外交ワン!


 

人間は嫌いだ

 じりじりと照りつける太陽が、柔らかな少年の肌を焼く。  始業式だけの午前放課の午後の小学校、中庭の飼育小屋の影でグレーの犬が丸くなる。その飼育小屋の前にしゃがみ込んだ少年は、持ち帰り給食のパンを小さくちぎっては網の隙間からそこに投げ入れた。ココココと、鶏がそれを啄む。鶏は空高くは飛べないが、ジャンプはするし、大きく羽も広げる。小さな飼育小屋は2つに仕切られて、片側には、兎が3匹、片側には鶏が2匹。どれも雄だ。狭いだろうな。でも、1匹だったら寂しいんだろう。  サクサクと草を踏んで足跡が近づいた。 「またここに居たの。」  掛けられた声に少年は答えない。 「君は動物が好きだね。」  やって来た少年卯田和真は元居た少年小栗洵の隣に同じようにしゃがみ込んだ。  小栗洵と彼は言うが、母親が再婚してから本当の名前は青木洵だ。でも、その名前は使いたくない。 「雄の鶏は、生まれた瞬間選別されて殺処分される。昔は、それではもったいないと言って、羽を染めて縁日で売った。けど、たらいに流した染料でもみ洗いするような染め方をされた雛は、ストレスですぐに死んだ。今もカラーヒヨコが売られている国がある。最近は生まれる前から、体内に化学薬品を体内に取り込ませて染める方法もあるけど、そんな残酷な環境で長く生きるわけもなく…」  語りながらも少年は無表情だ。艶のある真直ぐな髪が卵形の頬を包んでいる。アンダーフレームのメガネの奥の大きな目は、世の中を馬鹿にしたように眇められている。 「ここの鶏は運がいい。雄だけど、こんなに大きくなった。――運がいいから人間に殺されなかった。」  和真には、そのふてぶてしい表情が、泣いているように見えた。 「えい!」 「うわっ」  お尻を地面に付けないように、膝を抱えて座っていた洵の肩を押すと、簡単にバランスを崩して尻もちをついた。 「何をする!」  すぐにしゃがみ直して掴みかかってきた彼をそのまま受け止める。 「洵、誰に話しかけられても、いつもそんなことばかり言ってるでしょ。」 「だからなんだ。」  何度このやり取りをしたか分からない。  彼は変わってしまった。彼の父親は5年前に事故で他界した。それからは母子家庭で、慎ましくも母子とおじいさんで仲良く暮らしてきた。恵まれているとは思わない、でも不幸ではなかっただろう。しかし、一年前に彼の母親が再婚して変わってしまった。再婚した母親は、彼一人を離れに追いやった。裏切った。  彼が変わったんじゃない、周りの環境が彼を変えたのだ。人を信じなくなった彼の周りから、和真以外の友人は皆離れてしまった。彼が拒絶するのだから当然だ。  ぐっと顔に力が入るのが分かった意図せず眉間に皺が寄る。和真の顔が歪むと、洵は視線を逸らして、彼の襟をつかむ手の力を抜いた。 「人間は嫌いだ。身勝手で、他を道具としか見てない。蹴落として喜ぶ。意味もなく嬲る。」 「人だって、みんながみんな悪い奴じゃないよ。」 「誰が良いのか、悪いのか外から見たって分からない。信じても、いつ裏切られるか分からない!」  コケーッ  徐々に語尾が荒くなった。その大きな声に驚いた雄鶏が、餌を置いてバサバサと跳んで奥に逃げた。驚いた兎が飛び跳ねる。犬がちらっとこちらに視線をやった。  洵はそれを見て、ああ…、と漏らして俯いた。 「――それなら、最初からいない方が良かった…」 「君も人間だよ。」 「知ってる。」  洵は小さくかぶりを振った。  僕も人間だからって、人間が悪い奴ばかりだとは限らないって、いつまでも変わらない、裏切らない奴も居るんだって言いたいんだろう。でも、違う。 「僕だって、いつ悪い人になるか分からないんだ。」  だって、何をしたら悪い人なのかも分からないんだから。  洵にはまだ、心を許せる人間が唯一人だけいた。彼の父方の祖父である。もう80を過ぎた高齢で、父が亡くなってからは一気に痴呆が進んでしまった。  洵と両親が暮らしていた家は、もともと父の実家で、祖母はすでに他界していたが、彼とは一緒に住んでいた。痴呆が進んでからも、身の回りのことはあらかた自分でできるらしく、今も彼は、飼い犬のネロと一人と一匹、そこに住み続けている。  洵が彼を訪ねると、彼は決まって「お帰り」と言った。彼の中ではあの時のまま時間が止まっているのだ。だから信じられた。彼は裏切らない、だって止まっているのだから。  ピンポーン  直したばかりの小気味いいチャイムの音が築50年の木造一軒家に響く。  学校帰りに飼育小屋とここに寄るのが洵の日課だ。冷たい家には帰りたくなくて、門限の7時に帰れるぎりぎりまでここで過ごした。  返事が無い。留守なのかと引き戸に手を掛けると、カラカラ軽い音をたてて開いた。チャイムを直すついでに油を入れた扉の滑りはスムーズだ。 「おじいちゃん!ネロ!」  玄関から呼ぶがやはり返事が無い。洵の後ろをグレーの犬が付いてきた。 「留守なのか?不用心だな。」  言いながら上がる。電気の付いていない狭い廊下は薄暗く、何処か心細くなって、洵は犬を抱きあげた。古い木の床が歩くたびにキシキシ撓った。古い木と、紙と土の匂いがする家、洵はこの匂いが好きだ。  彼の部屋は一回の奥の和室だ。足腰の弱くなった彼は、急な階段を上がって二階に行くことは滅多になく、一日のほとんどを仏壇の部屋でおばあちゃんに線香をあげて、彼女と、年老いた愛犬ネロと一緒にのんびり過ごしていた。  その部屋の方から微かに線香の香りが漂ってきた。彼の部屋に向かった。  古い襖は紙が毛羽立って、黒く丸い取っ手は手垢で変色して所々剥げている。その取っ手に指を掛けて引いた。 「…ぇ?」  彼らはそこに居た。折り重なるようにして眠っている。眠っているように見えた。でも、おかしかった。  グレーの犬が腕をすり抜け、二人に駆け寄る。くぅーん、と寂しげな声を上げて彼の父親、ネロをぺろぺろと舐めた。  ネロの黒い毛並と並んだ彼の肌は不気味なほどに白く、どちらも全く動かない。胸も、肩も。 「おじいちゃん?ネロ?」  そっと彼らをゆすり動かす。 「う、う、わぁぁああああ!!」  冷たく硬い体は人形の様だった。 「何てことをしてくれたの!」  冷たい廊下に女の金切声と、パシンという破裂音が響く。弾みで外れたメガネがカシャンと音を立てて転がった。  祖父とネロは亡くなっていた。救急車を呼んで、病院まで付き添った。どちらも老衰でとても安らかに眠っただろうという話だ。  一応と思い、母に電話を入れると、ものすごい剣幕で帰って来いと怒鳴り散らされた。そして急いで帰った洵を迎えたのがこのビンタだ。 「貴方、私に隠れてあの家に通っていたなんて!あの人に誤解されたらどうするの!?」 「母さんは、おじいちゃんのことどうでも良いの?死んじゃったんだよ?」 「お母様と呼びなさいと言ったでしょう!!死んだ旦那の親なんて関係ないわ、私には新しい家庭があるの!!それを息子の貴方が壊すの!?」  目の前の女が、母が、何を言っているのか理解できなかった。   母さんが出ていくと、洵の足元で彼女を睨みつけていたグレーのアフロ犬が落ちたメガネを拾って、すり寄ってきた。 「クロイツ。」  洵は、父親のラブラドールの黒い毛並と、母親のビジョンフリーゼの白くてふわふわな毛並を受け継いだ、グレーの肢体を抱き寄せる。 「死んじゃった、死んじゃったんだ…。おじいちゃんも、お前のお父さんも、死んじゃった…」  クロイツはネロの息子だ。まだあの家に住んでいた頃から一緒に居て、こちらに越す際に譲ってもらった、洵と同じ離れに暮らす唯一人の家族だ。  広くて立派で冷たいここでただ一人と一匹で暮らした。寂しくても、クロイツが傍にいてくれた。寒くても、クロイツがそのふわふわの毛並で温めてくれた。  ぼろぼろ音を立てるように洵の瞳から大粒の涙が溢れだす。彼らを見つけた時からずっと気が張っていて、泣くことを忘れていた。 ******  ふと目が覚めると、暖かな光の中にいた。障子紙から光が透けて、その向こうに優しい人影が浮かんでいる。掛布団を避けると、上で寝ていた子犬のクロイツがころころ転がってきゃんきゃん抗議した。  布団から出て障子を開けると、縁側に腰掛けてたおじいちゃんがネロの背を撫でていた。僕に気づくと、皺に囲まれた細い目が三日月を描く。 「おはよう、洵くん。もう起きたのか。起こされる前に起きて、偉いなぁ。」 ――おはよう  自分の声はここにないみたいにふわふわと空気に溶けてしまった。 「ん、おはよう。」  それでもおじいちゃんには聞こえたようだ。  トントントンと、包丁がまな板を叩く音が聞こえる。足にじゃれついてくるクロイツを抱いて台所に行くと、お母さんが赤く熟れたトマトを切っていた。  控えめなレースの縁取りの付いた、薄いピンクのエプロンは、お父さんがお母さんの誕生日にプレゼントしたものだ。 ――ママ、おはよう  幼子のようにママと呼んだが、それが自然なことに思えた。 「あら、おはよう。一人で起きたの?もうすぐごはんできるから、あっちでパパと待ってなさい。」  隣の部屋でちゃぶ台の前に陣取り、スポーツ新聞を読むお父さんの肘を潜って膝に潜り込んだ。 「お、お、なんだ洵か。ネロかクロイツかと思ったぞ。」  呼ばれたと思ったのかクロイツも膝にのぼって来た。 ――パパおはよう 「ん、おはよう。」  すぐにご飯ができて、運ぶのを手伝って、ちゃぶ台の上にお味噌汁と焼き魚とサラダが並んだ。お母さんと、お父さんと、おじいちゃんと僕で丸くそれを囲んで、すぐ近くでネロとクロイツが並んでご飯を食べてる。  夢みたいにキラキラふわふわエフェクトがかっているみたいだった。  目を覚ますと暗くて高い硬質な天井があった。高価なだけの寒々しい天井。夢から一変、一気に現実に叩き落とされた気分だ。  ここには誰も居ない。誰も…。視界が滲んで涙がこぼれた。 「泣きつかれて眠ったはずなのに、まだ泣き足りないのか。」 「え!?」  かかるはずの無い声に飛び起きる。そして自分がその声の主と手を繋いでいることに気付いた。大きくてごつごつした大人の手だ。守られているようで安心した。 「誰?」  ベッドの横に座って、こちらを見ているのは、堀の深いラテン顔の知らない男。 「分からないか?」  言われてまじまじと見やる。やはり知らない。自分にはこんな派手な見た目の知り合いは居ないはずだ。  男が手櫛で前髪を掻き上げた。根元の細かいカールから、毛先に向けて緩いウェーブに変わる灰色の髪。 「もしかして、クロイツ?」  男が小さく笑うと、薄く開いた唇から鋭い犬歯が覗いた。





 

外交始め

「もしかして、クロイツ?」  言ってから、まさかな、と思う。しかし、男は小さく口角を上げて言った。 「親父と爺さんが死んで、資格が俺とお前に回ってきた。」  何のことか分からない。しかし、分からないなりに洵の心臓は高鳴っていた。知的なダークグレーの瞳が洵を見つめている。この瞳はクロイツだ。洵はいつも眇めている大きな目を零れんばかりに見開いて、それを見返す。  唯一の家族のクロイツが、人の姿で人間の言葉を話している。こんなことはありえない。洵は恐る恐る自分の頬に手を伸ばし抓った。 「――痛い」  夢じゃない。  洵はベッドから体を起こすと、クロイツの体に触れてみた。がっしりと硬い、体温がある。 「…おい。」  無言で顔までべたべた触っていると低い声で制され、手を持って引きはがされた。 「夢から覚めたか、坊っちゃん?」  微かに口角を上げたアルカイックスマイルで、いやに艶のある声で聞かれる。 「いや、まだ夢みたいなんだけど…、何だこれ、どういうことだ?」  クロイツがベッドに腰掛けてきたので、洵も彼に隣り合わせるように向きを変える。 「俺の親父と、お前の爺さんは、種族間を超えた外交をする外交犬と外交人だったんだ。で、さっきその資格を俺とお前が引き継いだ。」 「外交…?」 「外交といってもただの交流だ。茶をしばいて世間話をする。昔はもっと色々やったみたいだけどな。今は、特に人間が外交人の存在を忘れて大きな仕事はできなくなっている。」 「それはクロイツ以外の動物とも話ができるってこと?」 「そうだ。もうお前は道端の猫の言葉だって分かる。」 「僕も他の動物になれる?」 「いや。俺が人間になっているのは便宜上だ。両手が自由に、器用に動くからな。それに、外交にはライオンもいるし、トラもいる。交流の場でシマウマなんか狩られたらまずいからな。全員人間になって力の均衡を図っているわけだ。」 「そうか…」  少し残念だ。 「クロイツは、なんでそんなに色々知っているんだ?」 「親父は死期を悟ってた。」  クロイツの目がふっと翳った。しかし、それは瞬くほどの間ですぐに元の光を取り戻す。  2匹はこの時を覚悟して、準備を進めていたのか… 「会合は新月の夜だが、いつも誰かしらいる。行ってみるか?」 「う、うん!」  先に立ち上がったクロイツが手を差し伸べてくる。知的な瞳が見つめてきた。その手をとって立ち上がる。 「手を離すなよ。呪文はこうだ――トントンスター・イル・レガメ!」  薄い唇が呪文を紡ぐと、光と風に包まれる。繋いだ手をぎゅっと握られた。  風が止むと野原に立っていた。  丸い机と椅子があって、甘いお菓子と紅茶の香りが漂う中で、三人の耳と尻尾の生えた人たちが団欒している。明かりは机の真ん中と、机の周りにある燭台に立てた大きな蝋燭のみで、頭上では真っ黒な中に無数の光りが散らばって、その高くて広くて深い満天の星空に飲み込まれる気がして足元がふらついた。 「まあ、呪文なんて本当は何でも良いんだけどな。繋がるっていう意味なら。だが、日本語だと関係ない時に言いそうだろ。だからイタリア語だ。」  クロイツは洵の手を離して肩を竦める。手を離しただけなのに、知らない場所で一人にされた気がして少し心細く感じた。  おや、と言って団欒した三人が二人を手招いた。 「適当にお座り。」  猫耳の女性に促され、先にクロイツが彼女と一つ席を空けて座り、二人の間の席を洵に顎で示した。 「見ない顔だね。私は三毛猫のネネだよ。あんたたちの種族と名前は?」  通った鼻筋に大きな光る目。細身で若くもないが、あだっぽい雰囲気の匂いたつ美人だ。 「犬のクロイツだ。」 「あ、人間の洵です。」  答えると、三人が息を呑んだ。 「…まあ。」  大きな渦巻の殻を背負った女性が目を伏せる。 「これはこれは…」  信号色の鮮やかな羽を持った男性が眉を顰めた。 「重とネロは死んじまったのかい…」  ネネが噛みしめるようにゆっくりとそう言った。重は洵の祖父の名前だ。 「ぁ……」  洵は何かを言おうとして、でも何も言うことができなかった。  みんな悲しいのだ。繋がりを持った人が居なくなってしまったのだから。それは洵も同じだ。いや、それ以上だ。  祖父は洵が唯一信じられる人間だった。その存在を失ったことでできた空間は、誰よりも大きい自信がある。感情を人と比べるなんて意味がないし、できることではないけど、ここに居る彼らが祖父とどんな絆を持っていたかは知らないけれど、洵にとっては彼しかいなかったのだ。考えるほどに目頭が熱くなる。泣いてしまわないように奥歯を噛みしめた。  ポンと背中に軽い衝撃と体温を感じた。クロイツの大きく力強い手だ。 「寿命なんだ。悲しんでいても仕方ない、ここは死んだ者より生きた者の世界だ。」  優しい手と、厳しい言葉。彼の父親も亡くなったというのに、何て強いのだろう。 「そうさね、歓迎するよ。」  ネネは気持ちを切り替えるように手を叩いて、ぱんぱんと小気味良く音を響かせた。 「弔いは会合の時にとっときな!今日は人数も少ないし、気楽にすごしてきなね。」 「はい。」  力強い声に促されて、なんとか声を絞り出すと。彼女は頷いて席を立ち、暗闇に消えた。  入れ替わりに、渦巻の殻を背負った女性が席を立たって歩み寄り、洵を背中から抱きしめる。 「うっふふ。坊やいくつ?可愛いわねぇ。」  背もたれの無い椅子で、ほぼ障害なくふくよかな胸が背中に押し当てられた。思春期に入ってから、母親にすら触れていないために、その感触にほっとすると同時にどきまぎする。 「あ、えっと、十一歳、小学五年生です。」 「あら、じゃあまだ人間じゃ子供ねぇ。」 「あの、貴方は?」 「私はカタツムリのデンデン。」  彼女は洵の手をとり、 「雌雄同体よんっ。」  股間を触らせた。  両の太股まで大胆にスリットの入ったドレスの布が中央に寄り、彼女の股間に食い込む。張りのある太股が露出した。  少しケバめの化粧が施された厚い瞼と唇の色っぽい顔が見つめてくる。脇を締めて強調した白くふくよかな胸が大きく開いた胸元からすべて見えそうだった。視界的には見事に女性だ、しかし手には女性ではありえない感触。 「…っひ」  洵の喉から引き攣った声が出た。パシンとクロイツが彼女(?)の手を叩いて洵を開放する。 「おい、セクハラが過ぎるぞ。」 「あら、ごめんあそばせ。」  彼が睨みつけると彼女(?)は軽く舌を出した。 「ぎゃはははははっ!」  羽の男が腹を抱えて笑い出した。 「今代の犬公は気が荒いねぇ。お前の父ちゃんは重がセクハラされてもおどおど見てるだけだったぞ!」 「重さんは自分で振り払うだろ。」 「違ぇねぇ!」  彼はバサッと羽を広げて言った。 「俺はオウムのマネキってんだ。初めて喋った言葉が『ラッシャセー!ヤスイヨヤスイヨ!』だったからマネキだ!」  赤い髪に、信号色の羽、大きく明るい声。とても派手だ。 「ちょっとマネキ、うるさいよ。あんたの声はただでさえキンキン響くんだ。あまり大声をお出しでないよ。」  暗闇の中から声がした。真っ暗な中に目が光っている。ネネだ。  戻ってきた彼女は摘んできた草をすり鉢に入れ、すりこぎ棒でゴリゴリと擦りだす。薬になる草をとってきてくれたらしい。 「いらっしゃい。薬を塗ったげるから。」  彼女の方へ行こうと立ち上がり、ちらりとクロイツを見るが、彼がついてくる様子は無い。数歩の距離、それも同じテーブルなのだからついてくる方が過保護というものだろうと思うが、何となく心細かった。  ネネが洵の頬にぺたりと触れた。 「熱いね。誰にやられたんだい。」 「これは…」 「こいつの母親だ。」  洵が言葉を濁すと代わりにクロイツが答えた。 「クロイツ!」 「洵、ここでは何でも話せ。そういう場所だ、覚えておけ。」  席を立たないまま、洵の目を見て言った。 「そうさね。ここはそういう交流の場だよ。痛いものも痒いものも全部出しちまいな。」  本当に、話しても良いものか、不安で、クロイツの瞳を見る。じっと、優しく厳しい目が見返してきた。安心して、ぽつぽつと話し出す。 「おじいちゃんとネロが亡くなっているのを見つけて、救急車を呼んだら…」 「救急車を呼んだら殴るのかい?」 「違います。僕、おじいちゃんの家には母さんに内緒で行っていて、それで。」 「おじいちゃんの家に行くのは悪い事かい?」 「母さん、再婚したんです。だから、前の家に俺が行くのを良く思ってなくて…、今の人に誤解されたくないって…」 「誤解も何もあるもんかい。離婚したって、再婚したって、子供は親の子供だよ。孫は爺さんの孫だよ。あんたは重の孫だよ。」  ネネはポンポンと洵の頭を叩いた。  嬉しい。安心する。良かれと思ってやったことを、母に否定されて詰られて。自分の行動がいけないことだったんじゃないかと錯覚しそうになった。でも違う。やっぱり、いけないことじゃなかった。 「酷いなぁ。嫌な奴だ。」  マネキが言う。 「これだから人間は嫌いよ。自分の子供をこんな悲しい目にあわすなんてねぇ。」  デンデンが言う。 「ばかお前、この子だって人間だぞ。人間にも悪い奴と良い奴がいるんだ一括りにするなよ。現に俺の飼い主は口うるさいけど良い人だぞ。」  それにマネキが反発した。  みんな洵の味方をしてくれた。でも、何故か胸がもやもやした。 ――母は悪い人なのだろうか。





 

外交兎

「さあ、今日も漁りに行くか。」 「朝ねぇ。」 「そうねぇ。」  たくさんの話し声に目を覚ます。カーテンを開けると、爽やかな光の中をカラスとカワラヒワが飛んでいた。賑やかだが、カーカー、キリキリといった鳴き声はもう聞こえないのかと思うと少し寂しい。 「慣れれば話し声の聞きかたもコントロールできるようになる。」 「あ、そうなんだ。――ってうわっ!」  隣で寝ていたクロイツが起き上がった。 「なぜ人型なんだ、なぜ服を着ていないんだ!」  洵はカーテン側の壁に背を付けて、彼を指さす。  クロイツは呑気に伸びをした。ぐっと胸が反れて綺麗な筋肉が強調される。 「人型に慣れるためだ。服は…着る意味が分からない。」  欠伸をすると鋭い犬歯がむき出しになった。 「目に悪いから、服は着てくれ。」 「めんどくせぇな…」  文句を言いながらも体を黒のシャツとズボンで覆てくれた。 「それどうなってるんだ?」 「…体毛が変化したようなもんだ。――それより」  クロイツは堀の深い顔をぐっと洵の顔に近づけ、頬に触れる。 「腫れは引いたみたいだな。」 「ネネさんの薬が効いたみたいだ。」  そのまま頬を撫でられて見つめられる。居心地が悪い。 「――うひゃぁ…っ」  頬を舐められた。 「じゃ、じゃれるなら人型を解いてからにしろ!」  人間顔じゃないというが(この場合は動物か)見た目は大事だと思った。 「あ!クロイツさん!おはようございます。外交犬になったんですね!そっちの人間も!」  登校途中、門扉の奥から犬に話しかけられた。  近所で評判の毛並の良い柴犬だ。 「え、分かるのか?」  洵が驚いてクロイツを見下ろすと、彼はふっ息を吐いた。人型だったら肩を竦めたのが分かっただろう。 「まあ、見えない称号みたいなものがあるんだ。鈍い人間には分からないがな。」 「へぇ!」  柴犬にお別れをして歩き出す。この辺りは人通りが無いから小声でなら話していても問題ない。 「そういえばクロイツはいつも放課後まで何してるんだ?」 「飼育小屋前で鶏と兎とたわむれるか、昼寝だな。腹が減ったら用務員室に行く。あの爺さんは動物好きだな。」 「そうなんだ。」  今の家に引っ越してから、クロイツは学校に侵入するようになった。初めて校門前で待っていた時は「何で!?」と大きな声を上げてしまった。家で待っていろと、何度言っても効かなくて、家中の鍵をかけて出ていくのに、何処からか抜け出して来た。それから放課後だけでなく、日中も出歩いていることが分かって、保健所で保護されないように首輪だけさせて一緒に登校するようになったのだ。 「おはよう、洵!」  教室に入ると和真が寄って来た。  洵は基本人と話さない。人と関わったってろくなことが無いからだ。縁を作って、信じたって、裏切られたらおしまいだ。いや、終わるなら良い。終わらないから嫌なんだ。  何かが無くなることは在る前の状態に戻るんじゃない。何かが自分の中に入った時点で自分が広がるから、無くなるとそこが空洞になるのだ。  彼を無視して席に向かおうとすると、手を掴まれて阻まれる。 「…洵、ちょっと。」 「え、ちょっとなんだよ!」  そのまま廊下に連行された。  校舎の端の人気のない場所まで来て、和真は声を潜めた。 「おじいさん、亡くなったの?」  まさかの質問に思わず目を見開いた。 「え、何で知って…」 「俺のうちに外交兎が居る。だから、君が外交人になったんだって何となく分かった。」 「そうなのか。」  和真が目を伏せる。  彼は洵にとって祖父の存在がどれほど大きいものだったかをクロイツの次に良く知っている。 「……なんでも一人で抱え込むなよ。」  洵の手をとったまま、言葉を探るように彼は言った。 「こんにちは。」 「洵!洵だ!」  放課後、和真と一緒に飼育小屋に行くと、鶏と兎が騒いだ。クロイツは鶏側の網に寄り添うように寝転んでいる。  嫌われているとは思っていなかったが、思わぬ歓迎ムードに嬉しくなった。 「ちょっとあなたに言いたいことがあったんですよ。」  雄鶏の一羽が大きな鶏冠を揺らして話し出した。 「エサは!人参より!レタスが良い!あと、ネギとアボカドは!食べなーい!」  しかし、それを遮って兎が跳ねてそう主張する。 「前に貰った赤いやつです。赤いやつがまた食べたいのです。」  負けじと雄鶏が話し続けた。 「トマトのことかな?」  彼に与えている餌は、ペット用の餌と野菜くずだ。その中に赤いものと言えば、トマトのヘタほうしか思いつかない。 「トマトというのですか、あの赤くて瑞々しい果物は!」 「トマトは野菜だよ。」 「野菜でしたか!」  小屋の前にしゃがみ込んで話す洵の隣に和真もしゃがんだ。 「何んて言ってるの?」 「エサの注文。レタスとトマトが食べたいって。」  答えるとクロイツがのそりと起き上がり、近づいてきた。 「洵。そいつはなんだ。」 「クロイツ、聞いてよ。和真の家には外交兎が居るらしいんだ。」 「外交兎だと?」  クロイツの顔が不快気に歪んだ。 「おい、外交兎ってのはラビのことか。」 「わあ、しゃべった!」  和真が驚いた声を出す。 「クロイツは外交犬なんだ。」 「意外と艶っぽい声なんだね。」  今はパンチパーマのチンピラみたいな形相になっているが、クロイツはふわふわアフロのつぶらな瞳が可愛い中型犬だ。こんな低く艶のある声だとは誰も思わないだろう。 「質問に答えろ。」 「うん。うちの外交兎はラビだよ。」 「知ってるのか?」  洵が聞くとクロイツはぷいと顔を背けた。不機嫌だ。 「道端で会う。」 「よく脱走するんだ。」  和真が苦笑いした。外交する動物は得てして脱走癖があるのだろうか。 「あいつとはそりが合わない。」 「ふーん。」  和真が素知らぬ声で返すと、クロイツは元の場所に戻っていった。 「でも、困ったな。」  洵と和真もいつもの草の上の位置に腰を下ろすと、和真が言った。 「何がだ。」 「洵、動物と話せるようになったら、もっと人から離れそう。」 「今以上離れようがないだろ。」 「ジャングルに住むとか。」 「無理だろ。」 「なら良かった。」 「お前、物好きだな。」 「物好きなんじゃなくて、洵が好きなんだよ。」 「それが物好きって言うんだろ。」 「素直じゃないな、まあ――」  和真は洵の目を見てすっと息を吸った。 「そういうところにきゅんきゅん萌えちゃう狙ってるのそうなんでしょいつも一人で居るのも僕に構って欲しいからでしょずっと見てるよ大好きだよ僕の瞳の中だけに閉じ込めたい愛してる愛してる愛してる愛して」 「ワンワン!」  クロイツに遮られるまで一息で言い切った。 「…なーんちゃって。」  和真は冗談だよ、と笑った。洵は胸に飛び込んできたクロイツを抱きかかえる。正直ドン引きだった。 ****** 「まったく本当に困ったもんだよ」 「まあ、言ってもその去勢のことについては、人間側も致し方なしにってところあると思うけどね。猫には悪いけど。」 「なんだい偉そうに、お前こそ去勢されるべきだよ。万年発情期。」  夜、会合の場に行くと、ネネとウサ耳の男が話していた。 「やあ、久しぶり。」  気づいたウサ耳がクロイツに手を振り、次に洵を見た。 「こちらは初めまして。でも、話は聞いてるよ。僕は卯田和真の飼い兎のラビだ。」 「初めまして、人間の洵です。」 「君は男の子だよね?」 「そうだけど。」 「ふーん。でも可愛いね。」 「男が可愛いって言われても嬉しくない。」  ラビが細くて長い腕を洵に伸ばすと、触れる前にクロイツが叩き落とした。 「こいつに触るな。」 「やだなぁ、嫉妬?だーいじょうぶ、ちゃんと君のことも好・き・だ・か・ら。」 「去勢されろ。」 「つれないなぁ。」  毛を逆立てて威嚇するクロイツに、対するラビはにやにやと笑っている。 「犬猿の仲というやつか。」 「兎だけどねぇ。」  洵が納得してそう言うと、ネネが呆れた声で相槌をうった。クロイツが遊ばれているのを見るのは新鮮だった。





 

願い事はなんですか?

 9月5日木曜日、新月の夜が来た。月の無い空は一層黒く、その分星のきらめきが降るように迫ってくる。  いつもの甘いお菓子の香りだけでなく、今日はご馳走の匂いがする。夜空の下の草原にいつもよりたくさんのテーブルが置かれ、いつもより沢山の蝋燭に火がともされた。幻想的な風景の中で、獣耳や尻尾の生えた人型たちが楽しげに雑談している。 「いらっしゃい、洵。」  洵に気づいたネネがお椀を持って近づいてきた。 「こんばんは。いつもこんなに賑やかなの?」 「月に一回の会合だからね。でも、今回は人間と犬の代替わり、前の奴らの弔いとあんたらの歓迎の意も込めて、みんないつもより張り切ってるかもしれないねぇ。――ほら。」 「ありがとう。」 「どうも。」  ネネの差し出した二つのお椀をクロイツと一緒に受け取った。大根・人参・ごぼう・レンコン・里芋のごろごろ入った、味噌と昆布のの優しい香りのする野菜汁だ。一口飲むと、口の中でごま油の香りがふわっと広がる。 「美味しい。」  洵はほわっと息を吐いた。 「ああ。」  クロイツの口元も緩んでいる。 「そりゃあ良かった。」  ネネは二人の反応をみて満足げに頷いた。 「この料理は誰が用意しているの?」 「持ち寄りだよ。作って持ってくる奴も居れば、材料を持ってくる奴も居る。」 「あ、僕何も持ってきてなくて…っ」  慌てる洵の頭をネネはポンポン叩いた。 「みんなもって来れるものを持ち寄っているだけさ。それに今日はあんたらの歓迎の意も込めてんだから気にするんじゃないよ。まあ、気になるなら次から茶葉の一つまみでも持ってきな。」  食べ物は、野菜汁以外のものもすべて優しい味がした。  塩だけで味を付けた、薩摩芋と新銀杏の炊き込みご飯。瑞々しい三つ葉の緑が鮮やかな、白ゴマが香るキノコいっぱいのかけ蕎麦。色の綺麗な野菜とお餅の入った油揚げの巾着袋。椎茸と人参を刻んで混ぜた擦りおろしレンコンとつくね芋を揚げて、出し汁と醤油と味醂の漬け汁をかけたつくね揚げ。切り口が市松模様になった、柿とカブを昆布で包んだなます。秋茄子の揚げ浸し。水菜と茸のみぞれ豆腐。甘い南瓜と小豆のいとこ煮。  色んな動物に勧められて、幸せそうに食べる洵をクロイツは見守った。 「新月の夜は体の余分なものを吐き出す時。ここの料理はみんな精進料理だよ。悪いもんを出しちまうんだ。食べて、話して、もやもやした気持ちをすべて吐き出しちまう。」  ネネが言った。  今の家に来てから、洵はいつもクロイツと一人と一匹で食事をとっていた。用意されたものを勝手に温めて勝手に食べる。今は話もできるが、それまでは会話もない寂しい食事だった。こんなに賑やかで暖かい食事は、前の家で、家族で食卓を囲んでいた頃以来だろう。 「クロイツ!これも美味しいよ。食べてごらんよ。」  柿の白和えを持った洵が駆け寄ってきた。彼のこんな笑顔を見たのはいつぐらい振りだろう。 「そういえば、動物なのになんで人間と同じものが食べられるんだ?」 「消化するまで人型で居れば良い。」  クロイツは彼の皿から一口摘まんで食べた。  ボンボン、と風船を叩いたような音がする。会場の中心で、ツンンツン頭の小柄な少女がマイクを手のひらで叩いていた。 『あーあー、マイクテス、マイクテス。――みなさんこんばんは。日本、新月の夜の会合によくいらっしゃいました。堅苦しいことは無しに、外交して毒を出していきましょう。ではお待ちかねの短冊を配ります。』  くるくる回りながら高い声で早口に言った。 「願い事?」 「そう。新月の夜に願い事をすると叶う、かもしれない。期限は明後日20時36分。願い事を短冊に書き、天にかざす。」  洵の疑問に答えたのはラビだ。今まで影も見えなかったのに、突然背後から短冊と鉛筆を差し出してきた。クロイツが渋い顔をする。  ラビが短冊を天にかざした。短冊はほろほろと崩れて光の粒になって天に昇って行く。 「うわぁ…」  綺麗だ。 「願い事が天に運ばれていったんだ。願い事は一つだけ。」  会場のあちこちから光の粒が空に向かって飛んでいく。  ラビが顔を洵の顔にぐっと寄せて尋ねた。 「――洵は何をお願いする?」  にんまりと笑った顔はクロイツの掌に押し返された。 「ねぇねぇ、聞いてよ聞いてよ!」  前髪だけが灰色に染まった、白い頭の小さな男の子が洵の腕を引っ張った。 「新しい人でしょう?人間の洵でしょ?僕はパールホワイトハムスターのチーだよ。鼠の代表だよ!」 「よろしく、チー。」 「うん!それでね、あのね、あのね。僕んちには、僕の他に猫の三味線が居るんだけどね、飼い主のまゆみちゃんは、猫よりハムスター派みたいでね、僕のことを肌身離さずって感じですごく可愛がってくれたんだ。でね、外交鼠に選ばれた時には本当に嬉しかったんだよ。だって、まゆみちゃんとお話ができるようになるんだもの。でもね、でもね。いざ、人の姿をまゆみちゃんに見せたらなんていったと思う?」  迫真の表情で迫るチーに洵は息を呑む。  ここは毒をはき出し、浄化する場所だ。ディープな話も覚悟しなければならない。 「…なんて言ったの?」 「『なんで猫じゃないのよ!?』って。それまで三味線よりも僕の方が可愛がられてると思ってたから、すごくショック。あ、言っておくけど三味線とは仲良しだからね?そこんところ宜しくね。」 「なんで猫が良かったの?」 「それがね、それがね、『猫だったら、性感帯とか分かって悪戯したい放題だったのにっ!』って。いやー、ホント僕ハムスターで良かったよね!あははっ!」  隣でラビが肩を竦めた。 「これ、こいつの鉄板ネタなんだ。」 「ネタ…、――っぷ、くくっ」  安心したら笑えてきた。久しぶりに声を出して笑った気がした。 ****** 「飼育委員になったよ。」  金曜日、学活の時間に委員会決めをした。もちろん洵は飼育委員に立候補し、希望通りになることができた。 「おお、ではこれまでより一層深い中になりましょうぞ!」 「飼育!委員!これからも!よろしく!」 「うん、よろしく。」  放課後、飼育小屋の鶏と兎に報告すると、鶏はバサバサと羽ばたいて、兎はピョンピョン飛び跳ねた。  歓迎されると嬉しい。今までもこうして行動で気持ちを示してもらえたから、気持ちが繋がっている気はしていたけれど、外交人になってからは言葉を貰えるようになって、受け取れる気持ちが増したみたいだ。 「ふふ、二人で飼育委員だね。」  和真が言った。飼育委員はクラスで二人。洵ともう一人は和真がなった。和真と最近距離が近い気がする。 「今日もぎりぎりまで居るの?」  和真に答えずに洵は飼育小屋を後にする。人間に心を開いたらいけない。 「帰るの?」  クロイツと一緒に和真も後をついてくる。だから、人間に心を開いたらいけなんだというのに。洵はふうっと息を吐いた。 「今日は、母さんが来る日だから。」  母さんは毎週金曜日の午後5時にきっかり三十分、洵のいる離れに来る。  洵と彼女はこの時にしか使わない生活感のない応接間の、冷たい皮張りのソファに向かい合って座った。洵の足元でクロイツが丸くなる。もふもふの毛並が足の甲に当たってそこだけ暖かくなった。  彼女はこの時間を親子の対話の時間だというが、その実彼女の言いたいことを言っているだけだった。洵の行動に注文を付けて、理想の息子をつくるための時間。 「今週は何か変わったことはあった?」  穏やかな母の顔で彼女が言う。 「特にはありません。」 「委員会決めとかあったんじゃないの?」 「飼育委員になりました。」 「…は?」  母の顔が崩れた。理由は分かる。僕が彼女の理想とずれた行動をとったからだ。 「学級委員になりなさいと言ったじゃない!」 「が、学級委員は、他に立候補がいて、じゃんけんで負けて…」  嘘だ。でも、本当のことを言ったら彼女はもっと怒るのだろう。 「それなら、仕方ないけど…」  渋い顔をしながらも、彼女は落ち着いた。 「でも貴方、ずいぶんじゃんけんが弱いのね。」 「え?」 「飼育委員なんて、面倒だし、臭いし。最後まで残る委員会でしょ?負け続けたの?」 「僕は飼育委員になりたくてなりました。」  洵はきっぱりとそう言った。もう彼女に抗議しようと思うことも少なくなったが、これだけは譲れなかった。しかし、そんな洵に彼女は困ったような笑顔を浮かべる。 「優しいのは良いけれど、自己主張はしないとダメよ?」  洵はこの時間が嫌いではなかった。それはこの時間は彼女が洵を見てくれる唯一の時間だったから。でも、この時間が終わるとぽっかり胸に空洞ができたみたいに空しく感じた。だって、彼女はこの時間しか僕を見ていないのに、この時間しか僕の母で居ないのに、この時間でさえも僕のことなんて見ていないんだ。  今日も月は見えない。頭の上はいっぱいの星空だ。その空を見ると、足元がふわふわとおぼつかなくなった。クロイツが洵の肩を支える。いつもなら踏ん張れた。でも、今日は一人ではそのまま倒れてしまいそうだった。  本館に帰る母さんを見送って、玄関で茫然としていると、人型のクロイツに会合の場に連れてこられた。 「願い事は書けたかい?」  宴は昨日から続いているようで、今日も会場は賑やかだ。たくさんの動物の中、ネネが一番に二人に気づいてよって来た。昨日貰った短冊はまだ白紙のままだ。  ネネが優雅に紅茶の湯気を揺らす。そういえば今日も茶葉を持ってきていない。 「浮かない顔をしているね。」  ネネは、近くのテーブルで新しいカップを二つ出して、紅茶を注いだ。彼女の淹れた紅茶を啜ると、冷たかった胸がほわんと温まる。 「母さんと、話が通じなくて――」  洵はさっきあったことを、ぽつぽつと話し出した。 「気味が悪いね。」  洵の話を聞き終えたネネが、苦い顔で呟いた。 「息子に固有の意志があるってのを理解してないんじゃないのかい。」 「あーこわいこわい。」  動物たちが口々に言う。  ここは毒を出して、浄化する場所だ。でも、毒を出しても洵の心にはモヤモヤが残ったままだった。 ******  土曜日の朝、すこぶる機嫌の良い母が離れを訪ねてきた。 「ご機嫌ですね。」  こういうことが稀にある。前に、今の旦那さんにパーティーの同席を頼まれた時も嬉しそうに報告に来た。今日もきっといいことがあったのだ。洵の知らない場所で嬉しいこと、楽しいことがあると報告に来る。彼女は、喜びを分かち合っているつもりなのだろうけど、洵にとっては空しいだけだ。 「ええ、だって、邪魔者が居なくなったのよ。」 「邪魔者?」  洵は聞き慣れない言葉を怪訝な声で反芻した。 「長男よ。とうとう根を上げて出て行ったわ。」  そう言って嬉しそうに笑う彼女にぞっとする。 「根を上げるって、何をしたんですか…?」 「何って、そう大したことはしてないわよ。食事の味付けを変えたり、水風呂に入れたり…。細かいことは覚えていないわ。」  あたかも武勇伝を語るかのごとく誇らしげに語る彼女は、続けて信じられないことを言った。 「貴方にここを継がせるためには邪魔だったのよ。」 「な、んの、話ですか…?」  寝耳に水だ。洵はショックに掠れた声を絞り出した。  彼女は向こうで新しい家族と楽しく幸せに暮らしているのだと思っていた。邪魔になる洵を隔離して、新しい家族と絆を作っているのだと思っていた。それが、兄を虐待していた?  血の繋がっていない兄とは、一年前に挨拶を交わしただけで、顔さえ思い出すことができない。顔さえ思い出せない人間が、僕のために虐待を受けたというの?耐えかねて今まで暮らした家や家族から離れていったというの? 「僕は、ここを継ぎたいだなんて思ってません!」 「貴方の為なのよ。」 「僕は望んでない!」  僕はそんなことは望んでない。僕のために人に不幸になれだなんて望んでない。僕の為だと言って、罪を擦り付けるのか。幸せな家族との時間を失う寂しさを、僕のせいで僕以外の人にも背負わせて、僕はその業を背負わなければいけないのか。 「幸せにしたいの、大丈夫よ。心配しないで、あの人は私が説得するわ。」 「そうじゃなくて、」 「遠慮しないでちょうだい。私は貴方の母なのよ?」 ――狂ってる。  頭がどうにかなりそうだった。





 

人間を好きになります

 上機嫌のまま母屋に帰っていく母を茫然と見送って、そのままふらふらと家を出た。何も考えたくなくて、ただただ歩いて、気づいたら駅に居た。  遠くに行きたいと思った。しかし、自分が着の身着のままであることに気づく。これでは電車に乗ることもできない。息を吐いて来た道を戻ろうと振り向くと、すぐ後ろに立っていた男にぶつかった。 「あ、すみません――クロイツ!?」  耳と尻尾を綺麗に隠した完璧な人型のクロイツが、髪を掻き上げ額を抑えて、これ見よがしにため息を吐く。 「家からついてきてたけどな。」  言いながら鞄を寄越した。わざわざ持ってきてくれたらしい。洵はそれを黙って受け取り、二人分の切符を買った。  コンクリートで塗装された道から外れ、階段を下りればすぐに白い砂浜が広がり、その向こうには広大な海がある。 「クロイツ。」 「何だ。」 「一人になりたい。」  力の無い声で言う洵をクロイツは抱きしめた。 「一人にする。けど、変な気は起こすなよ。」 「……うん。」 「…気がすんだら迎えに来い。」 「…分かった。」  「戻って来い」ではなく「迎えに来い」と言った。クロイツには、洵がいないとだめなのだと、洵を必要としているのだと分からせるために、柄でもない甘えた言葉を選んだ。  海沿いの道を歩いて行く洵の背中を見送ったクロイツは、一人砂浜に降りて行った。  強い日差しが肌を焼く。常なら、目の前の水に飛び込んで行っただろう。しかし、沈んだ心に海は広すぎた。凪いでいるときでも視界いっぱいに広がる姿は全てを飲み込んでしまいそうで怖かった。  何と言葉を掛けたら良いのか分からなかった。ただ、一人にしたらいけないと思って、毎日会合の場に連れて行った。でも、誰もが彼の味方をするのに、洵はそのたびに複雑な顔をした。  だから、クロイツは彼の味方になることもできなかった。彼女を悪く言うことができなかった。洵のために何もできなかった。  波打ち際にたつ泡を見ているのならまだ良い。水平線はだめだ。じっと見ていたら、死んでしまいそうになる。クロイツは目を閉じて、凶悪な風景を追い出し、浜の方を見た。  何かがいる。見た目は猫だ。でも、猫じゃない。  散歩でもしているのか、ふらふらと近づいてきたそいつに声を掛ける。 「おまえ、何だ?猫じゃないな。」  そいつは足を止めてクロイツをまじまじと見て猫語で言った。 「お前こそなんだ。」  特に美猫と言う訳ではない。しかし、グレーの毛並がすこぶる良く、目の色が綺麗で、声に凛とした力強さがある。容姿ではなく、オーラが彼を美しく見せていた。 「俺は外交犬だ。種族間の外交をする犬だ。」 「俺は人間だ。守護霊が猫の、たまに猫になる人間だ。外交する動物なんているのか。初めて会った。」 「俺も、たまに猫になる人間なんて初めて見た。」  彼はクロイツの足元に腰を下ろした。彼にあわせてクロイツもその場に座った。  また、海を見なければいけなくなる。クロイツは意識を他に逸らすために口を開いた。 「人間は、やっぱり他の動物とは違うのか。」 「他の動物より思考が複雑であることは確かだな。」  それに彼が答える。 「でも、そう変わらないだろう。」  その答えに反論した。それはクロイツの願望だ。洵は動物に憧れすぎている。人間に諦めきっている。 「海は良いな。」  彼が言った。 「海に居た頃は、人も他の動物も同じ生物だったんだ。」  波が、二人のすぐ近くの砂を濡らして、巻き込んでは引いて行く。  この波にのまれたら、洵とクロイツも同じものに戻れるのだろうか。  防波堤の先端で、揺れる水面を眺める。洵はコンクリートの屑を拾ってそこに投げ入れた。ボチャンと水が跳ねるが、波紋が広がる間もなく波に痕跡が消されていく。  自分もそこに行きたいと思った。沈んで消えてなくなりたいと思った。 「どうしたの?」  掛けられた声にハッとする。 「一人?」  振り返ると釣り道具を持った真っ黒なサングラスの男の人が居た。その人は洵の隣に座って海を眺める。 「海は良いね。全部吐き出したくなる。これだけ広かったら、人間の不安や愚痴くらい全部飲み込んでくれそうだよ。」  釣りの準備を始めることもなく、喋りだした。自分は一目でそれと分かるほどの顔をしていたのだろうか。洵は頬を両手で押さえた。 「…海。」  ボソッと呟いた。声を出すと、色んな感情が胸にこみ上げてくる。 「何で、どうして…」  洵は目を細め、鼻を押さえた。反射する光が眩しかった、潮風が沁みた。泣きたいわけじゃない。 「僕には人間が分からない…っ」  泣きたいわけじゃないのに…。 「何があったのか話してみない?」  洵のような子供が、人間が分からないなどと異様なことを言っているのに、男は穏やかな声でそう言った。風が彼の髪を撫でていく。べたつく筈の潮風なのに、彼の周りだけさらさらと質を変えているようだった。 「…関係ない人に話しても…」 「知らない人になら話せるってのもあるかもよ。」 「その、知らない人になら話せるって、知らない人ならどうでも良いから、話せるってことですよね。相談された側の心の負担を考えずに悩みを押し付けられるってことですよね。」  面倒くさいこと言っている自覚はある。でも、洵の本心だ。 「…はぁ。うーん、そういう考えもあるのか。」  彼はサングラスを外して洵の目を見つめた。  目を疑うほどに美しい顔をしている。特に、金色に輝く瞳が彼を人に見えないほどに美しく見せていた。それを見て一層思う。彼は見た目だけでなく、きっと心も綺麗だ。自分のせいで少しでもそれを濁らせてはいけないと。  しかし、彼は少し考えるように間をおいて言った。 「俺は違うと思うけど。」  洵の目を、澄んだ目が見つめる。 「君のことを良く知っている人だったら、君に助けを求められたら解決まで面倒を見なければと思うかもしれない。アドバイスのせいで悪い方に行ってしまったら罪悪感を覚えるかもしれない。でも、俺は、君を知らないから、君に伝えられたことから応えることしかできない。君の望まないことは知ることができない。俺の負担は君が選ぶことができる。だから君は気軽に相談できる。」  黒く艶やかな長い睫毛も、透き通るように白い白目も、金色の瞳も、きらきらと光り輝いている。 「その考え方は、在りませんでした。」  目から鱗が落ちる思いがした。綺麗な顔がふわりと笑う。 「僕の母親は悪い人だと言われます。」 「うん。」 「でも、昔は違かったんです。昔は優しい人だったんです。」 「うん。」 「それに、今だって。自分勝手なわけじゃないんです。僕のためだって言うんです。」  近寄りがたいほどの美人なのに、表情が柔らかいから、相槌を打つ声が柔らかいから、するすると言葉が出てきた。 「僕は、良い人か悪い人か分からない、何をしたら悪い人なのか分からない。いつ、良い人がひっくり返るのか、いつ裏切るか分からない。何を考えているのか分からない。」  話すごとに目頭が熱くなる。 「大好きだったのに…」  視界が歪んで海が見えなくなった。泣いているのだと自覚しいて、顔を膝に埋めて隠した。 「良い人も悪い人も、いないんじゃないかな。」  澄んだ声が耳に染み込む。 「一人の人の中に、悪い部分と、良い部分がある。それも、良い悪いの区分は人によって変わる。行動する側が何を考えていようと、見えないし、結局は受け取る側の主観でしかない。」  彼の言葉は少し難しい。でも、噛みしめて考えてみると、それが洵の欲しい言葉だったことに気が付いた。  動物たちは悪い人間と良い人間がいると言った。しかし、誰を悪く思うかはそれぞれに違うし、誰の何が悪いだとか、誰の何は良いとも言った。その意見もそれぞれに違くて、彼らは言葉を交わしあって、それぞれの意見を認めていた。  彼らが彼女を悪いというのは、洵が傷ついていたからだ。洵を傷つけることを悪いと言ったのだ。彼らは純粋に自分の気持ちを見ていた。 「…悪くない?」 「何が?」 「悪いところがあっても、悪い人じゃない?」 「その人が悪い、嫌いじゃなくて、その人の何が悪い嫌い。で、良いんじゃない?好きでも嫌いでもあるって、そういう事でしょ。あるまま受け止めれば。」  彼の言葉が、洵の胸にすとんと落ちた。  彼女は悪いところがある。でも、空回りはしていても、洵を想う気持ちは本物のはずだ。母さんは、悪いだけの人じゃない。  彼と一緒にクロイツを迎えに行くと、グレーの毛並の猫が、彼に駆け寄ってきた。 「ミィ君。」  釣り道具を足元に置いた彼が、猫を抱きあげる。 「――洵。」  クロイツは洵を呼んだままそこから動かなかった。グレーの瞳が不安そうに揺れていることに、洵はやっと気が付いた。  自分のことで手いっぱいで、クロイツのことを見ていなかった。洵は彼に駆け寄って、抱きしめる。彼の方が背が高いから、洵がしがみ付いているようにしか見えないかもしれない。でも、気持ち的には抱きしめていた。 「クロイツ。ありがとう、もう大丈夫だよ。」 ******  日焼け止めを塗っていなかったから、全身がひりひりした。でも、心は穏やかだ。  宴の終わりが近づいた会合の場は、終わりまで楽しもうとする動物たちでバカ騒ぎと言えるほどに賑わっている。願い事の期限は今日の20時36分、宴もその時間に終わる。 「やあ、今日はやけにすっきりした顔をしてるじゃないか。」  ラビが纏わりつくようなしっとりとした声で話しかけてきた。クロイツが嫌そうな顔をするが、洵は彼がいつもの調子を取り戻していることを嬉しく思った。 「願い事は考えてきたのかい?」  この日もすぐに気づいてくれたネネが話しかけてきた。 「はい。」  彼女に言われて洵は金色の短冊を取り出す。 「そっちも。」 「ああ。」  クロイツも短冊を取り出す。 「じゃあ、揚げな。」 ――洵が一人にならない。 ――人間を好きになります。  二人で掲げた短冊は、光の粒になって星空に飛んでいった。  月曜の朝、教室の扉を開けると、いつものように和真が近づいてきた。 「おはよう。」  洵はぎこちない笑顔を作って、初めて自分から挨拶をした。


外交ワン!<完>