究極ナルシズム 圭斗の葛藤 編


 

もう一人の自分

 大学に入ったら、中学、高校とは比べ物にならない自由な時間が手に入る。俺はその時間をどうしようか、入学前は、期待でいっぱいだった。何か新しいことがしたい、面白いことがしたい。でも、結局特に何もせずに、気づけばまた春がやって来た。  去年の俺は何をしていたのか。自由な時間はあったのに、友人と旅行にも行っていなければ、大学生になったらたくさん行こうと言っていたアイドルのイベントにも行っていない。  一年で手に入れたものと言えば、運転免許証と、無駄に頑張ってとった単位と、バイトで稼いだいくらかの貯金。後は友人とだべったり、近場に買い物に行った記憶くらいしか無い。実に普通だ。さえない。  時間はあるだけだれてしまうらしい。高校時代の方がよっぽど充実していた気がする。  窓を全開にして、窓際のベッド¬に腰掛け、ベランダに足を投げ出す。手元で、マナーモードの携帯電話が震えた。母親からのメールが一件。 『昔よく遊んでた従兄弟の優斗君が、今年からあんたと同じ大学に通うんだって。美術科だから、心理学部のあんたとは学校じゃあんまり会わないだろうけど、寮に申請出したっていうから、通ったら色々教えてあげてね。』 「従兄弟ねー…。」  一人暮らしを始めてから独り言が増えた。受け止めてくれる人は居ないが。話さなければ声の出し方を忘れてしましそうだ。暖かい風が眠気を誘い、頭の回転を緩慢なものにする。  従兄弟との記憶が無い…。良く遊んだって、いつの話だよ。 「あーあ。外、出るか…」  狭い部屋に一人でいるから、うだうだと思考が怠くなるのだ。そう結論づけて、坂本圭斗は二日ぶりに寮を出た。  そうは言っても行くあてはない。自転車に乗るよりも、音楽を聞きながら歩きたくて、普段行かない、学校とは逆の方向に歩いて行ってみる。比較的大きな通りを、コンビニ三つと古着屋一つ分歩いて、何の気なしに住宅街に入った。  なぜ、そんなところに入ったのかは分からない。住居があるだけで、見る物も、入るところも無いだろう。しかし、まるで目的の場所を知っているかのように足は勝手に進む。  歩いていくと、景色が変わってきた。小道を囲む塀が、赤レンガや木製のそれに代わる。所々切り抜かれたそこから、瑞々しい生花が顔を出す。なだらかに弧を描くなだらかな上り坂。目に見える色が、不思議に鮮やかに彩度を増して見えた。徐々に塀の高さが増して行き、建物は見えなくなる。  帯状の空は青く、雲の白とのコントラストが眩しい。体を包む空気は暖かく、春の香りがするのに、空は秋の様に高く、色彩は真夏の様に鮮やかだ。  そして、坂を上りきれば、突き当りで、高い塀にぽっかり空間が開いて、赤い屋根の家が顔を出している。赤い実の付いた植木の植えられた、円柱と四角柱を繋げたみたいな煉瓦の家だ。一見小洒落た喫茶店にも見えるそれに看板は無く、ただ、本来家名を掲げるべき表札に『世界の不思議研究会』と記されている。 「胡散臭い。」 「失礼な人ね。」  癖で吐いた独り言に、答えが返ってきて、振り向く。そこには、だぼっとした可愛げの無い紺のセーラーを来た、美少女が佇んでいた。 「入ったら?」 「え」 「世界の不思議研究会。」 「いや、別に用無いけど。」 「私があるの。だから呼んだの。」 「?」 「良いから入りなさいな。お茶ぐらい出してあげるわよ。」 ****** 「じゃあ、お母さんたちもう帰るけど、大丈夫?」  優しげな顔の女性が尋ねた。肌が幾分くたびれているが、目鼻立ちがはっきりしていて、若い頃は美人であったことが覗える。優斗にとってはいつまでも美人で優しい自慢の母だ。 「うん。カーペット敷いてくれたから、あとは自分でできるよ。」  でも、淋しいから最後に抱きついてみる。そうしたら、ぎゅうっと抱き返された。 「おまえ、そんなので一人暮らしなんてできるのかよ。」  それを見ていた父が呆れたように言う。こちらも目鼻立ちがはっきりしているが、骨太でごつごつしていて、男臭い。  優斗は母から離れて、彼に大丈夫大丈夫、と笑顔を向けた。 「まあ、学校始まっちゃえば友達もすぐにできるでしょ。学科の人数少ないし。」 「でもなぁ。」 「まあまあ、もし寂しくなっても四時間で帰れるんだから、無理すれば週末帰れるんだよ?」 「そうだけど…」  本当を言うと母よりも父の方が心配症なのだ。母は名残惜しげな父を車に乗せて、手を振った。 「じゃあ、もう本当に帰っちゃうからね!」 「うん。またね。」  優斗は、二人を見送ると、門を閉めて、携帯を開いき、ツブヤイタ―に繋げる。  東京だよ!  母さん、父さんまたね!  これから四年間を過ごす城を仰ぎ見る。色あせた古い団地の様なそれは、坂本優斗にとって、これから始まる新しい生活の拠点だ。  風が吹く。大きな銀杏の木がさわさわと柔らかい葉を揺らした。  自炊始めたけど、これって結構いけてない?  また迷子になっちゃったww  近場に本屋が無くて辛いよ。  さ、淋しくなんか無いんだからっ  ホームシックなう!  入学式が終わってから講義が始まるまでには一週間もの間があった。話し相手がいないから、ツブヤイターは絶好調だ。 「…会話が、したい……」  実際に呟くと、丁度よく優斗の赤い携帯が着信を知らせた。知らない番号だが、とってみる。 『こちら、世界の不思議研究会。ご用件は何でしょう。』  電話の相手は、鈴を転がしたような可愛らしい声で、大人びた落ち着いた口調で言った。 「え?用件があるのはそっちじゃ?」  と言うか誰だ?あ、世界の不思議研究会か。 『いいえ。当会が連絡したということは、貴方が当会に用があるということです。』 「…別にありませんけど、あの、悪戯なら切りますよ?」 『仕方ありませんわね。貴方を不思議の世界に招待します。強制です。』  悪戯か、はたまた怪しげな宗教の勧誘か。でも、聞くだけなら無害だし、面白そうだ。とりあえず黙って話を聞いていよう。 『だんまりですか?良い話なんですよ?』 「…。」 『まあ、良いです。続けます。  今日ご紹介する商品は、もう一人の貴方!甘えたい時に甘えられて、話し相手になってくれるもう一人の貴方!彼が居れば寂し思いなんていたしません。  もちろん、生きておりますし、独自の自我を持っておりますので我儘を言いすぎるのは宜しくありません。しかし、彼は貴方です。何をして良いか、悪いかは貴方が一番分かっているでしょう!  どうですか?』 「…えー…」 『何か不満がございますか?』 「ちょっと、どう反応していいか分からなくて。」 『以外に頭が固いんですのね。  ちなみに、彼の住居と生活費はこちらで研究費として用意いたします。究極的に身近な他人と思って下さい。家族より近しい他人です。』 「はあ…。――て、あれ?切れてる。」  何だったんだろ? ――もう一人の自分か…いたら楽しそうだけど……  優斗は切れた携帯を、木製の棚の上のリンゴのペン立の横、部屋の小物たちが一番かわいく見える定位置にきちんと置いた。 ******  バーバナ、ベゴニア、アリッサム、ロベリア。玄関前のアプローチの両脇のプランターには、様々な種類の春の花が植えられている。その間を通って、正面のアンティーク調の木の扉を開ける。  深い茶色の木の床に、花の模様の入った白い壁。入口の横の壁に沿うように、肘掛けと足が深緑の鉄細工でできた、木のベンチが置かれ、中は四角いスペースと、丸いスペースに別れている。  四角いスペースにはタッターソール・チェックのクロスを敷いた、テーブルが三つと、そのそれぞれに扇形をした背の無い椅子が四つずつセットになって置いてあり、入口向かいの壁側には床と同系統の木でできたカウンターテーブル、その前には、白いレスモークチェアが並んでいる。  奥の丸いスペースは、正確には円ではなく正十二角形で、各辺に細長い白い木枠の窓が付いて、レースのカーテンが掛かっている。四角いスペースとは対照的な配色で、茶の木の壁と白のコルクの床でできていた。紺のピン・チェックのクロスに、帯状の白いレースのクロスを重ねて敷いた、大人数用のテーブル一つと、ナチュラルブラウンの木の椅子が十脚置かれる。 「中も喫茶店みたいなんだな。」 「今はね。貴方も私も、お茶目的で入ったから。」  美少女はさっさとカウンターに座ると、隣に座れと、圭斗に目配せをした。 「目的によって変わるのよ。」  にわかには信じがたいが。 「信じられないなら別に信じなくても良いわ。」  心を読まれた。いや、偶然か… 「お帰りなさいませ、明様。」  奇妙な感覚に、口を開こうとすると、その前に声をかけられる。  女だ。セーラー服の少女よりももっと幼い、シンプルな丸襟のワンピースを着た小学生位の少女がそこにいた。 「ただいま、まゆちゃん。」  明様と呼ばれた美少女がそれに答える。思えば、彼女の名前を初めて聞いたし、自分もまだ名乗っていない。 「何にしますか?」 「ミルクティー入れてくれる?」 「ではアッサムですね。」  いつの間にか居たツインテールの少女、まゆはカウンター内でお茶の用意を始めた。 「何なんだ、ここ。」  やっと圭斗が疑問を口にする。 「だから、世界の不思議研究会よ。不思議を呼ぶの。」 「俺は不思議じゃないぞ。」 「うふふ、そうね。今の貴方は何も不思議じゃないわ。」  少女は玩具を見つけた子供のように笑った。 「貴方で不思議を造るのよ、圭斗。」  出されたミルクティーは、お茶に詳しくない圭斗にも、美味しいと感じられた。 ******  夜になって外に出たくなることがある。  昼間のぽかぽかの太陽が隠れて、ぬくぬくした気温が低くなる。透明になった空気が、体を突き抜けて、自分が自然の一部になる。  優斗が入学した山百合大学は、とにかく緑が多くて、森林公園もかくやという場所がいくつもあった。優斗はその一つの前に、新品のモスグリーンの自転車を止め、緑の中に入り込む。湿った土の絨毯に、生い茂る背の高い木々。  優斗は、小さな池の前に置かれたベンチに座って空を仰いだ。やけに明るく輝く月がただ一つ浮かんでいる。  綺麗だ。でも、同時に寂しい。  月の周りに星は無い。都会では星は見えないのか、はたまた今日の月が眩しすぎるのか。  にゃー  草陰で猫が鳴いた。そう言えば、この学校は猫が多い事でも有名だった。 「にゃー。」  来るかな、と鳴きまねをしてみる。  別に猫が特別好きなわけではない。寧ろ犬派だ。でも、もし寄って来たら嬉しいじゃないか。  優斗は鳴いたまま動かない。猫は寄ってこようとして、途中で逃げた。 「なんで逃げちゃうかなー。」 「何、お前も独り言言うの?」  逃げた理由がわかった。人が来たからだ。  脱色した髪を、ワックスで跳ねさせた若い男。 「誰?」 「もう一人のお前だよ。」 ――世界の不思議研究会。  優斗は男に思いきり抱きついた。





 

この世界の色は

 スーパーの帰り道、見覚えのある後ろ姿を見つけた。  片手に棒アイス、もう片手には、道端で拾ったのだろう、猫じゃらしを持って。猫じゃらしを持つ手は、地面に二拍子の指揮をするように揺れている。  跳ねるように歩くので、頭のてっぺんで結ばれた前髪がそれに合わせてぴこぴこ揺れた。  にー、にー  二匹の猫が彼を追いかける。 「何してんの?」 「あ、圭斗!」  圭斗は自転車から降りて、猫と行進中の優斗に声をかけた。  呼ばれた優斗は、嬉しそうに圭斗を振り返って、次に付いてきていた猫に驚く。 「猫だ!」 「気づいてなかったのかよ。」 「え、もしかして付いてきてたの!何それ、面白!猫じゃらしパワースゲくね!?」  そう言って優斗は猫を全方向から観察しようと体を揺らす。それに合わせてやっぱり前髪が揺れる。  艶があって、真直ぐな黒髪が、ゆらゆら、ゆらゆら。 「なに?」  不思議そうな顔が見つめている。気づいたら、圭斗の手は彼の前髪を掴んでいた。 「揺れてたから。」 「じゃあ、ここは圭斗じゃらしだな!」  何がそんなに嬉しいのか、猫に気づいた時以上の笑顔がそこにあった。 「じゃあね、にゃんこ。」  優斗は猫に触りもせずに、猫じゃらしをひょいっと投げ捨てる。 「猫は良いのか?」 「圭斗がつれたから良いんだ。てか、猫がついてきても困るっしょ。」  自転車を押す圭斗のすぐ隣を優斗が歩く。彼は、時折袖を摘まんだり、肩にすり寄ってきたり、離れたりする。圭斗はそれを少しくすぐったく思いつつ、寮まで一緒に帰った。  優斗の部屋はカラフルでポップで、おもちゃ箱みたいだ。オレンジと、ピンクと、黄緑のカラーボックスには、コミカルな顔が描いてあるし、衣装ケースは、黄緑と空色と、白と、ピンクのバスケットで、クッションは水色に白のドットの大きめのものと、半面ピンク、半面白のドーナツ型のものがあって、他にうさぎの抱き枕もある。  この少女趣味の部屋で、優斗はいつもパソコンに向かって文字を打っている。圭斗は、そのタイプ音を聞きながら、ベッドの下に詰め込まれた漫画や小説を漁った。彼がパソコンで打ち込んでいるのは、女同士の恋愛を題材にしたオリジナル小説で、ベッドの下の漫画は萌え系からアクションまで様々だが、女の登場人物の割合が異様に高いものばかり。優斗は女の子同士の恋愛が好きな所謂姫男子だった。  彼は可愛いものが好きらしい。部屋しかり、百合(女同士の恋愛)しかり。 「疲れた、休憩~。」  パソコンの前を離れた優斗が、座っている圭斗を避けてベッドに斜めに突っ伏す。サルエルバンツを履いた足をぱたぱた動かす彼は、平均より小さい身長に、小さな手足、格好も相まって、小動物のようだ。 「圭斗―。構ってぇ。」 「はいはい。」 「やったー。」  優斗は、何でも話したがる。でも、俺が聞く気が無い時には話さない。だから、さっきのは、話を聞いてくれるか窺っているわけだ。――と思ったら違かった。  ぎゅっと抱きついてきた体温。今回はスキンシップを希望していたようだ。 「人肌、きもちー。」 「お前は誰にでも抱きつくよな。」  大学での、昼休みのことを思い出す。待ち合わせた空き教室に、優斗は学科のイケメンにくっ付いて入ってきた。もしかしなくても、いつも誰かしらにくっ付いているのだ。 「女の子には抱きつかないよ。」 「そりゃ、訴えられるからな。」 「あと、男の方が温かくて、良いよね。」 「それはどうかな。」  優斗は、たわいもない話や自分のことは話すのに、圭斗のことは聞かなかった。圭斗自身の情報は、あらかじめ設定として話しているし、もう一人の優斗ということにしてあるのだから当たり前と言えば当たり前だ。それに、何か話せと言われても、思いつく話題なんて無かった。圭斗にも日常はあるし、話題だってありそうなものだが、話したいと思えるものが無かったのだ。 ******  導かれるように外に出て、導かれるように歩いた。ぬるま湯のような空気に浸かって、夢と現実の境が曖昧になる。  すうっと空気が軽くなった。高い空が、ピンクに近い紫に染まっている。高い塀、なだらかな坂。気付けばまた、あの家の前に居た。  空の色に淡く染まった木戸を開ける。そこに、前に見た喫茶店は存在しなかった。奥の正十二角形の空間では、木の壁がバラの装飾の赤い壁に代わり、白い窓枠が黒く染まって、白から金に代わった床には、黒の魔方陣が描かれている。そこに繋がる長方形の空間には、魔方陣の中心に向かって、モザイクタイルの道ができていた。  魔方陣の前で、黒いローブの少女が振り返る。 「また来たの。」  ローブの襟からセーラーの丸襟が覗く。見様によっては縦ロールにも見える、ふわふわ髪の妖艶な少女だ。少女に妖艶という言葉は似つかわしくないかもしれないが、彼女に限ってはこの表現がしっくりくる。 「明様が呼んでるんじゃねぇの?」  圭斗がそう言うと、明はフードを外して、「まゆちゃん」と、もう一人の少女を呼んだ。  次の瞬間何もなかった空間に、カウンター席が現れる。 「理由が無いわ。」  驚いている圭斗を無視して、席の一つに座る明。彼女に促されるままに、圭斗もその隣に腰かけた。驚きはするが、今更何も言うことは無い。 「経過報告とか?」 「言われなくても知ってるもの。」  それは、監視しているという事か、どこから、どうやって。 「秘密が無くなってしまったら、つまらないと思わない?」  また、心を読まれた。 「貴方が望んで来てるのよ。」  カウンターとともに現れたまゆが、二人の前にカップを差し出す。レモンの香りがした。 「…ここは、何処なんだ。」  ぽつりとつぶやいた。少女二人は、レモンティーを口に運びつつ、聞くともなしに聞いている。 「空はやけに鮮やかだし、空気は変に澄んでいるし、夢みたいなのに、ここに居る時の方が外の世界に居る時よりも、生きてるって感じがするんだ。」  白いカップには、金の縁取りの白い花と、薄紫のつぼみが咲いている。カップを縁取るように並べられた緑の葉っぱ。これはレモンの花だ。  鼻を抜けて、脳に干渉する香り。一つ一つが実態を持って迫る色彩。 「外の世界ね…。ここは別に隔離された空間でもなんでもないわよ。」  少女がカップを傾ける。木のカウンター、木の壁、白い床、窓の向こうは紫色の空。空間が、一枚の絵画のように、視界を支配する。 「貴方が、そう見たいと思うから、そうあるのよ。」  絵画の一部である少女は言った。 ******  別に自分は、毎日が楽しくないわけではない。適度に楽しんでいると思う。お笑いを見れば笑うし、漫画を読むのはそれが面白いと感じるからだ。  でも、毎日、同じことをして、同じようなものを見て、自分はいったい何を残してきたのだろう。他にするべきことは無かったのだろうか。考えると、自分の思う楽しいが、本当に楽しいのかが分からなくなる。 「…お前は、いつも楽しそうだな。」  真剣にパソコンに向かう優斗に話しかけた。 「うん。楽しいよ。」 「何が?」 「全部。」  優斗は、パソコンから離れて圭斗の寝転がるベッドを背もたれに床に座った。 「俺は、この部屋にいると楽しい。好きなものに囲まれているから。」  そう言ってナチュラルブラウンの木の棚の方を向き、その上のライトを手に取る。 「この赤いライトは、丸いフォルムが可愛くて、蛍光灯が当たった時のハイライトと、地の赤のコントラストが綺麗なの。でね、この木の棚は、日が当たるとやんわり明るい色になって、優しくて、温かい気持ちにしてくれる。」  次に、圭斗の背中を乗り越えて、花と葉と鳥のシルエットが虹色のサンスーロになった白いカーテンを開けて、外を見る。 「外も楽しいよ。緑がいっぱいで。ここの窓は銀杏の木が目の前だし。  春は柔らかな黄緑色になって、夏は強い光を反射して銀色に光るよ。秋は黄色い葉っぱを落として、地面にふかふかの絨毯を作るよ。俺はまだ見てないけど、きっと楽しい。  駅前の狭い路地も同じだよ。そういう目で見れば、あのごみごみした空間も、味のあるものに見えるんだ。」  彼は、圭斗の隣に仰向けに寝転がり、赤渕眼鏡の奥の瞳を閉じる。 「音もね、全部の音を音楽だと思って聞くと、楽しくって。風に揺れる葉の音に、公園で遊ぶ子供の声に、時計の秒針の動く音、今起動中のパソコンの音も、ぜーんぶ。俺のためにある。……どうだろうか?」  最後は、瞳だけを動かして、圭斗窺った。  彼の見ている世界は、自分が見ていた世界と同じなのに、ずいぶん違ったらしい。 「…なんか」 「なんか?」 「ロマンチストだな。」 「えー、そういうことを言う?」  茶化したら、恥ずかしいのか、優斗は窓側を向いて、拗ねてしまった。 「はは、でも。ちょっと、生きてるって感じがしたかも。」  でも、そう圭斗が言えば、すぐに向きなおって、笑顔を見せる。 「うへへぃ。圭斗も俺の世界の一部だからな!」 「へいへい。」  おどけて変な笑い方をする彼の髪を梳いて、実践した。指の間を、腰のある、滑らかな髪が滑る。石鹸の香りなのか、少し甘い香りがして、優斗は温かいのに、髪は少し冷たくて、えへへと笑う彼の声は少し耳にくすぐったい。  こいつと居たら、日常が今より特別なものに感じるようになるかもしれない、とそう思った。





 

醜さと強さ

 こめかみとお腹を押さえて、前かがみでやって来た圭斗は、優斗の部屋に入るなり、ベッドに滑り込み、丸くなった。 「どしたの?」  うーとか、ぐぁーとか、唸っている彼に机から話しかける。 「渡辺と」  圭斗の口から出てきたのは、優斗の学科のイケメンの名前だった。 「ラーメン屋に行って、食べ過ぎた。」 「三郎?」 「大盛り。」  三郎は、大学の近くにあるラーメン屋の一つで、旨いが量が多すぎることで有名だった。優斗はミニの野菜少なめでも気持ちが悪くなる。それなのに、大盛りはヤリ過ぎである。 「渡辺が軽く食べられるなんて言うから…」 「庵はああ見えて大食いなんだよな。」  そう言うと、優斗は部屋から出て行ってしまった。  人と話して、気を紛らわしたいがために自室ではなくここに来たというのに、放置なんて酷い。  そんなことを考えていると、すぐに彼はウーロン茶と濡れタオルを持って帰って来た。 「飲む?」 「飲む。」 「あそこ、油もすごいもんな。」  独特の匂いの褐色の液を喉に流し込むと、頭痛が和らいだ気がした。 「膝立てて、仰向けになって。」  言われた通りにすると、額に濡れタオルを乗せられる。 「あー。気持ち良い。」 「ふへへ。」  隣に寝転んだ優斗が、圭斗の胸に手を乗せて、拍子をとる。  体温と、ゆったりしたリズムが、気持ちを落ち着かせて、胃のムカムカを忘れさせた。甘えたなこいつは、人を甘やかすのもうまい。きっと、彼が調子の悪い時は、誰かにこうしてもらったのだろう。 「ぼうやー良い子だ」 「いやいや、マジで眠くなるから。」 「今日はここで寝ちゃえば?」  気持ちが悪くなければ、こいつを抱き込んで眠るのに。至近距離で聞こえる高めの声にふわんと、意識にも靄かかった。 「何か話して。」  もっとこの声が聞きたい。 「ん?じゃあね、今日俺、彼女ができたよ。」  その言葉に、意識にかかった靄が散り散りに裂けた。 ******  「彼に彼女ができたって、それを私に言ってどうするのよ。」  少女がビーカーを傾ける。今日の家の仕様は、科学室だ。むき出しのコンクリートの壁に、タイルの床。机の上には、大量の実験器具が無造作に並べられている。 「世間話だよ。」  ベンチに座った圭斗は棘のある口調で言って、ビーカーを傾ける。実験の手伝いをしているわけではない。ビーカーの中身は、三角フラスコと三脚で沸かした湯で淹れたコーヒーだ。 「不機嫌ね。」  少女は、実験の片手間に相槌をうつ。それでも良い。圭斗は誰かに話を聞いてほしいだけだ。 「だって、あいつ。楽しそうなんだよ。口を開けば、杏奈ちゃん、杏奈ちゃん、って。俺、要らなくね?」 「杏奈ちゃんの話を聞いてくれる人として必要とされているわよ。今の貴方みたいに。」  ハイライトの無い、不思議な瞳がこちらに向いた。 「そうかもしれないけど。」  それを言われれば頷くしかない。 「しれないけど……」  でも、納得いかないのだ。 ******  文庫本を読んでいても、集中できない。優斗は、本を閉じて、体勢を仰向けに変える。すぐ近くに、優斗の寝るベッドに腰掛けて、ゲームをする圭斗の背中があった。 「圭斗みたいだったら、良かったのかな。」  細い割に広くて、硬そうな男らしい背中。優斗はその背にしがみつくように抱きついた。 「何が?」  圭斗は、ゲームをしたまま聞いた。 「可愛いより、かっこよくて、男らしい髪型で、シンプルな服装だけどオシャレで」 「どうしたんだよ。」 「杏奈ちゃんが」  その名前を聞くと、体温が二度下がる気がする。また彼女の話か。 「男らしい人が好きだって言うから。」  優斗は、圭斗の肩に鼻を寄せると、スンと嗅いだ。柑橘系の香を焚いたみたいな香りだ。自分の匂いは分からないけど、よく甘いと言われるから、ずいぶん違うのだな、と思う。別に甘いものが好きなわけではないのだけれど、甘えたがりの性格がそんなところにも影響しているのだろうか。  圭斗は良いな、匂いまでかっこよくて。 「可愛い顔よりかっこいい顔が良くて、黒髪より茶髪が良くて、ストレートより、ワックスでセットした髪が好きだって言うから。奇抜な服より、シンプルな服の方が良いって言うから。」 「お前のこと全否定じゃん。」  ゲームを中断した圭斗が無感動な声で言った。 「理想の話だから。理想と真逆なのに好きになってくれたって言うんなら、少女マンガ的には鉄板だけど。」 「じゃあ、良いじゃん。」  さっきと同じ、良いとも悪いとも思って無さそうな声だ。でも、それは優斗が欲しかった言葉だ。 「良いか。」 「良いよ。俺は、今のお前が良い。」  筋張った手が頭を撫でてくれる。今度の言葉は、温かい気持ちがこもっている気がした。 「うん。」  嬉しくて、口元が緩む。 「お前は、自由にしてた方が良いよ。可愛くていいじゃん。」 「可愛くもないけどな。」 「そうか?」  よく見れば目も鼻も小さいし、とか思っていたら、圭斗が顔を覗き込んできた。 「見るなよ。」  なんだか恥ずかしくて、腕で顔を隠した。 「えー。そう言われると見たくなるー。」 「やーめーろーよー。」  逃げるのが楽しくなって、声を出して笑った。 ******  彼女の粗を見つけては、貶したくなる。悩んでいる優斗に別れろと言いたくなる。 「俺は醜い。」 「いきなり似合わないセンチメンタルね。」  今日の家の仕様は、植物園。これまでなかった天窓から注ぐ太陽光を浴びて、草花が生き生きと輝いている。 「今日も毒舌が冴えわたるな。」  少女を振り返ると、その手の上で、粘膜を纏った蔦状の物がにゅるにゅると蠢いていた。エログロイ物体を前に、思わずドン引いた声を出す。 「…何それ。」 「とある変態に頼まれる予定の触手。」 「予定?変態?…。」  良く分からないが、本当にエログロイ目的で使われるようだ。すごく気になるところだが、俺にとっての問題はこれじゃない。 「最近、TLが寂しんだ。」  無理やり自分の話に思考を戻した。 「ツブヤイター?」 「そう。優斗が呟かなくなって、パソコンにも向かわなくなって。」 「創作意欲が無くなったのね。」 「空元気に見えるんだ。」 「もう少し文脈を考えて話せないのかしら。」  自分でもおかしいとは思った。でも、視線が触手に行ってしまって話に集中できないのだ。 「伝われば良いだろう。」 「日本人として。」 「悪かったな。」 「いいえぇ。」  少女は、ふふっと笑って触手を瓶にしまって、視界から消した。 ******  圭斗が優斗の部屋を訪ねると、鍵は開いているのに、主は居ない。トイレか捕食室にでも行ったのだろう。勝手に上がらせてもらうことにする。と、机の上のケータイにメールの編集画面が写っている。何の気なしに目に入ってきた文章は、 『提出用のプリントを忘れたのは杏奈ちゃんなのに、新しいプリントを頼んだ係の人の仕事が遅いのを、無能とか言うのはいけないと思う。』 『忙しいのは分かるけど、それを理由に仕事をドタキャンするのは、一緒に仕事をしている人に迷惑がかかる。せめて、できないと分かった時にできるだけ早く言わないと。』 『人の外見を悪く言うのは、陰口じゃなくてもいけないと思う。』 『意見が合わないからって、無視してたら、グループに居られなくなる。自分は違うと思うって、言わなくちゃ、ただの我儘な奴だと思われちゃうよ。』 『注意したときに、「お母さんみたいに怒る」って言ったけど、その後すぐに結婚の話とかしだしたよね。少しは反省してよ。』 『嘘つかれ過ぎてて、何が本当なのか分からなくなるよ。』 「なんだこれ。」  いつの間にか、食い入るように見ていたケータイを、横から伸び来た手が奪い取る。 「見た!?」  泣きそうな顔で優斗がそれを握りしめていた。 「見た。」 ――見られた。  醜い部分を見られたことに、優斗の心が冷めていく。  送ったメールを、見直しなんかするんじゃなかった。画面をそのままになんかするんじゃなかった。  心の狭い奴だと思われた?細かい奴だと思われた? 「お前は俺に何をして欲しいんだよ。何のための俺なんだよ。」  しかし、どんなふうに思われたのか考えて、一人で不安になる優斗に、圭斗がかけた言葉は、予想外に熱かった。 「お前はなんで、いつもどうでも良いような話はするくせに、肝心なことは言わない。杏奈ちゃんが可愛い、杏奈ちゃんがどうしたって、楽しそうにするばっかりで、こんなの知らない。」 「だって、どうだって良いようなことなんだ。気になったって、本当はその場で一言言えば済むような。ただ、俺が鈍いから、その場ではスルーして、後になって勝手に嫌になって、言えないで、溜めこんで。本人にも言ってないこんなこと、話したらただの陰口じゃないか。」 「俺に話すのは陰口じゃない。俺はお前なんだ。それに、お前は自分が悪いみたいに言うけど、小さなことでもこれだけ溜まったらどうかと思う。」 「でも、杏奈ちゃんはそんなに悪い子じゃないんだ。これくらい、友達だったら気にならない。彼女だから、ちゃんとして欲しいって思うだけで。それに、俺だって、自分で気付いてないだけで、やらかしてるのかもしれないし。」  何を言っていいのか、悪いのか、考えながら、言葉を選ぶ。  完璧な人なんていないのだから、彼女はきっと悪くない、多分。 「お前本当に、彼女のこと好きなの?」  圭斗の問いに、熱く語っていた優斗の口が動かなくなった。話しているうちに熱くなった心が、再び音を立てて冷めていく。 「すき…だよ。」 「本当に?最近のお前、変だぞ。」  詰め寄る圭斗の顔が見れない。気づけば優斗は俯いていて、視界はほとんどウッドカーペットに占領された。 「だって、まだ一ヶ月も経ってないんだ。」 「一ヶ月なきゃ、気づかなかっただけだろ。」 「だって、杏奈ちゃん、俺に何かしたわけじゃないし、好きじゃなくなる理由が無い。」 「さっきの小言は理由にならないのか。」 「だってあれは、俺以外の人に向けたものであって、」 「性格が合わない。思ってた感じじゃなかった。それって、充分理由にならないか。俺は杏奈ちゃんに会ったとき、ほわほわしてて、可愛い良い子だと思ったよ。でも、それは第一印象で、本当は違った。冷めたなら、無理に付きあっていてどうする。別れれば良いじゃないか。」 「…なんで、そんなこと言うの?」  言葉を選択することを忘れて、気づけば圭斗を否定する言葉を呟いていた。  本当は自分が思っていても、自覚したくない気持ちが正にそれなのに、むしろそれだから否定せずにはいられなかった。  最初は可愛いと思った。癒し系の優しい子なのだと思った。でも、実際は違かった。趣味も合うな、と思ったら全部嘘だった。自分が好きになった女の子は、現実にはいないのだと、本当は分かってる。  ブーブー  ケータイが震えて、彼女からの着信を知らせる。 『言葉づかい、考えた方が良いと思う。』 「………」 「………」 「…これは、改行とか、そう言う…?」  何とか、返事を受け止めようとしても、無理だった。苛立ちで、唇が震える。 「…もう、別れろよ。」 「圭斗は強いなぁ…。」  好きなんかじゃなかった。寧ろ嫌いだった。自覚したら、情けなくて、涙が出てきた。  そんな優斗を圭斗は力強く抱きしめてくれる。優しくされると、余計に涙が止まらなくなった。  優斗は、「嫌い」とか、「嫌だ」という感情を自覚するのが怖い。そのために、自分のマイナスの感情に鈍かった。でも、圭斗は違う。自分の感情をリアルタイムに感じて、表に出せる。圭斗自身が醜いと感じるその感情と行動は、優斗にとっての強さだ。認めたくない気持ちを認めて、言いにくいことを言える強さ。  もう一人の自分は、あまりにも自分と違う。圭斗は、優斗にとって成りたい自分なのかもしれない。





 

恋心は自覚しない

 学期末は、テストの準備や、課題の制作などで、何かと忙しい時期だ。机の上には資料が散らばり、それに埋まったパソコンでレポートを作成する。  適当な無地の青いカーペットを敷いた、スチールの家具を置いたシンプルな部屋は、取り込んだままの洗濯物や出しっぱなしのファイルでごちゃごちゃしている。  コンコンコン  ノック三回は優斗だ。研究室の先輩に、「ノック二回はトイレノックだから、失礼だ。教授の部屋に入る時には、四回、親しい人を訪ねる時は三回」と教わったと言っていた。 「圭斗、居る?」 「おう。」  同じ寮の同じ階にある優斗の部屋へは、三十秒で行ける距離なのだが、課題は一人でやりたいという理由で、最近は行っていなかった。その代り優斗の方が、何かと理由を付けては圭斗を訪ねてくる。 「お邪魔しまーす。」  今回も例に漏れず、彼は、小麦色の焼き菓子の乗った白い皿を持っていた。 「何それ。」 「バナナケーキ焼いたから、お裾分け。」  優斗は寮に入るまで、家庭科以外で料理なんかしなかったと言。しかし、元が器用なのだろう、料理が上手い。いつもは男の一品料理で、鍋のまま菜箸で食べるような男だが、たまに思いついたように、レシピを見ながらケーキなんかも焼いていた。 「お前、余裕だな。」 「計画的なんだよ。」  知ってる。  優斗は、近くに他人が居ても、集中できる性質らしく、また、勉強や課題に対しても気まぐれを起こすらしく、小説を書いているのかと思えばレポートを、イラストを描いているのかと思えば課題をしている、ということがよくあった。 「…何?」  ケーキを渡した優斗は、すぐに出て行かずに、圭斗の顔をじぃっと見ている。 「眼鏡。」  言われて気づく、優斗が見ていたのは圭斗の顔ではなく、普段は掛けていないメガネだった。 「ん、ああ。パソコン用メガネ。疲れにくくなるらしい。」 「ふーん。じゃあ、度は入ってないんだ。」 「俺、目良いし。」 「俺も目良いし。」  言われて、今度は圭斗が優斗をまじまじと見た。風呂場でも眼鏡を外さない優斗の目が悪くない? 「伊達眼鏡だし。」 「マジで?見せて。」 「はい。」 「おー、マジだ。」  渡された赤渕眼鏡を掛けても、視界は歪まない。では、この眼鏡はオシャレのためにかけているのか、しかし、風呂に入る時や、昼寝の時まで掛けているのはどういうことか。 「――なんで目、隠してんの?」  聞こうと思って、優斗を見れば、手で目を覆って隠していた。  その手をどかそうとすると、もう片方の手も加勢して、両腕をクロスして、顔を隠してしまう。 「わ、バカ!見るなよ、眼鏡返せ!」 「何で隠すんだよ。」 「だって、鼻にメガネ痕ついてるし。」  メガネ痕ぐらいなんだと言うのだ。思えば、こいつの素顔を見たことが無い。力なら、優斗よりも圭斗の方が強い。圭斗は無理やり、彼の腕を引きはがした。 「うわっ」 「何だ、気になんねーじゃん。」  鼻の付け根は、薄らピンクになっている程度だ。  しかし、それを見られた優斗は、徐々に目元を赤くして、圭斗の顔を押しのけ、眼鏡を奪い取った。 「――っ、バカ!帰る!」 「え、何怒って」 「知らない。またね。」  勢いよく閉めようとしても、ドアのばねが強いから、ゆっくり閉まる。間抜けだ。その上彼は、怒って出て行くにも関わらず、律儀に「またね」と言い残す。そういうところが可愛いんだよなー、何て圭斗が惚気た。  山百合大学は、学生の数に比較して、学食の席が少なすぎる。  そうして、あぶれた学生は、森林公園さながらの緑の中のベンチや、所属するサークルの部室、研究室、空き教室などで、昼食をとる。  優斗は、屋内よりも、屋外が好きだ。しかし、最近は気温も高いし、虫は出るしで、専らC棟の空き教室で食べていた。  C棟空き教室は、美術科の研究室から近いため、美術科の学生が多いが、もちろん他の学科の学生もいる。しかし、優斗が持ち前の馴れ馴れしいほどの甘えたを発揮した結果、男はもれなく友人同士、女もつられて友人同士になった。  今も優斗は同学科のイケメンに懐いている。 「庵は、恰好良いなぁ。」 「そんなことないだろ、坂本弟は可愛いな。」 「そんなことないよ。」  机を挟んで向かい合い、ナチュラルにいちゃつく二人。部屋に入ってすぐにその光景を見ていしまった圭斗は、何故か胸がムカついた。 「あ、圭斗!」  しかし、そんな思いも、優斗の嬉しそうな顔で四散する。 「坂本兄でーす。って、兄弟じゃないぞ。」 「知ってるー。」  おかげで普段通りの反応ができた圭斗は、我が物顔で優斗の隣に座った。 ******  天井から眩い光が降り注ぐ。夏の日差しだ、眩しすぎて瞳を潰すはずの夏の日差しだ。けれど、今ここで浴びている光は違う。目に悪い光は実体化して、キラキラ光る粒となって降り注いでは消えていく。  天井の窓も、壁の窓も、全て開け放たれて、吹き込む風は、熱いがさらっと気持ちが良い。 「あの伊達メガネって、顔を隠してるんだよな。」 「そうね。」  日に焼けた木の床は麦わらで覆われ、壁には浮き輪や、ゴーグル、サーフボードがかかっている。屋内なのに、部屋の中心には白いビーチパラソルとビーチチェア。今日の仕様は海の家だ。 「隠してたのはメガネ痕じゃなくて、顔なんだよな。」 「そうね。」 「素顔見たけど、リスみたいで可愛かったんだ。」 「そう。」  カットオレンジの刺さった、トロピカルジュースを片手に、相槌を打つ少女。今日は例の制服ではなく、襟の広いカットソーに、ショートデニムといった私服姿だ。  私も夏休みなのよ、と言うが、この不思議な少女が普通に学校に通っているところを想像できない。 「それなのに、必死で隠すのとか、面白い。苛めたくなる。」 「そんなことより、貴方の彼を見る目が気になるわね。」  少女は、言葉を切って、ストローを口に運ぶ。太めのストローを黒いタピオカが登って行った。 「お友達に嫉妬して、苛めたいくらい可愛いと思ってる。」 「俺はホモじゃないぞ。」 「へー。」  彼女が気の抜けた返事をすると、まゆが「へい、お待ち」と抑揚のない声でカウンターに焼きそばを置いた。その掛け声は何か少しずれている気がする。 「いや、ほんとだって、これは、ほら、親心的な?」 「へー。」 「それでさ、いつかは俺の前だけでは素顔でいるようにならないかなって。」 「五回目。」  気の無い返事にめげずに話続ける圭斗を、明が遮った。 「その話も、その前の話も聞くのが五回目。」 「…。」  圭斗が黙ったので、太めの麺を啜る。 「美味しいわ。まゆちゃん。」 「ありがとうございます。」  圭斗は目の前のジュースを啜った。 「…だって、あいつ。何も言わずに実家に帰ってるんだぜ?」 「おかげで貴方はここに入り浸りね。」 「あいつ、甘えたのくせに出かける時はいつも一人で、俺はいつもTLであいつが雑貨屋巡りしてることとか、美術館に行ったこととかを知るんだ。優斗は、自分は気まぐれで行動するし、雑貨は買わないくせに写真ばっかり撮るし、体力も無いからすぐに休憩して、美術館では説明文までじっくり読むから、他の人は付き合うのが大変だって。優斗自身も一人の方が気が楽だって言うんだ。」 「まあ、そういうこともあるんでしょうね。」 「あいつ、家族大好きだから、夏休みは帰るだろうとも思ってたさ。」 「帰ったわね。」 「でも、それが終業のその日で、しかも、夏休み中ほぼ向こうで過ごすってことを、俺がTLで知るのはおかしいだろう!」  思い出して、語尾が強くなってしまった。 「私に言われても困るわ。」 「悪い。」 「いいえ。」  明は、本当に気にしないそぶりで、ハードカバーの本を広げる。確か、今年の中学生の課題図書だ。まさか、読書感想文の宿題か? 「宿題?」 「これでも女子中学生なのよ。」 「俺には明様が日常風景に居ることを想像できない。」 「幼馴染の麗しの美少年がクラスのM男に好かれ過ぎて困ってる話ならできるわよ。」 「良かった。俺の考える日常とは違かった。」 「貴方も人のこと言えないと思うけど。」  コッチコッチと時計が鳴る。玩具みたいな鳩時計が、くるっぽーと午後一時を知らせた。  それを拍子に、圭斗は頭を抱えて奇声をあげる。 「あ――、もう。最近はTLにも表れないしぃ。」 「メールなり電話なりすれば良いじゃない。」 「してるけど、俺からのメールには返信来るけど、あいつからは一切連絡が来ないのが腹立つ。」 「だって、あっちには本物の家族がいるんだから、貴方なんて必要ないもの。」 「ひでぇ。」 「甘えたはどっちかしらね。」  少女がテーブルに突っ伏した圭斗を笑う。 「――似非家族は優斗を縛れないわよ。」





 

彼の中での存在価値

 台風がこれほど被害を出すとは思わなかった。  緑いっぱいの大学構内は、細い枝も太い枝もボキボキ折れて、細い木もボキボキ折れて、自転車で行動するのはおろか、歩くのすら一苦労。こんな惨状でも、学科別オリエンテーションを予定通り開いてしまうのは、予定を狂わせたくないという上層部の頭の固さゆえなのか、はたまた、これぐらいの足場の悪さは許容の範囲内ということなのか。  門を出る頃には、靴と靴下に小さな葉が沢山ついていた。  寮には帰らずに、大通りを進み続ける。例の住宅街に入れば、すぐに周囲の空気が変わった。高い空には、七色のグラデーションが鮮やかな橋が掛かっている。  電線から垂れた水滴が、塀の隙間から顔を出す草花に落ちて、花が揺れて、またそこから水滴を散らす。  ポン、ピャッ、ポンッ  地面に浅く広い水溜まりができて、空と虹を映していた。圭斗の自転車に沿って地面が波打ち、表情を変える。 「なんだか賑やかだな。」  なだらかな坂を上って、たどり着くのは、世界の不思議研究会。玄関前に自転車を置いて、その扉を開けた。 「ようこそ!世界の不思議研究会へ!」  瞬間目に飛び込んできたのは、煌びやかな電飾に、極彩色の蝶。蝶、蝶、蝶。たくさんの蝶のモチーフで飾られた、空間。そしてその中央では鮮やかなブルーのソファとローテーブルが存在を主張している。  来るたびに毎回内装が変わるから、バラエティーに富んだ家だな、とは思っていたのだが。 「まさか本当にバラエティーでくるとは。」 「私は占いの館にしようと思っていたのだけれど、貴方が来たらこうなったのよ。」  優雅にソファに座った少女が言った。彼女の夏休みはすでに終わったようで、八月を過ぎてからは、やぼったいセーラーに戻っている。 「よっぽど寂しかったのかしら?」 「は?」 「賑やかな方が良いんでしょ。」 「そんなの知らねぇよ。」 「あらそう。」 「占いの館って何で?」 「貴方の気持ちを根ほり葉ほり探ってあげようと思って。」  明は、テーブルの上に置かれた、ピンクのリボンの巻かれたマイクを圭斗に向けた。 「寂しい?」 「いや、だから。」 「TL。」  接続詞を繋いで、言い逃れを考える圭斗の、口と思考が止まった。何を言っても仕方ない。きっとこの少女には何もかもが筒抜けで、それを隠そうとする方が、よっぽど愚かな行為なのだ。  圭斗はスッと息を吸い、あーっ、と声とともに吐き捨てた。 「もう、寂しいよ、寂しいですよ!」 「あはは。」  笑った。大人びた笑いは何度も見たが、子供らしい少女の笑顔を見るのは初めてだ。なんだ、そういう顔をしていれば、少しは身近に感じられるじゃないか。  自分が素直になることで、少女の機嫌が良くなるなら、もう少しくらい本音を話しても良い。 「いや、マジで。あいつ何なの?全然連絡無いんだぜ。」 「貴方は彼のもう一人の自分なのよ。彼が貴方が居なくても何とも思わないように、貴方も貴方で自由にやっていると思っているのよ。」 「もう一人の自分ねぇ…。自分が甘えたなんだから、俺も甘えたかもしれないと思っても良いんじゃないか。」 「彼は、貴方と居る時に家族に連絡してたかしら。」 「……してないな…。」 「つまり、そう言う事よ。」  そう言った少女の顔は、それを良いとも、悪いとも思っていないようなフラットな表情で、その年不相応な呟きに、先ほどの笑いは圭斗の口を割らせるための演技だったのではないかとすら思えた。  一緒に居られれば、誰でも良かったのか…。  彼女が圭斗に導き出させたかった考えは、優斗にとって圭斗の存在価値が低いのだとそういうことか。 「……」  ♪  沈黙を着信音が引き裂いた。優斗からの着信メールだ 『明日の夕方そっちに帰るよ!』 「…代わりか。」  そう呟いて、返事を打つ。ひどく投げやり気分だ。 「返事したの?」 「ああ。その日は飲み会で居ないって。」 「待ってたくせに、意地張っちゃって。」  少女の平坦な声に余計に胸が気持ち悪くなる。 「そんなんじゃない。本当に飲み会なんだ。」 「そう。」  間をおいて少女が答える。少女の声は相変わらず平坦だが、その目は何か訴えている気がした。 「なんだよ。」 「いいえ?楽しんで来れば良いんじゃないの?」  少し拗ねたような声音が圭斗の耳に残った。 ******  いらだった気分は、飲んですっきりさせようと思った。友人とバカな話でもすれば、明日は優斗に何でもない顔ができると思った。  ただ、誤算だったのは、同じ店に、違うグループが飲みに来ていたことで、その中に彼女を見つけてしまったことで―― 「優斗!」 「あ、お帰り圭斗。あとただいま。飲み会早く終わったのか?」  圭斗が優斗の部屋に駆け込むと、彼は荷解きの手を止めて、出迎えようと立ち上がっていた。  その顔を見て、圭斗の胸に湧き上がってくものがある。何かは分からない。ただ、熱い。 「優斗。」  勢いづけて、優斗に抱きつく。驚いて後ずさった彼の足元を、デニム加工のスーツケースが掬った。バランスを崩して二人でベッドに倒れ込む。 「うわっ、え、何?」 「優斗、優斗、優斗。」  耳元で名前を呼べば、肌にかかる息と、鼓膜の振動に、優斗の肌が震える。抱きつく圭斗の体が熱い。耳に掛る息も熱い。彼から香るアルコールの匂いで思考が鈍くなる。 「どうしたの?酔ってるの?」 「…あの女が。」  湿り気を帯びた怒気を含む声に、彼の激しい感情を知って息を呑む。 「同じ居酒屋に居て、話しかけてきて、俺、あいつと話したくなんか無かったから、お前のこと持ち出して、追い払おうとしたんだ。『優斗と別れたんだってな。』って言ったら、そしたら『だって急に好きじゃなくなったとか言うんだもん』とか言って!」 「なっ」  彼の話に、優斗の胸に黒い渦が生まれる。  杏奈は、別れる際に、理由が無いと納得できないと言った。そのために、前の彼氏にはストーカーじみた行為までしてしまったと言っていた。だから、優斗は自分の気持ちをすべて話したのだ。  綺麗な別れ話なんて早々ない。最後の最後に、彼女の欠点を捜すために、一緒に過ごした時間を思い返して、それを本人に説明しなければならなかったあの時間、彼女は当然傷ついただろう。でも、優斗だって苦しかった。女性に罵倒を浴びせてすっきりできるほど、優斗は器用じゃない。誰が楽しくて、恋人との思い出をそんなふうに負の感情で塗り固めたりするものか。それでも、優斗はそれをしたのだ。  それなのに…  優斗の瞳に涙の幕が張る。  その光景を見のあたりにした圭斗の中で、何かが切れた。 「絶対許さない。」  組み敷いた優斗の首筋に口づけ、服の裾に手をかける。 「――え、ちょ、やだっ、待って!」 「なんだよ、俺相手ならただのオナニーだろうが。」  抵抗を無視してシャツを脱がせた。 「嫌だ、やめろ!やめろよぉ…っ!」  抵抗を止めない優斗の瞳からついに涙が零れ落ちた。圭斗の動きが一瞬止まり、振り回した彼の腕が圭斗の頭に当たる。 「ぁ…」  襲われていたはずの彼が申し訳なさそうな顔をする。でも、彼に謝らせてはいけない。悪いのはどう考えても圭斗だ。  優斗は怒っていない。ただ、ショックを受けた表情をしている。彼にこんな顔をさせているのは自分だ。彼女の話で混乱させて、その上追い打ちをかけた。 「ごめん、俺。」  体を離して圭斗が謝ると、優斗は、しょうがないなぁ、と息を吐いた。 「もう、酔いすぎだよ。帰って寝れば?」 「優斗。」 「俺ももう寝るから。――お休み。」  静かな声に追い立てられて、部屋を出る。酔いはすっかり冷めてしまった。  苛立つばかりで気が付かなかったのだ。  彼女が俺に本当に自覚させたかったのは、優斗の気持ちなどではなく、俺がこいつにどう思われたいのかという、俺の気持ちの方だった。





 

本当は分かってた

 優斗と圭斗の関係は、一見変わっていないように見えて、実は大きく変わってしまった。 「なー、圭斗聞いてってばぁ。」 「はいはい、双子の中身が入れ替わる漫画の話だろ?」  以前と変わらない甘えた声を出す優斗。無意識に、興味を引こうと声色を変えるところは、子供みたいで微笑ましい。 「違ぇって、女子サッカー部のアニメだって!」  間違っていても構ってもらえて嬉しいのか、笑顔のまま圭斗の間違えを訂正した。  その隣で、優斗に腕を組まれた渡辺庵が叫ぶ。 「散れ!そいつは俺の獲物だ!!」 「いくぜ、ゴキブリ叩きゲーーーーム!!」  アニメに登場する、キャラクターの迷台詞をまねた彼に、優斗は続く台詞で答えた。  いつも通りの会話だ。でも、違う。今まで優斗と一番に接触していたのは圭斗だったのに、今彼がじゃれついているのは庵だ。  優斗の隣の席、優斗の腕、優斗の言葉、優斗の視線、全部全部、離れてしまった。 ****** 「優斗せんせー、ピンクのマジックがありません!」 「はーい。ちょっと待ってね。」  シンナーの匂いを換気するために開けられた窓から、冷たい空気が入ってくる。しかし、明るい声の響く室内は子供たちの体から放たれる熱気で、寒くは無い。  秋学期から子供絵画教室のバイトを始めた。今日の教室の課題は巨大バルーン制作だ。大きな正三角形のビニール一枚を一人の分担として、好きな絵を描いて、最後は貼り合わせて気球を作り、空に飛ばす。 「芽衣ちゃん、今ピンク色使ってる?」 「ううん。使ってないです。」 「じゃあ、この色真紀ちゃんに貸してあげて良いかな?」 「うん。」 「真紀ちゃん、ピンク、芽衣ちゃんが貸してくれたよ。」 「先生、芽衣ちゃんありがとーっ!」 「どういたしまして。」  優斗がこのバイトを始めたのは、こっちに戻ってきてすぐのことだった。理由は、子供ころから溜めていたお年玉貯金の残高が厳しくなってきたことと、社会経験を積むため。ずっと何かを始めようとは思っていたのだ。  しかし、最後に背中を押したのはあの夜の出来事だった。  あれから、彼に近づけない、触れられない。部屋に居たくないからバイトも急いで探した。あからさまに避けている。彼はきっと優斗の態度に気が付いているだろう。  でも、分かりたくないのだ。自分が圭斗に向けている感情が何なのか。彼に押し倒されて、怖かった。彼の目がいつもと全然違って、彼の体温が高くて。思い出すと、彼の手が触れた場所が、彼の唇が触れた首筋が熱くなる。彼に名前を呼ばれるたびに、あの日の熱のこもった声を思い出して、耳が熱くなる。平静でいられない。  あの行為が嫌だったわけではない。ただ、大事なものが壊れそうで、怖かった。欲した居場所が無くなってしまうのが怖かった。  彼との時間が大事で。もう一人の自分が居るという不思議が心地よくて。  そう、彼は俺だ。俺は俺に恋をしない。 ****** 「なんで俺、あんなことしちまったんだ…」  世界の不思議研究会の扉の横で、圭斗はベンチに座り、項垂れた。  今日の部屋には屋根が無い。少女は何の障害も無く頭上に広がる大空を見上げ、宇宙との交信を図っている。 「自覚はできた?」  明が空を見たまま言った。一応圭斗が入ってきたことには気づいていたようだ。 「…はい。」 「遅かったわね。」 「ぅう~」  遅かった。本当に。手を出すまで自覚できなかったなんて、どうかしている。自覚が無いのに、手を出してしまったことも、どうかしている。酔った勢いで、なんて、理由にはなっても、解決はできない。優斗がおびえた事実も、彼に距離をとられる現状も変わらない。 「普通、自分に恋はしないわよ。」  明は平坦な声で返した。  そうだ、いくら俺が自覚したって、優斗が俺を優斗だと思っているうちは、この恋は叶わないだろう。  彼女は。圭斗にとって辛いことも、嬉しいことも、何でもない事のようにさらっと口に出す。 「明様って、何なわけ?」  その感情のこもらない声を不思議に思った。彼女は何の理由があって圭斗の悩みを聞いて、あまつさえアドバイスをくれるのか。不思議を造るために圭斗を呼んだのは彼女だ。だが、優斗に圭斗がもう一人の優斗でないとばれてしまったら、不思議は消える。  明は答えない。当たり前だ、「何なわけ?」で質問の意図を組めるはずはない。いや、しかし、彼女は足りな過ぎる言葉の意味をくみ取ったかもしれない。  神秘的な瞳が圭斗を見つめる。 「いや、良いんだけど。」  その瞳の圧力に耐えられなくて、目を逸らすと、明はやっと口を開いた。 「貴方、どれだけここに来てると思う?」 「数えてないけど。」 「短い期間に、長い時間入り浸って。」  明は瞳を伏せて小さく息を漏らした。 「犬だって三日で情が移るのに。」  その、少女らしからぬ、アンニュイで大人びた仕草にどきりとする。と、同時に彼女の優しさに思い当たった。 「…もしかして、そういうこと?」  情が移ったから、応援してくれると言うのか。  しかし気のせいか、その瞳はそんな暖かな感情ではなく、もっとマイナスの感情で陰っているように見えた。 「忠告するわ。時間は守った方が良い。人として。」 「?」 「…いえ、やっぱり何でもないわ。忘れて。」  彼女の前言撤回を初めて聞いた。 ****** ――おまえはもう少し人を疑えよ。もう一人の自分とかいう怪しい奴が現れたらふつうはいきなり抱きついたりしない。 ――でも、もし嘘でも君はふつうの学生に見えるから、平気かなって。 ――学生のなりで危ない事をしている奴なんて掃いて捨てるほど居るだろうが。 ――えーと…ごめんね? ――謝ってどうする、謝って。 ――うぅん?じゃぁ、次から気をつけます? ――おう。 ――えへへ。  彼は自分。それは自己暗示だ。小さな疑問をずっと意識しないように過ごしてきた。小さな違いを見ないふりして過ごしてきた。  彼と自分の容姿が違うのは、自分の欲しいもう一人の自分に、容姿についての希望が無かったからだ。彼と自分の性格が違うと感じるのは、自分の中にある自分が意識していない感情や衝動が、彼の行動に現れているからだ。そんな風に。  沢山の人が行きかう、土曜日の新宿アルタ前。  美術科の優斗と庵はこの日、一緒に画材を買いに行く約束をしていた。ついでにデートをしてくると、C棟で言ったら、圭斗も行くと言いだして、それじゃあ、と優斗は石井態も誘った。面倒見が良くてお母さんみたいな態は、C棟組の優斗のお気に入り人物の一人だ。 「坂本兄は遅刻か。」  時計を確認して庵が言う。優斗はその言葉に茫然とした。 「…電話してみようか。」  携帯を取り出して、早速繋ぐ。口も、体も動いているのに、思考が付いてこない。 「でないな。電車かもしれないし、メールしてみる。」  優斗は送信すると、携帯電話を握りしめる。「返事、まだかな、何してんのかな。」と、口は動き続けるのに、心は霧がかかって動かない。 「メール返ってきたか?」 「来ない。まあ、まだ十分だけどな。」  態の質問に乾いた笑いで返す。 「十分も遅刻だっつーの。」 「そうだね。」  庵の指摘に張り付けた笑顔で答えた。 ――決定打だ。  人には誰しもマイルールがある。優斗にとって、時間厳守がそれだった。優斗は、人を不快にさせてしまうことを常に恐れている。自分が待たされるのは良い、気にならないから。しかし、自分が人を待たせるのは許せなかった。  圭斗は優斗じゃない。  優斗は本当は鈍くもないし、馬鹿でもない。彼が嘘をついていることなんて、本当はずっと分かっていた。  彼は余りに違いすぎるのだ。見た目は大人っぽくて、かっこ良くて、中身は気だるげなのに、実は悪のりが好きで、――自分とは真逆だった。  それでも、認めたくなかったんだ。 「悪い!遅れて、メールしようと思ったら、ケータイ部屋に忘れてきてて!」  息をきらせて圭斗が走ってきた。 「あはは、ばっかでー。」  優斗は普段どおりを心がけて、そんな彼を笑ってバカにした。 「罰として今日一日さん付で敬語な。」 「はい。すみませんでした渡辺さん!」 「気持ち悪いわ―。」  庵の命令を素直に聞いた圭斗を庵本人が否定する。 「それ、却下でーす。」  優斗もそれに、漫画のセリフを引用して乗っかった。  いつもと同じバカ騒ぎだ。それを見ていた態が呆れた顔で三人を促す。 「ふざけてないで行くぞ。」 「はい!お母さん!」 「誰がだ。」  ふざけて呼んだら、渋い顔をされてしまった。  圭斗は優斗じゃない。だったら、何だ?彼は自分にとっての何になる?  彼に求めた居場所は、何処に行く?  気付かないふりをするしかないじゃないか、そんなの。  すっと霧が晴れた。認めたくなかった事実。しかし、いざそれを知ったら、心が軽くなった。 ――そうだ、次は俺が彼を騙せば良い。





 

天秤

 初めて坂本弟に会ったとき、二次元から出てきたのかと思った。美術科だし、変な奴はいるだろうと思っていたが、実際目にすると、面白かった。  小動物のように動き回り、じゃれついて来る優斗の存在は、一人っ子の庵にとって、弟ができたように嬉しかった。  彼の一番は、いつでも坂本兄だった。優斗は、庵にくっ付いていても、石井態にくっ付いていても、圭斗が来ると、そっちに行っていしまった。俺は友達で、彼は親戚だ。付き合いもあちらの方が長いし、当たり前だと思った。  しかし夏休みを開けると、優斗の一番が庵になった。喧嘩でもしたのかと思ったが、二人とも、笑ってしゃべっているし、優先順位が変わったこと以外、変わったところは見られなかった。  そして最近、また優先順位が戻った。一度近くなった距離が離れると、寂しく感じる。圭斗の方を見れば、これまでと変わらない顔をしているが、やはり少し寂しげにも見えた。優先順位は戻ったが、関係が夏前に戻った訳ではないのだ。  優斗は、圭斗の隣に居るが、極端に接触が減っていた。 「そう言えば、石井。彼女出来たんだって?」  C棟組の一人が言った。  彼女――恋人。庵はぼんやりと考えた。一つの言葉から、連想が始まり、周りの会話から取り残されてしまうのは昔からの悪癖だ。  そうして、無意識の連想を繰り返して、浮かんできたのは優斗の顔。  彼を弟のように可愛がった。彼が自分に懐いて嬉しかった。彼が離れて寂しかった。彼は弟ではなくなっていた…?  今、彼の一番は圭斗だ。でも、関係は何故かぎくしゃくしている。その理由は分からない。 ****** ――今度は俺が彼を騙せば良い。  その考えがいかに浅はかなものであるか、優斗が気づくのはすぐだった。知らないと思い込んでいるのと、思い込もうとしているのでは勝手が違う。  日常にもう一人の自分がいる。そんな不思議をつくった張本人が目の前にいるのだ。 「圭斗はさ――」 ――何で俺のところに来たの?  聞けない疑問が口の中で消えた。 「何?」 「いや、やっぱり何でもない。」  優斗の部屋のベッドに並んで腰かけて、いっしょに膝掛を使う。小説を書く手が止まっていたことに気が付き、優斗は静かにパソコンの画面を閉じた。 「あのさっ――」 ――何で一緒に居てくれるの?  口を開けば、こればかりか。今度は優斗自身もあせってしまい、慌てて言葉を飲み込んだ。伊達メガネの奥の瞳が泳ぐ。 「何?」 「えーと?ごめん忘れた。」  とん、と肩に重く、暖かいものが乗った。圭斗の頭だ。それだけで心臓が跳ねる。暖かい湯に浸かったみたいに、全身の毛穴が開いて、もっと、もっと、と心が騒ぐのに、体が動かない。  彼が自分でないと認めてから、優斗は圭斗を避けることは無くなった。以前と同じように、お互いの部屋に入り浸るようになり、昼休みには隣に座る。しかし、ただ一つ、接触は少なくなった。彼に触れると、からだ中の血が狂ったみたいに暴れて、触れた場所に神経が集まって、自分で自分が分からなくなる。これも知らないふりをしなければならない感情だ。だから、優斗は彼に極力接触しないようにした。  しかし、その代りに圭斗からの接触が増えてしまった。相手からの接触は、タイミングが読めない分、唐突で、心臓に悪くて対処に困る。  優斗は、これ以上彼のことを考えないように意識して思考を止めた。それでも、肩には彼の頭がある。  気にしないなんて無理だ。自分は彼のことを全然知らない。知りたいと思う気持ちが抑えられない。好奇心などではなく、自覚してはいけないその感情から。 「圭斗。」 ――圭斗はどうして心理学を勉強するの?将来はどうしたいの?出身は何処?お前の家族はどんな人たち? 「なんだよ。」  その声色が少し苛立ちを含んでいることに気が付いた。当たり前だ。さっきから彼に話しかけては何も言わない、を繰り返している。 「…呼んだだけ。」 「お前、いい加減にしろよ。」  いらだちと、心配が入り混じった声だ。彼を見ようとして止める。今、彼の顔を見たら、何かが溢れてしまう気がした。 「最近お前変だぞ?言いたいことがあるなら言えよ。」 「何でもないよ。」  圭斗は、優斗の肩を掴んで顔を覗き込む。距離を置こうと、優斗の体が後ろに下がって、視線が合わないように瞳がうろついた。 「何でもないって顔してねぇんだよ。」 「…ごめん……」 「そろそろうざいぞ。」 「…っ」  聞けない。聞いたらすべて壊れてしまう。  でも、聞けないことに彼は苛立っている。圭斗に嫌われたらそれこそ意味が無い。自分の顔が強張るのが分かった。すると困った顔をした彼が、冷たくなった頬を撫でてくれる。 「いや、うざいなんて思ってねぇから、そんな顔すんなよ。」 「~~っ」  触れてきた手が温かくて、涙が溢れてきた。 「あ、おい。泣くなって!」 「だって…、圭斗が優しい…っ」  優しい声を掛けられれば、それだけ涙が止まらなくなる。嬉しいのに、切なくなる。 「ごめ、俺、一回泣き出すと止まらないから…放っておいて良いよ。」 「放っておけるわけないだろ。」 「でも、優しくされると、もっと泣いちゃうから…っ」  彼に抱きしめられて、語尾が震えた。もっと、もっと、と心が叫ぶ。 「じゃあもう泣き止まなくても良いからこうされてろ。」 「……うん…」  抱いてくれる力がもの足りなくて、体が密着するように、慰める彼の背中に腕を回してしがみ付いた。 ******  二・三限が休みの日、優斗はお昼を食べるために一度寮に戻った。自炊できるときには極力自炊するのが、財布にも体にも優しい。  朝や夜の間は、何処かしらで話し声や、ドアを開閉する音や、足音などが聞こえている廊下が、今は静まり返っている。 「ゆーきやこんこん、あーられやこんこん」  捕食室で洗った食器を持って部屋に帰る途中、誰もいないと思って、「こんこ」をわざと「こんこん」に変えて歌った。季節は秋、もちろん雪は降っていない。ただ、こんこんという語感が好きで季節を問わず口ずさんでしまうのだ。 「あ」  誰もいないと思っていた廊下に人がいた。今階段を上がってきたようだ。 「――っつぁ…っ」  動揺して壁に激突した。  いつもの道を歩いていると、薄い雲が空を覆って、乳白色に染めていた。その空から小さな粒が落ちてくる。 「…雪?」  地面に落ちたそれは消えずに、白くその場を染めた。  背の高い塀の間の坂道を上る。奥に行くほどに、地面の雪は厚さを増した。塀から顔を出す草花にも、雪の化粧が施される。  緩いカーブの入った坂をどんどん進んで行き、目的地に近づくと、圭斗はその目を見開く。 ――家が無い。  塀も、門もあるのに、赤レンガの建物だけが綺麗に姿を消している。 ――どうして、なんで、  気付けば走り出していた。雪に足をとられ、冷たい雪が靴に入るが気にしていられない。  門を勢いよく開くと、そこには大きなかまくらがあった。 「………は?」 「あら、圭斗。良い所に来たわね。今お餅が焼けたところよ。」  かまくらの中の炬燵に入っている二人を見て、圭斗は、ははっと気の抜けた笑いを漏らした。 「何してんの?てか、秋超えていきなり雪って。」  まゆに奥に詰めてもらって、明の正面に座って聞いた。 「ツブヤイター見てないの?」  言われて、ケータイでツブヤイターにつなげた。目についたのはTLの優斗の呟き。  二、三限休みだから寮に帰ってお昼食べた。誰もいないと思って廊下で「ゆーきやこんこん」って歌ったら人がいた。動揺して壁に突っ込んだ。  「うわぁ…っ」 ――何これ馬鹿可愛い。 「それを読んだら、雪を見たくなったのよ。」 「へぇ。」 「ついでに貴方にも同じ気持ちを味あわせてやろうと思って。」 「雪がきれいだなぁって?」 「…じゃあ、それで。」  ずいぶん投げやりな答えが帰って来た。こっちは二人が居なくなったと思ってひやっとしたのに。 ――二人は、この場所は、優斗が嘘に気づいた時にどうなるのだろう。  ふと疑問に思った。もしかしたら、不思議の無くなった俺は必要じゃなくなって、この空間は消えてしまうかもしれない。もう、二人には会えなくなるのかもしれない。 「なあ、ここって、俺の正体が優斗にばれた時、どうなるんだ?」 「ずっとここに在るわよ。」  その答えに胸を撫で下ろす。しかし、続く言葉が圭斗の心を凍らせた。 「貴方が来られなくなるだけで。」





 

衝動

 まわりには、普通に普通の人しかいなかった。一般的な両親に、友達。中学以降、いじめなんて幼稚なものは見なくなり、悪がきはいたが、不良はいなかった。オタクや、空気の読めないやつ、周囲に馴染むのが苦手なやつはいても、人の気持ちを考えない常識はずれな奴は居なかった。みんな、それぞれ個性を持っていたが、普通の枠からは出ていなかった。毎日ゲームや、部活や、女の子タイプや、ときどき勉強の話をして、適当に付き合った。  そんな日常に別に不満はない。ただ、物語に出てくるような個性的な人というのが、実際にいるのかが気になった。  人の性格はどのようにつくられ、人は何を考えて行動しているのか。それを知っていく中で、物語に出てくるような強烈な個性が、存在し得るのかが分かるんじゃないかと思った。  そう思い、心理学を学んで一年。専攻とは関係無しに、故郷を離れて違う環境に身をおくと、様々な人に出会うことができた。でもまだだ、理解できない存在には出会っていない。非現実的個性には出会っていない。そんな中、世界の不思議研究会に出会った。非現実的な空間と、他人にとってのもう一人の自分に成り済ますという非現実的な状況、そして明様という非現実的な存在。待ち望んでいた個性の塊、現実を超越した存在にやっと出会えた。それなのに… ――優斗に正体がばれたらもうすべてとお別れだなんて… 「圭斗、みんなで飲み行こ!」 「飲みか、いいな。」  誘ってきた優斗を抱き締めて答える。今さら、スキンシップに周りはなにも言わない。でも、腕のなかの優斗は少し困った顔をした。冷たい頬を撫でて、耳を摘まんで、髪に口づける。優斗の体温がだんだん上がって、居づらそうにみじろいだ。 「よし、坂本兄もOKだな。っておい、いつまでやってんだよ。」 「なーに?庵ちゃん嫉妬?」 「はぁ?寝言は寝て言え。」 「心配すんなよ、庵も好きだぜ?」 「気色悪い、マジやめろ。」  結局圭斗の腕は優斗を放さない。大切なものを失うのが怖い。この手を離したら、消えてしまう気がした。 ****** 「みんな飲み物決まった?」  テーブル席に着くと、企画者の優斗が聞いた。参加者の三人はそれぞれの飲み物をメニューから選び、指をさす。 「すみませーん」  優斗が呼ぶと、すぐに店員が気付いてきてくれる。  薄暗い店内は、大学の近くであるため、若い人が多く、様々な音が入り乱れている。独り言が筒抜けなのが欠点である優斗の声は、別段大声を出さなくても良く響くき、こういう時に店員を呼ぶのには便利だ。 「生中と、カシオレと、グレープフルーツサワーと、烏龍茶お願いします。」 「おいおい、企画者飲まないのかよ。」 「飲むよ!でも、何かしら食べてからじゃないと、一口で酔っちゃうから後で。」  態のツッコみに優斗は笑って答えた。  優斗と圭斗がそれぞれに何か悩んでいるのは、二人をいつもみている庵には丸分かりだった。  スキンシップの激しい二人は依存しあっているように見えるが、実のところ、個としての厚い壁がある。 ――悩んでいるな、心配だ。でも、言い出さないならそっとしておこう。 ――悩みを相談したら、心配をかけてしまう。聞かれるまでは黙っていよう。  もっと、正面から言葉をぶつければいいのに、それが出来ないために、物理的な接触で不安をごまかそうとして、常と違う相手の行動にまた戸惑う。お互いを尊重しようとした結果、おかしなことになっている。  この小さな飲み会の席はそんな二人のうちの一人である優斗が、圭斗の悩みをこのときばかりは忘れさせよう、気分転換させてやろう、と考えた結果なのだ。酒が好なわけでもないのに、自分だって悩んでいることがあるくせに。 「圭斗。」  ほんのりと頬を染めた圭斗を、彼の隣の優斗が呼んだ。 「なんだよ。」 「楽しい?」 「楽しいよ。」 「そっかー。」  酒のせいか、緩い口調で楽しいと言う彼に優斗は嬉しそうに語尾を伸ばす。 「優斗。」  今度は圭斗が優斗を呼んだ。 「何?」 「呼んだだけ。」 「えー?何それ、仕返し?」 「いらっとしただろ。」 「えへへ、全然。」  嬉しそうに笑う優斗には本当に全然効き目が無いようだ。寧ろ、構われて喜んでいる。  いつか、優斗が圭斗にした行動なのだろうか、この恋人同士のなれ合いのようなやり取りの意味は、庵には分からない。二人が通じ合っているが羨ましい。 「優斗優斗優斗優斗優斗優斗」 「こわっ、怖いよそれ!」  意地になった圭斗が優斗の名前を連呼する。 「なんだよ、もう酔ってんじゃねぇの。」  楽しそうな二人を、そう庵は冷やかした。頼むから目の前でいちゃつかないでほしい。 「優斗優斗優斗優斗優斗優斗」 「圭斗圭斗圭斗圭斗圭斗圭斗」 「黙れ、お前ら。」  面白がって、優斗まで圭斗の名前を連呼しだしたところで、態が二人を止めた。 「優斗くーん、おねむですかぁ?」 「うぅーん…」  庵が、眠そうな優斗を呼ぶ。器用に椅子の上で体育座りをして、膝に顔を埋めた彼は、小さく身じろぎして唸った。眠くて不機嫌なのか、構われて嬉しいのかは分からない。とりあえずまだ起きていることは分かった。 「俺ちょっと便所行ってくるわ。」 「おう。」  席を立つ圭斗を見送って、庵は空いた優斗の隣に移動する。今にも寝そうな彼を軽くゆすると、そのたびに子犬のような声を漏らした。 「酔うと眠くなタイプか。」  可愛いと思う気持ちを隠して、表向きの感想を口にする。 「こいつ、グラスビール半分しか飲んでねぇぞ。」  態が、彼の前のグラスを指して言った。 「ほんと、酒弱いな。」 「酒って酔って何ぼじゃない?酒弱いのって得だと思うんだけど。」 「酔うと屁理屈言うタイプか。」  庵が言うと、圭とはにこにこしながら腕に絡んできた。 「えー?」 「甘えるタイプか。」 「寒いんだよ。」  そのまま庵の手を取って、弄ぶ。小さな手、子供みたいだ。 「圭斗は?」  ちょっとすると、優斗はきょろきょろ周りを見て言った。 「トイレ。」 「ふーん。」 「なあ、何であいつなんだよ。」  何で圭斗なんだ。なんで俺じゃいけないんだ。 「何が?」  上目づかいで問われる。酒でトロンとした目、赤い顔、血行の良くなった赤い唇。そんな可愛い顔で聞いてきて、俺が邪な気持ちを抱いているなんて思いもしないで。  から揚げの油でてかった唇に、誘われるがままに口づけた。 「いおっ!?」  間抜けに半びらいていた唇に舌を滑り込ませる。 「何してんだ!」  帰って来た圭斗に髪を引っ張られて、正気に戻った。 「――あ、ごめっ」 「もう、キス魔かよ。止めろよなー。」  解放された優斗は、笑おうとして失敗している。中途半端な笑顔は、痙攣してかたまっていた。 「――優斗。」  圭斗に呼ばれた彼は涙を耐えて、唇を引き結ぶ。 「帰るぞ。」  圭斗は、黙ったままの優斗の手を掴んで、二人分の荷物を持って、彼を連れ去ってしまった。  取り残された庵は、頭を抱えて態に呟く。 「――なあ、酒を飲むとキス魔になるって設定で行けると思う?」 ******  上着を着る間も無く、連れ出されたために、冷たい空気が容赦なく薄着の肌を刺す。それを心地良いと感じた。駅前の商店街を過ぎて、大通りの坂を下る。歩幅が違うから、圭斗が早歩きをすると、優斗は小走りしなければならない。息が切れてきたが構わない。誰もいないところに行きたかった。掴まれた腕が痛いのに、嬉しい。  寮に帰るのに横切った校内で、積もった落ち葉に足をすくわれる。 「うわっ!」 「悪い、大丈夫か?」  圭斗が掴んでいた腕を引いて、支えてくれた。心配する彼も息が乱れている。慌てすぎだ。 「優斗?」  優斗は、口で答える代りに、道の端の土のところに、拾った枝で文字を書いた。 『しゃべりたくない。』  口を動かしたくないのだ。さっきのキスの感触を思い出してしまいそうで。  ちらっと、圭斗を窺うと、悲しそうな、悔しそうな、怒ったような顔をしていた。それを見て咄嗟に口が動く。 「…だ」 ――大丈夫だよ!  そう続けようとした唇は、次の瞬間彼に奪われた。  優しく、三度唇を重ねて、頭を撫でられる。続けても大丈夫かと、その目が聞いてきた。 ――大丈夫、嫌じゃない。  言葉には出せないが、代わりにそっと目を閉じた。  窺うように侵入してきた彼の舌が、緊張して固まった口内をほぐしてくれる。彼の好きが、そこから流れ込んでくる。  キスが終わると、触れていないそこが、寂しく感じた。気づけば、頬を一筋涙が濡らしている。 「…どこが大丈夫なんだよ。」  覗いてくる圭斗の顔を押しのけて、俯いた。 「やだ…っ、見んな……っ」  こんなみっともない顔。 「何で?アイツとはしたじゃんか。」  どうやら、圭斗は、優斗がキスが嫌で顔を隠したと思っているようだ。 「あ、れは、不可抗力。」  言うと、無理やり顔を上げさせられた。 「じゃあ、これも……」 「!」  もう一度、唇が触れる。 「不可抗力だ。」  嫌じゃない、嫌じゃないんだ。むしろもっとしてほしいと、彼の背中に腕を回した。   ――ああ、俺は圭斗が好きだと、認めるしかないようだ。





 

愛してるが言えない

「あれ、優斗は?」  昼休み、C棟に来た圭斗は、そこに優斗が居ないことに気づいて聞いた。それに、庵が少し驚いた様子で答える。 「え、風邪ひいて休むから、プリント貰っといてって、メール着てるぞ。」 「え、マジで?また、あいつはそういう事を言わないで…」  ぶつぶつ言っている圭斗を前に、庵の胸を不安がよぎる。 「あのさ、昨日、優斗大丈夫だったか?俺、酔ってあんなことして。いや、メールはして、謝ったんだけど。大丈夫って返って来たけど、あいつの大丈夫って信用できないから。」 ――俺のせいで学校に来れないわけではないよな? 「ああ。今はもう大丈夫だよ。」  圭斗の言葉が庵の心にすとんと落ちて、染みをつくる。  今は、ということは、つまり一時は大丈夫ではなかったということだ。そして、彼を連れ出した圭斗はその彼を立ち直らせた。  『大丈夫』と蕩けるような甘さを含んだ声で言った圭斗は、すぐにまた、「あいつはまったく」と彼に対する文句を並べだした。 「…そうか。そっかそっかぁ。」  鼻の奥がツンとする。庵はそっとその付け根を摘まんだ。  トントントン、とドアをノックする。返事は無いし、鍵は閉まっている。庵から話を聞いていなければ、留守だと思って引き返していただろう。 「優斗。いるのは分かってんだぞ。開けろ。」  呼びかけると、ようやくドアが開いた。ブランケットを体に巻き付け、長い前髪を貞子にならないように真ん中で分けた優斗が出迎える。もとより小さな顔が、もこもこの装いと、髪型のせいでより小さく見えて、庇護欲をかきたてる。  起こしたのは自分だが、すぐに彼をベッドに戻した。  可愛いものしかない部屋は、いつものように整頓され、綺麗に片付いた机には雑炊の入った鍋が無造作に置いてある。 「それ、今日の朝、一日持つように作ったやつ。」  優斗が鍋を指して言った。  体が辛いから、より辛くなる前にこれ以上動かなくていいように鍋いっぱいに作った雑炊。それを見た圭斗は、空しい気持にさせられた。 「お前はさ、どうして風邪だって、言ってくれないわけ?どうして一人でどうにかしちゃうわけ?どう考えても俺のせいじゃん。」  昨日、上着も着せずに店を飛び出して、引っ張っていった圭斗のせいだ。 「違うよ。最近いきなり寒くなったから、体が付いて行かなかったんだよ。毎年この時期は体調崩すしさ。」  圭斗は優斗の答えに、ため息を吐つく。彼の強がりは治らないのだ。いや、気ぃ使いしいの性格は治らないのだ。そこが愛しくもあり、寂しくもある。 「…ポッキーいる?」  圭斗は、熱を持った彼の頬にキスをして、箱の無い銀の袋を差し出した。庵のおやつのおこぼれだ。 「いる。チョコ食べたかったんだ。食欲はあるの。」 「庵が見舞いにってさ。」  優斗はキスには反応せずに、目の前のお菓子に飛びついた。でも、ストレートの髪から覗く耳が赤いから、照れ隠しだとはすぐに分かった。 「そう言えば今日ってポッキー&プリッツの日か。」 「ポッキーゲームか。」  優斗が菓子をポリポリと食べながら言うので、圭斗も何の気なしにそう返す。すると、優斗は過剰に嫌そうな顔をした。眉間に皺を寄せ、下唇を下げて下の歯茎をむき出しにする。ブサイクだ。 「なんつー顔してんだよ。庵とかとは、そういう話するくせに。」 「うるさい。」  今度はぷくっと頬を膨らませた。これは可愛い。 「ところで、キャンディーゲームって知ってるか?」 「……知らない。」 「まあ、言ってみればポッキーゲームの飴バージョンなんだが。」 「…へぇ。」  今度は真顔で抑揚の無い返事が返ってくる。警戒しているのが丸分かりで面白い。 「俺はミルク飴が好きだ。」 「俺はミルク嫌いだ。」 「何が好き?」 「馬鹿じゃないの?」 「飴嫌いか?そんなことないよな、いつもポケットに忍ばせてるもんな。ところで、優斗の好きなアソートキャンディミルクティ味がここに。」 「な、馬鹿じゃないの馬鹿じゃないの馬鹿じゃないの!?」  優斗が真っ赤な顔で罵倒を連呼する。熱が上がらないように、今日はこの辺で勘弁してやろう。 ****** 「愛してるが言えないー。ふふふふふ…」  セーラー服の美少女が、カウンター席に長い足を組んで座って、機嫌よくバラードを口ずさむ。 「ね、まゆちゃん。ぴったりの歌じゃない?」  頬杖をついて、目の前のストローを口にする。気だるげな仕草が、大人びた少女をより年不相応に見せた。 「それは、優斗様にとってですか?それとも明様にとってですか?」 「あれだけ思いあってるのよ。私はいいの。」  だってこれは、好きになるほど失う事に怯えてしまう。だから愛していると言えない両片思いのラブソングなのだから。 「明様。」  いつも無表情か、静かな笑いを浮かべているかの、まゆの表情が寂しげに影った。そんな顔をしないでほしい。なにも、すべてが終わるわけではないのだから。 「私はおせっかいな秋の風になるのよ。私、二人と友達になりたいの。」  口に含んだアイスコーヒーは、ほろ苦い。砂糖とミルクを入れてまろやかになっても、この苦さは消えることは無い。でも、これがこの飲み物の良さなのだ。  上り慣れたと言って良い、なだらかな坂を上っていく。茜色だった空は、歩いているうちに、濃い紫にかわってきた。奇妙なほどに他人の気配の無い細い道に、背の高い壁が落とした影は、空が暗くなるのに伴って、周囲の色に溶け込んだ。夕暮れ色に染まっていた落ち葉も、徐々に彩色を落とし、輪郭があやふやになる。  セミが鳴かなくなったのはいつからだろう。秋の夕暮は物悲しい。圭斗は胸に沈殿する不安を抱えながら、ゆっくりと歩を進ませた。 「まだあった。」  まだあった、まだばれていない。  目の前に現れたレンガ造りの家にそっと胸を撫で下ろし、秋色に変わった花壇の間を通って、戸を開けた。 「いらっしゃい。」  喫茶店だ。春、初めてここを訪れた時の内装と同じ空間がそこにあった。消えた筈の不安が再び胸にもやをつくる。 「どうかした?」 「――いや、何も。」  頭を振って、不安を散らす。何事もないように、少女の隣に腰かけた。 「何が飲みたい?」 「え?」 「今日は選ばせてあげようかと思って。」 「…サービス良いな。」 「今日はね。」 「じゃあ、カフェモカ。」  注文を聞いたまゆが頷いて、戸棚に向かった。 「何か、良いことあった?」  明に聞かれて、飲み会の夜のことを思い出す。でも、何となく、これは言ってはいけないことの様な気がした。決定的なことがあったらいけない気がするのだ。自分は、彼だから。 「はは、優斗が潔癖で可愛いんだ。」 「そう。」 「しかも、俺限定で。意識してんの丸分かりだ。」  だから代わりに彼の普段の様子を話した。 「どうぞ。」  まゆが、目の前に香ばしく香るカップを置いた。 「ありがとう。」  少女の淹れる飲み物はいつでも、ふっと、心をほぐしてくれる。 「美味しい。怖いくらいだ。」 「――今日で最後ですから。」 「え」  今、何と言った? 「どうして本当のことを言ってあげないの?」  圭斗が何か言う前に、明がまっすぐ核心を突いてきた。 「言わなきゃ、ずっとこのままよ。」 「このままじゃ、ダメなのか?」 「このままなら、恋愛的な意味で、彼は貴方を拒み続けるわよ。」  そんなことは分かっている。でも、選べないのだ。  圭斗が何も言わないでいると、明の瞳に初めてハイライトが入った。生き生きとした目をしてるわけではない、瞳に涙が浮いているのだ。 「貴方たちを見てるとイライラするわ。突き飛ばしてやりたい。」  切羽詰った声だ。圭斗は何か言わなければいけないと思った。でも、何を言えば良いのか分からない。 「明様…」 「圭斗、お客さんだわ。カウンター裏に行っていて頂戴。」  圭斗が声をかけると、明は瞳を閉じてそう言った。再び現れた瞳はもう乾いている。  言われるがままに、カウンター裏に隠れると、すぐに扉の開く音がする。他の客とバッティングするなんて初めてだから、こんなところに迷い込むのはどんな人なのか気になった。聞き耳を立てた圭斗の鼓膜を、聞きなれた声が揺らす。 「こんにちは。」 「初めまして、優斗。」 ――物語の終わりが見えてしまった。





 

縁結び

 不思議な空気を肌で感じた。どこか異国の香りのする坂を上ると、その先には、煉瓦造りの家があった。表札には、「世界の不思議研究会」の文字。 「…本当にあったんだ。」  優斗はどくどくと脈打つ心臓を、服の上から抑えた。  『もう一人の自分』とは、圭斗の悪ふざけでは無かったのか…  これまでずっと躊躇していた。真実を知りたい、でも知ったら変わってしまう、それが怖かった。しかし、今やっと真実を知るためにその足が動いた。  木戸を開けると、香ばしい香りに包まれる。喫茶店の様な内装だ。 「こんにちは。」  声をかけると、カウンター席に腰かけた少女が振り返る。 「初めまして、優斗。」 「…あなたは」 「私は明。ここは世界の不思議研究会。私が貴方を呼んだの。」  少女は、まあ座りなさい、と隣の席を示した。  白い椅子に座ると、カウンターの向こうのツインテールの少女が、カップを差し出してくれる。 「カフェモカです。」  優斗を不思議に導いた、春の電話の声だ。 「あ、ありがとう。」  部屋に入った時に感じた香りが強くなった。白いカップの中の濃い茶の液体には、黒い粉が掛かっている。  つるんと丸いフォルムのカップを口に運ぶと、甘くて暖かい液体が体に沁みて、緊張で入っていた力が抜ける。優斗はほっと息を吐いた。 「単刀直入に言うわ。なんで、彼に冷たいの?」  明が言う彼とは、圭斗のことだ。ここで他の誰かと言うことは無いだろう。 「何が?」 「他の人と距離が違うじゃない。」 「そうかなぁ」  本当は分かっている。自分が圭斗を意識しすぎていることくらい。本当は、素直になりたい。でも、素直になってはいけない。 「彼が嫌になった?」 「違うよ。」 「自分だから?」 「…だって、僕ナルシストじゃないしー?」  そう、彼は自分なのだから。手持無沙汰にカップをまた口に運んだ。 「なんだ。知ってたの。」  明が、気の抜けた声で言った。神秘の力が宿っていそうな不思議な瞳が優斗を映す。 「なにが?」 「あなたって、嘘つくの下手ね。」 「……そう。」  ばれてしまったなら、仕方ない。優斗は諦めて話し出した。 「彼が僕じゃないことなんてすぐに気づいたよ。でも、面白いじゃない。あの状況は、特殊で。不思議で。自分を絶対に裏切らない存在が居ることが、心地よくて。…だから、だまされた振りをしてた。そうしたら、だまし続けてくれるもの。」 「彼のこと、どう思っているの?」 「…ずるい。ずるいよ。もう一人の俺だとか言って、全然俺じゃないの。俺は、いつも人の顔色を窺って、不快に思われないように、空気を悪くしないように、て思ってるのに、圭斗は自分に素直で、気持ちが良いくらいさっぱりしてる。」  優斗は一息に話すと、はぁ、とため息を吐いた。 「その上、誰も彼を嫌いにならないんだ。」  話しているうちに、自分でも気づいていなかった気持ちが言葉になって溢れてきた。自分は彼に憧れていたのだ。彼の、自分とは違う部分を羨ましく思い、もしかしたらそれが自分の一部でもあるのかもしれないと思うことに快感を覚えていた。もう一人の自分と言う不思議な存在をそばに置いておきたい理由には、そんな自分の欲があった。 「で、なんで彼に冷たいの?」 「えぇー?そこに戻るわけ?」  明の追及に、優斗は大げさに声を上げる。 「誰も嫌いにならない彼を、あなたは嫌いになったの?」 「ねー。疎ましいよねー。」 「あなた、うそ付くとき、瞬き二回して一度目を反らすの。…気づいてる?」  誤魔化されてくれない。追及を止めてくれない。 「…ねぇ、彼にキスされて、どう思ったの?」 「……っ」  頬が急激に熱を持ったのが分かった。 「………、しら…ない……」 「どうして、彼に冷たくするの?」 「~~っ!」  体が熱い。瞳が熱を持って、視界が淡いピンクに染まる。誤魔化し続けた想いは思いの他大きくなっていた。この気持ちを吐き出すことができたらどんなに良いだろう。 「明様、もういい。」 「あら、もう出て来ちゃうの。」 「!」  聞きなれた声が、カウンターの向こうから聞こえると、すぐに彼が横の入り口から出てきた。  優斗は圭斗を視界に入れると、驚き、目を見開く。そしてすぐに目を反らして、反対方向に向いてしまった。 「なぁ、なんでいつも俺から目ぇ逸らすんだよ。」 「反らしてない。」 「反らしてる。」  圭斗は優斗の頭を持って、無理矢理こちらを向かせた。相変わらずのキューティクルヘアがさらさらと指の間を滑る。  こちらを向いた優斗の顔は真っ赤で、眉間に皺が寄らないように気をつけているのか、すごく強ばっていた。 「暑いね!」  いつもより上擦った声。 「暑い、から。顔、赤いから。」  俺の顔を手で押して、遠ざけて、どんどん俯いていく。 「みっともないから、……こっち見んな…」 「可愛いのに。」 「可愛くないし!」  いつもの顔面コンプレックスだ。優斗は覗き込もうとする圭斗から逃れるように、俯いたまま頭を振った。 「俺なんて、可愛くないし、近くで見たら粗だらけだし!」 「そんなことないだろ。」 「よーるーなーよーっ!!!」  優斗が結構本気で暴れるから、面白くて、彼から手を放して笑った。 「あはは、おまえ。俺に距離とってたの、恥ずかしいからかよ!」 「違う!」  そう笑うと、俯いていた彼が、バッと顔を上げる。勢いよく上がった顔は、すぐにその勢いを無くして、言いづらそうに小さく口が動いた。 「違う…怖かったんだ。」 「何が。」 「圭斗を嫌いになるのが。」  辛そうに顔を歪める彼を安心させようと、強く握られた拳に手を重ねる。  その手を見て、そこから伝わる優しい体温を感じて、優斗はやっと心を決めた。 「杏奈ちゃんは、付き合うまで良い子だと思ってた。好きだと思ってた。でも、恋人って言う関係になって、距離が近くなったら、今までなら許せていたことが、許せなくなった。  俺は、圭斗のこと…その、そういう風に見てて、それで、すごく幸せなのに、圭斗と一緒に居るのが幸せで、心が温かくなるのに、この気持ちが無くなってしまうのが怖いんだ。」  震える声を絞り出すと、堪えていた涙が溢れてきた。  言葉にするとはじめて、何でもないと思っていたことが、実は何でもなくなかったことに気が付く。本当はずっと、つらかった。好きだと伝えたかった。でも、今のままで大丈夫だと、満足だと自分に言い聞かせていた。  昔からそうだ。友達とケンカした時も、初恋の相手にフラれた時も、学校を卒業する時も、声に出すまでは何でもないふりができるのに、思いを言葉にすると、溢れる涙を止められなくなった。 「馬鹿ねぇ。あなたたち、これ以上どう近くなるって言うのよ。もう一人の自分と恋人。寧ろ距離は離れるでしょうに。」  ため息とともに少女が言った。 「大体、貴方、四六時中圭斗と一緒に居て、今更新しく嫌な事なんてそうそう出てこないわよ。その女の子と圭斗じゃ場合が違うわ。」  呆れを含んだ声が、優しく優斗の心に響く。 「俺、良いのかな?大丈夫かな?」 「優斗。」 「だから、見んなって!」 「何でだよ。」 「…っ」  もう素直になっても良いはずなのに、顔を見られない。優斗はそれまで以上に暴れる心を持て余した。なんだこれ、――心臓痛い。 「なんだ、結局恥ずかしがってんじゃん。」 「そうだよ、悪いか!」 「はは、認めた。」 「~~っ」  もう無理だ。意味わかんないくらい心臓がバクバク言って、死にそうだ。 「おまえ、相当俺のこと好きじゃん。」 「……悪い?」 「悪くない。でも、俺への態度は悪い。」 「知らない。」 「よし、帰るぞ。」  圭斗は指先まで赤くなった優斗の手を引いて立ち上がる。 「へ?」 「帰ってとりあえずキャンディゲームだ。」 「な…っ、最低だよ!最低!信じられない!!」  手を引かれて、席を立った優斗は、罵倒のためにやっと顔を上げた。すかさず圭斗が彼を抱き締める。優斗は、少し躊躇した後にその背中に腕を回した。 「ラブシーンは帰ってからにしてくらないかしら。」 「…ぁ、明様。」  少女の言葉に圭斗の表情が曇る。 「なんて顔してるのよ。幸せの絶頂でしょうに。」 「圭斗?」  腕の中で優斗が身じろいだ。その体を離さないように、腕の力を強くする。大切なものを、失いたくない。 「俺は、もうここには来れないんだろう?」  どちらかなんて選びたくなかった。 「そうね。」  ふっと、沈黙が落ちた。少女の不思議な瞳と見つめ合う。一瞬を永遠に感じた。 「ケータイ、借してくれる?」  すぐに動き出した少女は、紫の携帯電話を出して言った。 「ほら、早く。」  促されて、ポケットから、黒いそれを取り出す。明はそれを受け取ると、手慣れた様子で操作した。 「縁は、結ぼうと思えばどんな形ででも結べるわ。貴方は、私を、この場所を、常識の範囲外のように言うけれど、それは違うわよ。常識は、人によって違うし、移り変わるの。曖昧なカテゴリーよ。変えようと思えば変えられる。  常識を広く持って、もっと世の中を広い目で見て。折角あなたは不思議な体験をしたのだから。」  帰って来た携帯電話には、愛場明という少女のデータが入力されていた。 「言ったでしょ?私は、ただの中学生よ。」  彼女に出会って、圭斗の常識は変化した。優斗に出会って、世界の見方が変わった。  生きた心地のする不思議な世界は、圭斗の常識になって、優斗のおかげで、その範囲が広がった。落ち葉を踏む感触を意識して歩き、肌を刺す寒さを感じる。生きている実感はここに在る。  黒い空には、明るい月が浮かんでいる。月が明るくて、星が見えづらいから、本当に黒の中に、白い丸が一つ浮かんでいるように見えた。 「初めて圭斗に会った日もさ、こんな風に真っ暗の中に月だけが浮いてたんだよ。一人で見たときはそれを寂しいと思ったけど、隣に人がいると、感じ方も変わるんだな。  なぁ、圭斗――今日の月はどうですか?」  質問してきた優斗の声が固い。緊張している。素直になれない恥ずかしがり屋の優斗。圭斗はその意図を理解する。 「月がきれいですね。」 ――愛してる 「私、死んでも良いわ。」 ――愛してる  偉人の言葉を借りて、やっと愛を伝え合えた。 「これからは圭斗のこと沢山教えてくれる?」 「大体設定通りだぞ。実は二年なんだけど。」 「え、マジで?」  不思議を伴う関係ではなくなってしまったけど、新しい形で縁は結び直された。大切なものは、全部この腕の中にある。


圭斗の葛藤 編<完>