夜さん。僕と付き合ってください」  だから、軽そうな見た目に反する真剣な表情でそう言われて、待っていましたと返事をした。  陽一は照夜との交際を申し込む為に彼女の父親に挨拶に行った。  しかし、照夜の父親は二人の交際を許してはくれなかった。娘はこの寺の巫女である。彼女は神聖だ。けして汚れてはならない、と。  彼女は泣きながら訴えた。恋をすることは汚れなどではない。私は寺の物ではない。お父様の物ではない。私は陽一と生を共にすると。  二人は怒号を浴びせる彼に背を向けた。  照代は寺の娘であることを不満に思ったことはない。集落の人と話すのは楽しいし、自分の居場所はここなのだと思ってもいる。ただ、外の世界を見てみたかった、恋もしたかった。  人を愛することを否定されて、悲しかった。人が普通にすることを許されない理由が巫女だからだと言われれば、その立場を呪った。  二人はその晩、陽一の安アパートで一つになった。とても満たされた気持ちだった。    しかし翌朝、照夜は自らの変化に気付き、愕然とする。 ――力が失われている。  天見家には一代に一人、霊能力を持った子どもが生まれる。その子は穢れることなく神に一生を捧げるのが習わしだった。 ――私が穢れてしまったから?  ショックだった。何かに見放された気がした。彼女の長い睫毛を溢れ出た涙が濡らした。  いつの間に目を覚ましたのか、どうしたのかと尋ねる陽一に、彼女は泣き腫らした瞳をまっすぐ向けて言った。 「貴方とおつき合いする事はできません」  照夜はこの世の物でない物を見る力と、憑き物を払う力を持っていた。その力を、彼と距離を置くことで取り戻せるかもしれないと思った。  彼のことは本当に好きだし、愛していた。しかし、生まれた時から持っていた力を失って、自身の生を否定された気がしてしまった。自分はやはり恋などしてはいけない存在だったのだと、そう思った。  それからも陽一は寺にやって来たが、照夜が彼に再び会うことは無かった。彼は父にも彼女に合わせてくれと頼み込んだという。門前払いされたであろう彼を思うと心が痛んだ。  そうするうちに彼が照夜を訪ねてくることも無くなった。  数ヶ月後、照夜が妊娠していることが分かった。それは陽一の子に間違いなかった。  彼女は予感を主張した。私の失われた力はお腹の中の子に受け継がれていると。  陽一を探させたが、見つけることは不可能に思われた。それでも子を産むと言う照代に父は反対しなかった。彼もその子に望みを託していたのだ。  産まれた子は双子だった。彼女は二人の子を、陽一と自分の名前からとって、陽と照と名付け、その子たちを彼の分身と思い、大切にすると誓った。  兄の陽に力が現われた。しかし、その力は照夜を困惑させた。  陽はとても強い力を持っていた。この世の物ではない物だけでなく、人のダメージまでもを見て、感じることができた。また、文字通り肩を払うことでそれらを祓うことができた。  照夜を困惑させたのは、祓われた側に生じる感覚である。それは愉悦、快楽、快感。照夜は実の子に欲情する己を知り、恐れた。  照夜は陽と距離を置くようになり、悶々とする日々が続いた。  事件が起きたのは双子が五才になる年の正月。  日に日に窶れていく照夜を気にした女中の一人が、照代の私室に、気晴らしにでもと女性誌を置いていった。  部屋で一人きりでぱらぱらとページをめくる。あるページで照夜の手が止まった。そこには陽一が結婚したという内容の記事が載っていた。  カメラマンとして成功した陽一は、オーストラリア人のモデルと結婚。子を成した彼は、家族と共に日本に帰ってきたという。  乾いた笑いが漏れる。その時、照夜はとても気が抜けていた。心ここに在らず。だから背後から近づく幼い我が子に気が付かなかった。肩を払われるその瞬間まで…… 「おばさま、照も鶴を折れたよ!」 「まあ、かわいい鶴ですこと」 「お母様に見せてくる!」  照は磨きあげられ、黒光りする廊下を、とてとてと可愛い足音をさせながら走った。  先に折り終えた陽君の鶴も綺麗だったけど、僕の鶴の方が白い所が少なくて綺麗だ。早く見せなくちゃ、お母様、陽君!  照は襖を開け、その場から動けなくなった。  彼が目にしたものは、狂気に満ちた母の顔。そして彼女の下に横たわる、ぐったりと手足を投げ出した双子の兄。 「……照」  母が青ざめた顔をこちらに向ける。  照の手の中で、綺麗な鶴が無残に潰れた。 ******  目を覚ますと頬を一筋の涙が伝っていた。懐かしい夢を見た。身を起こすと襖の向こうで使いの者が呼んでいる。 「照夜様、お電話でございます」  自分を起こしたのはこの声だったか。どうぞとその人を中に招くと、受話器を受け取り耳に当てる。電話越しの声に頬が緩んだ。 「陽、どうしたの?」  美千代たちは寺の裏手にある住居部分に案内された。大きな和風建築は、寺側から見えないように背の高い木で目隠しされている。 「このまた向こうに霊園があるんだよ」  陽の案内を聞きながら、古いが手入れの行き届いた廊下を渡る。裸足で歩けばさぞかし気持ちが良いだろう、暖かい木目のそれは艶々と黒光りしていた。  通された部屋には食事の膳が用意されていた。時計の針は十一時半を指している。遅い朝食に早い昼食となると、腹具合が心配だったが、五つの小さな器に彩り良く盛られた、さらっとした味付けの旬の素材は、簡単に胃に収まった。  畳の香りに心が和む。申し訳程度に金粉を散らした、上品な襖に囲まれた三十畳の和室では、床の間に飾られた木通の小さな花が、ささやかに季節を演出していた。  食後の茶を飲み、ほうっと息をつくと、黒髪の美しい女性が腰を上げた。寺で声を掛けてきた彼女は陽の母親、二人の尋ね人である天見家照夜その人だった。 「さあ、食事も済んで一息ついたことですし、我らが天使様を呼びにお寺に戻りましょうか」 「天使?」 「そう、天使よ」  照代は二人を促して、冷たいほどに美しい顔を甘く溶かして笑う。その顔が、陽が猫になった美千代に見せた笑顔と重なり、何故か頬が熱くなった。  寺に戻ると、照代は二人を祭壇の前に立たせて、ガス・オルガンの前に座る。彼女が指を躍らせると、音階ごとに立てられたオルガンの筒に、小さな火が灯り、ほわほわと優しい音色が響いた。  部屋がもっと暗かったならば、さぞかし幻想的に見えたことだろう。美千代がその音色に心をふわふわと漂わせていると、オルガンの筒から次々に生まれる小さな光が、ホタルのように漂いながら祭壇に向かって行く。それらは一か所に集まり、徐々に人型を形成した。  翼をもった人、これは――天使か。  集まった光が一際輝く。咄嗟に目を瞑った二人が次に目を開けると、白い大きな翼を広げた金髪金眼の女性がそこに立っていた。 「まゆちゃん!?」 「あの時の天使!?」 「皆さん、ご機嫌麗しくいらっしゃいますか」  優雅に挨拶をする彼女は、陽にとっては幼いころに一度だけ見た夢のような存在。美千代にとって見慣れすぎた存在である天使のまゆちゃんだった。 「本当は、お二人が来る前から奥の住居スペースにお邪魔致しておりましたが、折角ですので天使らしい降臨がしたくて、改めて呼んで頂きましたの」 「天使様ったら、お茶目さん」 「うふふ」 「うふふ」  笑い合うまゆと照夜。仲が宜しくて何よりだが、美千代と陽はいまいち状況について行けない。そんな中、ぽんと手を打ったまゆが笑顔のままとんでもないことを言った。 「ああ、そうですわ。美千代様の穢れを祓うことについてですけれども。彼、性的に感じているだけで苦しんでいる訳ではないので、お気になさらずに祓ってもらって構いませんわ。寧ろありがたいです」  言い渋っていた恥ずかしい事実さらりと暴露され、美千代は顔を真っ赤にして唇を戦慄かせる。まゆはそんな美千代を華麗にスル―して言葉を続けた。 「それに」  彼女の視線を受け取った照代が着物の袂から小瓶を取り出し、空のそれの蓋を開けると美千代に翳した。 「はい、穢れ」 「え、なに!?」  穢れを付けられたという事だろうか、やられた側の美千代には良く分からない。 「陽様、祓って下さいまし」 「え、は、はい」  まゆに促されて、陽は美千代の肩に触れる。美千代の内から心地良い熱が溢れて体を包んだ。 「どうですか?」  尋ねるまゆちゃんに、美千代はふわふわとした気持ちのまま答える。 「そう、だな……。ちょっとほわっとしたくらいで、全然大丈夫、かも……」 「これで解決! 穢れは小まめに払えば問題ないことが証明されましたわ。では、私はこれで失礼致します」  そう言ってまゆはピカッと光って姿を消した。用は済んだという事か、まったく自由である。彼女に慣れている美千代は良いが、陽はどう思っているだろうとその顔を窺えば、何故か笑顔を浮かべていた。 「良かったね、美千代」  思い出した。彼はまゆには慣れていなくとも、同じく自由人な明には慣れていたのだ。 「うぅ……」  ぽんとの背を叩く陽に、美千代は複雑な気持ちで唸る。恥を勝手に暴露されてしまった上に、これからも恥の上書き覚悟で、彼に祓われることになってしまったのだから。  そんな二人を、照夜もまた複雑な心情で見つめていた。 「陽、分かっているでしょうけど……」  照代は美千代から離れた陽にこっそりと耳打ちする。 「大丈夫、分かってますから」  そんな彼女に陽は少し寂しげにそう言った。





 

腐男子入ります

 こんにちは、影木幻十郎です。久しぶりなので忘れてしまった方もいらっしゃることでしょう。藤本陽と白鳥美千代と同じ、一年五組の出席番号一番です。  実は僕、腐男子なんです。  説明しよう。腐男子とは、男同士の恋愛が好きな、いけない男子のことである。ちなみに幻十郎は二次元も、三次元もいける強者である。  身長150センチ。短めのボブヘアー。大きなたれ目に下睫毛の童顔。名前に似合わぬ可憐な姿をした彼は、近頃ある男子二人に執心していた。その二人が陽と美千代である。  あの二人は怪しい。そう腐男子の勘が囁いた。  新入生総代の挨拶で見つめあっていた二人。出会い頭のラブシーン(実際、陽が美千代に飛びついただけなのだが、それに対する美千代の反応が官能的すぎたので、あれはもはやラブシーンで間違いない)。その後のトキメキどきどきメモリアル(触れたいのに触れられないドキドキ期間)。  どう見ても二人はガチでガチだ。  そして、  二人して学校を休んだ翌日から事態は進展した。トキどきメモからのベタ甘、ベタベタの甘々である。  やたらボディータッチが多かったり、弁当のおかずを交換しあったり、しかもそれをお互い食べさせあったり、膝枕で昼寝したり、etc……etc。  スキンシップじゃないの? と思ったお嬢さん、女子にとってのスキンシップは男子にとっての「あら、やだ、お盛ん」でファイナル・アンサー!  だいたい、あの藤本(もはや何がとは言わない)とスキンシップをとるというのがすでに常人にはできない行為なのであって、その上トキどきメモ後のベタ甘となったらもう、その間が気になるじゃないか!  そういう訳で幻十郎は今日も一眼レフをひっ下げて調査を開始する。 ******  美千代が登校すると、入り口のすぐ前の席にいる幻十郎が何故だか残念そうな視線を送ってきた。 「影木相変わらず早いな」 「おはよう、白鳥。一人?」 「そうだけど」  美千代は教室の真ん中にある席に着くと、はああぁ、と重い溜息をついた。体が重い。昨日は曾爺様の命日で、墓参りに行ってきた。もしかしたらそこで穢れを拾ったのかもしれない。  怠いと思いつつ、右斜め前方の扉を見る。手垢やセロハンテープの痕で黄ばんだ引き戸がオーラを変える瞬間、曇った黒板と傷だらけの机、ささくれたイスとごちゃごちゃのロッカーの居場所である教室の空気が変わる瞬間を思い描いた。  陽がいる空間は、彼が居る、ただそれだけで鮮やかに色彩を放った。夏は涼やかに風が吹くような気配を纏い、教室に涼風をもたらす。きっと冬には木漏れ日のような……いや、あの美貌に暖かという形容詞は付かないだろう。冬はさらに体感温度を下げてくれるに違いない。  低血圧な彼はホームルームの始まるぎりぎりの時間に登校する。その眉間に皺を寄せた顔色の悪い様子さえ、アンニュイだなどと騒ぎ立てられる美貌は、どんな表情をしても霞まないのだろうか。変顔写真でも撮らせてもらって皆の反応を見てみたいものである。  そんな彼は、今日も多聞に漏れずホームルーム開始ぎりぎりにやってきた。教室がすうっと静まる。彼とほぼ同時に入ってきた担任には好都合な、その圧巻とも言える引き。その後、皆の意識はいつも彼に集まるのだが、今日ばかりは違った。  彼が教室に入った途端、美千代を見て盛大に顔を歪ませたからだ。驚いたように少し目を見開き眉間の皺の数を増やす。他の人がしたら変顔と呼ばれる部類表情の筈なのに、何故か崩れない。必然、皆の視線は二人の間を行き来した。  ホームルーム終了後、陽と美千代は連れ立って教室から出た。低血圧の陽が本調子になるにはまだ早い。不機嫌そうな彼と、それに引き摺られるよれよれの美千代の図は、下世話な妄想をかき立てる。 「白鳥、休みの間どこか行った?」 「曾祖父様の墓参りに行った」 「じゃあ、それだね」  山百合高校には、正門を入って右手に緑館という校舎がある。一年五組の教室から一番近い人気の無い場所だ。建築当時は全面緑色だったであろうその校舎は、時の流れの中で廃れ、所々緑を残した灰色の館に成り果てていた。現在使われている校舎が工事中の時などに臨時で使われる建物だが、数年前に幽霊騒ぎがあり、お祓いをしたという話を美千代は聞いていた。 「……おい、ここ、入るのか?」  ずんずんと歩く陽に美千代が情けない声で問うと、陽は事も無げに言った。 「大丈夫。母さんのお祓いは完璧だから」 「お祓いしたのってお前の家かよ!」  霊感少年のお墨付きを貰い、そっち方面の不安は無くなったものの、不機嫌な美少年の相手をすることもやはり怖い。  陽は変に緊張する美千代を、緑館に入ってすぐの教室に連れ込み、しなやかな腕で抱き締めた。 ――来た  うぞうぞとした何かが、体の中で好き勝手に暴れて外に飛び出す。美千代は内からの刺激に声にならない叫びをあげて、膝から崩れ落ちた。与えられる刺激が強すぎて意識が飛びそうになる。しがみつく指が陽の背中に食い込んだ。 「白鳥」  彼の声にはっとして手の力を緩める。一瞬の強烈な刺激が過ぎれば、今度はえも言えぬ快感が体中を駆け巡った。 「――ふ、あぁあ……っ、だめだ藤本! 放せ……っ!」  涙目で訴えても当然彼は放してくれない。 「ダメだよ。ちゃんと抜かなくちゃ」  美千代が逃げようとすればするほど陽は逃がすまいとその体を絡めてくる。 「~~っ! だって、このままじゃ、ひぃ……んっ!」  別の意味で抜けちゃうから!  逃げることを諦めて、顔の前でクロスさせた腕に力を込めて快感をやり過ごそうとする。しかし股間に違和感を感じて半目で確認すると、陽が美千代のスラックスのベルトを外しにかかっていた。 (ちょ、何してる!?)  慌ててももう遅い。彼は脱がせたズボンの前から美千代の中心を取り出すと、それを上下に扱き始めた。すでに恥ずかしげもなく張りつめていたそこは、すぐにぷくぷくと喜びの涙を溢れさせる。 「出して」  言葉とともに窪みに指をかけて尿道を刺激され、もう一方の手で球を揉まれて、強い刺激にびくんびくんと体が跳ねる。美千代は為す術もなく熱を放った。 「――んぁぁああ……っ!!」  陽の手の中で白い液が弾けた。その時。 「お前、こんな場所で何をしてるんだ。授業が始まるぞ」 「は、はい!」  扉のすぐ前から聞こえる声に、美千代の頭は真っ白になった。 ******  幻十郎は妙な雰囲気で教室を出て行く二人を早速尾行した。陽が美千代を空き教室に連れ込むと、そっとドアの隙間から覗き見、目の前で繰り広げられる衝撃の展開に目を見張る。  抱き締める陽とその腕の中で崩れ落ちる美千代、その後の熱烈なラブシーン。  幻十郎は咄嗟に一眼レフをデジカメに持ち代えた。期待を遙かに上回る現実に、ビデオを回す手にも力が入る。  すると突然、緑館の外から声を掛けられた。 「お前、こんな場所で何をしてるんだ。授業が始まるぞ」  あまりの展開に相当周りが見えていなかったらしい。幻十郎の居る場所は緑館の入り口の目と鼻の先で、外から丸見えだった。 「は、はい!」  思わず声が裏返る。普段、無表情無感動と言われる幻十郎もさすがに動揺した。教師が去った後、恐る恐る教室内に目を向ける。美千代と陽が二人して幻十郎を凝視して固まっていた。  こんな時、普通の人間なら次の授業などサボタージュして、必死に言い訳を募るのだろう。しかし、医者志望の幻十郎と財閥の御曹司の美千代、根が真面目な陽が授業をさぼることはなく、説明はその日の昼休みまで持ち越されることとなった。  理数科目以外に興味の薄い幻十郎は、古典の教科書をあくびを噛み殺しつつ眺める。冷静になった頭の中には、ある疑問が浮かんでいた。  今朝の二人のことだ。あのラブシーンは確かに目の保養になった。それは良い、問題はその前だ。  藤本は白鳥を抱き締めた。白鳥はその後すぐに崩れ落ちた。崩れる白鳥の表情はとても苦しげで、尋常ではなかった。何故抱き締める、ただそれだけのことで、そんなことになるのか。  あの二人は怪しい。男同士の恋愛とか甘美な世界とかそんなことではなく、それ以外の何かがあると確信した。  昼休み、幻十郎と美千代と陽の三人は緑館に集まった。今度は念を入れて二階の奥の教室である。入り口からは当然見えないし、窓の外では育ちすぎた杉の木が大量の葉を揺らして目隠しをしている。  一時間目からこっち、頭を抱えて再起不能な美千代に代わって陽が彼の秘密を教えてくれた。 「へえ、そうなんだ」  幻十郎が物分かり良くそう答えると、美千代はそんな彼を胡乱な目つきで睨んだ。 「……そんな簡単に信じて良いのかよ」 「俄かには信じ難いけど、今朝の白鳥の様子は尋常じゃなかったし、ね?」  含みを持たせた言い方に、美千代は今朝の醜態を思い出したのか、顔を真っ赤にして俯いてしまった。  そんな美千代を心配そうに見つめる陽。そんな二人の関係に幻十郎の口角が自然と上がる。 「秘密を共有した仲になったわけだし、これからも宜しくね?」  あがった口角をそのまま天使の微笑みに変えて、幻十郎はその体格に見合った小さな手を差し出した。  こんな美味しい話って無いよね。これからこの状況を存分に楽しんであげるから。  普段表情筋が死んでいる幻十郎が、その容姿を充分に理解した上で確信犯的な笑顔を作る。その向こうで、ピンクの欲望にまみれた悪魔が笑った。





 

家庭事情

 五月のブレザーは暑い。六月の半袖は寒い。日本の衣替えの時期はすごく微妙だ。  ザーザーと降り注ぐ雨は傘を差していても腕や膝下をしっとりと湿らせた。  低血圧ゆえの頭の重さに加えての、この鬱陶しい梅雨に、陽のテンションはだだ下がりだった。  教室に入ると、閉め切った窓に囲まれたその空気は湿り気を帯びて鬱々としている。しかし、席に着けば隣には彼がいる。今日も愛しい彼の隣で陽は徐々に気分を明るくしていくのだった。 「弟の宿題?」  昼休み、いつもの三人で緑館に集まる。教室で弁当を広げた日にはギャラリーが煩くて敵わないからだ。  その理由を陽は、美千代の俺様然としたオーラと幻十郎の可憐さに、男も女も構わずに惹きつけられるからだと思っている。美千代は、幻十郎の容姿はさることながら、陽の美貌が周囲を酔わせているのだと思っている。幻十郎に至っては、美千代と陽のラブラブっぷりを皆も堪能したいのだろう、などと考えていた。  陽の弁当は、弟照の手作りだ。両親ともに海外に出張中の藤本家では、大体の家事をヘルパーさんにしてもらっているのだが、昼飯だけは別だった。照が忙しい時は買い飯だが、もともと料理好きの彼は趣味の一環で兄弟の分の弁当を用意してくれる。  その弁当を食べ終えると、彼は一枚のプリントを取り出した。数学の一つの問題にチェックがついている。 「弟が塾で出されたらしいんだけど、俺にも解けなくて。受験対策だって言っても、こんなに難しい問題出す意味あるのかなぁ」 「弟はどこを受けるんだ?」 「ここ」  美千代は彼の弟のことを考えた。陽と同じ顔をした彼は、縁なしの眼鏡のおかげで彼の数割り増し知的に見えた。 「どんな問題だ? 見せてみろよ」  美千代が解読にのりだすが、やはり解けない。  受験する高校に通う現役生が解けない受験対策問題に何の意味が有るのだろうか。 「僕にも見せて。なんだ、簡単じゃない」  次にプリントを手に取った幻十郎は、すぐにさらさらと解答を記した。 「おぉ」 「すごい」  素直に感嘆の声を上げる二人に彼は肩をすくめる。 「理数系はね。総合点じゃあ、学年一位の白鳥に遠く及ばないよ」  そんな彼の言葉に陽と美千代も口々に言った。 「俺は英語だけで他は普通。でも、理数よりは語学の方が得意かも」 「俺は、特に得意なのは社会科かな」  そうして三人は顔を見合わせる。 「得意科目が被らなかったね」 「勉強会するか?」 「今日家くる?」  真面目な子ども達の発想は凡人には少し怖い。すぐに陽の家での勉強会が決定した。 ****** 「うわぁ、すごい……」  陽の家を見るなり、幻十郎は呆然と立ち尽くした。だってそこは正に平安京。一般人の想像力を軽く超越する優美な建築と庭に、驚くなと言う方が無理だ。  雨水を弾く草木は、雨雲を映して鈍く光り、池に映る鈍色の空は雫の波紋で幻想的な模様を描く。陽と美千代が一眼レフで写真を撮りだした幻十郎を急かした。  梅雨時の床の板は、ガラス窓を閉めていても湿っぽく、美千代が五月に踏んだ時よりも柔らかく感じた。 「適当に座ってて。弟を呼んで来るから」  通された八畳の和室の中央におかれた炬燵テーブルに、美千代と幻十郎は向かい合って座る。  数分後、陽は照と光を引き連れて、ついでにお菓子と麦茶を持って帰ってきた。 「ミィ君、久しぶり!」 「ミィ君? ああ、貴方が……」  美千代を見た光と照は口々に言って、テーブルの入口手前の辺に並んで座った。 「うわぁ、美形家族……」  再び唖然とする幻十郎に、奥に座った陽が二人を紹介する。 「照と光だよ」 「照です」 「光です」  陽に紹介されて二人がぺこんと頭を下げる。 「白鳥美千代です」 「影木幻十郎です」  思えば美千代がこの家に来るのも猫になって以来だから、実はこれが初めての自己紹介になる。  頭を下げる二人に、照が眉を顰めた。 「影木?」  呼ばれて幻十郎が顔を上げる。 「影木って、まさかあの影木ですか?」 「照って、まさかあの照?」  数秒見つめあい、幻十郎は罰が悪そうに頬を掻く。 「あー……、いつも従兄弟がお世話になって……」 「お世話した覚えはありませんが」 「……迷惑をおかけしまして」 「あいつをどうにかしてください」 「それは無理だよ。診のやつドMだから何を言っても堪えないんだ」  二人の会話に着いていけない美千代が割って入る。 「何の話だ?」 「僕の従兄弟が照君にぞっこんラブって話」  美千代の問いに幻十郎が苦く答える。照は心底不快だと顔を歪ませた。 「光と陽君以外の男から言い寄られても気持ち悪いだけです」 「……へぇ」  幻十郎の従兄弟が男色家だということにも、照の極度のブラコンぶりにも、不本意にも陽とあやしい関係になりつつある美千代には何とも言い難く、相槌も曖昧なものになった。 「そうそう、影木がこれ解いてくれたんだ」  妙な空気を打ち壊して陽が例のプリントを出す。 「あ! 僕の宿題! やったーありがとう!」  しかしそれに答えたのは、双子の弟の照ではなく美少女光の方だった。 「あれ、でもお前弟の宿題って……」  言った美千代に陽はきょとんと光を指す。 「だから、弟」 ――お、男だったのか!?  絶句する美千代。  そんな美千代をおいて陽と幻十郎は話を続けた。 「藤本は三人兄弟?」 「そうだよ」 「広い家だよね。親御さんは何をしてる人なの?」 「父さんがカメラマンで、母さんがモデル。今は二人とも海外なんだ」 「え! もしかしてそれって、藤本陽一と藤本オリビア?」 「そうだけど」  陽の答えに幻十郎と美千代が声を揃える。 「すごい、有名人じゃない!」 「有名人じゃないか!」  驚く二人に陽は逆に美千代に質問する形で答えた。 「そう言えば白鳥の家は何をしてるの? お前の家も相当な金持ちだと思うんだけど」 「家は財閥だから」 「白鳥財閥!?」  美千代の答えに今度は陽と幻十郎が声を上げる。  白鳥財閥といえば知らない人はいない、世界を股に掛ける大財閥だ。あらゆる事業に手を伸ばし、よく言う「ご覧のスポンサー」には大抵名前が挙がっている。 「どうしてそんな金持ちのボンボンが、あんなボロい県立に通ってるの!?」 「社会勉強。下に弟が一人いるけど、それも山百合を受験するって」 「う、わー……。庶民は僕だけ?」  二人の話を聞いて幻十郎は何とも言えない気持ちになった。  この二人が特殊なのであって、自分の方が普通なのだとは分かっていても、四対一となると不安にもなる。 「影木の家は何をしてるんだ?」 「うちは小さな町医者だよ。僕の夢は医者になることだけど、それも別に家を継ごうって言う訳じゃないし、下に妹がいるけど、漫画家になるとか言ってるよ」  美千代の問いに幻十郎が答えると、陽が一拍おいて聞いた。 「もしかして公園の前にある影木医院って影木の家?」 「そうだけど?」 「中学の時、何回もお世話になったんだよね」  陽の言葉に影木は記憶を探るが全く心当たりが無い。 「え、本当? 藤本みたいに目立つ人なら見れば忘れないと思うし、親からも聞いたことが無いんだけど」 「あー……、そのころの俺今と全然違うから」 「そうそう、あの頃の陽君ってば反抗期でいつも喧嘩して怪我して来てさ」 「見た目もきんきらの金髪で、もろにヤンキーだったんですよね」  言葉を濁す陽に代わって弟二人がポンポンと衝撃的な話をしてくれた。  ヤンキーな陽……。今の彼からは想像もつかなくて、美千代と幻十郎はまじまじと彼の顔を見る。 「皆、個性的だねぇ」  光の少しずれた発言に幻十郎がふふっと笑う。容姿が容姿なので、笑いあう二人は花を飛ばすかのように可愛らしい。 「そうだね。今度、母さんも父さんも一緒に、皆で写真が撮れると良いね」 「診は呼ばなくて良いですからね」  笑いあう五人は仲良く同じことを考えた。 ――ああ、勉強しなくっちゃ。





 

臨海学校

 最近では個人情報の保護のために、定期テストの結果は例え上位でも張り出されることはなくなった。生徒は一人一人に手渡される、レシートよりも細く薄っぺらい紙に書かれた結果に、心の中のみで一喜一憂する。  なんて、そんなのは一部の人間だけで。 「ああーっ!! 順位30も落ちたー!!」 「俺、総合順位8位だったんですけどぉ!?」 「ああ、そうだよ、数学がだめだから――っ!!」  などと騒ぐために、だいたいは筒抜けである。  これが昨日の帰りのホームルームの話。  定期テストも終わり、夏休みまでもう残すところも少ない。公立ながら、進学校ということもあり、夏休み前課題などという妙な課題が出たり、それに続いて実際に休みに入るより先に夏休みの課題を出されたりするが、それでも長期の休み前は気分が上がる。  特に一年の夏休みには、親睦・学習合宿がある。一日十時間缶詰で勉強させられる鬼のような行事だが、生徒たちはそれを楽しみにしていた。  クラスで初めてのお泊まり会だからという事もあるが、一番の理由は、海が近いので最終日に海水浴の時間と肝試しの時間が用意されていることだ。  しかし、それを不満に思う生徒もいる。 「あー……」 「どうしたの白鳥?」  机に突っ伏し、長く重い溜息を吐く美千代を陽が覗き込んだ。 「……肝試し……」 「見学じゃだめなの?」 「白鳥の跡取りは、逃げない……」  変な意地張っちゃって可愛いな、なんて思う。しかし実際霊媒体質の彼が肝試しをするなど自殺行為だ。先日も、墓参りに行っただけで大量の穢れを背負ってきた彼だ。 (自分がペアになれればまだましなんだけど……)  ペア決めの方法はどうなるのだろうか。陽はくじならば多少の不正をはたらいてでも、美千代とペアになるつもりでいる。 「みんなー。肝試しの組分、自由でって交渉したけど無理だった。やっぱ席順だってー」  行事委員が職員室から帰ってきたようだ。  席順となれば美千代のペアは陽である。ほっとした気持ちで美千代を振り向くと、同じくこちらを見ていた彼と目が合った。 ******  砂浜を打つ波が、白い飛沫を上げて光を乱反射した。白い砂浜に黒い影が横切る。見上げれば、澄み渡った空の高い場所を、海鳥が気持良さ気に泳いでいた。  青い空を映した海は、太陽の光を受けて、白い網目模様を作って煌めく。浅瀬では砂の色を透かして、若草、黄緑、萌葱色に。少し奥は、コバルト、ビリジアン、ピーポック。さらに奥は、シアン、マリン、ウルトラマリンと、色のグラデーションが美しい。  合宿最終日。ここは白鳥家のプライベートビーチ。今年は合宿自体も、白鳥の別宅の、コテージというには立派過ぎる建物で行われた。  浅い角度から急な角度に変わる、丸みを帯びた三角屋根のコテージの、骨組みの見える天井は高く、ほぼ天井の高さまである大きな窓からは、眩しいまでの光が差し込む。  こんな開放的でおしゃれな空間で寝泊まりできるなんてラッキー。生徒たちは最初こそそう思ったが、一週間も缶詰にされれば素敵空間にも飽きる、だれる、腐る。勉強、勉強のスケジュールに辟易としていた。  だから今日は溜まったフラストレーションを爆発させる! 海で、浜で、笑い合い転げ回るのだ! 「白鳥くーん! コテージとか、ビーチとか、使わせてくれてありがとう!」 「白鳥君も一緒に泳がない?」 「白鳥君、こっちで砂に埋まってみない?」 「日焼け止め塗ってくれない?」  美千代は女子から猛アタックを受けていた。  金持ちだからという理由だけではこうモテることは無いだろう。もちろん金持ちなのは点数が高いが、美千代はその上性格も格好も良い。  金持ちなことを鼻に掛けない上に、自分に厳しく人に優しい。彼自身は何でもそつなくこなすし、何事にも全力を尽くすが、他の人に自分と同じに動けとは言わない。寧ろ、困って居れば積極的に助けてくれる。  容姿も、人間離れした美貌の陽と行動しているために目立たないが、決して不男ではない。顔こそ一般の域を出ないが、姿勢が良いしセンスも良い。  焦げ茶をベースに青やオレンジがうるさくない程度に織り込まれた生地の彼の水着は、膝が隠れる程度の丈で、浅いスリットが入っている。その三分の一ほどの高さまでの左右外側の布はくしゅくしゅと皺になっていて、その上を木目調に加工したボタンが飾っている。  腰のゴム部分より下に普通のズボンのようなベルトを通すところや、ファスナーやボタンのついた布が足されたそれを、ボタンを外して左右に開いて着こなしていた。  自分に合った服をきっちり着こなすことで、素材以上の魅力を引き出した、いわゆる雰囲気イケメンだ。  まあ、顔は普通と言っても、陽からすれば、つった目じりは猫の様で、細身の体はしなやかで、とても可愛くて恰好よくて綺麗だ。 「白鳥」 「ふおうっ!」  陽は女子に囲まれる美千代に背後から近づいて、後ろから抱き締めた。水着姿のために生で触れ合う面積が広くて、陽の肌理の細かい柔らかな皮膚の感触を直に背中で感じて、美千代の心臓が悲鳴を上げる。 「な! なんだ、いきなり!」  美千代は慌てて彼の腕の中から逃げ出し、振り返った。 「いきなりじゃないよ。ずっと呼ぼうと思ってたよ」 「思っただけならいきなりだ」 「いきなりじゃないってば」  離れた筈なのに、まだ背中に陽の感触が張り付いている気がして、恥ずかしさを紛らわすために、美千代は彼を睨みつけた。 「白鳥」  しかし陽にしてみれば、そんな風に上目づかいに睨んだって、口をへの字に曲げたって、頬が染まっていたら可愛さに拍車をかけるだけ。 「なんだ」  陽は白いボトルを持って答えた。 「日焼け止め塗って?」 「……お前それ、言っていることが女子と変わらないぞ」  しかし割り込んできた彼に何故か女子から文句が出ることは無く。代わりに、きゃーっ! と嬉しげな悲鳴が上がった。 「ごめんね、私たち言ってみただけだから!」 「藤本君に日焼け止め塗ってあげて!」 「藤本君も塗ってあげて!」  そんなことを言いつつ遠巻きに二人を見守る女子たち。 「皆分かってるなー」  そんな面々にカメラを向けながら幻十郎は目じりを波立たせていた。  広い海で手足を浮き輪の縁に引っ掛けて、プカプカと浮かぶ。波にゆられる感覚に、瞼が重くなってくる。目を閉じると、力強く輝く真夏の太陽が、瞼の裏を茜色に染めた。 「白鳥、もうそろそろ交換じゃないかな」 「う~ん……」  浮き輪を揺らす幻十郎に、美千代は気だるげに答えた。 「陽だまりの猫みたい」  美千代、陽、幻十郎の三人に、浮き輪は一つ。ジャンケンで勝った順に浮き輪を使っていて、次は幻十郎の番だ。  交代する気配の無い彼に、幻十郎は目じりを波立たせる。他の表情筋を動かさず、目だけが奇妙に形を変えた。腐った本能に忠実になろうとする時、彼は決まってこの顔になる。 「――えい!」 「うわぁっ!?」  美千代の乗っている浮き輪をひっくり返して陽の居る側に彼を落とす。海に落ちた美千代は、陽によって抱きとめられた。計画通り。  受け止められた美千代は、離れようともがく。水を介した肌の感触が生々しくて、じっとしていられなかった。しかし、陽は腕の力を強くして離さない。 「美千代、落ち着いて」 「溺れている訳じゃない、放せ!」 「あ、ごめん」  美千代は陽から離れると、呼吸を整えて彼の方にちらっと視線を向けた。  陽は綺麗だ。肌は絹のように肌理細かく、引き締まった体をしている。塗れた髪が頬に張り付いて、色気を倍増していた。 「なに?」  とろんとした目で見つめる美千代に、陽は首を傾げて声を掛ける。心の中では自分に見とれている彼をどうしてくれようかと悶々としていた。  正気に戻った美千代は真っ赤になって、「何でもない!」とそっぽを向いた。 「お前、何かスポーツでもやってるのか?」 「受験前まで光と照と一緒に柔道やってた。照も受験前に止めたんだけど、光はまだ続けてるよ。本当はね、二人ともスポーツ推薦で入れるレベルなんだけど、それだと色々しばりがあって後々面倒になるでしょ? 俺はそう思ったから普通受験したんだけど、二人もそうするって」  陽の答えよりも、彼自身に意識が行ってしまう。  本当に綺麗だ。海から上がった肩は、ぴちぴちと水を弾いて、丸い水滴を付ける。海の中に消える鎖骨から胸にかけてのラインは、厚くないのに、柔らかそうだ。 「白鳥?」  呼ばれてはっとする。無意識に伸ばした手が陽の肩に触れていた。柔らかい肌がしっとりと手に吸い付くようだ。  慌てて手を離すと、陽がその手を引いて美千代を抱き寄せる。 「――っ可愛い!」 「可愛いって言うなっ!」  一度逃げた筈の生の感触を再び味わい、頭が沸騰して鼻血が出そうだった。  太陽に焼かれた白い砂浜は凶器だ。海から上がった美千代、陽、幻十郎の三人は、足裏を焼くそれから逃げて、一番近いパラソルに走った。  足裏の砂を払っていると、男女のグループが向かってきた。女の子が一人泣いているようだ。 「どうしたんだ?」  美千代が聞くと、泣いている子の代わりに一緒に居る女の子が彼女の肩に手を置いて答えた。 「あのね、私たち明日の肝試しの下見に、洞窟に行ってみたの。そしたら、洞窟の中の池みたいな所で、この子が転んじゃって。海草が足に絡まってたから、それに引っ掛かったんだと思うんだけど……」 「違うよ! 手に引っ張られたんだって言ってるじゃん!」 「て、本人が……」  彼女の足には確かに手形のような跡が残っていた。





 

肝試し

「最初のペアが出発してから十分後に次のペアが出発します。懐中電灯を一つ持って行ってください。コースの両端に、豆電球があるのでそれより外には行かないでください。折り返し地点にリボンが入った缶が置いてあるので、その缶からリボンを一つ取って来てください。途中、浅い池のようなものがあるので、注意してください」  完全に日が落ちてからという事で、肝試しは夜の九時に開催されることとなった。  服装は海パンにTシャツ。太陽の熱の無くなった夜でも、湿気を帯びた空気が肌に纏わりついて気持ちが悪い。じめじめとした暑さに汗ばんだ。 「大丈夫?」 「大丈夫だ!」  番が近づくほどに美千代の顔が青ざめていく。陽が声を掛けると、怖さを紛らわせるためか、半ギレで怒鳴られた。 「昼間の娘は見学みたいだね」  美千代も見学すれば? そんなニュアンスを込めて言えば、 「そうだな」  だから何だ? みたいに返される。  別に見学したって誰も逃げただなんて思わないのに。そう思いながらも、強がる美千代をかばってあげたくなる。 「まあ、俺が居れば大丈夫……かな?」  洞窟の中の空気は、外の暑さが嘘のようにひんやりとしていて、一気に冷やされた汗が体温を奪った。二人は念の為にと持って来ていたパーカーを羽織った。  中にはクリスマスの飾りに使うようなLEDが通路に沿って置かれていて、懐中電灯無しでも足下を見ることができた。青みがかった白い光が壁に当たって、グレーの岩肌を浮き立たせている。安全面から電球になったのだろうがムードが無い。蝋燭か何かだったらまた違っただろう。 「寒い?」 「いや……」  美千代の手が微かに震えている。陽はそっとその手を握った。 「何?」 「何か居るかもしれないから、一応」 「何かって何!?」 「それは……」 「いや、待て! やっぱ良い! 言わなくて良い!!」  慌てて美千代はその口を塞いだ。  ペタペタとサンダルの音が反響する。繋いだ手から陽の鼓動が伝わってきた。 「お前、心拍速くないか?」 「そ、そうかな?」 「汗かきすぎじゃないか?」 「そ、そうかな?」 「なのに震えてないか?」 「そ、そうかな?」 「……怖いのか?」 「……」  黙ってしまった陽に美千代は確信する。 「霊感少年なのに!?」 「見えたって怖いものは怖いんだよ! だいたい見えるようになったのだって、つい最近ですけど!?」  そんなことを言っているうちに浅い池のような物が見えてきた。  陽が歩みを止める。大量の黒い靄がうねっているのが見えた。 「藤本?」 「白鳥、あそこ……」 「ああ、例の池だな」 「何か居る」 「……え、――うわぁ!」  黒い靄が無数の手になって美千代に絡みつき、池に引きずり込もうとする。 「白鳥っ!!」  底が見えていた筈の池に、黒い闇が広がっていた。 「何だよこれ!? なんなんだよ!?」  陽が叫ぶ美千代の腕を掴む。  黒い手の触れた場所から穢れが美千代の体に侵入し、陽に掴まれた腕から抜けていく。 (こんな事でこんな風に感じるなんて……)  気持ち悪い、怖い。それなのに官能的な感覚に翻弄されて悲しくなる。  とうとう手は美千代を池に引きずり込んでしまい、美千代を離さない陽も道連れになった。水が冷たくて、手の感触が分からなくなる。今自分は彼の腕を掴めているのだろうか。  陽は感覚の無い手にできる限りの力を込めて引っ張った。闇の中にぼんやりと彼の輪郭が見える。両腕で彼を抱き締める。 ――白鳥!  暗闇に光が射す。眩い光が池から漏れ出し、洞窟の壁を白く染めた。  一瞬の閃光の後、池の中心に二人で座り込んでいた。 「……助かった?」  水嵩の減った池は、大きな水溜り程度の深さしかない。 「大丈夫? 白鳥……」  窺うと、彼は自らの体を抱きしめ、俯いていた。陽はその頬に手を添え、顔を上げさせる。眉を寄せて潤んだ瞳、半開きの口、紅潮した頬が露になった。  陽は、彼の手を引いて強引に立たせる。 「こっち来て」 「ちょ、藤本!?」  豆電球を跨いで、近くの岩陰に潜り、彼を壁に押しつけた。 「ここ、このままにできないでしょ」 「な!?……で、でも……」  水着の布を押し上げて主張する彼の下半身を指して言うと、耳まで赤く染めて俯いてしまう。 「俺の前で自慰するつもり?」 「み、見なければ良いだろう!」 「良いから」 「――っ!」  主張するそれをやんわりと握り込むと美千代が息を詰めた。  陽は、彼の水着を下げ、そこに顔を寄せる。 「口で!?」 「ヌくだけ何だから良いでしょ」  美千代は彼の行動に驚き、静止しよう手を伸ばすが、やんわりとそれを払われる。  彼の舌先が、豆電球の明かりを反射してぬらりと艶めいた。この舌先が触れる、そう思うと美千代の鼓動がドクンと跳ねて、期待に瞼が震えた。  先っぽから蜜が溢れてしまったのを感じた。見られているだけなのに、こんなの…… ――ちろっ 「――っ……!」  ぷっくりと溢れ出た蜜を舐め取られる。敏感な場所に触れた柔らかく、暖かい感触に目眩がした。  くちゅっ、ぺちゃっ  洞窟に水音が響く。陽は、美千代の感触を楽しむかの様に、ゆっくり先の方から舌を絡めていき、上目遣いで彼を窺った。  あっ、あっ……と、短い声を上げて羞恥と快感に悶える美千代の姿に、舌の動きも過激になる。 「――っやめ、藤本!」  陽の端正な顔が、自分の股に埋まっていることに、形の良い口が自分のもっとも恥ずかしい部分をくわえ込んでいるという事実にひどく興奮した。彼は一度口を離して、其れを手で支え、袋との谷間から蜜壺までを尖らせた舌先でなぞる。  彼と恥部とのツーショットに恥ずかしさで顔を手で覆うが、むしゃぶり付く彼が色っぽすぎて目が離せない。  伏し目がちの目に長い睫毛が影を落とし、頬は淡くピンクに染まっている。時折美千代を窺う瞳は潤んでいて、恥部と彼の口元と一緒に淡い光を反射した。  はしたない水音が、洞窟の中で反響して美千代の羞恥を仰ぐ。触覚から、視覚から、聴覚から――犯される。限界が近い。  袋を揉みながら、全体に舌を絡ませて強く吸われ、白い液体がこぷっと溢れ出た。 「ごめんっ!」  反射的に美千代が彼の口から恥部を引き抜くと、まだ出し切っていなかった精液が彼の顔を汚す。 「~~っ!!」  もう言葉も出なかった。 ****** 「ただいまー」 「おー、おかえ……っ!?」  帰って来た二人に皆息を呑む。二人とも頭までずぶ濡れな上に、美千代に至っては全身に手形のような痣が残っていたのだ。 「いやーっ!」 「でたーっ!」  一瞬の沈黙の後の阿鼻叫喚。もちろん肝試しは中止になった。 「ね、藤本」 「何?」  寄ってきた幻十郎が、くんくんと鼻を鳴らせる。 「なんかさぁ、イカ臭くない?」 「さあ。池に引きずり込まれたからその時にでも付いたんじゃないかな」 「ふーん」  目だけで笑う幻十郎に、美千代は全てを知られているのではないかと胃が痛くなった。  その後、洞窟にも美千代にもお祓いが行われて、美千代の体の痣は陽の付けた右腕のものを除いて綺麗さっぱり消え去った。 (この痣は、いっそのことずっと残っていれば良いのに)  考えてはっとした。別に深い意味はない。友達として、助けてくれたのが嬉しかったのだ。美千代は首を振って危険な思考を断ち切った。





 

隠れにゃいと

 北欧神話の神ヘイムダルの装飾が施された金の門は、外から開けるにはカードキーと指紋認証と声帯認証のすべてをクリアしなければならない。下界と神の世界を繋ぐ通路の門番を使うなど、傲慢かつ大胆な行為だ。しかし、一歩間違えれば嫌味にしかならない装飾は、アートとしても機能としても、この豪邸には似つかわしかった。  青々とした芝と庭木は、熱せられた真夏の空気を柔らかに浄化する。アスファルトに反射する強すぎる光で焼けた瞳を優しく溶かした。  しばらく進むと、迷路のようなバラ園が見えてくる。世界中のバラが植えられたその中には、まだ珍しい青い花弁も見え隠れした。その中央には、丸い机と椅子が用意してある。好きなものに囲まれて、一人お茶を楽しめる、奥方の憩いの場だ。  薔薇園には車では入れないため迂回すると、左手に数々の遊具が見てとれた。小さな公園には無いような、立派なアスレチックまで並ぶそれらは、今はもう使う者はいないのに、きちんと整備されてまだまだ現役で活躍できそうだ。  そこを抜けるとすぐに、大きな穴が現われる。穴の中の階段を降りた先に、泳げるほどのたっぷりとした水を湛える噴水がある。四か所に分かれた階段の間には、またいくつかの机や椅子が、噴水を囲むようにして設えてある。小さなパーティーを開いたり、その時に人を呼んで噴水をバックに芸を楽しんだりするのだ。  水の底はガラス板でできており、色とりどりのライトが埋め込まれている。夜になってライトアップすれば、素敵空間の出来上がり。離れた場所から見ると、淡い光のドームのように見える。  ロマンチックな光景に、普段は口にできない言葉も言えるかもしれない。百合の花弁のように四方に散る水の中央で、愛の天使アモルが微笑んだ。  噴水を過ぎればやっと本館。オレンジ煉瓦の壁と青い三角屋根を持つ、ホーエンツォレルン城と見まがうばかりの、大きく入り組んだ、それでいて優雅な佇まいのそれは、ごみごみした都会よりも断崖絶壁が良く似合う。  しかし、今日はそこには入らずに本館を更に迂回して、裏に回る。表よりも自然を色濃く残す庭は、何処の遊歩道よりも見る者の目と心を潤した。  林の奥に家が見える。黄色の土壁とオレンジの屋根と窓枠が、周囲の緑に映える。車はその家の前でやっと止まった。  レトロ・シトロエンの運転席から現れた執事長隆正は、助手席に回ってドアを開ける。この家の主白鳥美千代は、洗練された動きで車を降りた。  祖父の意向で、中学までは白鳥家の経営する私立の学校に通った。しかし祖父が亡くなると、社会勉強のためだと、父の意向で公立の高校へ進学することになった。本当は、もっと前から世間に揉まれてほしいと考えていたようだが、祖父の手前そうもいかなかったのだろう。  この家も自立するための勉強として買うことになった。設計から業者の手配まで自分で行い、これからの生活はここで行うというものである。相当の金持ちにしかできない突飛な行為だ。 「良い出来だな」  完成したての家を見て、美千代は満足げに一人ごちた。 「内装の方も出来てございます」  隆正に促され中に入る。  部屋の形だけ見ても、唯の四角ではなく、四辺はほぼ九十度、もう四辺はほぼ百八十度の八角形の作りになっており、美千代のこだわりを感じた。  遊び心たっぷりの階段箪笥を上って、二階に上がる。ダイニングを抜けてバルコニーに、さらに階段を上がって三階に、すべての部屋を回り終えた美千代は笑みを浮かべた。 「あとは家具だな。隆正、選びに行くぞ」  彼の言葉に隆正は瞳を輝かせる。 「ご、ご一緒しても宜しいのですか!?」 「お前、こういうの好きだろう?」 「み、美千代様……っ!」  感極まって美千代の両手を握り、これまでに無い距離にまで迫る隆正に一歩引く。アラウンド・フィフティーの彼は少年のようにはしゃいでいた。 ****** 「美千代様! この机どうですか!?」 「あの椅子は!?」 「ラグは!?」 「電灯は!?」 「いやー、大量でございますね!」  選んだ家具は全て郵送にしてもらった。隆正は体も心もふわふわ状態である。 「お前、始終テンション高かったな」 「ホクホクです!」  多少呆れ気味の美千代に気付くことなく、隆正は満面の笑みで応えた。  帰り道、公園の前を通る。幼稚園に通っていた頃、子分とその子分と一緒に遊んだ懐かしい公園だ。子分の子分は子分じゃないのか、と言われればその通り。美千代の子分である田中雅彦の二人の子分は、自分は雅彦の子分であって、美千代さんの子分じゃないから、美千代さんとはお友達なのだと言い張っていた。 「暑いなー」 「暑いわ―」 「裕介君、涼しくしてよ」 「残暑ざんしょー」 「うっわ、寒っ!」  懐かしいことを考えていると、懐かしい声が聞こえてきた。 「お前達、こんな所で何をしているんだ」  公園を覗くと予想通りの顔が並んでいる。 「あ! 美千代さん!」 「ちゃーっす」  子ども用の低い鉄棒に腰かけて雑談していたのは、件の美千代の子分である田中雅彦の、そのまた子分である佐藤裕介と鈴木真琴だった。 「お前達、暇なのか?」 「暇じゃないですよ。一応受験生ですもん」 「そうそう。俺らだって、ただボーッとしてる訳じゃないんですよ?」 「いろいろ考えてるんですよ?」  鉄棒から飛び降りると、芝居がかった大げさな動作で、二人は語りだした。 『想像してみよう。  オランダ語と日本語の出会い、中国語がキューピット。  想像してみよう。  sin、cos、tanの喧嘩。  sinとcosは双子、tanは二人のお兄さん。  cosばっかりtanと一緒にいてずるいよ、sinとcosが喧嘩する。  違うだろ! オレがハブられてるんだろ!? ってtan。  さあ、tanの攻撃だ。加法定理で攻撃だ。  想像してみよう。  石膏像達の会話。  想像してみよう。  生物用語の擬人化。  想像してみよう。  -端子と+端子の恋愛。  想像してみよう。  争いの無い平和な世界を』 「何それ」 「妄想」 「妄想です」 「……暇なのか?」  なんと反応するべきか……。絞り出した言葉に、二人は口を尖らせた。 「だから、暇じゃないんですってば!」 「しかし、今は遊びたい」 「そうだ、かくれんぼをしよう」 「そうしよう」 「なんでだよ」  トントンと進む話に突っ込む隙を見つけるのさえ苦労だ。雅彦のやつ、苦労してるんだろうな……。  と、思った矢先。 「何を言っておられるのですか、美千代様! 良いではありませんか、かくれんぼ! たまには童心にかえりましょう!」  まさかの隆正が乗り気で言った。 「お前の今日のテンションは底なしか!」 「ねぇねぇ、やろうよー」 「やろうよー」 「あー、もう。分かった、やるって……」  三対一では敵わない。美千代は渋々かくれんぼに参加した。





 

初恋にゃんこ

「いーち、にーい、さー……」  裕介のカウントを聞きながら、隠れる場所を探す。桜の木の下に居たら、毛虫が落ちてくるかもな、などと考えたが、それほど隠れられる場所があるわけでもなく。美千代は桜の下のベンチと、生け垣の間の狭いスペースに入り込むことにした。しかし、向かい側から入ろうとしていた真琴と目が合う。真琴はパッとその黒い瞳を見開いて、癖の無い髪を揺らした。 ――既視感。  美千代の胸に暖かいものがこみ上げた。 ******  小さな男の子が子猫を見つめる。  子猫が小さな男の子を見つめる。  小さな一人と一匹は、一目合ったその瞬間、心に小さな桃色の花を咲かせました。  小学校に上がる年の春。美千代は初めて猫になった。  少し前から体が重く感じていた美千代は、隆正の車に乗せられて、病院に行く途中だった。突然視界が低くなったかと思うと、体中が毛むくじゃらで、「隆正」と呼んだ筈なのに、実際に口から出たのは「にゃあ」と人の声ではなかった。  突然のことで訳が分からなくて、泣きたくなった。幼い美千代はパニックになって信号待ちの車の窓から飛び降りた。  気がつけば、卒園したばかりの保育園まで来ていた。日曜日だから誰も居ないだろうと思うと寂しくなる。  しかし、予想に反して、少人数だが子どもが庭で遊んでいた。日曜保育に通う子ども達だ。その中には子分の雅彦と、その子分の裕介と真琴の姿もあった。 「猫だ!」  気付いた三人が近づいてくる。 (僕だよ! 美千代だよ!)  そう言っても、伝わることはなく。 「おい、にゃんこ。どこから来たんだ?」 「ほーら、にゃんこ。猫じゃらしだぞ」 「おやつのクッキー食べる?」  自分だと気付いてもらえないことに、ショックを受けて、美千代はその場から逃げ出した。 (誰も僕に気付いてくれない。誰にも僕の言葉が伝わらない)  誰も居ないと思った時以上の寂しさがこみ上げてきて、泣きながら走った。  目の前に何かが落ちてきて、視界が桜色に染まる。がむしゃらに走った美千代は、いつの間にか桜の花びらの絨毯の上に立っていた。  保育園の帰りに、いつも横を通る公園だ。この場所は毎年この時期になると、たくさんの桜の花で、空間に桃色のカーテンを掛けたみたいに見えた。  そのカーテンを潜って公園に入る。一際大きな桜の木の横にベンチがあった。ベンチと生け垣の間の空間に体を滑り込ませる。狭い隙間で丸くなると、何故だか安心した。 「あ!」  降ってきた声に顔を上げる。美千代と同じくらいの年頃の男の子が四つん這いになって隙間に入ってくるところだった。  その日、近所の公園に来た藤本家の仲良し三兄弟は、子どもの遊びの王道、かくれんぼをして遊んでいた。鬼は次男の照、彼は探し初めて数十秒で末っ子の光を見つけ出した。 「見つけた」 「むぅ、早いのぉ~……」  フリフリのスカート姿にも関わらず、木の天辺近くまで登っていた光は、躊躇なくそこから飛び降りる。 音もなくフワリと着地した彼を照が注意した。 「光、飛び下りる時はスカートの裾を押さえないとダメでしょ」 「あう~……」  普段は兄の言うことを良く聞く良い子なのだが、あんまりにも早く見つけられてしまったのが面白くないのか、光は珍しく反抗的な態度をとった。 「陽はぁ?」 「まだ見つけてないよ。でも、――うん、あそこの植木の陰に居るね」  そう言って照はその場所を指さした。  光は大きな瞳を輝かせ、尊敬の眼差しを彼に向ける。光には陽の姿は全く見えない。 「あそこに居ゆの!?」 「うん」 「なんで分かゆの!?」 「それは二人のことが大好きだからだよ」 「ひゃ~っ!」  極度のブラコンの照には、二人の隠れている場所など気配で分かるというものだ。  光は彼の台詞に感動したようだが、結構危ない。  二人で植木の影を覗くと、陽は本当にそこに居た。だが、何やら様子がおかしい。二人に背を向けてしゃがんだまま動かないのだ。 「陽君どうしたの?」 「したのぉ?」  声を掛けられてやっと弟たちに気付いた陽は振り返って一言。 「猫」  彼は腕にロシアンブルーのように美しいグレーの毛並みの子猫を抱いていた。 「きゃーいーのぉっ!」 「うん、かわいい」  陽は光の叫びに同意して、頬を桃色に染めた。  美千代は陽の頬に顔を寄せる。彼に抱かれていると安心した。 「それ連れて帰るの?」 「首輪付いてるから」  照が聞くと、陽はすぐに首を振った。それでも視線は美千代から離れない。今出会ったばかりの彼をそうとう気に入ったらしい。 「じゃあ、今一緒に遊ぶのぉ!!」  陽から離れたくない美千代と、美千代をまだまだ手放したくない陽は光の提案に、ぱあっと顔を輝かせた。 「だーるーまーさーんーがーこーろーんーだっ!」  かくれんぼで最初に見つかった光が次の鬼になった。勢い良く後ろを振り返ると、残る二人と一匹はぴたりとも動かずに静止した。 「だーるーまーさーんーが――ころんだっ!」  二人と一匹はやはり全く動かない。しかし、鬼との距離は確実に近づいている。  次が勝負だ! 「だるまさんが」 「ナァ」  光の足首に暖かくてふわふわしたものが触って離れていった。 「逃げろーっ!!」  光が振り返ると、兄二人がどんどん遠ざかっていくところだった。しかし実は、兄弟の中で一番運動神経が良いのは末っ子の光である。 「まて――っ!」 「ナァッ!」  光は一番足が遅い上に、スタート地点が光に一番近かった美千代を素早く捕まえた。 「ナァー」  美千代は悔しそうに鳴いた。 「ピカリン次はねぇ、おままごとしたいのぉ」 「いいよ」 「いいよ」 「ナァ」(いいよ)  返事をしたと同時に光に抱かれたままだった美千代は手足をばたばたさせる。光に地面に降ろされると陽の足首にすり寄った。 「俺、この子のお嫁さんが良い」  陽が美千代を抱き上げて言った。  兄弟の中では一番の常識人だと自負している照は、陽のこの発言に、まさかこの兄はこの子猫を本当に恋愛対象として見ているのではないかと疑った。 「お婿さんじゃないの?」 「この子も雄だから……譲る」  種族プラス性別を越えた愛、か……? 「光はそれで良いの?」  それを聞いてしまうと怖い答えが返ってきそうなので、慎重派の照はいつもお母さん役をやりたがる末っ子が陽に反対してくれないかと期待した。 「ピカリン、お姉さん役が良いのぉ!」  しかし照の気持ちなど知らない光は、そんな聞き分けの良いことを言う。 「――じゃ、俺が弟ということで……」  もう、どうにでもなれば良いじゃないか。照は光の柔らかいほっぺたを軽く摘んだ――ら、二人の間を紋白蝶が横切った。 「ちょうちょ~っ!」  光は鼻先をかすめて飛んでいったそれを追いかける。 「ちょ、光!?」 「ナァ」(待って!)  蝶を追いかける光、それを追いかける陽、そしてまたそれを追いかける子猫。計らずともこの蝶が照の憂いを晴らしてくれたようだ。 「ミィ様」  凛と響く声が脳を揺らす。  蝶を追いかけていた三人と一匹が、声の方を振り向くと、公園の門の外に美しい女の人が立っていた。  黄金の大きな瞳が長い睫の陰になって、ほんの少し赤みがかって見える。金色の長い横髪が風に揺れて、銀の髪留めと共に太陽の光を反射した。白い肌と相まって、自ら光輝いているかのようだ。  ここは夢か現か。彼女を見た瞬間、子ども達は足下を見失った。  美千代は彼女のもとに導かれるように歩き出す。美千代は彼女を知らないが、行けなければいけないと感じた。 「ナァ」 ――バイバイ  振り返り、三人に別れを告げる。  彼女は綺麗なお辞儀を一つして歩きだした。美千代の意識に白い靄がかかる。 「ミィ君!」  意識が途切れる寸前、聞こえた彼の声に、胸がしくしく痛んで、鼻の奥がツンとした。 ****** 「美千代さん、生きてますか?」  真琴の声に意識が過去から現在に引き戻される。 ――どうして今まで思い出さなかったのだろう。俺はずっと昔から彼のことを知っていた。そしてその時から彼のことを……





 

友愛か恋慕か

 美千代が幼い記憶を取り戻した後も、傍から見た二人の関係は変わらない。相変わらず陽は美千代にベタ甘で、美千代はいつも通りに挙動不審だ。  変わったのは美千代の心。彼に触れられると、性的に感じるという以上の感情の波に翻弄された。以前から妙に距離の近い彼に対して、思うところはあったが、いざ意識してしまうと全然違う。触れられるまでもなく、彼の気配を感じるだけで肌がじりじりと焦れるように疼いた。  昇降口を出ると、サーと聴覚にノイズがかかる。朝までは高く澄んでいた空が雨雲で陰って、小さな雨粒がさらさらと降り注いでいた。  梅雨が過ぎて、台風が過ぎた十月。  すっかり秋らしくなった気候に冷やされた久しぶりの雨は、地面で弾けて霧になる。  吐いた息が白くなることは無いけれど、まだ寒さに慣れない体は微かに鳥肌をつくった。 「あー、傘……」 「忘れた?」  美千代の科白を聞いて、陽は紺色の傘を開いて差し出した。  傘の向こう側は、白く虚ろに見えて、唯一はっきりと見える空間には、美千代と陽の二人だけ。美千代が彼と肩が触れないように距離をとると、はみ出した右肩を雨が濡らした。衣替え前の白いシャツから薄らと肌の色が透ける。  美千代の体が小さく震えると、気づいた陽が彼に傘を手渡し、肩を抱いて引き寄せた。  美千代は濡れた布越しに、彼の体温を感じて息を詰める。触れられた肩から全身にかけて、体温が上がった気がして、顔を伏せて隠した。実際に熱の集まった顔は、みっともなく赤く染まっているだろう。 (まただ、だめだ)  苦しくなった胸を、ぎゅうっと押さえつける。  あれから、何度もこんな感覚に襲われた。苦しくて、苦しくて、どうにかなりそうになる。 「美千代?」  立ち止まってしまった美千代を陽が覗き込んだ。  大体にして、彼は懐に入れた人間に対する距離が近すぎるのだ。クラスメイトには普通だが、幻十郎に対してはふとした瞬間に触れるほどに近く、対美千代に至ってはことあるごとに体に触れてきた。  陽が自分に優しく接してくれるのは、彼の性格が優しいからだと分かっている。距離が近いのは、美しすぎるために遠巻きにされる彼が、友人関係に慣れていないからだと分かっている。美千代の体に性的に触れるのは、治療のようなものだと分かっている。  でも、俺は…… 「俺は、お前のことが――」 ――好きだ。  絞り出した声は消えそうに小さく、震えてしまったけれど、彼には届いただろうか。恐る恐る顔を上げると、目の前の精鍛な顔は思いかけず苦しげに歪んでいた。 ****** 「藤本君、こっち手伝ってー」 「……うん」 「きゃー! うん、だって!」 「恰好良いのに、可愛いよね!」 「ね!」  学際が近づき、学校中が浮かれている。クラスでの出し物は、性格診断だ。よく雑誌の付録などについてくる、何択かの質問に答えていくそれを、紙ではなく教室全体を使ってやるというものだ。  陽の任された仕事は、内装に使う段ボールをイラストで飾ること。ピンクや赤の絵の具でハートを描くだけの簡単な作業だ。 「藤本、元気ない?」  降ってきた声に顔を上げると、幻十郎が相変わらずの無表情でこちらを見下ろしていた。長い睫毛が重いのか、垂れ目だからそう見えるだけなのか、彼はいつも気だるげに見える。  自分の持ち場が終わった幻十郎は、陽の作業を手伝うために、筆を持って彼の向かい側に座った。 「……なんでそんなこと聞くの?」  首をかしげる陽の手元を指して尋ねる。 「それ何?」 「……ハート」 「ずいぶん前衛的なギザギザハートだね。ロックンロール?」 「……ありがとう」 「褒めてないよ」 「……うん」  答える陽は声が小さく覇気がない。その理由として幻十郎が思い当たる答えは一つだ。 「最近、白鳥と一緒に居ないんだね」 「……」 「生徒会選挙も近いしね」  黙ってしまった彼に励ますように言う。  忙しいのだから仕方無い。生徒会の会計として立候補する彼は、学際準備に加えてその準備でも学内を動き回っていた。  まったく、どうしてそんな大事な行事を同じ時期にやってしまうのか。二人が一緒に居ないという事は、幻十郎の目の保養が無いのと同義である。  つらつらと学校の運営に対する文句を並べていると、陽が肩を震わせて泣いていることに気が付いた。 「藤本!?」 「……あ、ごめん。……なんでも、ないっ……」 「いやいや、何でもなくは無いでしょう」 「……ほんと、何でもないから……っ」  そう言って袖口で涙を拭うが、拭けども拭けども涙は零れて、白い袖口をじわじわと浸食していった。 「藤本あのさ、僕、頼りないかもしれないけど、話を聞くくらいはできるんだからね? 一人で悩んでないで、相談してよ。ずっと元気無いの分かってるんだよ?」 「……」 「……」  陽が黙り込んでしまうと、幻十郎も彼が話し出すのを黙って待った。 「……俺、白鳥に避けられてるみたい……」 「まさか」  やっと聞けた予測外の理由に、否定的に返した。あんなにも陽に対して好き好きオーラを出していた彼が、どうして彼を避けることがあるだろうか。何かの間違いに違いない。 「俺は、もう、どうしたら良いのか! どうしたら良いのかっ!」 「藤本落ち着いて、ハートがハートじゃなくなってるし、皆見てるから!」  幻十郎は取り乱す陽を、とりあえず人気のない場所まで引っ張って行った。 「何か心当たりは無いの?」  幻十郎の問いに、陽は少し考えてから答える。 「……ない」  雨の日に彼から好きだと言われたことを思い出したが、彼はその後すぐに冗談だと否定していた。 「うーん。それなら、思い切って本人に聞くしかないんじゃない?」  幻十郎が言うと、陽は髪をふり乱して頭を振る。 「それで決定的なことを言われたらどうするの!? もう飛び降りるしかないじゃない!」 「やめて!? でもさ、原因が分からないと、どうしようもないじゃない」 「そうだけど……」  そうして、また黙り込んでしまう。  何を言うべきかと幻十郎が考えていると、渡り廊下の方から女子の声が聞こえてきた。 「きゃー! 猫だ、可愛い!」 「ほんとだ!」  猫と聞いて陽はぱっとそちらを見る。次の瞬間、彼の元より大きな瞳がさらに大きく見開かれた。 「ミィ君!?」  声を上げた途端、猫は逃げ出し、陽はその後を追った。 ******  学校に行きたくない。藤本の顔をまともに見られない。でも学校に行かないわけにはいかない。行っても行かなくても精神衛生上よろしくないなんて……美千代は自身の真面目さを恨めしく思った。  雨の日から数日たった。あれから陽との身体的接触は一切していない。何となく、お互いに距離をつくってしまって、入学したての頃に戻ったみたいだ。  陽に触れられるのが怖い。彼に触れられる度に与えられる感覚に、溺れてしまいそうになる。避けた時の彼の表情に錯覚してしまいそうになる。  彼を避ければ避けるほどに罪悪感は増し、ダメージの蓄積された体は日に日に重くなっていった。心配そうに、悲しそうに自分を見る彼の瞳に、より一層辛くなる。 ――で、猫になってしまった。  さっきまで持っていた白いパネルが小さな体に覆い被さる。学際のために用意したそれから這い出ると、すぐに通りすがりの女の子達に囲まれた。 「きゃー! 猫だ、可愛い!」 「ほんとだ!」  この角度だとパンツが丸見えですよ、お嬢さん。美千代は顔を赤らめて、見ないように顔を逸らした。 「ミィ君!?」  聞こえた声にはっとする。 (なんでこんなタイミングで!?)  美千代が逃げ出せば、彼は上履きのままで追ってくる。 (上靴で外を走ったらダメなんだぞ!) 「待って……っ」  非難の意を込めて振り返ると、彼の顔が泣きそうに歪んでいた。 (藤本!?)  驚いて駆け寄ると、彼はその場に膝をついてしまった。 「……白鳥……っ」  俯いた彼の表情は見えない。ただ膝に置いた拳には、ぽたぽたと水滴が落ちている。 「俺のこと、嫌いかもしれないけど……。俺は、お前が苦しんでいるのを見てるだけなんて嫌だし……」  下から無理やり覗き込むと、水菓子のように揺れる瞳から、暖かい涙が溢れていた。 「――うそ、やっぱり……、嫌われたく……っ、ない……」 (なんだよ、こいつ何なんだよ。俺は好きって言ったのに、嫌な顔をしたのはそっちじゃないか……)  綺麗な瞳から零れ落ちる涙はやっぱり綺麗だ。美千代は、彼の柔らかい弧を描く頬を伝う涙を舐め取った。 「ミィ君!」 「にゃあ」 (……嫌いになるわけないだろう)  これは仲直りの合図だ。彼は涙を止めて嬉しそうに微笑んだ。  好きと言った時に渋い顔をされたショックは消えないけど、恋慕を友愛で返されるのは辛いけど。俺を思って泣く彼のために、この気持ちは殺して非して隠すと誓おう。





 

白・黒

 文化祭では一年生だし、まだ勝手が分からないという事で、手軽に性格診断をやった。さすがにお化け屋敷や喫茶店の方が盛り上がっていたらしいが、結構盛況だった。 「らしい」と言うのは、美千代が忙しくて実際に回ることができなかったためである。  まったく、どうして文化祭のすぐ後に生徒会選挙を盛り込んだのか。行事予定を組む時にもっと考慮してほしかった。しかしその選挙も、書記に志願した筈の美千代が副会長になるイレギュラーを伴って無事に終わった。  肩の荷が落ちた美千代は、腕を伸ばして伸びをする。やっと衣替えが済んだ十一月、冷たく澄んだ朝の空気で肺を清める。夏のように青々とした空は広がっていないが、冬へと向かう空は高く澄んでいた。  清々しい気分で上靴を取ると、一緒に何かがヒラリと舞い落ちる。  初めまして。生徒会選挙お疲れ様です。選挙で初めてお顔とお名前を知ったのですが、白鳥さんのまっすぐな演説に惹かれました。お話があるので、放課後第三資料室に来ていただけませんでしょうか。  M・O  白鳥美千代、ロマンスの予感。 ****** 「なあ、お前さあ」 「僕?」  呼び止められた幻十郎が廊下で足を止めると、そばかす顔の男と茶髪パーマの男とメガネの男が彼を取り囲んだ。 「そうお前。お前さ、いつも藤本と白鳥と一緒にいんじゃん?」 「うん」 「情けなくなんないわけ?」 「どうして?」 「だって、あいつらいつも二人の世界作っちゃってるじゃん」 「そうだね。でも、それで良いんだよ。僕は二人が仲良くしているのを見ているのが好きなんだ。二人は仲良しで、僕は付きまとっているだけ。芸能人を見ている気分だよ」 「ふーん。……あっそう」  そばかすの男は幻十郎の答えに白けたようにつぶやいた。 「変わってんのな」 「終わり?」 「ああ、終わり終わり。じゃーな」  男たちは幻十郎をあっさり解放して去って行った。 「――と、言うことがあったんだよ」 「ひどいな」 「でしょ」 「お前はちゃんと俺たちの友達だろう」 「そっち!?」  一限終わりの休み時間。幻十郎が今朝あったことを美千代と陽に話すと、彼の期待を裏切る反応を返してくれた。良い意味での裏切りが少しくすぐったい。 「そうじゃなくて、僕達のことを良く思ってない人がいるって話じゃないか」  美貌の小年藤本陽は男女からよくもてる。好かれるだけなら良いが、狂信的なファンの思考と行動は時に実質的被害をもたらすこともある。 「うーん……しかし、どうしようもないしな……」  陽は唸る美千代の髪に手を伸ばした。 「ゴミ」 「ん? ありがとう」  だから、そういう事を何気なくしちゃうところがダメなんだけどね。幻十郎はそう思っても止められない。何故ならその光景を誰よりも望んでいるのは、腐男子である幻十郎だからだ。何かあっても、それが二人が進展する切っ掛けにでもなれば良い。そんな甘いことを考えた。 ******  放課後、一緒に帰ろうと言う陽の誘いを断って、今朝の手紙の主に会いに第三資料室に向かう。もし、これがラブレターだとしても、付き合うつもりはない。正式にお断りしようというのだ。 (俺の心はまだ陽が占めてるから)  彼を忘れるために他の誰かとどうにかなろうだなんて思わない。そんなことをしても苦しいだけだと思うし、相手にも失礼だ。陽に対するこの気持ちがなくなった時、やっと前に進めるのだと思う。  人の出入りの少ないその棟は、何となく埃臭く、換気されない空気は淀んで見える。窓から見える空に朝の済んだ青さはなく、灰色の雲で覆われていた。  扉を開けると、手紙から連想される少女の姿は無く、代わりにそばかす顔の男と茶髪パーマの男とメガネの男が迎えてくれた。 「ようこそ、おぼっちゃん」  やばいと思った時にはそばかすに腕を掴まれて、部屋に引きずり込まれる。茶髪が入口の戸を音を立てて閉めた。間近に見えた目が嫌にぎらついていて悪寒がする。 「女の子じゃなくて残念だったねぇ。いや、違うか。お前男が好きなんだもんなぁ?」 「止めたげろよ、叶わぬ恋なんだからさ」  にやにや笑いが嘘くさい。美千代は不快感に眉を顰めた。 「……何」 「だ・か・ら、藤本とお前じゃ釣り合わないって言ってんの」 「――お前らに関係ないだろう!?」  反抗的な態度にそばかすが手を上げる。頬に衝撃が走る。熱い。 「見てて可哀そうだから、言ってあげてんじゃん」 「どうせ向こうは迷惑してんだろ?」 「――っ!」  床に倒れこんだ美千代の髪を掴んで顔を上げさせる。殴られた衝撃で頭がぐらぐらする。 「あ、何。図星?」 「……放せよ」  何とか逃げようとする美千代を、そばかすが羽交い絞めにして、残る二人が美千代の身ぐるみを剥がしにかかった。 「やめろっ!」  抵抗するも、三対一だ。すぐに下着まで下されて、一糸まとわぬ姿になった。  三人はにやにや笑いながら美千代を見下ろす。メガネに至ってはカメラまで持ち出した。 「カメラ回てますよーっと」  なんでこんな目にあってんだ。こいつら何なんだよ。  裸で転がされて、笑われて、最凶に惨めだ。 「お前ら、こんなことしてただで済むと……」 「お前が言わなきゃ、ばれないだろ?」  茶髪はそう言って、美千代の首に手をかける。美千代の後ろに回ったそばかすが手足を押さえてつけていて、抵抗もできない。 「チクれ無いよな? だって、こんなこと」  男に囲まれて、脅されて、美千代の喉が恐怖で震えた。  茶髪はまだ何の反応もしていないだらんと垂れた逸物を取り出すと、美千代の顔の上に跨る。さっきまで密閉されていたそこは、こもった独特の臭いがする。目の前にさられた物への嫌悪感で、美千代が眉を寄せた。 「なんだよ、お前物好きだな」  そばかすが茶髪の行動を指して言う。 「ああん? 口に男も女も無いっしょ。気持ち良ければ良いの」  茶髪は身を引く美千代の口をこじ開けると、自身の中心を無理やりにねじ込んだ。 「んぅンっ!」 「おい、噛むなよ。噛んだら玉ぁ潰すぞ」  脅して保険を掛けると、まるでテンガを使って自慰するかのように遠慮無しに腰を動かした。 「――んんっ! ぐっご……っ、ンンッ!!」 「あ、ヤバ、結構気持ちいいかも……っ」  熱い口内の、唾液の滑る何とも言えない感触に、茶髪は息を詰める。何度も喉を突かれて美千代が咽かえったが、その刺激さえも気持ちが良い。 「うっわ、マジかよ」  美千代を抑えるそばかすは引き気味だが、上がった口元が面白がっている。カメラを回すメガネがうーんと唸った。 「なあなあ、俺らが気持良くってもさ、やっぱつまんねえよ。こいつのイき顔撮れねえと」 「えぇー、でも触んのとかキモくね?」  メガネの提案にそばかすが大げさに顔を歪ませる。その一言一言で、美千代が傷つけば良いと思っているのが見え見えだ。 「足でやりゃ良いじゃん。こいつの上靴履いて」 「う、わ、ぐ、つ! やべー、あははっ!」  そばかすが手を離し、美千代の拘束は茶髪のもののみとなったが、茶髪のものを咥えさせられたままでは、ショックと酸欠で力が入らず、逃げ出すことはできなかった。そばかすは早速美千代の上靴を拝借するとそれを履き、美千代の両足を持ち上げて広げ、あられもない姿を晒させる。 「おい、こっち来てカメラ回せよ。絶景だぜ」 ――ふざけるな!  そう思っても、言葉にすることは愚か、呼吸さえもままならない。  臭い。  気持ち悪い。  吐き気がする。 「――ふぅんン……っ!」  股間に、冷たく硬い、やや弾力のあるゴムの感触が押し付けられた。 「んっ、んっ、んっ、ぅんんンっ!」  踏むたびに出る声に面白くなったのか、そばかすは、つま先でつついたり、つま先から踵にかけてで揉むようにしたり、ぐにぐにと踏みしめたりと、バリエーションを加えて美千代を蹂躙した。  その衝撃で漏れる声は、茶髪の快感に直結する。 「んあ、良いっ。良い……っ、吸って、」  茶髪は要望に応えない美千代の顔を殴って従わせる。  すぐに思い切り吸われて、体液を搾り取られるような感覚が茶髪を襲った。快感で美千代の頭を掴む手に力が入る。背筋をゾクゾクと這い上がる快感に腰をしならせた。 「――んんンっ!……そうだよ、もっと……っ」  絶頂が近い。茶髪は腰の動きを速くした。 「カメラこっち――イく……っ!」  宣言すると同時に美千代の口の中に、青臭く苦い液体が放たれる。茶髪は途中で引き抜くと、残りの液体を美千代の顔面に放った。 「わーお。ネッバネバのどっろどろ」 「この日のために三日抜いてねぇの、俺」 「うわっ、お前最高」 「あ」  言葉でもって美千代を貶める二人を、もう一人の短い声が中断させた。 「こいつ、さっきのでイっちまったぜ」 ――最悪だ。 「え!? 撮ってないのに!」 ――最悪だ。 「俺の顔射で!? マジキチじゃん」 ――最悪だ!  こんな奴らにこんなにされて、こんなことで感じてイかされるなんて……。 「しょうがねえな。もう一回やるか」 「何? 今度はお前が足扱きすんの?」 「同じじゃつまんねえだろ」  そう言ってメガネは耳かきを取り出した。 「こいつうつ伏せにして」 「なあ、こいつに俺のしゃぶらせて良い?」 「何、お前もやりたかったんじゃん」 「うっせえな。お前気持ち良さそうだったんだもん」 「もんとか、うける」 「――いやだっ!」 「うっせぇ、お前に拒否権は無ぇんだよ」  そばかすが力なく抵抗する美千代を恫喝して、黙らせる。  咥えさせらた物は、茶髪の物より太くてでかい。  苦しくて、  悔しくて、  美千代は涙をこらえた。 「――んン……っ!」  下半身への刺激に美千代の体がビクビクと痙攣する。ビクンと腰が上がって、がくがくと震える内腿を、先走りの液体が滑っていった。 「すっげえ反応、お前何したんだよ」 「これでね、前立腺とかいうのをちょっと」  メガネは耳かきで美千代を犯していた。 「いっちゃん良い所。玉の裏にあるって聞いたから、試してみたくて」  なんだよこれ……っ、――嫌だ、変に、なる……っ 「うン……っ! ぅんんン……っ、――っっ!!」  中のしこりをこりこりと引っ掻かれて、美千代は簡単にイってしまった。 「ああ、俺まだイってねえのに!」  そばかすが悲壮な声を上げる。 「良いよ、続けて。こっち次の用意するから」  そばかすは美千代の頭を両手で固定すると、腰を突き上げるように激しく動かした。 「――ん、ああ……っ」  再び美千代の口の中にドピュッと濃い液体が放たれる。今度は口を塞がれ、無理やりに飲み込まされた。粘っこい液が喉に絡みついてどこまでも生臭い。 「出た」 「はや!」  言いつつ、メガネは鞄からマーカーを取り出す。 「何すんの?」 「はあ? この形状だよ、見れば解るでしょ、こうすんの」  そう言うと、同時にマーカーを蕾に突き刺した。慣らしてもいない穴が無理やりにこじ開けられ、ぎちぎちと悲鳴を上げる。 「うああああああっ!!」  美千代は痛みに我を忘れて絞り出すような叫び声をあげた。 ******  春の空は柔らかく、青い。  夏の空はまぶしくて濃い。  秋の空は高く澄んで、冬の空は氷を含んでキンと張りつめる。 ――寒い。  信号の少ない裏道は、駅までの近道である。大通りから道一本入った住宅街は、一軒一軒に持ち主のセンスが見えるが、その色もいつもより色褪せて見えた。  朝は青かった筈の空に雲がかかり、世界の半分が色を失っている。  吐いた息が外気に冷やされて水の粒子になった。 「まだ十一月なのに……」  真っ白い息で呟くと、額に水滴が当たる。  サー……  さらさらと小さな水滴が舞い落ちる。アスファルトに跳ね返った水滴が霧になって散った。  空が白い。  吐き出した息が白い。  空気が白い。 「――傘」 ******  陽は、傘を取りに学校に戻ると、すぐに違和感を覚えた。 (暗い?)  天井の近くで靄が飛散して黒い霧が散っている。  陽は霧のより濃い方へと走った。  嫌な予感がする。  気持ちばかり急かされて、足がもつれる。 『うああああああっ!!』 「白鳥!」  第三資料室の扉を開けると密閉された靄が溢れて視界を覆った。黒すぎて視界が利かない。何とか目を凝らして見えたのは、裸の美千代と、マーカーと、血と、涙と……  血の気を失った青い顔。  殴られて腫れた赤い頬。  精液に塗れた白い髪。  恥部に突き立てられた緑のマーカーとそこから滴り落ちる赤。  黒い筈の視界が真っ赤に染まる。 「な、藤本、どうしてここに――っ!?」  驚き固まるメガネの腕を掴んで投げた。壁に叩きつけられて気を失った彼は掴まれた腕がありえない方向に曲がっている。  逃げようとする茶髪の顔面を蹴飛ばしてメガネ上に重ねる。  そばかすを睨みつけると無様にも失禁した。その腹を蹴りつける。股間を踏みつけると泡を吹いて気絶した。  陽のは目の前の彼らのことなんて見ていなかった。逃げる彼らが泣き叫ぶ声も聞こえない。  見ているのは、感じているのは、今朝までの彼の姿。  笑った顔、すねた顔、怒った顔、恥ずかしがる顔。  大好きな、大切な、彼の表情……  彼の凛とした声が好きだった。声と同じに伸びた背筋が好きだった。どんと構える柱のような彼が、大好きだった。  彼は、こんな風にぼろぼろにされて良い存在じゃない。好き勝手に嬲られて、壊されて良いわけが無い。こんな、絶望したみたいな、諦めたような表情をするわけがない。  いつだって芯が通っていたんだ。声にも背筋にも言動にも、彼の自信と人柄が出ていた。彼のすべては精錬で綺麗なのに。 「んぁぁああアア……っ!」  耳をつんざく声にハッとする。息を乱した美千代が足にしがみついていた。  もやの晴れた視界に見えるのは、ぼろぼろの美千代と、気を失った三人の男と、血に染まった右手。 「……やめろ……。藤本、もう、……やめろ……」  泣きながら自分を止める美千代を抱き締める。  騒ぎに気付いてやってきた教師が、部屋の惨状に悲鳴を上げた。





 

青の目

 三人は救急車で運ばれ、美千代は陽が家に引き取った。  陽の両親は海外赴任で家を空けているし、弟二人は塾の合宿のためにいない。美千代の家には今日保護者がおらず、何より彼はこのまま家には帰りたくないと言った。人に見られたくない姿なのは分かる。担任に送ってもらった車の中で、陽は震える美千代を抱きしめて、何度も大丈夫だと囁いた。  二人を送った担任はこれほど大きな家を想像していなかったのだろう。驚きの声を上げてから、部屋まで送ろうと申し出てくれたが断った。早く二人になりたかった。  陽の家に着くと、お手伝いさんが風呂の用意をしてくれてあって、すぐにでも入れる状態だった。陽が二人分の着替えとタオルを用意しに行ったので、美千代は先に風呂場に向かう。  陽に借りたジャージのジッパーをさげる。下に着たままのシャツのボタンは全部飛んでしまったから、隙間から肌色が覗いていた。その裾を持ったまま手が動かせない。  固まっていると、背中から暖かな体温に包まれた。 「白鳥」 「あ、ごめん。脱ぐよ……脱ぐ……」  答えるが、指が震えてうまく動かなかった。 「大丈夫、俺がやるから」  体を反転させられ、正面から抱き締められる。そのまま、器用に服を脱がされた。  恐い。体が硬直する。 「大丈夫、白鳥。俺だから」  ベルトに手を掛けられて、縋るように陽の体に腕を回した。よけい脱がしにくいだろうに、彼はそのまま受け止めてくれる。 「先お湯入ってて、脱いだら行くから」 「あ、でも洗ってからでないと……」 「大丈夫どうせ俺しかいないから」  カラカラと引き戸を開けて、浴室に踏み入れる。檜の香りが心に沁みる。湯船につかると、自然とほうっと息が漏れた。 「少しは落ち着いた?」  隣に入った湯が波を立てて、肩まで浸かった美千代の襟足を濡らした。 「酷いな」  陽の手が美千代の腫れた頬を包み込み、髪を梳く。 (ああ、そこはあいつ等の……) 「……あんまり触らない方が良い。汚い……」 「白鳥」  陽の表情が曇った。彼を取り巻く空気が緊張する。怒らせたのかと思い、美千代が肩を震わせると、陽はザブンと音を立てて湯船から出て行ってしまった。 「藤本」 「じゃあさ、きれいにしよう」  二人分の椅子を用意して彼が待っている。 「ほら、早く」  手を引かれて彼の前の椅子に座らせられた。 「え、……え?」  手で軽く泡立てたシャンプーで頭を洗われる。細い指で揉むように髪をほぐさせると、気持ちが良い。 「ひゃんっ」  不意に耳の裏を撫でられてビクンと肩が跳ねた。 「まったく、風呂場で何が汚いって言うの」 「いや、そうじゃなくて……」 「はい、水掛けるよ」  ザパー  言ったとほぼ同時に桶のお湯を掛けられる。 「次、体ね」 「いや、さすがにそれは自分で……」 「やだ」  陽はスポンジで十分に泡立てたボディーソープを手に取り、直に美千代の肌に触れた。 「や、ちょ……っ」  足の指の間に指を差し込まれる。指の腹を撫でられて、思わず足を引いてしまった。 「気持ち良い?」 「――っ」  かぁっと美千代の顔が赤く染まる。 「ごめんごめん。もう苛めないから」  陽は指先を責めるのを止めて、足裏から足の甲、足首、ふくらはぎへと手を滑らせる。 「……ぅ、ぁっ」  そこは足を開かされた時にそばかすに掴まれたところだ。あの時は嫌悪感しかなかったのに、彼に触られるのはとても気持ち良い。彼だからこんな風に感じるのだと思うと、殺そうとしていた想いが大きいことを実感して、悲しくなった。  膝頭を擽られて、体が跳ねる。衝撃で、椅子から滑り落ちた。 「安定しないね」  陽は美千代の後ろに回ると、美千代の背を自分に寄りかからせ、股から陰部にかけてを弧を描くようにゆるゆると撫で上げる。 「ぬるぬるしてる」  上を向くそこを掌で柔らかく包み、細い指先で根の部分をなぞる。 「それは、石鹸が……」 「石鹸だけかな?」  足への愛撫で美千代のそこは、すでにとろとろと蜜を漏らしていた。それを見せつけるように、陽の指が先端をくにっと擦る。 「……っんぁ」  竿を抜かれながら先端を擦られて、くちゅくちゅと漏れる水音が、浴室に響く。 「……や、だめ……っ、」  足を閉じて抵抗すると、彼の膝が股の間に入ってきて無理やり開かされた。 「ここ、踏まれたでしょ。綺麗にしなきゃ」  耳にダイレクトに吐息を吹き込まれて、剥き切れていない皮を剥かれて擦られる。 「あ、ひ……っ、は、ぁあ……っ!」 「前も」  片手が腹を撫でて、胸を撫でて、指が突起に引っかかる。 「――っひぅ……っ」  乳首をこりこりと捏ねられて、美千代の背が大きく逸った。 「――んぁああっ」  受け止めるもののない精液が、弧を描いて散る。陽は胸を大きく上下させる美千代を抱きしめた。  この体勢はそばかすに抑えつけられた時と同じ。 「白鳥、綺麗」 「……嘘だ……っ」 「可愛い」 「……っ」  彼の言葉は、あいつらに投げつけられた言葉とは正反対のもので。  自分は彼のことが好きだから、同じことをされても嬉しいと感じてしまう。陽があいつらと違ってあんまり優しく触れてくるから、そこに愛が在るんじゃないかと勘違いしてしまう。 「何して欲しいか言って。あいつらの記憶全部、俺で上書きするから」 「……上書き……」  俺が、あいつらにされたことは――  吐き気がこみ上げる。 「――ぅぇえ……っ、げふ、……ごほ、」  排水溝に嘔吐すると、その中に短い縮れ毛が見えた。  きたない  きたない  きたない ――気持ち悪い  顎を持たれ、無理やり上を向かされる。唇に柔らかなものが触れた。 「!?」  目の前に陽の顔がある。思わず彼を突き飛ばした。 「やめ、汚い!」  口付をされたことよりも、彼を穢してしまったことに狼狽する。 「汚くない!」  陽は泣きそうに顔を歪めて、その顔を隠すように俯いた。 「――ごめん、好き……なんだ」  その声は耳を澄ましていなければ聞こえないほどにくぐもっていて。 「白鳥のことが、好きなんだ」  聞き間違えじゃないかと思うほどに美千代に都合の良いもので。 「うそ」 「ほんと」 「うそだ!――だって、お前、……俺が好きだって言った時、微妙な顔をしたじゃないか。だから俺は、俺は……っ!」 「あれは、だって。俺がお前を好きなのは本当だけど、お前のは……違うし……」 「はあ!? 俺のは嘘だって言うのかよ!」  陽はぶんぶんと首を振って否定する。 「違くて!……そうじゃなくて、お前のは、だって。俺の能力のせいで勘違いしてるだけで……」 「なんだよそれ」 「前にもあったんだ。間違われたことが……」  陽の言葉は尻つぼみに小さくなった。 「俺は違う」  美千代は陽の肩を掴んで顔を上げさせる。 「思い出したんだ。小さい頃、初めて猫になった時にお前に会ったことがあるのを」  傷ついた子犬のようなその目を真正面から見据える。 「あの時だって、お前を好きになったんだ。力のせいじゃない」  初めて会った時から、一挙一動に見惚れたのは、心のどこかであの時のことを覚えていたからだ。 「俺の気持ちは本物だ」 「白鳥……」  感極まった陽が美千代に抱きついた。そのままもう一度、と顔を近づけてくる。 「まった!」  美千代の制止に陽がしょぼんと見えない耳を下げる。そんな顔をさせたいんじゃない。別に彼を拒んだわけじゃない。 「違う。せめて口を濯がせろ」 ******  浴室での戯れで、火照った体を二人して敷いたばかりの布団に横たえる。 「なんで服着たんだろうね」 「お前もだろ」 「……」  陽が反転して、仰向けの美千代の上に上半身を乗せてきた。まじかで深い瞳に見つめられる。  陽に出会ってから、美千代の周囲の美人は一気に増えた。陽と幻十郎と光と照と照代。それ以前に明もまゆも美人であるし、財閥跡取りの自分の周りには昔から美人はたくさんいた。  それでもやはり目の前の彼が一番綺麗に見える。 「……白鳥、好きだ」 「……俺も、好き――っぅんンっ」  唇を合わせて、舐められて、食まれる。唇がふにふにと柔らかくて、舌が熱くて…… 「ぁ……は、あ……っ」 「……白鳥……」  角度を変えて舌が侵入してくる。熱くて、柔らくて、心まで蕩ける。  上あごを歯列に沿って尖らせた舌でなぞられて、むず痒さに目頭が熱くなる。 「ぁ、……っ、まっ、て……」  美千代は息継ぎの間になんとか言葉を繋げた。 「……俺に……っ、何して、欲しいかって……言った」 「何して欲しい!?」  陽がパッと口を離す。潔すぎて、逆に美千代の方が名残惜しくて舌を追ってしまった。  赤面して、快感に瞳を溶かした美千代の、濡れて色づいた唇から、真っ赤な舌がちろりと覗く。 (なんだよ、その顔……やばい、――たまんない) 「何でもするよ!?」  陽は急かすように促した。 「……お前の、」  美千代の震える指先が陽の中心を指さす。 「……しゃぶらせて…………」 「!?」 「…上書き、させて……」  陽はこくりと喉を鳴らすと、スウェット上下とトランクスを脱いで、足を開いた。 「良いよ、来て」  滑らかな素肌が美千代の目の前に晒される。自分を誘うその色に、導かれるように肌に触れた。湿り気を帯びた白い肌が、手のひらに吸い付いてくる。  中心で身構えるそれに、恐る恐る舌を這わせると、手を添えた内腿がひくついた。  彼のそこは、すべすべと滑らかで、舐めている側も気持ちが良い。根元からねっとりと絡め取るように舌を這わせると、切なげな声が上がった。 ――感じてくれている。 「んぁあ……っ、し、らとりぃ……、ふぁ……っぁ」 「ン、――っちゅ、……ぅん……」  舌先で、先っぽをくすぐって、溢れた蜜をちゅっちゅと啄む。カリの溝に前歯を引っかけて甘噛みすると、面白いようにひいひい鳴いた。 「あ、ぁあ……っ、そんな……だ、め、イっちゃ……」  最大限大きくなったそこを、喉を突くまで口内に含む。咳き込んだが放さない。男たちに無理やりやらされたことを、今度は自分の意志で行った。  じゅうっと音を立てて、思い切り吸う。  陽のつま先に力が入り、ピンと反り返る。 「――んぁあ……っ!」  陽は全身をビクビクと震わせて、欲望を美千代の口内に放った。 「っ、白鳥、ごめん!」  コクン 「――飲んだ」 「なっ!?」  絶句する陽の目を見て懇願する。 「あと、後ろだけだから、早く……上書き、して……」  陽は乱暴に美千代を布団に押し倒した。 「四つん這いになって」  恥ずかしそうにしながらも陽の要求にこたえる美千代が愛しくて、急かされる気持ちを抑える。 (優しくしたい。優しくしなくちゃ) 「ごめん、冷たいかも。あと、傷に沁みるかも」  陽は用意したボトルの口を美千代の蕾にあてがう。こぽこぽと音を立てて液体が美千代の中に注ぎかまれた。 「ひやっ……、何、これ」 「ローション。中、濡らすから」 「お前、なんでこんなのあるんだよ……」 「弟のを拝借した」  コンドームの袋を開けて、指に装着する。そうしている間にも、美千代の体に変化が起きていた。 「……ゃ、だ……なんか、むずむず……する……」  蕾がもの欲しげにひくついている。 「え、何か入ってたのかな?」 「お前弟、何……っ」 「弟の名誉のために言うけど、何か入っていたとしたら影木の従弟の所為だから」  入口の皺を撫でるとひくひくと穴が収縮した。指一本が簡単に入る。抜き差しを繰り返し内壁を擦ると、粘膜が指に吸い付いてきた。 「やだ、掻いて……っ、掻いて……っ」  美千代は無意識に腰を揺らして懇願する。こんなんじゃ足りない。 「……もっと、もっと奥……っ」  すでに指は増やされて、三本も入っているのに、質量に満足できない。三本の指がバラバラに動いて、中を犯すのに、欲しい所に届かない。  腕の力が抜けて、腰だけを突き出すように上げた状態で、もっともっとと腰を動かす。陽は美千代痴態に眩暈を覚えた。  指を抜いて美千代を上向けに寝かせ、ひざ裏に腕を通して足を大きく開かせる。先ほどまで指を出し入れしていたそこに、自身の滾りをあてがった。 「力抜いて」 「ふぅう……っ」 「……っ、入った」  実際には全部入った訳ではないのだが、初めてで全部はきついだろうという配慮で途中で止める。優しくしたい、そう思うのに美千代の中がきゅうっとしまって、最奥まで引きずり込まれた。 「――っ」 「――んぁあっ!」  美千代が甘い声を上げる。陽を銜え込んだそこが、きゅんきゅんと収縮して、締め付けられる快感におかしくなりそうだ。  美千代が浅く早い呼吸を繰り返す。 「苦しい、けど、嬉しい……」  ふにゃっと笑った顔に理性の糸がぷつんと切れた。 「――ぁあ……っ、あ、んぁあ……っ」  彼の体を気遣う余裕もなくなって、ガンガンと挿入を繰り返した。 「ひやぁっ!」 「……っ、ここ?」  反応した一点に、先端をぐりぐりと押し付ける。 「……やだっ! そこやだ……っ」 「ここだね」  しつこく攻めると、泣きの入った彼の緩んだ口から唾液が零れる。 「やだ、変になる……っ、変になっちゃう……っ」 「好き、美千代……っ」 「……っ、陽……」  名前を呼び合って、唇を重ねる。  体はもとより、心が気持ち良い。美千代の熱が弾けると同時に、陽の熱を流し込んだ。 ******  目が覚めると、隣の布団が空だった。部屋の外から声が聞こえる。  襖を開けると、廊下のガラス戸から広い庭が一望できる。地面や植木に浅く雪が積もって、太陽の光を反射して銀色に輝いていた。  昨日の雨が、雪になったのか……  戸を開けて、外の空気を吸い込む。風が吹くと、葉に積もった雪がはらはらと落ちた。青い空を背景に舞い落ちる雪は、綺麗で、本当に綺麗で……  熱い雫が頬を滑り落ちた。 「美千代、大丈夫? 辛い?」  受話器を置いた陽が血相を変えて戻ってくる。 「陽……、おれ、嬉しくて……」  陽は美千代をぎゅうっと横から抱き締める。 「電話、なんだって?」 「あの三人、退学したって」 「うん」 「落ち着いたら学校来てって」 「うん」 「美千代」 「うん」 「好きだよ」 「……俺も好き」  見つめ合って、触れるだけのキスをした。  昼過ぎに陽の制服を借りて外に出ると、雪が解けて坂道の隅に小さなせせらぎをつくっていた。  半分溶けた雪に足を取られて、陽に支えられる。そのまま自然に手を繋いだ。 「……良かった」 「何が?」 「美千代が美千代のままで」  繋いだ手の指を絡めて、陽の肩に頭を預けると、緊張した彼の肩が少し硬くなった。 「上書きが成功したんじゃないか?」 「俺色に染まった?」  ああ、その表情を見るのは初めてだな。ドヤ顔って言うんだろ、それ。でもそんな顔もやっぱり格好良くて。 ――なるほど、お前色に染まってる。  坂を上がればすぐに学校。昼休みに入った校庭では、外部活の生徒たちが活動していた。 「んぁぁああアア……っっ!」  陽と目のあった生徒が悲鳴を上げて崩れ落ちる。  え、なに、と困惑しているうちに、同じように次々と生徒が崩れていった。  美千代が陽を振り返って、猫目を見開く。 「よ、陽……、お前、今、目が青に……っ!」  二人は顔を見あわせ、叫んだ。 「「明様―――――っ!!」」





 

金の目

 双子の弟の性事情は陽に筒抜けだ。理由は、彼が受けた屈辱とストレスをそのまま陽にぶつけてくるから。  弟の言葉はその時弟が掛けられた言葉。弟の愛撫はその時弟が受けた愛撫。甘い、甘い、俺とは関係ないところの行為。必死で抵抗する俺は、その時の弟。  やめろ。  恥ずかしい。  死にたい。  屈辱を受けても、弟を憎めない。心の底から拒めない。  双子は良いところまで同じなのか、感じて、喘いで、訳が分からなくなって、縋って、鳴いて、泣いて、啼いて……  この時の俺はその時の弟。 ******  陽の青眼はこの世の者ならぬものを見て、浄化する。  一週間前、陽の青眼の副作用で一般人がバッタバッタと腰砕けになった。その能力をどうにかしようと、陽はそのまま修業に出た。  そして今、美千代の前には黒眼の彼が座っている。  学校前のドトォルで待ち合わせた私服姿の彼は、出会い頭に美千代に飛びついてきたが、何の衝撃も感じなかった。 「もう、修行の成果が出たのか!?」 「いや、どうにもならなくて。明に特殊なカラーコンタクトレンズを作ってもらった」  驚く美千代に、陽は残念そうに眉を下げる。美千代は陽の修行の成果より明の技術の方に驚いた。 「わーお……」 「でも、このコンタクトをしていると美千代の靄まで見えないし、祓えないんだよね……。当面の応急措置かな」  陽は困ったように肩を竦めた。  ブ―――  藤本家のチャイムは劇場の開幕音に似ている。 「あ、ミィ君! いらっしゃい」  玄関からではなく背後から声がした。声の主は今帰ってきたらしい藤本家の末っ子、光。彼は人懐っこい笑顔で美千代を招き入れてくれた。 「陽に用事?」 「ああ、さっきコンタクトのケースを忘れていったみたいで」 「あー、ね。多分部屋にいると思うよ」 「ああ、じゃあお邪魔します」  勝手知ったる他人の家。美千代は迷いなく陽の部屋まで向かうが、そこに人気は無い。代わりにその隣の部屋から、声が聞こえてきた。 「――あぁ……っ、照っ! やめろ……っ!」 「はぁ、はぁ、……陽君、可愛い……」  声を掛けようとした美千代の声帯が縮んで、ひゅうと乾いた音が出た。  この戸を開けてはいけない。見たくないものを見てしまう。  心の奥でもう一人の自分が叫ぶのに、戸にかけた手は止まらなかった。  薄らと開いた戸から中の空気が漏れ出してくる。むんむんと熱く湿った、咽かえるような空気。緩んだ指先からコンタクトのケースが滑り落ちた。  久しぶりに美千代に会った陽が上機嫌で帰宅すると、玄関で双子の弟、照が待ち構えていた。口元はにっこりと笑っているのに眼鏡の奥の目が笑っていない。陽はまたか、と心の中で呟いた。  照に抱かれる。そこに愛は無い。衝動のままに抱かれて嫌気がさす。  もう冬なのに室内の空気は二人の熱で咽かえるように暑く湿った。  カタンと軽いものが床に落ちる音がした。障子の向こうに見知った人影がある。微かに開いた隙間から、色素の薄い癖毛が見えた。 「――白鳥さん!」  叫んだ照に、逃げ出す美千代。陽はただ茫然とそれを眺めていた。  美千代は、隣の空席を見て表情を曇らせる。  陽は学校に現れなかった。正直、今は顔を合わせたくなかったから丁度いい。昨日のあれは何だったのかと問い詰めたい気持ちはある。しかしそれ以上に、彼に別れを告げられることが怖かった。  現れない彼にほっとするのもつかの間、放課後、校門前で照が待ち伏せていた。  昨日は陽と向かい合った席で、彼と同じ顔の照と向かい合う。  美千代は彼の顔をまともに見ることができなかった。それは向こうも同じなのか、二人してアイスコーヒーをストローでかきまわしてカラカラと音をたてる。 「――すみませんでした」  突然、照が頭を下げた。 「あれは、僕が無理やりしたことです。嫌がる陽君を無理やり押さえつけて」  照の言葉に一気に頭に血が上る。美千代は音をたてて席を立った。 「あれが初めてじゃないんです。俺は何度も同じことをしている。陽君が気にしないふりをしてくれるから。何度も、何度も」  しゃべり続ける照の胸ぐらを掴んで無理やりに立たせる。 「……殴って良いです。そんなことで許されるとは思っていません。だから、気が済むまで殴って、……陽君に会いに行ってください……」  照の顔が泣きそうに歪んだ。  美千代は、陽と同じその顔を殴ることなどできずに、彼を突き飛ばして走り去った。 「――照」  掛けられた声に、照は脱力して座り込む。 「……影木」  もはや彼が何故ここに居るのかなどと聞きはしない。彼のストーカーじみた行為にはもう慣れた。 「お前も、殴って良いんだぞ」  見上げて言えば、屈んだ彼に視界を覆われ、唇に触れた柔らかくて暖かい何かが触れた。 「――っ! 何を!?」 「殴られるより嫌でしょ?」  照に突き放された彼は、悲しそうに微笑んだ。優しすぎる彼に泣きそうになる。 「お前は俺に甘すぎるよ」 「本当に甘かったら、とっくに別れてる」  しゃがみこんだ照を引き起こそうというのだろう、彼が差し出した手を照は初めて自分から握った。 ******  チャイムを鳴らしても誰も出て来ないので勝手に上り込む。実に不用心だ。藤本家ほどに大きな家だと空き巣にも敷居が高いのか、はたまた、そこかしこに防犯カメラでもあって、万が一の時犯人探しには事欠かないという事か。  美千代は陽の部屋まで来ると声も掛けずに障子を開け放つ。彼は布団の上に座り、本を読んでいた。 「――陽」 「美千代!?」  突然現れた美千代に驚く陽。そんな彼にお構いなし美千代は室内にずかずかと上り込むと、おもむろにその顎を掴み、唇を合わせた。  美千代の中に衝撃がなだれ込む。いつもの祓いの副作用だが、怒りでその衝動をやり過ごす。 「――っ!?」  驚き、半開きなった彼の口から舌を滑り込ませ、激しく、早急に犯した。くちゅくちゅと態とらしい水音をさせて貪る。 「――ン、……ふぅンっ」  歯列を割って、歯茎をなぞって、上あごを嬲って、舌を吸う。腰砕けになった彼をそのまま押し倒した。 「……っ何?」 「――抱くぞ」 「はあ!?……ちょ、ま、」  驚く彼の服を乱暴に引きはがす。現れた二つの小さな突起に指をかけ、萎えた中心に舌を這わせる。 「あ、あ、あ、……美千代っ! 待って……っ!」  美千代は彼の感じる場所を知らない。以前は成されるがまま流されてしまったから。  今、俺がどう動いたら彼のここはどうなるのか。彼の顔は、声は、気持ちは……?  胸の突起をくりくりと捏ねれば、いや、いや、っと壊れたように繰り返す。彼の甘い声に眩暈がした。今まで他の奴に聞かせていた声だと思うと悔しくて仕方ない。  髪を引っ張り、引きはがそうとする彼の手に逆らって、ずぷずぷ、ぐちゅぐちゅ、股間で勃起したそこを嘗め回す。上手くはない、方法なんて知らない。それでも以前よりはましになった筈だ。  彼の反応を見ながら、必死に舐めて吸って食んでいると、彼の手の動きが変わった。頭を掴まれ、股間に押し付けられる。いきり立つそれが喉を突いて咽た。  美千代の口内が小刻みに揺れ、白い歯が彼の薄皮を擦る。 「ひ、ぃ……っ、だ、めぇ、――っ!」  喉の奥で熱がはじけた。どろっとして、生臭くて、苦い。 「……ご、ごめん!」  謝る彼の青眼を見つめて、不味いそれを無理やり飲み下した。 「また飲んだの!?」 「飲んだ」  美千代を見つめる彼の顔が泣きそうに歪む。口の中は苦いのに、頭で感じる味はひどく甘い。  美千代は飲みきれなかった精液を、彼の股間から掬って、蕾に塗り込めた。 「て、ちょ、うそ!?」  信じられないと、目を見開く彼は、俺に抱かれることなど想像もしていなかったのだろう。そんな表情までもが嗜虐心を煽る。  尻を割って指を入れれば、さすがにやすやすと入るわけはないが、自分のそこに比べれば緩い気がして。慣れていると思えば、嫉妬で、彼の様子などお構いなしに中を掻き回してしまう。 「――ひぃああ……っ! いやだ、待って、激しい……っ!!」  彼が自分に触れる時の指の動きを思い出す。ペニスの裏、そこにあるしこりを刺激すればきっともっと鳴く。すぐに探しあてたそれを激しく擦れば、もはや喘ぎとも言えない叫び声をあげて、びくびくと残った精液を絞り出した。  陽が感じるほどに、美千代の心は荒んでいく。  こんな彼は知らない。こんな声を、表情を、こんな痴態を俺は――知らない。  指を引き抜き、その指を追うように捲れる内膜に眉を顰める。感情のままに緩い穴に雄の象徴を突き立てた。最早気遣う余裕など持ち合わせている筈もなく、彼の体が慣れるのも待たずに、ズコズコと出し入れを繰り返す。亀頭が前立腺を擦るのが気持良い。そうすると、彼も一際高く鳴いた。  シーツを掴む陽の指先が、力を入れ過ぎて白く色を失っている。涙を湛えた瞳と濡れた唇と紅潮した頬が、美千代の、喉の渇きに似た感情を掻き回す。 「――あ、あ、あ、……美千代っ!」  名前を呼ばれて感情が溢れ出す。  俺を見ろ、俺だけを見ろ! 「――っ陽!」 「……美千代、美千代、……美千代っ!」 「……陽、陽、……陽っ!」 「「――好きだっ!!」」  全身を震わせ、二人同時に果てた。ぐったりと気を失ってしまった陽を抱きしめ、もう一度呟く。 ――好きだ。 ******  照が帰宅すると玄関先で美千代と出くわした。 「美千代さん」 「なに?」 「――陽君をお願いします」 「お前も、もう少し素直になれよ。……心配してた」 「話、できたんですね」  自分は影木に対して素直になれずに溜まった衝動を、彼で発散していただけだ。愛なんて無かった。そんな行為を彼が受け入れているわけなんて無いのに、彼の優しさに甘えていた。  でも、 「そうか、陽君、全部分かってたんだ……」  照は腫れた右頬にそっと手を添えた。 「照、その顔どうしたんだよ!?」  どろどろに疲れ果てた陽が目覚めると、すぐ隣に頬を腫らした照が座っていた。 「誰も俺を責めないから、……おかしいんだよ。だから、自分でやったんだ」  そう言ってバツが悪いのか、照はちらっと陽を見てすぐに目を逸らした。しかしすぐに彼はもう一度陽に視線を合わせる。 「……陽君、コンタクトしてるの?」 「してないけど、なんで?」 「……金色」 「!?」  修行してもどうにもできなかった特殊能力が進化した。視る時は金、祓う時は青。陽は二つの目を使い分けられるようになった。しかし、金なんて目立つ色、隠さなければいけないことに変わりはないけど。  美千代との恋が成就して、  出てきた問題が解決して、  弟の関係を清算した。  もしかしたら、まだまだ壁はあるかもしれないけど、これからもなんとかなりそうな気がした。





 

噂話

 男子生徒の話。 「藤本様は、近寄りがたい美人だ」 「崇拝すべき存在だ」 「彼の瞳に囚われた人はその場で腰砕けになるらしい」 「そう、そのため彼の本当の瞳はコンタクトで隠されているのだとか」 「本当に人知を超えた美しさだ」 「そういえばこの前、廊下で藤本様にぶつかってしまって」 「なに!? あのか弱いお体に!? 彼は大丈夫だったのか!?」 「いや、それが。彼、意外とがっしりしていて、よろけた俺を支えて下さったんだ」 「あのしなやかな腕に支えられただと!?」 「ああ、あれは卒倒ものだった……」 「ああ、なんて羨ましい!」 「くそう、俺にも支えさせろ! 間接支えだ!」 「じゃあ俺も!」 「俺も!」  女性生徒の話。 「藤本君は、何ていうか綺麗すぎて、恋愛対象にはならないよね」 「うん。やっぱり、自分よりきれいな男の人の隣には並びたくないかも」 「それより私はやっぱり、白鳥君が気になるかな!」 「うん。彼、お金持ちな上に、庶民の心を分かってるっていうか!」 「お金持ちなことを鼻にかけてないし、何て言うかスマートなんだよね」 「そうそう。白鳥財閥の御曹司って、普通だったらすごすぎてドン引きだけど、彼なら全然OK!」 「背筋とかすっと伸びてて、凛としてて、その上女の子に優しいの!」 「あとあと、さっきそこであくびしてるの見ちゃった!」 「やだ、可愛い!」 「でね、隣に居た藤本君に心配されてた!」 「かーわーいーいーっ!」 「そう言えばね。私、この前中庭で昼寝してるところ目撃したよ」 「ええ、うそ! 良いなー」 「しかも、あの藤本君に膝枕されてたのーっ!」 「きゃーっ!」 「あーもう、可愛い! 見たかったーっ!」  男子の話その2。 「そういえば白鳥ってどう思う?」 「いつも藤本様の隣に居る奴な」 「ちょっと金持ちだからって、藤本様を独り占めするなんて許せん!」 「そうそう! それに、大してイケメンでもないくせに雰囲気だけで女子にモテてるのも気に入らない!」 「でも、俺。あいつ結構可愛いと思うよ」 「お前、正気か!?」 「え、うん」 「何がお前をそうさせた!?」 「駅の階段で定期落としたの拾ってもらった。白鳥の方が低い段に居たから、あのネコ目がきゅるんって上目使いになってて、なんかキタ」 「電車通学かよ!」 「ああ、そういえば」 「くそう、こんなところで好感度を上げようったってそうはいかないぞ!」 「……あいつ、どうしたの?」 「ああ、何でも体育の合同授業で偶然触った白鳥の猫っ毛の感触が忘れられないんだと」 「俺は認めないぞ――っ!!」  女子の話その2。 「藤本君、白鳥君ってきたら、影木君よね」 「もう、ビックリするくらい目が大きいの!」 「睫毛も長いし! ほんと羨ましい」 「でも、きっと女の子にはもてないよね」 「うん。男受けしそう」 「それを言ったら藤本君もだけどね」 「白鳥君が二人を侍らせてるって、どう思う?」 「やーだー! 最高!」 「その話詳しく!」 「え、私の妄想で良いの?」  男子の話その3。 「それより俺は、影木がパシリにされてるんじゃないかって心配だな」 「なんで?」 「だって、聞いた話によると、藤本様も結構なお金持ちらしいじゃないか」 「ああ、有名なカメラマンと外国人モデルの息子なんだっけ?」 「あれ? じゃあ藤本様ってハーフなのか? 見えないけど」 「でも、あの人の目を見て卒倒した奴が言ってたけど、その時は青い目だったらしいぞ」 「ほほう。人知を超えた美しさを、少しでも抑えるために隠してるってわけか」 「で、影木だけ庶民だから心配なわけか」 「でもさあ、顔面偏差値だけで言ったら仲間外れは白鳥だぞ」 「じゃあ、やっぱり白鳥が二人を侍らせてるってのが正解か?」 「許せんな。俺も侍らされたい」 「え?」  5組の話。 「藤本は神聖すぎて近寄りがたいな」 「影木は可愛い顔して腹黒い。怖い」 「それよりむしろ白鳥、マジ性的」 「藤本にちょっと触られただけで、すごい反応するもんな」 「俺、あの声を思い出すだけでヤバいんだけど……」 「きっと二人も、白鳥の色気にやられたんじゃないかな」 「でもさ、俺的にはあの三人が一緒にいるのって、不可抗力なんじゃないかとも思うんだよ」 「ほう」 「だってさ。俺だったら、藤本とツルもうだなんて思わねえもん。他からの嫉妬とか凄そうだし、絶対釣り合わねぇもん」 「そうだな、そう言われれば、俺もお断りだな」 「で、家柄とか、根性的に釣り合えたのが白鳥で、容姿とかで釣り合えたのが影木なんだろ? なんか上の学年にファンクラブできてるらしいし」 「ああ、そういえば俺、白鳥とか影木には平気で話しかけられるけど、藤本相手だと緊張するわ」 「だからさ、あれって別に一緒に居る奴をえり好みしてるとかじゃなくて、一緒に居て楽な奴と一緒に居るだけなんだよな」  3人の話。 「なんか、僕たちってすごく目立ってるよね」 「そうだな」 「そうかな?」  幻十郎の言葉に陽はキョトンと首をかしげた。 「藤本ってホント天然だよね」 「ええ? だって、俺の周りって今までもこんな感じだったし……」 「はあ、なるほど」  美千代は彼の顔を見て納得した。 「ん? でも中学まではどんな人と一緒に居たわけ?」 「弟とその友達。……同学年に友達があんまりできなくて……」  幻十郎の疑問に、陽は目を伏せる。 「ちょっとは努力しろよ」  美千代に言われてしゅんと項垂れた。 「したけど、皆敬語で話しかけてくるし、進んでパシリみたいなことしてくるしで。ちゃんと付き合ってくれたのは弟と保育園から一緒だった三人だけだったんだもん」 「……よかったな、五組の奴らは理解があって……」 「おう! 本当に。しかも来年はそいつら皆この学校を受験するんだって。受かると良いなー」 「へえ……」 「それは……、面白そうだね」  陽の弟たちと、彼ら兄弟とまともに付きあえる幼馴染が入学してくること思い浮かべて、美千代と幻十郎は何とも言えない気持ちで答えた。





 

腐男子ファイリング

 本校舎から少し離れた場所にある緑館は、今はめったに使われることは無い。この建物の二階奥は、白鳥美千代、藤本陽、影木幻十郎の秘密の場所になっている。美千代が厳選した家具や、電子レンジや電気ケトルなど、各各が必要だと思うものを持ち寄ったことで、居心地の良い空間になっていた。 「ごほ、ごほ」 「陽、大丈夫か?」  ソファーに座る陽に、美千代がホットミルクを差し出した。  柔道で鍛えた陽の体は、実はしなやかに鍛えられており、男どもを千切っては投げ、千切っては投げできる腕っ節の持ち主なのだが、人知を超えた美貌のせいでとてもそうは見えない。美人薄命の言葉が似合いすぎるのだ。  痰を含んだ咳をする陽を、美千代は心配そうに見た。 「大丈夫、薬飲むから」  そう言って陽が席を立つ。 「あ、水なら俺が」 「大丈夫だから。――ごほっ」  薬を飲んだ陽が咽た。美千代は思わず駆け寄り、その背をさする。 「触るな」 「へ?」  いつもの優しい口調で拒絶の言葉を発せられて、美千代は間抜けな声を出した。言った陽も驚いている。 「……陽?」  心配して近づくと、 「煩い! 近づくな。鬱陶しいんだよ」  って、酷くないか!?  いや、もしかしてこいつはいつも俺のことをそんな風に思っていたんじゃないのか?  今まで気を使って言えなかった本心が、風邪を引いたことによってダダ漏れになっているんじゃないか?  美千代の瞳が不安に揺れた。  陽がはっと息を呑む。  ――やっぱり、そうなのか。  美千代が勝手に納得する一方、陽は激しく狼狽えていた。薬を飲んだ瞬間から、言いたいことと正反対のことを口にしてしまうのだ。 「――っごめん。俺……っ」  泣きそうに歪んだ顔で逃げようとする美千代の腕をとっさに掴む。 「早く、消えろ! (待って!)」  行動と言葉が一致しない陽に困惑する彼を抱きしめた。 「陽……?」  身動きできない位に雁字搦めに抱き締められた美千代は、そのまま無言になってしまった陽を窺う。 「……」  陽は唇を噛みしめた。口を開けば思ってもいないことを口にしてしまう。 (抱いた腕から気持ちが伝われば良いのに……)  無言で抱いているうちに、強張っていた美千代の体から力が抜けていった。美千代の腕が陽の腰に回される。陽は、ほっとして彼の首筋で息をついた。  その時、陽のポケットでケータイが震えた。表示された名前は「愛場明」。 「もしもし、なんでお前なんだ。(もしもし、またお前か)」 『あら、もしかしてもう飲んじゃった?』 「薬か」 『相変わらず話が早くて助かるわ。この前お邪魔した時に忘れて行ってしまったみたいなの。そうだ、隣の子にも一緒に聞いてもらって』  陽のことを話が早くて助かると言うが、こちらの状況を的確に把握しての指示に、そっちこそ千里眼か何かなのではと疑う。しかし、明のことだからとそこはスルーして、美千代にも聞こえるように受話器を持ち直した。 『あなたが飲んだ薬は思ったことと反対のことを口にしてしまう薬よ。効果はそのうち切れるわ。それじゃ』 ――プツッ  ……切られた。でもまあ、原因も分かったし、美千代の誤解も解けたし。  陽がほっとしてソファーに座り直せば、美千代もその隣に座った。 「人騒がせな」  ため息交じりにぼやく美千代に、陽は無言で頷く。 「……反対のことをしゃべるんだって分かってるんだから、もうしゃべって良いんだぞ」 「……診。(……美千代)」  好きの反対は嫌いか苦手か。他の男の名前で呼ばれた美千代は、やっぱり喋るなと彼の口を摘まんだ。 ******  ところで、美千代は守護霊が猫のせいか、猫っぽい所が多々ある。ネギ系統が苦手だったり、ネコ目だったり、猫っ毛だったり、etc.etc……  そして猫舌だ。 「あちっ」  美千代は自分用に淹れたコーヒーで舌を火傷した。  すぐに陽が席を立って、氷を持ってきた。くれるのかな、と思えば彼自身がそれを口に含む。綺麗すぎる顔が近づいてきた。まさかと思ったらそのまさかだった。  陽は美千代に口移しで氷を渡した。  氷が冷たくて、絡まってくる舌が熱くて、二つの温度に翻弄される。溶けた氷が唇から漏れ出して、美千代の口元を濡らした。  呼ばれて飛び出た影木幻十郎です。皆の大好き腐男子です。毎日昼休みは緑館二階奥の秘密基地に来ていますが、今日は途中で野球部のバッテリーが痴話喧嘩をしているのを観察していたので遅れました。誰に向かって話しているかって? 知りません。表ではローテンションですが、心の中ではいつでもハイテンションです。  で、今しがた緑館に来たばかりの僕はいきなりの眼福に預かりました。ディープキスだね!  幻十郎は素早くビデオカメラを取り出した。とりあえずは全体を高倍率で撮って後で編集するつもりだ。  唇の接合部分がくちゅくちゅと蠢く。  ここは唇のアップだな。  瞳に涙を溜めた美千代が「ふぅん…っ」と鼻に抜けた声を出した。  少し引いて顔のアップか。  陽の背中に回した美千代の手が彼のシャツにを掴む。ビクンと美千代の体が震えて背をしならせた。  どこもかしこもエロすぎて、編集のしようが無いじゃないか。どうしてくれる。  美千代の膝が甘えるように陽の腿をなぞと、陽は慰めるようにその膝を撫でる。美千代の中心が興奮しているのが見てとれた。幻十郎は、彼の膝を撫でる陽の手を取ると、おもむろにその手を美千代の中心に触れさせた。 (あ、ヤバい。手が滑った)  幻十郎は自分の無意識の行動に内心であちゃー、と思う。 「……ぁっ」  すぐに美千代が甘い声を上げ、陽は勢いよく幻十郎を振り返った。  ああ、気の迷いで、この後も拝めたであろう眼福を棒に振るだなんて……。僕はなんてバカな奴なんだ、絶望した! 「良いぞ、もっとやれ! (ちょ、何してるの!?)」  しかし、こちらを振り向いた陽が口にしたのはそんな幻十郎に都合のいい言葉だった。 「はい」  何かおかしいとは思っても幻十郎がこのチャンスを見過ごすわけが無い。良い返事を返した彼は、陽の手を使って美千代の股間を揉みしだいた。 「な、や、っちょっと……っ、違うっ!」  美千代が何か言いかけたが無視する。陽の抵抗は風邪と薬のせいで弱く、幻十郎を止めることはできない。 「白鳥ってホント性的」 「やだ……っ、見るな……っ。撮るなぁ……っ」  ストレスを感じるほどに陽に感じてしまう罪な体は、カメラ越しに見つめれば、見つめるほどに高ぶっていく。 「もっと、触りたい……っ(影木、いい加減にしろよ!)」 「仰せのままに」  幻十郎は美千代のシャツを肌蹴させると、陽の顔を色付く突起に近づける。誘惑に負けた彼の舌が、そこをチロッと舐めた。 「……つぁあ……っ」  美千代の声でスイッチが入ってしまった陽は、積極的にそこを嬲りだす。  幻十郎はごくりと喉を鳴らした。舌がそこを転がすのを、唇がそこを音を立たて吸うのを、こんなに近くで見ることができるチャンスはきっと二度と来ないだろう。  耐えかねた美千代が陽の頭をかき抱く。 「陽……っ、やだ。……もうっ……」  陽の手が器用に動き、彼のベルトを外し、彼のそこを外気に触れさせる。美千代は生で触られるその感覚に溺れた。  美千代の唇が唾液で艶めく。汗で額に張り付いた髪の毛、潤んだ瞳、紅潮した頬、眉間の皺も実に艶めかしい。 「卑猥だね」  幻十郎は、わざわざ彼が嫌がりそうな言葉を選んで使った。そうすれば、ほら、彼の感度が増したようだ。  くちゅくちゅと音を立てるそこが一気に限界を迎える。 「……ひぃゃぁ、~~っ!」  吹き出した精液が陽の手を汚すその瞬間までを余さずカメラに収めた。  後記。  直後、素早くその場から立ち去った幻十郎は、すぐにカメラのデータをコピーすると、一つを彼らに渡した。 「さっき撮ったビデオだけど、さすがに僕が持ってるのはダメだよね。好きに処分して」  彼らが、この後このビデオをどうするのか。それも幻十郎のおかずになるのだった。  後記2。  その日のうちに、残った薬を取りに来た明が、データを取って帰って行った。本当は妹の千晶に飲ませるために作ったらしい。がんばれ妹。





 

猫の日

 2月2日、日曜日。藤本家で一番の早起きは三男の光。彼は朝一のランニングに出かけ、帰ってシャワーを浴びてから、低血圧の兄を起こしにかかる。  今日起こすのは、長男の陽だけ。彼は模試があるため休日出勤ならぬ休日登校なのだ。ちなみに、平日も照より先に陽を起こす。照は光と同じ中学のため、最悪起きなくても担いで行けるが、陽は一人だけ高校生のため、確実に起こして自力で登校してもらわなければいけないからだ。  トットット、と軽快に廊下を進み、兄の部屋の襖を勢いよく開ける。 「おっはよーっ!! よ、う……?」  光は自分の目を疑った。すうすうと気持ちよさげに寝息を立てる彼の頭から黒い猫耳が生えていたのだから。 ******  テストと言っても、一年生の模擬試験である。朝の教室にはピリピリした空気などほぼ皆無で、皆芸能の話や、ファッションの話など、勉強にはおよそ関係の無い雑談で盛り上がっていた。 「猫の日っていうのはさぁ、2月2日だと思う? 2月22日だと思う?」  ぱっつん前髪のキュートな腐男子幻十郎が、ケータイを弄りつつ、きりっとオーラのまぶしい御曹司、美千代に話を振った。 「それは、2をにゃーと読むということで良いんだな?」 「そうそう」 「にゃーにゃーか、にゃーにゃーにゃーなら、にゃーにゃーにゃーの方が猫がたくさん居るから猫の日らしいと思う」 「にーでも良いよ」 「あー……、にーにーにーか」 「そうそう」  録音完了。幻十郎は、成果に満足して、ケータイを閉じた。 「お前ら、席に着け―」  教師の声に促されて、席に戻る。  本当は陽にも同じ質問をして録音するつもりだったのだが、彼の姿はまだ見えない。低血圧の彼のことだ、きっと起きられなかったのだろう。出席日数には関係ないこの日は、もう学校には来ないかもしれないと諦めた。 ******  国数英だけの模擬試験は、15時20分に終了した。まだ日も高いこの時間、すぐに帰ってしまうのもなんだと思い、美千代は緑館に足を向けた。 「はぁ!?」  扉を開けて開口一番、彼がそう叫んでしまっても仕方ない。模試に参加していなかった筈の陽が、猫耳を着けてラグの上で寝息を立てていたのだから。 「えー……?」  美千代は疑問符を飛ばしながら、彼のそばに腰を下ろすと、その耳に触れみた。すると、持ち主の彼が、ピクンと肩を竦めて、「んっ」と甘い声を漏らした。ふわふわの毛で覆われた耳からは、確かな体温が伝わってくる。 ――まさか、本物!?  くにっとピンクに色づく内側に指を入れると、 「にゃっ!」  と鳴いて、星を散らした金の双眸がゆるりと開いた。 「……ふ、ぁ……みちよ……?」 「お、おはよう……?」  あくびをしながら陽が体を起こす。美千代は何も言わずにその後頭部をじっと見つめていた。 「「……」」  二人は無言で向かい合う。 「……?」  複雑な表情を浮かべる美千代に、陽はどうしたのだろうと、寝起きのふわふわした思考を巡らせて、彼の視線を追って気付く。 「……あ! 耳か!」  そう言えば、朝から猫耳が生えていたのだ、と呑気に思った。 「それ、何?」 「猫耳。尻尾もある。服の中で見えないけど」 「どうして」 「……猫の日だから?」 「……猫の日は今日だったか」 「にゃん、にゃん……?」  2月2日だからにゃんにゃんで猫の日だよね? と、小首をかしげて上目遣の視線で尋ねる。「にゃんにゃん」の鳴き声と共に、猫の手のポーズまでつけてくる麗しの美少年の攻撃をもろに食らい、美千代は胸を押さえて悶絶した。 「……不意打ちは反則だ……」  息絶え絶えに抗議すると、不意に美千代のケータイが振動した。 「もしもし!」  非日常に慣れているとはいえ、猫耳を生やして平気な顔をしている恋人と二人きりの空間は、色んな意味で耐えがたい。着信元はさっきまで教室で話していた幻十郎だ。電波の向こうは正常な空間な筈。日常と繋がっていたい。彼は、すがる思いで通話ボタンを押した。 『今朝言い忘れてたんだけど、僕はにゃんにゃんにゃんより、にゃんにゃんの方がなんとなく響きがエロいから今日が猫の日だと思うよ』  しかし、挨拶も無しに彼の口から出た言葉は、美千代の今の状況を見ているかのような薄ら寒いセリフで。 「な、なんで、」 『僕は邪魔しにいかないから二人でにゃんにゃんっ♪』 「ちょ!?――切れた……」  怖いくらいに空気を読んだ言葉と、言いたいことだけ言って通話を切る勝手さは、毎度お騒がせな彼女を彷彿とさせた。 「誰だった?」 「影木。今日は来ないって」 「ふーん」  普段は無い器官を動かすのが面白いのか、陽は意味もなくペタンペタンと耳を動かす。 「お前、どうしてここに居るんだ?」  気になって、耳を掴んでその動きを止めると、びくっと彼の体が跳ねた。 「だって、家に居たら、照の玩具にされるって……、光が……っ」  ゆるゆると指で擦ると、感じるのか、理由を話す彼の声が上擦って震える。 「あいつ、また……」 「ちがっ、たぶん単純に、面白いから……っん!」 「あー……。確かに、面白いな」  フッと息を吹き込むと、「ひぁっ」と声を上げて、美千代の胸にしがみついてきた。  その腕を一旦外して、背中まわさせる。ぎゅっと抱きつかせて、意識して低めの声で囁く。 「外と中どっちが好い?」  声と一緒に吐息をそこに吹き込むと、彼は震えながらも美千代の制服を掴んで縋ってきた。 「ん……っぁ、中……っ」  息を吹き込んでいた右耳の、ピンクに色付いた部分に舌を這わせ、もう片方の耳の中を指で掻き回す。 「ふにゃぁあ……っ」  陽は、一際可愛らしく蕩けた鳴き声を上げ、ズボンに収めた尻尾をもぞもぞ動かした。 「尻尾も見せて」 「……ぁ、しっぽ……?」  おぼつか無い手つきで、かちかちとベルトを外し、緩めたウエストから、黒くしなやかなそれを取り出す。美千代はその先から根元までをすうっと撫でた。 「ひにゃぁぁああ……っ!?」  ぐでっと脱力する彼は、美千代が根元を撫でるために、ズボンとパンツを下げたので、半ケツ状態だ。普通の人間なら、滑稽な姿に写ってしまうのだろうが、彼に限っては、ただただエロい。 「ふにゃ……、みちよぉ……っ」  綺麗な顔を歪ませて縋ってくる彼を、もう一度きちんと抱きつかせて、根元をヌくように手を動かした。 「んにゃぁぁぁあああ……っ」 「さっきからそれ、猫語か?」 「違う……、なんか耳とか、しっぽ触られると……っ、んにゃぁ……っ、て、なるぅ、……ぁ」 「可愛い」  先の方を揉みながら根元を擽ると、陽は涙目になって、猫のように体をしならせて喘いだ。 「にゃぁあっ」  開いた彼の口の中に、新たな猫要素を発見する。 「八重歯」 「ぁあ……っ?」  美千代は躊躇なく、彼の口を手でこじ開けた。 「あ、舌もざらざらしてる」  指の腹でそこを撫でると、あがあがと涎を垂らしながら、甘噛んできたので、ついでに口内の感じるところを撫でまわす。満足して指を抜くと、陽は口をもごもご動かして言った。 「みちよの、舐める。舐めたい……」 「良いけど、なんで?」 「指じゃ足りなかった。もっと擦りたい。むずむずする」  言いながらも、美千代のモノを取り出しにかかっている。 「ーっ」  早急に咥えられて、舌を這わされる。ざらっとした猫舌に撫でられて、彼の痴態にすでに張りつめていた熱がすぐにも弾けそうだった。 「……ほう?」  咥えたまま「どう?」と問うのは止めて欲しい。 「こっちに足を向けろ」  美千代が命じれば、恥ずかしがりつつも体勢を変えた彼の局部が目の前に来た。 「これ、恥ずかしい……」 「今更」  目の前に来た彼のそこに舌を這わせて、尻尾を擦る。 「んぁっ、あ……っ」 「陽、ちゃんとやって」 「む……、り……っ」  抗議してくる気持ちは分かるが、ここまで反応が良いと止まらなくなる。  美千代は、彼の自分への奉仕が疎かになることよりも、彼の反応を楽しむことを優先させた。 「やぁっ、ぁ、ぁあ……っつ、あ……っ」  局部の根元を揉みつつ、尻尾を足の間から前に回して、一緒にぬく。 「むり、いっしょには、だめぇ……っ!」  性感帯を同時に責められた陽はもちろんたまったものではないのだろうが、力の抜けた彼の頬が美千代の局部を擦ってそのまま喘ぐものだから、美千代の方もたまらない。 「ゃっ、んぁあ――っ!」  スパートをかけて彼のモノをヌくと、同時に彼の頭を腿で挟んでその刺激に二人でイった。  無体に感じさせられ、予告なく顔射された陽は一瞬呆けてしまったが、すぐに蕾を撫でられて声を上げた。 「ふぇっ!? ぁ……、ゃ、」  おもむろに後ろに指を入れられ慣らされる。 「あ、あ、んぁあ……っ!?」  くりくりと良いとこを刺激しつつ、解かされて、指が三本入ったところで、引き抜かれた。 「こんなもんかな?」 「はぁ……はぁ……にゃ!?」  息を整えることに必死になっていると、また尻尾を掴まれて、あまつさえそれを自分の後ろに入れられる。 「――んぁぁああっ!?」  細い毛が擦ってそこに入っていく感覚に、鳥肌が立った。 「ほら、これで、自分で突いて」  意地の悪いことを言っていることは百も承知だ。しかし、守護霊や能力の関係もあって、いつも腰砕けのやられっぱなしは美千代の方なのである。だから、こんな時くらいは、意地悪もしたくなるというものだ。せっかく弟から逃げてきたのにごめんな、と思いつつ尻尾を軽く揺すって促した。 「ひにゃ……っ、ひにゃぁっ……!」  揺すられると、それだけで気持ち良くなって、きゅうっと中が収縮し、今度は尻尾を刺激する。美千代に言われなくても体が勝手に動いてしまう。良い所を擦って、絞って、頭が変になりそうだ。快感を追うのに必死になって、感じ過ぎて、逃げ場を捜して、陽は目の前にあった美千代のそこを甘噛んだ。 「……なっ!?」  思わず声を上げた美千代は、仕返しに彼のぷるぷる震える局部と尻尾の付け根をきゅっと握る。 「ひあぅう……っ!?」  美千代は、体勢を入れ替えて、陽に馬乗りになると、彼の乱れた服をすべて脱がせた。続きをしようとの行動だったのだが、そこでまた美千代ははっと動きを止めた。服を脱がせたことで、隠れていた猫要素がまた見つかったのだ。脇から腹、太ももにかけて点々とあるこれは…… 「……副乳だ」 「え?」 「お前も気付いてなかったのか?」 「うん」 「ほら、ここから――」  そう言って彼の副乳を順につついていく。 「ん、ぁ、や、んン……っ」  するとそのたびに陽は短く甘い声を漏らした。 「……全部感じるのか?」 「ゃ……、なんか、きゅぅって……する……」  美人な彼は、美千代の前ではただただ可愛い。口調まで可愛いくなった彼に、ふと思った。 「と言うか、もしかして」  副乳があるのなら…… 「な、なに!?」  彼の下半身に指を這わせて、確かめると確かにあった。普通ならそこにないもう一つの穴が。 「ふ、ふたなりだ……オプション付き過ぎだろ、猫化」 「俺に言われても……」 「あのさ」 「?」 「ちょっとタンマな?」 「?」  不思議なことに慣れ過ぎて、しかも彼が余りにエロ可愛いので失念していたが、こんなご都合主義が誰の意図も無しに起こるわけがないのだ。  猫の日だから猫耳? 尻尾? 副乳? ふたなり?  美千代はケータイを取り出すと、すぐにある人物に繋げた。 「あ、もしもし明? 俺だけど」 『猫の日おめでとう。この日のために、その部屋の戸棚に色々用意しておいたわよ。聞きたいのはそれでしょう?』 「やっぱりお前か、ありがとう、そしてありがとう!」  予想的中。本当だったら、彼女の奇行を責めるべきだが、この時ばかりは感謝した。そして、猫化した彼の性感帯の多さに沸いた好奇心、それに応える道具の用意がしてあったことにも感謝した。 『じゃあ、使い方も教えてあげるわ。とりあえず陽を縛って逃げられないようにしてちょうだい』 「分かった」 「美千代、もう良い……?」  通話を始めてから放置されていた陽がもぞもぞと腰を動かして美千代を窺った。 「あのな、陽」 「早く、してほしい……っ」 「ごめん!」 「え、え!?」  力の入らずまともな抵抗のできない彼の手首を、あれよという間に彼のシャツでソファーに括り付ける。 「何するの!?」 「悪い!」  悪いといいつつ、美千代は戸棚から、道具の入った箱を引っ張り出した。中には彼女のお手製であろう、良く分からない小物が数点。 『まずはそうね、ピンクのチップみたいのがあるでしょう?それを乳首と副乳全部に張り付けて』 「これか」  箱を持って陽の元に戻る。 「やっ! 何それ!?」  チップを見て不安げな表情を浮かべる陽の副乳のひとつにそれを張り付ける。すると、すぐにくにくにとそこを捏ねるようにチップが動き出した。 「にやぅっ!?」  美千代は、ごくっと唾を飲み込むと、次々チップを貼っていく。 「や、やぁ……っ、何これ……、ぁ、ぁあ……っ、だ……め……っ!」  よほど気持ちが良いのか、陽は身を捩って、よがりだした。 『次は尻尾ね。ピンクのバネ状の触手があるからそれを尻尾の根元から巻き付けて、尻尾の先を彼のアナルに突き刺しなさい』  言われた通りにすると、触手が収縮して、尻尾を刺激し、バネ状の動きで尻尾にそこを突かせ始める。触手に締め付けられぐにぐに揉まれる刺激と、自身の腸内で擦れる刺激に眩暈がする。 「あ、あ、あ、うそ……っ!? ゃ、いやぁあっ!」  短く細い毛の生えた尻尾が内壁を擦るり、むずむずと甘い快感を生む。しかもそれが陽の良い所ばかりを、的確に突き、擦ってくるからたまらない。自分で突いた時は手加減もできたが、これではそうもいかない。待った無しに、快感を与えられて、陽の口からは、甘い嬌声が絶えず漏れ出した。 「そこ、やだ……っ! そこはだめ……っ」  副乳への刺激も継続していて、なんども目の前で光が散った。 「もういっちゃ……っ、いっちゃうぅっ……!」 『細い管を尿道にさして、空イキを目指しましょう』 「い、いやぁあっ! やあっ! やだぁっ!」  枝分かれした、糸のように細い管が尿道を擽るように刺激していく。快感が増えた上にその出口を塞がれて、逃げ場のない快感に足の指先まで痺れて、喘ぎ声は悲鳴に近いものになった。 『良い声で啼くわねぇ。後は道具が無いからお好きに。と言ってもやることは分かるわよね?』  そう言って通話を切ってしまった彼女は本当にご都合主義と言うか、便利な存在である。  美千代は、ケータイを置くと、彼のふたなり化でできた穴に自身を挿入させる。 「にゃぁああっ……!!」  全てを収めるように、押し進めると、陽の体が一際激しく痙攣し、同時に中も彼を歓迎するようにきゅうきゅうと動いた。 (出さずにイったのか……?)  男の体は、一度イってしまうと脱力してしまうが、空イキした場合は、何度でも快感を拾うことができると聞いたことがある。 「ぁぁぁああっ……! みちよ……っ! みちよぉお……っ!」  美千代が何もしなくとも、陽の震えは止まらない。空イキが、いつイっているのか分からないが、快感に悶える彼はイき続けているように見えた。  熱く柔らかく、締め付けてくる彼の膣に、美千代の熱はそれだけで弾けてしまいそうで、下っ腹に力を入れて耐える。叫び声をあげて、びくびくと跳ねる陽の体に覆いかぶさり、ぺたんと折れて痙攣する三角の耳に指を刺し入れて掻きまわした。 「ぁあぁ……っ、やぁ……っ、もうやだぁあっ……!」  涙と涎でどろどろになった顔にひどくそそられる。彼の口の中でざらついた赤い舌がちろちろ動いた。その口を塞いで舌を絡め取り、腰を打ち付ける。  乳首と副乳を捏ねくりまわされて、尻尾を揉まれて、アナルを突かれて擦られて。尿道を擽ぐる管はどんどん伸びて、すでに前立腺を直に刺激している。その上、膣を突かれるたびに竿を美千代の体に擦られ揉まれて、何重もの快感に最早陽の理性などどこにも無かった。  覆い被さる彼の体に足を巻き付け、自ら腰を打ち付け、膣をきゅきゅう収縮させて、彼の精を絞り取る。 「んぁぁぁあああ、ぁぁああああっ!!」 「ちょ、陽……っ」 「にゃぁぁぁあああっ!!」 「~~っ」  美千代が上り詰めると同時に、陽は意識を手放した。 ******  幻十郎は、部屋に仕込んだ隠しカメラで、一部始終を覗いていた。画面の向こうでは、彼の想像を軽く超えるご都合主義なマニアックプレイが展開されていた。 「猫の日企画に、二人に『にゃーにゃー』言わせよう。僕ってなんて腐を極めた腐男子なんだ」なんて思っていた数時間前。「藤本にも『にゃーにゃー』言わせたかったのに残念だなぁ」などと思った数時間前。  あの時の自分はなんて無欲でちっぽけな人間だったのだろうと、気が遠くなる思いがした。  どうやら明という人物が、この展開を作り出したらしい。もし、会うことがあったら、この感謝と尊敬の気持ちを余すところなく伝えていこうと決意した。 ****** 「もしもし、陽君? え、泊まる?なんで? 明のせい?良いけど――光! 陽君今日、美千代さんの家に泊まりだって!」 「OK察した!」





 

一年中寝ぼけ祭り

『春』  藤本陽は低血圧である。そんな彼が午前中に爽やかな笑顔を浮かべることは無く、眉間に皺を寄せて目を眇めているか、机に突っ伏しているかの二択だ。  彼のクラスメイト達は、起きている時は、その氷のような冷たい表情に下僕心をくすぐられ、机とお友達になっている時には、その愛らしさにキュンキュン心を揺さぶられた。  柔らかい日差しと暖かな風が教室に春の香りを運ぶ。窓から迷い込んだ薄紅色の桜の花弁が一枚、陽の漆黒の髪に乗った。  隣の席の美千代がそれを摘まむ。二年に上がっても、二人の身長差は開かなかった。 「ふぅーん……」  陽が唸った。子犬が親を求めるみたいな可愛い声だ。 「ん?」  美千代が声を掛けるが反応は無い。いや、言葉での反応は無いが行動はあった。枕にされている手が、手首から下だけ何かを求めるように彷徨っている。 「はい」  近くに彼のケータイがあったので握らせてみる。 「……違う」  違うらしい。 「……美千代……」  呼ばれたので手を差し出したら握り込まれた。心臓のあたりがきゅーと締め付けられる。 ――なんだこの生き物……、可愛い……っ  美千代は身悶えた。 ――藤本君可愛い……っ! そして、それにときめく白鳥君くっそ可愛い……っ!!  クラス一同も身悶えた。 ****** 『夏』  山百合高校の自動販売機は、校舎から体育館を繋ぐ渡り廊下へ出る扉の横にある。  開け放たれた出口から窓へ風が抜けるが、その風も生暖かく、滴る汗を乾かしてはくれなかった。  一限が終わった休み時間。まだ頭が完全に目覚めていない陽は、青地に白のラインの入った缶の下のボタンを押した。  ガコン  取り出し口に手を伸ばそうとして気が付く。 「あ……」  その手にはすでに同じスポーツドリンクの缶が握られていた。  二つの缶を持って教室に戻る。入ってすぐの席で美千代と幻十郎がしゃべっていた。二人とも話に夢中で陽に気付かない。背を向ける美千代の首筋を汗が一筋流れた。  陽はおもむろにその白い首に、キンキンに冷えて露滴を纏うそれを近づける。  ピトッ 「ぴゃぁあ!?」  ビクンッと硬直して叫んだ美千代は、次の瞬間飛び退いて躓いた。傾いた体を陽が腰に腕を回して支える。膝から崩れる彼と一緒に腰を落としながら、陽は目の前の水滴を舐めとった。 「んなぁあ……っ」  項を舐められた美千代は、這って距離をとりつつ振り向いて、鳥肌の立ったそこを押さえる。 「な、な、なにを……」  頬を染めて、半泣きで訴える美千代に、陽は缶を差し出して一言。 「あげる」 「ぴ」  するとクラスの一人が声を漏らした。それに呼応するように、 『ぴやぁぁああアアッッ!!』  一斉に生徒が崩れ落ちた。 ****** 『秋』  教室に猫が侵入した。 「みゃー」  女子高生に囲まれた茶のブチの猫は、愛らしく鳴いた。 「可愛いー。迷い猫かな」 「去年グレーの仔が迷い込んだよね」 「この辺猫多いのかなぁ」  美千代はそんな会話を席に座ったまま聞いていた。 「あ!」  グレーの猫か、懐かしいな……などと考えていると、女生徒の数人が声をあげた。美千代の膝にふわふわで暖かな生命体が登ってくる。 「みゃー」  美千代は腹にすり寄ってきたそいつの背を撫でた。 「可愛い……」  猫の喉をくすぐれば、気持ちよさそうに目を細めて、ごろごろ喉を鳴らした。 ――どっちも可愛いです!  とはクラスの共通の感想である。  そうしていると、がらりと入口の戸が空いた。  現れたのは、見た人が息を呑み思考を停止するほどの美。作り物めいた面を、低血圧ゆえの無表情でいっそう冷たく見せる藤本陽だ。  彼は表情を変えないままに席に着くと、すぐに猫の存在に気が付いた。 「猫……」 「ああ、お前も好きだよな。抱くか?」  呟いた彼に見せるように、美千代は猫の前足を持ってみょーんと胴体を伸ばした。 「うん」  それを見て頷いた陽は、猫ごと美千代を抱き締める。 「え、ちょ、陽?」 「美千代……」  その光景に見入るクラス一同。 『ああ、お前も好きだよな(俺のこと)。抱くか(俺のこと)?』ってことですか? 分かります。 「うぇえ、あ! 猫!」  戸惑う美千代の腕を猫がすり抜けていった。 「陽、猫行っちゃったぞ」  良いのかよ? と問う美千代に、陽は彼の耳元に唇を近づけて一言。 「俺の猫はお前だろ……?」 ――そうだけど、そうだけどぉ……っ  美千代はぶわっと全身を赤く染めて身をちぢこませた。 「ホームルーム始めるぞー。……?」  生徒のほとんどが体を抱いて目を潤ませているという事態に担任は首を傾げた。 ****** 『冬』  低血圧であり、低体温でもある陽は、教室でもブレザーの下に厚手のセーターを着て、ぬくぬくと微睡む。 「っくしゅ」  隣で美千代がくしゃみをすると、机に敷いたマフラーに埋めていた顔をのったり上げた。 「……寒い?」 「いや、そういう訳じゃないけど」  と、美千代は強がるが、その首筋には薄ら鳥肌が窺える。 「はい、ぬっくぬく」  陽はその体を抱き締めた。ぬくぬくのおすそ分けである。  美千代の体は思った通り冷たい。陽は彼の手を取ってきゅっと握り、首筋に頬を擦り付けた。  美千代をほわっと柔らかな感覚が包む。 「……あ、でも俺の手よりもこっち方が温かいかも……」  しかし、美千代がほっと息を吐いていられたのも束の間。陽の手が服の裾から侵入したため、 「ふぉおあ!?」  と間抜けな声を上げて逃げた。  今日もクラスに萌えの風が吹き抜けた。





 

執事長の日記より

 4月8日  美千代様の入学式でありました。新入生代表を務められるという事で、いやはや、さすがは私の育てた美千代様です。その晴れ姿をこの目で見たいと、付いて行こうとしたのですが、断られてしましました。  何が悪かったのでしょうか、この厨二趣味丸出しな制服がいけなかったのでしょうか。でもこれは旦那様の趣味であって、私の趣味ではないのです……。  まあ、終わってしまったことは仕方ありません。現場の職員の方に頼んで写真だけはきちんと入手済みでございます。ああ、この凛とした立ち姿。写真からでもカリスマ性があふれ出てございます。  それはそうと、明様が美千代様を呼び出されたそうです。何かあったのか美千代様に尋ねましたが、言葉を濁すばかりでお教えくださいませんでした。しかしあの表情は、何やら恋する乙女のそれの様ではありませんか。ふむ……、まあ、隠しごとの得意な方ではございませんし、そのうちボロが出るでしょう。  4月9日  美千代様に、犬派か猫派かと尋ねられました。美千代様という存在がありながら、犬に浮気などする筈がありません。私は猫派ですと即答いたしました。何故か叩かれましたが照れていらっしゃったのでしょう。  質問の理由を尋ねますと、お友達との会話でそのよう話題になったと言うではありませんか。感激いたしました。入学早々お友達をおつくりになられるなんて。子分ではないんですね? 下僕ではないんですね!? 足を舐めろとはおっしゃっていませんね!? まあ、これを言ったら殴られました。後半は私の妄想でございますゆえに、反省いたします。  そうそう、今日、毎日の休憩時間に作っていた編みぐるみのテディちゃんが完成いたしました。オレンジ色の熊さんでございます。こちらは、水色の兎のミミちゃんと、グレーの犬のクンクンとチェーンで繋げて、執事室のドアノブに掛けておくことにいたしましょう。  5月10日  美千代様の体調が、どんどん悪くなっていっております、心配です。守護にゃんこ様の件で、もうそろそろ猫になってしまわれるのかと、お尋ねしましたところ、先月一度綺麗に始末されたから、それは8月ごろまでは大丈夫な筈だと言われました。  先月というと、明様に呼び出された時でしょうか。あの方は本当に不思議な方ですから、気まぐれに祓って下さったのかもしれません。どうやって、と深く聞こうとしたのですが、その話はしたくないと、断られてしまいました。悲しいですが、美千代様も年頃の男子故、親同然の私には話せないこともございましょう。当日の乙女のような表情もきっとここに関係しているのだと思われますし。  しかし、そうなると、美千代様の体調不良の原因は他にあることになりますが、何かの病気ではないかと心配です。週末までに回復しないようでしたら、一度お医者様に診てもらいましょう。  5月11日  美千代様の信号が途絶えました。家の者は皆大騒ぎです。私も大変取り乱しました。机の上で指がメヌエットの形に踊り出すほどに取り乱しました。しかし、その混乱は明様からの連絡で落ち着きました。詳しいことは何も分かりませんが、彼女が大丈夫と言うのなら大丈夫なのでしょう。  ここの所、体調不良の美千代様が心配で、精神集中のための針の進みが早うございます。本日はレースとリボンの飾りを付けた、水色とピンクのパッチワーク風スリッパが完成いたしました。手作りスリッパはこちらで三十組目になります。これでメイド及び執事全員分のスリッパがそろったことになります。メルヘン、メルヘン。  5月12日  明様に言われた通り、美千代様をお迎えに上がりました。美千代様と明様共通のご友人宅とのことですが、とても立派なお屋敷でございました。私のお仕えする白鳥家も立派なものでありますが、そちらは洋館、こちらは寝殿造りと、まったく趣の違うもので、入口から少し見ただけでありましたが、大変面白くございました。今度是非、中を探検してみたいものです。  何故か、美千代様とご友人の藤本様を藤本様のお母様の元に送り届けることになりました。支持通りに車を走らせると、どんどん景色に緑が増えて行き、大変目に優しく、心地よいドライブができました。しかし、それよりなにより、気になったのは、車内でのお二人が、まるで恋人同士の様であらせられたことでございます。食べかすを舐めとるだなんて、破廉恥な。  でもしかし、どうなのでしょう。藤本様はその行為を当然のように行っておりますし、美千代様も、ほぼ初めてのお友達という事で、距離を測りかねているのやもしれません。  その後私は帰されてしまったので、良くは存じません。ただ、美千代様から大まかな説明はされました。大幅に略すと、藤本様のおかげで、これからは猫になることが減るだろうという事です。それはまことに喜ばしい。  6月6日  美千代様は学校から帰って来るなり、部屋に閉じこもってしまいました。不躾ながら、扉に耳を当てると、うわーとか、なんでーとか、そのようなわめき声が聞こえてまいりました。きっと学校で何かあったのでしょう。青春とはときに叫びだしたくなるものです。  夕食の席に着かれた際に、叫び声について尋ねると、顔を赤くして、そっぽを向かれてしまいました。どうやら、恥ずかしい事ではあっても、嫌な事ではないようです。心配はしなくて良いでしょう。  6月10日  美千代様が影木様と、藤本様のお宅で勉強会をなさったそうです。影木様、という名前自体、初耳でありまして、新しいお友達ができたことを大変うれしく思います。  本日は、美千代様からたくさんのお話を聞くことができました。影木様や陽様の家族についてなど、楽しそうに語る美千代様を見て、本当にこの高校に入って良かったと思います。何故でしょうか、目頭が熱くなってまいりました。それにしても、五月に見た金髪のあの方が、少女でなく、少年だったとは……。  五月に作ったイチゴジャムを使い切ってしまいました。次は何のジャムを作りましょうか。  7月11日  美千代様が蒼い顔をされて帰ってまいりました。本日は期末テストの返却日という事でしたので、結果が芳しくなったのかと思いましたが、そうではなく夏休みに行われる合宿の肝試しが嫌なのだそうで。体質のこともありますし、止めておけば良いと思うのですが、まったく、美千代様の意地っ張りなところはどうにもならないのですね。弱みを見せてはならないと、旦那さまからすり揉まれていることもありますし、仕方のないこととはいえ悩ましい限りでございます。しかし、ペアの相手は藤本様だと言いますし、きっと大丈夫でしょう。  そんなことより、もうすっかり、夏になってしまいました。昔、ポンデ夏みかんなるものがありましたが、もう店頭に並ぶことは無いのでしょうか、とても美味しかったので、また食べたいのですが。  7月20日  美千代様が合宿から帰ってまいりました。肝試しで霊に襲われたと聞いた時には、肝が冷えたものでしたが、こうしてまた元気なお姿を見ることができて本当に幸せです。まったく、私共の肝を試してどうするのですか。  美千代様が、腕に残った手形を見ては、頬を染めて、微笑みます。恍惚の表情とまでは言いませんが、危ない顔です。もしかして彼はマゾなのでしょうか。心配はしていません。  棚の埃よけや、テーブルクロス、クッションなどは、作りすぎるほどに作ってしまいました。次はドアノブカバーにでも挑戦いたしましょうか。  9月2日  美千代様の家が完成いたしました。持ち主である美千代様のように、個性的であり、品のあるつくりになってございます。家を確認した後、美千代様にお供して、家具を選ぶことになりました。とても興奮いたしました。美千代様は、自分のセンスは私譲りだとおっしゃるのですが、彼は私よりもシックで落ち着いたものを選ぶ傾向にあるようです。それを悪いとは全く思いません。寧ろ、美千代様に合わせて家具を選ぶことに新しい楽しみと喜びを感じました。  公園で美千代様の古くからの友人であらせられる、佐藤様と鈴木様にお会いしました。四人でかくれんぼをして、童心に帰りました。とても有意義な時間を過ごすことができました。  10月10日  美千代様の様子がおかしい。とても暗い顔をしておられます。学校で何かあったのでしょうか。  10月11日  美千代様の顔色は昨日よりも悪くなってございます。これは守護にゃんこ様も関わっているのではないかと思います。  10月12日  美千代様の体調は悪くなる一方。やはり、守護にゃんこ様がらみで間違えないようです。と、いう事は藤本様との間に何かあったのでしょう。友人同士のいざこざなど、若い内に体験しておくものです。しかし、このままでは近い内に猫になってしまうやもしれません。それだけが心配でございます。  10月13日  何か吹っ切れた顔をして、美千代様が帰ってまいりました。体調も戻ったようで、きっと藤本様と仲直りできたのでしょう。しかし、そのことを言うと何故か切なげな笑顔で話を反されてしまいました。何があったのでしょうか。  11月15日  本日は美千代様が、藤本様のお宅にお泊りするとの連絡がございました。しかし、電話の相手は、藤本様で、美千代様の声を聞くことはできませんでした。それも、藤本様の声も、何やら硬く、少し震えている用にも聞こえまして、何かあったのではと大変心配になりました。  「詳しいことは後でお教えします。今はまだ……」と言うばかりで、詳しいことを知ることはできませんでした。せめて一言でも、美千代様の声を聞けたら少しは安心できたかもしれないと言うのに……  11月16日  いつもと同じ時刻に、美千代様が帰ってまいりました。そこで、私はやっとすべてを知ることができました。  美千代様が襲われたこと、藤本様に助けられたこと。襲われて事について、詳しく聞くことはできませんでした。美千代様が、本当に辛そうで、見ていることができなかったのです。  しかし、藤本様の話をなさる美千代様は、本当に幸せそうで、私は神に感謝いたしました。美千代様を彼に合わせて下さり、ありがとうございますと。  美千代様の負った傷は、一人では耐えがたいものだったでしょう。震える体を抱きながら話す彼を見ていれば分かります。それでも、普段の彼と変わらず、いえ、それ以上に、凛と澄んだ空気を纏っていられるのは全て藤本様のおかげといえるでしょう。  え? 違う? 「確かに陽の存在は大きいが、俺がここまで俺として成長してこれたのはお前たちのおかげだ。今までの環境があって、そして陽が居てくれたことで、俺は俺を見失わずにいられた」ですって。なんて、なんて嬉しいお言葉でしょうか。この安部隆正、これからもお二人の味方であることを誓います。 ******  3月1日  もうすぐ、美千代様が高校を卒業されます。ところで、本日この日記が旦那様の目に触れてしまいました。





 

花嫁探し

 豪華なドレスに振袖、あるいは自然に清楚なワンピ―ス。  白鳥御門は上質な皮の背表紙の付いた、着飾った少女らの写真を丁寧に見て言った。 「やはり、実物を見ないことにはなぁ……」  写真写りは良いに越したことは無い。しかし、写真よりも実際に見た方が美しい場合もあるし、その逆もしかりだ。 ――本当は、あの娘が良いのだが……  彼が思い浮かべるのは、緩く巻いたロングの髪に包まれた、鼻筋の通ったきつめの美人顔。世界の不思議研究会の会長で、息子の体質の良き理解者でもある愛場明のことだ。 「ミィ君の相手は私じゃないのよ」  何年か前に息子と関係を持つことを仄めかした時に返された言葉だ。彼女には、美千代の相手が見えてでもいるのだろうか、ならば教えて欲しい。しかし、きっと彼女の中にもルールがあるのだろう。  御門は緩く頭を振る。何でも楽をして手に入れてはいけない。自分の手足を動かさなければ。写真を閉じて席を立つ。高層ビル最上階の大きな窓から下界を見下ろした。  人気のバラエティ番組、クイズ番組のスポンサー名に、白鳥の名前がある。今期始まったドキュメンタリー番組のスポンサー名に、白鳥の名前がある。そしてそれらの番組の制作に特定の人物が関わっている。  商品棚に並ぶ輸入菓子販売会社のバックに白鳥財閥が居る。突然現れ瞬く間に広がったスタイリッシュなアウトレッド輸入家具の店をプロモートしたのは白鳥財閥である。  今では世界を股にかけるアーティストとなったある人物が、駆け出しの誰にも知られていない頃から、白鳥財閥はパトロンになっていた。  白鳥財閥が手を貸すと、その事業は成功する。いつからかそんなジンクスが謳われるようになった。しかし、実際は違う。白鳥が手を貸すから大きくなるのではない、大きくなるものに手を出すのだ。  世界有数の規模を持つ白鳥財閥だか、ここまで大きくなったのは単にセンスの問題だ。白鳥頭首は代々センスが良い。 ――だから、彼が選ぶものは最高級品でなければならないのだ。  山百合高校三年生は、二月に入ると自由登校期間に入る。  低血圧で壊滅的に朝に弱い陽は、これ幸いと昼過ぎに起き、明け方まで起きているという昼夜反逆転の生活を送っていた。  しかし、毎日家にこもりきりで勉強をするわけではない。午後から緑館登校をして、得意科目の異なる美千代と幻十郎と、欠点を補いつつ切磋琢磨している。 「おはよう」  陽が朝の挨拶をするが、すでに午後も良い時間である。美千代と幻十郎は「おそよう」「こんにちは」と言って彼の寝坊をからかった。  陽はインディアンチックな絨毯の前で上靴を脱ぎ、美千代の隣の丸太の椅子に腰かける。すると、心なしか彼の表情が曇っていることに気が付いた。 「美千代、元気ない?」 「そう見えるか?」  陽は霊力を制限してしまうコンタクトを取り、もう一度彼を見て眉間に皺を寄せた。 「僕出ようか」 「ごめんね」  気を使わせた幻十郎にそう返すと、彼は「いいえぇ」といつもの無表情で部屋を出て行った。 「美千代?」  黒い靄を纏った彼の顔を覗き込む。彼の瞳を見つめれば、後ろめたげに泳いだ。 「……っん」  そっと頬を撫でて、甘い吐息を漏らす彼の唇に甘いキスを落とす。ふにふにと何度か押し付け合うだけのキスをして、徐々に啄ばむそれに変えて舌を絡めた。 「――っはぁ、陽……」  陽に触れられれば、それだけでどくどくと血が暴れ出す。身体の底から溢れる熱に翻弄される。美千代は彼の肩をぎゅっと握って快感に身を震わせた。  陽は彼のウェーブを描く髪に指を絡めて、細い体を抱き寄せる。彼が幸せを感じるほどに、心を満たすほどに靄は綺麗に消えていく。 「――終わった?」  すっかり靄を飛ばして、身を寄せ合って一息つくころ、幻十郎が戻ってきた。 「……見てただろ」  その出来過ぎたタイミングに、美千代が呆れに怒りを含んた声を出す。 「見てないよ、聞いてただけ」  ああ言えばこう言う。  この腐男子には何を言っても無駄なのだろう。それに彼に関しては何を見られても今更な感はある。もちろん二人にだって羞恥心はまだあるが。 「それで、どうしたの?」  陽が話を戻して美千代に向き直れば、彼は言い辛そうに視線を逸らす。 「根本を解決しないと、またすぐに溜まっちゃうよ?」  宥め促すように髪を梳いてあげると、美千代は猫の様に目を細めて「ん~」と気持ちよさ気に唸った。 「ね?」 「ん~……、と。お見合い……することになった」  その瞬間、甘い空気が一変して氷点下になる。 「……は?」  2月に相応しい、氷の底から這い出したような声に、正面から晒された美千代はひうっと細く喉を鳴らした。 「お前、やっぱりあいつの兄なんだな……」  普段から態度が氷点下な、彼の双子の弟を思って言う。 「お見合い? 誰と? なんで?」  がっと両肩を掴まれる。普段ぽやぽやしている彼に、射すような視線と口調で攻められて、ギャップに凍えた。 「だ、誰とっていう訳じゃないんだが、俺の結婚相手を決めるパーティーをだな……」 「だからなんで」 「と、父さんが、お前のことに気付いたから……っ」  肩を掴んでくる手に眉をしかめる。徐々に力が入るそれに、薄い肩がきしきし軋んだ。 「……陽、痛い……」 「……っ」  美千代は、突き放されたと思ったのか、悲しそうに瞳を揺らして肩を離した彼の手を取り、指を絡める。 「でも俺、誰にも決めないから。俺にはお前だけだから!」  二人のラブストーリーを、幻十郎は内心ニヤニヤしながら無表情で見守った。 ****** ――原石は、思わぬところに転がっている。  白鳥家の本邸、大きく入り組んだ造りでありながら、優雅さを兼ね備えたお城のようなそれの最上階。床一面に真っ赤な絨毯が敷かれ、繊細な装飾を施された金の窓枠に飾られた大きな窓とバルコニーからは、白鳥家の有する大庭園が臨める。仰げば足元が覚束なくなるような、高い天井には、無数のシャンデリアがキラキラ光の粒を降らせていた。  夢のように豪華な空間で、着飾った美しい少女たちが談笑し、立食形式で並べられた料理に舌鼓をうつ。  御門は、ゆったりとカーブを描く階段を上がった先の中二階から、彼女らを見下ろして難しい顔で唸った。  ここに集まったのは、良家のお嬢様ばかりだ。それは、決して御門が望んでしたことではない。  内から輝くような女性は、庶民の中にも居る。その筆頭が明だ。しかし、そんなことを言っていたらいつまでたっても美千代の相手は見つからない。  数撃ちゃ当たるも、無闇に乱発するよりは確率の高い場所で撃つに越したことはない。だから、最高の教育を受けた高貴なお嬢様を集めたのだ。  しかし、明を知ってしまうと、どんな女性も一段劣って見えてしまう。正直言ってぱっとしない。  御門は自分で探すのを諦めて、当の息子に話を振った。 「美千代、良い娘は見つかったか?」  しかし、彼は興味が無さそうに視線を余所にやってしまう。 「隆正、お前はどうだ?」  美千代のお目付け役に伺えば、彼は静かに頭を振った。  美千代の、何処を見るでもない視線の先にはきっと彼が居るのだろう。  御門が彼らの関係に気づいてしまったのは、隆正の日記が原因だ。いつかはぶつかる問題だったとしても、胸が痛い。 「御門様、私はやはり陽様しかおられないと思うのです」 「男はだめだ」  しずしずと申し出る彼を、御門ははっきり切り捨てた。 「……どうしても?」 「何故わざわざ男でなければならんのだ。白鳥次期党首ともなれば女など選びたい放題だと言うのに」 「選んだ結果でございます」 「男なんて……子どもすら産めないではないか」 「陽様は、美千代様の穢れを祓うことができますが」 「そんなもの、居なくても今までどうにかなっていた」 「しかしですね」 「隆正」  言い募る彼の言葉を遮って御門は続けた。 「これが幼い頃から世話をしてきたお前は、これを息子のように思い、味方になってやろうと思うのだろう。しかし本当にそれは、これのためになるのか? これの幸せを考えたら、結論は変わるのではないのか」  ちらりと隆正に視線だけよこせば、彼は眉を寄せて切れ長の瞳を伏せる。 「――それでも、この中に美千代様に相応しいお嬢様はお見受けできません」 ――確かに。  御門はゆっくりと瞬きをしてもう一度会場を俯瞰する。  目の覚めるような素晴らしい女性が現われれば、息子の気持ちも変わるかと思ったのだが、今回は期待外れの結果に終わりそうだ。立派に育てた顎髭を梳いて、次の計画に想いをはせた。 ******  一方の壁には、アンティークもかくやと使い込まれた印象の枠に、一点のくすみも無く磨きこまれた硝子が嵌められた窓が並び、向かい合うもう一方の壁には、百合を逆さにした形のブラケットライトが点々と灯る。広々とした廊下の一角の、絵画に挟まれた扉の前で三人の男女が密会した。 「兄様のお相手を探すパーティーに、千晶が出るのはおかしくない?」  美千代に良く似た髪質の、ひょろっと縦に長い青年が、その胸下までしかない小柄な少女に不機嫌な声音で言う。  あばら下で切り替えの入った、アイスランド・ブルーの地に、暖色の花が散りばめられた、ふわふわのショートドレスがふわりと揺れる。 「そんなもん明に言え」  少女は眉を寄せてむっと口を尖らせた。  ふんわりした頬の輪郭に、大きな瞳と小さな鼻と口が並ぶ。ペビーフェイスで細身の彼女は、青年に対する困ったような申し訳ないような感情と、二人を見る美女に対する怒りと呆れで拗ねたような顔つきになった。 「千晶可愛いでしょう?」  いけしゃあしゃあと、美女明は言う。  千晶と呼ばれた少女は、何を隠そう明の双子の妹である。  身に纏う空気と身長・体つきから、幼馴染の藤本兄弟からでさえ、似ていない姉妹だと言われる二人だが、目や口などの個々のパーツを見ると実は良く似ている。 「そりゃ可愛いよ! 千晶だもん! 今の不機嫌な表情だって愛らしくたまらないよ!? でもね、千晶は俺のなの!」  青年は千晶の肩を引き寄せて主張した。  彼の名前は白鳥昇。白鳥美千代の弟であり、千晶の恋人でもある。余談だが、彼は小さい男の子が大好きな所謂ショタコンであり、男らしい性格の千晶を男の子だと思っていた過去がある。 「知ってるわよ。だから、お父様にご挨拶するんじゃない」 「え!?」 「はあ!?」  明の言葉に昇は驚きと喜びが綯交ぜになった声を、千晶は驚きと不安が綯交ぜになった声を上げた。 「あら、大丈夫? 顔青いわよ?」  血の気を無くす千晶を白々しく明が気遣えば、彼女は声を震わせて叫んだ。 「そりゃ顔面蒼白にもなるわ! 無理やり連れてこられて身ぐるみ剥がされてドレス着せられて訳も分かずに、やれ幼馴染のために一肌脱げだの、やれパーティーだだの、留めに彼氏の親にご挨拶? 急展開すぎて心臓止まるわボケェ!!」 「そんなに怒鳴ったら化粧が崩れちゃうじゃない」  それなのに、明は的外れな返しをする。彼女はいつもこうなのだ。千晶がどんなに怒っても、暖簾に腕押し糠に釘。 「……もうやだこの姉……」  いつも振り回されてばかりの千晶は、額を押さえて項垂れた。 「千晶、千晶」 「んだよ」  昇に呼ばれて顔を上げる。 「俺と将来誓うの、嫌?」  彼の言葉に明かりがその背中を軽くはたいて呆れた声を出した。 「気が早いわね、彼女として会うだけよ。ここで将来誓うなんて千晶が可哀そうだわ」 「え!?」  可哀そうと言われてショックを受ける彼の背を、今度は千晶が叩いた。何を勘違いしているんだこの馬鹿は、と。 「プロポーズは、もっとちゃんとした形でされたいって思うだろうが……」  ぶわわっ、と昇の肌が赤く染まる。  彼女は俯いてしまい、ふわふわのショートヘアしか見えないが、尻つぼみになった声から、今どんな顔をしているのかは想像が付く。 「……それは反則……」  昇はむずむず崩れる表情筋を手で覆い隠した。 「と言うか、肝心の陽はどうしたんだよ、陽は」  むず痒い空気を払うように、千晶は話題を変えて明に向き直る。 「彼ならもう準備万端でさっそく華麗なる登場よ」  顔の赤みが取れていない千晶にくすくす笑って、明は会場に繋がる扉を指示した。 ****** 「HI! 御門!」  期待外れだとはいえ、せっかく招いたお嬢様方を放置するのはマナーに反する。渋る美千代を引き連れて、御門が一階に降りて来ると、長い金髪を花の飾りで華やかに結んだ美女が歩み寄ってきた。  大きな胸に細いウエスト、なだらかにカーブを描く腰、という迫力のあるボディを張り付くようなデザインの和柄のドレスに包んでいる。  中二階の真下に居たのか、今まで目に入らなかったが、彼女こそが目の覚めるような内から輝く女性だ。人妻であることが口惜しい。 「ミセス藤本! いらしていたのですね」 「お久しぶりデスネ!」  訛のある日本語を繰り出した彼女は、生命力の溢れる輝かしい笑顔で御門と隆正と美千代を順に見た。 「こちらは初めマシテ、美千代?」  そう言って手を差し出す彼女を前に、美千代は固まる。  彼女は白鳥の投資する、数ある内の一人である。美千代は白鳥が関わる人や事業を把握はしているが、全ての詳細や魅力を諳んじることができるわけではない。  しかし、彼女のことは驚くほどに良く知っている。 ――世界的に有名なモデルであり、女優でもある藤本オリビア。オーストラリア出身の日本オタクな彼女は、日本人カメラマンの陽一と結婚し、日本に寝殿造りの大豪邸を建てた。二人の間にできた息子は一人。そして、その子には陽一の連れ子である兄が二人いる。 「――美千代」 「あ、いえ……ようこそいらっしゃいましたオリビア」  御門の声に我に返り、慌ててオリビアと握手を交わす。  じっと見つめてくる彼女の青い瞳に居た堪れなくて、美千代はそっと視線を外した。 「それで、今日はどうされたのかな。素敵な女性を紹介してくれるのかな」  漂い始めた妙な空気を、御門は美千代の未練からくるものだと思い、気にせずオリビアに話しかける。 「OH! 今日は、息子のお相手を探しに来マシタ!」  彼女はポンと手を打って答えた。  その言葉に、美千代は驚いて彼女を見る。  彼女には三人の息子がいる。藤本光と、夫の連れ子の照と陽だ。彼らの相手を探しに来た? 陽の相手を探しに来た……? 「それにしても、各界の綺麗どころがこんなに集まるなんて、さすがデス! 皆素敵なお嬢様ばかり! ああ……この中で美千代様の御眼鏡にかなうお嬢様はいったい誰なのデスカ?」 「本当に素敵なお嬢様ばかりで、私どもも迷っているところです」 「そうデスカ……」  御門の言葉に相槌を打ったオリビアは、また青い瞳で美千代を見つめる。彼女の真意が分からない。 「よ、陽は……!」 ――ざわ……  思わずかけた美千代の言葉は、中央の出入り口付近のどよめきでかき消された。  集まった女性も、付添いの男性も皆一様に一点を見て頬を染めて硬直している。  彼らの視線の先には、サングラスの優男を二人連れた、涼やかな瞳の和服美人が居た。重厚な黒の地の、鮮やかな手描辻が花を身に纏うその人は、流麗に光流れる蒼の模様に負けずに輝く。  髪は付け毛をしているのだろう、結った先に生気が無いが、彼女自身のものであろう頬に掛る黒髪は艶めいて、雪のように白い頬とのコントラストが眩しい。  くるんと上を向いた長い睫毛と大きな瞳は、愛らしさの条件である筈なのに、彼女のそれはすっと涼やかに美しい。ピンクゴールドの鮮やかな目元に、淡く色づいた頬、薄い唇に乗せた青みのピンク。どれもほんのり色付く程度の薄化粧にも関わらず、とても艶やかに彼女を彩る。  長身をしゃんと伸ばして歩くさまは、神々しささえ感じられた。  彼女は、すっすと慣れた様子で小町下駄を履いた足をさばき、茫然と立ちすくむ御門と対峙した。 「う、美しい……」  無数の星を散らす金の瞳に魅了される。そう、金だ。遠目ではコンタクトを入れているのかと思ったが違う。眩暈がするほどに美しい。こんな色を人工的に作れる筈がない。  御門はふらふらと彼女に手を伸ばす。彼女の瞳は人を魅了する悪魔のようだ。 「私はもう、息子の意思など関係なく……貴方しかいないと思ってしまった……」  彼女はその言葉を聞いてぱっと花のように笑って美千代を見る。  その顔を見て、オリビア以外全員の鼓動が跳ね上がり、ぶわっと全身を赤く染め上げた。  冷たく美しい人形に、魂が宿り魅力を増す。整いすぎた面が綻ぶと、今更ながら彼女が血の通った人間であることを認識できた。美しすぎて、幻か、あるいは血の通わない人形なのではないかと思ったのだ。  美千代は、震える手を彼女に伸ばす。 「……お父様。俺も、この人が良いです」 「美千代!」 「私もその人いかいないと思います」 「隆正!」  御門は二人の答えに歓喜する。しかし、 「その人こそ藤本陽様です」  隆正の続く台詞に、喜びの表情のまま固まった。 「うふふふふ」  ただ一人、彼女の魔力に反応しなかったオリビアが、彼女の肩に手を置いて無邪気に笑う。 「ふっふっふ! 私の息子デスネ!さっそくお相手見つかりマシタネ!」  楽しそうなオリビアを前に、御門は顔色を無くして頭を抱える。  彼女が男だなんてそんなバカな、しかしオリビアの息子という事なら納得できてしまう。 「やはり、男ではだめでしょうか?」  彼女改め彼は、そう言って不安げに目を伏せる。表情は艶めかしい美女のそれであるのに、声は正真正銘男のものだ。 「男、こんなにも美しいのに男……。――ああ……これだけ美しいものを逃したくない、しかしやはり孫が……」 「御門様はお孫様が欲しかったのですか? 白鳥の体面を考えていたのではないのですか?」  両手で頭を押さえて苦悩する御門に、隆正が訊ねた。 「男を娶るくらいで白鳥の品位は落ちない! 寧ろこれを機に男色がブームにすらなるだろう! だから、そうじゃない! そうじゃないんだ!……私は、ただ孫を抱きたいんだ……」 「昇が居るじゃないですか」  荒々しく答える御門に美千代が言った。 「あれはショタコンだろ!? 私はもうずっと昔にあれのことは諦めたんだ! でも、お前はそんな片鱗見せなかったじゃないか!」 「昇、彼女いますけど」 「え」  美千代の言葉に再度硬直する御門の肩を、華奢な手がぽんと叩いた。 「み・か・ど・さ・ま」  鈴を転がすような声に振り返れば、にんまりと笑う美女が居た。 「明ちゃん! と、昇とその子はもしかして……?」  明に連れられた昇と、彼の隣に佇む背の低い少女に視線移す。 「俺はついでですかぁ、ひどいぃ」  昇が何か言っているが構っていられない。御門の瞳は少女に釘付けである。 「明の妹の千晶と申します。昇さんとは高校の同級生で、一昨年の夏からお付き合いさせてもらっています」 「女の子!」  オリビアの息子である陽や明と比べてしまえばぱっとしないが、瞳が大きく愛らしい女の子だ。それも昇が選んだ上に明の妹だというのだから、きっと中身も素晴らしいに違いない。 「正真正銘女です」  きりっと彼女は言い切った。その言葉に御門は歓喜し、昇を振り返る。 「昇!」 「はい、父様」 「良くやった!」  そして今度は陽に向き合い目を眇める。 ――ああ! やはり眩しい……っ! 「陽さん!」 「はい」 「美千代をよろしくお願いします」  御門の言葉に、陽は喜びに頬を染めて、瞳を揺らした。 「あ、ありがとうございます! こちらこそよろしくお願いします!」  濡れた瞳がより一層輝いて、最早目に毒だ。 「やったね、陽!」 「美千代さん、陽君を幸せにしないと殴りますから」  陽の連れていた優男二人がサングラスを外して陽に抱きつく。 「こっちも美形だと……!?」 「陽様の弟君の光様と照様です」 「うちの息子は皆愛らしいデスね!」  絶句する御門に、隆正とオリビアが言った。 「み、美千代……」 「はい」 「良くやった!!」  こんな輝く宝石たちと縁を結ぶことができるなんて、今日はなんて幸せな日だろうか。美千代は白鳥家次期党首である。彼のセンスを疑う必要などなかったのだ。 ****** 「その後別室に移って一家(?)団欒しましたとさ、めでたしめでたし――てこと?」  幻十郎は、陽と美千代の話をそう締め括った。  小春日和の緑館には、暖かな光が射している。陽の淹れた紅茶と、美千代の持ち込んだ隆正の手作りクッキーを机に並べる。日常が帰ってきた。 「そういう事だな」 「千晶は花嫁修業でひーひー言ってるけどね」  幼馴染を笑う陽は、隣に座る美千代にぴったりと寄り添い、彼の腕にしっかり腕を絡めている。 「藤本はなんだか甘えたになってるけど」  幻十郎の言葉に、からかわれたと思ったのか、彼はむぅ、とむくれて言った。 「……だって、美千代と離れなくちゃいけないかもって思ったんだ」  美千代がそんな彼の頬をむにむに揉むと「ぬぅぅ」と唸る。 「俺だって、オリビアさんが出てきた時にはヒヤッとしたぞ」 「うう? オリビア母さん?」 「あの人、息子の相手を探しに来たって言ったからな。俺とのことを反対して、お前の彼女を見繕うつもりかと」 「俺は美千代じゃないと嫌だよ!」  勢いよく顔を上げて、陽は美千代に詰め寄った。 「俺だって、陽じゃなきゃ嫌だ」 「美千代……」 「陽……」  見つめ合う二人。そんなラブストーリーを、幻十郎は内心ニヤニヤしながら無表情で見守った。  ところで、今回の陽の女装写真が出回って、彼の信者に宗教宜しく奉られることになるのだが、それはまた別の話。


守護にゃんこ様 <完>