究極ナルシズム 優斗の葛藤 編
好きすぎて葛藤
優斗と両想いになってからも、優斗からの接触は無い。俺から接触すると相変わらず体を硬くして居づらそうにする。まあ、それは俺を意識している証拠であって、可愛いから良いのだけど。むしろ反応を見るのが楽しみなところもある。特に、不意打ちに弱いらしくて、例えばそう、今みたいに真剣に小説を書いているときにちょっと背中に手を置いてみるとか… ――っ ベッドにうつ伏せに寝転がり、一心不乱にパソコンに向かっていった優斗は、背中に触れた体温に、大げさなほどに体を跳ねさせた。 「はいぃっ!?」 ばっと身を起こして振り向くと、漫画を片手にした圭斗が、身を引いていた。 「おまえ、それは驚き過ぎだろう。声裏返ってんぞ。」 「い、いや、だって…」 今、R18小説書いてたから。 と、続けようとして思いとどまる。だって、目の前にいるのは同じ男だが、恋人なのだ。いや、恋人でなくともこんな破廉恥な話はしたくないというか。いや、別に自分が変態だとばれるのに躊躇は無い。だって変態だから。そうではなく、今そのことを言ったら確実に文章を読まれる。そうしたら、俺の性癖が余すことなくばれる。ばれるだけならまだしもこの男は同じことを俺に要求しかねない。あ、そうか、だからつまり恋人だからこそ知られたくないというのはこういう事か。 「おまえ…」 優斗がそんなことをぐるぐると考えているうちに圭斗は彼のパソコンを覗き込んでいた。 「ぴゃぁああああっ」 慌てて画面を閉じてももう遅い。 「み、見た?」 「見た。」 「……ぅう」 小さく唸ると圭斗の手がそっと優斗の横髪を吸い上げ、項を擽った。 「え、ちょ…っ」 「可愛い。」 首筋への愛撫と共に囁かれて、体温が上昇する。優斗は耐えるように自身の体を抱いて、震える息を吐いた。 「欲求不満なら言えば良いのに。」 「ち、違うもん。エロ小説書きたい時と実際にエロいことしたい時は別なんだもん。じゃあ、なんですか、圭斗は俺にエロ小説を書くなって言うんですか?今俺はエロ小説が書きたいから書いてたんだ!エロ小説を書きたい周期はなかなか来ないから大切にしたいのに、それを書くなって言うんですか!?しょうがないじゃない書きたいんだから!この時を逃しちゃいけない――」 「落ち着け。」 圭斗は混乱して捲し立てる優斗を抱きしめて黙らせた。途端にがちがちに硬くなる彼の背をそっと指先でなぞる。 「やぁ、だから…っ」 「お前の小説読んだら、お前のしてほしい事分かるのかな。」 「――っ、そういうこと言うと思ったからばれたくなかったんだ!二次元と現実は違うんです!残念でした!」 「そうかよ。」 圭斗は優斗の言葉を聞き流して彼の頬に頬擦りをする。背に回した腕に力を入れて、彼の体温と鼓動を噛みしめる。強張った体は熱くて、鼓動は切なくなるほど早くてうるさい。名前を呼ぶと、圭斗の腕を優斗が掴んだ。引き離そうか、縋ろうかと迷っているようで、それ以上は動かない。 「…待って……っ」 そう言った優斗の指が震えた。 彼に触れられるのが嫌なのではない。身体の奥から湧き上がる熱が怖いのだ。心臓は五月蠅く鳴るし、これ以上触られたらきっと壊れてしまう。でも、だからと言ってここで彼を拒んだらどうなるだろう。拒むということは、彼に触るなと言う事か?触られたいのに? 圭斗に抱かれたまま混乱した優斗の思考は、焦って、どんどん絡まって、意味を成さなくなる。 「優斗?」 呼ばれた、圭斗に名前を呼ばれた。あれ、俺は何を考えてたんだっけ?あぁ、圭斗って良い声してんな。圭斗、圭斗。 圭斗の名前を頭で唱えるだけでもやもやして来る。なんだこれ、わけ分かんない。分かんないけど、なんか… 「…圭、斗ぉ…っ」 「――っ」 名前を呼ぶと、目の色を変えた圭斗が優斗の唇をその唇で塞いだ。何度も角度を変えては柔らかなそれを押し付けられて、緊張のあまり優斗は唇を引き結ぶ。 「優斗、口、開けて。」 かぁぁあっ 元から高かった体温がまた上がった。どうしていいか分からずに、瞳に涙の幕が張る。 「や、まって――っ!?」 彼の視線から逃れるように下を向いて、待ったを掛けると、そのために開いた唇に、彼の舌が滑り込んできた。 柔らかなそれが、優斗の口内を犯す。余すところなく舐められて、脳が蕩けそうだ。上顎を擽られて、甘い快感に瞼が震える。キスが終わるころには全身の力が抜けていた。 「――優斗」 名前を呼ばれて、麻痺していた思考が復活する。頬が涙で、口が唾液で濡れている。半開きの口、力の抜けた体。どうしたって、良い恰好ではないだろう。優斗は、自分の状況を理解すると、圭斗を押しのけて、三角座りでベッドヘッドまでずり下がって、クロスした腕で顔を隠した。 「来んな!見んな!」 「優斗?どうしたんだよ。」 すぐ近くで彼の声がする。それだけで泣きそうになる。 「……やだぁ…」 「そうかよ。」 消えりそうな声で哀願すると、小さく息を漏らした彼が諦めたように距離をとった。 「や、待って、違う!」 自分で言ったことなのに、その距離が寂しくて、彼の心まで離れてしまう気がして、優斗は、彼の腕を掴もうとして、でも、できなくて彼の手のすぐ近くのシーツを握りしめる。 「違う…、やだ、行かないで…」 白いシーツに皺がよって、握った拳はその上で小刻みに震える。力の抜き方が分からない。 圭斗の手がその手に重なった。硬くなった手の甲を撫でて、再び優斗を抱き寄せる。 「落ち着けって。」 「ひっく…ぇっ……ぐす」 優しい声に涙が出てきた。思えば最近泣いてばかりだ。昔から泣き虫だと言われていたが、彼と出会ってからそれがより酷くなったみたいだ。 圭斗は優斗の落ち着くのを待って、背を撫でてくれる。ああ、好きだな。圭斗が好きだな。そう思うと、胸が苦しくなった。 「なあ、……付き合うってSEXしないといけないのか?」 「したいと思ったらすれば良いんじゃないか?」 「…圭斗は?」 「優斗が可愛いと、触りたいと思う。さっきみたいに…」 「…俺は…お前に触られると、わけわかんなくなって…なんか、もだもだして、それが嫌なのかは分かんないけど…苦しくて、泣きたくなって、」 言っている途中で圭斗が額を優斗の首筋に擦りつけてきた。 「――圭斗っ!?」 「あーっ!もう!」 叫んだ彼がバット頭をあげる。 「お前、それ、態とじゃないんだよなぁ?」 「な、何が?」 「あぁぁぁぁあああ、可愛い可愛い可愛すぎる!撫でまわしたい、舐めまわしたい、喘がせたい!」 「俺を!?」 「お前以外に誰がいる!?」 「うぇえ…?」 「でも今は我慢する。もし、お前の心がついて来たら続きをしても良いか?」 「う、え…と、それは…はい……。」 どうしよう。圭斗がイケメンすぎてまた泣きそうだ。 やっぱり圭斗になら抱かれても良いかも、なんて思ったけど、「キスはしても良いか?」と聞かれて、また「無理!」と答えてしまった。
苛めたい
寒いです。 もうそろそろ明様の力でなく、本当に雪が降るのではないかと思われる。そんな今日この頃。暖房控えめのC棟で、寒がり暑がりの優斗はもこもこに重ね着をしたまま、カップスープに白いご飯を投入した。そんな彼を見ながら庵は呟いた。 「蝉ドンってできるのかな。」 「出ました!庵君の不思議発言!今冬ですけど!」 「…抜け殻ドン?」 「なおのこと気持ち悪いです!」 オタクな上に思考回路が人とずれまくっている二人の会話に、圭斗が割り込んだ。 「そうだ、じゃあ渡辺。お前、俺に蝉ドンやってみろよ。」 「嫌ですけども。」 「まあまあ、そう言わずに。」 「遠慮します。」 「遠慮スンなって。」 「社交辞令です。」 「まあ、ちょっと来いよ。」 圭斗は嫌がる庵を連れて壁際に移動した。 「マジでなんなの。」 教室の隅に追い詰められた庵が辟易した声を出した。これでは庵の方が圭斗に壁ドンされているではないか。 「優斗をいじめたいんだよ。」 「で、俺を使って嫉妬させようと?気持ちは分かるな。」 「ああ、分かるか。」 共感を得られて、圭斗は嬉しそうにますます体を近づける。これも、優斗をいじめるための行動なのだろうが、庵にとっては迷惑以外の何物でもない。 「どうしたらあいつ俺に嫉妬するんかな。」 「お前は優斗と俺が二人でるいだけで嫉妬するよな。」 「だって、お前、前科あるし。」 「さーせん。」 両手を上げて、降参のポーズをとってみせながら、ちらっと優斗の様子を窺った。優斗はカップスープで両手を温めながら、ジーとこちらを見つめている。 気にしている。すごく気にしている。でも、俺を追い詰めている圭斗には分からないだろう。もったいない事してるなぁ。庵は、かわいそうなものを見る目を圭斗に送ると、肩を押して距離をとった。 「まあ、お前に手を出す気はないんで、一人で優斗をいじめてればいいんじゃないか。あ、報告は宜しく。」 「お前って、確信犯だよな。」 優斗には手を出しただろ、と圭斗は胡乱な目つきをする。 「何の事だか。」 庵はその目に気が付かないふりをして、席に戻った。 ****** 寒がりなくせに暖房の風が嫌いな優斗は、冬は厚手のカーディガンを羽織って、ふわふわのひざ掛けを掛けて、もこもこの靴下を履いて、湯たんぽを抱えて暖をとる。 夏も動物みたいだと思っていたが、着膨れした姿は冬眠前の動物の様だ。圭斗はベッドを背もたれにして座る動物の手を引いて、自分の膝の上に座らせた。 「け、圭斗?」 抱きしめても、もこもこが邪魔をして全然優斗の感触がしない。圭斗はどきまぎしつつも大人しくしている優斗に、ド直球に尋ねた。 「お前って、何されると嫌だ?」 「物隠されたり、無視されたり、陰口言われたり。」 「嫌がらせじゃねぇか。」 「嫌だろう。」 「もっと遊びの延長で頼む。」 そう言うと、彼は居ずらそうに身じろいだ。 「……圭斗はいつも俺が嫌だって言うことするじゃん。」 それはこの体勢を言っているのか。 「嫌なのか?」 丸い頬を撫でて尋ねれば、ぼっとその頬が赤く染まった。 「ゆーとくーん?」 「だーっ!!もう、止めろ!」 「やだね。擽ってやる。」 優斗の反応はいつも圭斗の嗜虐心を刺激してくる。悪戯心に火の付いた圭斗は、そのまま彼の脇腹を擽った。 「やめ、ちょ…っ」 「どうだっ」 「――っ、――っ」 しかし、彼は、大騒ぎするでもなく、ビクビク震えながら、声を押さえている。 「なんだよ、大人しいな。」 脇腹の肉がびくんと跳ねて、優斗が逃げるように身をよじる。圭斗はそれを意地悪く追って、彼の反応を楽しんだ。 「…っぅう、……ひっ」 「なあ、もしかして、気持ち良い?」 「――っ、な、ばかぁ!…っぁあっ」 ビクビクと震えて、小さな口から甘い吐息を漏らす彼は善がっているようにしか見えない。まさか、くすぐりで性的に反応するとは思わなかったが、これはいわゆる据え膳だろう。圭斗は服の上からの感触がもどかしくて、その手を裾から侵入させた。 生で触った肌は暖かで滑らかだ。すうっと、臍下を擽ると、「ひぁっ!?」という声と共にそこの筋肉が痙攣して逃げた。このままズボンに手を入れて、めちゃくちゃに犯したい。そんないけない妄想に取りつかれる。でも、ダメだ。まだそれは犯してはいけない領域な気がする。 圭斗は欲望と理性を天秤にかけながら円を描くように指先を動かし、上へと手を移動させた。 「ぁ、ぅんっ…やめ…っ」 いやいやと涙目で首を振る優斗に、ほんの少しの罪悪感が芽生える。しかし、この背徳感に興奮する。 「…っひぁあっ!」 手のひらを胸に当てると、それだけで優斗は背を逸らせて声を上げた。 「心臓、スゲー、バクバクいってる。」 胸に当てた手のひらに、中心の突起が当たっている。尖ったそれに、圭斗はこくりと唾を飲んだ。ここを弄ったら、彼はどんな反応をするのだろうか。そう考えると、圭斗の心臓も、どきどきと高鳴った。 ゆっくりと、優しく。確かめるように手のひらを動かす。 「ゃ、ゃあ…っ」 「優斗…」 甘い声に耳が蕩けそうだ。 「…っ、ぁあっ、ゃぁ…っ、だ、め…っ」 身を縮めて善がる優斗が可愛くて、背を丸める彼に覆いかぶさって、そこを摘まんでくにくに刺激した。 「…や、だ!やだぁ…っ!」 「優斗、ここが良いの?」 「違う…っ!」 欲望に負けて、片方の手を下半身に伸ばす。しかし、すんでのところで、中心ではなく、内腿のきわどい位置に手を置き、撫でさする。 「じゃあ、ここ?」 「――ぁあっ」 声を上げた優斗が、きゅっと、腿を絞ると、圭斗の手は、左右の太股に挟まれてて動けなくなってしまった。これでは指先しか動かない。仕方がないので、指先で、そこを嬲ると、あ…っ、あ…っ、と優斗がか細い息を吐き出した。 「くすぐったい?」 「…は、ぁ…っ」 無理やり手を引いて、骨盤に指を置く。 「んぁぁああ…っ!?」 すると、一際大きな声を上げて、優斗が圭との腕の中から逃げ出した。でも、途中で力尽きて、腰を浮かせたまま床に上半身を鎮める。すごく卑猥な体勢だ。 「え、何それすご。」 「ひゃ、ひゃめぇ…っ」 「ここ、ヤバい。」 「ひぃや…、やだぁっ…っ!!」 目の色を変えた圭斗がそこを嬲り続けると、とうとう優斗が声を荒げた。 「ふ、ぁぁあああんっ」 「あ、おい、優斗。」 「やだって言ってるのにぃ…っ」 感極まった優斗がぼろぼろ泣き出してしまった。やばい、苛めすぎたか。 「ごめんって。もう苛めないから。」 「ぅ、…ぐず…っ、知らない…っ」 「優斗―。」 「…ばかぁ…っ」 生殺しだと思いつつ、圭斗は優斗が泣き止むまで大人しくその体を抱きしめていた。 ****** 「と、言う訳で泣かせてしまった。」 先日、「報告は宜しく」と言われていた圭斗は、律儀に庵にくすぐりの件の報告をした。 「ざまーみさらせ。」 「ムカつくわぁ。」 「俺もお前にムカつくわ。」 「俺、なんかした?」 「一年近く年齢と学年を偽っていました。」 ――あと、優斗もとられた。 「言わなかっただけで、嘘はついてねぇもん。」 言われなくても「」の外の本音は知っている。圭斗は、それでも、それに気が付かないふりをした。 「あー、さいですか。」 庵も、気づかないふりをしている彼に気づかないふりをした。
似非彼女と苛めたい
「と、言う訳で、優斗を苛めたいんだけど。どうしたら良いと思う?」 『とりあえず庵君に同情するわ。』 優斗を苛めたい!嫉妬させたい!と切に思う圭斗は明に電話し、その溢れ出さんばかりの想いを相談した。 「あいつのことは良いんだよ。」 『あなたなんか優斗を掘る前に庵君に掘られてしまえばいいのよ。』 「怖い!それ怖い!止めて!って言うかなんで怒ってるんだよ!」 『仕方ないから、貴方と優斗の仲に修復できないくらい深い溝のできる案を出してあげるわよ。』 「やっぱりやめようかな!」 『今から私は貴方の彼女よ。そういう設定で過ごしなさい。分かったわね。』 「え、マジで、ちょ……切れた…。」 そんな会話をしてから、十分に一回明様からメールが来るようになった。 朝「おはよう」から始まり、昼「日常の報告」をしてきて、夜「お休み」で終わる。普段メールのやり取りをあまりしない圭斗の受信ボックスは、明様の名前で埋まっていた。 「圭斗、最近いつもケータイいじってるけど、何してんの?」 さすがの優斗もこれを指摘してきた。 「あー…、メールの返信。」 でも、返す言葉なんてこれしかない。まさか彼女とメールをしているとは言えないし(明様の設定に逆らうと言う選択肢は無い)そんな圭斗の答えに、優斗は三秒ほど彼の顔を凝視すると、目を伏せて、 「……ふーん…」 と、興味なさげな返事をした。 言葉ではそんなことを言いつつも、仕草が心の中を映している。 (そのメールの相手って誰?何でそんなに頻繁にメールしてるの?)→(あー、でも言ったら鬱陶しがられるよな。)→「……ふーん…」ですね。わかります。 「~~あぁあ…っ、くそっ!可愛い…っ」 「圭斗?」 手で顔を覆って悶絶すると、優斗が拗ねたような、それでいて不安そうな声で名前呼んできた。違うんだこれはメールの相手に悶絶しているわけでも、内容に悶絶しているんでもないんだ。優斗が、俺の恋人が可愛くて悶絶しているんだ! 耐えきれなくなって、圭斗は隣に座る彼の腰に手を回して抱き寄せる。「ふぇっ!?」と可愛い声を出した彼の髪に指を絡めて、こめかみ・額・瞼・頬に口づけて、 「え、や、ちょっと…待って…っ」 距離をとろうと押してくる手を無視して耳を食んで囁いた。 「優斗、可愛い…」 「~~~っ」 意識して吐息を耳に吹き込むと、ゾクゾクとその体が震えた。耳まで真っ赤になった優斗の可愛さプライスレス! しかし、何者かに襟首を掴まれて、圭斗は優斗から引き離されてしまい、至福の時間は強制終了させられてしまった。 「公共の場で公開セクハラしてんじゃねぇよ!」 庵だった。 ****** 例のごとく、圭斗が優斗の部屋でまったりしていると、圭斗のケータイが着信を知らせた。このゴシック調で迫力のある曲は明様からの着信である。 「もしもし。また?」 『またとは失礼ね。彼女らしく一日一回はラブコールしようと思ってるんじゃない。ただでさえ遠距離なんだから。』 「あーはいはい。」 『言葉とは裏腹に声が楽しそうね。』 「そりゃあ、反応が面白くて。」 そう言って、机に向かう優斗をちらっと伺う。頑なにこちらを向こうとしていないが、先ほどまで機械のようにパソコンのキーを叩いていた手が止まっている。 『で、私のメールに律儀に返信してくれてるわけだけど。』 「ほんと明様の友達、キャラ濃すぎて飽きないわ。美少女が美少年二人担いで登校するってなんなの。」 『あれは三人とも男よ。』 「あははっ、マジかよっ!」 笑い声をあげると、やっと優斗がこちらを向いた。でも、目が合うとすぐに視線をそらしてしまう。 「あー、ほんと可愛い。」 思わず口に出すと、優斗の体が硬直した。 『ホント好きねぇ。』 「ああ、好きだよ。」 伊達メガネの奥の目が泳ぎだす。 『じゃあ、おやすみなさい。』 「おお、お休み。」 通話終了。 すると、優斗がわざとらしく明るい声で話しかけてきた。 「電話の相手、明様だったんだ。」 「ああ。」 「メールも?」 「ああ、そうだけど。」 「…そっか。」 笑っているけど、瞳に不安が隠せていない。空元気もどこかに行ってしまった様だ。 「……なぁ、圭斗。」 「なんだ?」 不安げな優斗まじプライスレス! しかし、圭斗は荒ぶる心の内を隠して、努めて冷静に返事をする。 「…俺のこと……、ううん、何でもない。」 言えよ!そこは「俺のこと好き?」って涙目で聞いてこいよ! そんなことを考えていると、席を立った優斗が圭斗の隣に腰を下ろしてきた。そのまま、首を傾けて、肩に頭が乗ってくる。 うわー、うわー、うわー、何この子!あざとい! 「ゆ、優斗?」 「圭斗、好き。」 「~~っ」 もう、何なのこいつ!俺をどうしたいの!「好き?」って聞くのは鬱陶しがられると思ったの?「好き」って言えば良いやって思ったの!? 「俺も、優斗が好きだよ!」 ああ、こんなことでそんな嬉しそうな顔するんじゃねぇよ!もっと欲しがれよ! 「…優斗。」 「いや、これ以上はちょっと…」 真面目に迫ったらまた逃げられた。だから逃げるなよ! ♪ 「はいもしもし」 わちゃわちゃしているとまたケータイが鳴った。今度は、優斗も近くで聞いている。 『さっき言い忘れていたわ。明日私とデートしなさい。』 「はあ?デート?」 声を上げると、さっきまで逃げていた優斗が何も言わずに抱きついてきた。 『そうよ。明日の十一時に三鷹駅南口。可愛い雑貨屋さんがあるって聞いたのよ。』 「明様って、雑貨とか興味あんの?」 『あるわよ。妹に貢の。』 「うへー。」 『じゃあ、そういう事だから、よろしく。愛してるわ。』 ツーツーツー… 電話が切られた。 しかも最後の「愛してる」は優斗にも聞こえる音量だった。というか聞かせるために言っただろう。 優斗は未だ無言で圭斗に抱きついている。 「あー、優斗?」 「圭斗は明日は明様とデートか。」 「いや、デートって言うか。」 「俺は庵とデートか。」 「はあ!?」 抱きついていた優斗がバッと効果音付きで離れた。 「庵と吉祥寺デートだもん!」 「おいちょっと待て。お前さっき俺のこと好きだって言ったよな?な?」 「うん。言った。明日は吉祥寺行って靴下屋さん見て、靴屋見て、お昼は井之頭公園で食べて、画材屋行って印刷用紙買って、カラオケ行って、楽しみ!」 うわぁ笑顔がシャイニング!でも聞き捨てならないゾ☆ 「何それ?デート!ていうかカラオケとか密室ダメ絶対!」 「ボートも乗りたいなぁ、アイスも食べたいなぁ。」 「あああああああ」 「男二人でボート乗って、腐女子にツブヤイターで拡散されるんだ。」 「それ楽しみか!?」 「うん!超楽しみ!圭斗も楽しんでこいよな!」 そんな親指立てて送り出されても、 「いや、まてやっぱりだめだ!」 「うるさい出ていけ。」 ああ、親指が下を向いた。閉め出された。 「優斗―っ!」 控えめに叫んだ声は控えめに寮の廊下に響いた。
好きな子苛めの結末
「庵!お昼は井之頭公園で食べような!俺、弁当作って来たから!」 「マジで、ほんと女子力高いな。」 「へっへー」 日曜日、靴下屋さんで六十円の靴下を大量に買い、欲しかった青い靴も買えて、優斗は上機嫌で庵に纏わりついていた。その顔に、先日の不機嫌な様子は微塵も見られない。 過去を引きずることをせず、好きなものにど嵌りすることはあっても、物事に執着しないし、根に持たない。それが自分の良い所だと、優斗自身そう思っていた。 圭斗が誰と仲が良くても、誰と何をしていても良いのだ。だって、自分だってこうして圭斗以外の人と仲良くして、楽しんでいるのだから。 「今日、坂本兄の話はしないのな。」 「えー、何それ?俺がいつも圭斗の話ばっかりしてるみたいじゃん。」 「みたいじゃなくてしてるじゃん。」 「そっかー?まあ、良いじゃん。今は庵とデートしてるんだから。」 そう言って、背の高い彼の腕に抱きついたら、軽く眉を寄せられてしまった。 「ごめん?嫌だった?」 気になって聞くと「はぁ、」とため息を吐かれて、「俺以外にはそういうことするなよ。」と、頭を撫でてくれた。頭を撫でられるのは大好きだ。ほわっと暖かい気持ちになれる。優斗は、えへへ、と笑みをこぼして、庵に懐いた。 正午、雑貨屋での買い物を終えた圭斗と明は、せっかくだからと弁当を買って、井之頭公園で食べることにした。 桜の木の下に弁当の入っていたビニール袋を敷いて、池を眺める。いや、睨みつけると言った方が良いか。 「私、あなたの尾行に付き合うためにデートに誘ったんじゃないんだけど。」 そう、圭斗の視線の先には、ボートに乗る優斗と庵が居た。 「あいつら、ホントにデートしてっし。」 「ちなみに私はツブヤイターで拡散したわ。井之頭公園にホモが居るって。」 「ホモじゃねぇよ!いや、ホモだけど、相手が違う!」 「荒れてるわねぇ。」 そうしている中も、庵は優斗の髪に乗った葉をとってやり、優斗はそれに零れんばかりの笑顔を向けている。 「ああっ、優斗に触ってんじゃねぇよ!優斗もそんな顔平気で人に向けてんなよ!」 「男の嫉妬醜いわー」 一向に箸の進まない圭斗を気にせず、明は着々と弁当を食べ進めた。 「さあ、召し上がれ!」 圭斗と明とは違い、きちんとビニールシートを用意してきた優斗は、そこに弁当を広げて、楽しそうに促した。 「スゲー、旨そうじゃん。」 ポテトサラダに、鮭のホイル焼き、里芋の煮物と水筒に入ったトン汁。統一感も無ければ、弁当に相応しいおかずだとも思えない。しかし、一つ一つ美味しそうで、野菜もたっぷり使ってあって体に良さそうだ。 「味の保証はしません。」 そんなことを言うが、食べてみたらやっぱり、美味しい。 口にしたポテトサラダは、ジャガイモと一緒にサツマイモも使ってあって、リンゴがしゃきしゃきで甘味が癖になる。 「おいしい。」 「マジで!?やったぁ!」 ちなみに、同時刻それを盗み見した圭斗が 「そうだよ、優斗の料理は美味しいんだよ、っていうか俺だって滅多に優斗の手料理食べられないのにくっそ羨ましい!渡辺破ぜろ!」 と、騒いでいたのは明しか知らない。 「坂本弟、印刷用紙買った後はどうする?」 「カラオケ行きたいな。前言ってたのキャラソン入ったって。」 「マジで、俺も歌いたい。」 「一緒に歌おうぜ!」 「ラブソングデュエットメドレーしようぜ!」 「あははっ、バカだ!バカだお前!」 馬鹿話で盛り上がる二人、圭斗はそれすら気に入らない。ああ、もうどうして優斗はこう警戒心が薄いのだろうか、相手は仮にも優斗にキスしてきたあの庵なのに。 桜の木の影から、二人を盗み見ては、イライラゲージを確実に上げていく圭斗に明が声をかけた。 「圭斗。」 「何だよ、明様。」 「――圭斗。」 再び圭斗を呼ぶ声は、別段声量を大きくしたわけでもないのに、良く響いた。透き通るように空気に染み込み、反響して広がる。鼓膜に戯れに触れては体の芯で弾けて、脳を揺さぶる。 優斗と庵がこちらを振り返る。圭斗は響いた声に呆気にとられて、間抜けな顔を晒した。その目に映るのは、美少女の可憐な面。ゆっくりと近づいたそれは、唇に触れる寸前んで止まり、スッと離れて行った。 ――え、なに…? 「優斗!!」 庵の叫び声で我に返る。弁当らしくない弁当がそこに置き去りにされていた。 優斗の足は思っていたより速くて、いつまでたっても減速しない。運動は嫌いだって言っていたじゃないか。 「優斗!」 走り回って、やっとその手を掴んで捕まえた。もうここが公園内のどの位置なのかも分からない。 「あ…っ、ひ…、ごめ…っ」 話すことすらできないほどに息を乱して、優斗はその場にしゃがみ込んでしまった。ヒューヒューと喉を鳴らして、眉に力を入れて、涙をこらえる。 庵は、小さく体を丸める彼を長い腕に閉じ込めた。 「もう、忘れろよ。」 「…やだ。」 反って来た否定の言葉は、震えているくせに覆せない頑なさがあった。庵は、欲と一緒に長い息を吐き捨てる。 「……さっきの、ちゃんと確かめた方が良いんじゃないか?坂本兄からしたようには見えなかったし、そもそも見間違いかもしれないし。」 「違う!」 「優斗?」 「そうじゃなくて、圭斗は関係なくて――」 優斗の為を想って、優斗の傷つかない言葉を選んだ。庵は圭斗が優斗をどれだけ好きかを知っているし、彼の計画も知っている。でも、それに対する優斗の答えは予想していたものの中に入っていなかった。そんなに辛そうな顔をして、関係ないと言う意図が掴めない。 「優斗!」 茂みから、圭斗が飛びだしてきた。どこから出てくるんだよ、お前。 「――っ」 庵の腕の中で優斗の体が跳ねる。逃げ出そうとする彼を取り押さえて、彼に引き渡した。 「やだっ!放して!」 「放さない!」 逃げようとする優斗を圭斗は羽交い絞めにして、その顔を覗き込んだ。腕の中の彼が、いやいやと首を振る。 「お願いだから…、ちょっと待って…」 「待たない。」 「一人に」 「しない。」 どんどん俯いていく優斗の頬に手を添えて、そっと顔を上げさせる。居た堪れなさげに泳いでいた瞳は、耐えられない、と閉じた瞼で隠された。 「…ごめん。」 消え入りそうな声で優斗が呟いたのは、謝罪の言葉。 「はあ!?何で、お前が謝るんだよ。」 お前は俺を罵倒する立場なのに、謝らなければいけないのは俺の方なのに。 「だって…」 「優斗?」 優斗がスッと瞼を上げた。瞳にめいっぱい涙が溜まって揺れている。 「俺は、圭斗が好きだから、それで良いのに。圭斗が居るってだけで良いのに。圭斗が誰と仲良くしてたって、誰のことが好きだって、俺が圭斗を好きならそれで良いのに…っ!」 話すうちその瞳からとうとう涙が零れ落ちた。頬に触れた圭斗の手を暖かいそれが濡らしていく。 「関係ないはずだった!圭斗が誰を好きだって俺の気持ちは変わらない!圭斗のことを想うだけで幸せだって、そこに居るって分かってるだけで幸せだって!それが好きって気持ちなんだって思ってたのに!」 こいつは何を言っているんだろう。俺は何をしていたんだろう。手の甲を濡らす涙が透明でとても綺麗で、彼の思う愛の形が純粋過ぎて。 「圭斗が、明様とメールしてるの、気になって。でも、俺にも構ってくれるから良いんだって、圭斗が明様のこと好きって言っても、俺の気持ちには関係ないって、圭斗が明様とデートしても、俺のことを嫌いになった訳じゃないんだから良いんだって、…思ったのに…っ」 こいつを、こんなに純粋に俺を想ってくれているこいつを、こんなにぐちゃぐちゃになるまで、悩ませて、泣かせて、叫ばせているのは誰だって。 「圭斗が明様と…き、きす、してるところ、見て…っ、すごく悲しくなって、虚しくなって、そう思う自分が情けなくって、俺は、ただ、お前が居れば良かった筈なのに…っ!お前の幸せ考えられないんて…っ!こんなどろどろした気持ちが俺の中にあるなんて…っ、俺は…っ、こんな気持ち…要らない……っ!――ぅん…っ」 気付けば、叫び続けるその口を塞いでいた。愛しくてたまらない。抑えるなんて無理だった。 「ふ…ぅん…っ、ぁ…ぅ、ンふ…っぅ…」 俺が好きなのはお前だけなのに、もっと欲張って良いのに ――バシンッ 「――ってぇな!何すんだ!」 後頭部の衝撃で我に返る。圭斗は叩かれた頭を押さえつつ、加害者庵に文句を言った。 「何すんだじゃねぇよ!お前は猿か!?盛る前に弁解しやがれ!」 「…あ。」 庵に言われて、腕の中の優斗を窺うと、息をきらして、不安げにこちらを見つめる彼と目が合った。 「…はぁ…っ、はぁ…っ、圭、斗?」 今度は衝動でなく、愛しさの限りを込めて、こめかみに唇を落とした。 「ばか。おまえ、本当に馬鹿。俺を責めることを知らないで、俺を責めるべきところで自分を責めて。どれだけお人好しなんだよ、お前。本当、どうしろって言うんだよ…。」 「圭斗…」 「…あのな、優斗。俺はお前だけが好きだ。俺はお前が好きで好きでお前が渡辺と仲良くしてるだけで嫉妬するんだ。」 目を合わせてそういうと、優斗の顔がぼっと染まる。 「俺ばっかりお前を好きみたいで正直面白くなかった。だからお前に嫉妬して欲しくて、明様に協力してもらった。あとあのキスはフリで本当にはしてない。」 「…嫉妬、して良いの?」 「しろよ。」 恐る恐る聞いてくる彼に、続けて言ってやる。 「ただ好きなだけ、想うだけで幸せって、俺はアイドルか何かか。自分のものにしたい、独占したいって醜い気持ち込みで恋とか愛とか言うんじゃねぇの?良く分かんねぇけど。というか、お前は嫉妬とかされるの嫌いかもしれないけどさ、俺はお前からの嫉妬なら大歓迎だよ。」 それを聞いた優斗は何故かキョトン顔。 「俺、圭斗からは嫉妬も束縛もされたいよ?」 「はあ!?なんだよそれ!?」 その言葉に思わず声を荒げてしまう。でもこれは俺が正しい。 「え、あ…ごめん。」 「じゃあ何でさっきみたいな考えになるんだよ!?」 「だって、俺はそうだけど、圭斗もそうとは限んないじゃんか!」 「あー、もう!」 本当、お前って分かんねぇ! 衝動のまま、圭斗は優斗のサラサラな髪をぐちゃぐちゃにかき乱してやった。 分からないから、これからはこいつを苛めるなんて考えずに嫌だと言われても甘やかし続けることにする。あれ、それって苛めかな?まあ良いか。 庵と明は「勝手にやってろ、バカップル」と二人の知らないうちに帰ってしまった。
心が読めたら
「最近時間がたつのが早いんだよな。」 「あー俺も。大学入ってから特に。」 それが楽しくて時間を忘れているのか、怠惰に過ごして、思い起こす思い出が無いからなのかは……まあ、両方だろう。プラスの感情で時間を忘れることは、その感情が途絶えた時に気づく。その時の満足感には、大きな消失感が付きまとう。怠惰に過ごしている時間は、自分が何か重大な犯罪を犯しているかのような錯覚に陥る。有限の時間を無駄に称している感覚。クルクルと回る世間に、世界に背を向けて、目を回すほどの混沌を無視する罪悪感。だから、ふと気が付いた時は、それは、心が病んでくる合図なんだ。 「鬱だ。」 「もっと一瞬一瞬を大事にしたい。」 「分かった意識して感じればいいんだな。」 「え、ちょ…っ」 圭斗は優斗に抱きつき、至近距離で見つめた。優斗はそれを両手でぐいぐい押して、離そうとする。 「ちょ、っと…っ、やだっ、離して…っ」 恥ずかしんだって、分かってる。だから離さない。そうすると、優斗は諦めて、顔を圭斗の肩に押し付けた。 こいつは触られるのが嫌だとかじゃなくて、至近距離で顔を見られるのが恥ずかしいらしい。だから、圭斗はそれを知っていて無理やり顔をこちらに向けさせる。 「やめろよ!」 往生際悪く、優斗は、上げさせた顔を腕で覆って隠そうとした。しかし、圭斗は腕を持って引きはがし、それをさせない。 「…ゃだぁ…っ」 消え入りそうな声で呟いた優斗はもう半分泣いている。圭斗は彼の相変わらずの反応に、不満を訴えた。 「なんでそんなに嫌がるんだよ。」 「なんでそんなに嫌がることするんだよ。」 言葉は強気だが、瞳はうろうろとさまよっている。見られるのも嫌だが、見るのも嫌らしい。 「優斗を、意識して感じようと思って。」 「な、おまえ、馬鹿だろ!?」 赤くなった優斗に満足して、その耳に囁いた。 「おまえも俺を意識して感じろ。」 言った途端、優斗の体が小さく震えて、圭斗の脇から回った腕が、圭斗の頭を掻き抱いた。 「…優斗。」 意識して低い声で囁くと、腕の中の体温が上がって、頬を摺り寄せた首筋から伝わる心拍がドクンドクンと大きくなる。今、自分は彼を感じて、彼は自分を感じている。 圭斗はふっと、吐息で笑った。そんな些細な事でも優斗がぴくんと反応する。 「――やっぱ、無理。」 反応して、再び抵抗が始まった。 「何が無理?」 「無理、無理だもん。お前、なんて意識して感じたら、変になる!」 涙目で訴えるそれは熱烈な告白でしかない。暴れる彼を抱きしめて、無理やり唇を合わせる。彼は、切なげに眉を寄せて、一筋涙をこぼした。 角度を変えて、唇を押し付けて、ぎゅうっと硬く閉じたままの唇に焦れて、その唇をぺろっと舐める。驚いた彼は反射で身を引いて、「ゃ…っ」と拒絶を口にしようとして、口を開いた。すかさず圭斗はその小さな隙間から舌をさし入れる。優斗はその舌を噛もうと思ったのか、歯で挟まれたが、それは甘噛み程度で止まった。多分、噛んだら俺が痛いから、止めたんだろう。そんなんだから、つけ入れられるんだよ、と圭斗はその口内を好き勝手にかき回す。そうすることで、「ふ、ぅ、」と優斗鼻から子犬が甘えるみたいな音が漏れた。 やっと彼を開放すると、離した唇が銀の糸を引く。それを見て、優斗はぼろぼろと涙を流した。ここまで来ると、さすがの圭斗も慌ててしまう。 「また…舌、入れた…」 「わ、悪い…」 「信じらんない…」 「でも、好きなら、入れたくなるだろ。」 「ならない…」 「そんなのはお前だけだ。」 「俺、こういうの苦手なのに…」 泣き顔を見られまいと、クロスした腕に顔を伏せて、しゃくり上げる優斗に、圭斗は途方に暮れてしまう。 「ごめん、嫌だったよな。」 「…」 沈黙は肯定だ。否定的な言葉を優斗は使えないのだ。だが、だからと言って、「もう、しないから」とは言えない。だって、自分は彼に触れたいのだから。 圭斗が黙ってしまうと、優斗が顔を伏せたまま抱きついてきた。 「優斗?」 「…俺、お前のこと、ちゃんと好きだから。」 「…。」 「こういうの、嫌だけど、それは、その…恥ずかしいって言うか、なんか、わけわかんなくなって、戸惑うって言うか…。」 「嫌じゃ、ないの?」 「嫌だよ。…だって、お前、いつもと違うもん。」 「違うか?」 「なんか、ぎらぎらしてて怖い…」 圭斗は目を伏せる優斗の頬をゆるゆると撫でた。 「じゃあ、ゆっくり、優しく、しようか?」 「――っ」 途端に顔を強張らせる優斗。 「あ、甘いのは甘いので嫌だ!」 「じゃあ、どうしろって言うの。」 「どうしたって嫌なの!」 真っ赤になった優斗は、圭斗突き飛ばして逃げ出した。 ****** 大学近くのドトォルで、茶髪を適度にセットした適度なイケメンと、艶やかな巻き髪の妖艶な美女が顔を突き合わせていた。 「なーんで優斗は嫌がるんかねぇ。」 男、坂本圭斗が言った。 「今度は何の話かしら。」 女、愛馬明がそれに答える。 「優斗がー。俺に触られるのを嫌がるからー。」 「それはこの前ツブヤイターのTLで解決したじゃない。」 愚痴半分、惚気半分の彼の話に、明はすでにうんざりしている。 「そうだけど。」 「そんなことで私を呼び出さないでちょうだいな。」 「まあまあ、ケーキもう一ついかがです?」 「カボチャケーキ追加で。――この前がっといってばっとやったんじゃないの?」 「がっといってばっとやったけど、嫌がり方が半端じゃなくて、結局上も下も局部に触れることすらできずに。」 「へたれ。」 「紳士!」 「しょうがないわねー。」 明はため息を漏らすと、ハンドバックから小さな金色の包みと、銀の包みを取り出した。 「何だそれ?」 「パパパラッパラー『気になるあの子の心の声が聞こえーる』銀の包みの薬を食べた人が、金の包みの薬を食べた人の心の声が聞こえるようになる。――使う?」 「使います!!」 ****** 「優斗、これやるよ。」 寮に戻り、いつも通り優斗の部屋で過ごして、夕飯も食べて、風呂にも入って、のったりした空気になったころ、圭斗は例の薬を取り出した。金の薬を彼に渡して、銀の薬を自ら口にする。 「何これ?」 「チョコレート。」 明言われた通りにそう説明する。 「ありがとう。」 (あ、おいしい。) 「マジで聞こえた。」 じぃっと見つめる圭斗を優斗が訝しんだ。 「圭斗?」 ――試作品だから、持続時間はいかほどか分からないのだけど。長すぎるってことは絶対にないから、食べさせたら急ぎなさい。 彼女の注意を思い出して、薬の効果が切れる前にと、早速彼の体をベッドに横たえる。ここまでは割といつも無抵抗だ。 「え、なにいきなり!?」 「…優斗。」 「や、ちょっ…、まって」 囁いて顔を近づけると、いつものように顔を背けられてしまった。しかし、いつもと違って今日は彼の心の声が聞こえている。 (顔、見ないで。男の顔見たって、萎えるだろ。ああ、俺がもっと可愛ければ良かったのに) 「優斗は可愛いよ。」 「なっ…っ」 (…ヤバい圭斗、好き。大好き。) 心の声が可愛すぎて死にそうだ。死因は萌えの多量接種か…悪くない。 「可愛いからこっち向け。」 それでも逃げようとする優斗の頬に手を添えて無理やりこちらを向かせ、唇を合わせる。 「…っ、ん…ぁっ」 (ダメだ、恥ずかしいし、変な声出ちゃうし、何でこんなに苦しいの…?もうやだ…、圭斗ぉ…っ) 「~~っ」 心の声が聞こえるのがこんなに心臓に悪いとは思わなかった。普段は手加減するところも、ホントは嫌がってないことが分かってしまうから歯止めがきかないし、いいところに当たった時も筒抜けだから、嬲ってしまうしで、いつも以上に濃く、時間をかけて口内を貪る。 上あごの歯列の裏が特に弱いらしく、舌先を擽るように動かすと、顎がやわやわとけれんして、とろけるような甘い声が鼻から漏れた。 「…ぅん…っ、んぁ……、ふ…ぅう…っ」 薄らと目を開ければ、涙の幕を張った瞳と目が合って、瞬間ぱちんと、目を逸らされる。それでもお構いなしに、その瞳を見つめ続ければ、こちらを見ては逸らして、見ては逸らしてと瞳がうろついて、とうとう追い詰められて、涙を流した。 「う、…っふぅ…っ」 (触られたところ、熱いし、胸苦しいし、圭斗の目は真剣だし、) 「……やだぁ…っ」 (男のよがってるところなんか見たって面白くないだろ、ばか!) 圭斗を押しのけて顔を腕で覆って、ぼろぼろと盛大に泣き出してしまった。 そうか、こいつがいつも泣いたのってこういう… 「優斗。俺、お前の泣き顔に興奮するみてぇ。」 「え、何を…っ」 着ぐるみパジャマのボタンに手を掛けると、またも制止されてしまう。 「え、え?脱ぐの?」 「脱がないでどうするんだよ。」 (だってだって、これ以上とか、俺心臓もたない、死んじゃう。なに?本気なの?) 「俺は何時だって本気だ。」 「まって!明るいの…嫌だ……」 電気を消しに部屋の入口まで向かう。その数秒をとてもじれったく感じたが、ふりかった先で、枕元のライトをつけた優斗が、タオルケットを手繰り寄せて不安げにしているのがとっても可愛いので、±ゼロ。すぐに彼の元に戻って、彼のパジャマを腰まで下ろして、その脇腹に手を這わせる。擽りの時と同じ要領で、指先で嬲ると、びくびく震えて、優斗は再び顔を腕で覆ってしまった。 どうしてそこまで顔を見られることを拒否するのか。 無防備になった脇に舌を這わせた。 「な、バカ!汚い!」 「汚くねぇよ、風呂入ったばっかだろうが。」 「…ん、ぁあ…っ、そこ、だめ…っ」 逃げないように、腕を上げさせたまま押さえて、舐め続ける。喘ぎ叫ぶ優斗のもう片方の腕は俺を引き放そうとしているから、至近距離で、よがるその顔を見ることができた。 このアングルを、もう少し楽しみたい。そう思い、以前反応の良かった腰骨に手を添えた。 「あぁぁあ…っ、だめ!だめぇ…っ!」 って、声を上げるから、さすがに感じ過ぎじゃないかと思ったが、 (やだ、何で、もう頭ぐちゃぐちゃになる。圭斗が触ってくるところ全部熱い。わけわかんない。なんで、こんなの変だよ、おかしいよ、こんな声なんか出したくないのに、もうヤダ死にたい。) とか、つまり俺が好き過ぎて感じ過ぎて死にたいということか。 「あ――っ、もう!」 心の声の威力が半端なさすぎる! 一度冷静になろうと身を起こすと、頬を桃色に染めて、口を半開いた優斗が涙目で見つめていた。まだ上も下も局部に触れもいないのに、この蕩けた表情。 思わず喉を鳴らすと、我に返った優斗が、頭の下から枕を引っ張り出して、それで顔を隠してしまった。 「何してんの。」 「……。」 だんまりを決め込むようだ。 「ふーん。お前がそうするなら、俺も好きにするわ。」 だって、こっちには「恥ずかしい」を連呼する心の声が聞こえているわけだから。 下っ腹から、内腿のきわどい部分に手を這わせると、ひくっとそこに力が入った。 枕に押し殺されて、声は聞こえないが、体の反応と、 (ひやぁ…っ) って、心の声と言うか喘ぎ声でよがっていることは筒抜けである。 中心も半勃だし、正直、思い切り嬲りたい。しかし、どうしてだろうか、素直にそこに触れてしまうより、もっと他を触って、焦らしたい。だから、まずは上からだと、つんっと尖った胸の突起に指を掛けた。 (やぁあ…っ、だめ、そこぉ…っ) 片方ずつより両方いっぺんに触った方が、反応が良い。あまりよくなりすぎないように、表面を撫でるように指を動かすと、じれったそうに、身じろいだ。 (あ、あ、気持ちいぃ…ん、ぁ、ぁあ…っ、もっと、強く…、んぁあっ、その角度いい…っ、) と、またもや要求は筒抜けで、言われるがままに思う存分いじり倒すことにした。 撫でるように触っていた指に徐々に力を込めていき、逃げ腰になる彼を抑えるために片腕で抱き寄せる。そのため空いた突起は舌で嬲ることにした。 (あああっ、ベロだめ…っ、ああ、熱くて、ぬるぬるして、柔らかくて、…んぁぁあああ…っ!) (もう、だめ、もっと…っ、くりくりってしてぇ…っ) 要望に応えて指で挟んでくりくり捏ねれば、 (んにゃぁぁぁあああ……っっ!!) って。 実際、枕を被った本人の口からは、くぐもった犬の甘えるような声しか聞こえないわけで、普段聞けない声にギャップで頭がどうかしそうだ。 摘まんで引っ張れば背を逸らせて、くすぐれば身をよじる。そして心の中では嬌声をまき散らす。 (やだやだやだ、やめてやめてやめて、もう…っ、もう…っ、変になっちゃうよぉ…っ) ――これは、面白い。 圭斗は撫でたり、くすぐったり、引っ掻いたり、摘まんだり、舐めたり吸ったり、甘噛んだりを繰り返した。 そうしているうちに優斗の腰がもぞもぞと動き出した。圭斗は彼の顔を隠す枕をはぎ取る。 「あ…っ!」 それでも必死で顔を隠そうとする優斗の腕を掴んで、意地悪く聞いた。 「優斗、どうした?」 「な、にが…?」 「どうして欲しいのか言ってみ?」 「なっ」 (あそこ触って欲しいけどそんなこと言えるわけないし、と言うか何でこいつこんなに苛めてくるんだよ、ばかぁ…っ) 涙目で睨んでくる顔も、心の声も大変可愛らしいが、聞こえないふりをする。圭斗は骨盤に手を這わせて、ほら、と促す。 「や、め、だから…っ、そこ、だめ…っ」 「なに、ここが良いの?」 (そこも良いけどそこじゃなくて、だから…っ) 「ぅう…っ、く…っ、ふ…っ」 「あ、おい、優斗!?」 本格的に泣き出した優斗に慌てると、骨盤に触れていた手を、優斗に掴まれ、彼の中心に宛がわれた。 え、うそ、こう来るの? 「は、…ぁ…、も…っ、触ってぇ…っ」 (何やってんの俺、バカなの?こんなことして圭斗に嫌われたらどうするの?…ああ、嫌われたら消えればいいや……) 「何、物騒なこと考えてんだよ。」 ぐずぐずと鼻を鳴らし、ぼろぼろ涙を流す優斗がいじらしくて、赤く腫れた目元に口づけて囁いた。 「優斗、好きだ。可愛い。愛してる。」 「…は、ぁ…」 同時にゆっくりと、そこを撫でると、ぶわわっと優斗の顔が歓喜に染まって、その言葉と、やっと与えられた直接的な刺激に、優斗はほっと息を吐いた。 「…ぅんっ」 すでに蕩けているそこに、先走りを擦り付ける。先端に指を滑らせると、ビクビク震えて、またじわじわと濡れてきた。 ぷくっと溢れ出した液が、竿を伝い落ちる。その感覚にも感じるのか、優斗は「ひう…っ」と息をつめた。 「優斗、好き。可愛い、優斗。」 愛を囁きながら、彼の感じるところを暴いていく。 「ん、にゃぁああ…っん、けいと、けいとぉ…っ、だめ、もう、むり…っ」 手と言葉で攻められて、優斗の体も心もぐちゃぐちゃにかき乱される。 「ん。良いよ、イって。」 スパートをかけて強く抜く。先端を強く擦ると背をビクンと逸らせて、達した。 「ぁあ…っ!」 脱力する優斗を、圭斗はぎゅっと抱きしめる。 「あ、圭斗…汚れる……」 「うん。」 「圭斗?」 「うん。」 圭斗は優斗の後ろに手を伸ばすと、その蕾をそっと撫でた。 「圭斗!?」 「うん。」 「え、え、やるの?」 「ん…だめ?」 「うん、ダメ。」 「何でだよ。」 「寮じゃ準備できないの。分かるだろ?」 圭斗はぼすっと音を立てて優斗の上に倒れた。 「あ~~~」 男同士でやるにはそりゃぁ準備がいる。寮の共同の風呂じゃ腸洗浄もなにもできないもんな。でも…それを知ってるってことはこいつも色々調べてたってことで… ――悔しいやら嬉しいやら… 「あのさ…」 優斗が身じろいだ。圭斗が重いのか、それとも圭斗の主張した息子が当たっているのが気になるのか。 「ん?」 圭斗は気だるげに答える。 「俺も、頑張るから…」 優斗の手が圭斗の中心に触れる。居づらくて身じろいだのでは無かったのだ。 「なっ!」 「俺、あんまり自分でやったりしないし、下手かもだけと…」 「え、ちょ、ちょい待ち!」 慌てて体を起こす。いつの間にか彼の心の声が聞こえない。一回達したらから効力が切れたのだろうか。 「だめなの?」 拒絶された優斗が悲しそうに見つめてきた。心の声は聞こえなくとも、これくらいは分かる。 「だめじゃない。」 ああ、不安になる優斗、超可愛い。でもこいつにやられて余裕な反応していられないというか、どう応えればいいか分からないというか。 「だから…、えっと……一緒にやるか?」 服を脱ぎ捨てて、圭斗は座った体勢のまま優斗を抱き寄せた。自分の上に彼を座らせて腰を密着させる。優斗に、彼と自分のそこを握らせて、自分の手を被せる。緩く動かすと、優斗が余った左腕で圭斗にすがってきた。ぎゅっと抱きしめ返して、右手を動かす。 「…あ、んっ…っんぁ…っ」 「…っ」 優斗の甘い声が、耳に直接響いて、脳みそが蕩けそうだ。 「や、やぁ…っこれ、ヤバい…っ」 「…俺も…」 再びどろどろに溶けた優斗が泣き声交じりに、圭斗を煽る。 「圭斗の、熱い…っ、」 「…優斗、優斗」 「ふぁ、ぁ…?」 「キスしよ。」 彼の小さな頭を持って、顔を上げさせて唇を合わせる。 「~~っ、~~っ!!」 「んっ――」 小さな口を貪ったまま、絶頂に登り詰めた。 明「で、どうだった?」 圭斗「んー。まあまあ成功?」
仕返し
山百合大学では、自分の専門以外の授業もとることができる。例えば坂本優斗は美術科であり、その中でもグラフィックデザインを専攻としているが、彼は油彩の授業をとることもできるし、もっと言えば全く関係の無い体育科の授業も受けることができる、という事である。 そして、この日は一限から油彩の授業をとっていた。実技系の授業は、開始前に準備をする必要があるため、早めに登校することになっているのだが、自由人の多い美術科勢は、時間ぎりぎりに登校する者も少なくない、いっそ、遅刻しなければ上場といった具合だ。しかし、例外は居る。 自由人であることを公言する坂本優斗は、その言葉とは裏腹にいつも始業三十分前には登校していた。理由は簡単。敵を作りたくないから。自身が時間にルーズな人が嫌いとか言う訳でなく、『時間にルーズな人が嫌いな人』に嫌われたくないのだ。 『~が嫌いな人に嫌われたくない。』彼の行動原理はいつもここに在った。 「優斗は良い子だなぁ。」 何かの拍子に石井にそう言われて、嬉しいと思うと同時に、少し違うな、と思った。彼の考えるいい子はきっと「想いやりのある」とか「人の気持ちを考える」とかそういうことを言うのだろう。しかし、優斗は違う。自分の心の平穏のために、周囲の人を皆いい人だと思い、言葉や行動を皆いい方に捕え、悪口悪行の裏にある理由を想像して有耶無耶にしているだけだ。 しかし、そんなことは口には出さない。誉められたのだから喜べばいいのだ。だからテンプレ通り「わーい」と笑顔で懐いておいた。 閑話休題。 いつも通り、優斗が早すぎる登校をすると、いつも時間ぎりぎりにやってくるはずの渡辺庵がそこに待ち構えていた。優斗は、彼を確認して意識的に人懐っこい笑顔をつくる。笑顔は、敵ではないというサインだ。 「庵、おはよう。早いなぁ。」 「悔しくは無いのか。」 言葉のキャッチボール不成立。美術科ではよくあることだ。優斗は全く気にしない。 「何が?」 「圭斗のお前に嫉妬させよう作戦だよ。」 「えー。別に。だって、俺が素直にならないのが悪かったんだし。」 言われたことを真正面から受け止めて、良い方向に昇華するのは、優斗の心の平穏を守るための技だ。圭斗が優斗に嫉妬させたくて意地悪をしていたのは圭斗が優斗を好きだから。それが分かればただ嬉しい。それに原因は素直に慣れない自分にあるのだから、彼に怒ることもない。あの時は泣いてしまったが、もう終わった話だ。元から優斗はのど元過ぎれば熱さを忘れるたちであるので嫌な感情など全くなかった。 しかし、それを聞いた庵は、複雑な表情で拳を震わせる。 「天使!」 「うぇ!?」 がばっと抱きしめられて、優斗は思わず声をあげた。自分は天使と言われるようなことを言っただろうか。 「大丈夫!俺に任せておけば万事OKだ!」 「何が!?」 「俺とお前で恋人ごっこをするぞ。」 「お、おう?」 言葉のキャッチボール不成立。そして、流されやすいことに定評のある優斗である。 油の匂いの漂う絵画演習室で、なぜか優斗の意志に関係なく圭斗への仕返し計画が立てられた。 ****** 昼休み。距離的に美術科勢に一足遅れてC棟にやって来た圭斗は引き戸を開けて、一瞬顔を引き攣らせた後、笑顔を作って庵に向かい合って座った。 「いやぁ、今日も教授の話が長引いてさ。大体終業の時間を五分間違って覚えてると思うんだよな、あの人は。あ、今日は優斗の弁当から揚げ入ってんのな。ところで―――何で今日はそっちなんだ?」 いつもの調子で話し始めたと思ったら、最後、空気が変わった。 口元を描の形に固めたまま、冷たい目が隣りあって座る優斗と庵に突き刺さる。優斗は、その目を見ただけで「ごめんなさい」と頭を下げたくなった。実際、「ごめん」の「ご」の字を言ったところで庵に口を塞がれた。そして圭斗の視線の温度がまた一度下がる。 「そりゃぁ、俺達そういう仲だしぃ?」 鋼の心臓の持ち主の庵はそう言って圭斗を挑発する。優斗のノミ虫ほどの心臓はバクバクと高鳴って終いには壊れて止まってしまいそうだ。これから二人の間にどんな罵詈雑言が飛び交うのか、考えただけで恐ろしい。 いやだ、いやだよ言葉のナイフ。喧嘩とか当事者じゃなくても泣きたくなるんだから、もう止めようよ。優斗は心の中で頭を抱えて縮こまったが、しかし危惧したような事態にはならなかった。 「…ふーん……」 圭斗はそれだけ言うと、食事に戻ってしまったのだ。 「…圭斗?」 おかしく思って、彼の名前を呼ぶと、やはり冷めた目で見返された。 「良いんじゃないか?別に。優斗が選んだなら仕方ない。」 「ぇ…」 「あ!川島、この前の合コンの話だけど…」 圭斗はそう言いながら席を立った。もう優斗のことなんて見ていないようだ。 ――良いんじゃないか?別に。優斗が選んだなら仕方がない。 俺が選んだなら仕方がないのか?それで良いのか? お前が良いなら良いとか、関係ないとか、気持ちを最優先するような態度をとって、突き放さす。もしかして、これは今まで優斗が圭斗にとっていた態度と同じなんじゃないだろうか。すうっと胸が寒くなった。 ――俺は今まで圭斗にこんな思いをさせてたのか。 「圭斗、俺――」 立ち上がり、言いかけてまた庵に口を塞がれる。そのまま抱き寄せられて、ぐっと腰を掴まれた。 「ひぁっ!?」 弱い所を不意打ちで触られて、かくっと膝から力が抜けるのを、机に手を突いて耐える。 「な、何、庵…っ」 誤魔化すように声が大きく上ずった。 「なんだよ。いいだろ恋人なんだしぃ?」 距離をとろうと後ずさるのにその分迫られて、耳を擽られる。 「え、え…っ?」 甘い感触に戸惑いながら助けを求めて視線を彷徨わせると、横から腕を引かれた。 ボスッとその胸に抱き寄せられる。 「何だよ。」 「これ、俺のだから。」 間近で聞こえる圭斗の声にひぃっ喉の奥で悲鳴が上がった。 「さっき良いって言っただろうが。」 「優斗が嫌がってんだろうが。」 圭斗が話す度に鼓動が跳ねる。掴まれたままの腕が熱い。ていうかこれ、脈、脈がばれてる。 「ほんと?嫌だった?」 庵が聞いてきたが、色々いっぱいいっぱいの優斗は計算などできずに素直に答えてしまう。 「いや、別に嫌ってわけじゃ…」 大体、これは庵が優斗のために計画してくれたものなのだから。 「優斗!」 しかし、案の条圭斗に怒鳴られてしまった。 「お前は、俺とこいつのどっちを選ぶのか!」 「選ぶとか…!」 圭斗は恋人だが、庵だって大事な友達だ。選ぶものじゃない。 「お前はそうやっていつも勝手ばっか。」 「はぁ?」 庵の言葉に圭斗がドスの効いた声を出す。 「優斗が優しいからって、甘えてんじゃねぇよ。」 「何言ってんだよ。」 「優斗にお前のちょっと前までの行動悔しくねぇのかって聞いたんだよ。そしたら、こいつなんて言ったと思う?『俺が素直にならないのが悪かったんだ』って。健気だねぇ。お前だって大概素直じゃないのに。」 「…だからなんだよ。お前には関係ないだろうが。と、言うか。じゃあ今の状況は優斗の意志に関係なくお前が優斗を巻き込んでるだけじゃないのか?」 「あー、はいはいそうですよ。悪い?」 「開き直ってんじゃねぇよ。」 売り言葉に買い言葉だ。こんな言葉自分が使う日が来るとは思わなかったけど「俺のために争わないで!」ああ、何てヒロイン。って、そうじゃない。 「圭斗!」 優斗の高めの声が二人の会話を切り裂いた。すっと二人は口論を止めて優斗を見る。 「…嫉妬した?」 圭斗が固まった。 普段なかなか目を合わせてくれない優斗が恐る恐るといった様子で目を合わせて聞いてきたのだ。胸にしがみついて、上目使いで、涙目で。 かぁぁっ、と顔が熱くなった圭斗はそれを隠すように、口元に手を当てて視線を逸らして答えた。 「………した。」 それを聞いて優斗はパッと後ろを振り向く。 「庵!計画成功したぞ!」 「…ソウデスネ。」 思う存分バカップルに当てられた庵は棒読みで答えると、腹いせに優斗の首を擽って怒られた。 優斗はちょんと彼の袖を引っ張った。 「圭斗、今まで無神経でごめんな。」 「…なんで謝ってんの。」 「俺、圭斗が合コン行ったら嫌だ…」 「~~っ」 圭斗はいじらしい恋人の言動に撃沈した。
信じて?
寮の共同の風呂は、一階の端にあり、自室から着替えを持っていくのは正直面倒くさい。だから、圭斗はいつも部屋で寝巻に着替えてしまってから、タオルとボディーソープやらだけを持って風呂に行く。 見やすさで選んだシンプルな壁掛け時計が八時を指す。圭斗自身入浴する時間にこだわりは無いのだが、毎日決まってこの時間に入浴する優斗に合わせて、着替えを始める。ネイビーブルーのVネックのTシャツを脱ぎ、籠に入れようとして、圭斗はその動きを止めた。 ***** それはその日のカリキュラムを終えた四限後のこと。DVD教材による講義で、目が疲れた優斗は無性に甘いものが食べたくなって、生協に寄ることにした。 「優斗。」 セール品のシュークリームの棚の前で、足を止めると、見慣れた茶髪頭が話しかけてきた。 「圭斗だ。お疲れー。」 「お疲れ。」 「シュークリーム九〇円。」 「あー。じゃあこれでいいか。」 即決でそれを手に取って、レジに向かう圭斗に、優斗も同じ商品を持って付いて行く。そこで、圭斗の肩の汚れが目に入った。 「圭斗肩…」 「ん?なんかついてた?」 付いていた。生地のブルーに重なって、良く見ないと分からないのだが、ピンクの口紅が。 「――いや、ごみが。」 優斗は、彼の肩を軽くはたいてそう言って、ふっとそこから目を逸らした。 食堂は席が埋まっていたため、外のベンチに並んで座って、シュークリームを食べた。先に食べ終わった優斗は、口紅と反対側の彼の肩に頬を寄せる。 「寒いん?」 「んー」 別に寒いわけではない。少し寂しくなっただけだ。だから、俺は触っても良いんだって、確認するために触れたのだ。でも、その行動は、優斗の心を落ち着かせることなく、その反対に働いた。 彼から、知らない匂いがする。 圭斗の腕が、優斗の肩を抱いて、腕をさすった。 「よし!食べた。」 彼の体温が心地いい。寒いとは思っていなかったのだが、体は意外に冷えていたらしい。 「圭斗はこの後授業ある?」 「今日はもう終わり。」 「俺もない。一緒に帰ろ。」 「でも今日自転車無いんだよ。川島がかせって言うから。」 優斗の肩から腕を外して、圭斗が立ち上がる。咄嗟にその腕を掴んだ。離れたくない。置いて行かないでほしい。 「優斗?」 「俺歩きたい気分だし!」 ****** やけに甘えてくるな、と思ったんだ。いつもはノリで絡むみたいな触れ合い方しかしないのに、今日は何となく気落ちした様子で、帰りも手を繋いできたりして。 「優斗!」 「圭斗。」 Tシャツを握り、優斗の部屋に向かうと、丁度風呂に行こうと部屋から出てきた彼を捕まえることができた。 「これは何かの間違いだ!」 優斗の肩を掴んで叫びながら、彼を部屋の中に押し戻す。 だって、本当に身に覚えがないのだ。自分は優斗が好きで、他に目移りなんかしない。 「うん。」 「そうだ、きっと、知らないうちにぶつかるかなんかして。」 「分かった。」 優斗はそう言ってにこっと笑う。でも、絶対分かってない。 「なんでそんな…」 寂しそうに笑うんだよ… 「まあまあ、大丈夫だから。風呂行こうよ風呂。」 「優斗!」 「分かったてば。」 だから、分かってないだろ…? 風呂場に向かう間も、洗い場で並んで座ってからも、圭斗は情けない声で優斗を呼んだ。 「優斗。」 「だから、わかったよ。大丈夫。」 「うそだ。」 そうだ、うそだ。優斗は彼の言葉を信じていない。 彼の肩に口紅が付いたって、それだけじゃない。反対の肩にはファンデーションらしき粉が付いていたし、優斗の部屋で脱いだ上着の胸ポケットからはノーホールピアスが転がり落ちた。それは優斗が持っている。 彼は気づいていないのだろうか。 「俺にどうして欲しいんだよ。うそだ!って泣きわめけば満足?」 「そうじゃない。信じて欲しいだけだ。」 「だから、信じたって言ってるじゃん。」 信じてないだなんて言わない。彼のそばに居られればいい。 もしかしたら、優斗の知らない女は、明日彼にピアスについて聞くかもしれない。それで、もし、彼が俺がピアスのことまで知っていると知ったら… 「じゃあさ。圭斗はさ、俺が圭斗を信じられないって言ったらどうするの?」 「どうって…」 「……ここでする話じゃないな。」 手早く入浴を済ませて、部屋に戻る。当然圭斗も優斗の部屋について行った。 「…優斗が」 「うん?」 「優斗が俺を信じられないって言って。俺から離れていこうとしても、俺はお前から離れたくない。」 「じゃあ、大丈夫。」 もしも、彼が僕に他に女の人と一緒に居ることを告白しても、俺が彼を離さなくても良いなら、多分大丈夫。 圭斗がじっと見つめてくる。その視線から、目を逸らして、三角座りで膝に顔を埋めて隠した。 以前圭斗は、嫉妬も束縛もされたいと言った。でも、してどうする?本当は、嫉妬しているし、束縛だってしたい。 「やっぱり、大丈夫じゃないよ…」 胸がきりきり痛い。普通にしゃべりたいのに、声が裏返ってしまう。 「どうしたら嫉妬が伝わって、どうしたら束縛できるの…?」 「優斗…」 衣擦れの音がして、彼に体を抱きしめられる。抱えた膝も一緒に抱えられて、頬を撫でられた。 「優斗、一緒に寝よ。一緒に起きよ。一緒に学校に行って…。俺、お前が講義無い時間、授業休むから。それで、一緒に居て、昼も一緒に食べて、一緒に帰ろう?」 「授業はさぼったらダメだよ…」 「明日だけだし。」 すぐそばで聞こえる囁くような声が、とても気持ち良くて、膝を抱えるのは止めて彼の胸にしがみついた。 ****** 翌日の放課後、圭斗は川島に呼び出され、優斗と共にC棟に向かった。 「なんだよ、わざわざこんなところに呼び出して。」 そこには、川島の他に、C棟組の男勢である佐々木と小堀がいた。 優斗の肩を抱いてやって来た圭斗の姿に、川島はこれ見よがしに大きなため息を吐く。 「なんだよ。」 「いや、別に一緒に来いって言ったのはこっちなんだけどな?」 「う~ん」 「こうなるとは…」 三人は、意味ありげに顔を見合わせると、そのまま頭を下げた。 「ごめん。先に謝らせてくれ。」 「え、ええ?」 慌てた優斗が物理で三人の顔を上げさせる。 「どうしたんだよ?」 優斗が促すと、川島はくっと噛みしめた唇を開き、とんでもないことを言い出した。 「あのキスマークつけたの俺だ。」 「は?」 圭斗の口から、今まで聞いたことの無い低い声が出た。川島の肩が跳ねる。 「俺は香水で匂いを付けた。」 「俺は上着のポケットにピアスを入れた。」 川島を先頭に佐々木と小堀も告白する。 ――口紅だけじゃなかったのか。 「じゃ、じゃあ、肩口のファンデーションは?」 「は!?」 優斗の言葉に、また低い声が出た。今度は優斗の肩がびくっと跳ねた。 「悪い。」 不本意に怖がらせてしまった恋人の肩を抱き締め直して宥める。 今の声は、お前は知っていたのか、という驚きと、何で自分は気が付かなかったのかという自己嫌悪から出た声だ。 「ファンデーションも、俺だ。俺が妹のを借りてやったんだ…」 川島が項垂れる。優斗は小堀に、ポケットからピアスを出して返した。 「今持ってんのかよ…。」 圭斗は優斗を引き寄せて、正面から抱きしめる。 「あー…、もう!」 そりゃあ信じないはずだよ。 「圭斗…苦しい……」 苦しいとか言いつつ自分もしっかり俺の背中に腕を回しているくせに。 「なんでそんなくだらないことしたんだよ。」 優斗を抱く力は緩めないまま三人に尋ねた。 「お前らがいつもイチャイチャしているから、正直砂吐きそうだったんだ。」 「俺なんか砂糖吐きそうだったんだ。」 「だから、兄に女の影がちらつけば弟が離れていくかなぁ…と。」 「…なんでバラしたんだ?」 「だって前より距離近くなってんじゃん!」 落ち着こうと圭斗が長い息を吐き出すと、優斗の体が小さく震えだし、すぐにずっと鼻を啜る音が聞こえた。 「優斗?」 覗きこむと、予想通り泣いてた。 「え、弟!?」 「ごめんな、ほんと。」 「泣くなよ、な?な?」 犯人三人は当然慌てだしたが、圭斗は逆にこれで三人を許してやる気になった。 「なあ、おい。」 川島が優斗に触ろうとしたので、その手を振り払う。 「触るなよ。これ、俺のだから。――こいつ、気が抜けると泣き出すから。」 やっと信じてもらえた。 「俺らこのままここに居るから、当てられたくなかったら帰れ。」 三人を返してその後、泣き止んだ優斗と圭斗は、一緒にシュークリームを食べて、仲良く帰った。
トラウマ
春休み最終日、優斗は毛布をかぶって、ベランダ前に置いたベッドから、外を眺めていた。大銀杏の葉が、さああと騒いで木漏れ日を揺らす。片耳イヤホンで聞いている音楽は皆春の歌だ。 コンコンコン、とドアをノックされて、そのままの体勢で「はーい」と答える。 「優斗。ただいま。」 「圭斗!」 すぐに部屋に入ってきた彼に、毛布から抜け出して抱きついた。 「お帰り!」 「何してた?」 耳に手をかけて、顔を上げさせようとする彼に少し抵抗して、目をそらす。 「ん?圭斗が帰って来るの待ってた。」 甘い空気は苦手だ。けれど、出てくる言葉も、空気もどうしても甘くなってしまう。 「優斗…」 もともと近かった距離を更に縮めてきた彼の胸を押して俯く。それでもそんな形ばかりの抵抗は突いた腕を払われ抱き寄せられて、頬を持って顔を上げさせられたら、それで終わり。 「優斗。」 くっきりとした二重に、通った鼻筋。普段盗み見ている顔が目の前にある。こんな風に正面から至近距離でなんて、圭斗がキスを仕掛けてくる時しか見られない。 「目つぶんねぇの?」 「あ…」 忘れてた。 「ま、良いけど。」 そう言ってすぐに、圭斗の唇が、優斗のそれに触れる。彼も自分も目を開けたまま。何度か唇を柔らく押し当てて、引き結んだままの唇を口に含まれて吸われた。 「や…っ」 驚いて力の抜けた唇を割って彼の舌が侵入してくる。前歯でそれ以上の侵入を拒むと、外側から歯列を舐められた。ぞわぞわと悪寒に似た熱が体を這い上がり、喉が震える。 「――やだっ!」 力任せに彼の拘束を解いて、真赤であろう自身の顔を手で覆い隠した。 「圭斗、ごめん。俺、変な顔してる。」 「可愛かったけど。」 「……」 「いやいや、進歩してる。進歩してる。普通のキスまではもうOKだもんな。」 進歩、そうだ。少し前までは、優しく触れ合うキスさえも拒んでいた。それを普通に受け入れられるようになって、彼は喜んでいる。当たり前だ、恋人同士なのだから。いつまでも彼を拒んでばかりではいられない。第一自分は彼自身を拒んでいるのではなく、優斗自身が把握できていない表情を見た彼に、変に思われたくないだけなのだ。それなのに、さっきのような、いかにも彼のキスが嫌だというような反応をしていたら、彼はずっと傷つく。これまでそういった行為もしていたが、すべて彼に押しすすめられたもので、自分は抵抗ばかりしていた。顔を見られたくないという自分勝手な理由で彼を少しずつ傷つけていた。 優斗は、顔を覆う手をどけて、再び彼の胸に身を寄せた。 「……目瞑って、して。」 彼の肩に額を付けて、顔を見られない体勢で言う。 「じゃあ、お前も瞑れよ。」 「分かった。――ずる無しだからな。絶対、ぜええったい開けたらだめだからな。」 「へーい。」 「もう今瞑れよ。」 「瞑った。」 彼の両手が頬を挟んで顔を上げさせられる。自分の顔には熱が集中しているだろうに、彼の手も同じように熱い。唇にふっと彼の息が掛かった。先ほどと同じように何度か唇を重ねて、そっと舐められる。開けて、開けてと舌先でノックされて、どうにか開けなければと小さく口を開いた。緊張しすぎて震えているかもしれないが、良く分からない。また歯列を撫でられて、そこが侵入を拒んでいることに気が付いた。開けなきゃ、そう思ったら、口と一緒に目が開いてしまった。ぱちりと、目の前の双眸と目が合う。 「――なっ!?」 ――なんで!? その言葉を吐き出すための場所は塞がれ、紡ぐはずの舌は良いように弄ばれている。見られてる。何で。嫌だ。ぼろっと涙が零れ落ちた。 「ひゃやぁ…っ」 背を叩いて抵抗するのに、彼の拘束は解けないし、瞳は熱を持ってじっとこちらを見ている。 「んっ、ンくぅ…っ」 内側から歯列を舐められて、ゾクゾクと背筋が震え、反り返る。零れそうになる唾液は舌ごと吸われた。 力が抜けそうになる膝と腰を何とか立たせて、ぐっと彼の肩に指を食い込ませる。そうすることでやっと解放された優斗は、へなへなとその場に崩れ、俯いたまましゃくりあげた。 「優斗、」 触れようとしてくる手を払いのける。 「…っごめ、今触らない、で…っ」 嗚咽をかみ殺して、彼を制する。 「大丈夫、だから…っ、部屋帰って、荷解きとか…っ」 「優斗。」 「行くから!」 いつもだったら、拒んでも抱きしめてくれる圭斗が荷物を持って出て行った。それで、いつもよりも強く彼を拒んだことが分かってしまった。 十分ほどして、やっと優斗は圭斗の部屋の扉を叩いた。 「優斗!」 「さっきはごめん。ちょっとビックリしただけ。」 「ん。」 今度はキスはしない。ただギュッと抱きしめられて、どきどきするけど、安心する。 不意に風が吹いて、何かがスッと飛んできた。 「ん?」 先に気づいた優斗がそれを拾う。パッと見、幼稚園児くらいの男の子と女の子の写真だ。 「ああ、それ。俺と当時一緒に遊んでたやつ。荷造りしてる時母さんが隣でアルバム整理してたからな。紛れたんだろ。」 圭斗が説明する間、優斗は微動だにせず写真を見つめている。 「優斗?」 優斗と写真の間に手をかざして視線を遮ると、彼ははっと圭斗を見て顔を歪めた。 「うそ…」 「何が?」 「いや、なんでもない。ごめんやっぱり今日は帰る。ごめん。」 「は?」 部屋に戻った優斗は、追ってきた圭斗を締め出すように扉に鍵をかけた。 ****** 幼い頃体の弱かった優斗は、優ちゃんと呼ばれて女の子として育てられた。髪を伸ばして、スカートを履いて、後ろ髪と同じだけ伸ばした前髪は一緒に耳の横で三つ編みにしてもらっていた。 外に出るのは好きだが、動き回ることは好きではなかった。いつも公園の端にあるテーブルで絵を描いたり、折り紙をしたり、おままごとをしたりして遊んでいた。 友達はたくさんいたが、一人でいることも好きだった。ふっと気がそれて目の前の空気を見つめる。焦点を外すと、視界に入る物の色の粒子がじわじわと滲んで、ふわふわとした気持ちになった。 「何してんだ?」 不意に声を掛けられて、散乱していた意識が戻ってくる。ジージーと鳴く蝉の声が、溶けそうな湿度と暑さが戻ってきた。 「ぼうっとしてる。」 そちらを向くと、同い年くらいの男の子が自分を見ていた。 「何それ、変なの。」 「楽しいよ。」 知らない子だ。何で自分に声を掛けたんだろう、と周りを見回すと誰もいない。なるほど、自分しか話しかける相手がいなかったのか。 「そんなことより駆けっことかしようぜ!」 「走るの嫌い。」 「俺はじっとしてるの嫌い。」 「…誰?」 今更の質問だが、今やっと聞くきになったのだ。もう少しこの子と会話を続けなければいけないと分かったから。 優斗は自分のやりたいようにする。だから、放っておいて欲しいという態度をとったのに、彼はそれでも一緒に遊ぼうと言ってくる。それも、彼の主張は曲げずに。でも、お互い子供だから、これは単に趣向を言いあったにすぎない。優斗もそれは分かっている。 「圭斗!お前は?」 「優ちゃんね、優ちゃんいうの。」 大人のように言葉に裏は無いのだ。好きなものを好き、嫌いなものを嫌いと言っているだけ。だから、特に何も思わない。特に優斗はふわふわとした思考回路を持っていたから、人の言葉の裏など考えたことが無かった。 「あのね、木登りと上り棒は好き。」 だから、今度は体を動かすことの中から自分の好きなものを答える。 「じゃあ!木登りしようぜ!木登り!」 そうしたら、圭斗は優斗の手を取って登りやすく枝の生えた松の木まで走って行った。 楽しかった。だから、だんだん好きになった。その分、別れが来るのは辛かった。 夏休みの間だけ、おばあちゃんの家に遊びに来ているのだと言う彼との別れは、夏の終わりにやって来た。 その時のことはショックで涙と一緒に流れてしまって、よく覚えていない。でも、ただ一つ覚えているのは、 「泣くなよ、ブサイク。」 と、最後の最後に言われた言葉だけ。 二人は子供だ。大人のように言葉に裏は無い。少なくとも優斗は、人の言葉の裏など考えたことの無い、ただの子供だった。 ***** 俺は自分の顔が嫌いだけど、彼が何度も可愛いと誉めるから、もしかしたら彼からしたら本当に可愛く見えているんじゃないかって、最近思い始めたところだった。でも、彼は俺の初恋の相手で、その上酷い言葉でフッてきた相手だった。あれからずっと俺は自分の顔を好きになれない。その原因が彼だって? ――ほらやっぱり、可愛いなんて、うそなんだろ? 新学期が始まった。始まったといっても、まだ主に新入生のオリエンテーションの為の期間のため、上級生は少なく、昼休みのC棟空き教室には、新歓のために登校した優斗と庵、サークルに来た石井と研究室に用のあった圭斗の四人しか居ない。 「優斗。」 圭斗は隣で弁当を食べる優斗の横顔を見て呼んだ。 「ん?」 「まだ怒ってんの?」 「何が?」 もう数日、優斗が一切こちらを向いてくれない。 「俺、最近お前の顔見てない気がするんだけど。」 「見なくて良い。」 「優斗~?」 覗き込もうとすると、逃げるようにそっぽを向かれる。それでもしつこく追うと手の平で押し返される。ずっとこんな感じだ。 「何かあったのか?」 向かいで食べていた態がだるそうに言った。圭斗と優斗と庵が三人でいると、ほぼ確実に修羅場が起こるので、最近四人でセットにされる、C棟組の平穏のため生贄にされた哀れな男だ。 「…何んも。」 優斗がボソッと呟いた声が、やけに耳に残った。なかなか聞かない不機嫌な声。無意識なのだろうが、方言も出てきている。 いつから彼の機嫌が悪いといえば、先日のキスで約束を破って目を開けていた時からだ。でもそれは彼だって同罪だし、その時許してくれたんじゃないのか。 「はぁぁああ」 優斗から視線を外して、大きなため息を吐く。彼の肩がびくっと跳ねた。 「俺だって、言ってくんなきゃ分かんねぇって。」 「だから、何もないってば。」 「じゃあ、何で。」 暖簾に腕押し。何度聞いても答えてくれないし、態度も変わらない。いい加減圭斗もイライラしていた。 「顔見せないのとか今さらだろ。」 「うそだ。最近割と見せれるようになってただろ。」 思った以上に大きな声が出た。口調もきつかった。ちらっと隣を窺い見る。 がたっと音を立てて優斗が席を立った。俯かれると、横髪で表情がまったく見えない。 「優斗!?」 優斗の向かいで、彼を正面から見た庵が叫んだ。すぐに何も言わずに優斗が出口に走り出す。もちろん圭斗は彼が出て行く前に捕まえた。 「やだ!離せ!」 掴まれた腕を振り払おうと優斗がこちらを向く。彼は、ぎゅっと口を引き結んで、全身を強張らせていた。 「…何で、そんな顔してんだよ…」 俺の前でそんな顔をする必要なんてないのに。そんなただただ辛そうに顔を歪めることなんて無いのに。泣きたければ泣けばいい、そうしたら全部受け止めてやるのに。だから、 「――止めろよ、その顔。イライラする。」 ――パァンッ がらんとした教室に破裂音が響いた。 「泣くのもダメ、我慢するのもダメって…、じゃあもう、どうしたら良いんだよ!」 叫んでそのまま優斗が走り去っていく。茫然とそれを見ていた圭斗は、頬がじんじん痺れだしたのを感じて、やっと自分が彼に殴られたのだと分かった。 あいつに手をあげられた。あいつに憎しみのこもった目で睨まれた。 「おまえ、マジで何したんだよ。」 庵の声も上ずっている。普段おちゃらけてるのに実は気の弱い、こっちが心配になるくらい優しいあいつが、あんなに怒っているのだ。今まで何をしても許してくれたのに、こちらが悪い時でも泣いて謝って来たのに。 「――ほんと、俺、何したんだよ…」 熱い頬にそえた手を、生暖かい雫が伝い落ちた。 ***** 六歳の夏に出会った優ちゃんは、少し変わった子だった。 初めて会ったときは、公園に居るのに折り紙を並べて、何もない宙を見つめていた。走るのは嫌いなのに、高い所に登るのは好きで、砂のお城はやけに綺麗に作った。 自己紹介からしてそうだが、話のテンポが妙にずれていて、よく転ぶ。何もない所で転ぶのは、やっぱりテンポが悪いからだと思う。あまりに転ぶものだから、コケ子と呼んだら、「鶏みたいだね。」とずれた返しをされた。こっちはバカにしてるんだってのに。 他にも、 「苺だよ。」 「苺だよ?」 「だから苺だよ。」 単語の語尾が下がるところとか、 「圭くんなにしてん?」 「圭くんどこいくん?」 疑問文の最後が「ん」で終わるところとか、 「昨日さ、ママがさ、んっとね、こおんな大きい、えーと、スイカをさ、買ってきてん」 話したいという気が急いて、文節ごとに早口になるのに単語と文章がなかなか出てこなくてぶつぶつ切れる話し方とか、大好きで。 最初は俺に興味無さそうだったのに、慣れてきたらちょこちょこ後ろを付いてきて、ちょくちょく転んで、それでもついてくるところなんか可愛くて。 特に、笑うと顎先のツンと尖ったすまし顔が、大福みたいに柔らかくなるのは、大好きだった。だから、 「圭くん明後日居なくなるん?」 そう言って、泣きそうになる顔は嫌だった。 「そうだよ。東京に帰るんだ。」 「ほんとに、いなくなるん?」 顔をくちゃくちゃにして泣いているところなんて見たくなかった。 「泣くなよ、ブサイク。」 だから、どうしても泣き止んで欲しくて、心にもないことを言った。 次の日、優ちゃんは公園に来なかった。でも、俺が東京に帰る朝、優ちゃんのお母さんと一緒に見送りに来てくれた。優ちゃんのお母さんの顔なんかは全く覚えていないけど、何故かうちの母親とすごく仲が良かった。 優ちゃんは、子供の俺にも分かるくらい無理して笑っていた。それは俺の好きな笑顔じゃなかった。俺がバスに乗り込もうとすると、とうとう優ちゃんの目から涙が溢れだした。 「泣くなよ、ブサイク!」 また、咄嗟にそんな言葉が飛び出した。 優ちゃんがまたショックを受けた顔をする。それでも必死で涙を止めて、 「泣いてないよ!泣かないもん!!」 と叫んだ。その時はそれで良かったと思ったんだ。ドアが閉まる直前、 「ブサイクでごめんね。――好きだった。」 辛そうな声を聞くまでは。 好きだからこそ、自分の前では泣かせれば良かったんだって。泣き顔も全部自分のモノにすれば良かったんだって。泣き顔を見て辛くなったら、自分も一緒に泣けば良かったんだって。後から思った。 だから、優斗には我慢して欲しくなかった。我慢させたくなかった。それなのに―― ****** 最初こそ勝手だと思ったけど、なんだかんだ面倒見良く構ってくれる圭くんが好きだった。俺の長いくせに内容の薄い話をちゃんと聞いてくれるところとか、折り紙は雑だけど、運動神経の良い所とかが好きだった。俺が砂のお城を作り終わるのを待っててくれたところだとか、俺が転ぶたびに呆れた声を出しながらも、心配そうに振り返ってくれるのが嬉しかった。 得意げにニィって笑った顔が大好きだった。 だから、 「泣くなよ、ブサイク!」 そう言って顔を歪めた圭くんがすごく悲しかった。 圭斗はずっと、我慢してたの?俺が泣くたびに、我慢してたの?言ってくれたら隠れて泣くのに。圭斗から見えないところで泣いたのに。圭斗に嫌われたくないのに、泣くたびに圭斗に嫌な思いをさせていた。 彼を叩いた掌がじんじん痺れる。 ――何やってんの、俺。 寮の部屋で、毛布をかぶって丸くなる。謝らなきゃ。今までのこと全部謝らなきゃ。でも、今言ったらまた泣きたくなる。泣くのも、泣くのを我慢するのもダメなら、彼の前で泣きたくなったらもうダメなんだ。 「優斗!」 「ぴゃ――っ!!?」 ガラッとベランダに続く窓を開けて圭斗が現われた。優斗は驚いて、毛布ごとベッドから転がり落ちる。 横に並んだ部屋のベランダは全部が繋がっているから、誰かの部屋を経由してきたのだろう。ドアの鍵は閉めていたが、こちらは開けたままだった。 「優斗!?」 心配した彼が近づいてくる。 「やだ、やだ!」 泣き顔を見られまいと、毛布をかぶってかぶりを振ると、その毛布ごと抱きしめられた。 「優斗、大丈夫だから、泣いて良いから。」 「やだ、うそだ!」 「何で。」 優斗はその声で抵抗を止めた。圭斗の途方に暮れたみたいな、そんな声初めて聞いた。 「何で泣いてくれないんだよ!」 涙声で叫ばれて、驚いて、毛布から抜け出す。 「…え、なんで、何で圭斗が泣くの…」 「だって、お前が、泣かないから…っ」 圭斗の優斗の手形が残った頬に、涙の筋ができる。優斗はその流れる涙を何度も指先で掬った。 「お前が、俺の前で泣かないから…っ!」 彼はが優斗の指を払って、俯こうとする。その顔を無理にあげさせた。泣いたら嫌だ。でも、隠されるのはもっと嫌だ。 「だって、圭斗は俺の泣き顔をブサイクだって、言ったよ。」 「…なに」 「圭くんは俺のこと、ブサイクだって言ったよ。」 「え?」 「写真の女の子、俺だよ?」 圭斗は優斗を抱きしめた。力任せと言って良いほど強く抱きしめた。 「違う、そうじゃない。」 ずっと、どうして彼が頑なに自分の顔を否定するのか不思議だった。恥ずかしがっているだけだと思ってみても、やっぱりどこか行き過ぎていると感じていた。 ――俺のせいじゃんか、全部。 「優斗が好きだったんだ。だから、泣いてほしくなかった。ブサイクだなんて思ってない。泣き止んで欲しかっただけで。」 「圭斗、苦しい…っ」 「でも、違う。泣かないでほしけど、俺の前以外ではもっと泣かないでほしい。俺の知らないところで泣くなんて許さない。」 息が詰まるほどに抱きしめられて、苦しいけど、嬉しい。圭斗も俺と同じだ。泣いてほしくないけど、一人ではもっと泣いてほしくないんだ。 「…じゃあ、どうしたら良い?」 「泣いて。」 彼の右手が優斗の頬を撫でる。至近距離で見つめられても、もう怖くない。 「もう、泣いてるよ…?」 「ん」 でも、恥ずかしいことに変わりはなく、優斗は耐えられなくなって視線を逸らした。それでも彼はフッと笑うだけで許してくれる。 「お前が泣いてると、俺も泣きたくなる。」 「ごめん。」 「でも、それって、俺も泣けば良いんだ。」 「圭斗も泣くの?」 圭斗の右手が、優斗の手を取って、圭斗の頬に触れさせる。 「もう、泣いてる。」 「俺が泣き止んだら、泣き止む?」 「ああ。」 優斗が涙を止めて微笑むと、圭斗も同じに笑った。
頑張ってみた
寮の自室でドアにきっちと鍵をかけて、優斗は段ボールの前に正座した。ガムテープで隙間なく封をされたそれをじっと睨みつける。 ここで唐突だが、優斗と圭斗の関係の進展具合を把握しようと思う。 初めて出会ったのは、去年の四月。はたから見たら爆笑物の出会い方をしたと思う。 六月に、初めて彼の前で泣いた。九月に組み敷かれて首筋にキスをされた。どっちもキーは元カノだったな。彼女のことも今となっては懐かしい。 十一月に唇にキスをされた。しょっぱなからディープだった。それから数日後に色んな意味で告白をし合った。順番が可笑しいだろう、というつっこみは無用だ。もうさんざん自分でやったから。 その後関係は後退した。好きと意識したら、一度できた筈のキスまで恥ずかしくなってできなくなった。まあ、その後の圭斗の努力でなんとかフレンチまではできるようになった。それから何回かすれ違いを起こした末に、より気持ちが近づいていったような気がする。 そして先日、お互いが初恋の相手であったことが判明し、俺はトラウマを克服した。結果、彼に触れられる時に感じる、顔を見られる恐怖が無くなった。まあ、恥ずかしいものは恥ずかしいし、意識しすぎてどうにかなりそうで怖いという気持ちは変わらないから、態度は変わっていないのだが。つまり、逃げる、顔を隠す、嫌がる。でも、本気で嫌がっているわけではない。本当を言うと、触られて嬉しいし、気持ち良いし。 で、だ。古き良い言葉でいう所のABの段階は終わっているから、次に待っているのはCだ。セックスだ。では、段ボールの話に戻ろう。 優斗は、カッターでガムテープを切り、箱を開けた。中に入っているのは、緑色の細いホースと点滴に使うような袋、取り換え用のパイプ、ジェルの入った小さなボトル、温度計、計量カップ、そしてコーヒー。 彼とのセックスがどうしても嫌だったついこの間まで、優斗の最後の抵抗は「だって、寮じゃ準備できないし」という言葉だった。しかし、その気になって調べてみたら、何ということでしょう。腸内洗浄器具を使ってトイレで簡単に腸内洗浄ができるとうじゃありませんか。と、これがそのセットだ。 「ふむ。」 優斗は説明書を読むと、とりあえず一度試してみることにした。 ****** 最近優斗が綺麗になった。前からぴちぴちさらさらしていた肌が、さらに潤いを待って瑞々しくなった。ついこの前まで可愛いという言葉が良く似合うと思っていたのに、最近は綺麗という言葉が似合う。 庵は恐る恐る彼の隣に立つ忌々しい男をじっとりと見つめた。 「…おまえ。」 「まことに残念だがまだだ。」 庵の視線を正しく受け止めた圭斗は肩を竦めて答えた。彼の瞳も困惑の色を宿しているので、その言葉は本当の様だ。しかし、そうなるとますます彼の変化が気になる。 「おかしいよな。」 「おかしいな。」 視線を合わせたまま、二人で頷きあうと、優斗が嬉しそうに笑った。 「なに、目と目で通じ合ってんだよ。」 「止めろ。」 毎度喧嘩しつつも、なんだかんだ仲が良い(と優斗は思っている)二人を見るのが優斗は好きなのだ。心外だ。こいつと仲よしとか気色が悪い。あまつさえ、目と目で通じ合うだって?止めてくれ。二人は同時に同じようなことを考えた。 「優斗さぁ、最近肌綺麗じゃね?」 ばっと庵から視線を外した圭斗が直球に聞いた。 「え」 「女子も言ってたぞ。何か始めたん?」 「いや、何にも。」 答える優斗の声が半音高くなって、目が泳ぐ。彼の反応に二人で同時にため息を吐き、睨みあった。タイミングを合わせるな。また仲が良いなんて思われたらどうするんだ。そこまで目で会話して優斗に視線を戻す。 「おまえ、もう少し世渡り上手になった方が良いぞ。」 「さあ、吐いてしまえ。」 「いや、あれだよ。新入生とも仲良くなってきて、毎日が楽しいから、とか。」 詰め寄ると、優斗は思考の間を開けずに話し出す。が、考えがまとまっていないので、文がぶつぶつと途切れる。 「はい、うそぉー。」 「ううー。」 なんて分かりやすい。 バッサリ切り捨てると、優斗はあざと可愛い唸り声をあげた。これが計算じゃないというのだから、天然は怖い。 「可愛い子ぶってもダメ。」 「か、可愛い子ぶってなんかない!」 「あー、可愛い。」 「ストップ、兄。」 「ああ、つい。」 可愛い子ぶってもダメだと言いながらあまりの可愛さに我慢できなかった。 「もう、どうでも良いじゃんかそんなの。影の努力の賜物ですよ。誰にも教えないよ。秘密ってかっこいいよね。」 優斗が秘密にすることなんて今までになかったから、ものすごく気になる。しかし、なんだかんだで結局彼は口を割らなかった。 ****** 寮の自室でドアにきっちと鍵をかけて、優斗は段ボールの前に正座した。ガムテープで隙間なく封をされたそれをじっと睨みつける(再び)。そして、先日よりも小さなその箱から取り出したのは、エネマグラ。 説明しよう。エネマグラとは、前立腺マッサージを行うことにより中にたまった古い前立腺液を絞り出すための元は医療器具であるが、今では前立腺オナニー器具としても知られている、肛門に突き刺す棒状の器具である。詳しくは画像検索。 何故買ったか。自分の指で穴を拡張するのには限界があり、このまま彼を受け入れるのはあまりにも怖かったから。 あとついでに事前に開発しちゃえば良いんじゃね?というノリ。 優斗はまずはローションと指でそこを慣らすと、おそるおそるそれを挿入した。 ****** おかしい。絶対おかしい。何がおかしいって、優斗だ優斗。前から感度は高かったけど、最近より一層感度が良くなっている。 「兄、お前何した?」 庵に聞かれて、隣に流す。 「優斗、お前何した?」 優斗も流れてきた質問をそのまま隣に流した。 「石井、お前何した?」 「いやいやいやいや。」 庵と圭斗で同時にツッコむ。良いテンポだ。しかし、こいつと同時なのは気にくわない。 「優斗。」 「おう。」 「おまえ最近変わったな。」 「はあ。」 「エロくなった。」 「心外だ。」 「何か始めた?」 「…特に。」 「本当に?」 「本当に。」 またも、なんだかんだで結局優斗は口を割らなかった。 ****** 風呂から上がった優斗は、ぺったりと床に座ると、足を広げて上体を腰から折り曲げた。腸内洗浄を始めたのと同じ時期から、風呂上りのストレッチを日課にした。理由は、いざ圭斗とセックスするとなった時、自分の体が硬くてどうにもなりませんでした。なんて事態にならないようにするためである。 もともと優斗の体はとっても硬かった。どれくらい硬いかというと、長座体前屈をしようとしたら、座る段階できついというくらいに硬かった。しかし、今はどうだろう。長座体前屈では余裕で手でつま先を掴めるし、開脚だってもう少しで尻が床に着く。足の裏同士を合わせての前屈ではべったり額を床に付けられるようになった。 自分、やればできる子。献身的な努力で不安は減っていくし、体は健康になるし、万々歳だった。 ****** 「兄、顔。」 庵は、もやもやとした気持ちを余すところなく顔に出した圭斗に一応言ってやった。 「俺の顔は放っておけ。」 そう言い捨てて、圭斗は優斗の動きをじっと目で追った。 最近本当に優斗がおかしい。ついこの間まで、ちょこちょこぴょこぴょこ動いていた彼が、最近加えて滑らかに、ぬるぬる動くようになった。ちょこちょこぴょこぴょこ+ぬるぬるである。 「なんか、なんかな…」 「エロ可愛いな。」 庵が正直に呟くと、もごもごと言いづらそうに独り言を連ねていた圭斗が、ファンはいないが、ファンには見せられない顔を向けてきた。 「兄、か」 「そう言うこというなよぉぉおおおお!!!」 顔、と言おうと思ったのに、叫び声を被された。そのまま肩を掴まれて揺す振られる。 「あいつ何なの、ほんと何なの?」 「うるさい。」 鬱陶しいのですぐに引きはがした。 「俺が知るわけないだろう。直で聞けよ、直で。」 「頑なに口を割らないんだ。」 こうしている間にも、優斗は石井に「見て見て、やっぱしなんだかんだ言って仲良いよな、あいつ等。」なんてことを言っている。こっちの気も知らないで。 圭斗と庵は同時にため息を吐き、優斗はまたも嬉しそうに笑った。
待ち合わせ
待つのは嫌いじゃない。むしろ彼を待つ時間だったら楽しいくらいだ。待ち合わせ場所に着いて早速電子メモ帳を開く。今日は自作小説の続きを書くことにしよう。 圭斗は優斗との待ち合わせの時、必ずと言って良いほど遅刻をする。でも、優斗はその時間が好きだった。毎回違った時間つぶしの道具を用意して、彼を待つ。彼が来たら、「~して待ってたから大丈夫だよ。」と言うのがお約束だ。 優斗は圭斗を待つのが好きだ。でも、その理由は少し黒い。 「優斗!悪い。待ったよな。」 遅刻した圭斗が息を切らして必死で走って来る。 「小説書いてたから大丈夫だよ。」 「ごめん!本当ごめん!なんか奢るから!!」 「要らない。」 必死で謝ってくるのが可愛い。だから、奢ってもらってチャラにすれば良いのに、そうした方が彼の気持ちは楽になるのにそうしてあげない。そうすると、その後も彼が申し訳なさそうに機嫌をとろうとして来るからすごく可愛い。 いつも格好いい彼だから、こんな時じゃないと見れない情けない姿がものすごく愛おしく感じた。 「ふふ…っ」 「なんで、ご機嫌だよ。」 「なんでもないよ~」 彼が困惑するほど楽しくなる。優斗は緩む口元を手のひらで隠した。 ****** 優斗が綺麗になった。もともと可愛いかった優斗が、目に見えて美人になった。まるで恋する乙女の様だねって?前から俺に恋してるんじゃないのか。なのにどうして、急に。 「優斗、明日の予定は?」 優斗の部屋に上り込んだ圭斗は、彼の休日の予定を聞いた。 「課題の資料集めに三駅先まで。」 「一人で?」 「一人で。」 「俺も行く。」 別に彼の言葉を疑っているわけではない。彼が一人で行動し、自分の知らないところで自分の知らない輩の目に入ることが気に障るのだ。 「つまらないと思うけど。」 「何の資料?」 「噴水とか、湧水とか、池とか、川とか。夏の雑誌作るのに、水辺特集しようと思って。」 「面白そうじゃん。」 「でも多分道に迷うし、草があるだけだよ?俺は楽しいけど。」 遠まわしに断られているなんて分かっている。しかし、それが気にくわない。 「良いよ。」 「ほんとに?圭斗も来るの?」 「行く。」 やけになって、半ば睨みつけてそう言うと、優斗はキョトンとした後にヘラッと笑った。 「分かった。」 なんだか自分がとても馬鹿に思えた。 ****** 最近圭斗が離してくれない。校内で一緒に行動するときは、肩を組んでくるし、誰かと話しているときでも俺を見つけると抱きついてくる。甘えたは俺の専売特許だったはずなんだけど。 部屋に来る頻度と時間も増えた。それから毎日俺の体のどこかに印を付けるようになった。今日は右の脇腹、虫刺されに似た赤い印が咲いている。前に付けられたところも消えてないのに。 「圭斗まだかな~まだだよな~」 優斗は、文庫本を一度閉じると、時間を確認し、脇腹をさすった。時刻は一時、待ち合わせの時間丁度。あと十分待ったら一度メールを入れるのがお約束だ。 「すみません。足いいですか?」 声を掛けられて、条件反射で足元を見る。靴の下に何かのチケットがあった。すぐに足をあげると、声の主がそれを拾いあげる。 「ありがとうございます。風で飛んじゃいまして。」 すぐにその視界に入ってきたのは、黒髪アシメのツンツンヘアー。彼は屈んでそれを拾うと、無表情でお礼を言った。左耳の三つのピアスがきらりと光る。 「いえいえ。」 優斗は笑顔でそう返し、スッと視線を彼から外した。 切れ長の目つきの鋭い、輪郭にまだ幼さの残るイケメンだ。気が強そうで、苦手なタイプの顔だ。しかし、嫌いではないから、ちらちらと観察してしまう。 「ちっ」 優斗の隣で同じ柱に背を預けた彼は、ケータイを操作しつつ、舌打ちをした。一瞬、自分が見ているのが分かって、気に障ったのかと思い、身がすくんだが、彼はケータイの画面を見たまま眉を顰めたり、ため息を吐いたりしている。 「どうかしました?」 「いえ、待ち合わせの相手が遅れるって。」 「あー…」 聞いてみると、優斗と同じ状況であることが分かった。勝手な親近感がわいてくる。 「俺の待ち合わせの相手も遅刻してるんですよ。まあ、いつもですけど。」 「サイテーっすね。」 無表情で言われて優斗はえへへっと笑った。 「でもそれ以外は良い奴だよ。」 完全な惚気である。そんな優斗を見て彼は眉を顰め、唇をツンと尖らせた。そんな表情をするとますます子供っぽく見える。最初の苦手意識が嘘のようだ。 「でも、俺待たされるの嫌いっすもん。」 「俺は待つの結構好きなんですよ。」 それからお互いの待ち人の話になると、会話は思わず弾み、待ち時間はいっそう楽しく、時間が経つのも忘れてしまった。 優斗からメールが来ない。いつも待ち合わせの時間の十分後に届くメールが無い。当然圭斗からも送ったが、それに返信も来ない。 今までこんなことはなかった。もしかして、相当怒っているのだろうか。毎度毎度、もう遅刻しないから、と言うにもかかわらず遅刻する圭斗に、ついに愛想が尽きたと言う事だろうか。 圭斗の頬を冷や汗が流れた。早く待ち合わせの駅に着けと、人差し指が忙しなくリズムを刻む。電車がホームに着くと、すぐに飛び出し、駆け出し、待ち合わせの場所に彼を発見した。良かった、居た。 「優斗!」 「あ、圭斗。」 声を掛けると圭斗の心配をよそに、優斗はまったく気にしていない風に振り返った。 「あ、待ち人来ましたか。」 「うん。」 優斗の隣でしゃがみ込んでいた少年が立ち上がる。圭斗は初めてその存在に気が付いた。 「誰?」 「さっき知り合った。源氏君。」 「…へぇ。」 無表情でそこに佇む彼は、さっき知り合ったという程度でにこやかな会話ができるような人柄には見えない。 「俺の相手ももう着くらしいんで。」 ケータイを確認した少年が優斗に視線だけよこしてそう報告すると、優斗は圭斗の先に立って歩き出した。 「うん!じゃあ、またね!楽しかったよ!!」 人懐っつこい笑顔で大きく手を振って。 優斗のコミュニケーション能力の高さは知っていたが、今初めて会ったばかりとは思えない打ち解け方だ。こいつとしゃべっていたから俺にメールをするのを忘れたのかとか、メールを忘れるほど、メールに気が付かないほど楽しい時間が過ごせたのかとか、考えると胸が透かない。あるはずもない裏を探ってしまう。だから誓う。 「もう遅刻はしない!」 「いつもそう言う。」 軽く笑い飛ばされてしまったけども。 ****** 「あ、どうも。」 「本当にまた会いましたね。」 それから一週間後、優斗は同じ駅でまた源氏に会った。前と同じように横に並ぶ。 「遅刻っすか。」 「うん。多分まだ寝てる。そっちは?」 「こっちはドタキャンすよ。まあ、忙しいのは分かってるんすけど…」 今日も同じ人を待っている彼は、つんけんしつつも相手のことが相当好きらしい。分かっていると言いつつ、無表情の瞳を曇らせる。 「もう一緒に遊んじゃおっか。」 「え」 源氏は平坦ながらも、驚きと困惑の混ざった声を上げた。無表情だと思っていたが、意外と彼の感情は読み取りやすい。 「あはは、言ったでしょ。俺、圭斗を焦らせたいの。」 「ああ…じゃあ。恋人っぽく待ちましょうか。で、俺もその写真を相手に送るとしますか。」 そう言ってにやりと物騒な笑みを浮かべる。前に会った時も思ったが、彼は相手の話をするときに比較的大きく表情が動く。特に、相手を困らせた話や、困らせる作戦を話すときは本当に楽しくて仕方ないと嗤う。笑うのではなく、嗤う。優斗は顔も知らない彼の待ち人に少し同情した。 「圭斗さんに連絡したんすか。」 「いや、しないのも一興かと。」 「いつもくる連絡がいきなり来ないとか、焦りますね。」 「うん。この前源氏君にあった時はメールするのも返信するのも忘れてて、すごく…」 ふふっ 思わず笑みが漏れた。 「楽しそうっすね。」 「うん。」 「じゃあ、連絡しないでそこのファミレスで待ちましょうか。ここ見えますし。」 「あー、良いね。来たら驚かせようか。」 ああ、笑いが止まらない。こんなことが楽しいなんて、自分も源氏と変わらない。 もう遅刻はしないと誓っても、人間そう変わるはずもなく。懲りずに遅刻した圭斗に優斗からの着信はない。返信もない。 嫌な予感がした。 ホームに着いてドアが開くとすぐに駆け出し、待ち合わせ場所に急ぐが、そこに優斗の姿は無い。慌てて周りを見回すが、やはり居ない。さっと血が引いていった。 「うそだろ…」 圭斗は声を漏らして柱に寄りかかる。そして、自分の目を疑った。 目の前のファミレスに優斗が居た。先日一緒に居た少年と一緒に。それも、お互いにパフェを食べさせあって。 目の前が熱くなった。無意識のうちに足が動く。圭斗はファミレスに入ると、店員を無視して、優斗の席に向かった。 「優斗。」 「あ、圭斗!?」 「遅かったっすね。」 何でそんな驚いた顔をするんだ。待ち合わせてたんだから、俺が来るのは当然だろう。こいつと一緒に居るところを見られたくなかったのか?それならもっと他の場所に移動すれば良いだろう?遅かったっすね?ああ、俺は遅刻したよ。でも、お前らは何だよ。何で二人でそんな… 「…浮気か。」 圭斗がそう言うと、優斗はじっとりと眉を顰めた。 「は?」 「だから、浮気かよって。」 彼の手がグラスを掴んで軽く振る。 ぱしゃっ、と軽い音がして、顎先から水が滴り落ちた。一瞬何が起こったか分からなかった。 「源氏君騒いでごめん。相手してくれてありがとう。じゃ、また。」 「あ、優斗さん!?」 圭斗に水をかけた優斗は、何事もなかったように源氏に丁寧に謝罪とお礼と挨拶をして、彼の分の会計まで済ませて、圭斗の手を引いて店を出る。目の端が赤くなるほどちりちりと苛立っているようなのに、行動は不気味なほどに律儀かつ丁寧だ。慌てた源氏が追ってきたが、優斗も俺も気にする余裕が無い。 「……優斗――あっ!」 水をかけられて少し冷静な思考を取り戻すことができた圭斗は、店を出てすぐに呼びかけた。しかし、同時に彼は引いていた手を振り払い、駆け出す。足は圭斗の方が早いから、普段だったらすぐに追いつくのに、今回は人混みで見失ってしまった。 「はぁ~~~」 ――最悪だ。 遅刻したのは自分なのに、それを謝るどころか勝手にイラついて浮気を疑うだなんて。とにかく話をしなければと、電話をかけるがつながらない。メールもするが、返ってこない。目的地は彼しか知らない。自己嫌悪で死にたくなった。 取りあえずは寮に帰ろう。優斗だって寮に帰ってくるのだから。 圭斗は重たい気持ちを引きずったままその場を後にした。 ****** 五月も半ばを過ぎたとはいえ、日が落ちると途端に肌寒くなる。優斗は、ぶるっと体を震わせると、頭を押さえて、ため息を吐いた。 気温が下がるともに、体温も下がって、頭に昇った血もすっかり下がった。 正直、調子に乗りすぎた。優斗の行動は、圭斗の遅刻が原因だとはいえ、彼の愛情を弄んだようなものだ。恋人が他の男と恋人同士のような行動をしていたら腹が立つのは当たり前だし、第一自分はそんな彼の反応が見たくてそうしたはずだ。それがいざ現実になって腹を立てて水を掛けた挙句逃げるだなんて。 「サイテー…」 でも、傷ついたのだ。浮気だと疑われて悲しかったし、悔しかった。 自転車に乗る気にもならなくて、とぼとぼとを押して歩いて帰る。タイヤに連動して光るタイプのライトが地面に薄い光を差した。 優斗は、ドアが叩かれる度に、息をつめた。謝らなければいけない。でも、謝り方が分からない。説明下手で、ノリとテンションで乗り切ることの多い性格だから、下手なことを言って、彼の気を今以上に悪くしてしまうのが怖かった。 圭斗はドアを叩くことを止めて、その場に座り込んだ。ドアの前にスリッパがある時は優斗が帰宅している証拠だ。なのに、ノックをしても返事が無い。中からは物音一つしない。昨日の夜からずっと居留守を使われて、今また日が暮れようとしている。しかし幸いトイレも風呂もキッチンも共同な寮だから、こうして待っていればいずれは出てくるはずだ。だから、大人しくじっと待つことにした。 カチャ… ドアが開いた気配にハッとする。慌てて立ち上がると、関節が軋んだ。どうやら少し意識が飛んでいたようだ。 「優斗!」 ドアの影から飛び出して彼を掴まえる。 「け、いと」 優斗は目を見開くと、すぐに頭を下げた。 「ごめん圭斗!ホントにごめん、俺…」 「は?」 彼の謝る理由が分からなくて、怪訝な声を出したが、それが思わずガラの悪い反応になってしまい、優斗がびくっと肩を揺らした。 「ご、ごめん。ごめんなさい。誤解させてごめんなさい。水かけてごめんなさい。」 俺の服をきゅっと掴んで俯いたままそう言う彼に、謝罪の理由が分かってますます混乱して反応が遅れた。 「ごめんなさい、嫌いにならないで…」 その間にも彼はどんどん追い詰められて、小さな声で縋ってくる。圭斗は彼を抱きしめて、自分ごと彼の部屋に押し戻した。 「何でお前が謝んだよ。…誤解して悪かった。お前が浮気なんてするはずないのにな。」 優斗の顔を覗き込んで、圭斗がそう言うと、緊張で強張っていた優斗の顔がふにゃっと崩れて、乾いていた瞳がじんわりと濡れていく。 「違う…っ!誤解されたくてやったんだぁ…っ」 本格的に泣き出した彼の瞳に口づけて、背を撫でて宥めてやる。こうして泣き出してしまえば、もう解決したも同然だった。 「どういうことだ?」 彼が萎縮しないように、他の奴、例えば庵あたりが聞いたら鳥肌ものであろう甘い声で促す。 「だって、お前格好良いんだもん。欠点とか、無いし。申し訳なさそうな態度とか、必死な態度とか見るのが好きで、…待ち合わせに遅れた時するじゃん。それで、俺調子に乗って、「あーん」とか、言って他の人と恋人食いたら、お前がもっと必死になると思って…だから…」 「うん。」 優しく抱きしめて、背中や頭を撫でてやる。安心して身を任せてくる優斗が愛しくてたまらない。 「源氏とはたまたまあっただけで、浮気とかじゃ…っ、ないし」 「怒ってないの?」 「……怒ってた…。浮気って言われて嫌だった、から、水かけた…俺がそうさせたのに…」 「優斗。」 「ん?」 俯いていた顔を気持ち上げて彼が答える。その頬に手を添えてきちんと顔を上げさせた。トラウマを克服しても、こうして改めて顔を覗かれると、居心地悪そうに身じろぐ彼の、いつまでも初々しい反応は、毎回圭斗の心を震わせる。 「遅刻して悪かった。疑って悪かった。お前が浮気なんてするはずないって、分かってるのに…。お前のことが好きだから、頭に血が上った。」 「…俺も」 「もう怒ってない?」 優斗は無言で頷いて、圭斗は?と瞳で問いかけてくる。圭斗も口では答えずに、泣いたことで血行の良くなった彼の赤い唇をそっと塞いだ。
覚悟
優斗の部屋と違い、漫画よりもCD、DVDなどの方が多く棚に並んだ圭斗の部屋(専門書除く)。音楽はボカロばかりを聞く優斗は、純粋に彼がどんな曲を聞いているのか、今はどんな曲がはやっているのか、そんなことを考えつつその棚を物色していた。そんな中、背の無い棚の向こう側に落ちている本を見つけて拾った。エロ本だった。 優斗は、恋人、坂本圭斗の部屋で、見つけてしまったエロ本を持って硬直した。しかし、思考はめまぐるしく働く。 ――え、まじで?いやでも圭斗も健全な男子ですしエロ本の一つや二つもってて当たり前。 ――あーでもやっぱり基本女の子が好きなのか。しかも巨乳、ロリ巨乳。まあ、真性のゲイだとは思ってなかったけどさ。俺だってゲイじゃないし。 ――大体あれだよな。ゲイだったらもっと男らしい人好きになるよな。庵とか庵とか庵とかな。 ――あー、このアングル際どい。てか開き癖ついてるやんなぁ。思わず似非方言でたわ。 ――でも圭斗これで抜いてるってことだよな。なんかそれって…いやいやいや、そもそも俺に求められても困るしな。うん。 ――あれ、でも開き癖ついてるところ見ると胸より足派なのか?肉付き良い足派?えー、俺足肉付かなくてガリガリなのに、ぇー… ――それにしてもみんな可愛いなぁ、俺結構好み一緒かも。あー!この子超かわいい!!幸薄顔って良いなぁ… 「ぎゃぁあああ!!!」 家主の叫び声で優斗の思考が現実に帰って来た。 「あ、圭斗お帰り。」 挨拶も無視されて手の中のエロ本を奪われる。 「お、おま…なにっ」 「あのね、俺三十ページの娘が可愛いと――」 青い顔でぱくぱくと口を開閉させる圭斗に、感想を言おうとしたら、抱きしめられた。少し苦しい。 「け、圭斗?」 「うるさい!聞きたくない聞きたくない聞きたくなーい!!」 耳元で叫ばれるとうるさい。優斗は眉をひそめた。 囁かれたらこそばゆいからどっこいどっこいだが…、いや、そもそも耳元でしゃべらなければいいのだ。 「何、エロ本なんて見てんだよ。こんな紙面の女より俺の相手をしろよ!!」 「ええ!?そもそもこれお前のじゃん!――んぅ!?」 理不尽だ。優斗が抗議しようとするとキスで口を塞がれた。理不尽だ。 「――ふぅ…んっ」 しかも舌まで入れてくるって、馬鹿じゃないの、馬鹿じゃないの?馬鹿じゃないの!? 「…ぷぁっ…」 圭斗みたいにうまく息継ぎなんてできないし、そもそもまだキス自体に慣れていない。すぐいっぱいいっぱいになるの知ってるくせに、なんで離してくれないの。なんで?離してよ、やだよ…っ 「圭斗…っ!」 優斗はなんとか圭斗を押しのけて距離をとった。泣きたくもないのに涙がこぼれてくる。 「ぁ…」 優斗の泣き顔を前に、やっと冷静さを取り戻した圭斗が声を漏らす。 「いや、だってこれ、お前に会う前に買ったやつだし…というか、何処から引っ張り出したんだよ。」 声を出すと、余計に涙が出てきそうで、優斗は無言で棚を指さした。 「今はお前だけだし…」 「うん…皆まで言わないで…」 嫌な予感がして、しぶしぶ口を開く。案の条言葉が嗚咽を含んで、さらに涙がこぼれた。 「オナニーのおかずだってお前だけ――」 「皆まで言うなと言ってるだろうがぁ~っ!!」 「優斗顔真っ赤。」 「あー、あー、あー!!」 優斗は叫びながら圭斗をぼかすか叩く。 気持ちの上では「あー、あー、あー!!」だが、ボロ泣きしてるので、実際の音は「あーん、あーん、あーん!!」だ。情けない。 「可愛い。」 「うるさいぃ~!」 圭斗はなおも叩いてくる優斗の手をとって引き寄せ、その耳に口づける。 「なあ、優斗。したい。」 「~っ!」 そのまま囁くと、優斗の泣き顔が引き攣って固まった。 「優斗、優斗…」 「~っぅく…っ、ひっく…っ」 耳を食みながら名前を呼ぶと、また耐えられないと泣きだしてしまう。 「そ、そう…っ、いうのが、ゃ…っ!やだぁ…っ」 うわーんと泣きじゃくる優斗。ここまで泣かれると、とても悪いことをしている気分になる。実際には恋人とスキンシップをしているだけなのに。 泣いた彼が落ち着くのを待たずに、泣き顔の可愛さにつられて押しまくったのが悪かったのか。圭斗は迫るのを止めて、優斗をぎゅっと抱きしめてぽんぽん背中を叩いた。 「そういうのって、どういうのだよ。」 落ち着いた声で聞くと、彼はもぞもぞ動いて体勢を整えて圭斗の背に腕を回す。完全にママに甘える子供状態だ。まあ、そんなところが可愛いのだが。 「お、俺、流されちゃうから…、いっぱいいっぱいになっちゃうから…」 「良いよ、マグロで。大歓迎だよ。」 こんな、ちょっと触っただけで戸惑いまくって大泣きして、それでも俺を突き放さないで俺の好きを受け止めようともがいて、好きを伝えようと必死になるマグロだったら、それだけで良いよ。 圭斗は、真直ぐに整えられた髪に指を通し、くしゃっとかき混ぜる。自分より一回り小さい華奢な体が愛おしくて仕方ない。 「やだ、だって…っ、隣に聞こえるし…」 前に優斗の部屋で、最後まではいかずとも、そういう行為に及んだことがあるが、その当時優斗の両隣は空室だった。しかし今は新入生が入り、隣には学科の後輩が居るし、圭斗の隣は元から人が入っていた。 「抜くだけだから。」 それでも圭斗は諦めきれずに伺いをたてる。もう最近は泣き顔を見るだけで勃つようになってしまったのだ。 優斗がふるふる震えながらふるふる首を振る。チワワか。 何でだよ、男なら分かるだろ?いや、泣き顔で勃つとか…分からないか… 「無理…声、俺多分抑えられない…っ」 「大丈夫だって。隣のやつオナニーしてる時喘ぎ声聞えるし。」 「お前の隣川島じゃん!聞きたくなかった!」 「聞いて無いだろ?」 「知りたくなかった!」 圭斗は、暴れて距離をとろうと腕をつっぱって背を逸らす優斗を、そのまま押し倒す。 「まあ、そういう事だから。」 「ちょ、まって!嫌だったら!!」 腕を押さえたら足が出た。腹に決められて、ごふっと咳き込む。股間にヒットさせられなかっただけ僥倖か。 「…え、マジでダメなの?」 気落ちした声でダメ押しすると、申し訳なさそうに目を逸らされる。 「だ…め……」 「あー…」 組み敷かれた状態で、頬を染めて「だ…め……」とか、そんな仕草でさえ衝動に繋がるというのに。圭斗は全身で誘っているとしか思えない優斗から視線を外し、天井を仰いだ。目に毒だ。 「……ごめん」 「いや、俺もいきなりだったし、な?」 「……ごめん…」 「あんまり謝るなよ。余計空しくなる。」 言いつつも視線は優斗から逸らしたままだ。圭斗はふっと息を吐いて優斗の上から退いた。 「ち、違うの!本当に、隣が気になるだけで、お前が嫌なんじゃなくて、だから!」 その手を優斗が掴んだ。俯いているが、目に涙が溜まっているのが分かる。眉間に力が入っているのが分かる。空しくなるとか言ったから、責任を感じているのか?健気すぎるだろ… 優斗は最終的には圭斗を突き放さない。好きを受け止めようともがいて、好きを伝えようと必死になる。だから、不安になんてならない。いっそ、こんなに泣かせているのにそのまま犯したくなってしまう。 「それは…期待しても良いってこと…?」 期待と不安がないまぜになった。声が少し震えたかも知らない。彼が否と言えるわけがない。自然に出た言葉だが、彼の退路を断つ力のある言葉だ。 もう限界なんだ。俺に退路が無いのだから、お前も退路を無くせばいい。 ***** 彼を傷つけてしまうような気がして、本当のことが言えなかった。未知の感覚が怖いのだと、抱かれたら、自分の中の何かが今と決定的に変わってしまうことが怖いのだと、そう言うことができなかった。 優斗は圭斗との初体験に備えて、色々準備をしていた。腸内洗浄に挑戦したし、柔軟で体は柔らかくなったし、後ろの開拓も進めた。全部圭斗との初体験をスムーズに進めるため、不安を無くすためにやったはずだった。でも、いつまでも不安は無くならない。後ろで感じられるようになっても、何だか切なくてどうしようもない。何回やっても涙が止まらなくて、いつまでも怖くて仕方ない。 ――それは…期待しても良いってこと…? 彼の声が脳内で繰り返し聞こえる。あんな声で、あんなことを言われてしまったら、自分ですることもできなくなってしまった。 あれから初めての二人での外出、覚悟を決めなければいけない。ガタゴトと電車が揺れた。 「優斗さん、顔真っ青っすよ。」 「…源氏君、顔真っ黒だよ…?」 待ち合わせ場所の改札前で、優斗は源氏と同じ柱に背もたれて重いため息を吐いた。 優斗は圭斗との待ち合わせ、源氏は彼の恋人との待ち合わせ。お互い遅刻癖のある恋人を持つ者同士、こうして鉢合わせるたびに話をしているうちに、愚痴や悩みを話す仲になった。 「逃げたい…」 「俺も…」 二人でぼやく。 「…いつも待たされたり、ドタキャンされたりするじゃないっすか…」 源氏は口の中でぼそぼそしゃべり、優斗に身を寄せる。優斗の二の腕に彼の肩がコツンと当たった。 「ドタキャンしませんか?」 まだ中学生の彼の身長は、成人男性の平均をやや下回る優斗よりもまだ低い。イケメンの斜め下からの流し目だ。癒された。優斗はうなずいて圭斗に謝罪メールを送った。 「源氏君、何があったの?」 駅近くのカラオケボックスに入ると、優斗は曲を入れずに、向いに座る源氏に話を振った。男同士の恋愛をする者同士の恋愛相談だ、公にできるものではない。気兼ねなく話せる個室の場所なら、カラオケボックスが手っ取り早い。 「いつもなんだかんだそんな暗くないじゃない。遅刻癖に嫌気がさしちゃったの?」 彼の恋人の遅刻癖は圭斗とは違い、理由のあるものだ。お人好しで面倒事に巻き込まれやすい体質が彼を遅刻魔に仕立て上げていた。源氏はそんな彼に口では文句を言いつつも、心では許していたように思えたのだが… 源氏は優斗の問いにかぶりを振る。 「いや、遅刻はもう良いんすよ。いや、良くは無いんスけど、まあ…それは困ってる人を助けたりとかしない方がむしろ嫌ですし…。そうじゃなくて実は…」 源氏は沈痛な面持ちで言葉を切った。密室を重い空気が包む。 「俺、痔になっちゃったんですよ。」 痔、様々な場面でギャグのネタにされるその単語に、意図せず優斗の口元が緩んだ。 「暑いのに汗がひくんです。末端から血の気が失せて冷たくなって震えるんです…」 朝トイレで顔が青ざめる。切り裂かれるような痛みに、場所が場所なだけに悪寒が走り、足の指先まで凍る気がした。衝撃に身構え、指で腹の肉を掴んで、力んでいるのに末端の温度が失われて、じわじわと恐怖に支配される。ついで痛みが走り、熱いはずの個室で肌に浮いた汗が一気に引くのだ。 「怖い。」 痔も立派な病気だ。想像しただけで優斗の顔が青ざめた。 「源氏君、ネコ?」 源氏は俯いてこくんと頷いた。 「あー。でもさ、言えば良いじゃない?優しい人なんでしょ?」 痛みはとりあえず置いておいて、今問題になっていることに話を向ける。優斗はわざと明るい声で言った。 「しばらく会えてなかったんです。俺、あの人前にしたら抑えられそうになくて、あの人襲っちゃいそなんですよ。でも、あの人ノンケだし。女役なんてやらせられないし…」 「あ、あのさ…」 つらつらと悩みを連ねる彼を優斗が恐る恐る止めた。 「源氏君って、もうそういうことやっちゃってるの…?」 「え」 切れ長の眼が年相応にきゅるんと瞬く。 「優斗さん達って、付きあいどれくらいでしたっけ?」 「は、八ヶ月くらい…?」 密室を沈黙が支配する。 「…まあ、人それぞれじゃないっすか…?」 「そ、そうだよね!そう、だよね…?」 不安気に聞き返す優斗から源氏は目を逸らした。 「あ、そうだよ。源氏君!」 優斗は腕をぱたぱた動かして微妙な空気をかき消す。 「やっぱりちゃんと言った方が良いよ。直接会えないならメールでも電話でも。何もなしで放置したらダメだよ。」 言葉が足りないために生まれる対人関係の亀裂をいくつも知っている。好きあっている同士の関係が、言葉が足りないという理由だけで壊れてしまうなんて悲しすぎる。恥ずかしい事でも、言うまででもないことだと思っても、言っても仕方がないと思っても、相手のことを思っての気持ちなら、伝えなければならない。悩みは共有すればなんてことないことだってあり得る。言ったことで関係が壊れてしまうかもしれなくても、言わないで壊れてしまうなら、足掻かなければいけない。ただ、何もしないで壊れてしまうのはだめだ。考えただけで涙が出そうだった。 「そう、…ですよね。」 実際、じんわりと瞳を濡らしてしまった優斗に、源氏はきゅっと胸が詰まった。 「うん!」 良かった。伝わった。 悩みを本人に、打ち明けることは、プライドの高い人ほど、難しくなる。「貴方のことで悩んでいます。」だなんて、何人の人が告白できるだろう。優斗は、プライドは高くない。でも、気持ちを説明するのが下手で、人の負の感情を受け止めるのも苦手なものだから、途中で説明を諦めてしまうこともあった。そんなにつらつらと話しても鬱陶しいだけなんじゃないかと思うこともあった。仲の良い人ほど、嫌われるのが怖いから臆病になる。仲の良いほどに気持ちを伝えることは大切になるのに。 途中で諦めてしまうと、後になって後悔する。夜な夜な心が蝕まれる。何年も前のことでも、ふとした瞬間に思い出しては叫びたくなることがある。 源氏は、一匹狼気質のプライドの高い人だ。しかも中学生という自立と依存を繰り返す 時期にあって、素直になるには一番難しい時。その上彼は恋人に対して臆病でもある。 彼の恋人は先輩で、部活のキャプテンで、みんなに優しくて、みんなから好かれる人で、最初はまわりに馴染まない彼に構ってくれていた。恋人はノンケなのに、ゲイである源氏に流されて、つきあってくれた。 すべて源氏から聞いた話だ。本当のことは優斗にはわからないし、本当だとしても、今もそうだとは思わない。しかし、源氏は今でも恋人が彼に付きあってくれていると思っている。口では罵倒して、からかって、甘えていても、彼の中での彼はいつまでも恋人の下の存在なのだ。 だから、源氏に優斗の言わんとすることが伝わったのは嬉しかった。優斗の顔がふわっと綻ぶ。 「あんたも、人たらしか…」 源氏がボソッと呟いたが優斗には聞こえなかった。 「優斗さんは?」 「お、れは…」 これはさっき微妙な空気になった話題だ。 「抱かれる覚悟ができなくて。」 「八ヶ月なのに。」 「八ヶ月でも!」 「大学生なのに。」 「大学生でも!」 叫んで、しゅんと項垂れる。 「…関係ないもん…」 年齢なんて関係ない。優斗にとって、これが初めてのまともな恋愛なのだ。こんなに人を愛おしく思ったのは初めてで、何だって初めてのことは恐いし戸惑う。 「今日さ、覚悟を決めてきたはずだったんだよ。でも、さっき駅のトイレで聞いちゃったんだ。そういうことしてる物音。」 「誰だよ、常識ないな。」 「それで、なんか…気持ち悪いと思っちゃって…」 覚悟とは何なのか。決めたと思っても、些細なことで覆される。例えば歯医者嫌いが、歯医者に行く決心をした時、歯医者は恐いと誰かが言ったら、どうなるだろう。その決心は揺らぐのじゃないだろうか。 「俺、覚悟決めるまですごく頑張ったのに、やっと覚悟できたと思ったのに、結局無理だって思ったら…、情けなくて…」 恋人と愛し合う覚悟を決めたのに、自分がそうすることと、他人がそうすることを見聞きするのでは違うと頭では分かっていても、優斗の中の潔癖な部分が拒否してしまった。 「仕方ないんじゃないっすか?優斗さん、悪くないじゃないですか。頑張ったんでしょう?でもダメだったんでしょう?まだ諦めてないんでしょう?だったら全部彼氏さんに言えば良いじゃないですか。無理やりやるような人じゃないんでしょう?今まで待っててくれたんだから。」 「でも、これ以上待たせるのが悪くて、なんかあいつぎりぎりなんだ。」 悪くないなんてことは無い。彼の気持ちを分かっていて応えることができないなんて。 「だから何も言わないで、会うの止めて覚悟決まるまで待つんすか?いつまで?」 源氏の真剣な目が優斗を射抜く。強い人の強い視線、強い言葉に優斗は弱い。その言葉が正しいほどに自分がダメな奴だと確認させられる。 「言ったらどうなるか分かりませんけど、言わなきゃ終わりますよ。」 ブーメランが帰って来る。ぐうの音もでなかった。 ****** 相談を終えて、カラオケを出る。外の空気が気持いい。人に話した分、気持ちがすっきりした。 「話聞いてくれてありがとう。」 「いえ、こちらこそ。」 優斗が自然な笑顔でお礼を言うと、源氏も無愛想ながらも柔らかい気配を纏って返してくれる。 「お互い、ちゃんと話そうな。」 「はい。」 話す前はお互い最悪だった顔色も今は健康的な赤みがさしている。 まだ日が高いしどうしようか、そう思ったとき鋭い声が穏やかな空気を壊した。 「優斗!」 「え!?」 低くドスの効いた声に、最初は誰だか分からなかった。ぐいと手を引かれて、顔を見る。 「え、ちょ、圭斗!?」 優斗はどす黒い顔をした恋人に問答無用で連れ去られた。
最低の初めて
なぜこんなことになってしまったのだろう。 気持ちを伝えようとした矢先に伝えるすべを奪われてしまった。 「なあ、圭斗。」 「うるさい。」 「聞いて、俺」 「黙れ。」 頭に血が昇って聞く耳を持たな彼に、無理に言葉を伝えるには大声で叫ぶしかない。しかし、公共の場で伝えるにははばかれる内容だ。ホモの痴話げんかなんてダメな人にとっては害だ。 強く掴まれた腕が痕になりそうだ。大股で速足で歩くから、歩幅の違う優斗は小走りで引きずられる。人混みで何度も人にぶつかりそうになって、謝ろうと思うのに、喉が詰まって声が出なかった。 悲しくなって俯きがちになるが、いつも気遣ってくれる彼は何も言ってくれない。こちらを見てくれない。とにかく付いて行くと、ショッキングピンクのビルに入った。 ロビーにしては狭い空間に、擦りガラスに覆われた小さな受付らしいものがある。その前に立つと、隙間から鍵が差し出される。圭斗は鍵を受け取ると、目の前のエレベーターに乗り込む。終始無言だ。 二人きりになって、もう話しても問題ないのに、無言の圧力が優斗を責めて、口を開くことを許さない。これからどこに行くのかも分からない。掴まれたままの左腕は感覚が無くなってきた。 部屋に付くと、荷物のように投げ込まれて尻もちをつく。回った鍵がカチリと無機質な音を響かせた。 狭い部屋は安っぽい装飾でギラギラ光って、中央にそれだけは立派なダブルベッドが鎮座している。 「け、圭斗…ここって――」 座ったままの優斗を圭斗が担いでベッドに落とす。硬いスプリングが大きく軋んだ。 「や、やだ待って!」 優斗に跨った圭斗が力任せに服を脱がせてくる。シャツの襟が引っかかった顔が痛い。 「やだ、やだ!待って!こんなの嫌だ!」 「うるさい!」 頬に衝撃が走った。歯まで衝撃が伝わる。 「――っ」 痛くて、悲しくて、悔しくて…、とにかく辛くて涙がこぼれた。 「泣けば良いと思ってんじゃねぇよ。」 脱がされた服で優斗の腕が縛られてベッドヘッドに固定される。 泣いても良いと言ってくれた彼は、優斗が泣くたびに抱きしめてくれた彼は何処に行ってしまったの?どうしてこんなことになったの? 「ひぁ…っ」 腰骨を掴まれて体が跳ねる。脇腹を撫でられて、くすぐったいような何とも言えない快感に身をよじった。 「圭斗…っ」 こんな風に感じたくないのに、彼に触られるとすぐに息が上がってしまう。 「気持ち悪い。」 「いぃ…っ!?」 乳首をぎゅっと摘ままれ悲鳴が上がる。 「喘ぐな気持ち悪い!」 圭斗はシャツを脱ぐと、そのままそれを優斗の口につっこんだ。喉に詰まって、咳き込む。息苦しさにまた涙がこぼれた。 「淫乱、誰でも良いんだろう…?」 誰でも良いわけ、ないじゃないか。圭斗でさえまだ無理なのに、他の誰を受け入れられるわけがないじゃないか… 「~~っ!」 肩に噛みつかれる。見えないが、肌がぷつんと切れる感覚がした。 体中を噛みつかれて、このまま本当に食べられてしまうのだと、がたがた震える。痛みより恐怖の方が強かった。 ブブブブ―― ケータイのバイブが鳴った。 彼がそれを取り着信を確認すると、付属されたシャワールームに持って行ってしまう。 帰ってきた彼は無言でまた優斗に跨った。 「――っ!」 軟膏を塗った指が後口に無理やり入ってくる。痛い、痛いと優斗が首を振るのに圭斗は止まらない。慣れないうちに指を増やして、より苦しめる。 「緩めろ。」 短い命令に、唸って抗議する。それに圭斗は顔を顰めて、緩まない入口に彼の熱を押し当てた。 優斗の顔が恐怖で強張る。鋭い痛みが臀部を直撃した。叫び声ががシャツに吸い込まれて、低い唸り声になって部屋に響く。 痛い、痛い、ひどい、ひどい、ひどい…! 押さえつけられて、無理やり奥まで何度も突かれて、痛みで意識が飛びそうになった。 もう、早く終われと、そればかり考えた。 目を覚ますと、圭斗に抱きしめられていた。 眠っている彼を見て、優斗の頬を涙が後から後から濡らしていく。 自由になった腕で彼を抱きしめた。 「ん…っ」 彼が身じろいだ、と思った時には優斗はベッドから転げ落ちていた。 唸っただけで彼はまだ起きない。心臓がバクバク煩く鳴る。 自分の状況が理解できなかった。俺は彼が、圭斗が ――怖いのか…? ****** 腰が痛いし、全身がだるい。手首は、彼に掴まれてできた指の痕とベッドにつながれてできた痕が重なって、赤紫に変色している。 あの後優斗は無理に脱がされていくつかボタンのとんだシャツと、よれたズボンを着て、圭斗によって水に沈められたケータイ以外の荷物を持って、転がるようにホテルから逃げた。寮と反対方向の電車に乗って、小さな駅のホームに降りて、トイレに駆け込み、上からも下からも吐いた。足元はおぼつかないし、視界が滲んで、どうしようもない。呆然とベンチに座り込む。もう空が真っ暗だった。 酷いと思った。最中は、彼を本気で憎いと思った。 でも、終わってしまえば、痛みや苦しみより先に、彼の苦しそうな顔が浮かんでくる。 誰が悪いって、優斗が悪いのだ。前にも同じように源氏といて、彼が嫉妬したことがあったじゃないか。彼がぎりぎりだって分かっていたじゃないか。 一番悲しいのは、彼が優斗の気持ちを理解しないまま無理やりに行為におよんでしまったことだ。彼が苦しんでいることだ。優斗は、彼になら何をされても良かった。痛くても、苦しくても、我慢できた。あれは強姦じゃない、合意なんだ。でも、彼は知らない。ずっと苦しそうだった。優斗より苦しそうで、泣きながら優斗を抱いたのだ。 彼の頭を撫でたくても動けなくて、安心させるように笑いたくても笑えなくて、弁解したくても喋れなくて… 本当は、今自分は彼の隣に居るべきなんだ。何でも良い、声を掛けたい。彼は悪くないのだと伝えたい。でも、こんな彼に怯えた状態じゃダメだ。もう、どうしたら良いのか… 「弟…?」 呼ばれて、感情の波から浮上する。顔を上げると、困惑した表情の庵が目の前に立っていた。 二本の線路を大きなコンクリートの台で挟んだだけの小さな駅が庵の住むアパートの最寄りの駅だ。いつものように、ホームに降りると、目の前のベンチに、見知った姿があった。ぼろぼろの服を着て、頬を腫らして、一人で小さな駅のホームに座っていた。 「弟…?」 声を掛けると、茫然と見上げてくる。生気の無い瞳から絶え間なく涙が零れ落ちるのに、唇は渇いてかさかさだ。 ぞっとした。明るくころころ笑って、じゃれついてくるいつもの彼の面影が全くない。 「どうしたんだよ、こんなところで…」 袖の布を引っ張って、彼の涙を拭う。それで初めて、泣いていることに気が付いたのか、優斗はきょとんと眼を瞬かせた。 「大丈夫か?何があったか話せるか?」 彼は頷いて、次に首を振る。口を開きかけたが、ひゅうっと乾いた音が出るだけだ。喉が渇いて声が出ないのか。 「あいつに連絡したか?兄はどうした?」 優斗の表情が固まる。また喉の奥から乾いた音が出た。微かに眉を寄せた彼の唇が震える。 「――来い。」 彼の手を引こうとして、内出血で腫れて痣になったそこに驚いて手を離した。力の入らない彼が、その場に膝から崩れそうになるのを慌てて抱きとめる。 夏なのに、どこもかしこも冷たい体が人形の様で、庵の方が震えてしまいそうだった。 アパートに優斗を連れて帰り、水を飲ませる。喉は潤ったはずなのに、彼は口をパクパクさせて、目を見開いた。不安そうに瞳が揺れる。その頭をぽんぽん叩いた。 「ショックで少し声が出ないだけだろ。ゆっくり休んで明日まだ声が出なかったら病院に行こう。」 湯船に普段は張らない湯を張ることにする。それを待つ間、優斗は座布団の上で膝を抱えて顔を伏せている。 「弟。」 隣に座って肩を抱く、とびくっと揺れて怯えた瞳が庵を見た。 「…ご、めんなさい。」 震える唇から、かすれた声が出た。 「弟?」 「圭斗…、ごめんね…っ」 顔をくしゃっと歪めて、ぼろぼろ泣き出す。折角水分を摂ったのに、また次から次に出て行ってしまう。 「本人に謝れば良いだろう。」 優斗がぶんぶん首を振る。 「違う、無理だ…っ。もう許されない…っ」 「なんで。」 「もう、信じてくれない…っ、聞こえない…っ」 「知るか。連絡すればいいんだろ。」 「やめろ!」 ケータイをとり出した庵の手を優斗が払った。軽く持っていたケータイが放り出される。 優斗は肩で息をして、じっと庵を睨みつけていた。怯えた野生動物のようだ。 「分かった。連絡しない。」 「…。」 「落ち着け。」 じっと、見つめ返す。 「――庵。」 「うん。」 「ごめん。」 「別に。」 「もう少ししたら、ちゃんとするから。」 「…別に。」 ピピピピピ 無機質な電子音が、風呂が沸いたことを知らせた。
エール
つい魔がさして、とか。血が昇ってとか。ニュースでよく見る犯行の理由のような。本人以外が見たら、理不尽で、到底理解できない理由を、まさか自分が理解する時が来るなんて思わなかった。 気付いたら朝だったとか、彼が居なくなっていただとか、そんなことは無く。全部覚えている。 彼が泣くのを見て、何度も理性が勝とうとした。彼が浮気なんてできないことくらい分かっている。でも最近急に綺麗になったことを思いだして、やけに綺麗な躰とか、初めは痛がってたくせにすぐによがり出すところとか、慣れてるようにしか見えなくて、疑心暗鬼になって、だめだった。 彼にどんな酷いことをしたのか、酷い言葉を投げたのか覚えている。 言い訳ならいくらでも並べられた。でも、それじゃ許されないほどのことをした。全面的に圭斗が悪い。誰が見ても圭斗が悪い。 一人残されたホテルで、洗面台に沈んだケータイを回収した。 彼は逃げた。何から逃げたのだろうか。 圭斗から逃げたのか、それとも自分の罪から逃げたのか。 「優斗…泣いてたな。」 あの涙は、どういう意味だったのだろう。 なんで、彼の自由を奪ったりしたのだろう。どうして口を塞いだのだろう。 すべてを奪って、彼を縛りつけようとした。結果、いなくなってしまった。 翌日、目の下に隈を作った圭斗は、ケータイショップに行って、修理を頼んだ。水没してもデータは復元できるらしい。身分証明は彼の部屋をあさって見つけた保険証だ。 優斗は部屋に帰ってこなかった。 彼をあれだけぼろぼろに傷つけたのに、いったいどこで何をしているのだろう。自分で傷つけて、帰る場所を無くしておいて、今更心配するなんて身勝手だと思う。そうだ、彼が一番頼っていたのは自分なのに、一番心を開いていたのは自分なのに。 今彼は誰かと一緒に居るのだろうか。自分以外の誰かと一緒に居るだなんて嫌だ、でも、彼がもし一人で居たらと考えると、気がおかしくなる。 「――もしもし、石井?」 『誰の電話だと思ってんだよ。』 「優斗いるか…?」 『は?いねぇけど。なんだ?何かあったのか?』 「いや、居ないなら良いんだ。」 誰のところに居るのが良い?石井ではなかった。源氏か、渡辺か、それともまた別の誰かか… ****** シャワーを浴びる時、体中の噛み痕がずきずき痛んだ。 腕に残った後も、頬の腫れも、心臓も痛かった。 とん…とん… リズム感の無い物音と、優しい味噌の香りに意識が浮上する。ベッドを降りて部屋を出ると、台所で昨日拾った友人が大根を切っていた。 「坂本。」 呼ぶと、ゆっくりとこちらを振り向く。真っ黒な髪に埋まった顔が真っ白で、目の下の隈ばかりが目立った。 「そんなことしなくて良いぞ。」 「…ヤダ。…やる。」 そっとその頬を撫でる。血の気の無い唇を指でなぞると、びくっと後ずさった。 庵の前に大根の味噌汁と、肉野菜炒めと、ほかほかのご飯が置かれた。味噌汁を啜って息を吐く。朝からまともな食事をとるのは久しぶりだ。 「弟、米は?」 優斗の前には味噌汁しか置かれていない。 「…要らない。」 「今日四限で終わりだから。鍵置いていくから、五時ごろはここに居ろ。」 「分かった。」 死んだような顔で、頷く。これで、今日帰った時にはまだ彼が居る。 教授につかまって遅くなってしまった。時計の針は六時半を指している。 「ただいま!」 「お帰り庵!」 慌てて帰った庵を、彼の笑顔が迎えてくれた。 「…元気だな。」 「うん!」 笑顔だけど、顔色は良くない。空元気か。 「良い子だな。」 まっすぐで指通りの良い髪をわしゃわしゃ撫でた。 玄関に居る時点で、美味しそうな香りがする。部屋に入ると、掃除もしてくれたようで、全体的にすっきりしていた。上着を脱げば優斗がハンガーにかけてくれる。 「嫁みてぇ。」 呟けば優斗がそれに笑う。 「ご飯にする?お風呂にする?」 「お前にする。」 そういって小さな背中を抱きしめると、彼はびくっと強張った後に振り返って、苦笑いを浮かべる。 「ん~?それはどうかなぁ?」 「じゃあ、ご飯にする。」 またその頭をわしゃわしゃ撫でた。 「今日兄休みだった。」 鯵の干物を器用に解しながら庵が言う。 「うん。」 「川島に聞いたら熱で寝込んでるらしい。」 優斗の瞳がゆるゆる揺れた。 「川島が看病してるって。」 「そっか…。」 安心したのか、ふっと息を吐いて眉を下げて笑った。 「昨日、兄から電話があった。優斗居るかって。」 優斗はびくっと緊張して、顔を強張らせる。 「知らないって言っておいた。」 またふっと息を吐く。でも今度は笑わない。微かに眉をひそめて俯いた。 「何があったか教えてくれないの?」 「…」 「お前さ、ここ俺の家なんだけど。お前が着てるの、俺の服なんだけど。」 「…ごめん。」 「そうじゃないだろ。」 優斗のことは好きだが、はっきりしない態度は嫌いだ。庵の口調が冷たくなると、優斗がぎゅっと目を閉じる。 「…圭斗と喧嘩した。」 「なんで。」 「俺がいつまでもうじうじしてるから、浮気を疑われた。」 「それで。」 「逃げた。」 優斗の目が宙を泳ぐ。言葉が少ないのは何かを隠しているからだ。 「その、顔と、首と、腕の傷はあいつがやったんだろ。」 「…一方的な暴力じゃないんだ。でも、怖くなって…、気づいたら逃げてて…」 どれだけ酷い目に遭ったら、こんなに生気のない目ができるのか。それでも彼をかばうのか。 「明日、電話してみる。庵に迷惑かけないようにする…。」 だから、そういう事じゃないだろ… ****** 普段はおちゃらけていて人好きのする圭斗が始終無言で席に着き、イライラと指が机を叩く。さっぱりした醤油顔は思いつめたよう歪み、時折筋のたった指がぐしゃぐしゃと髪をかき混ぜた。 庵は彼の正面に座り、いつも通りに食事をとる。狂気じみた空気を纏う彼に、庵以外の者は近づこうとしない。 ――ブブブ、ブブブ、 圭斗のケータイのバイブが震えた。 表示された公衆電話の文字を見て、彼は慌ててそれをとる。 『…もしもし』 「優斗!優斗か!?今どこに居るんだ、何してるんだよ!!」 『ひっ…っ』 思わず声を荒げると、息をつめた気配と共に通話を切られてしまった。 慌てて荷物を掴んで席を立つ。その腕を庵が掴んだ。 「おい、何処に行くつもりだよ。」 「どこって、優斗が!優斗のところに行かなきゃ!」 「どこにいるのかも知らないんだろ。」 再びケータイが鳴り、すぐにとる。 「優斗!」 『…ごめん。圭斗、本当にごめん。俺、』 電話の向こうの声は細くて震えている。 「何だよ、何で謝ってんだよ。」 『何を言っても意味ないかもしれないけど、俺、本当に浮気はしてない。源氏君にはちょっと相談に乗ってもらっただけで。』 彼の声は大声を出さなくてもよく通る。それは元の声に張りがあるからだ。でも、今聞える彼の声は、掠れて聞きとるのが精いっぱいで、今に消えてしまいそうだ。 「優斗、俺の方が悪かった。もう二度とあんな酷いことしない!」 『俺、圭斗のこと本当に好きだ。圭斗も俺のこと好きだって分かってる。でも、もう』 ――嫌な予感がした。 「おい、まてよ…」 『――終わりにしよう…?』 声が消えそうで、彼も消えそうで、 「待て、嫌だ!納得できない!」 『あと、あれは無理やりじゃないから、合意だったから。ずっと圭斗のこと好きだ…大好き』 「優斗!俺もだって、何でだよ!」 「好き、好きだよ。圭斗、大好き。圭斗、圭斗…っ」 受話器を置いて膝から崩れる。 やっと見つけた時代遅れの公衆電話はあの夜の小さな駅にあった。商店街は昼間でも人が行きかっている。賑やかな話し声、笑い声の中、ガラスに囲まれた空間で、優斗は一人涙を噛みしめた。 ――終わりにしよう…? ――ずっと圭斗のこと好きだ…大好き 「優斗!俺もだって、何でだよ!」 ガチャン、ツーツー… 耳にはもう無機質な機械音しか届かない。 何でだよ、なんで… 本当にもう、終わりなのか…? 圭斗が固まっていると、顔面に薄い布地を投げつけられた。 「うわ、何だよ!」 庵が羽織っていた小豆色のパーカーだ。 「うるせぇ、汚ねぇ顔晒すな。」 言われて、頬が濡れていることに気づいて、大人しくなる。すぐに背と膝に腕が回されて圭斗の足が浮いた。俗に言うお姫様抱っこだ。何だこの体勢、誰だよこんなことする奴は。 「はい連行~」 至近距離で聞こえたのはまさかの宿敵の声。 「ちょ、ばか!降ろせ!」 「うるせー落とすぞ。」 「お、おい渡辺?」 圭斗を担いだまま庵が教室から出ようとすると、おろおろと川島が声を掛けてきた。庵は教室を見渡す。一番頼れる石井が居ない。じゃあ、こいつで良いか。 「川島、一緒に来て。俺がこいつ殺さないように。」 勝手に妥協して誘うと、彼は盛大に顔を歪めた。清楚系の女の子が釣れるように全身を紳士的に整えているのに台無しだ。だから彼女ができないのだ。 「ぅえぇ~?俺嫌だよ、男の三角関係に巻き込まれるの…。」 「うるせー。男でもいけそうな顔してやがるくせに。」 「ちょ、名誉棄損!名誉棄損だ!」 文句を言いつつも庵が教室を出ればついて来た。なんだかんだ言ってこいつも人が良い。 「で、何があったのか教えてもらおうか。」 美術棟の裏まで彼を運んでおろす。人も来ないし、建物の影で日も差さないそこは、じめじめと空気が湿気っている。 壁際に追い詰めて、彼を尋問すると、俯いで黙り込んでしまった。 「まあ、お前が一人で解決できるんなら良いんだけどな。」 「…」 「何とか言えよ。」 彼の横の壁を蹴る。長い足が風を切って、壁に打ち付けられる。ずんっと、重い音がした。 ひっ、と短く息を吸って、やっと圭斗が口を開く。 「……優斗を、犯した…」 項垂れる彼の頬を殴った。何を言われるか予想はしていた。でも、衝動を抑えることができない。 「渡辺!やめろバカ!」 その拳をまともに受けて地面に倒れた圭斗を庵はなおも足で攻撃しようとする。川島は冷や汗をかきながら彼を羽交い絞めにしてなんとか止めた。 庵は怒りで荒れる呼吸を繰り返し、無様に転がる彼を睨みつけた。 「…さっきの電話は何だったんだ。」 冷静になれない庵の代わりに川島が訊ねる。その問いに、圭斗は泣きそうに顔を歪めて、奥歯を鳴らした。 「全部自分が、――優斗が悪かったって、俺のことこれからもずっと好きだって、でも、」 彼の頬をぼろぼろ涙が流れていく。 「でも…、終わりにしようって…」 庵も川島も、優斗以外の大の男がこんな風に泣くなんて、見るのは初めてで、彼の心の叫びが聞こえるようで、それ以上彼を責めることなんてできなかった。 ****** 部屋に入ると、隅に蹲っていた優斗がパッと顔を上げた。いつでも綺麗に整えられている髪はぼさぼさだし、顔は疲れているし、目の周りは泣き過ぎで赤く腫れている。 「お帰り庵――」 それでも必死で笑顔を作って立ち上がる彼をそのままベッドに押し倒した。 「え、何」 抵抗する間を与えず腕を拘束して、シャツの裾から腕を侵入させる。 「――ひっ」 優斗は息を詰めてがたがた震えだした。脇腹を撫でても抵抗しないし、声も出さない。ただ怯えた目で庵を見た。 「おい、このまま抵抗しないなら犯すぞ。」 太股を撫でて、乳首を弾くとびくっと体が震える。 「――っ、ぁ…ゃだぁ…」 その反応にごくりと喉を鳴らす。もともと優斗は庵の想い人だ。少しのことでたかが外れてもおかしくない。 「やだっ!」 ベルトに手を掛けると、渾身の力で突き飛ばされた。庵の方が体格は良いし、力も強い。体勢も有利だし、いくら抵抗しようが彼に勝ち目はないのだが、庵は大人しく彼から離れた。 「うっく…っ、けいと…」 優斗は腕をクロスして顔を隠し、嗚咽を漏らす。 「もう兄は守ってくれねぇよ。可愛がってくれねぇよ、話してもくれねぇよ!」 声も無く泣く優斗の、頬を伝った涙が、シーツに吸い込まれてはその色をじんわり変えていく。 「なんで別れるなんて言ったんだよ。」 ドンと彼の頭のすぐ横に手を突く。濡れたそこを暖かいと感じるほどに手が冷えていた。 「俺が全部悪いです。好きだけど、別れましょう。何だよそれ、綺麗事ばっかり並べてさぁ。お前、酷いよ。諦められないじゃん。あんなこと言われたらあいつ、お前のこと責められないじゃん。自分責めるしかないじゃん!」 気付けば庵の頬にも暖かい雫が流れていた。 俺がどんな気持ちで二人を見ていたと思っているんだ。どんな気持ちで諦めて、どんな気持ちで見守ったと思ってるんだ。優斗だけじゃない、優斗を見てればあいつだって視界に入る。もう、俺にとっては二人で一つで、あいつにだって情が移ってる… 「坂本…っ!!」 高ぶる感情に拳が震えた。 「――俺だって、圭斗に会いたい…っ」 優斗の腕がゆっくりと顔から外れて、必死な顔が現われる。 「別れたくない。会いたい、一緒に居たい…っ!圭斗が好きなんだ。大好きなんだ。好きだけど…っ、――でも、怖いんだもの!」 優斗が言葉を切って、庵を見つめる。 「俺は圭斗が怖い、憎い…っ」 悲しいだけの目じゃない。優斗が自覚したくない感情の色。 「――庵は、男に抱かれるのってどう思う?プライドズタズタだよ。組み敷かれて喘ぐんだよ?胸とか触られて善がるんだよ?ケツの穴を突かれたことがある?すごく切ないんだよ。心細くて、縋ってないとやってらんないんだよ。俺、ずっと、圭斗と一緒になるために、覚悟を決めるために頑張ったんだ。後ろの開発とかしたんだ。でも、何回しても胸がしくしくして、耐えられなかった。」 瞳を閉じてぐっと奥歯を噛みしめる。庵はそんな彼の悲痛な様子を見て、息を呑んだ。 「――無理やりやられたんだ。手を縛られて、口を塞がれて、ただでさえ耐え難いのに…っ!あの時俺は何を頼ったら良かったの!?何を縋れば良かったの!?圭斗なら許せると思った!許さなきゃいけないと思った!圭斗ばっかりが悪いんじゃないんだって、分かってる!でも、体が言うことを聞かないんだもの…っ!圭斗の前に立ったら、絶対怖がる。酷い目で見る、被害者面をする。そしたら圭斗は悲しむだろう?嫌なんだ。あいつを責めたくないんだ。苦しませたくない…」 でも…、と彼は息を吐いて続ける。 「でも、顔の腫れが引いて、腕の痣も、体中の噛み痕も薄くなってきて…このまま、圭斗の痕跡が消えちゃうって…っ」 奥歯がカタカタ震えて、声も震える。 「そんなの…、やだぁ…っ!」 優斗の告白が終わると、部屋には彼の嗚咽だけが残った。 「――死にそうな顔してた。」 息を吐くように庵が言った。 「駅で拾った時のお前は死んでるみたいだった。でもあいつは死んでるんじゃなくて、死にそうだった。」 「ぇ…」 絶望に表情を固める優斗の肩をぐっと掴む。 「お前が逃げるから、別れるとか言うから。」 「――うわぁぁあああっ!!」 優斗は髪を掻き毟って叫んだ。 「圭斗…、やだ、嫌だぁっ!!死んだら嫌だ!圭斗が居なくなったら、どうしたら…!?」 暴れようとする彼の腕を押さえる。 「俺はどうしたら良いの…っ!?」 庵は頭をふり乱す彼の頭蓋を鷲掴んで耳朶に直で言葉を贈る。 「――馬鹿か。そんなの、会って話したら解決だろ。」 ――♪ From 渡辺この野郎 Subject 坂本兄この野郎 Text 明日優斗くんはバイトに行くそうです。 添付ファイルは今日の俺と坂本弟の会話 ┗┏┗┏┗┏(-公-#)┓┛┓┛┓┛ 不器用すぎる友人たちにエールを。
もう一回
「脳直だとあんなになるのかぁ…」 優斗は他人事のように呟く。庵に言いたいだけ言って、騒ぎたいだけ騒ぐと、気持ちがすっきりして落ち着いた。 自分の思考回路は、自分が思っていたより複雑だったらしい。圭斗の為にとばかり考えていたつもりが、実のところ自分を守っていただけだった。 「せんせー」 「はーい。どうしたの?」 「元気ないんですか?」 プニプニのほっぺに黄色い絵の具を付けた小学生に心配されてしまった。 「まー君、ばいばーい」 「ねねちゃん、またねー」 子供たちがわちゃわちゃと塀の中から出てきた。もう、そんな時間か。 優斗のバイト先である絵塾が終わるのは午後五時。初夏の日はまだ高い。イヤホンを耳に入れた圭斗は、塾の塀に寄りかかって眉をしかめた。 逃げそうになる度に、昨日庵から送られてきた優斗の声を聞いている。優斗の本音を聞いている。 優斗は、どれだけ苦しんだのだろう。悲痛な叫びを今すぐ止めてやりたい。抱きしめたい。でも、圭斗にその資格はない。 子供の波が途絶えて、何分たっただろう。思考の渦にのまれた圭斗には一瞬にも思えた。 待ち望んでいた姿が、門をくぐってくる。 「――優斗。」 パッと弾かれたように彼がこちらを向いた。 「け、いと…」 さっと彼の血の気が引いていく。病的に白くなった顔の中、数日前に殴った頬だけが青紫に変色していた。夏なのに、長袖のシャツを着て、一番上までボタンを留めているのは、圭斗が彼に噛みついたからだ。身体が震えているのは寒いからじゃない。 「ごめん。」 圭斗が声を出すと、優斗が強張る。近づこうとしたら、一歩でも動いたら、パッと背を向いて逃げてしまいそうだ。 謝っているのに臨戦態勢なんて… 特別甘やかされて育てられた覚えはない。でも、謝っても許されないことなんてなかった。彼と話をする覚悟、向きあう覚悟はしてきたつもりなのに、彼に拒絶される覚悟はできていなかったなんて、馬鹿みたいだ。 自分が彼に会うことは、別れたくないと縋ることは、本当は彼を追い詰めるだけなんじゃないのか。彼は圭斗に会いたいと言った。別れたくないと言った。でも、それは本当に彼の本音なのか…? 庵じゃダメなのか…?源氏じゃダメなのか…?彼の一番が圭斗でありえる理由はなんだ? もう、関係は崩れた。もう、 「もう、いいや…」 彼を見ていられなくて目を逸らした。力なく両腕が腿の横に垂れ下がる。 圭斗の顔から表情が消える。それを見た優斗が目を見開いた。 「――っ、良くない!!」 優斗は彼に体をぶつけた。よろけながらも持ちこたえる彼の胸の布を掴む。 やっぱり俺は自分が可愛いだけで、やっぱり圭斗を見れば逃げたくなって、全部彼が悪いのだと、彼のせいなんだと睨みつけた。なんて、愚かなんだろう。 ――怖い、憎い、顔も見たくない。でも、そうじゃない… 「諦めんなよぉ…っ」 今は一番、悔しい。 庵の言っていた「死にそうな顔」の意味が分かった。彼の表情が無くなって、背筋が凍った。本当に譲れないのは、優斗の矜持なんかじゃない。 恐くて彼の顔が見れない。反応が無いのは何で?まだ諦めてるの?怖いのを我慢して突進したのに意味ないの? 恐る恐る顔を上げると。圭斗の顔が歓喜に染まっていた。頬に紅が挿して、泣きそうに歪んでいる。瞳が蕩けている。 優斗の目が瞬いた。 「圭斗、嬉しそう…」 「う、嬉しいに決まってんだろぉ~~!!」 圭斗は優斗を抱きしめた。壊れないように、怖がらせないように優しく包んで、それから確かめるように力を込めた。優斗がいる。戻ってきてくれた。 「優斗…、優斗…っ」 優斗の体から力が抜ける。体温が戻ってくる。 「~~っ、圭斗…っ」 優斗も彼の背に腕を回してしがみついた。 「俺、やり直したい。別れない。お前に憎まれたままでも良い!」 「…本当に?今まで何度も面倒くさいことあったよ?これからもあるよ?自分で言うのもなんだけど、俺って相当面倒くさいよ?」 「それが良いの!!」 「…じゃあ、いい…」 優斗がはにかむと、圭斗の顔が迫ってくる。一瞬びくっとすると、悲しそうな顔をして離れて行った。 「まって!」 慌ててその頬を手のひらで挟んで優斗からキスをする。 「…い、嫌じゃない…」 恥ずかしすぎて顔から火が出そうだった。 ****** 『やり直そう。』 どちらから言ったわけでもなく、自然とそういうことになった。腕じゃなく、手を繋いで並んで歩く。圭斗が優斗の歩幅に合わせてくれる。何度も顔を見て窺ってくれる。優斗も彼を見るから、何度も目が合って、優斗はそのたびに頬を染めて少し眉をひそめて視線を逸らした。嬉しいけど、恥ずかしい時の表情だ。その表情を見るたびに圭斗の胸がざわついた。 こんなことでこんなに喜ぶなんて。 前と同じホテルに入って、優斗はベッドに腰掛けて、シャワーを浴びる圭斗を待っていた。 先にシャワーを浴びた優斗はきっちり服を着て待っている。でも、こういう時、服は着るべきだったのだろうか。 ――キイッ 浴室から、タオルを一枚巻いただけの圭斗が出てきた。優斗の眉間に皺が寄る。唇がツンと尖って不貞腐れる。 「え、なんで不機嫌?」 圭斗が戸惑った様子で聞いてくる。すぐに脱いでしまうのだから、彼がタオル一枚で出てきても何もおかしい事ではない。 「知らないっ!」 それでも優斗はぷくっと頬を膨らませた。 「優斗?やっぱり嫌になったか?やめるか?」 「ち、違う。そうじゃなくて、なんか…なんか、慣れてる…」 圭斗の神妙だった顔つきが一気に崩れた。 「何それ、嫉妬してんの?」 優斗はまだ膨れ面を作ったままだ。その頬をむにっと摘まむ。圭斗が、優斗が慣れていると思って嫉妬したのと同じだ。 「可愛い。」 「ばかじゃないの。」 「本当にな。」 馬鹿だな、俺もお前も… 恥ずかしそうに目を伏せる彼をそのままそっと押し倒した。 「優斗、本当にやっても大丈夫か?」 ほのかに湯気の立つ圭斗の体が優斗のすぐ近くにある。いつも一緒に風呂に入って見てるはずなのに、すごくドキドキする。居た堪れなくて目を逸らした。 「電気、眩しいんだけど…」 「あ…」 圭斗が一旦離れて電気を消してくる。戻ってきた彼に後悔した。薄暗闇の中で、より一層彼の存在を肌で感じてしまう。 彼の手が、優斗の前ボタンを外していく。寮生だから、肌を見られるのなんて日常なのに、彼に脱がされているのだと思うだけで、ゾクゾクした。 「嫌だったら言えよ?すぐ止めるからな?」 「…っ、は、はぃ…っ」 死にそうな声が出た。彼が息を呑む気配がする。そっと、その手が優斗の胸に触れた。 「ふぁ…っ」 思わず声が漏れて、優斗は慌てて自分の口を塞ぐ。 ――喘ぐな気持ち悪い! 彼に言われた言葉を、ぶつけられた苛立ちを思い出して、体が震える。 「優斗?」 「あ、ごめ…、声…っ」 優斗の怯えを含んだ声に、圭斗は、すぐに思い当たった。 「声、出して。可愛いから、大丈夫だから。」 耳元で言い聞かせる。それだけで彼が感じてしまうのを知っている。 「や…っ、」 優斗の声が震える。彼を弄る圭斗の手だって震えている。 「本当?気持ち悪くならない?圭斗、嫌にならない?」 彼を傷つけた自分が憎い。怖がる瞳に優しく唇を落とす。蕩けるまで甘やかして、彼の感じる場所を撫でた。 「ひあぁ…っ」 「うん。好き、可愛い、優斗。」 それからはもう、彼が声を抑えることは無かった。 充分に解したそこに、圭斗の高ぶりを当てる。 「圭斗、顔、こっち見て。」 普段見るなと言うくせに、こんな時に見てと言うなんて、彼は圭斗を殺す気なのか。 「圭斗、大丈夫だよ。大好きだよ…」 圭斗の頬に熱が集まって、泣きそうになる。何で俺を労わるんだよ。それはこっちの台詞だろう。 ゆっくり優斗の中に侵入した。苦しそうに眉を顰めながら息を整えた彼は、圭斗を見てふわっと笑う。 「やっと一緒になれた。」 「――ほんと、バカじゃねぇの?」 律動を開始すれば、すぐに苦しそうに顔を歪めて、たまに気持ちよさげに声を上げる。 「け、いと…っ、けいと、て、つないで…っ、ぎゅってして、」 可愛いお願いをする彼の手を握って、唇にキスをする。優斗はもう片方の腕を伸ばして圭斗の頭を撫でた。手が届くことが、こんなにも嬉しい。 「けいと…っ、だいすきだよ…」 二人の気持ちは優しい熱に溶けていった。 翌朝、腕の中の温もりに、安堵する。 優斗が居る。腕の中に居る。 ブブッとケータイがバイブした。一応今回の件に関してだけは感謝しなくもない、渡辺この野郎からのメールだ。 しかしそのメールを開くと徐々に圭斗の顔が、どす黒く変化していった。 件名も本文も無いメールに添付されていたのは、庵のシャツを着て彼シャツ状態になった優斗の写真に、エプロンをつけてかいがいしく料理なんかする優斗の写真、布団に丸まって眠る優斗の写真。このアングル完璧一緒に寝てるじゃねぇか! 「ふざけんな!!」 ケータイをベッドに投げつけると、すぐにまた着信が来た。今度は本文がある。 『お前なんて、相手が弟じゃなかったら掘られる側だったんだから、掘られる気持ち分れよ。』 「どういう意味だよ!?」 『とりあえず、事件に巻き込まれていた場合を考えて撮っておいた写真を送ってやる。』 文句を言いつつも添付されたファイルを開いて、固まった。 駅のベンチに力なく座る優斗の写真だ。 ――死んでるみたいな写真。 「う、ん…?」 隣で優斗が身じろいた。メガネをしていない目がしばしばと瞬き、圭斗を見る。 「え、なんで!?なんで泣いてんの!?」 すぐに慌てて、圭斗の顔を覗き込んだ。 「…優斗ぉ。」 圭斗はそんな優斗の体を抱きしめる。 「優斗だ、本物だ。優斗だぁ」 「え、なに?この前起きたらいなかったから?ごめんな?」 「謝んなぁっ!」 お前が謝るなよ、理不尽だろ!?と優斗の肩を持って揺さぶった。理不尽だ。 「お前、渡辺の所に居たんだろ。彼シャツしたんだろ。エプロン着て飯つくったんだろ。掃除したんだろ。新婚さんごっこもしたんだろ。」 優斗の目が泳ぐ。否定できない事実がここにある。 「お早うからお休みまでキスを」 「してない!」 これは否定できる。 「ご飯にする?お風呂にする?それとも」 「し、してない!」 「どもった!?」 「ごめんね!?」 圭斗の顔が怒りに歪む。 「渡辺死ねぇぇええっ!!」 「お、落ち着けよぉっ」 これが落ち着いて居られるか。優斗が圭斗の背中を撫でて宥めると、圭斗は彼の肩に顔を埋めて、唸る。 「圭斗…」 「優斗ごめんな…」 「うん。俺も、待たせてごめん。」 優斗がふっと笑う。 「俺幸せだ。」 「優斗、大好き、愛してる。」 「う、うん…」 直接的な言葉に優斗は言葉を詰まらせた。 「なんだよ、愛してる以上の言葉が見つかんねぇよ。こんなんじゃねぇのに…、もっとこう、あれなのに…」 「……」 「好きだな、好き過ぎて怖ぇよ。愛してる。もう、優斗が居なくなったら生きていけない。でも、優斗が好き過ぎて死にそう。」 「圭斗、もういい…。腹いっぱい。」 「おおおお、俺だって腹いっぱいだよ、バカ、胸も痛てぇよ!バカ!腹や胸と言わず体中いっぱいだよぉっ!!バカ野郎ぉっ!!」 「うるせぇよ、ばぁあか!!俺だって、死にそうだよ!!ばかばかばか~~っ!!」 ****** 二週間後、修理に出していた優斗のケータイを二人でとりに行った。 「…圭斗、見すぎ。」 「優斗可愛すぎ。」 隣を歩いている圭斗が優斗を見すぎて気持ち悪い。 「気持ち悪くないだろ。恥ずかしいんだろ。」 「煩い黙れバカ。」 「言いすぎじゃね?」 「保険証勝手に使われた。怖い。」 「お前、不用心すぎじゃね?」 「圭斗だから良いんだもん。」 「何それ可愛い。」 「うるさい。黙れ、クソ野郎。」 「言いすぎじゃね?」 言いあいながらも手はしっかり繋がれている。とんだバカップルだ。 「そう言えば、あの時来た源氏のからのメールってどんな…」 ケータイを受け取った優斗はショップから出るとすぐにそれを確認して、動きを止めた。優斗の顔が真っ赤に染まる。 From 源氏 孝一 Subject 優斗さんは圭斗さん一筋っすよ Text 圭斗さんのメアド知らないんで、優斗さんに送ります。 今日は、優斗さんと悩みを相談し合っただけっす。優斗さん、圭斗さんのこと相当好きっすよ。 なかなか恋人のために、柔軟とか、腸内洗浄とか、あまつさえ後ろの開発なんてできないっしょ。 でも、今日、駅で嫌なもの見てまたダメになったみたいで。ずっと、努力してたのに、そんなのって無いっすよね。優斗さん相当参っているんで、酷いことしないでくださいね。 自分のことを心配してくれるのは嬉しいし、ありがたい。でも、 「そ、そんなことまで書かなくてもいいだろぉ…っ!?」 ふるふる震えながら叫ぶ優斗から、圭斗がそれを強奪した。 「ちょ、馬鹿!見るな!返せっ!!」 慌てて取り返そうとする優斗の手をひょいとかわす。 「嫌いになる!圭斗嫌い!!大っ嫌い!!ばかぁっ!!」 でも、そう言われてすぐに、返した。 「うわ、ちょ、その脅しやめろ。返すから。」 優斗は返されたそれを大事に握って、圭斗に詰めよる。 「どこまで読んだ!?それによっては別れ…ないけど、えっと」 「弱い!でもある意味強い!」 別れないのかよ!そうかよ!なにそれ萌え死ぬ…っ 悶えた圭斗は、落ち着くと、自分のケータイを開いた。 「~~っ」 そして再びの悶絶。 「圭斗?何見て…はぁあ!?」 それを覗いた優斗が声を上げる。彼が見ていたのは、先ほどのメールだった。 「何だよこれ、転送してんじゃねぇよ!?」 慌てて彼からそれをとりあげると、圭斗はその場に膝をついてしまった。 「読んだの…?」 蹲る圭斗に、優斗は不安でどうしようもなくなる。気持ち悪いって思われた。絶対嫌われた。 「優斗ぉ…、ごめんなぁ…つ、俺、もう死ぬ…っ」 「え、やだ。」 しかし、彼の口からはそんな弱弱しいセリフがこぼれる。だから優斗は反射で答えた。 「罪悪感で死ぬ。嬉しすぎて死ぬ。」 「え、嬉しいの!?キモくない!?」 「何喜んでんだよ!バカなの!?」 優斗が弾んだ声で聞くと圭斗ががばっと顔を上げる。心外だ。 「け、圭斗の方が先に意味わかんないことで喜んだんだし!圭斗の方が馬鹿だし!」 「バカ!」 「ばか!」 顔を真っ赤にして言いあった。 車道を挟んだ向こうのカレー屋から出てきた川島が呟く。 「なんだあれ…」 すぐに後から出てきた庵もそれを見て言った。 「どっちもバカだろ。」
優斗の葛藤 編<完>