秘書課!


 

秘書になれ!

 実母は弟が生んですぐに、産後の肥立ちが悪く、亡くなってしまった。社長である父親はいつも忙しく、僕ら兄弟はいつも二人きりだった。  弟とは15歳年が離れていて、自分が母の代わりになろうと、母が居なくても寂しい思いをしなくて済むようにいつも一緒に居た。  弟が11歳、僕が26歳になる年、父が再婚すると言った。長い間独り身だったのだ、母をへの愛なんだと言うつもりはないし、正直に嬉しかった。でも、それは彼女に会うまでだった。  彼女は弟と一つ違いの息子を連れてきた。ちょっと内気だけど可愛い子で、ビクビクしながらも頭を下げてきた。その子の頭をなでる彼女の口元は優しげな笑みを湛えていて、しかし心の中は真っ黒に腐っていたらしい。    それからすぐに、彼女は息子と僕たちを接触させないように、彼を離れに住まわせ、僕に嫌がらせを始めた。食事の味付けが僕のだけ最悪だったり、風呂に水が張ってあったりした。まあ、自分のすっかり大人の男であったし、食事も風呂も回避することはできた。食事も風呂も外で済ませれば良いだけだ。しかし、それをしてしまった場合、自分のいない間弟はどうなるのか。それを考えると、大人しく彼女の言いなりになるしかなかった。  普段が完璧な奥様だったから、このことを知っているのは僕と弟だけ。味方も無しだ。寧ろ、反抗すれば自分たちが悪者にされてしまう。  「兄貴はこんな家にいなくても良いんだ。」  ある日、体調を崩した僕に弟が言った。 「このままじゃ兄貴がどうかしちまう。あいつは、自分の子供を後取りにしたくておまえに嫌がらせをしてるんだ。この家を出て、自分は後を継ぐ気がないって、意志表示すればあいつは兄貴に構わなくなる。」 「そしたら、隼人が一人になるだろ。」 「俺は大丈夫。」  弟は金に染めた前髪を一房摘むと泣きそうな顔で微笑んだ。 「俺はこんなだから、親父は俺に家を継がせる気なんかこれっぽっちも無いさ。それはあいつも分かってる。だから俺に嫌がらせする事はないだろう。」  一週間後に家を出た。弟と離れることだけが寂しかった。  後を継がないと決めてから、将来の目標も無いまま大学院へと進み、助手となった僕は、名の知れたお嬢様学校へ講師の手伝いとして赴くこととなった。 ****** 「遅刻遅刻ー!!」  登校初日、今日に限って目覚まし時計が壊れてしまった。 「ああ、もう。今日は始業の三十分前に来てって言われてるのに~っ!」  ドンッ  校門目前の曲がり角で、衝撃に尻餅を付く。どうやら誰かと衝突してしまったらしい。 「ごめんなさい、お怪我はございませんか?」  そう言って手を差し出してきたのは、小学生くらいの女の子だった。   「お、おはようございますっ!!」  息絶え絶えに飛び込んだ事務室では、穏和そうな四十歳前半ほどの男性が待っていた。 「お、きたね。ちょうど三十分前だよ。君のところの教授は急な用事で来られないしね。彼からは今日は君に講師をしてもらえると聞いているのだけど。」  壁の時計を仰ぎ見る。どうやら間に合ったらしいことに胸をなで下ろす。  簡単な自己紹介をしたところで校内を案内してもらうことになった。 「じゃあ、君の教授の研究室と図書館。学食を回って教室に行こうか。」  歩きだした彼の斜め後ろに付いていく。 「トイレはどの階も、階段の隣だよ。校内全部は案内できないけど、空き時間にでも廻ると良いよ。」 「はい。ありがとうございます。」 「そうそう、ここが結構なお嬢様学校だっていうことは知っているよね。」 「はい。」 「実はね、あの白鳥財閥のご子息の婚約者が通っているんだよ。」  白鳥財閥と言えば、世界でもトップクラスの大企業である。 「それは凄いですねぇ!」 「愛場千晶と言うのだけどね。彼女は特に丁重にお相手しなさい。といっても、品行旺盛で学力もトップクラスで運動もそつなくこなす子だ。家柄のことを考えなくとも皆彼女に頭が上がらないのだけどね。」  そう言って彼はハッハと笑った。 「こんにちは、今日から経済学を指導することとなりました、青木博人です。」  自己紹介を済ませ、点呼をとる。名簿の最初に今し方聞いたばかりの名前を見つけた。  愛場千晶 「はい。」  凛として、それでいてけして威圧的ではない声が講堂に響いた。自然と人の意識を集める声だ。声を追って名簿から顔を上げる。前の方の席で今朝の少女が花のような笑顔を向けていた。  講議終了後、僕は彼女に声をかけた。 「今朝はどうもすみません。」  彼女は初対面の僕に臆せずに、答えてくれた。 「先生だったんですね。…驚いたでしょう?」 「え?」 「私のこと、大学生だなんて思わなかったでしょう?」  彼女を初めて見たとき小学生と間違えたことを思い出す。 「そ、そんなことありませんっ。」 「うふふ、別に良いんですよ。こんな私でも好きだと言ってくださるお方がいたから、私はこれで良いんです。」  そう言って幸せそうに笑う彼女にこっちまで幸せになる気さえした。  彼女の第一印象は可愛い女の子で、この時の印象は優しいお嬢様。つまり、この時僕は彼女が僕の人生に嵐をもたらすなんて露ほども思っていなかったんだ。 ****** 「こんちはー。」 「あーら、いらっしゃい今日は何にする?」 「野菜ラーメン頂戴。」  夏休み開けにこの学園に赴任してから早一ヶ月。昼間の日差しはまだまだ強いが、夕方にはずいぶんと過ごしやすくなった夏の終わり。  はあ~あぁ。  青木博人は盛大にため息を付いた。理由はこの学園の空気そのもの。なんだかもう、すべてがセレブリティなのだ。  大理石の床に壁に飾られた絵画達。壁と天井を繋ぐ金の飾りがシャンデリアの光を反射する。手入れの行き届いた庭を彩る草花からのぞく石膏像。広場の噴水の中央にたたずむガラスのペガサス。  博人の家も金持ちではあるが、せいぜいメイドが一人いたぐらいの金持ち加減で(それでもスゲーよ)この学園はもはや彼にとっては異次元だ。 「生徒はみんなお嬢様だしな~…」  そうなのだ。金持ちながらも、それを全くと言っていいほど感じさせない生活を送ってきた博人は、全ての生徒に萎縮してしまうのだ。  また、元が熱血の彼にとって、彼女たちの反応は心許ないものでもあった。いつも一人で空廻っている気がする。 「やっぱり教師って向いてないのかなぁ…。」 「どうしましたの?」 「うわあっ!?」  思わず弱音を吐くと、背後から声をかけられた。 「あ、愛場さんっ!」  いつも笑顔を絶やさない彼女が少し不満げな顔をした。初めて見る表情だ。 「来年の四月には名字が変わってしまうのだから、千と呼んでくださいませ。皆さん私のことをそう呼んでいらっしゃいますわ。」 「卒業と同時に結婚ですか!それは楽しみですね、…えっと、千様!」 「様?」  聞き返され、自分が少々おかしなことを口走ったことに気が付く。 「あ、いえ、この呼び方がしっくりくるかなあって…。」 「良いですわよ。」  あっさりと了承され、博人は浮かれる。 「ホントですか!?ありがとうございます!」 「うふふ、青木さんっておもしろい人なんですね。」  彼女の笑顔にテンションが上がった博人が疑問を抱くことはなかった、なぜ彼女が自分のことを千晶でなく千と呼ばせたのかという疑問を…  「今日はどの店にしようかな。」  生徒も教師も基本的に学食で昼食をとる。しかしここはお嬢様学校、学食だって半端無い。料理は一流、マナーは完璧。後継ぎとして帝王学を学んできた博人は食事中のマナーは完璧だったが、いかんせん堅苦しい空気が苦手であった。最近の日課は学園周辺の安くておいしい店探しだ。  今日は裏門から出てみる。しばらく歩くと人通りが疎らな横道に入った。前を歩いていたサラリーマン風の男性二人が暖簾を潜る。  功太郎ラーメン  今日はラーメンにしよう。  早速中に入ると、チャーハンを炒めるおいしそうな音と共に聞き覚えのある声が聞こえてきた。 「野菜ラーメンお待ち!それ、好きよねぇ。」 「俺おばちゃんのラーメン大好き。ガッコの奴らには分からないね。」 「もう、そんなこと言って~、お友達に聞かれてたらどうするのよ。」 「みんな、今頃堅苦しい飯食ってんだって!」  博人は最初我が耳を疑った。  まさかこんな所で会うなんて、そんな砕けた話し方をしているなんて、――お嬢様じゃなかったんですか! 「せ、千様?」  ただでさえ大きな目を見開いて僕を見てきたのは、間違えようもなく愛場千晶その人だった。  学園の裏門から少し歩いた横道で、小さな看板を掲げる小さなお店、功太郎ラーメンの暖簾を潜ると今日もあの子が迎えてくれる。 「お、青木!今日も来たのか。」  僕、一応先生なんだけど… 「千様はここがお気に入りですね。」 「今は千晶!千様じゃねえよ。」  千様改め千晶はそう言って隣の椅子を叩いた。座れということだろう。カウンター席に並んで座ると、ラーメン屋の奥さんが水とお手拭きを運んでくれる。 「いらっしゃい青木くん。」 「え、僕の名前…」 「ああ、千晶ちゃんから聞いたのよ。最近この子ったら貴方のことばかり話して」 「ちょっと、おばちゃん!」  慌てた千晶が止めに入ると、奥さんはふふふと笑ってカウンターの奥に戻っていった。 「ったくよ~」 「仲が良いんですね。」  端から見た二人は親子のように見える。 「ああ、ここ俺の高校ん時のダチの実家なんだ。屋号の功太郎って、ここん家の息子の名前なんだぜ。」 「へえ、そうでしたか。」  博人と千晶はこうしてラーメン屋で会っては、二人で話をする。 「そう言えば、千晶さんはどうして学園では千で、ここでは千晶なんですか?」 「お嬢様の演技してる時は千なの、あと千晶はここだけじゃなくて普段。」  千様って演技なんだ~…  博人はなんだか泣きたくなった。 「青木君、何にするか決まった?」  博人が干渉に浸っていると、カウンターから奥さんが乗り出してきた。 「あ、すみません。え~と…、千晶さんのは何ですか?」 「ん?これ、チャーシュー丼と野菜炒め。」 「じゃ、僕もそれで。」 「はい、かしこまりました。」  奥さんがカウンターの奥へ引っ込む。  博人は、チャーシュー丼に野菜炒めをぶっかけてかき込んでいる目の前の少女にため息をついた。 「なんだよ。」 「いやぁ、千晶さんってホントにお嬢様なのかなぁって…」 「庶民だけど。」 「ですよね、ほらやっぱり――って、ホントに庶民!?」 「きったねえな、唾が飛んだだろう唾が。」  乗りつっこみまでして、盛大に驚いた博人に千晶が眉を寄せる。 「え、でも白鳥財閥のご子息と婚約してるんですよね?」 「ああ、スッゲー玉の輿に乗ったもんだよな。」  そう言って丼をまた一口。 「どうやって騙したんですか!?」  失礼な青木の頭のてっぺんに千晶の鉄拳が飛んだ。 「――っ~!!」 「失礼な奴だなあ。あいつは素の俺に惚れたんだよ。高校の入学式の日、初めて会った学生服の俺にいきなり抱きついてきたんだ。」  ツッコミどころ満載の出会いだな。 「――学制服…」 「あいつはショタコンなんだ。」 「――御曹司…」  博人は今日もまた千晶と話し、知りたくもなかった知識を増やしたのだった。 ******  人の寄りつかないこの空間は、埃臭くて薄暗い。しかし、一度窓を開ければ秋の涼やかな風が吹き込み、そこから見える青空が眩しい。  時計塔の最上階はこの学園内にありながら、ブルジョワ臭のしない唯一の空間だ。未だ学園生活に馴染めないでいる博人を歯車同士が擦れる重低音が慰めてくれる。 「はあ。」 「おまえはいつも溜息ばっかだな。」 「うわあっ!?」  いつの間に上ってきたのか、愛場千晶が階段に腰掛けていた。 「ここ、俺の指定席。」 「千様、驚かさないでくださいよ!落ちたらどうするんですか!」 「普通に声かけただけだろうが、あと二人の時は千晶と呼べ。」  歩み寄ってきた千晶に博人は気持ち体をずらしスペースを空ける。千晶は彼の隣に並んで外を見た。風が彼女の赤みがかった癖のある短い髪をふわりと浮かせた。 「はあ。」 「ほらまた。」  千晶は組んだ両腕を木枠に乗せて眠そうだ。 「言ってみな、聞いてやるから。聞くだけだけど。」  その、いかにも興味無さ気な態度が博人の口を軽くした。  博人は話した。彼の生い立ちと、父の再婚。この学園に来るまでの経緯を。 「目標も無いままに先生と呼ばれる立場に成ってしまいました。正直戸惑っています。」  長い話を終え、博人は意識を現に戻した。 「本当は何に成りたかったんだ?」 「え?」 「後を継ぎたかったのか?」  はて、自分の成りたかったものとは何だろうか。漠然と家を継ぐのだろうと考えていたが、いざそれが自分のしたかった事なのかと問われると違う気がする。 「――参謀?」 「疑問系かよ。」 「いや、だって、参謀って職業じゃありませんし。」  苦笑いする博人から青空に目を戻し、千晶はふむと考えた。 「参謀か。青木は何ができるんだ?」  深くつっこまれると思っていなかった博人は少し慌てる。 「そう、ですねぇ。…僕、こう見えて幼い頃から何でもできたんですよね。小学校のテストはいつも百点で、中高共にいつも学年での順位は一桁でした。本が好きで、いろんな知識を詰め込みました。父親から帝王学を学んで、礼儀作法をたたき込まれました。体育も、高校卒業まで毎年体力優良賞をいただいて、中学から始めた剣道で県の代表に選ばれました。」  そこで言葉を切り、後ろ髪を軽く引っ張る。彼の考える時の癖だ。 「…何ができると言うわけではありませんが、自分の能力を最大限発揮したいというか。それでもって、人の上に立つよりは目立たず尽力する方がかっこいいな、とか…。駄目ですか?参謀。」  千晶を伺うが反応がない。目を開けたまま眠ってしまったのだろうか。 「――参謀っぽい職に就きたいんだな。」 「え?」  窓の外に向かって話す彼女の声は秋の空に吸い込まれて聞き取りにくい。  疑問符で返す博人に千晶は瞬きを一つして向き合うと、にいっと笑ってこう言った。 「秘書になれ!」





 

千と千晶

 学園に赴任してから分かったことは、愛場千晶という人物がとても目立つ存在であるということだ。  一つにその容姿。  145センチの凹凸の無い華奢な体に、大きな目が印象的な幼顔の彼女はどんな服装をしても小学校高学年にしか見えない。そんな彼女が女子大生の輪の中にいるのは凄く違和感を覚える光景だ。  千様は言う。 「こんな私でも好きだと言ってくださるお方がいたから、私はこれで良いんです。」  ああ、なんと前向きで明るいお方。  二つにその生活態度。  いつでも柔らかな弧を描く唇から紡がれる言の葉は気品に満ちていて、声を荒げるところを見た者はいないと言う。マナーも完璧で、さすがお嬢様と言わざるを得ない。  千様は言う。 「そんな、お嬢様だなんて…。でも、そう見て頂けているなら嬉しいですわ。」  ああ、なんて謙虚なお方。  三つにその学力。  成績はいつもトップ。昨年書いた論文は書籍化されたそうだ。なかでもプログラミングの技術がずば抜けていて、音声合成ソフトなるものを独自に開発したそうだ。機械にとても強く、学園の機械類が故障した時など、彼女に助けを求めることもしばしば。  千様は言う。 「そんなの偶々ですわ。あまり煽てないでくださいませ。調子に乗ってしまいますわよ。」  調子に乗った貴方を見てみたい!  三つにその身体能力。  小さな体のどこから出てくるのかというその力は成人男性の平均筋力を軽く上回る。ちなみに博人は腕相撲で互角であった。護身術の授業では、自分の四、五倍はあろうかという巨漢を投げ飛ばしたという。また、敏捷性にも優れており、誤って三階から落下した時も無傷だったそうだ。  千様は言う。 「昔からお転婆だって言われているんです。まったくもう、もっとおしとやかにしないといけませんわね。」  いえいえ、元気が一番です。  そんな、可愛らしく優しく頼れる愛場千晶、通称千様は学園のアイドルであらせられます。 ******  で、 「なにしてるんですか、千晶さん。」 「昼飯食ってんだよ。」  ここは、あまり人の来ることのない時計塔。彼女は窓側の壁に寄りかかって座り、コンビニ弁当を食べていた。 「水曜はこーちゃんラーメンお休みだ。」 「ああ、…そうでしたか……。」  あぐらをかいて弁当をかき込む。これが、愛場千晶の本当の姿だなんて、誰に言っても信じてはくれないのだろう。  みんな騙されてるんです!by博人  騙してるんだよby千晶





 

白鳥

 たくさんのオヒィスビルの立ち並ぶ様子を、最初にジャングルに例えたのは誰だろう。  よく晴れたこの日、青木博人は白鳥財閥の秘書課の面接に来ていた。  見上げれば、首が痛くなるような高層ビルの中、取り囲んだそれらのビルよりもさらに頭一つ抜けて高い、超超超高層ビルの前で博人は仰け反りすぎてひっくり返った。 「あいたた、これでも上まで見えないとは、流石白鳥。」  バツが悪く、妙な独り言を言っていると、眩しいほどだった太陽の光が遮られた。慌てて上体を起こす。制服姿の男が手を差し伸べてきた。大きなサングラスが印象的だ。 「あ、すみません。ありがとうございます。」  その手を貸してもらい、立ち上がる。 「いやあ、高いビルですねぇ。見上げすぎて倒れちゃいましたよ。」  博人は頭をかきながら照れ笑いを浮べるが、何の反応も示さない相手に次第にその笑いも尻蕾になる。耐えられなくなった博人がそれでは、とそそくさと退散しようとすると――  ガシッ  腕を捕まれた。 「青木博人さんですね?」 「はひ!?なんで僕の名前を!?」  やっと話したかと思えばいきなり名前を呼ばれ博人は混乱した。  ど、どちら様ですか!? 「こういう者です。」  差し出された名刺には「白鳥財閥社長第一秘書 陽」と記されていた。  彼はとても無口だ。僕が初対面だからということもあるのかもしれないが、面接会場に案内すると言ったきり一言もしゃべらないし、振り返らない。  エレベーターに乗り、最上階のボタンを押す。狭い個室に二人きりになり微妙な空気が流れた。 「あの、その服装は…」 「制服です。」  話しかけてもこれだ。  そう、彼は細身の体をダークグレーの制服に包んでいる。警備服の後ろの裾が燕尾服の様にながく採ってある独特の形状だ。  かっこいいな… 「サングラスも制服の一部なんですか?」  陽の眉がひくりと動いたが、大きなサングラスに隠された表情の動きは小さく、博人の気がつく程ではない。 「これは俺だけです。」  どうしてかと聞く前に、エレベーターのブザーが目的の階に着いたことを知らせた。  そのフロアは赤い絨毯で覆われていて、エレベーターを降りた博人の目の前には秘書課の扉が待ちかまえていた。陽が当たり前のようにその扉に手を掛ける 「え、ここで面接するんですか!?」  仕事をしている人もいるはずだ。 「この奥です。」 「奥?」  扉を開ける。秘書課に人はまばらだ。奥に進む陽についていくと案内されたのは社長室だった。 ******  博人は社長室に設置された来客用のソファに身を沈めていた。クッションは程良い弾力で、肌触りも良い。横になったら彼のベッドより寝心地が良いかもしれない。  お茶の用意されたテーブルを挟んだ向かい側には、社長と第一秘書が二人掛けのソファに並んでいる。 「俺は、社長の白鳥美千代だ。青木博人だな?」 「ひゃ、ひゃい!」  まさかいきなり社長と対面するなどとは思っていなかった博人は、予想外の展開に何だか目が回ってきた。 「そう緊張するな。おまえのことは千晶から聞いている。陽、どうだ?」 「ここまで案内する間、極限まで無愛想にしてみたんだが、怯まずに話しかけてきた。根性はあるかもしれない。」  え、素じゃ無かったんですか? 「俺が見つけたときはビルを見上げてひっくり返ってた。おもしろい奴だ。」 「ふむ、千晶の言っていた通りだな。」  千晶さん、どういう紹介をしたんですか!?  博人がリアクションを取りあぐねて百面相をしていると、社長と秘書が一瞬目を見合わせてこう言った。 「採用!」 「………えええぇっ!?」  一拍遅れて博人が叫ぶ。 「だってまだ何も面接らしいことしてないじゃないですか!」 「お、俺だって適当に言ってる訳じゃないぞ。陽。」  博人の剣幕に少々押され気味に答えた美千代は、漫画でいったら頬に滴のマークが付いているところだろう。 「白鳥財閥の秘書には誰もがなれる訳ではありません。その証拠に先ほど通ってきた秘書課にはあまり人がいなかったでしょう。」  外に出ているだけかと思っていたが、秘書は部屋にいた人で全員だったのか。 「秘書になるには条件があります。まず、語学力とマナーに事務の能力です。この三つはどの会社でも重視されているでしょうが、青木さんは語学とマナーは帝王学の一部としてお父様に叩き込まれたそうですね。経済学の講師をしている事を考えれば事務も問題無いでしょう。そしてここからがこの会社特有の条件ですが、秘書は社長及び副社長と行動を共にするため、身辺警護の能力がなければいけません。その点も剣道で県の代表になった経験のある青木さんはクリアです。そして最後に一番重要な条件が!」  陽の真剣な語り口に青木はごくりと喉を鳴らす。 「社長、副社長および二人の第一秘書に気に入られることです!」 「なんですかそれはっ!?」  しかも副社長と副社長第一秘書が居ないし!  博人の心の叫びに美千代が答える。 「気の合わないやつと一緒に仕事なんかできるか。ちなみに昇は―これは副社長だが―『兄様と千晶の気に入った人で僕が気に入らないはずは無いから陽さんと二人で決めて良いよ』と言っていたから大丈夫だ。秘書の事も気にするな。ちなみに昇は今頃千晶とデートだ。」  副社長!? 「入社は来年度からで良いだろう。千晶も卒業するしな。」  そうして二人と握手を交わし、博人は何か釈然としないまま夢見心地で帰路についたのだった。





 

研修旅行inハワイ

 秋だ、ハワイだ、研修旅行だ!  碧い海、青い空。白い浜辺が眩すぃ~  今僕はハワイに来ています。研修旅行の引率に選ばれるなんてなんて運が良いんでしょう。  ちなみになぜ研修旅行がこんな時期にあるのかというと、それはひとえにこの学園がお嬢様学校だから。つまりは就職活動をする必要が無いからなのです。深くは聞かないでください、それが格差社会です。  お嬢様方が水着姿ではしゃぎ回っています。自家用クルーザーに乗っている方もいるようです。海では自由行動だから僕は何もしなくても良いんだ。そう言えば千様もあの中にいるのかな。千様の水着姿可愛いだろうな。あれ、思考が危なくなってきたかな。まあいっか。 「危ない笑顔だな。」 「キャーッ!ち、千晶さん!?」  噂をすれば陰。パラソルの陰でいけない妄想を繰り広げていた青木博人に声を掛けて来たのは、愛場千晶その人だった。しかし水着は着ていない。ちなみにパラソルは学校支給の教師用パラソルである。 「千晶さんは水着着ないんですか?」 「泳ぐ気分じゃない。」 「はあ、そんなもんですか。」  千晶はキャミソールの裾が長くなった形の青いチェックのワンピースに白い薄手のパーカーを羽織っている。黄色いビーチサンダルが彼女をより幼く見せた。 「ワンピースも可愛らしいですよ。」 「そう言うおまえは青いアロハに黄色の海パン、赤いビーサン。信号機か!」 「え、ダメですか?アロハでハワイらしさとカラーでアメリカらしさを演出してみたんですけど。」  ハワイとアメリカは別に表現するものなのか。  博人がアロハシャツの裾を引っ張って、派手だったのかな、などとぶつぶつ言っていると、波打ち際から生徒達の困惑した声が聞こえてきた。  何かあったのかと、生徒の一人に声かける。 「あ、先生あれ!」  彼女が指し示す。一隻のクルーザーが桟橋に止まったところだった。そしてそのクルーザーの色は、何とも鮮やかな赤紫! 「千様、あのクルーザーと僕の服装、どっちのがやばいですか。」 「一色な分あちらの方がまだ許せる気がしますわ。」  え~…  納得のいかない博人である。  そうこうしているうちに、クルーザーから一人の女性が降りてきた。遊泳客の視線を一身に浴びるその人は遠目で見ても分かる程整った顔立ちをしている。均一のとれた体に身にまとう水着は面積が狭い。颯爽と登場した彼女の癖のある長い髪を海風が揺らした。 「――うそ」  そのあまりの存在感に呆然としていた博人は、すぐ隣から聞こえた呟きで我に返る。  千晶が信じられないものでも見たかのように瞬きを繰り返していた。 ******  服のセンスの無いらしい僕はある意味ハイセンスなのかもしれない赤紫のスクーターの運転席にいる。 「明、このド派手なクルーザーは何なんだ。第一なんでここに居るんだ。」  博人の後ろで千晶が美女に肩を抱かれている。 「千晶がハワイに来るって聞いたから会いに来たのよ、ついでに私もバカンスしようと思って。ちなみにこのクルーザーは大学のサークル仲間に貰ったのよ。」 「また貢がせたのか!」 「人聞きの悪いこと言わないで。好意よ!」  美女の名前は愛場明なんと千晶の双子の姉だと言うのだから驚きである。近くでみると顔立ちは似ているから姉妹だとは思うかもしれない。だが、大人と子供程に体格の違う二人を見て双子だと思う人はまずいないだろう。 「そうそう、千晶に良いもの持ってきたのよ。」  そう言って明は足下に置いた麦藁で編まれた手提げバッグからペットボトルを取り出した。中には桃色の液体が入っている。  なぜか千晶が顔を引き攣らせた。 「何ですかそれ?」 「新しく開発した薬よ。」  青木の疑問に明は誰もが思わず見とれてしまう魅力的な笑みで答えてくれる。そんな彼女のサークルは世界の不思議研究会だ。まあ、それで薬まで開発しているのは何故かという話なのだが。 「千晶、飲みなさい。」 「い、嫌だよ!」  そしてそのまま千晶に迫る。  ずいずいと迫られた分だけ千晶が後ずさる。でもここは小さなクルーザー上、後ずさるにも限界がある。これ以上さがれない所までくると、上体を動かして迫りくる薬から必死で逃れようとした。 「何で逃げるのよ。」 「理由を聞くのか!?そもそも何の薬だよ!」 「催淫剤よ!!」 「ぜってぇ嫌だ!――って、うわわわわわぁっ!!?」  千晶が消えた。  ドボンッ 「千晶さん!?」  博人が慌てて下を除くと、海の中で千晶が手足をバタつかせている。 「まずいわ。千晶は泳げないのよ。」 「ええ!?」 「だから助けてあげて。」 「て、――えええええぇぇ!?」  そうして博人は海に突き落とされてしまった。 「散っ々な眼に逢った。」  そう言う千晶は全身濡れネズミだ。  ずぶ濡れになった博人達は浜辺に戻って来た。 「でも、結構楽しかったですよ。」  博人は海水に浸ってしまったアロハシャツを脱いで絞った。砂浜が濡れてそこだけ色が何段階も濃くなる。  まだ空は明るいが、そろそろ自由時間が終わるころだ。  視線を感じてふと顔を上げると、明が博人をじっと見つめていた。美人に見つめられ、博人はどきまぎしてしまう。 「あ、あの…何か?」 「千晶の言ってた通りいい子じゃない。」  いい子って、僕の方が年上なんですが… 「あなた、白鳥の秘書課にいくんでしょ?私も同じ日から白鳥の研究所に入るのよ、よろしくね。じゃあ、また。」  そう言って明はクルーザーに乗って行ってしまった。  社長と副社長も一癖あると思っていたのに、その上明さんまでいるなんて。博人は早くも来年度からの秘書生活が思いやられたのだった。  博人「千晶さん泳げないから水着着てなかったんですね。」  千晶「悪いかよ。」  博人「いえ、一つくらい苦手なものがある方が可愛いじゃないですか。」  千晶「るっせ!!」





 

学際バトル

「NGのCD買っちゃったー。」  CDショップの袋を右手に下げて青木博人は満足顔だ。  袋の中には今人気のユニットの初回限定版CDが入っている。予約までして手に入れた博人は以外とミーハー、抜き身の財布をCDと一緒に袋に入れている博人は庶民派だ。 「君可愛いね、一緒に遊ぼうよ。」 「ごめんね、遠慮するよ。」 「そんなこと言わないでさ~。」 「ちょっと、放してよ!」  博人がスキップしていないのが不思議なくらいの浮かれようで、町を歩いていると少女が数人の男達に絡まれていた。  女の子の腕をつかんでいる男の腕を捻りあげる。 「放してください。嫌がってるじゃないですか。」 「何だよ、関係ない奴は引っ込んでろよ!――っいてててっ!!」  う~ん。最近の若者はひ弱だな。  ※博人も最近の若者です。 「ああ、もう気がそがれた。行こうぜ。」  男共が逃げていった。喧嘩はできるが好きではない博人は、心底よかったと思う。 「お兄さん強い!!」  明るい声に振り返る。改めて見ると、少女は異国の血がまざっているようで、瞳は透き通るような青色で、髪の毛の金色は人工的なものではない。しかも神様が依怙贔屓したに違いないと思えるほどに人目を引く可愛い顔立ちだ。千晶や明とは違うタイプの美人で、千様の笑顔が花様な笑顔で、明さんの笑顔が妖艶な笑みだとするとこの子の笑顔はどこまでも明るい太陽の笑顔なのだ。 「いえ、早々に退散してくれてホッとしてます。」 「助けてくれてありがとう。じゃあ僕、人と会う約束があるからバイバイ!」  手を振って走り去る少女はどこまでも可愛かった。 ******  博人が講師として通うこの学園の学祭は、十一月の始めに行われる。学祭では、少なくとも一人一つの作品あるいは研究を発表し、それらは分野ごとに各教室に展示される。  ちなみに千晶の作品である嘘発見機は、保健室と科学室とコンピューター室で取り合いになり、結局校舎の入り口付近に置かれることになった。  また、文化系・運動系のサークル共にお客様参加型のイベントを用意している。この学祭は、業者の人を呼んで出店も立ち並び、全国から人の集まる大きな行事だ。  秋の空は高く、空気はどこまでも澄んでいる。赤や黄色に色づいた植木の葉はそよそよと風に揺れている。今日は絶好の学祭日和だ。  受け付け付近で博人が学祭の盛況ぶりに関心していると、見慣れた赤い髪が目に飛び込んできた。 「千様、何してるんですか?」 「人を待っているんです。」  今日の千晶は動きやすさを重視してか、彼女にしてはラフな服装をしていた。黒のレギンスの上にピンクのフレアスカートをはき、ピッタリ目のグレーのTシャツのU字にカットされた襟元からはこれまたピンクのレースが除いている。白いスニーカーは有名なスポーツメーカーのものだ。 「千様、役員だったんですか?」  博人の質問に笑顔で返す千晶の袖には「学祭盛り上げ係」と書かれた腕章が巻かれている。  何をする係りなのかと博人が首を捻っていると、千晶が大きく手を振った。どうやら待ち人が到着したらしい。 「光様ー!ここですわ!!」  光?なんか最近聞いた気が…  見れば千晶の待ち人は、博人が先日ナンパ男から助けた美少女だった。 「あなたは!」 「あ!強いお兄さん!!」  少女も僕に気づき、驚きを露わにした。 「お二人とも、お知り合いでしたの?」  千晶が可愛らしく小首を傾げる。 「うん。僕がナンパに引っかかって、困ってたらお兄さんが助けてくれたの。」 「まあ、青木様がそのようなことを?」  千晶の台詞のどこに反応したのか、光がばっと博人の顔を見てきた。 「青木って、青木博人?」 「え、はい、そうですけど…」  なんで知ってるんだろう?千晶さんから聞いてたのかな。 「わあ、陽から話は聞いてるよ!」 「え?陽さん…って、社長第一秘書の陽さん?」  博人の思いつく人物で陽と言えば、この人しかいない。しかし、彼女と彼の関係が分からない。 「光様は陽様の弟なんです。」 「ええ!?男!!?」  彼と似ていないとか、じゃあ彼にも異国の血が混ざっていたのかとか色々思うところのある博人だったが、一番に飛び出した言葉はそれだった。  博人は失言だったととっさに口を手で押さえたが、一度出てしまった言葉は戻らない。 「すみません!」 「良いよ、みんな最初間違えるもん。」  軽く答えてあははと笑う彼女改め彼は、男と分かってもやっぱり可愛いことに変わりはなかった。 「それでは光様、今年もよろしくお願いしますわ。」 「よろこんで!」  改めて挨拶を交わす千晶と光の瞳は何故か輝いて見える。しかし、何をよろしくするのだろう。  一緒に行こうと誘われた博人は、疑問を抱えたまま二人と行動を共にすることにしたのだった。 『今年も行われることになりました!!もはや恒例行事と化したこのイベント、我が校のアイドル愛場千晶様と友人藤本光様の真剣勝負!!十分後に校庭にて開催!!』  学園中に響きわたる校内放送。 「あの、千様。何ですこの放送。」 「学祭のメインイベントですわ。この学園の学祭では、運動部がお客様参加型のイベントを開いているのは、ご存じですよね。」 「最初はね、ちょっとした遊びのつもりだったんだけどね。」 「競っているうちに真剣勝負になってしまいまして。」 「今年で早四年目。」 「私なんて、学祭盛り上げ係なんてものに任命されてしまいましたわ。」  交互に説明する千晶と光は息ピッタリである。  博人は頭の中で整理した。 「お二人の白熱したバトルは今年で四年目で、もはや名物と化して今年もやるって言うことですね!」 「That's light!」  光が妙に良い発音で答えてくれた。  袖から覗くフリルが可愛い、淡い黄色のパーカーを脱いだ、ターコイズブルーのタンクトップと白の綿のショートパンツから延びる華奢な手足、凹凸のない体は正真正銘男のもので。 「やっぱり、男の子か~…」 「え、何?」 「いえ、別に!お二人とも頑張ってくださいね。」  博人の声援に大きく手を振って答える光は、可愛い可愛い男の子だ。その隣ではグレーの長袖Tシャツを脱ぎ、ピンクのキャミソール一枚になった千晶が控えめに手を振っている。 『千晶様VS光様!400メートル走真剣勝負!今年もこの時がやって参りました。両者スタートラインに着いた模様です。第一レーンは我らが千様!第二レーンは光様です!』  放送に合わせて、観客席からたくさんの声援が飛ぶ。光の方が男性ファンが多い理由は考えないでおこう。 『位置について、用意――ドン!』  それはすごい勝負だった。  スタートダッシュで千晶がややリードした。しかし、足の長さが物を良い、光が食らいついていく。両者が並ぶ。対して千晶はそれを回転で補い、コーナーで引き離す。ストレートで光が追いつく。  観客は皆興奮した。ゴールはすぐそこだ。スーパートをかける。白いゴールテープが翻る。勝敗は!?  ゴールはほぼ同時だったため肉眼ではどちらの勝利か分からない。ビデオ審査に入るところがさすがお嬢様学校だ。 『只今のの勝負、勝者ーー光様!』  歓声が巻き起こる。光も千晶もねぎらいの言葉をかけられながら歩いてきた。 「すごいです、光さん!僕、千様が勝負で負けるところ初めて見ました!」 「ありがとーっ!!」  はしゃぐ二人に千晶は小さく舌を打つ。だがすぐに気を取り直し光に向かい不適な笑みを浮かべる。 「まだ一勝です。次は負けませんわ。」 「次も僕が勝ってみせるよ。」 「次の種目は負けた方が決めるルール。次は幅跳びで勝負です!」 「のぞむところ!!」  まだ一勝って、何試合するつもりですかーっ!? ******  その後結局二人は午前に中距離走・ディフティング・テニス・バトミントンの五種目、午後にバスケのシュート・空手・剣道・卓球・弓道の五種目勝負をした。二対三、五引き分けで今日の勝負は光の勝ちだ。二人とも本当に強く、どれも見ごたえのある勝負だった。  太陽が傾き、空が西から東にオレンジから紫、そして青へとグラデーションに染まる。雲の黒い陰が幻想的に散らばっている。  夕闇の中、校門の前に三人のシルエット浮かんだ。 「光様、また勝負してくださる?」  一番小さい影が手を差し出す。 「もちろん。」  中くらいの影と手が重なった。戦友との別れにはがっちりと握手だ。 「…あの~。」  一番大きい影、博人が手を挙げ存在を主張する。 「光さん、そんなに強いんだったら昨日のナンパ男自分で撃退できたんじゃないかな、と。」  もしかして自分はよけいなお世話をしてしまったか。 「でも、嬉しかったよ。」  目を細めて博人を見つめる光にほっとする。夕日を反射してオレンジ色に光る金糸の髪に指を絡め、頭をなでた。光がキャッと嬉しそうに笑う。  その光景を見た千晶が 「毒されたか。」  と呟いた。





 

出社久寿玉

 ここは名高いお嬢様学校。博人は今日辞表を出した。 「校長、お願いします!」 「――ああ、やっぱり?」 「…やっぱり、と言いますと?」 「空気が会わなくて辞める人結構居るんだよねえ。」 「はあ。」 「で、次のところは決まってるの?」 「白鳥財閥の秘書課に内定が決まっています。」 「わお、すごいじゃないか!そんなとこで働けるなんて万々歳だね。」 「ありがとうございます。」 「あはは。」 「あはは。」  このとき博人は次の職場に対する不安など微塵も感じていなかった。 ******  真新しい制服に袖を通した今日は青木博人の初出社日。  どう見上げても天辺が見えないこのビルの、最上階の一室が今日から僕の職場になる。 「よおし!頑張るぞ!!」 「――よう。」  ガッツポーズをした博人の背中を何者かが蹴りつけた。 「え、な、え!?」  振り向くが誰もいない。変だなあ。 「おい、バカにしてんのか。」  居た。あんまり背が低いから分からなかった。だが、声の主を見つけても博人の頭上のクエスチョンマークは増えるばかり。彼の背中を蹴りつけたヘアバンドにメガネの少年はどう見ても小学校高学年にしか見えないのに博人と同じ黒い制服を着ているのだ。  少年は意味ありげににやりと笑ってこう続ける。 「まあいい、同僚、青木博人。今日から副社長第一秘書になった今はまだ愛場千晶だ。」 「ち、千晶さん!?」  あまりのことに博人は腰が抜けそうになった。  ここは秘書課、白鳥財閥の秘書課だ。大財閥の秘書課は今日も何故だか人が少ない。面接の厳しさと、職場環境の異様さが来る者を拒み、運よく入れた者をはじき出してしまうらしい。 「しゃちょー、新人来るのって今日でしたよね。」  爪を磨きながらそう言うのは石松成人。彼の社長と呼ぶ声はいつも誠意を感じない。 「そうだ。」 「あ、そうだった!」 「石井さん、忘れていらしたんですか。」 「ターイー」  社長第一秘書、陽と、我らが社長、白鳥美千代に同時に責められたのは石井態。 「熊、ばかだねえ。しゃちょー怒っちゃうよ?」 「まあ、無関心な態さんはこの際良いとして、少しでも関心のあるナルを新人の指導係に任命しようか。」  笑顔で言う副社長、白鳥昇は別にナルをからかってやろうとか、そういう意地の悪いことは考えていない。天然だから、本気で言っているのだ。 「はあ!?何それ、だいたい新人何人?僕の手は二本しかないんですけど。」 「三人だが、一人は指導の必要がないから右手で一人、左手で一人引っ張ってくれれば問題無いよ。」 「――この際いびり倒してやる。」 「タイ、おまえナルの指導係。」  不穏な事を言い出した成人に、美千代が保険をかける。 「指導係に指導係ってなにさ!?」 「タイは、ナル以外に厳しくできないだろうが。」 「う~。」 「どんな顔しても可愛いだけだぞ、おまえ。」 「熊、るっさい!!」  ずいぶんと賑やかだが課内の人はたったの五人。今年度まで生き残ったのはたったのこれだけだった。 ******  早速秘書課に向かおうとする博人を千晶が引きとめる。 「待て、もう一人来る。」  千晶が入り口を顎で指すと、間もなく三人目がやって来た。  その人は神秘的な人だった。  背筋がピンと伸びて、癖のない短髪が室内の明かりのみで艶やかに輝く。その精悍な顔立は美青年とは言えないが、オーラが半端じゃない。  あちらもすぐにこっちに気が付いて、歩みよってくる。 「おはようございます。今日から秘書課に配属されました。天宮高志と申します。」  きれいに四五度のお辞儀をされてしまい、慌てて博人も頭を下げる。 「こちらこそ、よろしくお願いします。本日付けで配属された青木博人です!」 「久しぶり、天宮。」  頭を下げた博人の隣で千晶が片手を挙げて挨拶に代える。だが、挨拶をされた高志の方は釈然としない顔を返した。 「?」 「忘れたか?愛場千晶だ。」 「は、え?――あ!明様の妹!?」  なんと彼は明様の知り合いだったらしい。それだけで半端じゃないオーラの説明が付いてしまった気になるのは何故だろう。  三人は今度こそ秘書課に向かった。  ゴッ  秘書課のドアを開けた千晶の脳天に何かが落ちてきた。 「きゃーっ!!千晶、大丈夫!?」  それとほぼ同時にひょろっと背の高い男が悲鳴をあげる。 「――昇。」 「ごめんね、これくす玉なんだけど失敗しちゃった。大丈夫!?痛くない!?」  今にも泣きそうな顔を近づけられて千晶はため息をつく。  ――おまえが大丈夫かよ。 「はいはい、大丈夫だから!後ろつかえてるから!」  千晶が昇を押しやると、やっと博人と高志が中に入れた。 「あなたが千様?なんだか男の子みたいですね。」  大きな瞳が千晶を見て微笑んだ。  下がった目尻が可愛らしい。ソバージュみたいなふわふわ髪のショートカットの美女だ。赤い制服がよく似合う。 「千じゃない。愛場千晶、あと同じ年だから敬語はいらない。」 「あ、青木博人です。」 「天宮高志です。」 「石松成人だよ。」  え?成人って… 「女かと思った?」  彼女、改め彼の笑みが意地悪そうなものに代わる。 「あ、いえ、――すみません。」 「あはは、かぁわいいんだぁ。」 「こら、新人からかってんじゃねえよ。俺は石井態だ。」  笑う成人の頭を押さえつけた男の印象は、The体育会系。 「社長第一秘書の陽です。」 「副社長の白鳥昇です。」  陽が落ちたくす玉を拾って美千代に手渡す。美千代が高く掲げたくす玉の紐を、しゃがんだ陽が引っ張った。カラフルな紙吹雪とともに飛び出した垂れ幕。そこに書かれた文字を先輩五人が読み上げ締めくくる。 「ようこそ、秘書課へ!!」  しかし、博人は釈然としない。 「あれ、あの。五人だけですか?」  確か、前来たときはあともう何人か居たはずである。  博人の疑問に美千代は少々渋い顔で答えた。 「ああ、それは――やめた。」 「ちょっと空気に馴染めなかったみたい。」  飄々と続ける成人が博人を不安にした。 ――僕、この職場でやっていけるのかな…  その背中を千晶にポンと叩かれる。まあ、頑張れよ。そう言われた気がした。





 

新歓お花見

「では、改めて。千晶、青木、天宮を歓迎して、乾杯!」  美千代の音頭で一斉に紙コップを掲げた。 「かんぱーい!」  今日は進入社員歓迎のためのお花見会。ちなみに今日の場所取りが代々進入社員の最初の大仕事となっている。  博人はその童顔から、下戸と誤解を受けやすいのだが、実のところそうでもない。  博人はさして大きくもないコップに入った発泡酒を一気にあおった。 「いいね、いいね、いい飲みっぷりだね。」  そう言う右隣の成人の方がすごい飲みっぷりである。手酌でどんどん注いでどんどん飲む、いっそラッパ飲みを勧めたい。 「ナル、おまえはあおりすぎだ。」 「うるさい。」  態に対する声が嫌にトゲトゲしく聞こえるのは気のせいだろうか。 「あ~あ、何さ熊ったら、花見に来て飲むなって?」 「飲むなとは言ってないだろう。」 「うるさい、うるさい。可愛くない。青木はこんなに可愛いのに。」  成人は横から博人に抱きついた。 ――え!?ちょ、ちょっとぉ!? 「ナル!青木から離れろ!」 「良いでしょ別に!」  態の恫喝に体にまわされた手に力がこもった。 「ナル!!」 「…なにさ、自分は浮気してるくせに僕が浮気するのは駄目だって言うの?」 「はあ!?なんで俺が浮気してることになんだよ!?」 「だって、――だって最近熊、僕のこと抱かなくなったじゃない。」 ――な、抱くって… 「な、そんなこと今言うことじゃないだろう!」 「――僕、もう魅力ない?」  成人の体が小刻みに震えていた。彼の頬を涙が濡らしていた。  そんな成人の姿に息を飲んだ態は、次の瞬間力ずくで成人を博人から引き剥がし、成人はその勢いのまま態の膝に着地する。 「バカ、そんなわけあるかよ。だいたい、最初に俺を拒んだのはおまえだろうが。」  態は成人を抱きしめて顔をのぞき込む。 「だって、それは熊があんまりしつこいから――」 「だーかーらー!俺はこれでもおまえを気遣ってたんだよ!」 「――ばか、いらないよ、そんな気遣い。」  成人は態の厚い肩の顔を埋め、赤くなった顔を隠した。 「痴話喧嘩ですね。」 「石井さんと石松さんって…」  高志が軽くそんなことを言うが、博人は衝撃の事実に唖然とする。  だがしかし、そんな空気も何のその。昇の陽気な声が聞こえてきた。 「おーい、カラオケやろうよ!」 「陽、歌えよ。」  千晶の指名で陽がマイクを持って立ち上がる。カラオケ機能搭載のマイクだ。 「じゃあこれだな。」  美千代の入れた曲は人気アイドルユニットNGの片割れ、TELのソロシングル。  軽快な曲に合わせて陽が踊り出す。驚いたことに振りまで完璧だった。  気のせいか声も似ていて、背格好も似ているものだから本物に見えてきた。なんだか色々すごい人である。  歌い終わると、そのままマイクを千晶に手渡した。すぐさま昇がリモコンで曲を入力する。  電子パネルに表示された曲名を見て千晶が目を丸くした。 「な、こんな曲まで入ってんのかよ。」  それは最近騒がれているネットアイドルAKIRAの新曲だった。 「このカラオケ機はナルと明様の合作だ。」 「そうよ、千晶。」 「うわ、明!?」  美千代の答えになっていない返事に続けたのは明。突然現れた姉に当然ながら千晶は驚きを隠せない。 「来ちゃった。」  来ちゃったって… 「三日ぶりです、博人様。」  明様とともに現れたツインテールの女の子が博人の左隣、高志に挨拶をしてその隣に座る。 「こんにちわ、まゆちゃん。」 「天宮さんの同僚の青木博人です。」 「ああ、こっちは明様の助手で、ええっと…」 「博人様の結婚相手の姉ですわ。」 「へえ、天宮さんお若いのに結婚なさってるんですか。」 「いやあ、…はは。」  しかもこの子の妹と言うことはかなり若いだろう。尊敬の眼差しで見る博人に、高志は苦笑いで返した。  そうこうしている間に千晶の歌も終わり近づく。これも驚いたことだが、彼女も相当に歌がうまい。本物にしか聞こえないほどであった。  だから、 「よし、次は青木と博人のデュエットだ!!」  そんな二人の後に自分らにお鉢が回ってくるのはある種の嫌がらせではないかと思ったほどであった。 ****** 「みんな潰れちゃいましたね。」  先に返った明とまゆ、そして今も健在な博人と陽を残して後は死体ように転がっている。 「帰り、どうするんですか?」 「俺が運転していきますよ。下戸なんで飲んでないんです。」  人は見かけによらない。いや、彼の場合半分はサングラスに隠れているから顔がどうこういう問題でもないのだが。 「青木さんは酔ってるかんじしませんね。」 「僕、ざるなんですよね。」 「人は見かけによらないんですね。」 「そうですね。」  しかし、何が一番見かけによらないかといったら、二人の人間を両肩に担いで運ぶ彼の馬鹿力であると博人は思ったのだった。





 

異能超能

 つい先日秘書になったばかりの博人は、それでも徐々にこの仕事場に慣れてきたのだが、どうしても気になることがあった。  どうして陽さんは屋内でもサングラスを外さないのか。 「天宮さんは、陽さんがサングラス外したところ、見たことあります?」  同期の天宮高志に訪ねると、 「そう言われてみれば無いですね。あのサングラスは謎ですね。どんな顔してるんでしょう。」 「社長が惚れてるんだから、美人に決まってる!」  広くはない秘書課での会話。普通に会話していればそれは課の全員に丸聞こえだ。企画部からの書類をチェックしていた成人が会話に混ざってきた。 「実は女だったりして!?」 「グラサンはカモフラージュってか?」  話題は飛び火する。 「陽さんの顔を見たことある人っていないんですか?」  秘書達が顔を見合わせる。どうやらいないようだ。 「社長なら見たことあるんじゃないですか?」  高志の言葉に皆頷く。社長室の扉を叩いた。 「失礼します。」  社長椅子に座った社長、白鳥美千代は陽の制服の上着を抱きしめ――嗅いでいた。  ここにいるすべての人の動きが止まる。 「えーと…ノックをしても返事をする前に入ってきたら意味がないだろ。」  上着を机に置き、何事もなかったかの様に注意する。 「しゃちょー、そんなにまで陽さんのことを――」  空気を読まない成人の口を態が慌てて塞いだ。 「う、うるさい!忘れろ!!おまえたち何をしに来たんだ!?」  迫力のない美千代に安心し、早くも忘れかけていた目的を思い出す。 「そうでした、そうでした!社長は陽さんの素顔見たことありますよねえ!?」 「ああ。」  聞きながら博人は社長室に入っていく。他の秘書達もそれに続いた。 「どんな顔なんですか!?なんでサングラスなんですか!?」  好奇心は止まらない。皆口々に質問した。 「本人に聞けば良いじゃないか。」  入り口を顎で指した美千代は上着を持って立ち上がる。  振り向けばそこに陽がいた。 「よ、陽さん、いつの間に!?」 「今、経理に書類を届けて帰ってきたところです。皆さん何をしているんですか?」  雑用は上司の仕事というよくわからないここのルールだ。  博人が気まずげに答える。 「え、と~…、サングラスの下の素顔が見てみたいなあ…と」 「ああ、そのことですか。」  博人、高志、成人、態の注目を浴びる中、陽は人差し指を形の良い唇に当て、にっこりとほほ笑んだ。 「秘密です。今はまだ。」 「なんでぇ?!」  不満げな声をあげた成人に、困ったような顔をして、陽は続けた。 「俺の目は特殊です。良くも悪くも皆さんに影響を与えるでしょう。だからサングラスを外すことはできません。そしてこの目が俺が社長第一秘書である理由でもあります。」  その後も色々質問したが、彼がこれ以上の事を明かすことはなかった。  特殊能力なんて、などとは誰も思わなかった。この仕事場はなにか、そういうものを受け入れられる独特の空気があると感じた。 ******  陽のサングラス騒動からまた数日たった昼休みのことである。  白鳥財閥の秘書課は皆仲がいい。だから、昼休みも学生のそれと雰囲気は変わらない。自分がいない間に何かおもしろいことがあると嫌だと思うのか、外に食べに行こうとする者はいなかった。  青木博人は弁当を食べながら、隣の席の天宮高志に話しかける。  博人の敬語は癖で、高志の敬語は四歳年上の博人を敬ってのものだが、同期の二人は秘書課の中でも特に仲がいい。 「あ、そういえば僕、高志さんがどうやって秘書になったのか聞いたことありませんでした!まともに面接とかしましたか?僕は千様の紹介でほとんど面接らしきこともせずに採用されたんですけど。」 「そう言えば博人さんは千様の学校で講師をしていたんですよね。」  千様は副社長夫人のことである。 「俺は、明さんの助手やってる義妹(姉?)がこの仕事を勧めてくれたんですけど、採用条件も厳しいし、無理じゃないかと思ったんです。でも、俺なら大丈夫だって、よく分からない保証をされて、受けてみるだけならって…。集団面接だったんですけど、面接官が社長と陽さんだったんです。で、みんなゾロゾロ会場に入っていくじゃないですか。「採用!」って陽さんが僕に向かって叫んだんです。まだ席にも着いてないのに。」 「ええ!僕には採用基準ズラズラ上げてたのに、それってフィーリングのみじゃないですか!?」 「そうなんですよ。一応履歴書は書きましたけど、目立った実績は何もないのに!」  二人は仲良く首を傾げる。 「陽さんに直接聞いてみましょうよ!」 「あ、良いですねそれ!」  面接の話で大興奮である。 「誰に何を聞くんですか。」 「うわっ!陽さん、いつの間に!?」  重役会議から帰ってきた社長第一秘書の陽と社長の美千代が立っていた。 「陽さん、なんで俺を採用したんですか?」  聞かれた陽は高志の後ろの空間を凝視した。  高志が目を見開き、後ろを振り返る。 「見えてるんですか!?」  何が。 「ああ。」  だから何が。 「俺の天使が!」  天使か、え?天使? 「いや、俺には白く光っている何かが見えているというだけなんですが。」  高志はう~んと唸り、ぽりぽりと頬を掻いた。 「俺、この職場気に入ってます。この数日間で、皆が良い人だって、社長達が選んだだけあって世間の普通に捕らわれない個性的な人ばかりだってことがわかりました。」 「ちょっと、それって変人ばっかりってこと?」  高志の台詞に成人が野次を飛ばす。 「皆にならテンテンを紹介しても良いかな、と思ったって話です。」  直後、高志の背後で閃光が走った。隼人は思わず目を瞑った。  そして目を開けたそこには――美しい人がいた。  下がりに切りそろえられた髪と切れ長の目を縁取る睫、きりっとした眉は白銀に艶めき、鼻筋の通った中性的な顔立ちの中、クリスタルブルーの双眸が冷たい光を宿す。シャツとパンツを白で統一したその人は、まるで全身に光を纏っているかのよう。  まさに神々しい。――しかし、 「よう、実は俺もお前等の仲間に入りたくてしょうがなかったんだ。ま、よろしく!」  結構気さくだった。 「天使のテンテンです。皆に見えるように人に化けてもらいました。」 「おおー、僕天使見るのはじめてだよ!」 「兄ちゃんカッコいいねえ!」 「へえ、こんな方だったんですか。」 「今までずっといたのか?」 「キラキラだーっ!」 「へー、陽の採用理由はこれかー」  テンテンとけ込むの早っ!  秘書どころか社長、副社長までもがテンテンを囲んで、触ったり質問したりしている。  慌ててその輪に入っていく博人は、不思議って何なんだろう、とここに来て自分の常識の感覚が麻痺し始めていることを知った。 「陽さんの特殊能力ってこの事だったんですか?」  博人が尋ねると陽は無言でサングラスの鞭をトントンと叩いた。  サングラスはまだ外していない。陽の隠された能力がますます気になる一同だった。





 

青木博人の受難

 バンッ 「みんな!大変だよっ!!」  ゴンッ 「遅刻だよ!!」  大きな音を立てて秘書課の扉を開け放ち、飛び込んできた成人に態が拳骨を落とした。 「熊ひどいっ。僕泣いちゃうからっ。」  デスクに向かっていた博人の背中に顔を埋めて泣きまねをする成人の右手には女性誌が握られていた。  態は成人を博人から引き剥がして彼を片手で抱いたまま女性誌を受け取る。  開かれたページにはでかでかと書かれていたのは… 「TELとヒカリ熱愛発覚!?」 「ええ!!?」  態と博人と高志とテンテンが驚きの声を上げた。  TELは今人気のアイドルユニットNGのツン様。ヒカリは琴をロックに演奏する異色のミュージシャンである。全身からフェロモンを放つ麗しの美青年TELと艶やかな黒髪の和服美人のヒカリの2ショットは予想外にしっくりきた。  秘書課はみんな二人のファンで、というか陽がファンで、どちらかが出演したテレビ番組はダビングして昼休みにみんなで観たりするほどである。それなのに声を上げない上司たちを不審に思い伺い観ると、みんな「ああ…」と意味深な苦笑いを浮かべていた。 「…なんで驚かないんですかぁ?」  成人が不満げに口を尖らせる。 「だって、」 「なあ…」  美千代、昇、千晶が陽に視線を送ると、陽は人差し指で頬を掻きながら説明をしてくれた。 「TELとヒカリは兄弟です。」  バンッ  再び扉が大きな音を立てて開け放たれた。高そうな扉なので壊れないか心配である。  そんなことより、現れたのは当のTEL。麗しい顔を歪ませて 「陽君!」  言ったや否や我らが社長第一秘書の胸に飛び込んで行った。  そんなTELを抱き止めた陽の次の言葉に 「そして俺も兄弟です。」 「ええ――っ!?」  部下一同の驚きの声が一際大きく響いた。  秘書課の社長室側の一角は机と二人掛けソファ一つと1人掛けソファ二つとテレビが置かれたリラックススペースになっている。  二人掛けソファには照(TELの本名)と陽が、1人掛けソファには美千代と昇が座った。僕の膝の上に座りなよ、という昇の提案を一蹴した千晶は彼の隣にデスクワーク用の回転イスを持ってきて座り、仕事を続ける部下達は聞き耳を立てていた。  陽は、抱きついて離れない照の背中を優しく撫でる。  ツン様はパフォーマンスなのか、はたまたデレは兄弟限定なのか、テレビでは想像できない照の甘えっぷりである。 「どうしたの照。記者会見は終わったの?」  照はこくりと頷くとすすり泣きながらも話し出した。 「昨日、陽君と光と仕事終わりにホテルでご飯食べたでしょ。」 「うん。」 「陽君、昇と千晶の結婚披露パーティーの準備があるからって先に帰ったでしょ。」 「うん。」 「その後光と二人でホテルから出てきたところを撮られたのがその写真なんだ。」 「何で光なんだ?熱愛発覚はTELとヒカリだろ?」  二人の会話に割り込んだのは高志の守護天使テンテン。高志が慌てて彼の袖を引っ張るが、彼は全く悪びれない。だって気になる。 「ヒカリは光だよ。」  と、いうことは 「男!?」  あーなんかデジャブ。博人は頭の隅で思った。 「それで?なんで照は泣いてるの?」  優しく問いかける陽。しかし照の続く言葉は陽を取り乱させるに充分だった。 「光が、――光がショックで引きこもっちゃったんだ!!」 「へ?」  みるみる顔から血が引いていく陽。 「記者会見で昨日のこととか説明したんじゃないのか!?」 「したよ、でもその前に光のブログが炎上して、俺もだけど。で、コメントとか2チャンとかでも結構ひどいこと言われて…」 「でも、もう誤解は解けたんだろ?」 「そうだよ、でも人ってこんなにころころ意見を変えるのかって逆にショック受けちゃって…」 「でもそれは…」  仕方ないことじゃないのか… 「光だって、仕方ないことだってわかってるけど、頭で理解しても心がついていけなくて。今度はそんなこと気にしてる自分が嫌になちゃって、それで…」  黙ってしまった照に陽も何も言えなくなってしまう。  黙りこくって俯く二人と。重苦しい空気。  千晶が身じろぎをして口を開いた。 「でも、あれだ。太陽は光と一緒にいるんだろ?」 「うん」 「なら、なんとかなるだろ。」 「うん」 「ああーっ!もう、考えたってしょうがないんだから、今日帰りに様子見にでも行けばいいだろ!?今は仕事だ!照は帰れ!!」  生返事しかしない二人に千晶は頭をがしがし掻くと大きな声で話を終わらせた。 ******  昇と千晶の結婚披露パーティー当日。  会場は海上。(いや、ギャグでなく)豪華客船で行われた。 「このように豪華なもようしを開くことができたのは…」  新郎挨拶をする白鳥昇はオーダーメイドの白の燕尾服が長身によく似合っている。生地がいいのか白が嫌みでなく、襟元のフリルとリボン帯が彼の優しげな顔立ちにマッチしていた。  新婦の千晶も純白のドレスに身を包み、微笑んでいる。 「あー、千様可愛いなぁ…。」 「そうだね、もぐもぐ。」 「高志の方が可愛い、もぐもぐ。」  思わず感嘆する博人は相当な千様ファン。それに応える成人とテンテンは口をもぐもぐと動かして、料理を食べるのに余念がない。秘書達はみんな社長、副社長、千様の護衛としてパーティーに参加している。しかし、社長の美千代には陽がついていれば充分だし、副社長近くには千晶がいる。他の秘書達は形だけの護衛である。美千代も「おまえ等は準備がんばったんだし、楽しめば良いじゃねぇの?」と言っていたので、元から自由人ばかりの秘書達ははぐれまくって博人の近くにはこの二人しか残っていなかった。  制服姿の博人は黒、成人は赤。テンテンは白。三人並ぶと結構目立った。  それから数十分後。青木博人は迷っていた。 「ここ、どこ…?」  トイレから会場に戻る筈が、どこをどう間違ったのか、甲板に出てしまったのだ。 「どうしよう…、誰かに道を聞くのも…恥ずかしいかな…。」 「どうかしましたか?」  博人がきょろきょろと辺りを見渡していると突然背後から声をかけられた。  振り向くと、ベリーショートの髪の毛に、ドングリ眼、太めの黒いフレームの眼鏡をかけた男性が立っていた。三つの缶飲料を両手に抱える体は小柄で、良いスーツを着ているのがかえって七五三のような違和感を与えていた。 「その制服、美千代さんのとこの人ですよね。」 「あ、はい。新入社員の青木博人と申します。」  博人が差し出した名刺を受け取ると、彼もにっこり笑って名刺を差し出した。 「株式会社田中で代表取締役をしてます。田中雅彦と申します。」 「しゃ、社長!?」 「はい。白鳥様とは仲良くさせていただいております。」  ほぇ~。と頬を紅潮させる博人から目線をはずして何かを探すように視線を巡らした雅彦は甲板のある一点で視線を止めると、目元をひくつかせて思わずといったように「うわぁ」と声を漏らした。  博人も彼の視線を追って声の原因を確かめた。 「うわぁ」  二つのシルエットが見覚えのあるポーズをとっていた。一人が両手を広げて立ち、もう一人が後ろから支える。――タイタニックの有名なあのシーンである。  男女でやっていても相当に恥ずかしいが、これはどん引きの男同士であった。  こちらの視線に気がついたのか、二人の男性が振り向いた。二人はびくっと肩を震わせる博人と雅彦にさらに声をかける。 「雅彦ー!!」 「お、お知り合いですか!?」 「残念ながら。」  困惑する博人に雅彦は額を押さえながら答えた。 「雅彦がなかなか帰ってこないから祐介なんかとタイタニックやっちゃたじゃん。早くこいつと代わって。」 「はぁ?それこっちの台詞だし。雅彦、真琴と代わって!」 「るっさいわ!!」  叫んだ雅彦は持っていた缶を二人に向かって力一杯投げつけた。  タイタニックの二人は鈴木真琴と佐藤祐介。驚いたことに雅彦の秘書だった。博人はたんこぶを携えた二人を従えた雅彦に会場までの道を教えてもらった。 「博人」  会場に戻る途中博人は思いがけない人物に遭遇する。 「――父さん」 「あ、青木帰ってきた。何処行ってたのさ。」  博人が会場に戻ると千晶以外の秘書と美千代が集合していた。一番に博人を見つけた成人が声をかける。 「あ、すいません。お手洗いにいったら迷ってしまいまして…」 「あはは、なにしてんの。」 「はは…」 「なに、元気無いね。」 「え、そんなこと無いですよ。はは…ははは…」  数メートル離れた場所で接待をしていた千晶はそんな博人を流し見た。 ******  翌日、通常業務に戻った秘書課には、なにやら不穏な空気が立ちこめていた。 「青木、この書類問題外。誤字脱字多すぎ。とりあえず一通り見直してから再提出。」 「あ、すいません…」 「はあ、まあいいよ。コーヒーいれて。」 「はい…」  明らかに様子のおかしい博人に千晶はどうしたものかと考えあぐねていた。 「はい…」 「どうも。」  出されたコーヒーを口に運び、吹きだす。  しょっぱかった。 「ちょっとおまえこっち来い!!」  博人は副社長室に連行された。 「昨日何があったのか話してみろ。」 「何と言われましても…」  副社長室にはすぐに美千代と陽が呼ばれ、博人は四人と机を囲む形になった。 「俺だっておまえの個人的な問題に口を出すのはどうかと思ってたんだ。でもな、もうすでに仕事に支障が出てんだよ。」  左手で頬杖をつき、右手の人差し指でとんとんと机をたたく千晶は不機嫌そうに眉を寄せている。しかし博人にはそれが彼女の照れ隠しであることが分かっていた。心配をかけぬようにと黙っていたがこれでは意味がない。博人は重い口を開いた。 「実は昨日父に会い、隼人を、弟を跡取りにするつもりだと言われました。」 「継母は?」 「継母は来月フランスから帰国します。そうしたら、何か仕掛けてくるに違いありません。」  自分の息子に後を継がせたい継母にとって、血の繋がらない博人と隼人は邪魔者なのだ。彼女に執拗な嫌がらせを受け家を出た博人だが、素行の悪い隼人が標的になるとは思っていなかった。しかし、父が跡継ぎにしようというなら話は別だ。 「そうか」  千晶は顎に手をあてて思案する様子を見せると、陽を呼んで部屋の隅に移動した。  何か相談しだしたかと思うと陽が部屋から出ていく。千晶が席に戻ると陽もすぐに部屋に戻ってきた。 「OKだ。」   陽の言葉に頷くと千晶は言った。 「俺と光がおまえの弟の警護をしよう。」





 

十三日の金曜日

 ここは文武両道を掲げる秘書課。白鳥財閥の秘書課だ。 十三日の金曜日、秘書達は何やら怪しげな相談をしていた。 「さあ、十三日の金曜日です!社長を存分に怖がらせてあげましょう!」  青木博人君、大張り切り。  そうこれは、ジェイソンに便乗した社長リフレッシュ企画、日頃忙しくてストレスが溜まりまくっているであろう社長をサプライズなお化け屋敷で楽しませようという一大イベントなのだ。本当は博人のために新妻と引き離されてしまった副社長にも参加してもらいたかったのだが、彼は今千葉に出張中。そっちの会社の方が千晶が通う学校に近いのだ。 「さあ、お化けになりますよ!」 「ジェイソンじゃないの?」 「チェーンソーは危険ですから!」  バンッ 「リアルなマスクが完成したわよ!これさえあれば、病死に溺死、焼死に圧死と思いのままよ!」  マッドサイエンティスト明様登場。しかもマスク装着済み。 「さあ、マスクを被って持ち場について!社長がいつも帰るのは定時の5時間後です!みなさん持ち場に着いてください!」 「ィエッサーッ!」  博人の号令に先輩までもが従う愉快な秘書課ぜいであった。 ******  定時を大きく回った二十二時。  外は真っ暗。廊下も真っ暗。ぽつんと一部屋だけ明かりが灯るのは社長室。 「ああーっ!!終わったーっ!!」 「お疲れ、美千代。」  一日の仕事を終え、大きく背伸びをする美千代に第一秘書の陽は労いの言葉をかけ、癖のある髪に指を絡める。  彼らは高校時代からの親友で、二人でいるときは名前で呼びあっている。  社長室を出るとすぐ隣は秘書課になっていて、この時間になっても一人や二人残業していることもあるのだが、今日は二人が最後のようだ。  人気のない社内の空気は昼間とは異質のもので、それはさながら夜の学校、病院を思わせる。  廊下の空調はすでに切られており、じめっとしたなま暖かい空気が薄い布越しに肌にまとわりついた。  暗い廊下では非常口へと向かう人型が青緑色に浮き上がる。廊下の隅は黒く塗り固められたように、何も見えない。何もないのではないかとすら感じられた。  陽が動いた。闇に飲み込まれてしまう。  美千代がとっさに陽の腕を掴むと、同時に電気が付いた。  電気を付けようと動いただけなのに、美千代が怯えた小動物みたいに緊張したのが分かった。  しまったと思う。美千代は暗闇とか、オカルト関係が大の苦手なのだ。  明るくなった廊下で美千代は青白い顔をして陽の腕にしがみ付いていた。  次の瞬間弾かれたように腕を放すと、きまり悪そうに目を泳がせている。  愛おしいと思った。美千代のやり場の無くなった手を引き、よろけたところを抱きしめる。 「よ、陽!?」 「どこも行かないよ。」 「な、俺は別に――」  ガチガチに強ばる彼に回した腕に力込めると、腰がきゅーんとしなった。 「ちょ、ま…っ」  眉を寄せて居づらそうにするが、抵抗はされない。まあ、抵抗されても放す気など更々無いのだが。  そんなことを考えていると腕の中の彼が上目遣いに見つめてきた。 「…陽?」  あ、やばい。可愛い。  こめかみに唇で触れるとビクンと震えて肩をきゅっと掴んでくる。  サングラスが邪魔だな…。  陽は超絶美形だ。美形過ぎてサングラス無しでは仕事に支障が生じる程だ。つまりは男も女も群れてくるのだ。まあ、サングラスをかけている理由はそれだけではないのだが…。 ――そして、  美千代の顎に右手を添えて、素顔を近づける。美千代がぼっと顔を染めた。  例外無く彼も陽の顔に弱い。  うっわーっ!  こちらは秘書課サイド、博人君。  企画の提案者でもある彼は、ジェイソン(?)達に登場のタイミングを知らせるための連絡係だ。  社長と陽さんの仲の良さは知っていたがここまで来るとどうなんだ!?  僕だって隼人(弟)にふざけてデコチューぐらいするけど…、あれ?するのか、なら良いのか?有りなのか!  つまりは彼は混乱していた。 ******  電気をつけたり消したりしながら廊下を歩く。電気をつければ明るくなるが、蛍光灯の青白い光は、それはそれで気味が悪い。  気丈に振る舞う美千代の笑顔は心なしかひきつって見えて、手は微かに震えていた。  陽はその手をとって微笑み掛ける。美千代は眉を顰めてそっぽを向いてしまった。機嫌を損ねたわけではない。その証拠に、赤い耳がふわふわの髪から覗いている。  手を繋いで歩いていると、進行方向の暗がりから何やら呻き声が聞こえてきた。 「ま、窓でも開いてんのかぁ!?ったく、け、警備の奴はな、何をしてぬっ、してんだよ…お?」  強がりな美千代が怖いくせに先を歩いて暗がりにたどり着くと―― 「こちら青木、ターゲットがA地点に向かっています、どうぞ。」 「こちらA地点、準備は万端であります、どうぞ。」 「健闘を祈ります!」 「ぎゃ――――っ!!!」  木霊する絶叫。断末魔の叫び。  暗がりから飛び出してきたのは、頬の痩け、髪が疎らに残る老人達。青ざめた顔で、ぶつぶつと何やら呟いている。 「…まって、置いていかないで…。…苦しいよ、助けて…。」 「イ――ヤ――ッ!!!」  美千代そっちのけで走り出す陽、続いて逃げる美千代、二人を追いかける病死体。実に絵面がシュールだ。  病死体の一人が空を飛ぶ(ジャンプ)。 「うっわ…っ!」 「…捕まえた。」  美千代が捕まった。陽は美千代に捕まった。ジャンプした病死体が半ば美千代に覆い被さり。美千代の両手が陽のズボンの裾を掴んでいる状況だ。しかも他数体の病死体も這ってくる。 「放せ美千代!」 「嫌だ!俺を愛しているなら、ともに捕まれ!」 「おまえこそ俺を愛しているなら、その手を放せ!」   さっきまでの甘い空気は何処へやら。二人ともヘタレだからまぁあれだ、こうなる。  ふと、美千代の表情が変わった。真顔になったかと思うと焦ったように目を瞬き、青くなったり赤くなったりしている。 「…なっ、え!?…うっそ、や、やだ…、ヤメロヤメロヤメロ――っ!!」  病死体が美千代の股間をまさぐっていた。  陽の表情が豹変した。 「俺の美千代に何さらしてんだ――っ!!!」  ゲシゲシとおもいっきり蹴りを入れ、美千代を救出すると、電気もつけずに暗い廊下を駆けだした。  鈴木さん、悪のりしすぎです。  特別ゲストの鈴木真琴は容赦ない蹴りを食らった背中を押さえて呻いている。その隣では、同じく特別ゲストの佐藤悠介が声を殺して笑っていた。  この二人は友好関係を結んだ田中株式会社の秘書なのだが、白鳥財閥の秘書達に負けず劣らずノリノリである。  気を取り直して、博人は一つ咳払いをした。 「えー、こちら青木。ターゲットがA地点を突破しました、どうぞ。」 「こちらB地点、準備は万端であります、どうぞ。」 「健闘を祈ります!」  暗い廊下を突き進むと磯の香りがしてきた。立ち止まり、辺りを見渡す。お察しの通り、水死体の登場である。その姿はさながら半魚人のようで、キモい。 「ぎゃ――っ!!」  先ほどのことで懲りたのか、叫びつつも陽がすべての水死体を倒してしまった。  予想外の展開である。もっと社長を怖がらせたいのに…。  博人は考えた。そうだ、陽さんと引き離せば良いんだ! 「こちら青木。ターゲットB地点通過しました、どうぞ。」  「ええ!?早いんでないか?どうぞ。」 「早いです。よって、作戦を一部変更します。陽さんと社長を引き離します!!」  ほぼ手探り状態で廊下を歩く。社内がやけに広く感じた。 「あーもう、何なんだよ――(泣)。」  陽の服の裾を掴んだ美千代がぼやいている。お互いの存在が、少なからず恐怖を和らげてくれていた。――しかし、  突然前後から現れた焼死体の手により、二人はバラバラに引き裂かれてしまった。 「陽――っ!!」 「美千代――っ!!」  ベルバラ風。  陽はその場でロープでぐるぐる巻きにされた。  焼死体が覗いてきた。その顔はもはや直視するとこが拒まれる程醜悪で、焼け爛れた頬は黒ずみ、左の眼球は今にもこぼれ落ちそうだ。唇は無く、歯茎が剥き出しになっている。頭からは髪の毛の焼けた臭いがした。 「ぎゃ――――っ!!!」  陽が落ちた。 ****** 「こちら青木、社長と陽さんを引き離すことに成功しました。C地点の者数名と社長がそちらに向かっています、どうぞ。」 「こちらD地点、陽さんはどうしたんですか?どうぞ。」 「気絶しています、どうぞ。」 「ええ!?何したんですか!?」 「特には何もしていません。健闘を祈ります。」 「え!?あ、えぇ!?ちょっと青木さん!?」  気付くとそこはゴミ処理用のプレス機の前だった。  美千代を引きずり回していた焼死体共からは股間を思い切り蹴りあげて逃げてきた。 「――陽…」  陽はさっきの焼死体に捕まってしまったのだろうか。このまま陽が自分の元に帰って来なかったらどうしよう。…そんなこと、耐えられない!陽を助けなければ!!  一大決心をしてもと来た廊下を振り返る美千代。鼻先が触れるかという距離に圧死体が立っていた。 「ぎゃ――――っ!!!」  心が折れそうになった。 「こちらD地点社長がもと来た道を猛スピードで逆走中です、どうぞ。」 「ええ!?なんで!?ヘタレなのに!」 「――青木さん…。」 「て、ああ!?もう来ちゃったよ、社長!」  暗闇の中をひたすら走った。  怖くない怖くない怖くない怖い怖い怖い怖い――っ!!  やっとの思いで陽と引き離された場所にたどり着くと、美千代はショックで意識が飛びかけた。  陽はいたのだ。しかしその体は太いロープでぐるぐる巻きにされ、床に横たわっている。 「よ、陽に何をした!!?」 「いや、別に何もしてません…って、うわっ!?」 「陽を返せ―――っ!!」  自棄になった美千代が殴りかかってきた。だがしかし、そこは文武両道を掲げる秘書、一発だって当たりはしない。 「よけんな!」 「よけますよ!」  よけるよける、よけまくる。でも攻撃はしない。だって相手は社長だから。  なんだか周りが騒がしい。意識を取り戻した陽は、薄目を開けて辺りを窺う。  何だこの状況は!美千代が泣きながらも死体達に賢明に立ち向かっていた。陽の名前を叫びながら。  美千代…っ!!おまえって奴は…っ!!  感動しつつも、陽は妙なことに気が付いた。死の穢れを感じないことに。陽は実は強い霊感の持ち主で、寺で修行までしたことまである。そんな彼に死体か生体かの区別がつかない筈は無い。根がへたれなために驚いて冷静な判断ができなかっただけなのだ。 「わーっ!!すみませんっ、話せば分かる!話せば分かる!」  死体が叫んだ。なんかどっかで聞いた声だな。――って、こいつは…  陽は腹筋のみで上体を起こし、美千代と相対している死体に向かって言った。 「青木さん!どういう事か説明してください。」  美千代の動きが止まった。死体共が固まった。 「…青木?」 「…はーい。」  マスクをとると、秘書、青木が現れた。他の死体達もマスクを外す。どれもかれも見知った顔だった。ってか、なんで鈴木や佐藤までいるんだよ。  美千代は廊下にへたれこんで口をわなわなさせた。 「ええっとですね。最近社長、忙しくてストレス溜まってるんじゃないかな~とか思ってですね…、十三日の金曜日だし、みんなで社長を驚かせてリフレッシュしてもらおうと思ったんですけど…」  そこまで言い、しばし間を置くと、青木はひどく申し訳なさそうに続けた。 「…お二人の反応が余りにも良かったので、悪のりしてしまって…。別にお二人を引き離すまでしなくても良かったはずなんですけど…、楽しくて…つい…。――悪のりしてすみませんでした!!すべては現場の指揮を任せられた僕の責任です!!」  スライディング土下座、キタ――――ッ!!!博人捨て身! 「そんなっ!青木さんだけの責任じゃありませんよ!」 「僕たちみんなで計画したんじゃない!」 「俺たちみんなの責任だろ!!」 「本当にすみませんでした――っ!!」  鈴木・佐藤以外の秘書等全員スライディング土下座、キタ―――ッ!!! 「み、みなさん…っ!」  うるっとくる青木。 「――なんだよ、それはぁ…」  陽は、同僚の一人にロープを解かせると、ふさぎ込んでしまった美千代に近づいていった。 「美千代、どうする?許すか?」 「…陽。」  顔を上げた美千代の濡れた目尻を拭ってやる。 「ほら、もう泣くな。」  いつもだったら美千代が陽に抱きつく場面だが今日は違った。何しろ周りを秘書達に囲まれているのだから… 「う、うるさい!!泣いてなんかいない!!」  そう言って走って行ってしまった。  陽が美千代が去っていった方向を見つめたまま固まっていると、ぽんと肩を叩く者がいた。 「これ、よろしければ差し上げますよ。」  そう言って鈴木は病死体マスクを差し出した。  勢いで飛び出した美千代だったが、割と近くで立ち往生していた。一人で先に進むのは怖い。だが、だからといって今更戻ることはできない。 「――っつうか陽はなんで追ってこないんだよ…っ!!」  数分の時間を永遠にも感じていると、ふいに声をかけられた。 「美千代。」 「陽!!」  それは確かに陽の声だった。なのに振り向いた先に立っていたのは―――病死体。 「ぎゃ――――っ!!!」  美千代が落ちた。





 

華麗なる秘書達の遊び

 部屋に粘着質な音が響く。  白鳥財閥社長第一秘書の陽は、机の下に潜り込み、社長、白鳥美千代に奉仕していた。 「…ふあ、ん――や、ん…あ、だめ」 「何が」  起立したそれを指先から手の平でやわやわと包み込み、そっと解してやる。 「だって、――あ、今、…仕事っんン…中っ」  わずかな刺激にも敏感に反応する身体に、なおも微妙な刺激を与え続ける。筋をツツツとなで上げ、人差し指と親指作った輪で数回抜く。すべてタッチはソフトだ。焦れったそうに、美千代の腰が震える。 「昼休み。休み時間くらい休みなよ。」  あふれ出す白濁色の液体を、こぼれ落ちないように竿を舐めあげれば、一声扇状的な悲鳴を上げて、手の中の体積が増した。 「…あぁ…っ、これ、休んで…、な、い、ああぁっ」 「美千代、可愛い。」  先端を親指の腹で軽く擦る。そこからあふれる粘着性のある液のせいで、擦るというより、滑るという感じだ。  美千代の手が前に来て、陽の手を掴もうとして引っ込む。 「焦れったい?」 「……っ!」  意地の悪い問いかけも今は耳への愛撫に他ならず、その吐息は直接美千代の急所を刺激した。 「でも美千代、焦れったいの好きだろ。」  陽は意地悪く笑い、密壺を擦る力をやや強くする。 「あ、ああっ、あ…っ!」  美千代の腰が揺れてきたところで手を離す。 「…え…、な、に」  陽はベルトを外し、すでにそそり立っている自身を取り出すと、美千代の手を引き椅子から引きずり下ろし、自分の腰を跨がせる。自身の熱い固まりと美千代のそれとがぶつかり合った。 「…あっ」  美千代が小さく吐息を漏らす。 「だめ、美千代。今日は焦らして焦らして焦らしまくって、可愛いおまえを見ていたいんだ。」  美千代の頬を両手で包み、額と鼻先が触れ合うほどの近距離で囁く。しかしキスはしない。なぜなら美千代がそれを欲しがっているから。  陽は片足を美千代の腿の上に回し、胡座を掻くように絡める。下半身の密着度が増した。 「――ひゃんっ」  既に絶頂の近い美千代は自身を震わせて陽にすがりつく。しかし陽は無情にもその肩を押し、距離をとると、そのまま手をスライドさせ、わき腹を往復させ、ピンクに色づく突起の先端をつついた。 「あっ、んっ、やっ」  ちょんちょんと一定のリズムでつつかれる。  有るか無いかの刺激に美千代が切なそうな表情を見せた。 「――それ、やだ」 「贅沢。」  言うと同時につついていたそれに軽く爪を立てる。 「――あん…っ」  四本の指と手のひらで美千代の上半身を支え、親指の先で突起をなぶりながら腰を動かした。 「ひぁああン…っ、あ、あぁ…っ、――あンッ」  今日初めて与えられたまともな刺激に、美千代は目眩を覚えた。 「…あぁっ、もう、…イっちゃ――ひぁっ!」  イくと思った瞬間その手は突き放す。迎えられるはずだった絶頂を迎えることができずに、美千代が苦しげに眉を寄せた。 「俺も一緒にイきたい。分かる?これじゃ美千代だけ先にイっちゃうでしょ。」  陽は、美千代に噛んで聞かせるように殊更穏やかに囁く。  しがみついている美千代の手を引き剥がし、陽の自身を握らせる。  美千代は促されるままにそれに指を絡める。しかし、これがなかなかうまくいかない。  陽の身を擦れば、自然、密着した自身にも刺激がいってしまうのだ。 「あ、…ン。――んあっ」  陽に奉仕しているはずが、どうしても自分の口から声が漏れてしまう。  陽も陽で、感じた素振りを見せては腰をすり合わせ、美千代を挑発する。陽が動く度にクチュクチュいう水音がして、その音もが美千代を高ぶらせた。 「ダメだよ美千代、俺は茎裏が弱いんだから。」  そう言って陽は自身の茎裏を擦った。それは、美千代のそれを擦ることと同じだ。 「――ぁああああ…っ」  美千代が背を大きく仰け反らせた。  その勢いのまま陽が美千代に覆い被さる。  手の中にある自分と、美千代の熱を強く抜き、一気に追い上げる。 「――っああ…っ」  二人は同時に果てた。 「何してるんですか、皆さん。」 「――盗聴。」  秘書達がみんな社長室の壁に紙コップを当てているのを見た博人は、今日また、新しい遊びが秘書課に生まれたことを知った。





 

ロリチック

 森のように配置された木々を割る遊歩道は、三十歩ごとに中世のガス灯に見立てた電灯が配置されている。強すぎる夏の日差しは緑のカーテンを抜けて、優しい緑の光になる。  森を抜ければ、目の前にはファンシーな木造の一軒家。何がファンシーかって?壁の色がファンシーなのだ。玄関の戸やテラス、窓枠はこげ茶。壁に組まれた木の板は全てパステルカラーに塗られている。その家の前にレトロ・シトロエンが停まる。降りてきたのはその家にも、車にも似つかわしくない、黒服の紳士だ。  男は木造の低い階段を三段上がり、ハート形の小窓のついた戸の前に立つ。戸の横の壁に取り付けられた電灯は、赤地に黄色の水玉がちりばめられた、黄緑色の淵の傘をきて、甘酸っぱい苺を思わせる。二股のそれの細かな装飾はロココ調。  戸の窓の向こうの白いレースのカーテンは清楚。その下の、窓とお揃いのハートのドアノックを手に取り、コンコンコンとノックする。  返事を待たずに踊り場に踏み入れる。左手の壁には板を張り付けただけの棚。そこに飾られたピンクの絵の具が塗られた瓶と、それに活けられたピンクのガーベラ。  右手の壁は階段の横面で、パッチワークの布で覆われた階段下収納の戸はの持ち手には、花の切り絵のラベルを貼った、小瓶の電飾が三つ下がっている。  靴を脱ぎ、花をモチーフにした編み物のマットを踏んで中に入れば、壁に並べられたロックウェルの絵が迎えてくれた。  壁と階段で仕切られた廊下を抜けて、広い空間に出ると、そこもやはりメルヘンな世界。  部屋の中心には、玄関マットと同じ様式のラグが敷かれ、その上にモザイクタイルで中央を飾った白い机と、白銀で編まれた籠のような椅子が四つ、綿毛のようなクッションを敷いて置かれている。  左手にはアリスの物語に出ていそうな、うねった輪郭の家具たちが。スカイブルーのクローゼットに、赤いボックス型のドレッサー、オレンジの箪笥。その上には、ネックレスを掛けた、首のない、蔦の胸までのマネキンや、ブレスレットを首に下げた水色の木馬があって。白い本棚の前には赤いカートが置いてあって、すぐに読む分だけの本が収められている。  そのほかにも、フィンランドの子供部屋に見られるような、グレーの地に白抜きの大樹と緑やピンクの葉を描いた壁には帽子や鞄を掛ける用のポップな色のボールが付いたフックが取り付けられていたり、赤い胴体に緑の足をした木馬に手作りらしい女の子のぬいぐるみが座っていたりするし、正面の窓のそばには、白いエレクトーンが置かれていた。  右手には階段があって、その向こうに大きなソファのような形のベティッドが居座る。木の骨組みは緩やかな曲線を持つ瓶形。その上に置かているのはハートや花の形のパッチワークのクッション。それからたくさんのぬいぐるみ。紫の胴体に、白地に茶のドットのお腹が右寄りについていて、両手と右足、左耳は黒いけど先は紫、左足と右耳は白地に茶のドットで、顔の右半分が茶のドットで左半分が紫のウサギのぬいぐるみ。それと同じ割合で布を使った、メロン色と黒と茶のボーダーでできたネズミ。  ベッドの横のナイトスタンドは、カラフルなドットの白い服の上にオフホワイトの傘の帽子を被せてあって、傘の茶色い篝縫いの淵から下がる薄紫のリボンとその先にかかる虹色の蝶々、ピンクとクリームのマーブルの足が魅力的な春先の少女の様。  ベッド横の出窓には、頭に二つのベルが乗った黄緑色の目覚まし時計とカラフルな糸がまかれたボールが五つ入った丸いボールの形のライト。電源を入れると中のボールの一つ一つが光って華やかな明かりを灯すのだ。そして天井には蝋燭を模したシャンデリアが。アメリカには蛍光色のケーキがあるが、そんな感じの食べるのは躊躇われるが見る分には明るくポップで、心を楽しませてくれる、そんな電灯だ。  しかし、今はまだ日が高く、色とりどりの草花や小鳥の影を透かし縫いにしたカーテンを、強い日差しが通りぬけて、室内に侵入する。正面のバルコニーへ続く大きな窓からの光も相まって、部屋と家具を明るく映し出していた。  出窓と同じカーテンを引いて戸を開ける。渋い緑の蛙の長靴はサイズが小さくて入らない。男は苺柄のガーデニングシューズをひっかけて、表に出る。木の柱から蔓のボールを斜めに切ったみたいな椅子がぶら下がっている。  銀の如雨露をとって外水道から水をくむ。蝶ネクタイをした木彫りの熊の外水道には、飲む用と手洗い用、足を洗う用の三つの蛇口が付いていた。  その如雨露で水をやるのはリンゴンベリードリンクパックに、海外のポテトチップや野菜チップの空き袋を鉢カバー代わりにアレンジした、リトルコンテナガーデンだ。  男はここの主ではない。しかし、この空間のすべてが男の理想でできていた。  私の造った、私の城。  ――しかし、それも今日までだ。  室内を振り返る男の表情は逆光でかげになっていた。 ******  社長室に呼ばれた青木博人は、社長・白鳥美千代と、社長秘書・陽と対面する。  呼ばれた理由は弟・隼人のためのボディーガード要請についてだ。 「お前の給料では、千晶と光は雇えない。」 「そうですよね…」  ボディーガードを普通に雇覆うのにしたって、相当の金が掛るのだろうに、人間離れした二人を正規で雇うとしたらどれ程の金が必要か。その上、二人の職業を考えれば、想像の額も上がる。 「借金…ですか?」  家出人の隼人には思いつくのはそれくらいしか無かった。前途を思い、表情を曇らせる隼人。 「いいや、仕事を増やす。」  そんな隼人に美千代は軽く言い放つ。 「一週間後から住み込みだ!」  白鳥家は博人の想像を軽く飛び越える豪邸だった。バラ園や噴水のある、整備の行き届いた庭は広く、徒歩での移動は困難に思われた。  白鳥財閥秘書課の一行は、GRELLのT603に乗って目的の場所に向かう。大型ボディに小さいフロントノーズの白と青のツートンの高級車だ。  前方に城のような建物が見えたが、車はそこには向かわず、迂回する。裏には、表とはまた違った雰囲気の壮大な庭が広がっていた。自然の色の濃い土の道に車が小さく揺られるが、程よいクッションでカバーされる。少し行くと、木々の隙間から四つの家が見えてきた。  一つは、黄色の土壁に、オレンジの屋根と窓枠の異国情緒たっぷりの家。  一つは黒い瓦屋根にダークグレーの木造の壁の、作りは近代的なのに、どこか懐かしい和の空気の漂う家。  一つは、ネズミの国のトゥーンタウンにあるような、玩具みたいにポップな家。  一つは、玄関の戸やテラス、窓枠はこげ茶。壁に組まれた木の板は全てパステルカラーに塗られたメルヘンな家。 「オレンジのが俺の家で、黒いのが陽の家。玩具みたいのが昇の家で、パステルカラーのは千晶の家だ。」 「立派な本館があるのに、個人の家が同じ敷地内にあるなんて、お金持ちの感覚っておかしいよねー。」 「ナル。」  美千代の説明にちゃちゃを入れる成人を態が窘めた。 「俺もそう思う。」 「テンテン。」  成人に同調したテンテンをこんどは高志が窘める。 「でも、確かに不思議ですよね。何か理由があるんですか?」 「自立のためだと言って、俺と昇は高校の時に建てたんだ。陽と千晶はその流れで何となく。」 「何となく…」  やはり金持ちの思考は良く分からなかった。  千晶の家の前にはすでにカーブを駆使した可愛らしいフォルムの小型車が置かれていた。T603はその隣につける。  一行が車から降りるとすぐに家の中から黒服の男が出迎えた。このメルヘンな家には似合わない、渋い美中年だ。 「お待ち申し上げておりました。」 「隆正。紹介しよう。今日からここに住む青木博人だ。青木、こっちは執事長の安部隆正だ。」 「よろしくお願いします。」 「こちらこそよろしくお願いいたします。」  美千代に紹介され、頭を下げ挨拶し合うが、顔を上げた隼人は隆正の恨めし気な表情に気が付いた。 「そうですか…貴方が…」 「あ、あの。安部さん?」  何か粗相をしたかと、慌てたが、理由を聞く前に美千代に呼ばれてそれは叶わなかった。  通されたのは、メルヘンな家に隣接する十畳ほどの小屋。家の雰囲気を壊さない、白い木造の外観に、中は作り付けのベッドがドアと窓付きの壁で仕切られた子供部屋のような作りになっていた。 「最低限必要な家具も用意しておいた。おまえ、ここに住め。で、それだけで良い。」 「え!?」  声を上げたのは隼人と、そして隆正。 「なんでお前まで声を上げる?」  美千代が聞くと、隆正は大げさに両手を振った。 「い、いえ。てっきり彼に、この家の管理を一任するものと思っていましたので…」 「そうして欲しいのか?」 「滅相もございません!」  分かっていて聞く美千代は意地悪だ。隆正は勢いよく否定する。 「管理は今まで通りお前に任せる。こいつは外に向けた千様の護衛として、便宜上ここに住まわせるだけだ。仕事を増やして秘書の方に支障が出たら困るしな。」 「そうですか。」 「なんだ、そんなことを気にしていたのか。」  そういった隆正の顔は付き物が落ちたように穏やかで、美千代はにっこり笑って、その肩を叩き、励ました。 「そ・ん・な・こ・と・よ・り」  楽しそうに話に割って入ってきたのはカバーの掛った衣装を持った成人。 「ああ、そうだった。」  彼は社長の反応を見て、博人に向き合うと、効果音付きでそのカバーを外した。 「じゃーん!青木にはこれを着てもらいまーす!」  出てきたのはハンガリー風ゴスロリ服だ。  贅沢にたっぷりの布でドレープの付いた、落ち着いた緑の衣装は、暖色のフリルやリボンで飾られていた。 「僕みたいにスレンダーで可愛いなら良いけど、青木じゃあ、これくらい体型の誤魔化せる服じゃなくちゃねえ。」 「すまん。俺が甘やかしたばっかりに。」  こんなところでナルシストを発揮する成人の代わりに謝る態。保護者乙。 「いや、というかそれ、なに…?えっ!?ぼく、それ着るんですか!?」 「そりゃそうでしょ、千様の侍女なわけだから。嘘でも女の人でないと。」 「あーれー…」  抵抗する間もなく博人は成人に連れ去られた。  博人たちが戻ってくるまで陽の家で待つことにする。 「いやー、やっぱりここが一番落ち着くな。」 「和って良いよね。」  美千代に応える陽は心なしか口調まで和んでいた。  日本茶を飲みながら十円饅頭を食べ、くつろいでいると、二人が帰って来た。 「お菓子食べてる!ずるい!」 「あー、もう。お前の分もちゃんとあるから。――と、なんだ。青木、見れるじゃないか。」 「当たり前でしょー。僕がプロデュースしたんだから。」  成人に菓子を与えつつ言う態に、成人が得意げになるのも無理はない。  例の衣装に身を包み、ウィッグをつけて、化粧も完璧にした博人は女にしか見えなかった。 「へぇ、可愛いじゃん。」 「これなら大丈夫ですね。」  テンテンや高志に可愛いと言われても素直に喜べない。  曖昧に笑う博人に隆正が右手を差し出した。 「改めて、これから宜しくお願い致します。」 「はい、こちらこそ!」  握手を交わす二人に、先ほどまでの剣呑な空気は影も形もなかった。  美千代「そうそう、風呂と食事は俺らと一緒に本館でな。それで衣食住困らないだろう。と、言う訳で来月からお前の給料取り分二千円な。」  博人「わーお、中学生のお小遣い…。」





 

ケモ耳尻尾

 白鳥財閥の秘書達は知力・体力ともに優れていなければ務まらない。知力はともかく、体力は、使わなければ衰えていく。  秘書の仕事は基本的にデスクワークがほとんど。そんな中、彼らはどうやってその力を維持しているのか。  彼らの中で一番華奢で戦闘力の無さそうな石松成人をモデルに見てみよう。  まず、高速でキーを打つ指先。全部の指に銀の指輪が嵌められているが、総重量が20キロある。  次に足元、澄ました顔で業務をこなすが、常に両足が交互に上げ下げされている。その甲にはダンベル。こちらも総重20キロ。足に固定する式でなく、わざわざダンベルのように不安定なものを使用しているのは、同時にバランス力を鍛えるためである。  最後に、白鳥財閥が誇る化学班の開発した高性能ギブス。軽くて薄い下着感覚で着ることができるのに、何をするにも二倍の負荷がかかるという優れものだ。ただし、着脱に手間がかかるので、とっさの戦闘時に脱げないのが難点。 「秘書課のみなさん。グッドニュースよ!」  元来の可愛らしい声に過剰に色気をプラスして入ってきたダイナマイトボディは彼の化学班期待の新人・愛場明。人は彼女を「明様」と呼ぶ。 「明様、どうしたんですか?」 「なに、なに?明様、何が良いこと?」 「なんだ、なんだ!」  一番に反応したのは、入口に一番近い青木博人と好奇心旺盛な石松成人とテンテンだ。 「新しいギブスが…、いいえ。万能ブレスレットができたのよ!」 「万能ブレスレット?」  秘書課一同が明を取り囲む。  天宮高志の背中にしな垂れかかったテンテンが、うーんと唸った。 「名前がダサいな。Tout-puissant bracelet!」 「何語ですか?」  発音良く横文字を使うテンテンに博人が尋ねる。 「フランス語。オシャレかと思って。」  すると、成人が指をちっちと振った。 「いや、そこはAllmachtig Armband でしょ。」 「何語ですか?」 「ドイツ語。強そうかと思って。」  姿、行動、ともに女らしいのに、こういう時は男らしい。 「分かりづらいし。長いので、万能ブレスレットで良いと思います。」  二人の案をバッサリ切り捨てた博人に、成人が目を眇める。 「言うようになったね。」 「すみません。」 「ううん。良い感じ。」  ニィと笑った彼の頭を大きな手が掴んで引き寄せた。成人がキョトンと手の主を見上げて頬を赤らめ、嬉しそうに微笑む。  当の手の主の石井態は、博人を見て、バツの悪そうな顔をした。どうやら嫉妬されてしまったらしい。  態は咳払いをして、明に尋ねる。 「で、それはどうやって使うんだ?」 「青木。着けてみて。」  明は博人にブレスレットの一つを差し出した。 「え、はい。」 「腕を振って。」 「こうですか?」  ブンと腕を振るが反応なし。 「そんなんじゃダメよ。これ以上無いってくらい思いっきり振って。」 「うおぉぉ!」  すると、ブレスレットからパッと扇状の光のパネルが現れる。  おお、と感嘆の声が漏れた。 「そこに洋服のマークがあるでしょう。それを選択するだけでギブスの着脱が可能なのよ。でも、今は従来のギブスを着用してるでしょうから、それは保留で。他のどれでもいいから選んでみて。」 「この矛のマークは?」 「それを選択すると、各人の身体的特徴を読み取って、一番適当な武器を出してくれるのよ。」  さっそく矛を選択すると、ブレスレットがパッと散って、粒子が棒状に集まっていく。 「…竹刀だ。」 「日本だから竹刀なのね。銃刀法の無い国なら、日本刀あたり出てくるんじゃないかしら。」 「どうなってるんだ、これ。」  態の疑問に明がすらすらと答える。 「ブレスレット自体が特殊な物質でできていて、その物質が分子レベルに分解されて、再構成されるのよ。質量に限りがあるから、二つ以上の物を同時に出すことはできないわ。盾を選択してみて。」  すると、透明の円版が現れた。 「その盾は何であろうと弾き返すわ。」 「矛は?」  これは成人の質問。 「『矛と盾』じゃないもの。それで出した武器だって、その盾には勝てないわ。盾の方が密度が高いの。」 「はあー…」 「ふえー…」  化学班の能力は未知数だ。 『電話ですよ。俺が直々に知らせてあげているのですから、さっさと出たらいかがですか。』  「はい、もしもし。」  アイドルTELの着ボイスが場を硬直させ、澄ました顔で社長第一秘書の陽が応答した。 (着ボイス弟かよ) (外で鳴ったらどうするんだろう) 「ああ、照?――うん。うん。――ええ!?」  対応する彼は表情を一変させると、社長白鳥美千代の袖を引く。 「ちょっと待ってて。――美千代。」 「?」 「照が、ドッキリ企画で、怪我したって。」 「それで?」 「今日の、うちの新商品のポスター撮影に出られないって。」  陽の言葉に秘書達がざわつく。 「えっ…、それって、あの、カメラマンに大御所を呼んだ奴ですよね。変更効くんですか!?」  博人の言葉に美千代が首を横に振った。 「効かないな。」 「今から変わりのモデルを探すわけにもいかないし…。」  悩ましげに呟く陽の肩にぽんと手を置いて美千代が言う。 「陽。お前がやれ。」  美千代の言葉に陽と成人以外の顔がぱあっと華やぐ。 「ああ!その手がありましたか!」  我らが第一秘書陽さんはTELの双子の兄。今だその素顔を見たことは無いが、瓜二つとの話である。 「でも、それじゃ、こっちの仕事が…」 「そうだよ。ただでさえ人手が足りないのに。」 「待て、俺に心当たりがあるから。」  渋る陽と反対する成人を美千代が制し、どこかに電話をかけ始めた。  「陽さん、陽さん、弟さんどうやって怪我したんですか?」  博人が尋ねた。当然、他の秘書も興味津々だ。 「それが、NGの二人が局に入ってきたところを、屈強な男どもで取り囲んで、引き離して、もみくちゃにするってドッキリだったらしいんですけど。」 「それは、また壮絶な…」 「二人が手を繋いで離れなくて。」 「ああ、SINの方、TELにぞっこんですもんね。」 「いや、お互いに放さなかったらしいです。二人とも手首に手の形の痣が残ったそうですから。」 「手形が残るほどの力で掴んでたんですか!?」 「相当怖かったんでしょうね…。それほどの力で掴まなくちゃいけないほどの力で引きはがされそうになったわけですが。」 「ああ、逆に言えばそうですね。」 「それで、肩が抜けました。」 「う、わー…」  怪我の経緯に驚くやら、あきれるやら。そこに丁度いいタイミングで、通話を終えた美千代が帰って来た。 「おい。連絡取れたぞ。今から、助っ人がこっちに来るから。」 「あら、じゃあ、ブレスレットももう一つ用意しないとね。」 ******  コン・コン・コン 「すみません。」  入室するのに、ノックをするのは社外の者に他なららない。  秘書課一同新入生を歓迎する心の準備は万端だ。  しかし、入口に一番近い博人が扉を開けると、入ってきたのは 「犬!?」  大きなグレイッシュのリアルアフロ犬だ。さすがにこれは想定していなかった。 「犬ではありませんクロイツという名前があります。黒のラブラドールレトリーバーとビジョン・フリーゼのハーフです。」  犬の後から声がするが、扉が邪魔で博人からは見えない。犬が助っ人な訳はないから、きっと声の主がそうなのだろう。  一匹と一人が動き、完全に部屋に入ることで、ようやく博人もその姿を見ることができた。 「小学生!?」 「中学生です。」  その姿はまだ幼い。思わず声を上げると、神経質そうにアンダーフレームのメガネの位置を直して、睨まれてしまった。 「中学生働かせて大丈夫なんですか?」 「何言ってるんだ。遊びに来た子供にお小遣いをくれてやるだけじゃないか。」  高志の当然の疑問に美千代が肩をすくめて答える。 「しゃちょー悪―っ」 「ヒューヒュー」  はやし立てる成人とテンテンを、それぞれの保護者(態と高志)が小突いて黙らせた。 「小栗洵と申します。中学三年です。小学生ではなく。」  少年はそう言ってきっちり45度に上体を折、きっちり三秒間のおじぎをした。  中三で小学生と間違えられたら怒って当然か。千様を初めて見た時も小学生と間違った。彼女は怒らなかったが、失敗がまったく効いていない。 「グルゥゥウ…っ」  クロイツが態に向かって低いうなり声をあげた。 「なあ、この犬、クロイツだっけ?さっきから俺に向かって唸ってるんだが…」 「ああ、それはタイが小栗の好きなガチムチ系だからだろう。」 「言うほどムサくないですよ。」  美千代の言葉に、態が心外だと顔を顰める。 「そうだな。それぐらいが正に小栗の好みだ。」 「誤解を招く発言は控えていただけますか。僕は単に彼のような体育会系の男性に憧れているだけです。」 「あー、はいはい。」  ムッとした洵に美千代が二度返事すれば彼はさらに不機嫌になる。敬語は硬いがその表情は年相応に幼く見えた。 「二回言うのは止めてください。バカにされているようで、不愉快です。」 「ごめんごめん。してないしてない。」 「美千代。」  それでも止めない美千代を陽が窘めた。  成人がクロをまじまじと見つめている。 「ふーん。じゃあ、この子は龍之介が熊に取られちゃうかもしれないって、嫉妬してるんだー?」 「龍之介?」 「だって、○栗旬てっゆうか神○隆之介に似てるじゃない。」  成人の言葉に改めて彼を視てみれば、人を小馬鹿にするように目が眇められているが、地の顔はくりくり目で案外可愛いかもしれない。 「お前は、また人に変なあだ名つけて。」 「変じゃないよ。熊だって可愛いよ。」 「ワンッワンッ!」 「うわあ!」  クロイツが吠えて態が大きな体を縮ませる。  彼が体に似合わず小心者と言う訳ではけしてない。牙をむき出しにして吠えるクロイツがそれだけ迫力なのだ。アフロ犬のくせに。 「これじゃ仕事になりませんね。」  テンテンを半ば背負ったままの状態で高志が呟くと、美千代がまた不思議なことを言い出した。 「とりあえず人型になってくれないか?」 「え、でも…」 「大丈夫あれも人じゃないから。」  そう言って指したのはテンテンだ。 「天使様に向かってあれとは失礼な。」 「すみません。」  目を眇めたテンテンに美千代に代わって陽が謝った。 「天使…」  洵は確かめるようにつぶやくと、クロイツ、と短く名前を呼んだ。  すると、クロイツの周りの次元が変わったかのように姿を捉えることができなくなる。その空間は縦長に変容していき、徐々に人の形に整えられていく。最後に現れたのは、ラテン顔の日本人あるいは日本人顔のラテン系と言えばいいのだろうか。細かいカールから、毛先にかけて緩いウェーブに変わる髪と、瞳がダークグレーの、堀の深い色男だ。  しかも犬耳尻尾付き。 「え、何!どういうこと!?」  驚く秘書達に洵が説明してくれる。 「すべての動物が種を超えた会合を開くために代表を選出します。そして、会合時はすべての種が人型を取ります。書記や、場所、その他もろもろ都合が良いので。そして、クロイツは犬の代表の外交ワンなのです。」 「犬耳尻尾は隠せないんですか?」  高志の疑問にクロイツが答える。 「隠す気になれば隠せるが、あるものを無くすのは結構面倒なんだ。耳は、尻尾だけじゃバランスが悪いと思ってな。」  その声も明様に負けず艶っぽい。  クロイツはもとから近かった態との距離をゼロにして凄む。 「洵は俺のだからな。」  すると、成人が二人の間に無理やりに入り込んだ。 「熊は僕のだからな。」 「…なんだ。そうか。」  クロイツは毒気が抜けたように態から離れた。 「社長はクロイツがいるから、小栗を助っ人に呼んだんですか?」  解放された態が、はぁ、と息をつき、その気の抜けた口調のまま聞いた。 「それもあるが、小栗自体、情報処理の能力はあるし、何より、動物と話ができる。」  美千代が洵に視線を投げると、彼はまた、メガネの蔓を持って位置をなおし、にっと笑って言った。 「僕もまた外交人なんですよ。」  バンッ! 「うわぁっ!」  扉が突然開き、ぎりぎりで接触しなかった洵が驚きの声を上げる。 「あら、貴方たち。こんな入口の前で団子になって、立ち話?」 「明様!」  闖入者明は洵とクロイツを見比べ、手にしたシルバーのブレスをくるっと回した。 「で、このブレスレットはどっちに渡せばいいのかしら?」 「もうできたんですか?」 「ええ、ベースはできているから。」 「小栗、このブレスレットをつけて、腕を振ってみろ。」  美千代に促され、手にしたブレスを振ると、例の扇状の光パネルが現れた。 「ミィ君に言われて、反応する腕を振る速度レベルを下げたのよ。」 「矛のマークを選択してみろ。」  そうして促されるままに出した武器は… 「犬用のリード…」  明様、これじゃあ、武器になりませんよ……





 

合コン連敗記録更新

「よーし、今日こそは成功させるぞ!」 「お持ち帰りするぞ!」 「おい、渡部がこれねぇって!」 「な、なにぃ!?」  ******  外は暑いが、課内は空調で過ごしやすい室温に保たれている。夏の強い日差しもレースのカーテンで調節されて、クッションの効いたソファに座れば、たちまち力が抜けて、ほうっと息をついてしまう。そんな昼休みのことである。 「NGのライブ!?」  ここは文武両道を掲げる白鳥財閥の秘書課、みんな仲良し秘書課だ。  社長、白鳥美千代は短冊状の紙を二枚ちらつかせる。 「次の日曜、特等席だ。これを景品にゲームをしようと思う。」 「TELの怪我は大丈夫なんですか?」  NGというアイドルユニットの片割れである彼がドッキリ企画で負傷したのは、先週の土曜だったはずだ。 「ああ、あれただの脱臼だから。歌は歌えるんだ。でも、パフォーマンスに支障が出るからチケット代半分払い戻すって。人気でなかなかチケット取れないもんだから、中止ってわけにもいかなかったらしい。」 「ああ、痛々しい。けど、そんな貴重なもの景品にして良いんですか?」 「ああ、昇と千晶と明の都合がつかなくてな。早朝ライブだ。で、俺と陽はチケット持ってるから、親睦を深める目的として一人は小栗が行くとして、後二人、勝ち抜いた奴は俺たちと一日デートだ。」  そう言って、美千代はにいっと白い歯を覗かせた。  昇は副社長、千晶は副社長第一秘書、俺たちは社長と社長第一秘書の陽のことだ。  普通なら休日に上司の接待なんてと思うだろうが、社長の直属のここ秘書課では誰もそんなことは思わない。社長と秘書は上司と部下であり友人なのだ。言うなれば浜ちゃんとスーさんだ。  しかも、秘書課は全員が全員、アイドルユニットNGのファンなのである。これについてはTELの兄である陽の影響が大きい。  そういう訳で、秘書達は皆ゲームに乗り気だ。 「ゲームはこのゲームボックスで決める、陽。」  陽が30センチ四方の透明の箱を持って来た。中にはカラフルなゴムボールがごろごろ入っている。 「俺が引いたボールに書かれているゲームで勝負してもらう。ちなみにこれを作ったのは明だ。」 「エ。」  明とは研究室に所属しているマッドサイエンティストで、時折とんでもないことをしでかす要注意人物である。  秘書達は一気に不安にかられる。  美千代がボールを引いた。美千代と陽が確認をする。  イかせたもん勝ち!抜きっこバトル!!  パンッ  陽がカラーボールを破裂させた。  陽以外の者が皆心臓を縮ませる。いったい何が書いてあったというのだ。  美千代が咳払いを一つして仕切り直す。 「ええ、今のは無かったことにして――」  引いたボールを確認し、陽と美千代が頷き合う。 「ドキッ!男だらけの野球拳大会!!」  陽が声高らかにゲーム名を発表した。 ******  で、見事勝ち抜いた青木博人と天宮高志は待ち合わせと言えばここ!ハチ公前で陽と美千代と小栗洵の三人を待っていた。 「ちょっと早きすぎちゃいましたね。」 「社長を待たせるわけにはいかないと思って、早めに来ましたけど、一時間は早すぎました。」 「まだ早いですし、どこか入りますか。」 「そうですね。」  喫茶店に入りコーヒーを二つ注文する。  話題は『ドキッ!男だらけの野球拳大会!!』だ。 「高志さん、ジャンケン強いですよね。僕なんてもう、パンツ一枚だったのに高志さん結局一枚も脱ぎませんでしたもん。」  ミルクとガムシロをグラスに入れ、かき混ぜる。高志はブラックで飲むようで、なにも入れずに刺したストローを回転させ、氷をカラカラと鳴らした。  博人の笑顔に、高志が苦笑いで答える。方眉が下がって、罰が悪そうだ。 「テンテンが、俺の裸を見せられるかって…、内緒ですよ?」  テンテンとは、高志の守護天使のことである。 「え、天使ってそんなことまでできるんですか!?」 「できますよ。」 「というか今日は人型じゃないんですね。」 「目立つので。」  そのままテンテンの話題で盛り上がり、気づいた時には既に待ち合わせ十分前で、二人は慌てて店を飛び出した。  待ち合わせ場所では、既に三人が待っていた。 「やっと、来られましたか。」  洵がアンダーフレームのメガネをクイッと上げて、例の人を小ばかにするような目を寄越す。今日クロイツはいないようだ。 犬だとライブ会場に入れないし、人型だと目立つから?  三人とも、カジュアルに全身をコーディネートしているのに、陽のサングラスだけが悪目立ちをしている。社長である美千代の服装は、フードの中の柄や、ダメージジーンズの当て布にこだわりが見られるが、それほど高級というイメージは無かった。  ライブ会場まではバスで向かった。庶民的だ。 「団扇使いますか?」  会場に入り席に着く。さすがわ身内、特等席である。  陽がよくライブなどでファンの人たちが持っている団扇を五枚取り出した。五枚が五枚ともTELの顔なのは愛の差だろう。 「使う。」 「使います、ありがとうございます。」 「俺はいいです。」  高志は自分で用意してきたSINの団扇をはたはたさせた。  同じNGファンであっても高志は陽と好みが違うらしい――と思ったら、 「高校が一緒なんです。」  より深く知っているほうを優先させただけだった。 「照が一番生き生きしてた時期だな。」 「それを言ったら影木がかわいそうですよ。ま、やってたことは相当だったようですけど…」  また僕の分からない話が始まってしまった。 「何の話だ?」  あ、社長も分かんないんだ。 「中学の間、影木診が照に愛を叫び続けた。」  は?  い? 「…男、ですよねぇ?」 「それが?」 「はい、ごめんなさい、黙ります。」  四人でハモらないで下さい、恐いです! 「変な物ばかり贈ってきて、その度に被害に遭うのは俺なんだ。」  その感情は憤るというより諦めに近い。  何を贈ってきたのかは聞かないでいよう。 「光は?」 「光は逃げ足が早い。し、照は光を泣かせるようなことはしない。」  美千代の問いに陽が断言する。 「お前は良いんだ…」  兄弟の事情はよく分からない。 「小栗はうちわ使うか?」  陽が再度差し出すと、洵が首を横に振る。 「遠慮します。」 「遠慮せずに。」  結局美千代に半ば無理やり持たされたが。  ライブは、TRLの怪我にも関わらず大盛り上がりで、横目で洵を見ると、彼も頬を淡く染めてうちわを振っていた。  ライブは一時に終わった。  適当なところで食事をとって、町をぶらぶらする。  途中陽が足を止めた。ゲームセンターの前だ。その視線を追うと、赤いくせ毛をバンドで留めた小柄な姿が。 「千晶。」  副社長第一秘書が、音ゲーをしていた。しかも相当にうまいのか、ギャラリーが集まっている。 「いよっしゃ!!記録更新!!」  近くの人と手を叩き合って喜びを表現する千晶と目があった。こちらに近づいてくる。 「用事が有るんじゃなかったのか?」 「午前中だけだ。」  陽の質問に答えて、千晶が首を傾げる。 「社長は?」  さっきまでいたはずの美千代の姿がどこにも無かった。 「え、嘘でしょ!?」  慌てて陽が携帯にかけると――陽の鞄から音がした。  社長――っ!!! 「天宮!テンテンは美千代の居場所分かったりしないか?」 「あ、それがありました!!社長の気配を追ってもらえば…え?っな、バカか!?こんなとこでそんなんできっか!」  高志が狼狽した声をあげた。  まさか陽さんに対してそんな口を利いたのかと思えば違うようで、視線が横の空間にいっていた。どうやらテンテンと話しているらしい。 「――っ分かったよ、じゃあ屈めよ。」  高志の手が方の前あたりの空間に添えられる。軽く目を閉じて――顔を真っ赤にしてうずくまってしまった。 「あの、高志さん?」 「聞かないでください!」  じゃあ、聞かないでおこう。  テンテンとどんな交渉をしたかはさておき、すぐに高志は案内を開始した。  美千代はゲーセン付近のファミレスにいた。  何故かゲーセンの前で、合コンで一人来れなくなったからつき合ってくれと強制的に見ず知らずの男たちに連れ込まれたのである。  合コンの空きを道ばたで調達するなど聞いたことがないが、そうなのだからしかたない。 「あのぉ、みなさんはどんなお仕事をなさっているんですかぁ?」  甘ったるい声が耳にこびりつく。  こんな声より陽の声のがよほど良い。 「俺は、IT関係。まだ新入りだから給料は安いんだけど、ボーナス入れて年――」  男性陣が律儀に答えていく。  聞かれたのは職業なのになんで年収まで言っているんだ。ああ、陽が心配してるかな。 「白鳥さんは?」 「え?」  ぼけっとしていた美千代は急に話を振られて疑問符で答える。 「もう、仕事ですよ仕事!」  と、その時 「美千代!」  名前を呼ばれて、振り返ったら陽がいた。 「社長、何してるんですか?」  後から入ってきた博人と高志と洵のうち、博人のが聞いてきた。驚いたり困惑した時、全部顔にも声にも出てしまうのが彼らしい。 「無理矢理合コンに参加させられた。」  やっと帰れると腰を浮かすと、女性陣に囲まれてしまった。 「白鳥さん、社長って!白鳥財閥の社長さんですか!?」 「うっそ、すごい若いー!」 「美千代。」 「もっと話しましょうよ!私服だもん、お仕事じゃないんでしょ!?」 「美千代。」 「良いでしょ、部下の人も一緒に!」 「美千代!!」  陽の声にその場にいた全員が縮み上がった。  陽は女性陣に囲まれている美千代の腕を引き――キスをした。  って、えぇぇぇえええエエエッッ!?  博人、高志、洵、心の叫び。  ポカンとしている連中から美千代を奪い返し、そのまま店を出て。その日は解散した。  社長と陽さんはどこまで本気なのだろうと悩む博人だった。 「社長か。」 「白鳥財閥か。」 「チャラそうだから引っ張ってきたのにな。」 「服、安そうだったから連れてきたのにな。」 「社長か。」 「白鳥か。」 「でもホモだったな。」 「ああ、ホモだった。」 「結果的には女の子とられなくて良かったんじゃないか。」 「でも、インパクトがありすぎて。」 「俺らその後もほとんど相手されなかったな。」 「陰薄いな。」 「また負け戦か。」  は~…  男たちのため息が虚しく響いた。 ******  後日。  秘書課に設置されたテーブルセットは、秘書達全員が腰を下ろしてもまだ余裕がある。昼休み、秘書達はいつものようにクッションの効いたソファに座って、談笑していた。 「なんだかんだ言って、洵君楽しそうで良かったですね。」  博人はライブ中、団扇を振っていた姿を思い出す。 「そうなんだー。でも、僕。龍之介の目が気に入らないなー。」 「ああ、俺も俺も!」  秘書課のぱっと見紅一点・石松成人にテンテンが同意する。 「ああ、あれ。別にお前らをバカにしてるんじゃないぞ。童顔が気に入らなくて、目を細めているらしい。あの眼鏡も、目つきが悪く見えるからって、アンダーフレームをわざわざ選んでる。」  美千代が陽の入れてくれたお茶を飲みながら言った。その手元を見て博人が慌てる。それは本来彼の仕事である。 「ええ、そうなの!?可愛いのにもったいない。」  成人が反対、反対!と口を尖らせた。彼のよくするこの表情は、そうするとキスをねだっているように見えるからたまにドキッとする。そのたびにザ・体育会系石井態が彼の口をその大きな手で押さえるのは彼にもそう見えているからだろう。 「そう言われるのが嫌なんだろ。」 「そうなんだー。じゃあ、いっか。」  態に言われて成人が諦める。新人が入っても、秘書課のほのぼの空気は変わらなそうだ。





 

似非紅一点

 白鳥財閥の似非紅一点、石松成人の得意技は、中学から始めたカポエラー。しなやかな脚からは想像しえない破壊力抜群のキックともう一つ。  色仕掛け。  普段の子供っぽい言動、好奇心に全く逆らわない行動、くるくると動く表情。それらをはぎ取れば、あとは何とも艶っぽい麗人と呼ぶべき素の顔が残る。  大きなタレ目は、やや腫れぼったい瞼と泣きボクロの効果で色っぽく、挑発的に見える。肉厚な唇が白い肌の中、ただ一点艶やかに赤く色づいて、その柔らかさについては、彼の問題発言を制止するために日ごろから、その口を塞ぐ石井態が良く知っているだろう。 「そうだなぁ。してやってもいいぞ。」  革張りの上等な椅子に埋まるように腰かけた男は、彼を上から下まで舐めるように見ると、その脂ぎった顔を醜く歪ませ、笑った。  男は、大手スポーツブランド・ランズの重役だ。しかし脂ぎった顔がそのさわやかな職種に全く似合っていない。  成人は、今度白鳥財閥が介入する百貨店の建設に先駆けて、ブランドと白鳥のコラボ商品を開発するにあたっての契約を申し込みに来たのである。  男の視線は、再び上に戻って、成人の腰回りに固定される。  彼の今日の服装は、いつもの赤い制服ではなく、淡いピンクのフリル付きブラウスに、淡いグリーンのタイトなスーツスカートといった格好だ。もちろん色仕掛け目的である。そのガーリーな可愛さと、色っぽさを兼ね備えた衣装は、成人の薄い色素や、細かくカールした髪の柔らかい印象と、表情の妖艶さに絶妙にマッチしていた。  成人は、ねっとりとした視線を不快に感じながらも、毛色の良い返答に口元に笑みを浮かべ、声を弾ませた。 「本当ですか!?」  男が、肘掛けに頼るように椅子を軋ませ、立ち上がり、歩み寄ってくる。机という障害物が無くなって、初めて全身を見ることができたが、その姿は小柄で、全体的に丸っこく、タヌキの様だと思った。 「その代り…」 「なっ…」  男は成人の足を掛けて、転ばせると、首尾よくその上に跨った。 「声をあげても無駄だよ。防音だから。逆にそういう声ならいくらでも上げて良いということだが。」 「こんなことをして許されると?」  いやらしく垂れた眦に、上がった口角から覗くやにで染まった黄色い歯。はぁ、はぁ、と荒い呼吸は臭く、蛍光灯の光で、逆光になっているのに、生え際のせり上がった頭頂部だけが光を反射して輝いている。  気持ち悪い。成人の脳が警鐘を鳴らす。もちろん、いつでも反撃をすることは可能だ。しかし、まだその時ではない。  ふしゅーふしゅーと、荒い鼻息が頬に当たり、成人は不快感に顔を背けた。 「お前もそのつもりで来たんじゃないのか?私がお前のような女が好みだと知っていて、わざわざ来たのだろ?こんなに、短いスカートをはいて…」  男の手が、スカートをたくし上げながら成人の太股を撫でる。ストッキングをはいていない肌に直に触れた手のひらは、顔同様べっとりと湿っていて、その感触のおぞましさに成人は、肌を泡立たせた。  男はその反応を楽しむかの様に頬を紅潮させ、薄く開いた口から白ばんだ舌を覗かせて、チロチロと気味悪く動かした。  気持ち悪い、気持ち悪い。  生理的悪寒に成人の顔が泣きそうに歪む。相手が喜ぶだけだと分かっていても、そうせずにはいられなかった。  もう良いでしょ、充分でしょ?早く、早く……っ  どんっ 「そこまでだ。」 「熊!」  重いドアを蹴破って、乱入してきた精悍な青年に、成人は、油顔の男を押しのけて、飛びつく。 「ドアスコープから専用器具で覗き見、撮影させていただきました。」  青年は片手にカメラを構えて地を這う低音で凄んだ。 「契約、してくださいますね?」 ******  午後四時。白鳥財閥秘書課に設置された、リラックススペースのソファとテーブルは、昼休みでもないのに二人の人間と大量のお菓子に占拠されていた。 「悪かったな、ナル。まさかそんなあからさまに手を出してくるとは…。」 「気持ち悪かったんですよー、怖かったんですよーっ」 「すまなかった、このとーり!」  ソファを占拠しているのは成人と成人にしがみつかれている態。大量のお菓子は辱めを受けた成人への社長からのお詫びの品である。 「あの社長の女好きは有名で、確か秘書も全員女じゃありませんでした?」  紅茶を入れてきた陽が、話に加わると、声変わり前の幼い声が割って入った。 「一人は男性だったはずですよ。」 「小栗、もうそんな時間か。」 「最後の時間が学活だったので、早く終わりました。」  先日助っ人として入った新人中学生小栗洵は、土曜だけと言わず、平日の放課後にも手伝いに来るようになっていた。 「一人は男性って、おまえ、そんなことよく知ってるな。」 「その人、そのあたりでは有名な猫好きなんです。先日も、車に牽かれた猫を埋めてやっているのをクロイツが目撃しています。」  生きている猫をわしゃわしゃと可愛がることは、多くの人がするだろうが、車に牽かれた猫の供養など、言わば汚れ仕事とされるものをやる人はそう居ない。  洵は、わっふわっふとテンテンとじゃれ合うクロイツを見て、呟いた。 「どうせまた人が増えるのなら、そういう人が入ればいいのに…。」 ******  障子と襖に囲まれた十畳の和室。襖の上の障子紙の小窓の更に上の天井は、表情豊かな木目の木の板を敷き詰めてできている。十畳という広さに関わらず、一枚一枚の板が、部屋の端から端まで、継ぎ目なく通っていることから、元は相当な大木であったことがうかがえる。  その天井から下がる和紙の傘を着た電球は、オレンジの豆電球と、二つの輪状の電球のうち、一つの輪状の電球だけを灯して、明るすぎない落ち着いた空間を演出していた。  壁際の深いこげ茶の、艶々と輝く木目の文机の上で、高性能のノートパソコンがコウコウと小さく音を立てて活動している。  その前で、何とも見目麗しい青年がその形の良い薄い唇に弧を描いた。  その姿の何とも妖艶なこと。重量のある睫毛の奥で輝く金の目が、人知を超えた美しさに、加えて、青年を人ならざるものに見せていた。 「何してんだ、陽。」  廊下に繋がる襖の一つを開けて、社長・白鳥美千代が青年に声をかける。  陽は、シルクの寝巻に身を包んだ美千代を振り返った。 「猫好きの彼のことを調べてみたんだ。予想通り、経歴も容姿も申し分なかったよ。」 「容姿はどうでも良いんだが。」 「こっちとしてはね。でも、やっぱり女好きのタヌキ親父が秘書に選んだ唯一の男なだけあって、能力はもちろんだけど、顔も女顔。」  陽の肩越しに画面を覗くと、茶髪ストレートの男性の写真が写しだされていた。例のタヌキおやじは、ナルのことを好みの女と言ったそうだが、タレ目の感じや強気に見える細く吊り上った眉なんかは彼と似ているかもしれない。目はややナルより小さいし、瞼も腫れてはいないが。 「こっちに取り込めないか?」 「ヘッドハンティング、してみる?」  二人は向かいニィっと笑った。  そして、美千代がその艶やかな唇に吸い寄せられるように顔を近づける。 「待って、電気もう消しちゃって。」  電気を消して、パソコンも落とした部屋で、文机の上の丸窓から、差し込む月明かりだけが二人の姿を映しだす。  麻生地の座布団の上で崩された陽の足が、浴衣の裾を乱して、外気に触れる。眩しいまでの白い肌が月の青白い明かりで浮かび上がり、生々しく美千代を誘った。





 

ヘドハンわらびもち

「元気がないぞぅ、ひーろとクン♪」 「うへぇ…」  涼しげな、さらさらとした生地の花柄のワンピースに身を包んだ成人が、弾むような声をかけるが、対する博人はまともに返事をする気力もなく、ため息交じりのつぶれた声を出すのみだ。  この日二人は新宿までロリータ服を買い求めに来ていた。もちろん博人の仕事用だ。そして、この日博人はスイーツ系のロリータ服を着せられていた。  夏用に薄い生地で作られてはいるのだが、骨格を隠すために半そでと言う訳にもいかず、七分丈の衣装は多少暑い。また、華やかな装飾の散りばめられた衣装と、厚底のサンダルは重い。足を挫かないように気を使って歩くのも疲れる。  そんな恰好で、ビル一つを始終テンションの高い成人に連れまわされ、着せ替え人形のごとく試着を繰り返させられた。もちろん購入した大量の衣装を持つのも博人自身だ。気力体力ともに消費しきった彼の瞳は死んだ魚のように濁っていた。 「もう、青木元気ないゾ☆」 「ナルさんが元気すぎるんですよ…。」  そう言って、背中を丸めて項垂れてしまうと、成人が博人の背を叩いて正し、顎を持って無理やり上向かせた。 「折角可愛い服着てるんだから猫背にならないの!」 「すーみーまーせーんー…。――あれ?」  視界に違和感を感じる。背の高い建物の隙間から見える青い空、でもどこかがおかいしい?何が違う?  そして違和感の正体に気が付いた。 「ナルさん!あれ!」  博人が指さしたのはビルの屋上。そのフェンスに人がしがみついていた。 「希望を捨てちゃだめだ!まだ死ぬには早すぎる!」 「ば、…ばかな真似、っは…、――はぁ、止めるん、だ…っ、ごふっ、げふっ」  清楚で優雅なロングスカートの裾をひらめかせて十階までプラス屋上までの階段を軽やかに駆け上った成人と、彼を追って大量の荷物をがっさがっさと両手に持って、慣れない服装、慣れない靴で息絶え絶えにそこにたどり着いた博人が必死の説得を試みる。  驚いた青年は「ふぇ!?」と素っ頓狂な声を上げて振り向き、くりっとした子犬のような目を見開いた。 「ナルナル!?」 「プリンス!?」 ******  たまたま見つけた和菓子屋さんに入る。テーブルごとに壁で仕切られていて、半個室と言った感じ。かくスペースに照明が下がっているが、入口など、そのほかの部分は、天井に貼られた一本の柱に取り付けられた間接照明の明かりしかなく、全体的に落ち着いた雰囲気だ。  ぎらぎらと照りつける太陽の下とのギャップに一瞬目の前が真っ暗になった。  香と木と畳の香りが鼻をくすぐる。店の中心には一畳ほどの中庭のようなものがあって、竹が三本天井に向かって伸びていた。  和服姿の店員に案内された席は味わい深い木造の床から一段上がった畳の間で、大きな窓があったが、店を囲むように植えられている竹のおかげで目に痛い太陽の光は遮られている。  三人はお勧めだというわらびもちパフェの抹茶セットを注文し、先に出された熱いほうじ茶を一口飲みほぅっと息をついた。  暑い日に涼しい室内で飲む熱いお茶のなんと贅沢なことか。香ばしい香りが鼻を抜けて、指先と頭がじんと痺れて弛緩した。 「プリンスは自殺しようとしていたはけじゃないと?」 「そうだよ。ちょっと外を見てただけぇ。」  博人と成人が自殺志願者と勘違いした男は、語尾をまったりと伸ばす口調で話す、柔らかい空気をまとったハンサムマンだった。  王司遊馬、成人の高校の同級で、名前とその整った顔立ち、誰にでも優しい性格からプリンスという呼び名が付いたらしい。「優しいというか、優柔不断なんだよ。」とは成人の言葉である。 「もうさぁ、紛らわしいことしないでよね。」 「ほんとですよ。びっくりしたんですから。」 「ごめんなさいー…」  遊馬はそう言ってふにゃっと笑ったが、その顔が少し陰って見えた。 「なに?何かあったの?」  成人の質問に遊馬は答えずらそうに笑顔のまま眉を下げる。数秒間の睨めっこの後、根負けした遊馬がもごもごと話し出した。 「んー…そのぉ、会社クビになってぇ…」 「ええ!?新卒採用がこの時期に!?」  驚いて大声を上げた成人に店内の視線が集まる。成人はパッと口を押えると、声を抑えて続けた。 「いったい何したのさ?」 「俺は何もしてないよ!」 「俺は?」  博人に返されて、遊馬は、口調を成人に対するタメ口から敬語に改めた。 「…俺、ランズのサッカーチームに入ってたんですけどぉ」  ランズと言えば例のタヌキ親父の会社である。 「プリンス昔からサッカー上手かったもんね。結局プロになったんだ。」  成人に褒められて、遊馬ははにかんだ笑顔を浮かべた。 「プロって呼べるようなものじゃないですけど…。それで、だんだんファンとかもついてですね。女子社員に呼び出されて告白、とかもあったんですよ。」 「良いじゃん、人気じゃん。」 「で、その現場をこの前重役に見られちゃったんですよ…」 「ええ!?タイミング悪すぎるでしょ!」  成人の言葉に同調するようにため息をつき、項垂れる。 「なんかぁ、その子重役のお気に入りでお昼に誘いに来たらしいんですよねぇ…」 「あ、ちゃー…」 「それでクビですか。」  遊馬は力なくこくんと頷いた。 「あんの女好きタヌキが。」 「あ、その子ナルナルに似てたよ。」 「言わなくていいから!」 「わらびもちパフェ抹茶セットお待たせいたしました。」  会話の切れるタイミングを見計らっていたのだろうか、ちょうど良いタイミングでパフェが運ばれてきた。グラスではなく陶器の器で、バニラアイスと抹茶アイスと白玉と餡子、黄粉のかかったわらびもちがきれいに盛りつけられている。  バニラアイスとわらび餅を一緒に掬って口に含むと、黄粉の優しい香りが鼻を抜けて、バニラアイスがとろっと舌に広がった。そして残ったわらびもちは、もちもち。 「あ、おいしー。」  口内の幸せに遊馬の表情がぱぁっと明るくなったが、しかしそれもすぐにしょぼんと暗くなってしまう。 「折角、千尋さんと同じ会社だったのに…」 「千尋さんって、山瀬先輩?」 「うん、そう。」  答えて、遊馬は天井を見上げて、うわーとうめき声を上げた。 「バイトでもなんでも始めないとと思って、今日面接にいったけど、落ちた。このままじゃ俺ただの紐だよぉ」 「山瀬先輩って?」 「僕たちの高校の先輩。」  隼人の質問に成人が答える。  「すごく綺麗で、可愛くて、恰好良いんです!あー、千尋さんに会いたいよー」  惚気る遊馬は今日一番の滑舌の良さだ。 「今の話だと一緒に住んでるんでしょ。帰れば会えるじゃん?」 「妹さんの結婚式に行ったので多分今日は帰ってこない。」 「おめでとうございます。」 「ありがとうございます。」  おめでたい知らせに何故か博人がおめでとうを言い、遊馬が返した。 「いやいや、プリンスがお礼言う所でもないけどね。おめでとうを君に言う場面でもないけど。」  珍しく突っ込み側に回った成人に二人が、つい、と頬を掻く。  話している間にも、器の中身はどんどん減っていき、成人などはもう半分も食べてしまった。  彼は滑らかな抹茶を口に含んだ。 「山瀬先輩、ランズなんだ。」 「うん。しかもその重役の秘書。」 「あの女好きの?男なのに?」 「あ、千尋さんって男性なんですか。」  千尋という名前から博人はてっきり女性かと思っていた。 ――て、あれ?それって… 「女の子の中ただ一人の男の秘書ですよ。」  遊馬の言葉に博人と成人は顔を見合わせた。





 

女以外は帰ってくれないか!

 郊外の小さな村の中心にある丘の上の教会は、いつにない華やかな空気に包まれていた。  美千代と陽は、モザイクタイルが埋められた通路を挟んで左右に並ぶ長椅子の一つに並んで座り、バージンロードを歩んでくる新郎新婦を眺めた。 「ついにカメラ小僧が結婚か。」 「あの腐男子が普通に女の人と結婚するとかな。」 「それも俺の家でね。」  高校の友人である影木幻十郎から結婚式の招待状が送られてきたのは三週間も前のことだ。正直、女の子のように可愛らしく、カメ子で、腐った思考の持ち主の彼が結婚するなんて、何の冗談かと思ったものだが、こうして幸せそうに微笑む二人を見て、ああ、結婚するんだな、とやっと理解した。  ガスオルガンの優しい音色の響く中、ステンドガラスを通った光が、虹色の粒になって新郎新婦の純白の衣装に降り注いだ。  披露宴が終わると、母屋に移動しての宴会に移行した。  大きな木造平屋造のここは本来住居部分のため、宴会用に貸し出してはいないのだが、陽の友人ということで、特別に貸し出してもらったのだ。  幻十郎に一言言ってやろうと親族席の方に向かうと、そこで最近一方的に知ったばかりの顔を見つけた。 「山瀬千尋さん!」  突然知らない男二人に声をかけられ、彼は「ふぇ!?」と素っ頓狂な声を上げた。  妹の結婚式だというのに、気分が沈んだままだ。  千尋は宴会の席で笑顔を振りまきながらも、頭の中で悶々としていた。  会社は居心地が悪かった。同じ課には女の人しかいなくて、上司は男の俺には目もくれない。与えられる仕事は重いものばかり。遣り甲斐があるとも言えるかもしれないが、自分一人が残業している現状に、嫌気がさしていた。  それでも今までやってこれたのは、同じ会社内に遊馬がいたからだ。昼休みに会うだけ、同じ建物内にいるのだと思うだけで心が温かくなった。  しかし、遊馬がクビになったことで、それもなくなってしまった。仕事はますます嫌なものになったのに、自分と遊馬の生活のために止めることはできなくなってしまった。  遊馬をクビにした男の下で働かなくてはいけないなんて…  男二人に声を掛けられたのは、そんな時だった。  一人は緩くウェーブした髪をセンターで分けた雰囲気イケメン。  もう一人は大きなサングラスで顔の半分ほどを隠した胡散臭い優男だ。 「あ、の…どちら様でしょうか…?」 「俺たちは新郎の高校の友人で…、て、そうじゃなくて…っ!」  二人はその剣幕に押され気味の千尋にスッと名刺を差し出した。 ******  博人と成人と遊馬の三人が店を出るころ、時刻は五時を回っていたが、まだまだ日は高い。  ブーブー  遊馬のポケットで携帯が唸り声を上げた。 「すみません、電話です。」 「あ、どうぞどうぞ。」  許可をもらって電話の相手を確認した遊馬の顔がぱあっと輝く。 「千尋さんからだ!」 「え、先輩!?」 「――もしもし。はい、…え?今ですか?……えっとぉ――駅出てまっすぐの茶屋のところですけど…」  通話を終えた遊馬に成人が飛びつく。 「先輩、なんだって!?」 「なんか今からこっち来るって」  自分で言って事態が理解できないのか、遊馬が小首をかしげると、成人もつられて首を傾げた。 「それでね、俺が可愛いって言ったら、『うっせー、可愛いって言うな!』って言うの!もう、そういうところが可愛いって言うのに。そう言うと『かわいくねぇよ、かわいくねぇよ!』って、もうほんと可愛いの!あんまり可愛いっていうとすねちゃうんだけど、そこがまた――ブフッ!!」 「気持ち悪い!」 「千尋さん!」  千尋との通話のあと始まってしまった遊馬の惚気話のせいで、結局店の前からほとんと動いていなかった三人。  長い長い惚気話は本人の登場とともに繰り出された回し蹴りによってやっと止んだ。 「遅いですよ!もう惚気はうんざりですよ!」  文句を言う成人の隣では本日の様々な疲労により博人が白い灰と化していた。 「うん。それはホントごめん。」  謝る千尋に蹴られた尻をさすりつつ遊馬が悶える。 「ああ、俺の代わりに謝る千尋さん、なんていい嫁。」  残念なハンサムの頬を額に青筋を浮かべた千尋が引っ張った。 「わ・か・っ・て・る・な・ら・お・ま・え・が・あ・や・ま・れ・よ~~~っ!」 「ごひぇんにゃひゃいぃ~」 「馬鹿やろう!」  じゃれる二人。まったく、惚気から見せつけに変わっただけじゃないか。  道ばたで騒ぐから、通行人の視線が痛いし。ホント勘弁してほしい。 「先輩、結婚式じゃなかったんですか?」 「ああ、そうなんだけど、婿さんの友達になんと白鳥財閥の社長がいてさぁ!」  キレ気味の成人に、千尋はにちゃっと顔を崩して笑って答えた。 「スカウトされちゃった☆」 ******  壁のほとんどがガラス張りの、大理石の床の明るく開放的なロビーで、細っこいのと、ややむっちりした二人が受付に立っていた。 「まさか、ナルナルと同じ職場で働くことになるとは。」  細っこい方が千尋、隣のむっちりが遊馬だ。二人は今日からめでたくこの白鳥での社員とあいなったのだ。 「俺も一緒ですよぉ!」  尻尾があったらぶんぶんと振り回していることだろう。遊馬は嬉しくて仕方ないという笑顔を千尋に向けた。 「お前は部署が全然違うだろ。」  突き放すような言葉を返すが、口元も目元も完全に緩んでいる。千尋も本当は再び遊馬と同じ会社に入れたことが嬉しいのだ。 「同じ会社に変わりないですぅ!」  遊馬のすねた物言いに愛しさがこみあげた。  遊馬と別れて、秘書課直通のエレベータに乗り込む。  赤い毛の長い絨毯の床はふかふかで、壁と天井の継ぎ目の装飾なども細やかだ。ロビーに入っただけでその精錬された空間に圧倒されたというのに、秘書課、社長、副社長室へ続くエレベーター内はそれ以上の高級感があった。  奥の鏡にくたびれたスーツを着た自分が写った。制服は支給されると聞いたので、着古したスーツで着てしまったが、場違いではないだろうか。  チンと小気味よい音を鳴らして最上階にたどり着く。出てすぐの金のノブの扉を開けると、視界が黒いもので覆われた。 「わふっ!」 「!?」 「クロイツ!」  視界を覆う暖かくほふもふしたものが外される。  目つきの悪い少年に、大きなグレーのアフロ犬が抱えられていた。 「犬だ。」 「クロイツです。」 「君、学生?」  千尋はどう見ても中学生い以下にしか見えない少年がいることに首を傾げた。 「今日は創立記念日なので手伝いに来ました。小栗洵です。会えて光栄です。」 「あ、僕は山瀬千尋です。」  目つきが悪いが、その奥の瞳はキラキラと輝いている。こんな瞳で見られるほどできた人間じゃないんだけどな。  二人が挨拶をし合うと、燕尾服のように後ろの長い服を着た青年がやってきた。よく見ると、少年以外は皆このグレーの服を着ている。 「天宮高志です。」  名乗ったその人は、ごくごく平凡な顔立ちなのに、妙なオーラがあった。 「青木博人です。」  次に挨拶してきたのは、温和そうな青年だ。どうしてだろう、初めて会った気がしない。  千尋がじぃっと見つめると、そわそわと目を逸らした。 「あ、昨日のロリータ!」 「忘れてください――っ」  博人沈没。  そうしていると、奥の部屋から千尋を誘ってくれた二人が出てきた。 「ようこそいらっしゃいました。」 「はい、お誘いいただきありがとうございます!」  社長第一秘書に頭を下げられ、その丁寧なあいさつにこちらも慌てて頭を下げる。 「あと俺とナルと、長期休暇中の千晶さんで全員だ。」  続いてかかった声に顔を上げると、遊馬よりまだ引き締まった体の精悍な男が目の前にいた。 「態さん!」 「久しぶり。」 「はい、お久しぶりです。」  成人繋がりの友人との再会に千尋のテンションが一気に上がった。新しい職場に見知った顔があるとやっぱり安心する。  ホッとしたのもつかの間、あることに気付いた千尋はきょろきょろと課を見渡した。 「どうかしたか?」 「あの、秘書課には9人いるって聞いてたんですけど…」 「ああ、それはですね――」  千尋の疑問に応えようとした陽がクロイツと高志をみる。すると高志の後ろから放たれた光に視界が真っ白に染まった。 「!?」  思わず瞑った目を次に開けると、さっきまでいた大きな犬が居なくなり、代わりに堀の深いラテン男とキラキラと輝く白ずくめの男がそこに立っていた。 「外交ワンのクロイツと」 「守護天使のテンテンです。」  洵と高志に紹介されても、突然現れた二人にの存在に、千尋の頭にハテナばかりが浮かぶ。 「え?え!?」 「慣れてくれ。」 「ええ!?」  社長にそう言われても、なんだこれ、鬼畜。  混乱する千尋に今度は背中から声がかけられた。 「先輩!先輩の制服これですよ!」  ハスキーな声は可愛い後輩のものだ。  渡された制服は、形こそ変わらないものグレーではなく、手渡した成人とお揃いの赤色だった。 「…なんで赤?」 「えー、なんでって。会社の人たちに先輩の写真見せたら、『こんなかわいい娘が入るんですか!ナルさん赤仲間が増えてよかったですね。』って言うから。」 「俺は女じゃねぇぇぇえええエエエッッ!!」  叫ぶ千尋に成人が笑顔のまま続ける。 「僕も男ですよ。あ、あとね、『ナルさんは美人過ぎて恐れ多いイメージがありますが、この方はなんだか親しみやすい雰囲気がありますね。』とも言ってましたよ。どっちも言ってたのは男です。」 「俺は男だぁぁぁあああアアアッッ!!」 「せんぱい、もてもて!」 「うわぁぁぁあああんっ!」  男にモテても嬉しくねぇよ!女の子にモテてぇよ! 「わけ分かんない!なんか、いろいろわけ分かんない―――っっ!!」  秘書課に踏み込んだ瞬間嵐に見舞われ、千尋の脳が許容量を超えて悲鳴を上げた。





 

青木博人の日常

「兄貴。朝だぞ、起きろ。兄貴。朝だぞ、起きろ。兄貴…」  木枠の窓から、朝の爽やかな光が降り注ぐ。  5:30。世界をまたにかける大企業、白鳥財閥の社長第二秘書・青木博人は、弟・隼人のボイス目覚ましで目を覚ました。  実家をでる前にどうしてもと言って声を入れてもらった博人の宝物だ。ブラコンと罵られもしたが、やもなく弟と離れなくてはならなくなったあのころ、これだけは譲れなかった。  安アパートの一室から、おしゃれな子供部屋のような小屋に住居が移っても、隼人の声は、心地よく博人を夢の世界から引き戻してくれる。  さあ、顔を洗って着替をすまして、最初の仕事は社長・白鳥美千代を起こすこと。  小屋を出ると、森の香りが鼻を擽った。今までこの時期になると汗だくで起きたものだが、ここに来てからは、森のおかげか、夏に入っても早朝の風は涼しく、心地良い。  白鳥家の裏庭に立てられた四つの家は、それぞれの個性が強いために、少し歩いただけで異国に迷い込んでしまったような錯覚に陥る。美千代宅の黄色の土壁の家は西洋風。博人の部屋が北欧趣味だったからワープも良いところだ。  戸をあけると、コンクリート打ちっ放しの壁。漆のようにつやつやと輝く青い床。その上に敷かれたに毛の長い白いラグ。家具はロッキングチェアや樽の椅子などのカントリーなもので揃えられ、木口版画や七宝の壷がオリエンタリーなスパイスとなって部屋に遊び心を加える。  しかし、今はこの部屋に用は無い。部屋を横切って、奥の螺鈿の装飾の施された階段箪笥を上る。  二階にはオレンジと緑のボーダー柄のお洒落なキッチンや、ダイニング。擦りガラスの扉の向こうにはバルコニーもあるのだが、ここにも用はない。  ここからは螺旋階段だ。屋根や窓枠と同じオレンジの鉄の階段をカンカンと鳴らしてさらに上っていくと、その先には指を掛ける溝の他、ノブもない鏡の引き戸。ここが目的地だ。博人は鏡の引き戸を、音もなくスライドさせた。  一階と同じ青い床の部屋の入り口の脇には、丸い小さな白いラグが敷かれ、その上に小さな黒板が置かれている。美千代が起きて一番に見るメモ用の黒板だ。  家具は西部劇の酒場の扉を模したクローゼットと宝箱の衣装ケース。ベッド脇の小さな桐箪笥の上の英字の書籍は、彼が昨晩寝る前に読んだのだろう。  肌触りの良いタオルケットにくるまった美千代は、力強い瞳が隠れて、幾分も幼く、可愛らしく見えた。彼が年下であることを確認する瞬間だ。 「社長、朝ですよ。起きて下さい。」 「――ん、ふぅん…っ」  起きようと眉根を寄せて、甘えた吐息を漏らす姿は、マジ性的。博人が自分が病気なんじゃないかと疑う瞬間だ。 「ふあぁぁ。おはよう、青木。ご苦労様、もう良いぞ。」  伸びをした美千代は、あくびをしながら、奥のシャワールームに向かった。  この後彼は、社長第一秘書の陽さんを起こしに行くので、博人はその間に執事長の隆雅と朝食の準備をする。  なぜ社長が秘書を起しに行くのかと疑問に思うところもあるが、社長は、陽は寝起きが悪いからと譲らない。まあ、あの二人だから良いかとも思う。  キッッチンと同じオレンジと緑のボーダーのクロスの掛けられたテーブルに並べる真っ白いお皿と磨きあげられた銀食器。  朝のメニューはパンにハムとチーズを挟み、バターを塗ったフライパンで軽く焼いたクロックムッシュの上にモルネソースを塗ったものと、夏野菜のフレッシュサラダ、ベーコンとキャベツのコンソメスープ。大きな窓から入る光で彩色を増した料理は生唾ものだ。  焼きたてパンの香ばしい香りが部屋を満たす頃、美千代と陽が現れた。シャワー後に着替えたのだろう、美千代はイタリア製のスタイリッシュなスーツ姿。一方彼に手を引かれてやってきた陽は、麻の浴衣の襟元から覗く項が白く匂いたつようだが、サングラスがミスマッチだ。  しかし、低血圧で半分寝たままの陽が、時折カクンと首を揺らしながら朝食を食べる姿は実に愛らしい。サングラスの向こうの顔が、人気アイドルユニットNGのTELと瓜二つだと言うことを考えると、博人は朝から、ものすごい眼福を拝んでいるのかもしれない。  食後のコーヒーを入れるのはライトのデザインしたカップ。これで陽がやっと覚醒して、身支度をすませた三人は、博人の運転で会社に向かった。 ******  会社でみんなにお茶を淹れる。誰がするという決まりは無いが、一番新入りの山瀬千尋が率先して淹れるのを、天宮高志や博人が手伝うのが常だ。しかし、今日は千尋がお茶を淹れ始めても、手伝いに行ったのは博人だけだった。  いつも手伝いに来るのにと、高志が気になってデスクを覗くと、彼の守護天使であるテンテンの頭部が彼の膝に乗っていた。  そういえばテンテンの姿も見えないと思ったら、彼の机の下に居たわけか。もう慣れた博人は何事もなかったように二つの湯呑を高志のデスクに置いたが、それを後ろから覗いた千尋は「ぎゃっ」っと短く叫んでお茶をこぼしそうになっていた。  昼休み、王司遊馬が遊びに来た。千尋を見てデレデレと相好を崩す遊馬に、つっけんどんな態度をとりながらも喜んでいるのが隠しきれていない千尋。他の人たちも、高志とテンテン、成人と態、美千代と陽で組んでイチャついて、一人は博人だけ。  正直寂しい。後で弟に電話しようと思う。  四時半、学校帰りの小栗洵が手伝いにきた。クロイツは犬の姿だ。 「今日もクロイツさんは犬の姿なんですね。」 「人型のクロイツはあまり好きではありません。」  眉を顰めた洵の隣でクロイツの形状が変化する。 「人型の俺が何だって?」 「!?クロイツ…っ」  距離をとろうとした洵を人型になったクロイツが壁際に閉じ込めた。所謂壁ドンというやつだ。 「犬だって人だって変わらないだろ?」 「はーなーれーろーっ!」  真っ赤な顔で目の前のラテン男を突き放そうとする洵と、その抵抗を余裕で受け止めるクロイツ。 「なんだよ、これくらいいつもじゃれてるだろ?」  魅惑のアルカイックスマイルでそんなセリフをのたまう。  弟に報告することが増えた。  夜は本館で食事をとる。完全なゴシック建築の城は、豪華な装飾やら家具やらで落ち着かない。たっぷりとした空間は有り余ってうすら寒いし、大きく丈夫な食卓や椅子にも過剰な装飾が施され、少しでも傷つけたらどうしようと、博人は緊張しっぱなしだ。  朝とは違って、陽の手つきも優雅で、様になっているのも居心地の悪さの原因になってしまう。隆正の料理の美味しいのも、ちゃんと感じられるようになるのにここに来てから十日はかかった。  博人の小屋に風呂は無いので、本館にある銭湯よりも広い風呂を使う。ライオンの口からお湯が出る、本当に王様が入るような風呂だ。ところで、博人より先に美千代と陽はいつも二人でこの風呂に入るのだが、風呂まで一緒に入る二人に博人は思うところがありすぎた。  一日の終わりに弟に電話すると、職場環境を本気で心配された。隼人マジ天使。 ******  休日の朝。のんびり寝たいだろうと思い、美千代を起こすのは止めにして、博人は先に、朝の番組にTELが出るから起こしてくれ、と頼まれていた陽をおこしに行った。  現代風和風建築とでもいうのだろうか、黒い木造建築は、色ガラスの嵌められた中国風の丸い飾り窓が実にオシャレだ。庭も、この家の周辺には広葉樹ではなく、青々とした竹が植えられている。  陽の寝室も、美千代と同じ三階。磨き上げられてつるつると滑る木の階段を上がると、ガラス戸と襖がぐるっと部屋の周りでコの字を描いている。博人は、襖の一つを開けて中に入り、座敷の中央に敷かれた布団に歩み寄った。 「陽さん、朝ですよ。」 「うぅー…」 「照さんの番組始まっちゃいますよ。」  ぐずる陽をゆすり起こそうと、博人が丸まった彼の体に手を触れると、素早くその手を取られ、布団に引きずり込まれた。  ぎゅうぎゅうと抱き竦められ、耳元で「美千代…」っとクソ甘い声で囁かれる。  寝起きが悪いってこういうこと!? 「ち、違います!博人です!青木博人ですっ――っ!!」  目の前にはサングラス外した陽の顔。   あ、本当にTELと同じ顔なんだ…  陽の瞳が薄らと開いた。覗いたそれは鮮やかなブルー。その瞳を見た瞬間、博人はこみ上げる衝動に悲鳴を上げた。 「ひやぁぁああアアンン……ッッッ!!」  絶え間無く訪れる衝撃の波に全身がビクビクと打ち震える。体の中を暴れ回る熱に翻弄されて、あられもない喘ぎ声が喉を刺激する。 「陽!」  駆け込んできた美千代が博人と陽を引き剥がした。  解放された博人は股間の塗れた感触に顔面を蒼白にし、 「すみませんでした―――っっっっ!!!」  と逃げ出した。  しばらくして小屋に二人がやって来て、陽から謝罪を、美千代から厳重注意を受けた。  陽の秘密の一端に触れた博人だが、事が事だし、誰かに説明するには情報が少なすぎたので、誰に報告することもなく今の時点では自分の心の内に秘めておくことにした。





 

千様とお嬢様一日目

 陽炎揺れる夏本番。弟の学校が夏休みに入るのを心待ちしていた博人は、その日社長室に呼び出された。 「え、榊原樹里奈様がいらっしゃるんですか?」 「ああ、千晶の家に三日。千晶の侍女として面倒見てくれ。」  クッションの効いた社長椅子に座った美千代と向かい合う。時間外労働のお知らせだ。 「わかりました。でも、夏休みに遊びにいらっしゃるなんて、樹里奈様と千晶さんって、そんなに仲が良いんですか?」 「いや、そう言う訳じゃないんだが。うちの親父が榊原頭首の武史様に『そちらの息子さん方はしっかりなさっていて羨ましい』てきお世辞を言われ、『うちは高校に入ってから大学を出るまで身の回りのことは自分でさせるようしたり、公立の学校に通わせたりして、世間に揉まれさせたんですよ。』てきなことを返したら、相手がじゃあ自分の娘もって言い出して。でも、玲奈様は今まで蝶よ花よと過保護に育てらてきていてだな。何も言わなくてもしてほしいことは周りがやってくれるし、過保護すぎて何々がやりたいなんて言うと、ちょっとでも危険だと思ったら『お嬢様は優秀であらせられますからすぐにマスターしてしまって面白くありませんよ』なんて言ってごまかすもんだから、何もできないのに何でもできる気でいる生粋のお嬢様なんだ。」 「それは心配ですね。」 「そうだ。それで、最低限、自分の能力とか、世間の怖さを知ってもらわないとと思って。それを教えるには千晶が適任だろ。元一般人の現お嬢様だし、強いから何かあっても対応できるし、常識はずれな行動にも明様で慣れてるだろう。」  とても納得できる理由だ。博人は改めて千晶の能力の高さに感心した。 ****** 「よ、宜しくお願い致します!」  パステルカラーのメルヘンな家の前で、クリーム色のふわふわの髪の毛の、ふわふわの服を着た、ふわふわの女の子が、ぺこんとお辞儀をした。彼女が榊原樹里奈御年15歳。しかし背は低く150前後に見えた(それでも千晶より5センチも高い)。  博人並びに千晶は、美千代の話から、もっと勝気で我がままなお嬢様を想像していたのだが、それは良い方に外れたようだ。  千晶は顔を上げない彼女のに手を添えて、優しく顔を上げさせる。 「まあまあ、そんなに緊張なさらないで。」 「は、はい!」  にっこりとほほ笑みかければ、彼女はほわっと頬を染めた。 「お嬢様は人に頼みごとをなさるのが初めてでいらして、武史様からもご迷惑の無いようにと初めて言われたので戸惑っておいでなのです。」 「そうでしたか。」  樹里奈のお付の高橋辰巳の説明に、白いレースの飾りのついたコバルトブルーのメイド服姿の博人が相槌をつく。しかし彼の心中はこうだ、  ――樹里奈様のお付の人男性じゃないですか、僕がこんな格好をしている意味って…。 「かくいう私もお嬢様が心配で心配で。」  そんなこととは知らず、博人を博子と思い込んでいる辰巳はただただ樹里奈を想って胸を痛める。  そんなに心配しなくても、と博人は前を行くお嬢様二人を示して言った。 「でもきっと大丈夫ですよ。――ほら。」  玄関前の段差で、千晶が樹里奈の手を取ってエスコートしている。 「足元、お気お付けになって。」 「はい。ありがとうございます。」  副社長第一秘書の千晶のエスコートは自然で、樹里奈もまだ幾分緊張しているものの、その顔に不安の色は見られなかった。  レースのリボンの付いた白い靴を脱いだ彼女に、千晶がリボンとビーズの飾りのついたコットンのスリッパを差し出す。執事長の安部隆正が彼女のために手縫いした一品ものだ。 「博子さんがやらなくて宜しかったんですか?」 「私は、千様に言われれば何でもいたしますが、それ以外はなるべく手出しは致しません。それに、本日は、樹里奈様の社会見学と聞いておりますので、尚更お二人に任せた方が良いと思いまして。」 「なるほど。」  千晶が自らスリッパを出したことに疑問を持った辰巳だったが、博人の説明に納得した。  階段脇の廊下を過ぎれば、すぐに開けた空間に出る。艶のないこげ茶色の木の床に、グレーの地に白抜きの大樹と緑やピンクの葉を描いた壁の部屋で、置かれた家具はポップでキュートだ。 「素敵なお部屋。白雪姫の小人のお家みたい。」  胸の前で手を組んで、樹里奈は物珍しそうに、きょろきょろと視線を巡らせる。 「樹里奈様は人様のお屋敷に上がったことが数えるほどしかございません。このようなテイストの部屋は初めてなのです。」 「お気に召してくれて嬉しいわ。」  辰巳と千晶が話していると、樹里奈が、廊下から続く壁に飾られた、一際大きな額を指して聞いた。 「あの、これは押し花ですか?」  花束をそのまま、額に移したような、リボンで飾られたそれ。 「私がプロポーズの時にいただいた花束ですの。バカみたいに大きいでしょう?」  口元を押さえて、幸せそうに眼を細めて笑う千晶の隣で、樹里奈は素敵、と丸い目を輝かせた。  次に彼女が目にとめたのは、窓側に置かれた白いエレクトーンだ。 「千様、エレクトーンを弾かれますの?」 「ええ。樹里奈様は何かおやりに?」 「私はピアノぐらいしか弾けなくて…。」 「私も最初はピアノをやりましたわ。高校の時に初めて、でもちょっと私には合わなかったみたいで、もっといろいろな音を出したくなってエレクトーンを。」 「そうなんですの。」  そこで、辰巳がエレクトーンの上に置かれた五線紙ノートに気が付いた。 「作曲もなさるんですか?――ぅわっ」  すかさず博人がそれを奪い取る。 「――え?」 「い、いえこれは…あはははは。」  このノートはAKIRAの作曲用だ。不思議そうな辰巳を博人は笑ってごまかした。 「それはその、お見せするようなものではありませんの!そんな事より、樹里奈様、早速一緒にお茶を淹れましょう。」  原因の千晶が注意を逸らそうと話を変える。 「はい!でも、私お茶を淹れたこともなくて。」 「教えて差し上げますわ。ここの執事長直伝なんですのよ。」  戸惑う樹里奈を促して、積み木を重ねたみたいにカラフルな階段を上がった。  その後ろで辰巳は首をひねる。実はノートの中身を一瞬見てしまった彼。何やら激しい曲であることを理解し以外に思ったのだが、誰にでも隠している顔があるのだろうと一人納得して、今度は頷いた。  二階にあげれば、ダイニングキッチンに出る。  シャーベットカラーのナチュラル調の屋内床タイルに、果物柄のラグが敷かれ、その中央には色ガラスで花を描いたガラスのテーブルと背がハート形の白い椅子が置かれる。  キッチンの戸棚は、クリーム色、薄桃色、淡い水色と、一つ一つ色の違うパステルカラー。 「本当に全部可愛らしいのですね。」  感心する樹里奈に千晶は楽しげに答えた。 「可愛いと、何をするにも楽しいでしょう?」  早速キッチンに入っていく二人に博人が声をかけた。 「千様、僕…いえ、私も何か手伝いましょうか。」 「じゃあ、博子ちゃんは高橋様とテーブルの用意をしてくださる?今日はそうね、お天気が良いからブラインドを上げて…でも、眩しいかしら?」 「では半分上げましょうか。」 「そうして下さる?」 「かしこまりました。高橋様、こちらです。」  博人は台布きんを持って、辰巳を誘導し、明るい茶の木の壁に下がる青赤黄のビビットカラーが鮮やかなブラインドを上げる。大きな窓ガラスから、まぶしい光が差し込んだ。  一方樹里奈は、千晶の取り出す道具すべてに興味津々だ。 「これでお湯を沸かすんですの?」 「電気ケトルですよ。丸くて可愛らしいでしょう?」 「赤くて丸くて玩具みたいです。」 「じゃあ、お湯を沸かしている間に食器を出しましょうか。どれでも好きなものを選らんでどうぞ。」  二人で、蒼い戸棚に向かって、食器を選んだ。 「良いんですか?でしたらあの、この苺のが良いです。」 「そうしたら、カップを4つ持って下さる?」 「はい。」 「お砂糖とミルクはこれに入れましょうか。」  千晶が手に取ったのは赤い車の形の陶器の平たい小物入れだ。  それらを持って、キッチンに戻ると、小物入れに角砂糖の瓶と、ミルクを乗せる。  続いて樹里奈に指示して大きなビーズを編み込んだ銀色のバスケットに紙ナプキンを敷いて、クッキーを入れる。すると電気ケトルがカチッと音を立ててランプが消えた。 「食器は一度お湯を注いで温めるの。で、一度捨てて今度はお茶を淹れる。葉っぱはこれくらいね。やってみて。」  樹里奈は手渡されたケトルで、ポットにお湯を注いだ。 「もっと高い位置からやってみて。」 「こうですか?」 「そうそう。」  茶虎、白、緑虎、黒、オレンジの猫の後ろ姿が描かれた持手つきのトレイにティーセットを乗せて千晶が、クッキーのバスケットは樹里奈が運ぶ。テーブルでは博人と辰巳が待っていた。 「二人ともお疲れ様です。」 「千様は力持ちでいらっしゃるんですね。」 「私が注ぎます。」 「樹里奈ちゃんが注いでくれるの?気を付けて。」  香り高い紅茶と一緒にクッキーをかじる。 「あ、おいしい。」 「ほんとですね。」  柏原家の二人が隆正作のそれを同時に褒めた。  ここに来てから数十分。早くも樹里奈お嬢様の緊張はほぐれたようだ。 ******  襞の付いたショートパンツにフード付きパーカーの上下のお揃いの水玉パジャマはピンクと赤。美中年・隆正の指導の下で編みぐるみ制作に精を出す千晶と樹里奈。  博人と辰巳はその向かいの綿毛のクッションを敷いた白銀の籠の椅子に座って、その様子を微笑ましく見ていた。 「まさか、お嬢様が風呂掃除に部屋の掃除、果ては料理までなさる日が来るとは思いもしませんでした。」  辰巳が感動していると、編みぐるみ制作を続けたまま樹里奈がにこにこ笑顔で答える。 「蒼いタイルの丸いお風呂も、赤い洗面台も可愛かったです。お掃除道具も、ハタキに動物のお顔がついていたり、箒と塵取がキリンの形をしていたり、掃除機も丸くてクルクル回って可愛くて楽しかったです!」  嬉しそうに熱弁する彼女。世間知らずのお嬢様に自立の大変さを教える筈だったのにうまくいきすぎたようだ。さすが千晶さんマジハイスペック。でもまあ、これはこれで良いかと思う一日だった。





 

千様とお嬢様二日目

 たくさんの人。たくさんの音の中に、樹里奈は居た。ドアtoドアでない初めての都会。 「樹里奈様、大丈夫ですか?」  人混みの中、手を繋いだ千晶に尋ねられる。実は樹里奈は少し前から右足に違和感をもっていた。 「ちょっとこちらへ。」  肩を抱かれて隅に連れて行かれる。 「足見せて。ああ、靴擦れになってますわね。」 「ああ、本当ですね。」  覗き込んだ博人が言った。少し踵が赤くなっている。 「樹里奈様、なぜすぐに言って下さらないのですか!」 「今さっきなったばかりなのですわ。…あの、千様はどうしてお気づきになられたのでしょうか?」  一番心配しているのは辰巳だ。深窓の令嬢である樹里奈が怪我をするなど珍しい事なのだろう、顔が青ざめている。彼はすぐに絆創膏を取り出してそこに貼った。 「すこし、歩き方がおかしいと思ったので、――もうこんな時間なのね。お弁当は白鳥で頂きましょうか。」  千晶は赤いベルトの腕時計を見て言う。 「会社ですか?」 「ええ。秘書課に混ぜて頂きましょう。」 ****** 「こんにちは。」  秘書課と、金の文字が埋め込まれた重厚な扉を開けるとそこには―― 「千ちゃーん!」  待ち構えていた白鳥昇が千晶に抱きついてきた。 「副社長ぇ…」  博人は苦笑いである。 「昇様、樹里奈様もいらっしゃいますので、落ち着いてください。」 「あ、こんにちは樹里奈様。白鳥へようこそ。」  千晶に言われて、樹里奈に挨拶するが、千晶をホールドした腕は放さない。  もしかしたら、せっかく夏休みで千晶と過ごせるはずだったのに、樹里奈にとられてすねているのかもしれない。 「…まったく。」  小声でつぶやいた千晶は大人しくその腹に(身長的に頭が腹にあたる)大人しく顔を埋めた。会いたかったのは昇ばかりではないのだ。  ハートを飛ばす二人は置いておいて、似非紅二点の石松成人が樹里奈に話しかける。 「樹里奈様、髪綺麗ですね。触っても良いですか?」  樹里奈はクリーム色のナチュラルカールのロングヘアーである。 「あ、は、はい。」  タレ目美人に褒められて、樹里奈は戸惑いながらも嬉しげだ。 「うわぁふわふわだぁ。熊!ふわふわだよ!」 「熊?」 「俺の事です。名前が態度の態なので。」  一番体格の良い、石井態が名乗り出た。 「僕は石松です。お兄さんは?」 「樹里奈様のお世話係をしています高橋辰巳と申します。」 「千様お久しぶりです。」  続いて、天宮高志が千晶に挨拶すると、他の面々も口々にそれに続く。 「天宮さん、皆さん、お久しぶりです。美千代様と陽様とテンテンさんは今日は?」 「社長と陽さんは定例会議でそのままお食事に。テンテンは敬語ができないので。」  入口付近でそうしてわちゃわちゃしていると、奥から声がかかった。 「あの、千様。」  似非紅二点のもう一人、山瀬千尋だ。成人とは雰囲気が異なるが、こちらもタレ目美人である。 「あら、貴方は新人の…」 「はい、山瀬千尋です。テーブル片づけたのであちらにどうぞ。」 「へぇ。じゃあ、昨日は家事をなさったんですか。」 「はい。とても楽しかったです。」  高志の質問に、樹里奈は本当に楽しそうに答える。  手作りの弁当やら、コンビニの弁当やらを広げてテーブルを囲む。椅子が足りない分は、デスクから引っ張ってきた。  態が家事全般が壊滅的にできない成人に、意味ありげな視線を送る。その視線をあからさまに無視して成人は樹里奈に話しかけた。 「今日はもう何処かに行かれました?」 「はい。新宿に行ってきました。人ってあんなにいらっしゃるんですね。」 「人混み大丈夫でした?」 「はい。千様が手を繋いでくださって、特に人の多い所では肩を抱いてくださって、人に潰されることもありませんでした。」  千晶のハイスペックさに秘書課一同弁当を口に運ぶ手を止め、拍手する。 「さすが千様。」 「我らが千様。」  千晶が誉められたのが嬉しくて、樹里奈は頬を染めて、他の千晶に助けられたエピソードを捜す。 「あとあと、電車やバスの乗り方も教えてもらいました。」 「え、じゃあここまで乗り継いできたんですか。」 「はい。電車も混んでいて席が無かったんですけど、平気でした。一度揺れでバランスを崩してしまったんですけど、その時も千様が支えて下さって。」  その時のときめきを思い出して、樹里奈はほわっと頬を染めた。その表情はまるで恋する乙女の様。 「ん?」  成人が笑顔のまま首を傾げた。 「それを言うと私も博子さんに支えて貰ってしまいました。私も電車は初めてだったもので、すみません。ありがとうございます。」 「いえいえ、気にしないでください。」  続いて便乗した辰巳が博人とのエピソードを語る。頬を掻いて改めて謝罪と礼を述べる。それに博人が照れ笑いで答えればいわゆる良い雰囲気の出来上がりだ。 「んん?」  また成人が首をかしげた。  他の面子はその空気に気が付かない。 「この後の予定はどう?」  千尋が聞けば、樹里奈はわくわくと効果音が付きそうな輝くひとみで答える。 「明日は白百合公園にサイクリングに行くので、今日はこれから持っていくクッキーを焼いて、お弁当の下ごしらえをするんです。」 「白百合公園ですか面白自転車なんかがあるんですよね。」 「はい。楽しみなんです。」  ぴぴぴと、博人のアラームが鳴った。千晶が腕時計で時間を確認する。 「あ、もうそろそろ昼休みが終わる時間ですね。私たちはこれで失礼します。」 「あの、最後にちょっと良いですか?」  立ち上がりかけた四人に成人が話しかけた。 「はい。」 「樹里奈様は千様をどう思いますか?」 「え、えぇと…とても素敵な方だと思います。」 「ありがとうございます。」  前で合わせた手を擦りながら、もじもじと頬を染める樹里奈に、千晶は普通にお礼を言う。これは…気づいていない。 「高橋さんは博子ちゃんをどう思いますか?」 「とても素敵な方だと思います。女性らしく可憐でありながら力強くて、しかもお優しい。」 「改めて言われると照れますね。ありがとうございます。」  精悍な顔を淡く染める――成人にはそう見える(色眼鏡ではないはず)。辰巳に、博人も普通にお礼を言った。 「ナルさんもう良いですか?」 「あ、はい!」 「じゃあ、行きましょうか。」 「またいつでもいらしてくださいね!」  今度こそ四人が去って行った。 「今の質問なに?」  すぐ後ろから居ないはずの人に声をかけられて、成人は飛び上がった。 「うわっ、陽さん!いつの間に!」 「今の間です。」 「社長もいるよ。」  大きなサングラスのブリッジをクイッとあげる彼の隣で、美千代が顔の横で右手をくるっと捻ってポーズをとった。 「何キャラですか。」 「え、皆さん分からないんですか?」  今度は千尋の後ろから声がかかった。ちなみにこの分からないが掛るのは「何キャラ」ではなく、「今の質問なに?」の方である。 「うわっ、て今度は遊馬かよ。どこから湧いた。」 「湧いたとか酷いです、千尋さん~。」  ソファー越しに伸びてきた腕を千尋は叩き落とした。 「そういうの要らないから。お前は分かるのかよ。」 「分かりますよ。恋に落ちたんだってことが!」  ここで遊馬のハンサムな決め顔。 「はぁ?」  気の抜けた声を発する態。 「は?」  高志。 「え?」  美千代。 「え?」  陽。 「えぇ?」  驚きの声を上げる昇。 「えー?」  あからさまに不信の声を上げる千尋 「イエス!」  ただ一人、親指を立て、力強く同意した成人。 『えぇぇえ!?』  驚きの声を上げる一同。 「マジなの!?」 「誰が誰に!?」  早速二人に詰め寄った。 「樹里奈様が千様に。高橋さんが博子ちゃんに。」  千尋の質問に成人が答える。 「何でそんなこと分かるんだよ。」 「見てれば分かりますって。皆さん鈍すぎです。」  今度は遊馬。 「さすがプリンス&プリンセス…」 「千尋先輩も女役だったじゃないですか。」 「やめてそれ俺の黒歴史。」  そして赤い制服を着ている今、黒歴史を更新中なんですね、分かります。 「ところで昇が静かなんだけど。」  美千代が言えば全員が彼を見る。昇は大きな体を丸めて、青ざめた顔を伏している。 「……どうしよう、千晶がとられちゃう!」 「いやいや、取られませんって。」 「千晶は昇が大好きだから安心してなよ。」 「まあ、樹里奈ちゃんはあんまり人と触れ合ってきてないし、恋愛と言うよりは敬愛って感じですよね。」  成人と陽が声をかけて慰めて、遊馬が丸く収める。 「高橋さんはどうですかね?」 「博子ちゃんはフリーよ。」  まさかの高志が蒸し返せば、成人がふざけて返した。でも、これも放っておけない問題ではある。 「でもあれは女性なのに力強いっていう所がポイントなんじゃ?」 「なんだ態分かってるじゃない。」 「いや、そうだと思って会話を思い出したらそうかなと。」 「まあ良いじゃない。二人が居るのって明日までだろ?自覚しないまま終わるかもしれないし。」  ぱんぱんっ  だらだらと続きそうな会話を美千代が手を打って止めさせた。 「山瀬の言うとおりだ。ほら、もう昼休み終わったぞ、仕事に戻れ。」 『はーい。』





 

千様とお嬢様三日目

 樹里奈がやってきた二日目の夜、千晶の元にボディーガード仲間の藤本光から電話があった。 「千晶ちゃんにお知らせです。」 「…光様?」 「ああ、今は千様か。」 「何かありましたの?」 「うん。隼人がね。博子ちゃんに一目ぼれしちゃった。」  プスーッと不謹慎な笑いを続ける光。 「…マジか。」 「素が出てる素が出てる。隼人一昨日からここに居るじゃない、それで昨日、博人たちが出かけるところをたまたま見ちゃってさー。」 「それで?」 「面白いから煽っちゃた。てへぺろー」 ****** 「ねぇ、博子ちゃん。」  樹里奈がやってきて三日目。朝食の食器を洗いながら、千晶は隣で食器を拭く博人に話しかけた。 「なんですか、千様?」 「千様、千様やるの疲れちゃった。」  ため息交じりに弱音を吐く彼女。素がヤンチャな少年のような千晶だ、四六時中お嬢様のふりをし続けるのは辛いだろう。博人も女装を強要されているが、口調は一人称以外素のままなのでまだましだ。 「今日で終わりなんで頑張ってください。」 「蟹股になりたい。」 「我慢してください。」 「サイクリングで全力を出したい。」 「我慢してください。」  しかし、博人には励ますことしかできない。  千晶はそんな博人を見て、 「まあ、良いか。なんか面白いことになりそうだし。」 「?」  何か不思議なことを言った。 「千様、どうかなさいましたの?」  気になったが、テーブルを拭き終えた樹里奈がやって来たので話はここまでだ。 「いえ、何でもありませんわ。」  お嬢様の仮面をかぶった千晶は完ぺきな笑顔で対応した。  晴れているが、湿度は低く、気温も近頃の猛暑を考えれば、幾分過ごしやすい日になった。林を縫うように整備されたサイクリングロードは木の影が落ちてより涼やかだ。 「はー。気持ち良いです―。」 「そうですね。」  樹里奈の持ち物に、動きやすい服は無かったので、千晶のを貸した。色違いのお揃いのウェアに、自転車も色違いだ。千晶がモスグリーン、樹里奈が山吹色。  二人が、青々とした林の緑と、風の運ぶ木の香りを感じていると、後方からエンジン音が聞こえてきた。この道は、バイクの通行も自由だ。 「――樹里奈様、端に避けてください。博子ちゃん。」 「はい。団体ですね。」  支持を受けて、後ろを走っていた博人と辰巳も一列になる。もちろん博人はこの日もメイド服だ。今日は白とオレンジのボーダーの生地に、デニムのフリルやワッペンの付いたアメカジ風である。  と、バイクの集団の一人が樹里奈の腕を掴んだ。 「きゃぁっ!」 「樹里奈様!」  山吹色の自転車が倒れる。叫ぶ辰巳の目の前で、樹里奈はそのまま、バイクに乗せられてしまう。 「博人!」  千晶が叫んだ。 「はい!」  答えた博人は高速で腕を振り、万能ブレスで木刀を取り出し、集団の一人を叩き落とす。顔が見えないようにと全員がフルフェイスのヘルメットを着ているうえ、ライダーをスーツを着こんでいる。そして、下はコンクリではなくゴム製だ。大した怪我ではないだろう。  千晶は主人の居なくなったバイクが倒れる前に飛び乗った。 「千様!?」  辰巳が驚きの声を上げている間に、博人はもう二人叩き落とし、その一つに跨る。 「高橋様も早く!」 「は、はい!」  二人で先に行った千晶を追う、いや追おうとした。しかしそこに彼女の姿は無く、在るのは樹里奈を連れ去った奴と、その仲間のバイクだけだ。 「追いつけない…っ」  なかなか詰まらない樹里奈との距離に隼人が舌を打つ。メイド服では不利だ。しかし、次の瞬間、彼はとんでもないものを見た。 「千晶さん!」  誘拐犯の横の林から、千晶がバイクごと飛んできたのだ。 「樹里奈、屈めぇぇええっ!!」  空中でバイクを乗り捨てて樹里奈の乗るバイクのハンドルに両腕で着地した千晶はそのまま、ハンドルを掴んで、樹里奈を抱き込んでいる運転手を回し蹴りで落とした。そのまま空いたシートに着地し、体制を立て直す。 「せ、千様!」  樹里奈は千晶の勇士に瞳を輝かせている。彼女は取り戻した。しかし、まわりは敵のバイクに囲まれている。 「…くそっ」 「千晶さん!あの枝!」  博人の言葉に、前方に飛び出した太い枝を確認する。 「体捻って俺に抱きつけ!」 「え、え」  戸惑いながらも千晶の体に腕を回す樹里奈。千晶は彼女を左腕で抱き寄せ、 「いくぞ。」 「きゃぁっ」  立ち上がり、飛んだ。右手で枝を掴み、ぶら下がったまま集団が過ぎるのを待つ。諦めた集団が去って行ったのを確認して、降りた。 「よっと。」 「千晶さん!」 「秘書課に連絡して、転がってる四人を回収してもらえ。」  着地前に姫抱きにした樹里奈を下ろし、駆け寄ってきた博人に指示を出す。 「千様…」  樹里奈が頬を染めて、千晶を見ている。 「博子さん…」  辰巳が目を輝かせて博人を見ている。  樹里奈お嬢様の誘拐は無事阻止したが、二人の本性がばれてしまった。 ******  屋敷に戻ると、千晶はバタンとペティットベッドのように愛らしいソファベッドに倒れ込んだ。 「あーもう、疲れた。」 「千晶さん、素が出てます。」 「良いだろ、もう。ばれたんだから。」  すかさず博人が注意するが聞きやしない。しょうがないので捲れた裾を直してため息を吐いた。 「まさか、千様の素がこんなに凛々しいとは思いませんでした。」  その様子を見て辰巳が言う。 「凛々しいと言うかなんというか…。」 「お強いんですね。」 「舞踏家ぞろいの秘書課でも誰も彼女にはかなわないんですよね…。」 「そうなんですか。すごいですね。」  まあ、悪い印象を与えていないのなら良いのだが。  そんなことよりどうせなら自分もメイド服を脱ぎたいなぁ、などと博人が考えていると、辰巳が緊張した面持ちで言った。 「あ、あの、少しお時間頂いてもよろしいでしょうか。」 「はい?」 「ですから、その…」  博人が鈍感すぎて話が進まない。身を起こした千晶が二人を促した。 「良ぞ。二人で話して来たら?俺と樹里奈様はここでのんびりしてるから。な、樹里奈様?」  しかし、樹里奈は何故か浮かない顔だ。 「樹里奈で良いです。」 「樹里奈。」 「はい!」  呼び捨てにされて、ご機嫌になった。  そのやり取りを微笑ましく思いつつ、博人は辰巳を促す。 「そうですか?じゃあ、外に行きましょうか。」 「はい!」  二人を見送ってすぐ、千晶は誰かに電話をかけた。そして、すぐに通話を追えて樹里奈に言う。 「じゃ、俺たちも行きますか。」 「敬語もいりません。って、え?」 「今から修羅場が見れるぜ。」 「え、ええ?」  悪ガキのごとく笑顔の千晶に腕を引かれ、訳も分からぬまま樹里奈は林に連れて行かれた。 「千様、千様!こっちこっち!」 「おう。」  草陰で金髪ショートの美女否、美男光が手招いた。それに応えて、隣から彼と同じように、植木の向こうを見れば、博人と辰巳と金髪のヤンキー改め青木隼人が真剣に向き合っている。 「あれ?もう千晶で良い感じ?」 「ああ。今どうなってんだ?」 「博子ちゃんと高橋さんが話してるところに隼人が乱入して告白。慌てて高橋さんも告白、博子ちゃんの答え待ちナウ。」  説明も無いまま会話を聞いていた樹里奈が、ここで驚きの声を上げる。 「まぁ!辰巳さん、そうだったの…」  三人はまだ固まったままだ。 「さあ、博子はどう出るのか…」  博人はどうしてこうなったのか、と運命を呪わずにはいられない。なぜ男の自分が男にモテなければいけないのか。しかも一人は実の弟。兄の女装だよ、気づいてよ!まあ、気づかれても良くは無いが…。  博人がそんなことを愚だ愚だ考えていても、二人は答えを待っている。彼は意を決して口を開いた。 「あ、あの…。僕は……お二人のどちらが、大事かと言ったら、隼人が大事です。」 「え!?」  隼人が驚きの声を上げた。いきなり割り込んだ自分が選ばれるとは思わなかったのだろう。それはそうだ彼の望む意味で選んだわけではない。 「そんな」  辰巳も驚きの声を上げた。いきなり割り込んだ(以下略)。 「だって、僕は――隼人の兄貴だからぁ!」 「え」 「え」  場が凍りついた。  そこに、割り込む場違いな馬鹿笑い。 「ぎゃはははははっ!」 「しぬぅ、しぬぅ、腹筋が…っ」  言わずもがな、盗み見していた千晶と光である。 「お前ら!?」 「やべー、面白すぎ…っ」 「ご、めん…っ隼人、笑い止まんな、ひ…っ」 「千晶さん!光さん!」  隼人は笑いながら謝る光の胸ぐらを掴んで揺さぶった。 「なんだよ、お前!知ってたんなら言えよ!ふざけんなっ!兄貴もなんでそんな恰好してんだよ!」 「なんかごめん…」  自分は悪くないのに半泣きの隼人に責められて、反射で誤ってしまった。 「博子さんが…博子さんじゃなかった…」  辰巳はショックで、地面に手を付いて、影を背負ってしまっている。 「博人ですみません…」  これも自分が悪いわけではないのだが…。 「社会って、怖いんですのね。」 「そうだよ!社会怖いの!分かった!?良かったね!」  マジマジと言う樹里奈。千晶は高いテンションを引きずったまま、その肩たたいて喜んだ。





 

アフタヌーンティー

 昼休みの秘書課で、赤い制服二人と、スーツ一人が頭を突き合わせて何やら相談をしているようだ。  休憩用のソファセットに座って、真ん中のテーブルには店紹介のフリーペーパーを広げている。 「先輩、僕この店も行ってみたいです。」  赤い制服の石松成人が、しっとりとした生地が売りのケーキ屋を指して言う。先輩、と呼ばれた山瀬千尋は苦笑いだ。 「今はナルちゃんが先輩でしょ?」 「あ、そうだった。えーじゃぁ何て呼んだら良いんですか?ヒロちゃん?ちーちゃん?山ちゃん?おませさん?」  指摘されて、ふざけたあだ名を並べていく成人。そこに自分の分のお茶と弁当を持って、青木隼人が話しかけた。 「何の話ですか?」 「あ!良い所に!博人も先輩の呼び方考えてよ!」  成人がそう言えば、 「え、そう言う話でしたっけ?」  と、この日も千尋に会いにやって来た、スーツの王司遊馬がボケを重ねる。 「違うよ。」 「どういう話だっけ?」  良心千尋がツッコみを入れるのに、成人がまたボケ倒すのだから、彼はぷぅっと片頬を膨らませた。 「もー、ナルちゃんは。」  そんな同高組三人を微笑ましく思いながら、博人はフリーペーパーを視界に入れた。二つの店に赤丸で印が付いている。一つはケーキ屋もう一つはカフェのようだ。 「行かれるんですか?」 「うん。本格派のアフタヌーンティーのお店ができたらしくて。次の休みに行ってみようっかなって話してたんです。」  博人の問いに千尋が答えた。 「良いですね。」 「博人も一緒に行こうよ。」 「え、良いんですか?」 「うん。熊も行くし。」 「初耳なんだが。」  はしゃぐ成人に、デスク側から声がかかる。 「今言ったもん。」  悪びれない成人にため息を吐いて、自分で課した午前のノルマを終えた石井態が、二人分の弁当を持ってやってきた。 「余計良いんですか?それ、ダブルデートじゃないですか。」 「あ、俺も俺も!俺も行きたい!高志も!」  博人がそう言えば、お昼を買いに出ていた天宮高志とテンテンが帰ってきて、乱入してきた。今来たばかりなのになぜこんなに自然に入って来られるのか。 「グループデートですね。」 「うわっ」  いつの間に居たのか、すぐ後ろ、至近距離で社長第一秘書の陽の声が聞こえて、博人は危うくカップを落としそうになった。 「陽さん、いつの間に!?」  振り向けば、すでにいない。え、え?と、その姿を捜せば、社長室の扉の前に立っていた。これが瞬間移動か。 「社長。」  ノックをすればすぐに我らが社長・白鳥美千代が自らその扉を開き、顔をのぞかせ、すっと秘書課を見渡した。そして、テーブルのペーパーを見て一言、 「行く。」 『おお。』  こうして秘書課みんなでのお出かけの予定が立った。 ******  刷けの痕を態と残した白いペンキの壁に、蒼い屋根の木造テラス。磨き上げられたガラスの向こうは、ブルーの無地と、青いバラの二層になった壁紙に、金の額縁の絵画かけられ、天井からは小さなシャンデリアがいくつも下がる。  清楚なインテリアを背景に、白いレースのクロスのかかったテーブルセットの中心に置かれるのは、三段のアフタヌーンティースタンド。下から順に、サンドイッチ・スコーン・ケーキ。バラ柄の食器は透かし彫りの淵が波打て、それ自体が花の様だ。  夢のような空間。しかし、外界とそこを隔てる扉を開けて、出てきた秘書課一行は何故か浮かない顔をしていた。 「…まさか予約が必要だったとは。」  千尋が力無く呟けば、 「もう、ペーパーに書いてなかったんですかぁ!?」  自分も企画の中心であるにも関わらず、成人がプンプン怒る。 「お前が言うのかよ。」  態の言うことがもっともだ。 「す、すみませんっ、僕がちゃんと確認しておかなかったから。」 「なんで青木さんが謝ってるんですか。」  今度は何故か謝りだした博人に高志がツッコむ。 「だって、僕が一番下っ端ですし!」 「同期ですが。」  二人でそんなことを言っていると、成人がその肩を叩いた。 「ちょっと、ちょっと、君たち。」  彼の視線を追うとそこでは、顔を蒼くした本当の下っ端、と言うか新入りの千尋を、遊馬が必死で庇っている。 「ち、千尋さん!違いますよ!一番下っ端は、俺ですよぉ!」  責任の擦り付け合いならぬ、奪い合いが始まった。仲が良いのはよろしいが、これでは収集が付かない。美千代は苦笑いで声をかけた。 「お前ら、ストップ。」 『はい!』  良い返事だ。静かになったのを確認すると、美千代は次に千尋を呼んだ。 「山瀬。」 「はい…」 「しゃ、しゃちょ」 「王司にデコピン。」  心配した遊馬が割り込もうとして遮られる。そしてその命令に一番に反応したのもその遊馬。 「はい!」  っと、良い返事をして前髪を掻き上げた。 「ううぇぇ!――って、準備万端か!気持ち悪ぃ!」  ごっ 「ぁうっ」  結構な音がしたが、まあ大丈夫だろう。一連の行動を見届けて、美千代は今度は博人と高志に視線を移す。 「青木と天宮が山瀬にデコピン。」 『失礼します。』 「ぃたっ、ぃたっ」  それを見て何を思ったか、テンテンが高志に抱きついた。 「高志!俺も俺も!」 「はいはい。」  二人は放っておいて次は成人。 「教育係、二人にデコピン。」  雇い主の指示に、成人は元気よく手を挙げる。 「はーい。てかその設定続いてたんですか。」  言いつつ高志に、ピンッ 「うぉっ」  博人に、ピンッ 「はぅっ」 「設定言うなっと。」  続いて態が成人にかました。 「ったぃ、まだ言われてないのに…」  ぶーぶー文句を垂れる成人に一言、 「教育係の教育係だ。」 「納得できない…」  次に美千代は隣を見た。 「陽。」 「失礼します。」   言われなくても役割は把握している。陽は態に声をかけて、その額を弾いた。 「で、俺がお前にな。」  陽には美千代がデコピンをして、一同を見渡す。 「じゃぁ俺には…一周回って王司がやるか?」  雇い主にそんなことを言われて、とんでもないと王司は首をぶんぶん振った。 「いやいやいやいや、無理ですよぉ!」  そんなことをしていたら陽が動いた。 「美千代。」  美千代の前髪を掻き上げて、そこに唇を落とす。 「~~っ」  美千代はぱちぱちと瞬きをして、やっと状況を理解したのか、みるみる頬を紅葉させた。 「仕方ないですし、違う店に行きましょうか。」 「どこに行く?」  まあ秘書達にとっては見慣れた光景である。まだ慣れないのは千尋と遊馬だけだ。  自分もずいぶん神経が太くなったものだと博人が感心しつつ、促せば、態が反応してくれた。 「あ、俺ペーパー持ってきてるよ。」  ごそごそと鞄をあさって、千尋がそれを差し出す。思ったより立ち直りが早い。 「美千代、頭葉っぱついてる。」 「サンキュー。」  そして、美千代と陽は次のいちゃいちゃに移行したようだ。 「高志おんぶー」 「変化といたらな。」  こっちもか。 「僕ここ行ってみたかったんだよね。」  成人がそう言って一つの店を指すから、態が覗けば、 「雑貨屋じゃねぇか。」  目的から外れているし、 「千尋さん!ここ可愛いですよ!今度一緒に行きましょう!」 「おまえらなぁ」  それに遊馬がのってしまうのだから千尋は呆れてしまう。 「青木君何とか言ってやってよ。」 「あ、あそこのコーヒー美味しいですよ。」 「えー、紅茶が良い。」  求められた助けに答えたのに、無にされた。もう、ナルさんったら… 「じゃあうち来るか?」 「きゃぁ!良いんですかぁ!」  美千代の提案に成人が喜びの声を上げる。 「その声可愛いな。」  と思ったら態まで惚気だしてしまった。 「やん、もう熊ったら。僕、千様ハウスのテラスが良いです!」 「人数的に辛いだろ。」 「じゃあ、本館の屋上。」 「ああ、それは良いな。」  希望が通って、成人がわーいとテンテンと喜びを分かち合った。 「みんなで用意するんですか?」  移動は車で。運転は博人の仕事だ。  見えないところで手を繋いでくる遊馬にどきまぎしつつ、千尋が美千代に聞いた。 「青木の時間外労働。」 「え、あ、はい!頑張ります!」  いきなりふられた博人は慌てて答えた。ちなみに今現在も時間外労働中だ。 「博人の淹れるお茶、最近美味しくなったよね。」  成人に言われて嬉しくなる。 「安部さん直伝なんですよ。」 「あ、ケーキ!」  もう聞いてないし。窓から見える景色の中に、ケーキ屋を見つけて成人が声を上げた。 「気が多いな。」 「目ざといな。」  博人と態のツッコみが同時だ。 「だって、あそこチェックしてた店だもん!」 「じゃぁ買っていくか。」  そして社長も乗り気なので、また成人の希望がかなった。 ******  九月も半ばが過ぎて、この頃は秋の色が濃くなってきた。  空は高く、風は涼しく気持ちが良い。 「ふわあぁ」  ホーエンツォレルン城と見まがうばかりの城の一角、屋根の無いそこに出ると、千尋が、感動の声を上げた。 「すごい!すごい!夢みたい!おとぎ話に出てくるお城みたい!」  今日初めて白鳥家に来た彼は、敷地に入ってからずっと興奮した様子で、目を潤ませて、頬を染めている。 「はしゃいでる千尋さんかわわぁ!」  同じく初めて白鳥家に来た遊馬だが、こちらは風景よりも、千尋の様子に興奮しているようだ。 「プリンス顔崩れてるよ。」  成人に突っ込みを入れられてしまえば、末期だ。  用意させたテーブルセットの椅子に着いても二人の表情筋は戻らない。 「皆さんお茶がはいりましたよー。」  博人が時間外労働から戻ってきたら、待ちに待ったティータイムだ。





 

猫社長

「セーフ!」  午前9時00分。石松成人は、仕事開始時刻ぎりぎりに秘書課に滑り込んだ。 「お前はもう少し余裕をもって来れないのか。」  デスクに着くと、すぐに隣から声がかかる。 「朝から熊が冷たいー。」  荷物を置いて、すぐにパソコンに電源を入れる。後輩二人が湯呑を持って給湯室から出てきた。 「二人は一緒に住んでるんじゃないんですか?」  天宮高志が熱いお茶を手渡してくれる。ありがとー、と成人が受け取ると、態がその頭をわしゃわしゃと撫でた。 「こいつ待ってたら俺まで遅刻するだろ。」 「頭ぐちゃぐちゃになっちゃうから止めてよ。」 「うるさい。反省しろ。」 「まあまあ、今日は遅刻じゃないんだから。」 「山瀬せんぱーい。」  態のデスクに山瀬千尋が湯呑を置く。彼のおかげでわしゃわしゃ攻撃から解放された。  機嫌よく千尋に甘えに行った成人は、秘書課の人口が、明らかに少ないことに気が付いた。 「博人は?」 「まだみたいだな。社長と陽さんも。」  答えたのは我が物顔で、その博人の席に座っているテンテンだ。高志の隣だから丁度いいのだろう。 「えぇ?いつも一番乗りなのに?今日朝から予定とか入ってたっけ?」 「いや。」 「どうしたのかな?」  聞いた成人も、答えた態も、千尋も、心配が声に現れている。  すると、勢いよく扉が開いた。 「美千代っ!」  現れたのは、漆のように艶めく漆黒の髪に、陶器のように滑らかな白い面、形の良い鼻梁に、ピンクに色付いた薄い唇。血が通っていることが不思議に感じるほど完璧な美。  余りの美しさに秘書課の空気が凍った。 「陽さん!」  しかし、続いてやって来た青木博人の声に、時間が動き出す。 「!あ、陽さんか!」 「そうだ、陽さんだ!」 「そう言えば!」 「え、陽さん!?」  成人がポンと手を打って、態と高志も納得した。ただ一人、新人の千尋が驚きの声を上げる。  千尋以外は、社長第一秘書の陽は、人気アイドルユニットNGのTELと双子の兄弟で、いつも大きなサングラスで隠されている素顔は、彼と瓜二つの人知を超えた美形であると聞いてはいたのだ。実際に見たのは初めてだが、しかし、目の色が… 「目の色が違うだけで、結構変わるんだな。」  テンテンが感心したように言った。そう、彼の目は、星を散らしたように輝く金色だったのだ。  過去に実物のTELを目の当たりにして、その上、テンテンと言う実際に人外の美を日ごろから拝んでいる面々である。ただ彼が美しいというだけで、空気が凍るはずもない。  秘書課の空気が凍った原因はこれだ。厚い睫毛に覆われたその輝く大きな双眸が、彼をより神秘的なものに見せ、その美の相乗効果で、凍ったのだ。  今まで頼んでも見せてくれなかった素顔を晒した彼は、秘書達が固まっているうちに、秘書課を一望して、今は社長室を覗いている。 「美千代!居ない、なんで…」 「陽さん…」  取り乱す陽に、博人が近づく。 「青木さん!美千代が居ない!」  博人は、肩を掴んで揺さぶってくる彼の手を取って握った。 「落ち着いてください、安部さんたちも白鳥の技術を駆使して探していますし、陽さんがそんなに取り乱してもどうにもなりませんよ!」 「だって、だって…」  不穏な空気に態が尋ねた。 「すみません、何かあったんですか?」 「今朝起きたら、社長が居なくなっていて、万が一の時のためにつけていた発信機も機能しないんです。」  淀みなく状況を説明する博人だが、心配げに眉がよっている。 「何か、心当たりとかは無いんですか?」 「ない。そんな、夜のうちに突然いなくなるなんて、なんで…」 「陽さん…。」  博人は、今にも泣き出そうに瞳を曇らす陽に向き合った。 「安部さんも言ってたじゃないですか。社長が見つかるまで、僕たちには僕たちのできることをするしかないんです。今はとりあえず、目先の仕事です。社長が居ない今、スケジュール調整をするのは必須ですし、陽さんのやるべきことも山ほどあるんですよ。」 「そう、だな…」 「そうですよ、ですから着替えてしゃんとしてください!」  自分も心配だろうに健気に励ます博人に、陽はお礼を言って更衣室に向かった。 「心配だね。」 「そうだね…、ごめんちょっと、経理行ってくる。」 「あ、行ってらっしゃい。」  息を吐くように、心配だ、と口ぐちに言う秘書達。しかし、今は自分たちの仕事をすることしかできない。千尋は、隣の成人に声をかけると、書類を持って秘書課を後にした。 ****** 「ありがとうございました。」  書類を受け取った千尋がそう礼を言って、廊下に出ると、階段の方から焦った声が聞こえてきた。 「お待ちなさい、そこの猫!」 「にゃーっ!」  会社内で聞こえるべきで無い鳴き声だ。その鳴き声は一気に近づき、主は千尋にかけ登る。 「うぇ、え!?」 「すみません!その猫、すぐに追い出しますから!」  言われて、千尋は、赤い制服にしがみつく薄汚れた猫を剥がそうとする。 「にゃーっ!にゃーっ!」 「離れない…だと!?」  しかし、一行に離れる気配はない。 「にゃにゃーっ!!」 「え、え、何で!?」  必死で引きはがそうとするが、猫も必死でしがみついてくる。このままでは、制服がダメになってしましそうだ。  そこに、凛と透き通る声が割いった。 「ちょっと、騒がしいわよ。」 「あ、明様。――って、あ!」 「にゃーっ!」  猫が彼女の白衣に飛び移る。  何てことを!と、彼女の恐ろしさを知る千尋及び通行人が固まるが、当の明は当然のように猫を抱きとめた。 「あら、ミィ君じゃない。自力でここまで来たの?」 「すみません、すみません、ってえ?」  自分の身から猫が移ってしまったことに対して繰り返し謝罪を続けていた千尋の口が止まった。 「知ってる猫ですか?」 「知っているというか…。陽の猫よ。連れて行ってあげなさい。」  猫は再び千尋の腕の中に戻り、 「にゃーっ!」  嬉しそうに鳴いた。 ****** 「陽さんいます?」 「陽さんなら、社長室ですよ。って、猫!?」 「にゃーっ」 「あ、ちょっと!」  薄汚れたロシアンブルーを抱えて、秘書課に入る。入り口前のデスクの博人が、陽の所在を教えてくれた。それを聞いたとたんに猫が腕の中をすり抜け、ちょうど社長室から出てきた陽の胸に飛び込む。 「ミィ君!」  嬉しそうに名前を呼び、抱えた猫に幸せそうに頬を寄せる陽。さっきまで社長が居なくて死にそうだった人と同一人物とは思えない。よっぽど大事にしているのだろう。 「良かった、ミィ君…。」  猫は陽の腕に尻尾を絡め、涙ぐむ陽の目元を舐めた。  良かったとはどういう事か、最愛の社長と、愛猫が同時に行方不明になっていたと言う事なのか。 「利口そうな猫ですね。陽さんの猫なんですか?」  その疑問は、高志の質問によってすべて解決した。 「あ、いや…えーと。この子、美千代。」  言い淀んだ後に、陽が発した答え。 「え?」  今、何と? 「美千代なの。」 「はぁ!?」  会話に参加していなかった、秘書達の声までシンクロした。  陽が冗談を言うなんて思わない、いや、博人の面接のときにはお茶目な部分も見られたし、冗談を言うこともあるのか?いや、だがしかし、今は社長が行方不明という緊急事態である。  しかし、この猫が社長であるとはにわかには信じられない。いや、でも犬が人間になったり、天使が居たりする秘書課である。もしかしてこれは常識の範囲内?いや、そんなバカな。 「まぁ、信じられないよな。今証拠見せるよ。」  陽は混乱する千尋を連れて、パソコンの前に猫を下ろした。秘書達がその周りに集まってくる。 「ミィ君、どうして猫になってるのか教えて?」 「にゃー。」  陽の呼びかけに答えて、肉球でキーを押していく。 『昨日の夜、どうしてもパルムが食べたくなって、コンビニに行ったら、今まで普通だった場所に何故か負の感情が溜まってたみたいで、猫になった。自分の乗ってきた車には乗れないし、どうにかして帰ろうと思って、信号待ちのトラックの荷台に乗ったら、知らないところに行っちゃって、どうしようかと思って歩き回ってたら、駅に着いたから、こっそり乗ってここまで来た。疲れた、眠い。』  以上を打ち終わると、ミィ君は陽の懐に潜り込んで寝てしまった。 「なんで、トラックに乗ったのか…。」  博人がボソッと呟く。 「どじっ子?」  成人があざとく言う。 「てゆうか、普段から夜中に出てってるわけ?」  テンテンが呆れて言うと、 「後で叱っておきます。」  陽が社長の威厳を踏みにじった。 「社長ぇ…。」 「俺は今からミィ君を洗ってくるので、青木さん。隆正さんに連絡しておいてください。」 ****** 「ところで陽。」 「なんですか、テンテンさん。」 「なんでそいつ猫になってんの?」 「美千代は守護霊が、猫なんです。その猫と相性が余り良く無くて、穢れを溜めこむと猫になってしまうんです。ついでに言うと俺はその穢れを祓うことができます。ちなみに、その時はこの目が金から青に変わるんです。」  洗われて、ひと眠りした美千代は、機嫌よく千尋の手にじゃれている。  千尋の猫好きが伝わっているのか、目が覚めてから、美千代は陽と千尋の間を行ったり来たりしていた。 「綺麗になったら、より美人さんになりまちたねー。」 「にゃー」  背を撫でて、頭をぐりぐりして、喉を擽る。気持ち良さそうにごろごろ鳴いた。 「山瀬さん、一応社長ですからね。」 「あ、そうだった、つい。」  博人が声をかければ、はっとして手を放した。 「まあ、美千代だから大丈夫ですよ。」  しかし、それに対する陽のコメントはまたしても社長の威厳を…。もしかして、美千代に怒っているのか? 「陽さん…。」  千尋は素直に喜んでいいのか、複雑そうだ。  博人は気をとり名をして、伸びをする。 「まあ、これで一安心ですよね。僕たちは仕事に戻れば――ああっ!」 「どうかしました?」  突然声を上げた博人に、隣のデスクから、高志が少し驚いた様子で声をかけた。博人は彼には答えず、書類を整理している陽に向かって話しかける。 「陽さん!今日、ORINNPUSUの契約の日ですよ!」 「そう言えば今日の夕方だったか、美千代は間に合わないな。昇は他に仕事があるし、…俺が行く。」 「ダメですよ、白鳥の人間がいかないと。印鑑はともかく、拇印も必要ですし、何より相手の心象が…」  ORINNPUSUとは、白鳥と肩を並べる世界的大企業である。この契約は、こちらの勝手な都合で日を改めることはできないし、不適切な対応をとることなんて絶対にできない。どうしよう、どうしようと、ぐるぐると慌てる秘書達に、陽は冷静に言った。 「大丈夫です。俺、白鳥陽なんで。」 「え?」 「だから、白鳥陽なんで。」  本日二度目の衝撃。 「養子ですけど、そこはほら、顔でカバーできないかな、と。――聞いてます?」 「キイテマス。」  秘書課一同、初めて社長第一秘書の名字を知りました。あと、顔でカバーするとか、この人結構いい性格しているな、と妙に歓心してしまいました。





 

家族になろう

 一人と一匹は、焼けたアスファルトに反射する暴力的な熱から逃げて、ナナカマドの並木道を歩く。  暑い午後。どこかで風鈴がチリンと涼しげな音を立てた。風の匂いが変わった――もうすぐ夏が終わる。  「こんにちは。」 「小栗君、こんにちは。夏休みなのに学校お疲れ様。」  秘書課の扉を開けると、入口に一番近い席の博人を始めに、秘書達が口々に洵を迎え入れてくれる。春に臨時で雇われたはずの小栗洵は、今ではすっかり秘書課の一員になっていた。 「髪に落ち葉が付いてますよ。」  そう言って、博人は洵の髪に手を伸ばす。人相手のスキンシップは慣れなくて、少しくすぐったい。 「…ありがとうございます。」  顔を見ていられなくて俯いてしまう。素直にお礼も言えないなんて… 「どういたしまして。」  洵が俯く前に、目じりを染めたことを見逃さなかった博人は、そっと彼の頭を撫でて、顔を上げさせた。 「小栗君。お菓子貰ったんですけど、食べます?」 「い、頂きます。ありがとうございます。」  甘やかされることに慣れていないのか、構うと嬉しそうにそわそわ表情が崩れるのに、視線が逃げるのが面白くて、つい構ってしまう。 「…博人ってさぁ、龍之介のこと好きだよねぇ…」  二人のやり取りを見ていた成人が、しみじみ言った。 「え、そうですか?――あ、好きですけど分かります?」 「だってすごく構うもん。」 「構いたくなるんですよね。」 「洵が構ってもらいたそうにしてるからじゃないか?」  クロイツを構いながらのテンテンの台詞に、洵が真っ赤になって噛みつく。 「な!?構ってもらいたそうになんてしていません!失礼です!」 「ごめん、迷惑だった?」  彼の言葉に博人が眉を下げる。 「い、いえ…そういう訳ではなくて…」 「じゃあ、これからも構って良いかな?」  洵が慌ててあうあうと手を上下させると、彼はにっこり笑って再び洵の頭を撫でた。 「~~っ、……はい…」  嬉しいけど、むずむずする。洵はぶわわっと耳まで赤くして、小さく震えて身悶えた。 「博人さんって、弟さんとかいらっしゃるんですか?」  洵の反応に気を良くして、頭から首までふにふに撫で触っていると、隣の席の高志が訊ねてきた。 「ん?いますよ。高校生二年のと、中学三年のが。下は洵君と同い年ですね。」 「随分離れてるんですね。」 「うん。だから可愛くて。うち、母が弟を生んですぐになくなっていて。その上父は仕事人間だったので、いつも子供二人で居たんですよね。」 「あー!もう止めてください!」  洵は、高志と会話しながらも構い続ける博人から逃れて、タイミングよくすり寄って来た黒いもふもふに抱きついた。 「クロイツ~っ!!」 「三人じゃなくてですか?」 「あ、中学生のほうは、父の再婚相手の連れ子なんですよ。最初に挨拶したきりで顔も見てないんですけど…」  なお続く二人の会話に洵が固まった。 「洵くん?」 「あ、いえ…そうですか。お兄さんっぽいと思いました。」  様子のおかしい彼を博人が覗うと、彼はおどおどと視線を逸らして低く震える声でそう言った。 ******  「そういえば、皆は兄弟とかいるの?僕は一人っ子だけど。」  昼休みに入ると、成人が切り出した。 「あー…」  その顔を見て、皆口々に納得の声を上げる。 「その反応なんかムカつく。」 「ナルナルは一人っ子っぽいよ。」  遊馬の言葉に成人は唇を尖らせるが、皆同意見だ。突き出た唇は例の如く態が押し戻した。 「遊馬も一人っ子だよな。」 「山瀬さんは双子の妹さんがいますよね。」  千尋の投げかけに遊馬はゆるゆる笑って返す。 「王司さんと山瀬さんは面倒見も良いですよね。」 「博人、それ聞き捨てならない。」  博人が言えばすかさず成人が不機嫌な声で反発した。 「遊馬、面倒見良いか?」 「そこ不安にならない。」  千尋が首を傾げるのに遊馬がツッコみを入れる。「いつも千尋さんの面倒見てるじゃないですか~」とはどういう力関係なのか。 「たしかに先輩は下に兄妹居そうな感じします。」 「でも妹って言っても双子だし、面倒は見てないよ。」 「実は熊って一人っ子なんだ。」 「え!?兄弟居ないんですか!?」  千尋の話からいきなり態の話に変えた成人の言葉に博人が思わず声を上げた。 「自由な姉や兄に振り回されたり、奔放な妹や弟に振り回されたりしてないんですか!?」 「俺のイメージどうなってるんだ。」 「苦労人。」 「苦労人。」 「被害者。」  口々に言う。 「それはナルと一緒に居るせいだろう。」 「ちょっと。」  まったくそのとおりだが、成人は不満なようだ。 「俺には自由奔放な姉が居るけどな。」 「おまえも大概自由だよ。」  高志の背中に抱きついて言うテンテンに、高志は表情を変えないままツッコんだ。 「千晶さんにも自由奔放なお姉さんがいますね。」  そう言って博人が笑うと、唐突に扉が開いた。 「呼んだ~?」 「うわぁっ、びっくりした!」  まさかの本人の登場にその場にいた全員の心臓がきゅっとした。 「高志は一人っ子よね?」 「え、あ、はい。」  明はそのまま会話に混ざる。どうして流れを把握できているのかは怖くて聞きたくないというか、「彼女だから」で納得できてしまうのはどうなのだろうか。 「で、社長には副社長が、陽さんには照さんと光さんが居るわけですね。」  明ショックから立ち直った博人が二人に話を振った。最近神経が図太くなったことを自他ともに認める博人である。 「語ろうか?」 「やめとけ。」  それにずれた答えを返す陽は本気なのか、冗談なのか。とりあえず彼を止めた美千代は良い仕事をした。 「洵は?」  博人は家族の話になってからいつも以上に大人しい彼を窺った。 「僕は…」  洵は博人の顔を見て、たまらない気持になって、目を伏せる。 「…僕は兄が二人います。」 「あ、そうなんだ!仲良いの?」 「よく、分かりません…」  そんな風に気を使わないで欲しい。他でもない貴方に。  下を向いたままでいると、トンと背中に誰かがぶつかって来た。振り向いて、褐色の肌を確認する。 「クロイツ、クロイツが居ます!」  険しい表情のまま洵は言った。 「そうだ、皆で家族構成考えましょう。」 「俺が大黒柱で陽が妻だな。」  ポンと手を打つ陽に美千代がのった。 「長男は青木さんと石井さんのどっちにします?」  と高志。 「クロイツはペット?」 「今は人型だ。」 「テンテンもペットじゃない?」 「ペットじゃないやい。」  成人が二人にペット役を推奨する。 「じゃあ、美千代がペットの可能性も…」 「大黒柱!!」  陽の言葉に美千代がすかさず返した。  そうして意見を出し合った結果は以下の通り。    父:美千代  母:陽  長女:明  長男:博人  次男:態  三男:クロイツ  次女:千尋  四男:遊馬  五男:昇  六男:高志  七男:テンテン  三女:成人(テンテンと成人は双子)  四女:千晶   八男:洵 「なんで俺が女だよ!?」  成人の顔に似合わず男らしい文字で書かれたそれを見て、千尋が吠えた。 「千尋さん可愛いからぁ。」 「っせ!」 「痛い!」  遊馬が痛い目をみるのはもう恒例だ。 「私、博人より上なのね。」  頬に片手を当ててしっとりした声で明が言う。 「誰も逆らえないからな…」 「そして千晶はずいぶん下なのね。」 「上に振り回される妹の図が似合いすぎて…」  それに美千代が冷や汗を流しながら答えた。 「副社長と遊馬は逆でも良いと思います。」 「そこも双子で良いかもしれませんね。」  千尋の意見に陽が口添える。  四男:遊馬  五男:昇(遊馬と昇は双子) 「パパママ頑張ったね、12人も生んで。」  二人の意見を書き添えた成人が、ずらっと並んだ名前を見て言う。 「なまなましい話になりますが…」 「しなくていい。」  再び斜め向こうに話が飛びそうになる陽を美千代が制した。 「洵君、あれ持って帰ります?」  博人が家族構成の紙を指して言う。 「え」 「ずっと見てたから。」  その柔らかい笑顔に縋りたくなった。 「博人…」 「ん?」 「お、にいちゃん…」 「はい。」  博人の周りに花が舞う。 「や、やっぱりなんでもありません!忘れてください!」  彼の反応に堪らなくなった洵は、クロイツに「犬に戻って!」と言って縋った。しかし、意地の悪いクロイツは人の姿のまま彼に抱きついて、喉から頬まで舐め上げる。 「セクハラだ!!」  洵の叫び声が響いた。





 

11人様ご招待

 僕の家族 青木洵  僕は、父と母と兄二人と犬と僕の6人家族です。僕の本当の父は7歳の夏に亡くなったってしまったので、今の父と兄二人と血の繋がりはありません。  母は、僕のことをとても大切に思ってくれます。前の父が亡くなってから、僕のことを女手一つで育ててくれ、再婚してからも僕のことを一番に考えてくれます。  父は会社の社長で、僕たちのために忙しく働いているので、あまり顔を合わせることができませんが、母は父とのことをとても幸せそうに話してくれるので、良い人だと知っています。  17歳上の兄はもう自立していて、1歳上の兄は全寮制の高校に進学したので一緒に住んでいません。上の兄はとても優しくて、僕が遊びに行くと、いつもお菓子をくれて、ことあるごとに頭を撫でてきたりします。子供扱いされていると感じることもありますが、僕を本当の弟のように可愛がってくれることがとても嬉しいです。  下の兄とは、あまり話したことがありませんが、兄同士はとても仲が良く、離れても頻繁に電話で連絡を取り合っています。上の兄が言うには、見た目が怖くて、素直じゃないところもあるけど、本当は優しくて可愛い弟なんだそうです。だから、僕もすぐに仲良くなれると思います。  犬のクロイツは、前の父がまだ生きていた頃から飼っている、グレーのアフロ犬です。朝、僕を起こしてくれるのはクロイツで、ご飯も一緒に食べて、寝るときも一緒です。僕が楽しいときも、悲しいときもいつもそばにいてくれました。  母は、僕に家をついで欲しいと考えています。だから僕もその期待に応えられるように、色々なことを頑張ります。 「――ふん。上手いことまとめたな。」  耳と尻尾を出した人型のクロイツは、机の上に広げられた原稿用紙を眺めて言った。 「うそは書いてない。」  洵は、アンダーフレームのメガネの奥の瞳を眇めて答える。  冷たい壁に囲まれた建物には、洵とクロイツの二人しかいない。  家族の作文だなんて、小学校低学年の書くものじゃないのか。どうして、中学三年にもなってこんなものを書かなければいけないのか。400字詰めの原稿用紙をひどく重たく感じた。 ****** 「温泉旅館ですか?」  洵がいつものように秘書課に行くと、博人が老舗旅館の招待券を見せてくれた。 「うん、そう。懸賞で当たったんだ。一枚で六人行けるみたいだから、小栗君とクロイツさんと一緒に行きたいと思って。」 「僕が行って良いんですか?」 「俺もか。」  にこにこ笑う博人を前に、洵は居た堪れなくなって、クロイツのシャツを掴む。洵は、彼に大きな隠し事をしているから、何も知らない彼に優しくされると、どうして良いか分からなくなる。  どうしてこんな時にクロイツは人型をとっているのか。犬だったら抱き上げて気を紛らわせられたのに。 「あれ?」  洵が戸惑っていると、デスクから様子を見ていた成人が声を上げた。 「偶然かな、僕も同じの当たったんだけど。」 「え、ナルさんもですか?」 「ほら、同じ。」  成人は白い鞄から全く同じ招待券を出して見せ、ポンと手を打った。 「そうだ!せっかくだからみんなで行こうよ!12人ならプリンスも行ける!」 「温泉!温泉な!俺いつか行きたいと思ってたんだ!!」  テンテンが温泉という言葉に目を輝かせる。 「テンテン、テンション高いね。」 「テンテンはこう見えて風呂好きなので。」  テンテンのテンションに押され気味の成人に高志が冷静に答えた。  千尋は、はしゃぐ成人の袖を引っ張り、注意をひくと声を潜めて窺う。 「ナルちゃん良いの?石井さんと二人で行くって言ってじゃない?」 「熊とは別口で行けばいいもん~、ね?」 「…まあ、良いけどな。」  成人に顔を覗き込まれた態は複雑な表情ながらも、成人の柔らかい髪を掻き交ぜた。 「温泉ですか、良いですね。」 「うわっ、陽さん!社長!」  不意に背後から声をかけられて、博人は肩を跳ねさせた。  洵が来ると秘書達がつい彼に構ってしまうので、小休憩を取るのが恒例になっている。  仕事に切りの付かない場合は休憩をとらない人も居るが、成人と博人は確実に休憩をとる。犬型のクロイツがお気に入りのテンテンは、気まぐれにふらふら外出していても、彼らが来ると何処からともなく姿を現した。  陽と美千代は、ほとんどの場合社長室から顔を出さない。しかし、今日はいつも以上に騒がしくしていたので、気になって出てきたようだ。 「しかもここのお湯、乳白色じゃないですか。好きなんですよね。こういう見た目からして温泉って感じの。」 「ね、陽さんとしゃちょーも行きますよね!」 「じゃあ予定会わせるか。」  相変わらずひらがな発音で誘ってくる成人に、美千代と陽は手帳を開いて答えた。  三階建ての旅館は、瓦屋根の付いた立派な塀と門に囲まれ、入り口前には立派な松の木が植えられている。 「立派なところだな。陽の実家と張るんじゃないか?」  美人の仲居さんに部屋に案内される途中に、温泉のある棟と宿泊する棟を繋ぐ渡り廊下がある。三角屋根を被ったそこから中庭を眺めて美千代が言った。 「でもうちは築が浅いから。ここの方が歴史の重さを感じるよ。あ、でもお寺の方はもっと年季が入ってるかな。ほら、山瀬さんの妹さんが結婚式を挙げた。あそこはここほど立派な庭は無いけど、やっぱりこういう雰囲気は落ち着くなぁ。」  陽はのほほんとした口調でそう答える。  普段と面子は変わらずとも、オフの旅行なので皆私服姿だ。陽は水色とピンクのさし色の入った紺の袖なしパーカーに、薄い色のキャロットデニムを合わせてカジュアルに纏めているが、相変わらずの真っ黒いサングラスが浮いている。 「陽さん、サングラスは外さないんですか?外した方が絶対かっこいいのに!」  彼の顔を見た成人が口を尖らせて言った。彼は合流してから一時間に一回はこの言葉を発しているが、陽は頑なにサングラスを外さなかった。 「あー、極楽。お湯、白い…」  天然の石でできた浴室は、数メートル先が見えないほど濃い湯気で満たされている。同じく石を積んで固めた湯船にたっぷりと注がれた湯に浸かり、陽はサングラスを曇らせた。  部屋に荷物を置いて、早速温泉にやって来たのは、陽・美千代・テンテン・高志・遊馬・千尋の6人。他のメンバーは通りの店を探索したいという成人に連れられていった。 「白いお湯にこだわりすぎだろ。」 「このするするする感じ、温泉…!」  美千代が言うと、陽は湯に浸かった腕を撫でて口元を緩めた。白い湯気の中、白い湯に浸かる白い肌。彼を見ると、何故か胸がすぅっと風通しが良くなった心地がして、美千代は彼の肩を引き寄せた。 「お前色白いからお湯に溶けそう。」  陽はキョトンと目を瞬いて、はは、と笑う。 「俺は何処にも行かないよ。」  肩に触れる美千代の手に自身の手を重ねて、ぎゅっと力を込めた。 「結構がっしりしてるだろ?そう簡単に溶けたりしないよ。」  そんな二人のやり取りを正面から見ていたテンテンは、手を丸めて作った水鉄砲で、二人を狙う。 「俺らの前でいちゃつくなよなぁ。」  飛距離が足らずに威嚇するだけにとどまったが、美千代は彼を見ると目を眇めた。 「あんたが言うのか。」  いちゃつくなと言う本人が、高志をがっしり抱え込んでいるのだから、棚上げもここまで来るとすがすがしい。 「千尋さん、どうかしました?」  遊馬は先ほどからじっと見つめてくる恋人に声をかけた。 「陽さんが溶けたら、スルスルって湯に馴染みそうだけど、お前が溶けたら雑煮に溶けた餅みたいにどろどろになりそうだな。」 「謂れのない中傷!」  恋人の裸を視漢する熱い視線かと思ってそわそわしていたというのに、返ってきた言葉はときめきのしようのないものだった。 「同じ白でもあっちは艶々プルンだけど、お前はふわふわもっちりだからかな。」 「え、それはちょっとどう反応して良いか分からない。誉めてる?ねぇ、誉めてる?」 「どろー、ぐちゃー『いやぁ!なんかここのお湯気持ち悪い~!!』つって。」 「上げて落とす!」  遊馬はわっと顔を両手で覆った。  のぼせる寸前まで長風呂に浸かったテンテンと高志が出てくると、陽と美千代の卓球対決を遊馬と千尋が観戦しているところだった。 「社長VS社長秘書ですか。」 「12対0で陽さんの連勝です。」 「手加減なしかよ。」  大型の扇風機の風に当てられたエバーフレッシュの葉が揺れる。  テンテンは木のベンチに腰かけた三人の横で、きゅぽんと牛乳瓶の蓋を開けた。 「あ、湯上りの牛乳飲むの忘れてた!」  それを見た千尋が慌てて立ち上がる。 「千尋さん、まだ背伸ばしたいんですか?」  千尋は余計なことを言ってふにゃふにゃ笑う遊馬の頭を拳で沈めた。 「沈めるぞ。」 「もう沈めてますっ!」  白い湯気が暮れかかった空に消えていく。  湯を囲うベンチに腰かけて、成人は軽く足を動かし、足湯の湯を跳ねさせた。日除けの屋根の外の景色が朱色に染まり、商店がちらちら外の明かりを灯し始める。 「今日涼しくて良かったねぇ。」 「そうですね。温泉はともかく暑かったら足湯とか楽しめませんもんね。」  博人はそう答えて、温泉まんじゅうアイスを齧った。温泉の湯で炊いた餡子をミルクアイスで包んだ手作りアイスである。 「この後どうします?」 「ナルは通りの小物屋に行くだろ?簪とか売ってたし。」  博人の言葉に、態が成人の捲り上げ過ぎた裾を直しながら答える。彼の言葉と行動の両方から愛を感じた成人は両手でアイスの棒を握りしめた。 「熊!」  そんな二人を微笑ましく思いながら、博人は弟とそのボディーガードの顔を思い浮かべる。 「それなら、僕も千晶さんへのお土産を見たいですね。キーホルダーとかあったら、隼人とか光さんにも良いかな。」 「ちあっちゃんと副しゃちょーには皆であげようよ!秘書課メーリスするね!」  早速ケータイをとりだす成人を確認して、博人は隣で大人しくしている洵を窺った。 「洵くんも、お母さんにお土産いかがです?」  何でもない話題の筈なのに、洵はうっと言葉を詰まらせて目を伏せる。 「…そう、ですね。きっと喜んでくれますね。」  無理に笑おうとする彼の手を、クロイツがぎゅっと握った。  千晶には丸い珊瑚の飾りのついた扇形の簪、昇には七宝の埋め込まれたネクタイピン、隼人と光には兎柄のがま口財布をお土産に選んだ。 「きっと喜んでくれますね。」  唐草模様の紙袋を下げて商店を梯子していると、一つ奥の通りから、大きな建物の屋根が見えた。何だろうと思い、脇道を抜ける。 「ここ、お寺かな。入れないみたいだけど。」  門の前からは、平屋の屋根しか見えないが、門の作りとその大きさからして個人の持ち物ではないだろう。観光地の一つだと思うのだが、鍵が閉まっていて入れなかった。 「もう夜だからな。」  態が帰ろうと促せば、成人も入れないなら仕方がないと踵を返す。 「帰って美味しいご飯ですね。」 「ご飯食べたら温泉!」  成人は博人の言葉に気を取り直して夕食と温泉に想いを馳せた。  門に名前すら出ていない、パンフレットにも載っていない寺のことなど、すぐに5人の頭の隅に追いやられてしまった。





 

――お父さんが、お父さんが…っ  受話器を置いた女性が、小さな肩を揺さぶってくる。見たことのない場所、見たことのない光景だ。しかし、自分は彼女の顔を知っている。 ――どうして、私たちを置いて行かないで!!  場面が変わり、女性が白いベッドに横たわる男性にすがって泣き叫ぶ。  女性の周りの景色が変わる。でも、女性は泣き止まない。 (ママ、僕が居るよ。おじいちゃんも居るよ、ねぇ…)  その表情を見るのが切なくて、やるせなくて、自分のものではない胸がしくしく涙を流した。 ――あのね。ママ、再婚することにしたの。  女性の言葉を聞いて悲しみが押し寄せる。 (再婚?なんで、お父さんのことは、もう忘れちゃったの?) ――私一人で、貴方を幸せにはできないのよ…  女性の口は弧を描いているのに、目はどんよりと曇っていた。 ――彼女が今日からお前達のお母さんになる京子さんだ。そして、こちらが兄弟になる××君。仲良くやってくれ。  この場面は知っている。子供の体の自分の前には、二人の男性と同じ年くらいの男の子が立っていた。父と、隼人とそして自分だ。 ――よろしくね。 (新しい家族だ…!)  胸に、大きな悲しみと共に、小さな喜びが明かりを灯す。この気持ちの持ち主は、この少年は… ――貴方は、こっちの家で暮らすのよ。 (どうして?ママは?) ――ママはあっちでお父さんと一緒に居なくちゃいけないの。貴方は、お父さんの前に出しても恥ずかしくないくらい、立派になるまで頑張るのよ。それから、これからは「ママ」じゃなくて「お母様」と呼びましょうね。  少年は冷たい屋敷に取り残される。 (寒いよ、さみいしいよ…)  グレーのアフロ犬が、足にすり寄って来た。 ――おじいちゃん!ネロ!  グレーの犬が、横たわる老人と犬を舐めている。  視界が赤く染まり、赤いランプがぐるぐる回る。サイレンの音が脳みそを揺らす。  薄暗い病院の待合室で、床のタイルをじっと見つめた。 ――貴方、私に隠れてあの家に通っていたなんて!あの人に誤解されたらどうするの!?  女性が腕を渕被る。パァンと破裂音が肌から伝わり、頬が熱を持ち痛みに変わる。 (母さんは、おじいちゃんのことどうでも良いの?死んじゃったんだよ?) ――お母様と呼びなさいと言ったでしょう!!死んだ旦那の親なんて関係ないわ、私には新しい家庭があるの!!それを息子の貴方が壊すの!?  女性の言葉が理解できない、心をどろどろしたものがかき乱す。感情の波に、目が回る。 ――長男よ。とうとう根を上げて出て行ったわ。  女性は楽しそうに笑う。 ――貴方にここを継がせるためには邪魔だったのよ。  しかし、少年の小さな心ではからっ風が吹き荒れた。 (僕のために虐待を受けたというの?耐えかねて今まで暮らした家や家族から離れていったというの?僕はそんなことは望んでない。僕のために人に不幸になれだなんて望んでない。僕の為だと言って、罪を擦り付けるの?幸せな家族との時間を失う寂しさを、僕のせいで僕以外の人にも背負わせて、僕はその業を背負わなければいけないの?)  水面に、コンクリートのかすを落とす。トプンと音がして、簡単に沈んだ。  空が青い、水面も青い。景色の向こうに水平線が見えた。  防波堤の先端で一人きり、水面に浮かぶ影を見つめる。  少年はそっと足を前に踏み出した。 ――だめだ、だめだ、だめだ、だめだ!!  自分自身の感情が、少年を止めようと手を伸ばす。  視界が白い羽に覆われた。 ****** 「――だめだ!!」  博人は前方に手を伸ばしながら叫び、飛び起きた。辺りを見渡すと、皆同じように肩で息をしている。  目の前に広がる海はなく、自分が居るのは昨夜修学旅行のようだとはしゃいだ大部屋だ。 「熊!」 「ナル!」 「「…生きてる……」」  皆、それぞれパートナーを抱き寄せて震えている。 「今のは、いったい…?」 「美千代!?」  博人の呟きは、陽の叫び声でかき消された。 「美千代が居ない!」  陽の声が震えている。彼はきっと美千代の夢を見た筈だ。秘書達がざわつくと、テンテンがすっと立ち上がった。 「呪いだ。」  ジャイアンアイズをきらりと光らせ、片頬を上げる。悪魔のように嗤う彼の足もとに、白い羽が舞い落ちた。 「みんな悪夢を見ただろう?多分あれは人為的なものだ。まあ、俺は人間が生み出した悪夢なんて簡単に抜けられるけど。」  博人がはちらっと、隣の布団でクロイツに抱きしめられる洵を窺った。 「それで美千代は?」 「どうして悪夢なのかは分からないが、俺達が眠っている間に連れ攫われたんだと思う。」  陽とテンテンの会話を聞いて、博人はすぐにケータイを取り出す。 「安部さんに連絡します。」 「皆さん外に出る用意を。」  陽の指示で、秘書達は夢のショックを振り払って動き出す。 「GPS機能してます!すぐ近くです!」  連絡を取りながら器用に着替えを済ませた博人を先頭に、部屋を飛び出した。 「ここって、昨日のお寺…」  GPSで美千代の居場所を追ってたどり着いたのは、昨夜通りかかった寺だった。  人工衛星から送られてきた写真を確認する。  白鳥の技術と権力を持って手に入れた上空写真は、建物の外の人の配置まで鮮明に見て取れた。 「この造りは寺でありませんね。しかし、鳥居もないし、神社でもない…奥に神殿らしきものがあるが、それ以外はただの馬鹿でかい日本家屋か…?」  陽が訝しげな声で分析した。 「特に外に見張りは居ないみたいですね。」 「俺が無理やり夢を壊したからな。こんなに早くたどり着くとは思ってないだろ。」  高志の言葉にテンテンはふんと鼻を鳴らした。 「なら、行動は早い方が良いな。」  態が塀に手を掛け、バカ力でよじ登る。続く秘書達も、彼に手を引かれて侵入した。  陽を先頭に庭を抜ける。空いている扉を探すが、さすがにそこまで不用心ではないようで、どの扉も雨戸まできっちり閉まっている。  廊下から、一人分の足音が聞こえてきた。陽は小石を拾い、足音に向かって投げる。小石はカンッと雨戸に当たって跳ね返った。  カンッ、カンッ、と次々小石を投げると「誰かいるのか」と扉が開く。陽はすかさず社内に身を滑り込ませ、足音の主の後ろ首に手刀をきめ、昏倒させた。 「こちらです。」  陽を先頭に廊下を進む。何度も分岐点があるのに、迷わずに進む彼に博人は声をかけた。 「陽さん、どうして道が分かるんですか?」 「靄が見えますから。」 「靄って何――」 「しっ、人が居ます。」  すぐに口をつぐむが、今の今まで話していたのだ。それに、いくら気を付けていても木の床は軋んで、足音も立っていた。 「誰だ!」  案の条、数人の男に見つかってしまった。  掴みかかられた成人は、逆に男の手を引いて投げ飛ばす。 「女だからって甘く見ないでよね!」  「お前、男だろう」とは誰も言わなかった。  化学班から貰ったブレスでそれぞれの武器を出し、襲いかかってきた男たちを返り討ちにしていると、騒ぎを聞きつけた人が集まってきてしまった。 「次から次と…っ!」  増える敵に気をとられて、仲間への注意を怠った。 「うわっ!」  高めの叫び声に振り向くと、進行方向の逆から来た男が、最後尾にいた洵を捕まえ、首筋にナイフを当てていた。 「洵!」  クロイツが吠える。 「動くな!武器を捨てろ!」  ナイフを突きつけられた洵は、喉を動かすこともできずに細い肩を小さく震わせた。 「見てたぞ、こいつに戦闘能力は無いんだろ?」  秘書達は男を睨みながらも、息を呑み、武器を捨てようとする。 「洵くん、目を閉じていてください。すぐに済みます。」  しかし、陽は動こうともせずに、そんな挑発的な言葉を男に放った。 「何を粋がっている。」  洵の喉に当てられたナイフに力がこもる。息をつめた洵がぎゅっと目を瞑ると、陽はサングラスに手を掛けた。その体が青い光を纏い、細い髪がふわりと揺れる。 「ひ、ぎゃぁああああっ!!」  男は彼の瞳を見た瞬間、絶叫してその場に崩れ落ちた。 「お、おまえ、何をした!?――がっ!」  陽は狼狽える男の仲間に、拳を叩きこむ。秘書達もすぐに我に返って残った輩を沈めた。 「陽さん、その眼ってあの時の?」  博人は以前寝起きの彼の瞳を覗いて、とんでもない目に合ったことを思いだした。あの時の彼の瞳は普段の金色ではなく、深い海の底から浮上するようなゆらゆらと揺れる青色だった。 「説明は後です!もう、すぐそこに居るのに…っ!」  再びサングラスをかけ直した陽は、美千代の元に急いだ。秘書課と洵を抱えたクロイツが後を追う。  陽は建物の最奥の部屋の前にたどり着くと、その大きな扉を蹴りつけた。 「この部屋だ!」  渾身の力で蹴っても扉はびくともしない。 「陽さん、どいてください!」  博人はブレスを振り、日本刀を出現させる。 「うおりゃぁあああ!!」  竹刀とまったく勝手は違うが、無茶苦茶にふるだけで扉はあっけなく壊れた。これが化学班の力か。 「美千代!!」  扉の中になだれ込むと、講堂と神殿が一緒くたになったような、広い空間にでた。お札を何枚も使って作られた陣の中央に布団が一組敷かれている。一つ開いた窓から虚しく風が吹き抜けた。  そこに美千代の姿は無く、布団の横に一人男が蹲っているだけだった。





 

みちよ

――×××、何処にいるの?×××!!  美千代の思考は、少年の思考の隅の方にあった。  少年の切羽詰った声が頭の中で響く。目の前には、黒い靄が広がっていた。  少年はより靄の濃い方へと向かっていく。  見覚えのある学校の薄暗い廊下、窓の外ではしとしとと雨が降っている。 ――×××!  教室の扉を開けると、男に囲まれた裸の少女が、ぐったりと四肢を投げ出していた。  自分は、これに似た光景を知っている。  全身の血の気が引いて、頭の血管だけがやけにどくどくと煩く鳴る。目の前が真っ暗になって、胃が、腸が、煮えるように気持ちが悪い。  少年の体がふらりと動く。男たちがこちらを見て叫んだ。  気付くと、血だらけになった男たちが教室の隅に折り重なっていた。手には肉と骨の感触が、耳には汚い雄叫びと肉の潰れる音が生々しく残っている。 ――×××…?  振り返ると、白い肌に男たちの体液を散らせた少女が、口から血を流して痙攣していた。 ――×××、うそでしょ、ねぇ…  肩を揺さぶるが、反応はない。口元に手を当てると、息をしていなかった。  少女は、舌を噛みきったのだ。だから、引っ込んだ舌が喉を塞いで呼吸を止めているのだ。舌を引っ張り出して、人工呼吸をすれば助かるかもしれない。少年の頭の隅で、そんなことをつらつらと考えるが、少年の体は美千代の思う様には動かない。  場面が変わる。  少年は白い建物の屋上のフェンスの外側に居た。足元には見慣れた街並みが、玩具のように並べられているのに、少年はそれに見向きもしないで、空に写真を掲げて眺めている。長い髪が柔らかくウェーブを描く、あの時教室で倒れていた少女の写真だ。 ――×××、今行くからね。  少年が、足を踏み出す。 ――だめだ、行くな!そっちはだめだ!!  美千代自身の感情が、少年を止めようと手を伸ばす。  視界が白い羽に覆われた。 ******  美千代が目を覚ますと、高い天井が見えた。 「気分はどうだい?」 「は…?」  聞き慣れない声に身を起こす。全身が重いし喉も乾いて、聞いたこともない高く掠れた声が出た。  ――高い声? 「まあ、見れるようになったじゃないか。あの人に釣り合うかは微妙だが。」  見知らぬ男は手鏡を持って、美千代を映し出す。  そこには、夢で見た少女がいた。いや、正確には夢に見たよりも年を取っている。しかし、この長い髪は少女のものだ。断じて美千代のものではない。 「…は…?」  そんな吐息を吐くような音しか出せなかった。意味が分からない。  鏡から目を逸らし、当たりを見渡せば、たくさんの窓に囲まれた、広い部屋の中心に敷かれた布団の上に自分が居ることが分かる。男と逆側の壁には金色に輝く扉の付いた、ご神体のようなものが。男の後ろには大きな扉があった。  床には美千代を囲むようにしてお札や筆字を使った陣が描かれている。 「なんの話だ。ここは何処だ、俺に何をした!?」 「お前は我らが神に選ばれたのだ、光栄だろう?」  身の危険を感じて、じりじりと男から距離をとろうとするのに、男はそんな美千代の肩を興奮した様子で掴んできた。 「ふ、ふざけるな!俺の体を基に戻せ!」 「今更何を言っても無駄だ。もう、もう儀式は終わっている。あのお方は『みちよ』をご所望なのだ。だから我々は最高の『みちよ』を用意した!」  男との間にパーソナルスペースを保つために、胸の前で手を組むと、その手に自分の胸が当たった。ふにっとした感触に泣きたくなる。こんなの自分の体じゃない、もう訳が分からない。 「さあ、あのお方と一つになるのだ…」 「嫌だ!!」  鼻息荒く熱弁する男の手を払い、その顔を睨みつける。隙を見せたら何をされるか分からない、目を逸らしたらダメだ。  そうして牽制し合っていると、にわかに外が騒がしくなった。  たくさんの人の声や音が混じって人が何を言っているのかは分からない。 「なんだ、何かあったのか――っ!?」  男の注意が美千代から反れた。美千代はその一瞬を見逃さずに男の腕を掴んで固定し、足を振り上げる。全身のバネを使ってあらん限りの力で金的を食らわせた。 「ぐ、ぁ…っ」  泡を吹く男を投げ捨てて、窓から脱出する。窓枠に足が引っかかり、ぐしゃりと地面に落下する。庭木の生い茂った柔らかい土だったため、怪我はないが全身土まみれだ。  それでも急いで立ち上がり、走り出す。素足で小枝や小石を踏むも、痛みは意識の外においやられる。木の枝に髪が引っかかってもそのまま走った。ぐるぐるとまわる思考の中で、逃げ出すことしか考えられなかった。  無我夢中で門まで走り、木の板を抜いてうち鍵を外す。思ったよりも重くて、硬くて、手間取ってしまうのに焦って、無理やり引き抜いたものだから爪が少し割れてしまった。  やっと外に出て、夢中で逃げた。とにかく、見つからないように遠くに逃げなければ思うのに、体が思うように動かない。  どうして?普段はこんなことで息が上がることは無いのに、足が縺れることは無いのに。  どくどくと怖いくらいに早鐘を打つ心臓を鷲塚むと、むにっとありえない感触がした。  そうだ、今は女の体なんだ。息が上がるのは体力が無いからだ。足が縺れるのは、自分の服なのにサイズが合っていないからだ。  美千代は白む空の下で、塀に肩を押し付け、ずるずるとその場にしゃがみ込んだ。 「…陽…っ」  さっき見た夢は、陽の過去だ。彼が助けようとした少女は、美千代の過去だ。  実際の美千代は男で、舌を噛むことなく陽に助けられたが、もし彼が来るのがもう一歩遅かったら、夢と同じ結末をたどったのかもしれない。  あの時、美千代は自分のことで手いっぱいだった。陽が助けてくれたことはただ単純に嬉しかった。彼が必死で迎えに来てくれたことも分かっているし、実際に彼が男たちの血で手を染めるところも目の当たりにした。  でも、夢で体験して感じた彼の心はあまりにも生々しくて… 「陽、どこ…?」  どうして俺の傍にいないんだ。何処にも行かないって言ったじゃないか。  自分の方が連れ攫われてしまったのだろうに、そんな理不尽なことを考える。だって、自分の隣に彼がいないことの意味が分からない。こんなに苦しいのに彼が傍に居ない意味が分からない。  でも、こんな体になってしまった自分に彼は気づいてくれるのか、気づいたとして受け入れてくれるのか、そう考えると会えなくて不安なのに、会うことすら不安になってくる。 「も、いやだ…」  ぎゅっと膝を抱えると、くらっと脳みそが揺れる感覚がして、目の前が真っ暗になった。 「は?」  立ちくらみかと思ったが、ぱちぱちと目を瞬いても光は戻らない。 「何だよ、これ…何なんだよ!?」  頬に手を当てると、ざらっとした土の感触がした。  これこそが夢ならばいいと思うのに、視覚以外の感覚はいつも以上に研ぎ澄まされて、現実を突き付けてくる。 「ちょっとそこの人、どうかしたのか?」  背後から声をかけられる。でも何も見えない。犬の吠える声もする。でも何も見えない。美千代はただ震えて、その声から遠ざかろうと地面に尻を付けたまま後退った。 「青木さんとテンテンさん、天宮さんは俺に付いてきて。他の人はここの後始末をお願いします。」  たどり着いた部屋に美千代が居ないことを確認した陽は、一つ開いた窓から飛び出した。  靄はまだ見えている。しかし陽はある場所で足を止めた。靄が濃すぎて、何処から出ているのか分からなくなってしまったのだ。  早く美千代を見つけなければと気ばかりが焦った。  陽が見た夢は彼の過去だ。男たちに触られて怖気が走った。思い出したくもないような酷いことをされた。それが、過去のことだとは分かっている。今現実に起きているのではないと分かっているが、どうして今自分は彼の傍に居ないのかと自身を責めたくなる。 「美千代、何処だ!?美千代!」  ――ワン!  近くで犬の鳴き声がした。そこに向かっていけば、靄の中に犬と散歩中の老人と、しゃがみ込んだ女性が見えた。 「美千代!」  姿形はまったく違うその人を、彼だと直感した。  彼の脇に膝を滑り込ませ、背中から抱き閉める。  やっと見つけた彼は彼ではなくなっていたし、全身汚れて傷だらけで、髪もぼさぼさで、顔だって土と涙でどろどろに汚れている。 「…陽?」  それでも、陽の方を向いた彼は、瞳に安堵の色を浮かべた。 「うん。美千代、もう大丈夫だよ。」  美千代は、振り返って陽にしがみつき、嗚咽を漏らした。 「ひ、ぅ…っ、陽…っ!」 「大丈夫だよ、美千代。もう怖いことないから、大丈夫。」  陽が頭を優しく撫でてくれる。背中を叩いてくれる。抱きしめてくれる。彼に大丈夫と言われれば、本当に大丈夫な気がした。  落ち着いてくると、博人がさっき美千代に声をかけてきた人と話しているのが聞こえた。陽以外もいたのか… 「…悪い、取り乱した。もう大丈夫だ。」  陽から離れて立ち上がる。少しふらついたところを彼に支えられた。 「大丈夫じゃないじゃない。」 「いや、悪い。目が見えなくて一人じゃ歩けそうにない。」  手探りで支えてくれる彼の腕を掴むと、再び抱き閉められて、今度は足が宙を浮いた。 「ちゃんと首に腕まわしてね、お姫様。」  言われた通り、彼の首に腕を回して体を預ける。 「これじゃ、お前も土まみれだな。」 「どうせなら美千代にまみれたいな。」 「意味分からん。」  体は女のままだし、目も見えないままで状況は変わっていないのに、彼が居るだけでどうにでもなるような気がした。





 

あのお方

「――それで、妹と遊馬がそのままゴールインして、俺は結婚式で影木と一緒にテントウムシのサンバを歌って踊った。」 「それ、千尋さんと俺もですけど、千春さんと影木さんも報われてませんね。」 「やばいよな。」  寺擬きに侵入し、しっしと払ったモブ達を白鳥に連絡して粗方処理した秘書達は、寝殿らしき最奥の部屋で、ブレスで取り出したワイヤーロープでぐるぐる巻きにした男を囲んで悪夢について話していた。  ちなみにこの男、この部屋で泡を吹いて蹲っていたあの男である。最奥の部屋に居たのだし、きっと重役なのだろうと目星をつけて、事情を吐かせるために残している。 「うぅ…っ」 「あ、起きた。」  成人は、唸りを上げた男を覗き込んだ。 「な、なんだお前たちは!?」 「それ、こっちの台詞です。」  狼狽える男に遊馬は白々と答える。 「ああ、『みちよ』のボディーガードだったか…」 「ボディーガードじゃなくて秘書だけどね。まあ、大体同じか。」 「俺は秘書でもないですよぉ。」  丁寧に答える成人に、遊馬が付け加えた。 「お前に聞きたいことがあるんだが?」 「お前は誰だ。名簿にはいなかったはずだが。」  クロイツが訊ねれば、男はその顔を確認して眉を顰めた。 「そんなことはどうでも良い。あの夢は何だ?」  クロイツは男の疑問を一蹴して質問を続ける。 「夢?」 「俺らが見た悪夢のことだ。しらばっくれんじゃねぇよ。」  クロイツが犬歯をむき出しにして凄むと、男は息を詰めてしどろもどろに答えた。 「ゆ、夢など知らない。『みちよ』を手に入れるために少し眠ってもらっただけだ。『みちよ』には呪いをかけたが…もしかしたら呪いの副作用かもしれないな。」 「ちっ、とばっちりか。」 「落ち着けクロイツ。テンテンさんはアレが悪夢だったからこそ壊してくれたんだ。下手に眠らされただけだったら、美千代さんの誘拐に気づくのは遅れたかもしれない。」  舌を打つクロイツに洵が言う。 ――ギィィ  鈍い音を立てて扉が開いた。 「お待たせしました。」  博人と高志が扉を開け、その後ろから美千代を抱えた陽と、テンテンが部屋に入る。  美千代を見て、待機組の秘書達ははっと息を呑んだ。 「え、しゃちょー…?」 「なんで女に?」 「泥だらけじゃないですか!?怪我は、気分は!?」  洵は美千代に駆けより様子を窺う。彼は虚ろな瞳をうろつかせて、必死で陽の肩に触れていた。指先が震えるほどに力を入れようとしているのに、全然力が入らないようでその手の位置は徐々に下がっていく。 「美千代を元に戻せ。」  普段ふわふわと優しい口調で話す陽の口から絶対零度の声が出た。 「それはできない。」 「あんた、自分の状況分かって言ってるの?」  成人は無碍もなく返す男の襟首を掴み、引き上げる。  美千代の様子が尋常でなく悪いことが見て取れた。陽の様子から、とんでもなく危ない状況なのだと理解し焦った。 「ナルやめろ、そいつが使えなくなったらどうにもならない。」  態が成人の手を引きはがすと、男は床に転がって、かはっと咳き込んだ。 「…は、力が入らないんだろう?」  ついに、美千代の手が陽の腕から滑り落ちる。陽はその場に腰を下ろして彼の弛緩した体を支えた。 「美千代に何をした!?もう目も耳も利かないんだ。さっきから、力が抜けて、体温だってどんどん下がってる…、ふざけるな!美千代を元に戻せよ!!」  美千代は、ずっと不安と闘っている。何も映さない瞳で陽の姿を探している。 「呪いだ。」  男は、震える声で訴える陽と対照的に、静かな声で言った。 「彼女の魂を我らが神にささげる。」  腰を落として高さが近くなった男の瞳は、現実には無い何かを写しているかのように暗く凪いでいる。 「あのお方は『みちよ』をご所望である。『みちよ』を愛している。」  びくっと美千代の体が震えた。 「…、い、やだ…っ」 「美千代…?」  陽の声に手を伸ばす。いや、伸ばしたつもりだがもう伸ばせているかも美千代自身には分からなかった。  実際、彼の手はびくびく震えてもがくだけで、陽には届いていなかった。しかし、当然のように陽は彼の手を取り体を抱きしめる。 「いやだ、陽!嫌だ…っ」 「美千代!」  美千代の頭の天辺が見えない力に引っ張られる。 ――あのお方なんで知らない。俺は陽だけのものだ。 「俺はお前と…」 「行くな、美千代!!」  ずるずると体から引き抜かれる。 ――お前が居れば大丈夫だと思ったのに、お前さえいれば良いのに、お前と居たいのに…っ 「あ、ぁ、ぁ…っ」 「美千代ぉっ!!」  怖い、嫌だ、助けて…! ――他のやつのものに何て…  痙攣していた体からすっかり力が抜け、握っていた手が陽の手から滑り落ちた。  宿主の居なくなった体は、徐々に元の男の姿に戻って行く。 「…美千代さん?」 「うそ…」  洵と成人がその場に膝を付く。他の秘書達も茫然とその場に佇んでいた。 「わははは、これで彼女はあのお方のものだ!」  男は一人、歪んだ喜びに酔いしれる。  そんな中、陽は自身の胸に手を当てて目を瞬いた。身体がふわふわと暖かくて柔らかい。そこにある気配に、全身を安堵と喜びが満たしている。 「…あれ?美千代?」  陽はそれを確認すると、ぐっと息を呑みこんだ。 「…陽さん?」  反応のおかしい彼を秘書達は訝しげに見る。彼らを前に、陽はおもむろに美千代に口づけ、息を吹き込んだ。  青白かった彼の頬にわずかに紅が射し、ゆっくり瞼が持ち上がる。 「…ただいま?」  しっかりと陽の顔に焦点を合わせて、美千代は小さくかすれた声を出した。 「おかえり。」  陽はぼろぼろとサングラスに涙を溜めながら美千代を抱き締める。 「は?」  男が間抜けな声を出した。 「え、どういうこと?」  秘書達も訳が分からず首を傾げる。  陽は美千代を抱き上げて、男たちが祭っているご神体に歩み寄り、その前に美千代を横たえると、金の両開き戸を開け放った。  ちなみに美千代を連れて行ったのは何のことは無く、ただ離れたくなかっただけである。  そうして扉の向こうに現れたのは、等身大以上に引き伸ばされた少女の写真。  頬に掛る髪と雪のように白い頬のコントラストの眩しい、美しい着物で着飾った金の目をした少女だ。この世のものとは思えないほどに美しい。――だがしかし、既視感。 「貴方たちが信仰しているのって、『藤本陽』じゃないですか!」  振り返った陽は、男を怒鳴りつけた。 「な、あのお方の名前を軽々しく口にするな!」  男は唾をまき散らして捲し立て、秘書達は理解できても未だ反応はできずにわななわと唇と震わせる。 「自分の名前くらい呼び捨てるわ!!」  陽はサングラスを男に投げつけ、素顔を晒す。 「うわぁぁああああ!!!!」  写真の少女と瓜二つのその顔に、秘書達は悲鳴を上げて、男は脳内処理のキャパシティオーバーで白目を剥いてぶっ倒れた。 ****** 「あの写真は美千代の婚約者決めのパーティーに乱入した時のものですね。影木が『信者達があの写真崇めてるよ』なんて言っていましたが、冗談だと思っていました。」  旅館の布団の上で、膝枕をした美千代の頬を撫でながら陽が言った。 「お前、高校大学と影で信者製造機って言われていたぞ。」  それに、美千代が怠そうに付け加える。 「え、何それ嫌だ。」 「あー、頭クラクラする。気持ち悪い。」  美千代が眉をひそめて寝返りを打つと、額に乗せたタオルが滑り落ちる。陽はそれを拾って美千代の側頭部に乗せ直した。  魂が出たり入ったりしたダメージはそれなりにあるらしい。 「でも、容姿が綺麗なだけで宗教にまでなるものですかね。照だって同じ顔でしょう?」  高志が疑問を示す。 「それは、目のせいだな。」 「そうだ龍之介が捕まった時、陽さん何をしたんですか!?」  陽の答えに成人が身を乗り出した。 「青い目で見つめただけだよ。」 「見ただけで撃退できるの!?すごく便利!」  燥ぐ成人に陽はばつが悪そうに言った。 「俺の目は、普段は金色。穢れや霊を払う時には青色になる。目の色が変わるだけなら問題ないけど、青い色の目を見た人は腰砕けになって俺にメロメロ、もれなく信者になり下がるんだ。だから、滅多な事では使わない。気持悪いからな。」 「金の目でも相当破壊力あると思うんですけど。」 「だから、見た目の問題じゃないんだ。」  態の言葉に首を振る。 「クロイツさん、ちょっと洵くんの耳を塞いでください。」  クロイツが洵の耳を塞ぐのを確認して話を続けた。 「青い目を見たら、問答無用で性的快感を与えられて高確率で性奴隷になる。」 「ひぃい…っ」  その言葉を聞いて秘書達は一泊おいて後ずさる。それでは、洵を人質にとったあの男は性奴隷になった可能性が高いということか。それは本当に気持ちが悪い。 「青木、お前は危なかったんだぞ。」  美千代の言葉に冷や汗が流れる。青木は寝起きの彼に襲われて、件の青い目を見てしまったことがあった。あの時はあれで大変なことになったつもりだったが、一応セーフだったのか… 「あの男も、俺が忘れてるだけで、知らないうちに信者にしちゃってたのかもしれないな…」  陽は、死んだ目であらぬ方向を見て呟いた。 「あの、陽さんがいつもサングラスを掛けているのって…」  博人が怖々窺う。 「お前達を不意に信者にしないようにするためだ。」 『ありがとうございます!!』  クロイツに耳を塞がれた洵と、テンテンと美千代以外の全員が口を揃えた。





 

騙し合い

 すっかり肌寒くなった10月中旬。運動会に浮かれた空気も落ち着いたこの頃、私立白鳥中学校では悠然とした毎日が続いていた。そんな日中の行間休みの僅かな時間、洵は校庭の隅に植えられた木葉の揺れるのを何ともなしに眺めていた。 「――あの」  朧げな意識をシフォンケーキのような甘く軽い声が覚醒させる。振り向くと、色素の薄い少女が困り顔で立っていた。ふわふわの長い髪を下ろした彼女は同じクラスの榊原樹里奈だ。 「青木さんは、もう作文の宿題をされましたか?」  洵は、浅く長い息を吐き出して、彼女に答える。青木洵、それが彼の今の本当の名前だった。 「もうとっくに提出したけど」 「えぇ! すごいです。私なんて、何を書いて良いか分からなくて……」 「なんで? なんでも書けば良いじゃない」 「その何でもが思いつかないのです。うちは父も母も多忙で、あまり遊んでもらった思い出もありませんから」  彼女の家が銘家であることを思い出した洵は、陰る彼女の瞳から視線を外し、自身の作文の内容を振り返る。それを書くのに、今さら自分は彼女のように考え込んだりはしなかった。対外的な文面は、自分をごまかすために唱え続けてきた言い訳と変わらなかったから。 「そのあまりの部分を書いて、それから会えなくて寂しいとか。それに、お父さんお母さんが居なくても家に一人という訳ではないだろう?」 「はい、いつも執事の高橋さんが一緒に居てくれます」 「じゃあ、その人のことを書いても良いし、それでも書くことが無かったら、間接的にでも家族のおかげでできた体験だとか、家族のおかげで知り合えた人についてだとか書けることはたくさんあると思うよ」 「なるほど! なんだか書けるような気がしてきました! さっそく家に帰ってとりかかります! 青木さんに相談して良かったです、ありがとうございます!」  洵からアドバイスを貰った樹里奈は胸のつかえがとれたように軽やかに笑って席に戻って行った。他の子供たちと同じような文章が書けなくとも、彼女は愛で満ち足りているから、きっとそんな顔ができるのだろう。……自分と違って。  洵が、長い瞬きをして窓の外に視線を戻すと、今度はすぐにその目を誰かの両手に塞がれた。 「だーれだと?」 「……和真」 「今の榊原のお嬢様じゃん。僕というものがありながら、酷いんじゃない?」 「気色の悪いことを言うな。スケコマシのくせに」  腕から解放されて振り向くと、洵の家庭のことを知る唯一の友人である彼が、軽薄な笑顔で背にしなだれかかってきた。 「今日もお兄さんのところに行くの?」  洵は「お兄さん」という言葉に胸が詰まって口を噤む。 「仲良いんだ?」 「まあまあ……」 「言わないの?」 「……家族にでもなったつもりだったんだよな……」 「家族でしょ」  洵は沈黙して首を横に振った。 「なんで? 受け入れてくれなさそうなの?」 「受け入れてくれるとは思う。でも、――重いだろ」 「そう? だったら言わなくても良いね」  そう言って弧を描いた和真の瞳に、苦く歪ませた洵の顔が写っていた。  負担になるなら言わなければ良い? 言わないで、今まで通り何も知らない彼に甘やかされれば良い? でもそれは、とても卑怯なことに思えた。  洵が秘書課に顔を出せば、課全体の空気が緩んで束の間の休息に入る。いつものように成人とテンテンが洵とクロイツに構う中、常ならば真っ先に寄って行く博人がそわそわと様子を窺っていることに、彼に後ろめたい気持ちのある洵は気が付かなかった。 「この中に、他人を騙したことがある奴はいるか?」  博人と千尋の入れたお茶を囲んで落ち着くと、クロイツが切り出した。いつでも洵の一番近くに居て、洵を一番見ている彼が、洵の不安に気が付かない筈がないのだ。 「ぱんぱかぱーん! 第一回秘書課暴露大会~!」  クロイツの意図に気が付いた洵が彼に文句を言う前に、成人が開会を宣言してしまった。 「では言い出しっぺのナルさん」  案外ノリの良い陽が進行する。 「女のふりして熊をたぶらかしたのはこの僕さ」 「それ言ったら、俺も妹のふりして遊馬をたぶらかしたかも」  薄い胸を叩いて誇らしげに告げる成人に千尋が続けると、赤制服が二人して何をしているのかと、微妙な空気が流れた。  次いで騙された態が口を開く。 「俺は昔よく、『思ってたのと違う』つって、彼女に振られたな」 「僕と会う前はなかなか悪い性格だったらしいね」 「そうなんですか? 想像つきませんね」  今では成人の保護者のような立ち位置に居る彼が、それ以前の恋人にどのような対応をしていたのか、まったく想像がつかない陽がそう言うと、今度は態が彼に話を向けた。 「陽さんは?」 「私は清廉潔白ですよ」  サングラスの奥の見えない笑顔が胡散臭い。 「お前は、何を知らせないでいるのが騙していることになるのか分からないくらい奇想天外な生き方をしているからな」 「社長に言われたくないですね」  陽と美千代のやり取りに、テンテンが「ネコ人間だしな……」と呟いた。 「俺は騙した覚えはないけど、騙されたことならあるぞ。最近まで姉の存在を知らなかった」 「え!?」  続いたテンテンの告白に、洵は思わず声を上げた。 「6年前だけど、テンテンにしてみれば最近になるのか」 「あの、それを知った時、どう思ったんですか」 「人の化け方を教えてくれるって言うから、ラッキーって思った」  高志の台詞に被せるように洵が訊ねると、テンテンはあっけらかんとそう答えた。  成人が「軽っ」と声を漏らす。 「俺はテンテンの存在を話すか話さないかってくらいですね。誰にでも言えるわけじゃないですし。青木さんは何かありますか?」 「え、あの、僕は……」 「博人隠し事とかできなそう」  高志に促され、言葉に詰まった博人に成人が軽口を叩いた。 「はは……っ」  博人はこれ幸いに乾いた笑いでごまかし、洵にちらっと視線を向ける。 「龍之介は?」 「僕は……」 「何を知らせないでいるのが騙していることになるのか分からないくらい奇想天外な生き方をしているからな。俺たちも」  洵の言葉を待たずに言い訳をしたクロイツに、「社長のパクリじゃん!」と成人がツッコみ、笑い飛ばした。  10月の海は北からの風に白い波を立て、べたつく潮風が鼻につく。厚手のパーカー越しに秋の空気を身に纏いながら、洵は防波堤の先端に座り、揺れる水面を眺めていた。 「寄り道ですか?」  後ろから掛けられた声に振り向かずに風を嗅ぐ。 「もう日が暮れるよ」 「美千代さんは一緒じゃないんですか?」 「浜辺で大きな犬と遊んでるよ」  制服を脱いだ声の主陽は、身の上に関係なく出会った当時のままの顔で、洵のすぐ隣に腰を下ろした。 「初めてここで会ったとき、お母さんの話をしてくれたでしょ」 「はい」 「俺、殺されかけたことあるよ。俺を生んでくれた母親に」 「え!?」  和やかな口調のまま物騒な告白をする彼に、洵は驚きの声を上げた。 「ど、どうして」 「あれはちょっと、歯車を掛け違えちゃったんだ。父さんも母さんも祖父も……俺も。みんな少しずつ間違えてた。でも、今考えても誰が悪かったかなんて分からない。だって、みんなが間違えてしてしまった行動には愛があったから」  陽は海を見つめて続けた。 「父は母を愛していたけど、母は家のために父から逃げた。祖父は、母のために父を追いだし、母は家と俺たち子どものためにずっと耐えた。爆発してしまうまでずっと一人で」 「それでも、あなたは被害者だ」 「どうかな。旅行の時、この目の話をしたでしょう? 洵には詳しく説明できなかったけど。当時は今みたいに制御することもできなくて、この力が母さんを追いつめた。だから、僕もきっと加害者だ」  当然のように話す彼の表情は、風邪で乱された髪の向こうに隠されて、彼が今どんな気持ちで居るのか、洵には想像できなかった。 「そんな、だってそんなの、どうしようもないですよ」 「そうだよ。誰にもどうしようもなかったんだ。みんなの気持ちを透視して一番良い道を示してくれるエスパーみたいな人がいれば良かったのかもしれないね」  冗談交じりに軽く笑う彼に、洵はぎゅっと目頭に力を入れて顔を顰めた。 「……僕の母は僕だけを愛してます。多分……」 「多分?」 「僕が将来苦労しないように、好きでもない人と再婚して、僕を離れに置き去りにした。いつも追いつめられた顔をして、決まりを作って僕に接する。僕のためだと言って、邪魔な兄を……追い出した……」  彼女は僕を愛してる。けどそれは今を生きている僕じゃない。 「未来の僕のために、自分も周りも、今ここに居る僕もみんな、……すごく苦しい……。分かっているのに、変えられない」  やるせない気持ちを込めって握った拳が、力を抑えられずに小さく震えた。 「俺は、反抗したら殴られるって分かっているのに、頑張れなんて言わないよ」 「……クロイツですか」  彼から聞き出したのかと、洵が身を守る鎧のように冷たく固い視線を陽に向けると、洵の冷たく強張った頬は滑らかな掌に包まれた。 「何度か挑戦してるでしょ。その度に頬が腫れてるよ」  労わるように頬を撫でる陽の瞳は、サングラスの向こうで悲しい色を湛えていた。 「君のお母さんは不幸なの?――大切だと決めたただ一人を大事に育てて、そのために毎日を生きている。その子は悩みながらも健康に健全に育って、彼女の決めたレールの上を脱線せずに、でも彼女が思っている以上にふさわしく意志を持って進んでいる――それは、不幸なの?」  彼の言葉が、頬に触れた暖かさと一緒に冷えた体に染みていく。 「俺の知る限り君のお兄さんは不幸ではないよ。お父さんのことは知らないけどね。……それで、君はどうして苦しいの?」  彼の言葉は甘い麻薬のようで、溺れてしまいたくなる。けれど、 「僕が居なければ違う形の、家族の幸せがあったかもしれない」 「無かったかもしれない。君のお母さんは一人ぼっちで生きる意味を失くしたかもしれないし、君の今のお父さんはもっとたちの悪い人と再婚したかもしれない」  洵は、そんな筈はない、と大きく頭を振って優しい手を振り払った。陽は小さく息を吐いて続ける。 「実は、俺の能力はもともと母のものだったんだ。俺が母から奪っちゃったの。だから、俺がお腹にできてなかったら、母は父と別れなかった。祖父は母から力を奪った父を恨んでいたから、俺が居なければ父を認めていた筈。そうしたらハッピーエンドだ。……でも、俺が居なかったら、照は俺とも光とも兄弟になれないし、診から受けるストレスを発散する場所が無くてノイローゼになるかもしれない。美千代は俺なしであの体質と向き合わなくちゃいけないし」 「……僕はあの時海に飛び込んでいたかもしれない」  陽はそろと面を上げた洵に微笑んだ。 「そうなの? 今でも良いよ、飛び込んで。頃合いを見て引き上げてあげるから。ああ、でもクラゲに刺されちゃうかもしれないね」 「引き留めてくれるんですね」 「引き留めないよ好きに飛び込めばいい。俺が居なかったらそのまま沈んで行っちゃうね」 「僕は、陽さんが産まれていて、僕と出会ってくれて良かった」 「俺も洵に出会って良かった」  ほっと安心したように力を抜いて笑う陽を、洵は拗ねて睨みつける。どうにも丸め込まれた気分だった。 「う~~~~ん」  業務終了後、突然海に行くと言い出した美千代と陽を運んできた博人は、待機中の車内で腕を組んで唸っていた。  彼の目下の悩みは洵との関係についてである。  社員旅行の悪夢で洵が自分の弟であることを知ってしまった博人は、そのことを彼に言うべきなのか、それはどのタイミングでどういう言い回しで伝えればいいのか、それ以前に彼は自分とどうなりたいのか、ずっと考えている。  博人は元から洵のことを弟のように可愛がっていた。蓋を開ければ本当の弟だったのだが、しかしそれは彼が自分を執拗に虐めてきた継母の実の息子ということである。逆に、彼からしてみれば自分は母を奪った男の息子だ。事実を伝えて、関係が変にこじれてしまうのは避けたかった。  黙っていることは騙していることになるのだろうか。もしかしたら憎んでいるかもしれない兄と、そうとは知らず慣れあっている現状(博人は洵が知っていることを知らない)は彼を騙していることになるのだろうか。 「ぬ~~~~、う!?」 答えが見つからずに引き続き唸り声をあげていた博人は、人の気配に意識を戻し、彼らを視線に入れると慌てて車から飛び出した。 「どうして洵君がここに!? とういうか、どうして皆さんずぶ濡れなんですか!?」 「迎えに来た美千代が風に煽られて海に落ちて、その隙に洵が海に飛び込みました」  ふいっと顔を背けた美千代の隣で陽が答える。 「むしゃくしゃしてやりました。反省も後悔もしていません」  またその隣ですっきりした顔の洵が言った。しかしその唇は紫色に変色している。 「もう、夏じゃないんですから風邪でも引いたらどうするんですか! こんなに冷えて!」  博人が冷えた洵の頬を掌で挟むと、驚いた彼がびくりと震えて後ずさった。 「……っ、あ、あの……」  じわじわと血色を取り戻した頬の上で、大きな瞳が戸惑いと安堵に揺れている。その顔を見て、博人は簡単なことに気が付いた。  彼と出会ったとき、博人は彼の素性を知らなかった。肌に触れて息を吐けるようになった僕たちは、憎い誰かの子供ではなく、ただの博人と洵だったのだ。 「頭までぐっしょりで、これじゃべたべたして気持ち悪くなっちゃいますよ」  博人は、むず痒そうに身じろぐ洵の髪を梳きながら、これからも目の前にいる少年をただ慈しむことに結論付けた。 ――しかし、  お互いに兄弟であることを知りながらも、それを口に出さないことで『兄弟のような』関係のまま穏やかに続いていくかと思われた日常は、早くもその翌日にピシャンと音を立てて崩れた。 「あれ? 青木さん?」  榊原家のお嬢様、榊原樹里奈が秘書課で青木洵と鉢合わせしてしまったために。  樹里奈は、洵のアドバイスに従い、家族の伝手で知り合えた秘書たちについて、作文に書こうと思って秘書課を訪ねてきたのだが、そこに洵が居るとは思っておらず、細い首を傾げて彼を呼ばった。 「なんですか?」  青木と聞いて返事をした博人に、樹里奈は慌てて首を振る。 「あ、いえ。博人さんじゃなくて、洵さん――」  洵は秘書課に現れた樹里奈から目を離せないでいた。正確には彼女を視界に入れてから不安と後悔と絶望の感情がグルグルと回り、目を逸らすという動作が思いつかないでいた。 「洵君?」  彼女の言葉で振り返った博人と目が合った瞬間―― 「洵くん!」  洵は跳ねるようにその場から逃げだした。  すぐに後を追った博人に続いてクロイツが出ていくと、しんと静まった秘書課に残された樹里奈は不安げに口を開いた。 「あ、あの……私何かいけないことをしてしまったのでしょうか……?」  話の流れについていけていない秘書たちは彼女の問いかけに顔を見合わせ、首を捻る。そんな中、奥のソファセットに腰かけた美千代と陽だけがいつもと変わらない表情で佇んでいた。 「大丈夫ですよ。きっと仲良く帰ってきますから、お菓子でも食べて待っていましょう」  と、陽は甘いお菓子を摘まんで言った。  洵を追った二人はビルを出てすぐに一度彼を見失ったものの、今日は人型だが鼻は利くクロイツのおかげですぐに彼を見つけることができた。 「洵君!」  追いついた博人が洵の腕を掴むと、彼は今にも泣きそうな顔で振り返る。苦しげに顰めた瞳と目が合った博人は彼と同時に口を開いた。 「「ごめんなさい!」」 「どうして青木さんが謝るんですか?」 「洵君が弟だって知ってたんだ。みんなで旅行に行った日、揃って悪夢を見たよね。僕が見たのは洵君の夢だった。……洵君も知ってたんだね」 「……困り、ますよね……」 「うん。困ったし、すごく悩んだよ」  博人の言葉に、洵はぎゅっと目を瞑る。 「どうしたら今まで通り洵君と仲良くしていられるだろうって」  しかし、続いた言葉に「へ?」と普段は眇めている目を見開いた。大人になりたい、ならなければならない、とアンダーリムのメガネに隠して睨むように細めていた大きな瞳。露わになったそれから、ボロッと涙が零れ落ちた。 「だから、言わないことにしたんだ」  博人がその涙を拭うと、洵はその感触に震える。頬に触れた指先が暖かった。自分に触れる彼は、いつだって暖かい、彼の体温が無遠慮に心を溶かして暴こうとする。 「言わなければ兄弟のような関係のままで居られると思った」  それ以上泣くのを堪えて口元を引き結ぶ洵に、目元を赤く染めた博人は歪んだ下手くそな笑みを向けた。 「僕も、言うつもりなんてなかったんです。ずっと隠して、このまま弟だと知られずに、弟のように接してもらえれば、なんて考えて。でも、そんな資格、僕には無い……」 「どうしてそんな風に思うの? 洵君とは仲良くなれたし、兄弟だったって分かって本当は嬉しかったんだけど」 「そんな簡単に、受け入れたらだめですよ!」  洵は、抱き寄せようとしてくる博人の胸を叩いて突き離そうとするが、できなかった。博人は、洵の細い指が胸元にしがみ付き、シャツに皺が寄る様を見て、きゅっと心臓が音を立てるのを感じた。 「だって、僕はあなたの居場所を奪った。それをあなたが知らないのを良いことに、隠して、騙して、とても卑怯なことをしていたのに……」 「洵君が僕を騙していたなんて思ってないし、そうだとしても関係ないよ。洵君が自分のことをどう思っていようと、僕とっての本物は今目の前にいる君だけだから」  博人は未だ甘えることを躊躇する洵を抱き寄せて、骨ばった背中を撫でる。 「僕と家族になりたいって泣いてる、僕のために悩んで傷ついて泣いてる、優しい洵君だけだよ」  洵は博人の胸に額をつけて、子どものように声をあげて泣いた。今の自分を愛して、今の自分の為にこんなに考えて行動してくれる人が家族になってくれた。こんなに嬉しくて満たされた気持ちになったのは初めてだった。  歩行者の少ないオフィス街の、街路樹で車道から目隠しされた歩道は、木陰になっていて寒々しい。二人から少し離れた木漏れ日の中で、クロイツは寄り添う二人を優しげに、そして寂しげに見つめていた。  そんな彼を博人が手招いて言う。 「それに、僕の居る場所がいつだって僕の居場所だった。今はこの場所、白鳥の秘書で隼人とそして洵君のお兄さんで、クロイツの家族だね」  洵を抱えたまま大きく腕を広げた博人の胸にクロイツが飛び込むと、三人仲良くバランスを崩して転倒した。  後日、引合されたもう一人の兄は、「ちいせぇな」と憎まれ口を叩きながら、洵の丸い頭を小突いた。


秘書課 <完>