男マネ カウントダウン編


 

プレゼントは何が良い?

 大会が終わり、代替えも済んだ気だるい季節。新部長になった遊馬やまとめ役になる他2年は、自分や後輩の気持ちを引き締めさせなければならないわけだが、何だろうか、この終わった感は。  試合に負ける、イコール夏の終わり。蝉はうるさいし、暑さも全盛期であるのに関わらず俺達の夏は終わった。 「おーい、お前ら」  休憩に入った遊馬と源氏を、数日聞いていなかった声が呼んだ。 「李都さん、久しぶりです」  引退した三年生は、引き継ぎのために何日かは部活に顔を出していたが、その後は塾だ補習だと受験の方に力を入れて、顔を見せることもまばらになっていた。 「俺は一昨日も来たぞ」 「毎日見てないと久しぶりって感じしますよ」  最初は怖いと思った先輩だが、この強面はデフォルトで、今は寧ろ上機嫌だと分かる。 「もうすぐ宮本の誕生日だから、プレゼントが被らないように事前リサーチしにきた」  李都はケータイのメモを開いて言った。  元部長である正宗も、例にもれず受験に力を入れ始め、源氏と会う時間も少なくなった。寂しくないと言えばうそになる。 「たん、じょうび……」  そうか、誕生日なのか。 「なんだ、源氏は知らなかったのか。そう言えば源氏は去年の冬に転校してきたんだったな」 「何時ですか」 「8月31日だな」 「嫌な日に生まれましたね」  憎まれ口をきいてしまうのは、もうそういうものだから仕方ない。 「去年は適当に祝ってそのまま勉強会に移行するっつう悲惨な状態だったからな。お前ら、宿題は早めに片づけろよ」 「もう終わらせました」  計画的にやっていて良かった。当日は一緒に祝えたら良い。孝一は緩みそうになる表情筋を押さえて爪をカリカリ弾いた。 「さすがだな。で、源氏はまだ考えてないのな。王司は?」 「俺もまだ考え中ですぅ」  遊馬は困った様に眉を下げて答えた。 「宿題は?」 「ぼちぼち……」 「千尋さんにシバかれながらやれよ」  次の質問に言葉を濁らせた遊馬を孝一が小突いた。 「ん? ああ山瀬か。そう言えばあいつ頭良かったな」  千尋は所謂がり勉である。李都がいつ見ても机に向かって一人でガリガリやっていた。そんなものだから友達は少ないし、遊馬が居なければ李都は未だ彼を認識していなかっただろう。そんな地味で大人しい人が遊馬をシバく図を思い描けない。 「なにそれ、ご褒美……!」  しかし遊馬はその様子を想像できたのか、気持ちの悪いことを言う。 「ちなみに、他の人たちは何を贈るんですか?」  孝一が目元を淡く染めて聞いてくる。先ほどからカリカリと爪を鳴らすのは照れ隠しだったのか。 「受験生だからな。冷えピタを大量にだとか、ヒーリングCDだとか、必勝鉢巻とか。俺と野島と根岸は金出しあってシューズ買った。高校行っても続けるからな。まあ、あと一週間あるから。決まったら教えてくれ」  李都はそう言い残して他部員の元に向かった。 ****** 「と、言うわけなんですよぉ」 「ふ~ん。宮本君誕生日近いんだ」  部活後、遊馬は千尋の部屋でワークを開いていた。  部活に入っていない千尋は、夏休みの初めから、日の高い時間の夏期講習に参加している。そのため、遊馬の部活が終わるころには自宅で課題に取り組んでいた。  遊馬はこれまでは彼の勉強の邪魔をしてはいけないと家を訪ねることを遠慮していたのだが、自分も勉強をすれば良いと気が付いたので、さっそく上り込んだ次第である。  千尋は合間合間に構ってくれるし、分からないところは教えてくれるしで、とても幸せだ。 「千尋さん、席隣じゃないですか。宮本先輩が欲しがっているものとか知りません?」 「俺そんなに宮本君と話すわけじゃないしなぁ――あ」  遊馬の問いかけに千尋はシャーペンを振って考え、思いついたと顔を上げた。 「スクミズ」 「え、なんて?」 「プールの授業の時、俺間違えて千春の水着持って行ってさ」 「着たんですか!?」  遊馬の頭に拳が落ちてくる。脳細胞が死んでしまう。 「着るか、バカ! 普通に見学したわ!」 「ですよねー」  もし着ていたらクラスの人たち全員と担任の記憶を抹消しに行く所存だ。 「で、その時宮本君が『スクミズプレイ……』って呟いてた」  宮本先輩も男だったんですね。しかもマニアックな。しかし、この場合はあれか、対象は源氏になるわけか。マニアックだな。 「そんで気になって、家帰ってからスクミズで検索したんだけど」 「さすが千尋さん、ゆがみない」 「スクミズも日々進化して、胸の生地が厚くなったり、股下のラインはどんどん浅くなったりしていることが分かった。最近ではセパレートタイプや太ももまで覆うタイプもあるらしい」 「へぇ」 「逆に言えば、旧型のスクール水着は生地が薄くてハイレグ仕様と言う訳だ」 「ふーん」  熱く語る恋人に気の抜けた相槌をうつ。真面目でしっかり者の千尋は、実は女好きで、性に対する興味が持て余す馬鹿だ。まあ、そのおかげで遊馬はたびたび美味しい目に遭ってきたし、このギャップを可愛いとも思っている。 「それで、ここからは影木君と話したことなんだけど」 「ほんとあんたら何してんだ」 「スクミズの生地の色は黒よりネイビー、ネイビーより紺だ。明るい色だと濡れた所の色が分かりやすいからな。まず太陽の熱で汗をかくだろ、そうすると背骨の線に沿って汗が――」  遊馬のつっこみを無視して千尋の語りは続いた。  自宅に帰った遊馬は、気づくと女児用スクール水着二着をネットで注文していた。 ****** 「どうしよう王司。プレゼントが決まらない」  正宗の誕生日前日。練習を終えた遊馬が部室に戻ると、孝一が頭を抱えていた。 「源氏なら、普通にケーキとかで良いんじゃないの?」 「それはもちろん作るけど、料理をするのはいつものことだろ?」 「誕生日ケーキは別物だと思うけどなぁ」  遊馬は汗や砂で汚れたユニホームを洗濯籠に投げ込み、綺麗なロッカーから制汗スプレーを取りだし全身に吹きかけながら答えた。  サッカー部部室は彼のおかげで学校一快適な部室と呼ばれている。 「王司はもう用意したのかよ」 「うん」と答えてから遊馬は気づく。 「そうだ。先輩たち三人でシューズ買うって言ったじゃない。俺達も二人で贈ろうよ。良く考えたら俺のプレゼントって源氏が居ないと成立しなかった」 「どういうことだよ」 「スクミズにしたんだよ」 「……は?」  遊馬の口から出てきた単語に、源氏は低い声で返した。 「それはもしかして」 「女児用」 「変態かよ……」  心底引いてます、という低い声が続く。正直怖い。 「リサーチの結果だよぉ」 「えー……王司ぇ……部長ぇ……」 「千尋さんの」 「リサーチ千尋さんすか!?」 「あと、俺的には彼シャツも良いと思う。スクミズに彼シャツ」 「盛るなよ」  引いた声から呆れた声に変わった。 「誕生日だから」 「……それ、やっぱり俺がやるんだよな?」 「だって、思いつかないんでしょ? 良いじゃん。お誕生日様なんだから」 「引かれないか……?」 「スクミズプレイに興味があることは間違いないから大丈夫」  というか、あの人は源氏が何をしようが引かないと思う。 「あの人なんで千尋さんとそんな話してんの……?」 「あー。違うよ、部長の呟きを千尋さんがたまたま聞いたんだよ」 「マジかよ部長……」 「まあ、その後興味津々でスクミズをリサーチした上、スクミズプレイについて俺に語ったのは千尋さんだけど」 「千尋さんぇ……」  渋ってはいるが否定はされない。これで決定だ、と遊馬は李都に連絡した。  From プリンス  Subject プレゼント決まりました!  Text  俺と源氏の宮本先輩へのプレゼントは、スクミズ彼シャツトッピングの源氏で~す☆  講習の空き時間、メールを開いた李都は「は!?」と大声を上げ、心配した野島と根岸にメールを見せて彼らの腹筋を崩壊させた。





 

プレゼントは俺で良い?

「宮本、誕生日おめでとう!!」  部活動終了時刻、部室の扉を開けると、パンと軽い音ともに紙吹雪が降って来る。 「おう、ありがとな!!」  正宗はキラキラ光る紙紐を顔の前から避けて、満面の笑みで言った。  紙の花や鎖で飾られた部室は、部屋自体が綺麗なために例年より豪華に見える。奥の可動式ホワイトボードには「宮本先輩! 誕生日おめでとうございます!!」の丸文字が色鮮やかなマーカーでデコレートされていた。 「ぱぱぱぱーん、ぱぱぱぱーん」  歌声ともに扉が開く。 「遊馬、それ違う」  扉を押さえる遊馬に孝一がつっこんだ。 「はい、どいどいてー。あんた邪魔です」 「俺主役!」  孝一に邪険にされる正宗を李都が奥のお誕生日様席に誘導した。 「蝋燭15本って結構キモイですよね」 「散々な言われよう!」  孝一は捻くれたこと言いながら蝋燭に火をつる。  電気を消して、全員で恒例のバースデイソングを歌う。最後の正宗の名前のところはそれぞれが好きなように呼ぶために雑音になった。 「ぐだぐだじゃねぇか!」  正宗が腹を抱えて、笑いながら吹き消すものだから、半分以上の火が消えなかった。 「あーあ。一気に消したら願い事が叶ったのに」 「今更叶えたいことも無いから良いんだよ」 「受験生(笑)」  孝一は無遠慮に頭をぐしゃぐしゃにして来る正宗の手を払って、器用にケーキを切り分ける。 「いやー、なんか恥ずかしいな」  正宗は苺の乗ったケーキと、「happy Birthday」のプレートの乗った紙皿を渡されて頬を掻いた。 「お誕生日様は好きな奴侍らせて良いぞ」  李都のこのセリフは毎年恒例のネタである。 「ムサイわ! と例年ならなるわけだが」  根岸のフリに応えるべく正宗は膝を叩いて呼んだ。 「げーんじ」  大人しく膝に座ってきた彼を横抱きにする。 「あー、もうマジこの子可愛い!」 「うぜぇ」  ぎゅっと抱きしめて頬を寄せてくる正宗に、孝一は目元を染めて口元を歪めた。 「誰かあいつ等どうにかしろよ」  この暑いのにべたべたくっ付いて甘い空気を垂れ流す二人を指して野島が言った。 「俺は今両手が塞がっているわけだが」 「はい」  正宗が言えば、孝一はケーキの一口分をホークにとってその口元に差し出した。 「美味い!」 「当然でしょ、俺が作ったんですから」 「きゃー源氏君、優しい!」 「俺はいつでも優しいっすよ」 「それは嘘!」  根岸の冷やかしに対する孝一の答えは全員で否定した。 「じゃあ、そろそろプレゼント渡して締めるか」  皆がケーキを食べ終わり、まったりし出した頃、李都が切り出した。  各々が「おめでとう」の言葉と共にプレゼントを渡す。 「受験グッズ多いな! 滅入るわ!」 「そんなこと言って気合い入っちゃうくせに」  笑いながら文句を言う正宗の脇腹を根岸が小突いた。 「俺らからはこれ!」 「シューズだ!」 「俺と源氏のプレゼントは、ここには持ってこられないものなので、後で源氏に貰って下さぁい」 「なんだよー、気になる~」  最後にやって来た遊馬を根岸がちゃかす。プレゼントの内容を知った上でのこの行動に、李都は慌てて彼を締め上げた。 ******  いつものように正宗と孝一の二人きりの帰り道。 「部長」  隣を歩く孝一が袖をちょんと引っ張ってきた。計算してやっていると分かっていてもドキッとする。 「俺、もう部長じゃないんだけど?」 「宮本さん? 宮本先輩? うーん……」  引退しても変わらない呼び名を指摘すれば、孝一は首を傾げて唇に指を当て「部長」と確かめるように言った。 「部長が一番口が気持ち良いっす」 「言い方!」  これ以上悪さをしないように、挑発する彼の手を取れば指を絡められる。 「お前な……っ」 「やっぱり今日は家族でお祝いするんですか」  正宗が声を荒げても、孝一は澄ました顔で話しを続ける。自分ばかり慌てるのも癪だと思って、好きにさせることにした。 「いや、この年で特にお祝いは無いな。ケーキは食べるかもしれないけど。あと週末にどっか食べに行く」 「じゃあ、この後家来ませんか?」 「なに? 祝ってくれんの?」 「プレゼント、あげます」  訊ねれば、孝一は上目使いに見つめてくる。繋いだ手の甲を指先でなぞられて、こいつはこういう技をいったいどこで覚えて来るのかと、正宗はわなわなと唇を震わせた。 「いや、これは……ないだろ」  孝一は、鍵をかけた洗面所で鑑を見て呟いた。  女児用スクール水着を着用した自分は、当然胸は無いし、下半身に余分なものが付いているしで、まったく可愛げがない。しかも、毎日のマネージャー業でTシャツの形にくっきり日焼け痕が残っていて、水着の下にTシャツを着ているように見える。  間抜けな姿にとりあえず目を瞑り、正宗のシャツを羽織ってみる。  先日彼が遊びに来た時に態と飲み物をこぼして預かったシャツだ。一回り大きい彼のシャツは、すとんと肩が落ちて萌え袖状態に、裾は孝一の腿まで覆い隠した。 (これならまだ見られるかな。)  躊躇しながら洗面所を出て、部屋の前でまた躊躇する。 (こんな姿を見せたら喜ぶどころか引くんじゃないか? 大体千尋さんが聞いたのだって、女のことか、もしくは可愛い系の男の子とかに着て欲しいというものであって、別に俺に着て欲しいということではないかもしれない。やっぱりプレゼントは後で他のものを用意した方が良いんじゃないのか? よし、そうしよう!)  ぐるぐると考えた末、ドアに背を向けると、かちゃっと内側から開く音がした。  恐る恐る振り返ると、ノブを掴んだまま固まる正宗と目が合い、二人の間の時間が凍った。はっとして逃げようと駆け出すが、すぐに腕を掴まれて捕まってしまう。「ぎゃー! 放せ、やめろ!」と暴れるのに後ろから抱きすくめられて逃げられない。 「ぶ、ぶちょう……?」  無言の彼に不安になって伺えば、彼は孝一の体をいったん離して、頭の先からつま先まで視線でなぞった。  孝一は慌てて腰を丸めてシャツの裾を伸ばすが、すぐに捲られる。 「ちょ、ちょ、ちょ……っ」  彼が見ているは、さっき自分がみっともないと思った水着姿だ。本当に見られたものではないはずなのに、彼はぐいぐい迫ってきて壁に追い込まれる。理解できない。 「無言で迫るな!」  口は開かないのに、目だけは爛々と輝き興奮を訴えてくる彼を上擦った声で押し返した。 「源氏」 「な、なんすか!?」 「水着はやっぱり水辺だと思わないか」  言うなり、正宗は孝一の手首を掴んで風呂場に押し込み、浴室マットに膝を付く孝一の背中にシャワーの水を浴びせた。  シャツが濡れて、背中の布に書かれた名前が透けて見える。  濡れた背中に覆いかぶさり、浴槽の淵を掴んで彼を腕の間に閉じ込める。水にぬれて背中に貼り付くシャツの上から『宮本孝一』の文字を撫でた。 「もうこれは、俺のものになったってことだよな?」  背中で感じる熱い手の感触、間近で囁く低い声、首筋に掛かる甘い吐息。彼から与えられるすべてに胸が痺れる。身体の芯が疼く。 「……そんなん、とっくですよ」  いつものように、澄ました声で答えようとするのに、熱でうかされたような掠れた声が出た。  正宗はその声に急かされるように手をスライドさせて脇に潜らせ彼を抱き締める。 「孝一」  愛しい人から名前を呼ばれたときめきと、その吐息が明らかな熱を含んでいる戸惑い、弱い耳に直接声を吹き込まれた感触に、孝一の脳が甘く痺れて熱を持つ。  間を持たず、耳を弄ばれて、彼の腕の中で体がビクビク跳ねた。 「あ、ひっ、耳ぃ……っ!」  柔らかく弾力のある唇がピアスごと耳たぶを食み、襞をしゃぶって啄む。歯列の整った白い歯で軟骨を甘噛みされて、舌先で付け根をなぞられ耳孔を擽り嬲られる。 「ひぃんっ……、ぃ、あ……っ、んぅン……っ!」  少しでも声を上げれば浴室に音が反響して、何倍にもなって返って来た。 「い、ひ……っ、や、もう……っ、」  自身のあられもない喘ぎ声を抑えようにもどうにもできない。いやいや、と頭を振って抵抗すると、顎を掴まれて余計にしつこく嬲られる。 「ひぃんあ……っ、もうやめぇっ! やだぁ……っ」  掴まれた顎ががくがく震えて、緩みっぱなしの口から唾液が垂れ流される。 「まさむねひゃ、――ん!」  正宗は、耳を離して、緩んだ唇に吸い付いた。切なげに眉を寄せて、とろとろに蕩けた瞳で見つめてくる彼をマットに横たえ、シャツのボタンを外していく。  背中と違い乾いたシャツはさらっと肌蹴て水着の紺の地を晒した。日に焼けた小麦色の肌、Tシャツの形にくっきり残った白い肌、少年らしい柔らかなそれに食い込む紺の水着。  鎖骨付近の日焼け痕を指でなぞり、水着の襟から指を刺し入れて内側をなぞる。 「正宗さん……」  蛍光灯の光を背負う正宗の顔は逆光で物騒に陰って見える。その上、目の色だけはギラギラと捕食者の光を宿して、孝一を見つめた。  手を伸ばして彼の頬を撫でる。この目は少し怖い、でも興奮する。正宗がその手を取り、掌に口づける。あまりに様になるその仕草に目を逸らした。 「……っ、もう、俺を誑かせるの、やめてください……」 「なんだ、源氏は変態な俺がお好みか」  光沢のある生地は、体の凹凸を際立たせ、汗で濡れた箇所は濃く変色する。  正宗は居づらそうに身をよじる孝一の胸に手を這わせる。掌には、こりっと小さな実の感触がした。 「乳首が立ってて恥ずかしいだろ? 押し込んでやるよ」  胸の中心で存在を主張するそれを指先で押しつぶす。 「ふ、ん……っ」  むに、むに、とゆっくり指を上下させて感触を味わえば、彼はきゅっと脇を締めて快感に耐えた。 「ん! ゃ……っ!」  爪先でカリカリ引っ掻けばびくびく震える。 「だめ、まさむねさん、やだ……っ」  くにくに円を描くように捏ねれば、身をよじって正宗にすがった。 「あ、ぁあ、あ……っ!」  肋骨を掴んで親指でぐりぐり押し込むと、甲高い声を上げて太股にきゅっと力が入る。 「全然潰れないな」 「ひ、もうやめ……っ」  無意識なのか、もじもじと擦り合わされる太股に手を差し入れた。 「……ぁっ」 「というか、こっちも目立っちゃったな」 「ふぁ……」  そのまま股間に手を添えれば、ほっとしたのか眉間の力を緩めて詰めていた息を吐き出した。 「押し込まないと」 「ひぁ……っ」  膨らんだそこを、つつつと撫で上げる。 「んぁ、ゃ、それ……っ!」  先の方をぐにぐに指先で揉むようになぞれば膝ががくがく震えた。  震えるそこを割り開いて片手で膝頭を撫で、かりかり先端を引っ掻く。 「あ、ひ、ぃあっ……!」  孝一は正宗の指の動きに合わせて体をよじって声を上げた。  掌で全体を揉んでやると、うそだ嫌だと言いながら正宗を足で挟んで股間を押し付けてくる。 「ぶちょ、むり……っ、もう……っ」  孝一の目の色が、イク寸前のそれに変わる。あとほんの少し力を加えれば簡単に果てるだろう、その一瞬に突き放した。 「あれー? 全然押し込めないなぁ?」  正宗が白々しいセリフを吐くと、蕩けるばかりだった瞳が涙の幕を張る。孝一は唇を噛みしめて正宗を睨みつけた。その視線にゾクゾクと胸が高ぶる。  正宗は危ない興奮に口角を上げると、孝一を起こして背に回った。極限まで焦らされた体は、どこに触れても反応して正宗を楽しませる。 「シネっ……」  悪態をつく彼を抱き締める。それだけでビクビク震える体に、正宗の心も震えた。 「死んだら、続きができないけど」  甘えるように首筋に頬擦りすると、髪が滑るだけでも気持ちが良いのか、耐えられないとばかりに腕に爪を立てられる。 「もう、やめて……っ」  懇願する瞳に微笑んで、脇から水着に手を入れて布を伸ばした。 「もしかして、水着が貼り付いてるから悪いのかなぁ?」  生ぬるい生地を押しのけて、熱い指で肌に直に触れる。孝一は、早くもっと、と後ろ手に正宗の頭に手を伸ばして縋った。  生地が指の形に動く、脇下から胸筋を経てじわじわ突起に近づいていく。 「なあ、どう思う?」 「ひぁんっ!?」  質問と同時に突起を引っ張られて、いきなりの強い刺激に、大きく身を逸らせて喘いだ。 「源氏?」  訊ねながらも、中指と親指で捏ねて人差し指で先端を撫でる。 「い、いぁっ、んっ! んぁあっ」 「なあ、どう思う?」  絶頂寸前で突き放された体は、焦らされて熱を籠らせても、強い刺激にすぐに限界を迎える。局部への直接の刺激でないにも関わらず、孝一の瞳は再びイク寸前のそれに変わった。 「ひ、ぃんっ! いや、いやぁ……っ!」  あと一歩というところでまた手を離すと、酷いものを見るような視線を向けられて背筋が泡立った。 「そんなに嫌だったのか。良かれと思ってやったんだけど、悪かったな」 「ちが、なんで……っ」 「でも、ここ苦しそうだぞ?」  太股から水着に指を差し入れ、パチンと弾けば、先走りがじわりと溢れた。 「なあ?」  片手で頬を挟んで顔をこちらに向かせ、見つめ合う。 「もの欲しそうな目」  そのままもう片方の手で孝一の口内を一掻きして、唾液を彼の胸に擦りつけた。どちらの動作にも全身で反応するので、ぐったりと熱を持った体をよしよしと全身で愛撫してやった。 「見ろよ、ここと、ここだけ色が変わってる」  身をよじって愛撫に応える健気な彼の胸と局部を示せば、いやいやと頭を振る。 「えっちだねぇ」  言葉で嬲れば、ついにぼろぼろ涙を流した。 「かわいい」 「ばか! しね、変態! ばかぁ~っ!!」 「見ないと最後までやらないぞ、ほら」  ぐずぐず鼻を鳴らして孝一が視線を下げると、正宗は宣言通り、股間の盛り上がりに手を這わした。 「ほら、俺の手の動きとお前の反応、ちゃんと見て」 「鬼ぃ……っ」 「うそ。『もう好きにしてください』『もっと苛めてください』って顔してる」 「もうやだぁ……っ」  彼が目を逸らせば手を離す。泣きながらも視線を戻せば絶頂を促すように、下から上へと揉みあげた。 「今、体跳ねた。こうされると良い?」 「ひ、ぁ……っ」 「今ここびくっとしたけど、言葉で責められて気持ちよくなっちゃった?」 「ちが……っ」 「先っぽ弄られるとたまんないな? 気持ち良いな?」 「ひ、ひぅ……っあ、あ……っ!」 「ゾクゾクするだろ? だって全身鳥肌立ってる」 「い、やぁぁ……っ」 「足泳いでる。刺激強すぎて耐えられない?」 「~~っ!」  彼の手の動き指の動きを目で追って、自分の反応に居た堪れなくなるのに、次の動きに期待して、バカみたいにそんなことで頭がいっぱいになる。そんな孝一の反応を見て正宗が興奮しているのかと思えば一層胸が揺さぶられた。 「泣くほど良いんだな。気持ち良いんだろ? 気持ちいなら言ってみ? もっとくるから」 「あ、ひ……っ」 「言え」 「き、もちい、ヒ……ッ!?」  素直に言葉にすることで、孝一の中にあった最後の膜が剥がされる。プライドをはぎ取られて生の心を晒される。気持ち良いという感覚が、心と頭の芯まで達して痺れる。 「ふ、あぁ……っ!? ひや、いやぁっ!」  一際甘い声を漏らす彼に、正宗は満足げに言葉を贈る。 「良い子……」 「ぁ、ふ……っ! も、くる、くるぅ……っ!」」 「うん。良いよ、イッて」  限界を訴えれば、留めとばかりに先端を揉まれて潔く果てた。 「~~っ! あ!?」  ようやく許された絶頂に、じゅくじゅく白濁を吐き出すと、その最中もここぞとばかりにぐにぐに揉みこまれる。 「出てる、からァア!!」 「気持ち良いだろ?」 「やだっ、いやだぁ……っ!! う、ひ……っ」  焦らされ続けた体は壊れたかのようにがくがく震えて白濁は中々止まらない。ビクビク脈打つそこを絞られる度にどくどくと新しい快感が生まれて目の奥で星が散った。 「まさっ、むねっ、ひァアンッ!!」  彼の名前を叫びながらやっと最後の一滴まで吐き出しても、余韻にひくつくそれが収まるまで愛撫され続けられ、全身性感帯状態になった体をベッドに運ばれ、声が枯れるまで可愛がられた。 ****** 「源氏、昨日どうだった?」 「散っ々な目に遭ったわ……」 「やっぱり喜んでもらえたんだ!」 「……お前はやけに機嫌が良いな」 「あ、分かる? 昨日俺も千尋さんに着てもらったんだぁ」 「へぇ……」  翌日の練習では、肌艶良く元気いっぱいの遊馬と、ぐったりと疲れきった孝一という、対照的な二人の姿が見られた。





 

痴話喧嘩

 新学期早々嫌なものを見た。  放課後、部活に行く途中、正宗が女子生徒に呼び止められているのを見てしまった。  自分が居るのだから、彼の答えなんて分かっているのだから、立ち止まる必要なんてなかった。そのまま素通りして部活に行けばいい、でもできなかった。  二人の会話は良く聞き取れない。 「あ……っ」  いくらか会話をした後に、その女が正宗の胸にすがりつく。それを見て思わず声を上げた。正宗は抱きついてきた彼女の頭を撫でて宥めて引き離す。  孝一は、逃げるようにそこから離れた。何か嫌なものが胸でとぐろを巻いている様な気がした。  部活動終了後、正宗は当たり前のように校門前で孝一を待っていた。  学習塾のある月水金以外の曜日は、こうして図書室で勉強しながら孝一を待っていてくれている。 「お疲れ」 「お疲れっす」  いつもと変わらない爽やかな笑顔を向けてくる彼から目を逸らす。彼を見ると、眉間のあたりがもやもやした。 「部長、先歩いてください」 「なんで?」  歩調を緩めても合わせてくる彼に言う。 「……そういう気分なんです」  少し距離を置きたかった。  夕日を浴びた背中は広くて、逞しくて、暖かそうだ。いつもは孝一に歩調を合わせているからだろう、いつもより速足な彼に置いて行かれるかもしれないと思うと、胸が苦しい。 「源氏、今日お前ん家行って良い?」  振り返った正宗は思った以上に後方に居る孝一に目を瞬く。 「いつも聞かないでも来るじゃないですか」 「そうだな」  それから彼は家に付くまで何度も孝一を振り返って、孝一の気持ちを逆撫でした。  家についても、孝一は正宗に前を歩かせた。  部屋に入り、正宗が様子のおかしい彼に話しかけようとすると、脇下から手を伸ばされて、じんわりと彼の体温が背中に伝わってきた。 「背中見てたら抱きつきたくなりました」  筋張った腕が、胸の下でクロスする。  孝一は、正宗の肩に額を擦りつけて、瞼を震わせた。 「いつも我慢してるんです」 「なにを?」  正宗は震える彼の手に自分の手を重ねた。男の手だが、正宗に比べれば小さくて薄くて、とても頼りない。 「登下校とか、部活中とか、部長を視界に入れるとすり寄りたくなるの、我慢してるんです」 「言ってくれれば、物陰なんていくらでもあるだろ」 「際限ないからダメっす」  孝一の語尾が震える。 「今日デレが激しすぎるだろ……」  ため息交じりにそういうと、正宗は彼を振り返ろうとした。しかし、正宗が後ろを向こうとすれば、がっちりしがみついた孝一も一緒に回る。 「おい」 「……ダメっすよ」  低く震える声に、余計に正面から抱き締めたく思う。 「俺以外見たら、だめっすよ! 俺が、どれだけ部長のこと好きか、知ってるくせに……っ!」  そこまで聞いて、正宗は孝一をベッドの前まで引きずり、半回転して背中からそこにダイブした。 「はい、どーん!」 「うぎゃっ」  自分よりも一回り大きい男に潰される形になった孝一が悲鳴を上げる。寝返りを打って彼を組み敷けば、やっとその顔を見ることができた。 「源氏?」  悔しげに目を顰める彼の頬をそっと撫でると、なぜかさらに顔が歪んだ。 「何が気にいらないんだよ」 「……俺、見ました。放課後、女子に呼び出されて頭撫でてた」 「受験に集中したいから付きあえないって言ったら、泣きながらしがみつかれたんだ。これで諦めるからって。突き放したら可哀そうだろ」  正宗はそんなことかとため息を吐く。それがさらに孝一の頭に来た。 「俺のこれは我儘ですか。鬱陶しいですか」 「そんなこと言ってないだろ」 「どうして恋人がいるって言わなかったんですか」 「お前のこと言って良いか分からなかったから」  最初は宥めるような口調だった正宗も、孝一の棘のある言い方にだんだんと声が荒くなる。 「別に名前出さなければ良いでしょう」 「深く聞かれたら困るだろうが。それに濁したら絶対お前だと思われるし」 「部長は俺と付きあってるってバレるの嫌なんですか」 「そうじゃないだろ! お前が!」  つい、孝一の襟首を掴むと、彼も負けじと正宗の襟を掴んだ。 「俺は、部長と付きあうのも、周りに知られるのも抵抗ありませんよ! もともとゲイですから。でも、部長はそうじゃないの、分かります。それでも、俺のこと隠して他の人に優しくするのは、酷い……」  苦し気に声を詰まらせる彼にやるせなくなる。そうじゃないと、どうして伝わらない。 「俺がどうって話じゃねぇんだよ、周りがどう思うかなんだよ!」  パンと、音と共に頬に衝撃が走った。 「あ……」  孝一が愕然と目を見開く。 「……っ、頭、冷やすわ」  正宗はじんと痺れる頬を抑えて、部屋を出た。 ******  登校早々、隣の席で影を背負う正宗に千尋は首を傾げた。 「どうしたの」  正宗は机の上の弁当をさす。 「昨日、源氏と喧嘩して……」 「お昼は別々に食べましょうってことか」 「うぁぁああ……」  千尋の言葉に正宗は頭を抱えて唸った。 「でも、弁当作ってくれたんでしょ?」 「中身がどうなっていることか……」  顔を上げた彼の目は死んでいる。 「……蓋の裏に三百円張り付けてあるとか、ぺヤングそのまま入ってるとかか」 「重さはあるから、それはない。でも怖い……」 「見てみなよ。場合によっては購買行かないとでしょ」  その言葉に正宗は弁当を見つめて拳を握る。死んだ目に光がさした。というか、潤んだ。 「無理でも食べる! たとえ泥が詰まっていようと、食べてやる!」 「愛が重い」 「うぁぁああ……」  千尋の言葉に正宗は再び頭を抱えて唸った。 「昼だけど、開ける決心はついた?」  四限終了直後、千尋が正宗を促した。  いつもなら、遊馬と昼食を食べる中庭に直行するのだが、今日は少しくらい待たせても良いかと思う。どうせ片割れも様子がおかしいのだろうから、事情は察するだろう。 「幼虫まではシミュレーションできた」 「……妄想で幼虫食ったのか……」  正宗の愛に、胸やけを覚える。千尋は想像しかけたそれを頭を振って振り払った。 「焼いたらいける」 「やめて想像させないで。幼虫だったら、俺の弁当分けてあげるから本当、止めろ」 「ありがとう」  正宗は神妙な面持ちで弁当を見つめたまま言った。その手が、やっと弁当の蓋に掛かる。 「わ~お」  それを見て、千尋は感嘆の声を上げた。  弁当の中身は、いつも以上に手の混んだ、作るのが大変そうなおかずばかり。もちろん正宗の好物である卵焼きも入っていた。そして何より注目したいのが、白いご飯に描かれた、桜でんぶのハートマーク。  正宗は、無言で蓋を元に戻すと、窓まで歩いて身を乗り出す。 「源氏!! 俺も愛してるぞー!!」  叫び声が、響いた。マジかよ、と教室がざわつく。李都は隣のクラスで牛乳を吹いた。 「うっさい、剥げろ!!」  間を置かずに下の階から返事が返ってくる。  千尋は弁当を持って急ぎ足で彼の元に去っていく正宗を「てらー」と手を振って見送った。  正宗が孝一の教室に駆け込むと、孝一はいつもより速足で近づいてきた。その、目の下の黒い影を見て胸が詰まる。 「剥げても、愛してくれるか?」 「……禿散らかして俺以外に見向きもされなくなれば良いんすわ」  痛々しい影を親指でそっとなぞると、むすっとした口調の遠回しのデレが帰って来た。  代替えをしてから、昼食の場所を部室から空き教室に移した。机と椅子を適当に引出し、並んで座る。 「昨日寝なかったのか」  正宗は改めて、慈しむように孝一の頬に両手で触れる。 「……だって、部長、怒鳴るし、俺、部長のこと……っ、叩いて……っ」  昨日より幾分やつれて見える面が細かく震えて、瞳が揺れた。 「あ、こら泣くな」 「もうっ……、嫌われたって……っ!」  睫毛を震わせて涙を堪える彼を慌てて抱き締めてあやした。 「嫌いじゃないぞ。大好きだって。な?」 「うっさい、子供じゃない」 「そうだな、可愛い俺の恋人だな」  小さな頭を胸に抱えて、黒髪に顔を埋めて唇を落とす。孝一は正宗の肩に腕を回してぎゅっとシャツを掴んで鼻を鳴らした。 「……昨日の、周りがどうって何ですか」  上擦った声で聞いてくる彼の顔を、喉から頬を愛撫しながら上げさせる。不安げな瞳が正宗を写して揺れている。優しく微笑みかければ、じわっと目じりが赤く染まった。 「……俺達が良くても周りが引き離そうとしたりするかもしれないし、反対されるだけでも悲しいだろ。  ……いろいろ言われて不安になるのが怖かったんだ」  正宗が、眉を下げて言うと、孝一は瞬きを一つして目を伏せる。 「源氏?」 「……それは、俺と離れたくないがゆえにってことで良いっすか」 「源氏!」 「でも、頭撫でたのはまだ怒ってる」  正宗が歓喜の声を上げれば、きっと睨みあげてきた。 「ほんとごめんって」 「機会があればいつでも蒸し返します。一生ねちねち言ってやります」 「そこまで開き直られると逆に可愛く思えてきた」 「俺のでしょ? なに他の人に色目使わせてんの? 良い思いさせてんの? 期待持たせてんの? 頭撫でるとかご褒美じゃん、絶対嬉しいじゃん」  怒った口調がだんだん苦しげに変わり、最後は掠れて消えていく。 「あんたは俺だけ甘やかしてれば良いんですよ……」 「あ、本当に可愛い」  心臓がきゅうっと悲鳴を上げる。正宗は高ぶる感情を持て余して、むっとした顔にすり寄った。 「可愛い、愛してる。こんなことするのお前だけだぞ?」  額と頬に口づけると、孝一は座っていた椅子の足を蹴飛ばし転がして、正宗を道ずれに崩れるように床に腰を落とした。 「もう、他の人に期待させたらダメですよ?」 「肝に銘じておく」  正宗は膝に跨り縋って来た孝一を引き寄せて、ぎゅっと抱きしめる。もっと、近くに行きたい。密着して体温を感じたいと心が騒いだ。 「……叩いてすみません」 「良いよ、代わりにたくさんキスするから」 「そんなの、代わりになりませんよ」  目元を緩める孝一の薄い唇を啄めば、待てないとばかりに積極的に応えられて、すぐに必死になってお互いの熱を探りあった。 ****** 「部長に会いたい」  浴室の壁に、声が反響する。 『なんでそれを俺に言うの。』  受話器の向こうで、遊馬が緩い口調で呆れた声を出した。 「いや、だって毎日帰りまで一緒に居るのに、そろそろうざいだろ」 『えー? そう? 俺だって千尋さんに会いたいけど?』 「ふーん」  浴槽に天井から雫が落ちて、ぽちゃんと跳ねる。 『源氏、今入浴中?』 「そうだけど」 『あはは、これ俺嫉妬されるフラグじゃない?』 「何が?」 『無自覚だなぁ。源氏結構狙われてるんだから、誰にでもそれじゃダメだよ』 「さすがに女子に風呂場からは掛けねぇよ」 『そうじゃない』  本気で分かっていなそうな声に、遊馬は肩をすくめる。これは、宮本先輩も気が気じゃないだろうな、なんて。 「あ、キャッチ入った」 『それ、宮本先輩以外だったら出たらダメ』 「部長だった」 『じゃあ、良いよ』 「悪いな」 『良かったね』 「るっせ!」  孝一はくすくす笑う遊馬との通話を切った。 「――もしもし。部長? どうかしました?」 『いや、どうしてるんかなー、と』  耳に響く彼の声に胸に花が咲く。 「王司と電話してました」  身を纏う湯が柔らかく、湯気が甘くなる気がして、答える孝一の声も心なしか甘くなった。 『……』 「部長?」 『そこで?』 「そこって風呂場ですか? そうですけど」 『へぇ?』  低い声に不安になる。 「……部長?」 『風呂場からの電話は俺にだけにしろ』 「王司と同じこと言ってます」 『はあ!?』  電話越しにピリッとした空気が伝わってきて、孝一は肩を跳ねさせた。 「ぶ、部長だけにしとけって」 『ああ、そっちか……で、何話してたんだ?』  正宗の声のトーンが戻ってほっと息を吐いた。 『今の吐息色っぽいから俺以外に聞かせたらダメ』 「な、に言ってるんですか……っ」 『風呂場から電話なんかしたら、お前の濡た髪とか、上気した肌とか、想像するから俺以外はダメ』 「は……? そんな変態あんただけっすよ……」 『今の顔可愛いから俺以外に見せたらダメ』 「見えないでしょうが!」  孝一は熱くなった頬に掌を当てた。何だこれ、のぼせそう……っ。 『王司と何話してたんだよ』 「……部長の愚痴を」 『ふーん』 「なんでちょっと嬉しそうなんですか」 『だって俺の話してたんだろ?』 「悪口しか言ってませんけど」 『へー』 「部長Mなん? きも」 『Mはお前だろ』  何を言っても甘い空気を剥がさない彼に胸がもやもやする。昨日とは違う、綿あめみたいにふわふわして甘いもやもやが胸にいっぱい詰まってくる。 「……部長嫌い」 『俺は好き』 「ばか。会いたい。きらい。放課後まで一緒に居て、明日も学校で会うのにばかみたい。だから嫌い」 『それ、嫌いじゃないだろ』 「振り回されてるの、絶対俺の方ですよ。ばかじゃないっすか、ムカつく! 剥げろ!」  散々罵倒して通話を切る。 「――正宗さん」  呟けば、反響して体に響いた。じわっとまた体温が上がった気がして、のぼせる前に浴室を後にした。 「罵倒が全部デレじゃねぇか……っ!」  一方正宗は、ケータイを枕に叩きつけて参考書に顔を埋めて身悶える。  うぁぁああ! あいつ今絶対可愛い顔してる!!  明日は朝一で会いに行って構い倒してやろうと誓った。





 

進路

 遅くまで塾に通う正宗は、家族で一番遅くに食事をとる。  塾仲間には夕食を持ち込む者もいたが、家に食事があるのにコンビの弁当やパンで済ませてしまうのは味気ない。少し前までサッカーに明け暮れていた正宗は、机に向かって勉強していても耐えがたいほどの空腹は感じなかった。 「進路のこと、彼女には言ったの?」  流しに立つ正宗の母浩美が、唐揚げを頬張る息子に言った。 「毎日お弁当作ってくれる可愛い彼女なんでしょ~?」 「お兄ちゃんばっかりずるい!」  リビングのソファーでテレビを見ていた姉と弟が振り返る。 「お母さん、いつ紹介してくれるのか、わくわくしてるんだけどなぁ」  正宗は三人に苦笑いで返した。 「そのうちな」  昼休み、日直の遊馬は配布物を取りに職員室に来ていた。 「うわぁ、たくさんある。早く千尋さんのところに行きたいのにぃ……」  窓から風が抜ける。校内では冷房を使わなくなり、中庭も過ごしやすくなってきた。あと半年で三年生は卒業してしまう。残りの時間、なんて考え方はしたくないが、一緒に過ごせる時間は大事にしたかった。  急いで職員室を出ようとして、気になる会話に足を止める。 「宮本、これ庭白の資料」 「ありがとうございます」  三年担当のデスクでの会話を耳に留めて振り向くと、正宗が白い封筒を受け取っていた。 「何だよ」  チラチラと振り返ってくる視線が鬱陶しい。孝一は目の前の席を蹴飛ばした。 「あ、いや……源氏は先輩たちの進路を知ってるのかなって……」  椅子の足を蹴られた遊馬は、おどおどとそう返す。 「皆、鬼百合に行くんじゃないのか?」 「う、ん! そうだ、そうだよ、ね……」 「遊馬?」  歯切れの悪い遊馬を孝一が訝しげに呼んだ。 (宮本先輩、まだ言ってないんだ……)  鬼百合高校は遊馬たちの通う車百合中学から一番近い場所にあり、進学率も一番高い高校だ。サッカー部のOBも多くがそこに進学している。  しかし、正宗は庭白百合学園高等学校(通称庭白)の資料を受け取っていた。庭白は、近年スポーツに力を入れ始めた進学校である。しかし、あまりに距離が遠いため車百合中学からの受験者は少ない。遊馬自身、サッカーの戦績を上げているから個人的に知っているだけであって、周囲から名前を聞いたことは無かった。 「……いや、ね。千尋さんは車百合に行くんだって。すごいよね」  本人が言っていないならば、自分が言う訳にはいかないだろう。 「あの人本当に頭良かったんだな」 「俺も頑張って勉強しないと!」  感心する孝一に遊馬はガッツポーズで答えた。 「追いかけるつもりかよ」 「当たり前でしょ!」 「その頭で?」  車百合中学校と兄弟校の車百合高校は、ここら一帯で一番偏差値の高い男子校だ。こちらは距離が近いが、とにかく門が狭い。 「無理でも無茶でもやるの!!あーもう! なんで学年違うんだろう、男子校なんかに千尋さんを送りこんだらどうなっちゃうか気が気じゃないのに、一年も見張っていられないなんて……っ!」  自分の頭の出来がなんだ、意地でも入ってやるんだと、遊馬は立ち上がって拳を握った。  日が落ちるのが早くなり、下校途中に完全に日が落ちるようになった。 「先輩たちって、鬼百合に行くんすよね?」  羽虫が街灯にぶつかってはじりじりと音を立てる。 「部長?」 「……そう、だな。ほとんどは鬼百合に進学するんじゃないか」  正宗は足元を見ていた視線を上げて、孝一に視線を合わせた。 「あのな、源氏」  言葉を切って立ち止まる正宗を、孝一も足を止めて見つめる。安っぽい光に照らされた正宗の髪が、偽物のように暗闇に浮かんでいた。 「俺、庭白に行こうと思うんだ」 「え……」  正宗の言葉が、偽物のように頭を軽く通過する。 「庭白って、庭白百合学園高等学校ですか?」 「知ってたか」 「王司が、言ってたので」  米神がどくどくと脈を打つ。 「通うの、きつくないっすか?」  だから、やめませんか。と言いたかった。 「寮がある」  そんなの、余計悪い。 「……どうして? 鬼百合じゃだめなんですか……?」 「……スカウトが来たんだ。どうしても、俺が良いって言ってもらえたんだ。……それに、最近成績が上がって、一般でも行けそうだって話になって。それなら、入ってからも大丈夫だろうって」  孝一は言葉もなく、ただ正宗を見つめた。 「チャンスなんだ。近年白百合は、部活動に力を入れている。歴代の成績を見ればぱっとしないかもしれないが、確実に力を付けてきてる。そこが、俺をエースとして使ってくれると言ったんだ」  それは、本当は喜ばないといけないのだろう、でも…… 「……あの、えと……、俺は……っ」 「お前のことは、忘れない」 「……はい……」  『良かったですね』なんて、言えない。だからといって引き止めることもできない。ただ、俯いて受け入れることしかできなかった。 ****** 「王司、お前はすごいな」 「え、なに急に、怖い」 「俺も頑張ってみるよ」  ふっ切れた様子の孝一に、遊馬は「そっかぁ」とふんわり笑った。 「源氏が、冷たい」  放課後、学活が終わるや否や、正宗は隣のクラスに駆け込み、李都に泣きついた。 「俺には、お前の方が避けてるように見えるんだけど」 「それは志望校のことを言っても、あいつが全然態度変えないから、こう……」  あの日から、正宗は孝一にうまく接することができないでいた。  志望校を変更したことを伝えたその時は、確かにショックを受けていたのに、次の日にはもうけろっとしていて、拍子抜けした。もっと悲しんでくれると思ったのに、そんなにいつも通りに振舞われたら正宗の方が寂しくなってしまう。 「お前が態度変えてどうすんだよ」 「俺は、こんなに胸が苦しいのに……」  あいつは何でもないのかと思うと辛くて、そんな反応を見たくなくて、接触を避けるようになってしまった。 「勝手に置いていく側が寂しがってりゃ世話ないぜ」 「寂しいもんは寂しいだろうが、お前だって川島さんと離れたら嫌だろう」 「お前、たまにムカつくな」 「源氏は俺と離れても良いのだろうか」 「俺が知るか」 「うあー」  正宗は李都の肩に額を擦りつけて項垂れる。近くで「弱った宮本君可愛い」なんてヒソヒソ声が聞えた。これが可愛いか? とそちらを見れば、話しているのは山瀬千春と影木幻十郎だった。あの二人は頭がおかしい。 「態度がおかしいのは源氏じゃなくてお前だよ」  俺らの頼れる部長は何処に行った。李都は項垂れる頭をポンと叩いた。 「俺に源氏の考えなんて分からないけどなぁ」  今日、窓の外を見ていた孝一を思い出す。彼の視線を追えば、その先には正宗が居た。 「お前に避けられてることに気が付いてるのは確かだろ。もっと構ってやれよ。時間ないんだろ?」 「時間はあるぞ。死ぬまで離さねぇからな」  李都は、顔を上げてきりっとした表情で言うその顔面を叩いた。 「決め顔してんな」  ――お前のことは忘れない。  彼の言葉がきつすぎて、頭の中で暴れた。別れの言葉を突き付けられて、悲しくて空しくて心が壊れそうになった。  その時、遊馬の言葉を思い出した。無理でも無茶でもやってやる! あと半年で、あの言葉通り忘れらない存在になって、どこまでも追いかけてやろうと決意した。それなのに……  昼休み、いつものように孝一を迎えに来た正宗は、孝一が席を立つと、いつもの過剰なスキンシップをせずにさっさと前を歩きだした。  最近こうなのだ。孝一に触ろうとしないし、会話も弾まない。昼休みと週二回の下校時だけ、義務のように会いに来て、気まずい空気が流れる。  孝一は、彼の髪を縛るゴムを引っ張った。癖のない髪がはらりと落ちる。 「え、何!?」  驚いた正宗が振り返る。  何か言わないといけないと思った。言いたいことはたくさんあるはずだった。でも言葉より先に気持ちが溢れて目頭から溢れそうになるから。  孝一は唇を噛んでそこから逃げた。 「な!? 源氏!!」  慌てた声が追ってきたが、こんな顔を上げられない。孝一は一番近くの人気のない場所、階段裏の倉庫の前まで速足で向かうと、やっと振り返った。 「俺のこと、忘れないって言った! それなのに、どうして距離をとるんですか?」  中庭に続く扉のガラスから差し込んだ光が、涙に反射する。 「あと半年しかないのに……」  一筋零れてしまったそれを乱暴に拭うと、正宗がその腕を掴んで詰め寄った。 「ちょっと待て、半年って何だ?」 「え、だから。卒業したら別れるって」 「はあ!?」  手首を掴まれたまま詰め寄られ、壁に追い詰められる。 「……ふざけんなよ」  怖い顔で見下ろしてくる彼は、解かれた髪が頬にかかって別人のように見えた。 「散々お前のこと好きにさせておいて、卒業ごときであっさり別れる? ――許さない」  孝一を写す瞳が鈍く光る。何かおかしい。 「ちょ、あの……あれ?」  手首を掴む力が強くなる。 「俺はお前を手放さないためなら、手段を選ばないつもりでいるわけだが……。どういうことか、俺が納得いくように、しっかり説明してもらおうか」 「俺も別れません!」  やっと状況を理解した孝一は、そう叫んで目を伏せる。 「あんたが、別れるつもりでいるんだと思ったから……」 「はあ?」 「急に志望校変えて、『お前のことは忘れない』なんて言われたら、そういうことだと思うじゃないっすか!」 「いや、ちょっと待て。俺そんなこと言ったか?」  狼狽する正宗をキッと睨みつける。 「言いました!」 「ごめん、だってお前のこと忘れるわけないし。だからそれ、単に事実として言ったんだと思う」 「はあ!?」  正宗の手を振り払って凄む孝一に、正宗はしゅんと頭を下げた。 「……すみません。でもそれ、お前簡単に納得したのかよ」  その言葉に、孝一はふるふると拳を震わせる。 「そんなわけない! 俺だって、本当は『何で』って叫びたかった。ずっと一緒に居るって言ったくせに、って。でも、それじゃダメだって思ったから、あんたが卒業するまでとことん落とし込んで、俺という存在を刻みつけてやろうと思った。一度別れたって再来年には追いかけて行って、例えあんたに他に恋人ができていようが修羅場を作ってやろうと思った! もう一度惚れさせてやろうと思った! 料理の腕も性格も磨いて、度胆を抜かせてやろうって!」  握った拳を壁に叩きつけた。 「納得じゃない、決意だ!」 「げ、源氏……」  正宗は孝一の思いに胸を打たれて声を詰まらせた。 「それをあんたは、許さない? 手段を選ばない?」  孝一はそんな正宗の胸倉をつかんで続ける。 「ちっさ」 「ぐっは……っ!」 「ちっさ! ちっさいなぁ!」  愚行を恥じて胸を痛める正宗のその胸に、頭突きをして肩を震わせた。 「ほんと、ちっさいなぁ……っ」 「お、おい。そんなに追い詰められるのが怖かったか? 嫌だったか?」  震える声に正宗が慌てる。孝一は、胸倉を掴んでいた手を外して、彼の背に回してしがみついた。 「もう、なんなん……」  怖くなんて無かった。むしろ、この人が本当に自分のことを好きでいてくれているのだと思うときゅんと胸が痺れた。 「もしかして、デレてる……?」 「うっさい」  正宗は微かに震える彼を抱き締め返す。 「じゃあ、予約。寮の部屋割は一年は二年の先輩と同室になる。再来年、俺の同室はお前だ」 「あんたも俺も、受かる前提で話してんの……」 「受かれよ」  孝一はぐずっと鼻を鳴らして顔を上げる。みっともないところを見せたばかりだが、できる限りの決め顔を作ってみせた。 「必ず行くので待っていてください」 「あぁー……もう、誑すなよぉ……」  肩頬を上げた生意気な笑顔に打ち抜かれる。正宗は額を抑えて嘆いた。 「この前のお返しっすよ」  孝一は額を抑えるその手を取り、甲に口づける。正宗は、自分をまねたその行動を見て、俺もお前も気障すぎるだろ、と首まで染めてしゃがみ込んだ。 「やばい、後ろでラブストーリーが展開されてるよ」 「これ俺達聞いていて良いんですかねぇ」  千尋と遊馬がこそこそと耳打ちし合う。 「録音はばっちりだよ!」 「さすが影木君!」  レコーダーを繋げた紙コップをドアに当てる幻十郎に、千春がぐっと親指を立てた。





 

球技大会のヒーロー

 車百合中学では、秋に運動会と球技大会が交互に行われる。今年行われるのは球技大会だが、運動会と名を連ねるだけあり、丸一日の時間を割く大きな行事になっている。  種目は、サッカー・バスケ・ドッヂ・テニス・バド・バレー・卓球の6つ。クラス対抗で一種目、部活単位で一種目、自分の属する部活の競技でないものを選ぶ。午前中は部活対抗、午後はクラス対抗となっており、部活動に所属していないものは午前中は助っ人して参加する。また、クラスと部活で同じ競技は選べないことになっている。 「よう、源氏」 「部長!」  孝一は久しぶりに部活に顔を出した正宗に肩を叩かれて瞳を輝かせた。 「はい、源氏君! 先輩が来てくれたからってはしゃがない!」 「俺ははしゃいでない」  クリップボードを叩きながら遊馬に注意され、孝一はツンとして言い返した。  この日のサッカー部のミーティングは、球技大会の説明があるため、引退した3年生も参加した。彼らは二回目の球技大会のため、説明を聞かなくても勝手は分かっているが、形式美だ。また、マネージャーは帰宅部と同じ扱いのため、孝一は特に参加する必要はないのだが、久しぶり三年がそろって来るというので見学に来ていた。 「王司部長の初の大仕事だな!」  部長らしく仕切り出す遊馬に、根岸がヒューとヤジを飛ばす。 「茶化さないでください! もー……」  それにツッコみながら遊馬はミーティングを始めた。  少し前までは先輩を振り回す側だったのに、上に立つとなると勝手が違うらしい。 「えーと、今日は練習の前に、球技大会について話します。クラスで説明はされたと思うけど、部単位の競技としては、サッカー部は毎年ドッヂを選択しています」 「どうしてですか?」  例年通りの説明をする彼に、毎年恒例となりつつある合いの手が入る。 「理由は、バレーでは背が高い生徒が多くジャンプ力もあるバスケ部が毎年優勝をかっさらい、同じ理由でバスケはバレー部がかっさらっているからです。テニスやバドはラケットに慣れていないと良い成績は狙えないし、うちは何故かノーコンが多い。その点ドッヂは当たらなければ負けないからです。取れないと思ったら逃げろ! 最悪取るのはキーパーに任せる! という訳で、他に質問は?」  一通り説明を終えて見渡すと、一年キーパーが手を上げた。 「俺、キーパーですけど、いつもボールは弾いているので取れません」 「じゃあ、逃げよう。取れる人が取れば良い。他は?」  促せばちらほら手が上がる。 「練習はするんですか?」 「ドッヂの練習するくらいなら、フリーキックの壁練しよう。本番頑張れば良いでしょう。他は、居ない?」  皆同じ質問だったようで、それ以上手は挙がらなかった。それじゃあ、普通のミーティングに移ろうかと思ったところで、隣から声が上がる。 「はい!」 「え、源氏?」  説明の間、遊馬の隣で三年と一緒になって添え物になっていた孝一が、手を上げて遊馬を見て言った。 「俺、ドッヂ強いっす!」 ******  開会式、校庭は生徒たちの熱気に包まれていた。  山百合中学の体育祭、球技大会は毎年白熱する。その理由は、特典にある。優勝クラスには人数分の缶ジュースと購買のパンどれでも一つ無料券、優勝した部は部費アップ、個人でMVPに輝いた人には、教師陣の誰かが何か私物をプレゼントする。ちなみに、去年は美術の先生がアンティークのカメラを贈り、送られた生徒が鑑定にかけたところ結構な値段になったとの噂だ。  そういう訳で、ほとんどの生徒が、狙うは優勝! MVPだ! と燃えていた。  午前中、サッカー部の試合は大いに盛り上がりを見せた。  文化部も混ざった大会なので、彼らが勝ち進むのはそれほど驚くことではない。原因はその中で活躍する人物にある。ゴールキーパーでも他の選手でもなく、ただのマネージャーである孝一の活躍に、対戦相手どころか味方まで驚かされた。  孝一は特出して運動神経が良いわけではない。足は遅いし、体力もコントロールも無い。体力テストはいつもC判定だ。ただ、動体視力と瞬発力は人一倍あった。だから避ける取るはお手の物、ゴキブリの方が複雑に動く。ノーコンだから自分では投げずに近くの人にパスすればドッヂでは最強だった。  そんな源氏の活躍で、サッカー部はあれよあれよという間に決勝に進出した。 「源氏!」 「ナイス源氏!」 「絶好調だな源氏!!」  コートにはまさかの源氏コールが響く。 「覚悟! 女王!!」 「誰が女王だ!」  相手チームに変なあだ名で呼ばれ、孝一はキッと睨み返すが「きゃー! 氷の女王様!!」の外からの声援にびっくりしてボールを取れずに、ぎりぎりで避けた。 「王司死ね!!」 「暴言!」  続いて狙われた遊馬は叫びながら避けた。 「プリンス頑張ってー!」 「イケメン爆発しろ!!」 「顔面で受ければセーフだぞ!!」 「僻み!」  声援にすらヤジが混じっているのはきっと彼が愛されている証拠だろう。  なんだかんだの結果、サッカー部は優勝した。 「俺的には野島の叫んだ『フェアリー!!』が一番かな」 「いや、しょっぱなの李都が助けられた時の『げ、源氏ぃ……!』も捨てがたいぞ。言い方が乙女で」  昼休み、サッカー部は集まってお昼を食べながら、試合中のどの台詞が一番面白かったかという話題で盛り上がる。 「源氏は行動がすごかったよね。鉄壁の宮本ガード」 「『たまには俺が部長を守ってやりますよ。』ってクールに決めてさ。部長は王司だっての」  話題の中心にされて、孝一が居心地悪くそわそわしてると、根岸が肩を組んできた。孝一はびくっとして咄嗟に逆隣りの正宗のシャツの裾を掴む。  さすがに彼を怖いと思うことは無いが、突然の接触にはまだ慣れなかった。 「今回の一番の功労者は源氏だな!」  動揺に気付いた正宗に、さりげなく頭を撫でられて、孝一は「別に」と小さな声で答えた。 「あ、サッカー部だ」  ややあって、近くを通りかかった女子が声を掛けてきた。 「源氏君! さっきの試合すごかったね。全部避けちゃうんだもん」 「はあ」  気の無い返事をする彼に、少し離れてたところからも視線がくる。 「あ、源氏君だ! やっぱりサッカー部で食べるよねぇ」 「サッカー部ってプリンスも宮本先輩もいるもんね。川島さん良いな……」 「源氏君のお弁当すごい、美味しそう……」 「あれ、源氏君が作ってるらしいよ」 「うそ、すごい!」  直接話しかけてくる人は少ないが、周囲が騒がしくて落ち着かない。それに、孝一は自分を好意的に見られることが、あまり嬉しくなかった。 (不特定多数にモテても良い事なんて無いし……) 「部長、卵焼きもう一つ食べます?」 「え、良いのか?」 「鶏肉と交換で」  だから、彼の好物を箸で挟んで直接彼の口に運んで行き、これ見よがしに周囲に見せつけた。 ******  午後、バスケを選択した正宗と李都は、対決後に体育館をうろうろする遊馬を見つけて襲撃した。 「よう、王司!」 「どこ行くんだよ」 「宮本先輩! 李都先輩! 試合お疲れ様です」  テニスで早々に負けた遊馬は彼らの試合も観戦していた。千尋に似合うと言われたというだけの理由での選択だったので、負けて当然と言えば当然。気にはしていない。 「快勝だぜ」 「うっせ、接戦だったろうが」  遊馬にねぎらわれてピースで返す正宗を李都が小突いた。 「今から源氏の試合なんですよ」  遊馬はバレーのコートを指して言った。 「へー。あいつ、ポジション何処?」 「リベロです」  正宗は彼の答えに驚く。リベロは守備に特化したレシーブの上手い選手のつくポジションである。 「え、ただの球技大会なのにリベロがいるのか」 「うちのクラスだけみたいですけど」 「あいつ経験者じゃないだろ?」 「でも、バレー部除いたクラスの中ではレシーブ上手い方です。それに器用だし。身長的にブロックは強くないから、とりあえずとことんボール拾っていくって言ってました。リベロは前に出ませんから」 「あー。あいつ目良かったもんな」  正宗と李都は彼の午前中の活躍を思い出して納得した。  試合中、孝一はここでも活躍していた。 「すご、落とさないな……」  際どいボールも拾う拾う。コントロールは上手くないが、上がれば誰かが繋げるので、ラリーが続いていつかは相手コートに落ちた。 「やっほー。バドで負けた野島です」 「はぁい! 卓球で勝ち進んでいる根岸よぉ!」 「女子サッカーで勝ち進んでいる川島です!」  正宗たちが孝一を見守っていると、三人が合流した。 「おー、みんな頑張ってんな」 「川島さんすごいぞ! さすが我らがマネージャーだ!」  褒められた麻子がエッヘンと胸を張ると、「うぉお!?」と周囲が湧いた。  コートでは、素人の寄せ集めではなかなかうまくいかない連携が成功して、孝一側のチームのセッターが綺麗にトスを上げたところだった。  待ってましたとバスケ部のスパイカーがジャンプするが、相手チームにすかさずブロックに入られ、そのまま叩き落とされた。所謂ドシャットだ。  孝一側の応援席から「ああ……っ!」と声が上がるが、跳び込んだ孝一がボールが床に触れる寸前に指を滑り込ませる。 「上がった!!」 「すげぇ! まだラリー続いた!!」  その後またしばらくラリーが続き、今度は相手チームがアタックを仕掛けてきた。ブロッカーの指に当たったボールがあらぬ方向に飛ぶ。 「タッチ! カバー頼む!」 「素人に無茶な……っ」 「セッターいないじゃん!」  チームメイトがどうにか拾うが、返すべき場所にセッターがいなかった。さっきのボールを一緒になって追ってしまったらしい。  孝一はボールから目を離さずに、アタックラインでジャンプした。 「誰かしら打て!」  投げやりな言葉だが、結局そのトスがスパイクに繋がり、孝一チームの得点になった。 「ジャンプトスすげぇな!!」  観戦していたバレー部が声を上げた。 「ナイス源氏!」 「ごめん、ポジション離れた」 「まあ、大丈夫だったし気にするなよ。次気を付けろ」 「おう!」  コート内ではチームメイトが励まし合う。 「源氏、すげぇな……」  サッカー部は彼の活躍に手に汗を握る。 「あいつ何でバレー部じゃねぇの? いや、サッカー部に居てほしいけどさ」  野島の疑問にはみんな同意見だった。 「「あ」」  センターラインを挟んで向き合った正宗と孝一は、そろって声を上げた。  バスケの決勝戦はまさかの正宗のクラス対孝一のクラスだったのだ。 「え、お前バレーは?」 「こっちは助っ人です」 「何お前、バスケも出来ちゃうの?」 「いえ、走るの得意じゃないし、手も大きくないのでドリブルも苦手で、ノーコンだからゴールにも入りません。体育の実技テストもボロボロです」 「何でわざわざ助っ人に入ってんだよ」 「何ででしょうね。でも、部長の敵に回るの、わくわくします」  孝一は正宗を見て挑戦的ににやりと笑った。 「はっ、良い性格」  正宗も負けじと視線を返す。 「おい、夫婦いちゃついてんなよ」  挑発し合っていると何故か外野からヤジが飛んだ。  結果、孝一のチームが勝利した。  ここで言及したいのは、ここでも孝一は十分活躍していたということだ。彼は試合前に言っていた通り、ドリブルもゴールも、パスさえも下手だった。しかし、パスカットとスティールが異常に上手かった。  孝一は相手の動きを読んで先回りすることが得意だった。素人がスティールなんてと思うかもしれないが、選手は皆ゴールにボールを入れることを目指して動いているため、動きを読むのは彼にとっては難しくない。ゴキブリの方が数倍予測しにくい動きをするのだから。 「バスケ出来ないとかうそじゃねぇか!!」 「腐っても助っ人なので」  食って掛かる正宗に孝一はべっと舌を出して答えた。  放課後、嵩張る袋を両手で抱えた孝一は嬉しそうに目元を赤く染めていた。  クラスでの総合優勝は3年生が持っていったものの、サッカー部のドッヂでの優勝と、バレーとバスケのクラス優勝に貢献した孝一は、MVPに選ばれた。彼が抱えているのはその景品のバーミキュラ鍋だ。  オーブンのように焼き料理が出来て、蒸し料理も煮物も出来てご飯も炊ける。無水調理で素材の味を引き出してくれるそれは、いつかは使ってみたいと思っていたが、値が張るために手が出なかった逸品なのだ。  昨年の商品に比べれば面白味がなく、普通の中学生が貰っても困るだけかと思うが、孝一にとってはこれ以上ない景品だった。  表彰台でそれを受け取って、滅多に見せない笑みを浮かべた孝一に、「源氏君! 良かったね!!」と感涙する生徒もいた。 「お前さ、なんでサッカー部のマネージャーやってるんだ? 運動得意じゃん」  隣を歩く正宗に聞かれて孝一は頭を振った。 「得意じゃないっす。テニスとか卓球だったらホームラン打ちますよ。だからと言って野球とかサッカーは足が遅いからダメっす」 「今日大活躍だったじゃんか」 「バスケもバレーもミニゲームだから体力が持っただけですし、そもそもノーコンだから球技は向きません。球技大会だからヒーローになれただけっす。それに俺は運動するより家事一般の方が好きですし」 (あと、正宗さんが好きだし。)  言葉に出さずに彼を見上げると、優しい瞳が返って来た。 ******  球技大会を終えて、早速問題が発生した。昼休み、いつものように正宗を待っていた孝一を、各部の部長が部員を引き連れて取り囲んできたのだ。 「バスケ部に入らないか!?」 「いやいや、ここはバレー部だろう!?」 「部活じゃないけど、市のクラブチームで一緒にドッヂボールをやらないか!?」  熱烈な勧誘に、孝一は椅子ごと後ずさる。 「いや、俺はマネージャーの仕事が好きなので」 「何でだよ! サッカー部の召使いのままで良いのか? うちの部で日の目を浴びよう!」  掴みかかる勢いのバスケ部の手をパシンと振り払った。 「マネージャーを召使いだと思ってるんすか?」 「いや、それは言葉の綾であって……!」  睨みつけるとオロオロと身を引いた。孝一がこれ以上後ろに下がろうにも、後ろの机に邪魔されてできないでいたのでほっとする。早く話を終わらせようと、孝一は一人を指名した。 「バスケ部の人、あんたの自慢は?」 「え、足が速い事かな」 「足が速いから陸上部に入るべきだって言われたらどうですか? 入らないでしょう?」 「それは足の速さはバスケで充分発揮してるからだ」 「俺は運動能力よりマネージャースキルの方が高いんです」 「じゃあ、あれだ。うちでマネージャーをやらないか。それから徐々に競技に興味を持ってくれたらいい」 「嫌です」  ずいっと再び寄って来られて、孝一は身を縮めた。 「あの、俺、パーソナルスペース広いんで、あんまりこっち来ないでください」  焦る孝一に、運動部員たちは、もうひと押しすればいけるんじゃないかと思い、さらにじりじり詰め寄った。  その様子を見守るクラスメイトは孝一が軽い男性恐怖症であることを知らない。取り囲んでいるといっても同じ学校の生徒であるし、孝一も普段通り強気に対応しているように見えるために誰も口を出さないでいた。 「お試しで良いからさ」  一人に肩を掴まれて、嫌悪感に孝一の二の腕に鳥肌が立つ。 「……っい、や……っ!」  他の部にも負けじと手を伸ばされて、喉の奥でひぅっと悲鳴が上がった。 「源氏!?」  そんな中、やっと迎えに来てくれた正宗の声が聞こえて恐怖で出せなかった声が一気に溢れ出した。 「まさむねさぁぁああん!!!」  突然の大声量に、孝一を囲んでいた運動部が驚いて道を開ける。 「正宗さん、正宗さん、正宗さん!!」  孝一は駆け寄ってきた正宗に抱きついた。 「あ、あの人たちが、俺を召使いにするって!」  旦那来ちゃったよ、と焦っていた運動部員たちは、孝一の訴えに「誤解だ!」と叫んだ。 「なに、お前ら源氏のご主人様になりたいのか?」 「どうしてそうなった!?」 「やだぁ、嫌です……っ! 正宗さん、助けてぇ……っ!!」  正宗はぎゅうぎゅう抱きつく孝一の頭を抱えて背を撫で、慌てる運動部員たちに絶対零度の視線を向けた。 「これ、俺のなの。分かったら、帰れ」  静かになった教室で、孝一は「どうしようクラスメイトに恥ずかしいところ見せたどうしよう死にたい埋まりたい」とぐるぐるしていた。  そんな彼の青くなった顔を見て、正宗は「あー……」と余所を向いて声を漏らす。 「えっと……源氏、これ、演技か?」 「……あ、甘えられるチャンス、かと!」  しどろもどろな彼の助け舟に、孝一は全力で乗ることにした。 「でもあの人たち、来るなって言ってるのに俺のこと囲んで掴みかかって来ましたからね」  しかし、思い出せばどうしても手が震えてしまって、正宗にその手を掴まれた。  孝一はこれはだめだな、と思い路線を強気クールからクーデレビッチに変更することにした。泣き虫の甘えただと思われるよりはマシだ。  正宗に向き直って、彼の首に腕を回す。 「だから正宗さん、慰めてください」  挑発的な瞳を向ければ、豹変した孝一に正宗が口元を引き攣らせた。 「……とりあえず、部長呼びに戻ろうか」





 

忘れないで同盟

「はあ!?川島さんが二股掛けてる!?」  隣のクラスからやって来た李都の話に、正宗はマドレーヌを噴出した。 「汚ねぇな! そういう噂があるんだよ」 「あー! せっかくの差し入れがもったいねぇ!」 「朝から差し入れかよ、羨ましい!」 「お前になら分けてやっても良い」 「ありがとよ!」  李都は言葉に甘えて一口サイズのそれを一つ手に取る。売り物のように形の綺麗なそれは、手作り独特のバターの香りがした。もてる男は羨ましい。 「でもそんな噂、どうせ根も葉も無いんだろ」 「う~ん。まあ、俺も信じちゃいないんだけどな……」 「で、相手は?」 「……」 「そこまでは噂にないのか?」 「……王司と源氏」  ガタッ  机が音を立てて揺れる。隣の席で、千尋のシャーペンの動きが止まっていた。神経質な彼の気に触れたかと気になったが、こちらも大事な話であるから我慢して欲しい。 「え」 「だから、王司と源氏だ!」  間の抜けた声で返す正宗に再度言う。 「お前は?」  正宗は一泊おいて聞き返した。 「俺の名前は、無い!」 「……それはその……」  何と言っていいか分からない。噂に現恋人の名前が出ないとは…… 「あれ? もしかしてお前達が付きあってると思っていたのは俺だけか……?」 「間違ってない! 告白したし、OK貰った!!」 「ああ。そうだよな……。えっと、……俺はお前のこと、良いと思うぞ……?」 「お前にモテても意味ねぇんだよ!」  李都は目の前の無駄に顔の良い男の、綺麗に晒された額を手の甲で叩いた。 「何、宮本君も浮気なの?」  二人は突然かけられた声に飛び上がる。 「うおっ、影木!」 (何だこいつ気配が無かったぞ。) 「おはよう」  大げさなリアクションをとる李都に、幻十郎は起伏の無い声で挨拶した。 「バカ言え、俺と源氏はちょっと恥ずかしいくらいにラブラブだよ」  告白事件でふっ切れた正宗は、相変わらず表情の読めない彼にはっきり言ってやる。 「自覚あったんだな」  と李都。 「そうなの? じゃあ、そのラブラブっぷりを聞かせてよ。李都君の安心のためにも」  と影木。  千尋はその言葉に、違うだろ自分の欲の為だろう腐男子が、と心の中でつっこんだ。 「そうだな。例えば朝、下駄箱にメッセージが入ってる」  そう言って正宗は「胃袋をがっと!」と描かれたメモを出す。 「しわくちゃだね」 「ハートの形に折ってあるんだよ」 「胃袋をがっと、て何だ」 「メッセージは毎回違うんだよな。これは胃袋を掴むてきなアレだと思う」 「あー」 「で、教室に来ると、机に差し入れが入ってる。昨日はクッキー。今日はこれ」  さっきから食べているマドレーヌを振って見せる。 「それ源氏の手作りか。どうりで美味いと思った」 「源氏以外のは受け取らないな」 「匿名で机の中に入れられてたら返せないよ?」 「誰からのか分からない手作りは食べるのも怖いから、処理に困るな」 「そんなもんか」  李都には分からないイケメンならではの苦労があるらしい。 「それから、特別教室って向かいの校舎だろ? 昨日の理科の後の移動中、二年の廊下を見たら源氏と目が合ったんだよな。で、手を振ったら赤い顔で目を逸らされた。それで去り際に後ろ手に手を振られた。あとさ、昨日じゃないけどたまに廊下ですれ違う時あるだろ。あいつ、無言で背後に回って膝かっくんして逃げるんだよ」 「構われると照れるのに構われたいんだ。フェアリー可愛いね」 「なんで影木がその呼び方知ってるんだよ」  無表情のままふふっと笑う幻十郎に、李都が訊ねる。 「僕らの間じゃ有名だよ。サッカー部のフェアリー」 「僕らって誰だよ」 「それはどうでも良いじゃない。宮本君、他には何かないの?」 「そうだな、昼休みに迎えに行くと、髪ゴムを取られるな。ブームらしい」 「結び直してくれるの?」 「あれは何て言うか、むずむずするな。すごく丁寧に梳いてくるから」 「もちろん手梳きだよね! 手梳き!」  俄然幻十郎のテンションが上がった。 「そうなんだよ、手梳きなんだよ……。指の感触とか温度とか頭皮で感じるんだぞ……どうしろってんだ……!」 「うわぁぁあああ……っ!」 「『終わりました。』って後ろから抱き締められて旋毛にキスなんかされてみろ、うわーっ! ってなるから、うわーっ! て!!」 「うわぁぁあああ!!何だこれ胸が苦しい」  幻十郎が無表情で騒いだ。 「お前ら本当に恥ずかしいな」  話している本人より李都の方が顔が赤い。 「しかもあいつそういうクールぶった行動を目じり染めながらやるんだよ! ちょっと恥ずかしがってるんだよ!」  正宗は顔を押さえてわっと机に突っ伏した。 「どうしよう、二人が僕を殺しにかかってくる」 「どうしよう、友人の惚気が辛い」 「それで、放課後は写メが送られてくる」  正宗は机に額を付けたまま「明日のおやつ」と題に書かれたマドレーヌの写メを出して見せた。 「リア充爆発しろ」 「言えと言うから言ったのに」  李都の理不尽な言葉に正宗はにやけたまま反論した。 「源氏は完全に白だな」 「でも、休み時間に三人でこそこそして、源氏君と川島さんは帰りも一緒なんでしょ? 宮本君と李都君の二人は十月入ってから平日は全部塾なんでしょ? 会えない寂しさを埋めているのかもしれないよ?」  幻十郎が、正宗の惚気にほっとした李都の不安を煽る発言をする。 「把握しすぎだろ、怖ぇよ」 「噂って当事者の耳にはなかなか届かないものだよね」  幻十郎は一歩引いた李都に声だけで笑った。  三人の話を聞きながら、黙ってペン先を見つめていた千尋が顔を上げる。 「……李都君って、川島さんと付きあってたの?」  人見知り故になかなか声を掛けられないでいたが、千尋にも関係のある話な上、李都もそれなりに真剣な様子だったので話しかけたのだが、ぼそぼそと口の中に籠るような話し方になってしまった。 「お、おう。山瀬……入って来るのか……」  案の定、外部活・体育会系・派手なグループに属する李都が戸惑ったように答える。千尋はその反応に視線を彷徨わせた。 (やっぱり話しかけない方が良かったかな……) 「そうだ山瀬。王司から何か聞いてないか?」  正宗に聞かれてほっとする。やるべきことがあればきちんと対応するのが千尋だ。 「聞いてはいないけど」  千尋はケータイで数枚の写真を開いた。 「これが昼休み」  ゼリーを口に運ぶ千尋の横顔の写真を指す。 「教室移動」  集団から離れて一人で廊下を歩く千尋の写真。 「授業中」  体育のマラソンで苦しんでいる千尋の写真。 「これらがその都度メッセージ付きで送られてくる」  さっきまで正宗の惚気話で盛り上がっていた空気が凍った。 「夜はこれ。俺の家の前の写真」  千尋は留めとばかりに「おやすみなさい」と題されたメールを出した。 「こえぇよ!」  正宗が声を上げる。盗撮メールから狂気を感じた。 「……あいつに彼女が居るって知ってても、怖すぎるな」  二の腕に立った鳥肌を摩る李都に、三人が注目する。 「あー」 「あぁ……」 「え、なんだよ」  幻十郎と正宗に意味ありげに納得されて、一人取り残される形になった李都が戸惑う。 「遊馬は恋人の俺に執着してるから、川島さんと浮気してないと思う」 「え」  ついで千尋の発言に固まった。 「歴代部長ホモだよ」 「おいやめろ」  幻十郎の言い様に正宗が待ったをかける。 「待って、ショックが冷め止まない」 「あいつの普段の行動考えたら俺しかいないと思うんだけど」 「ああ、うん……。そうだな……」  千尋の言葉に遊馬の行動を反芻してみる。  そうだ。あいつはいつも千尋さん千尋さんとうるさくて、だから李都は、恋人なんて本当に居るのかよ、とあいつを散々からかっていたのだ。 「源氏も王司も変な行動してるんだから、三人で何かたくらんでるんだろ。川島さんの彼氏は正真正銘お前なんだからどんと構えとけ!」 「お、おう……?」  正宗にどんと肩を叩かれる。李都の頭の中では「歴代部長ホモ」の文字がぐるぐると踊っていた。 ******  日曜日、活動後の部室に、孝一と遊馬と麻子の三人が集まっていた。 「あ、そこ。編目が反対になってる」 「え!? あぁ~! また解いてやり直さないと……」  孝一の指摘に麻子が悲鳴を上げた。 「でもクリスマスまでに間に合いそうで良かった」 「孝一先輩のおかげですぅ」  作りかけの赤いマフラーを持って麻子が微笑む。  三人の恋人は、受験真っ盛りで、会う時間が減ってしまった。寂しいが、邪魔にはなりたくない三人は、とにかく何かをして、直接会わずに存在をアピールする「忘れないで同盟」を結成した。日々の悩みや作戦を相談し、惚気を話し合う同盟である。 ――♪  遊馬のケータイが着信を知らせる。 「川島さん」  メールを開いた遊馬が慌てて麻子を呼んだ。 「はい?」 「川島さんが俺と源氏で二股を掛けてるって噂があるらしい」 「え!? 困ります! 心外です!」  麻子はその場で飛び上がる。お下げ髪もぶわっと広がった。 「ああ~! 女子の嫉妬の声が聞えますよぉ!!」  王子と女王を独り占めだなんて!  「第一私は一応李都先輩一筋です!」 「一応はとってあげようよ」  麻子は言葉尻に反応する遊馬と孝一の手を取った。 「明日すぐに三人で訂正しに回りましょう! 膳は急げです!」 「李都お前、川島さんと付きあってたのか!?」 「俺らの仲間だと思っていたのに!」 「裏切り者~!!」  翌週、新しい噂の回った学校で、李都は男どもに追い回された。





 

土曜日の夜は

 土曜日は、早寝早起きの孝一が唯一夜ふかしをする曜日だ。夜ふかしといっても、夕食を食べる時間や風呂に入る時間は変わらない。ただ、二十三時に間に合うように夜食の準備をして、彼を待つための夜ふかしだ。 ――♪  チャイムが鳴ったので、出迎えると、雪永がふわふわ頭を覗かせた。 「お帰りなさい」 「ただいまぁ。正宗くんは?」 「今日は父さんの方が早い。普通にご飯食べるでしょ? すぐ用意するから、お風呂入っちゃって」 「はーい」  雪永が風呂に向かうのを見届けて、ササミと豆腐の春雨スープを温め直す。今日のメニューはメインのそれと、ナムルと、ポテトサラダだ。 ――♪  スープが良い具合に温まったタイミングで、再びチャイムが鳴る。今度の彼は勝手に上がっては来ないので、鍵も開けて出迎える。 「部長、いらっしゃい。お疲れ様です」 「お邪魔します」 「今、父さんがお風呂貰ってるんで」  彼をダイニングに通して、先ほど温めた春雨スープを彼の前に出す。彼の来る日は、夜食にもできるような軽いものを必ず用意した。  土曜日は、塾帰りの正宗が孝一の家にやってきて、そのまま泊まっていく曜日だ。文武両道を掲げる進学校である庭白を受験する正宗は、平日の放課後と土曜の午後は学習塾に通っている。スカウトが来ているとは言え、あまりに頭が足りなければ落とされる。庭白のスカウトは、一教師に気に入られたために前期入試で多少優遇される程度のものであって、絶対ではないのだ。また、意識の高い彼は、例え勉強せずとも合格できるという境遇にあったとしても、入学した後のことを考えて、塾通いは止めないだろう。  そんなわけで、土曜は孝一も部活があるので午前中は会えず、こうして二人でのんびりできるのは、昼休みと、土曜の夜から日曜日にかけてだけなのだ。 「今、卵焼きも作りますね」 「ここ来るとホント、至れり尽くせりだわ」 「労……サービスしてますから」 「なんで言い直した。普通に『労ってる』で良いだろう」 「サービス、の方がぐっときません?」 「お前はどこを目指してるんだ」  にやっと笑う孝一に、正宗は苦い顔をした。しかし孝一は、彼がこういう狙った言葉遣いが嫌いじゃないことを知っているので、「してやったり」とほくそ笑んだ。  正宗は、受験のために学校や下校時に自分と会う時間が少なくなってしまったのを、こうして埋め合わせようとしてくれる。孝一はそれを、彼も自分と一緒にいたいと思っているからだと受け取り、嬉しく思っていた。だからこそ孝一は、彼の負担にはなりたくないと思うし、労いたいとも思っている。 「はー、さっぱりした。あ! 正宗くん来てる!」  そうこうするうちに風呂から上がった雪永が合流して、孝一もいっしょに夜食を食べながら、それぞれの近況を話したりした。  食器を片付けた孝一は、正宗が風呂に入っている間に数字と格闘することにした。  正宗は土曜の夜にのんびりして、日曜は孝一の部屋でずっと机に向かっている。そんな彼に、きりの良さげなところでお菓子休憩を挟ませるのが孝一の仕事だと思っているわけだが、勉強する彼を見ていると焦るのだ。  風呂から上がった正宗が「ただいま」と言って部屋に入ってきたので、広げていたテキストをしまう。 「勉強?」 「俺も庭白に行かないといけなくなったみたいなんで」  正宗は「ふーん」と嬉しそうに言いながら、孝一のすぐ隣に座った。 「置いていかれないようにしてるんです」  孝一は正宗の気配を探りながら続けた。  彼が努力するほどに、自分も努力しなければ、どんどん彼が遠く離れた場所に行ってしまう気がした。 「源氏が追いかけてきてくれるのは嬉しいけど、別に、何があっても俺はお前を置いて行ったりしないぞ」  正宗は甘やかすように、孝一の喉から頬を撫でる。「うざい」と憎まれ口を叩きつつも素直に甘えて擦り寄る孝一を、後ろから抱く形に座り直して落ち着いた。 「部長って、いつも何て言ってうちに来てるんすか?」 「勉強会してるって言ってる」 「勉強してないじゃないっすか」 「親に『根を詰めすぎないで』って心配されたから、息抜き込みだって言っておいた」 「息抜きできてます?」 「うーん、息抜きっていうか、骨抜き?」  そんなことを言いながら、正宗が髪を梳いてきたので、孝一は唇をきゅっと結んで「ん」と甘い声を漏らした。 「孝一、かわいい」 「ぁ……」  耳元で囁かれて、首や耳の後ろ、耳のすぐ下に口づけられて、孝一は切なげに瞼を震わせる。  正宗は普段から孝一の熱を徐々に上げていくような触れ方をしてくるが、土曜の夜は特別そうだった。隣の部屋に雪永いるから、ばれないように、激しい動き、孝一が声を上げてしまうような触り方はせずに、緩く柔く全身を慈しむように触れてきた。  折り曲げた膝頭を撫でた大きな手が、太ももに下りてくる。普通に触れられるだけなら、くすぐったいだけの場所も、快感を与えるために触られているのだと思うと切なくなった。内股を立てた爪でなぞられて、喉の奥に押しとどめたような声が漏れる。彼に触られると、くすぐったさは全て快感に変わるようだった。  耳や胸にはまだ触れてこない。すぐには触れずに、孝一が快感に慣れてきた頃に宥めすかすようにそっと触れてくるのだ。  彼の右手が、割れていない腹筋を撫でる。左手は股下ぎりぎりを攻めて、主張し始めた中心の形を浮き上がらせるように寝巻きの布を寄らせた。一番気持ちの良い場所のすぐ近くを撫でられる焦れったさと、彼がその気になれば、高く声を上げて乱れてしまうだろう、緊張に震える。  彼の指先が乳輪のすぐ近くをくるんと撫でた。 (あ、すぐ、くる……っ) 「触るぞ」  低く掠れた声を左耳にねじ込まれて、思わず声を上げかけた。  リップ音すら立たなように柔く耳を喰まれて、喉が震える。掌全体で突起を中心に胸を撫でられて、快感より暖かさにこそばゆい気持ちになる。  突起の下を何度かなぞられて、中心が勃ってきたところで、そこを押しつぶされて、思わず「ん、ちが……っ」と声が漏れた。 「違う?」  愛撫の手を止めた正宗が、孝一を伺う。 「あ……」 「不満があるなら言えよ」 「ありません」  孝一は気まずさに目を泳がせた。  実は、孝一は土曜の夜の彼の触り方に、思うところがあるのだが、その内容はけっこうアレなことで、男のプライドが邪魔をして今まで言えないでいたのだ。それが今日になって、つい口に出てしまった。だって、土曜以外に彼に触れてもらえることは、最近ないのだ。百パーセントの快感を知っているのに、満足いかない行為ばかりなのだから、じれて口走ってしまうのは仕方ないじゃないか、と言い訳じみたことをと思う。しかし、その理由はやはり恥ずかしすぎて言いたくなかった。 「孝一」  逡巡していると、正宗に促されて、ぎくりと肩が跳ねる。  正宗との営みに不満があると思われるのも嫌だった。だって、絶対彼は悪くないし、自分は彼が大好きで、彼にされることは全部嬉しくて、不満があるなんて言ったら罰が当たるのに。  正宗は視線を泳がせる孝一に溜息を吐くと、不安に陰る彼の目を見て諭した。 「お前に物足りなさそうな顔されると不安になるし、できることはしてやりたいと思ってる。こういうのって、ひとりよがりじゃ駄目だろ? 俺は精一杯お前を愛したい。だから、教えて」  彼の髪を梳きながら、彼の言葉を待った。 「……その」  孝一は本当に言いたくなさそうに、目一杯眉を顰めて口を開いた。 「……もっと焦らして欲しい、というか……」 「は」  予想外の返答に正宗が絶句する。 「部長が、いつも言葉で苛めるから、だから、それがないと……」  孝一はこれでもかというほど顔を真っ赤に染めて、彼を睨んだ。  家に雪永がいる時、正宗は極力声を出さないようにした。だから、 「苛められ足りないの?」  わざわざ言葉にされて、孝一は唇を噛んで羞恥に耐える。 「じゃあ、苛められて喜ぶ孝一君を、じわじわ追い詰めて愛情いっぱいで可愛がってやるよ」 「……っ、部長、嫌い……」  早速言葉でも苛めてきた彼に素直に喜びたくなくて、涙の浮かんでしまった目で睨み続けた。  正宗はその瞳を受け止めて、にやりと笑い、孝一の胸の突起の回りを撫でる。すぐに孝一は、無理な体勢で睨んでいた目をそらして、快感に耐えるように睫毛を震わせた。  正宗は彼の胸の中心が尖ってきたところで 先端にそっと触れて指先で撫でる。彼が胸を反らしてきたので、不意をうって軽く爪でくすぐった。緩急をつけた攻めに、彼が股をすりあわせて快感をやり過ごそうとしているのを見つけて、その足の間に正宗自身の足をいれて開かせる。 「え、ちょ、ま、ちょっと」 「好きだろ、こういうの」  慌てる彼に囁いた。 「こえ、でちゃ」 「我慢して」  胸への愛撫が再開して、孝一は手で口を塞いで声を耐える。股をすりあわせてやり過ごしていた快感の行き場がなくなって、下半身を中心に全身が震えた。  ゆっくり指の力を強くしていった正宗は、孝一がトロトロになってきたところで彼がしっかり口を塞いでるのを確認して、もうそろそろ良いだろうと、ぐっと突起を押し潰す。 「~~っ!!」  孝一は不意の強い刺激に目を見開いて、大きく体を跳ねさせた。 (うそ、やだやだ、なにこれ、へん……っ)  頭がじんと痺れて、全身が疼き暴れるような快感に襲われる。射精とは全く違う爆発的な快感にすぅっと寒気が襲ってくる。自然に足が泳いだ。首を左右に振ってやめてくれと訴えるのに、それを無視して乳首をきゅっきゅと摘まれて、その度にビクンビクンと体が跳ねた。 (こえ、でる、やだ、やだ、やだ……っ!!)  苦し紛れに正宗の首に噛み付くと、やっと攻める手が止まった。 「……まさ、むね、さん……っ」  ずっ、と鼻を鳴らして彼を見上げる。 「孝一、こっち向いて。キスしよう」  促されて、彼に向かい合うようにあぐらをかく彼の膝に座った。  正宗は、孝一の小さな口に数回唇を押し当てて、とろけるように薄く開いたそこに舌を差し込む。舌を絡ませながら胸を愛撫すると、彼はキスの合間合間に「やだ……っ、やだ……っ」と切なげに繰り返した。  孝一は着々と募る快感に、もぞもぞ腰を動かして、ピクピク反応する股間を正宗のそこに擦りつける。正宗の張り詰めたそこがびくりと震えると、高めあっている感覚にゾクリと体の内側が熱くなった。 (も、また……っ) 「~~っ!!」  ぐに、ぐに、と突起を押し込むようにされて、口の中まで痺れるような快感に思わず正宗の舌を噛んだ。 「……って」 「……っ、ふ、ぇ」  正宗が口を抑えて呟くが、未知の感覚に戸惑うばかりの孝一は彼に構うこともできずに、ぼろぼろ泣きながら訴える。 「正宗さん、変。俺の体、変になった。イってないのにずっときもちいの、やだ、こわい」  体をこすりつけるように抱きついた。 「こわい、まさむねさん、全身むずむずする、やだ」 「声、我慢できるか?」 「できない、できない……っ!」  ふるふる首を振ると、顔を正宗の肩に押し付けられる。 「じゃあ、俺の肩噛んで」 「え、や」 「嫌だ」と言う間もなく、問答無用で取り出した股間を揉まれる。 「ん! ~~っ!!」  正宗のそれと一緒に擦られて冷や汗を伴うような快感に、彼の肩に思い切り歯を立てた。 「~~!! ~~!!」 「大丈夫、大丈夫」  正宗が宥めるように言い含めるが、孝一はもうその言葉を聞き入れる余裕もなく、必死で彼にしがみついて肩を噛んだ。正宗自身、「大丈夫」の言葉は彼よりも、彼を追い詰める自分の言い訳として口にしている感がある。  正宗は自分と彼の絶頂を促すように、裏筋をなぞって、カリの溝を引っ掻く。 「……っく」 「~~っ!!」  先走りを塗り込めるように先端を親指の腹で押すと、自分と、彼のそこからも、白濁が溢れ出た。 (やだ、やだ、とまんない、こわい、はげしい……っ)  一際大きな波と共に、ようやく訪れた射精の開放感に襲われた孝一は、壊れたように全身をがくがく震わせた。精液が尿道から溢れる感覚すら声を上げたいほどの快感になる。だから、白濁を搾り出すように痙攣するそこを容赦なく抜かれ続けられたら、もう、たまらなくなって、白目を剥いて意識を飛ばした。  目を覚ました孝一は、回らない頭で周囲を見廻し、自分の状況を把握した。  カーテンの隙間から光が差している。枕元の目覚まし時計をたぐり寄せれば、短い針は6と7の間を指している。まごうことなき朝だった。 「なに、あれ……」  あれから今まで意識が飛んでいたのかと、昨夜のことを思い出して震える。自身の体をぎゅっと抱き締めていると、隣で寝ていた正宗がもぞっと動いた。 「ん~……源氏、大丈夫か?」 「大丈夫なわけないっしょ。馬鹿か」 「俺が改造しちゃったからな。ごめんな」  孝一は、抱き寄せようとしてくる彼の手をベチンと叩く。ペチンではなく、ベチンだ。へらへら笑う顔が憎らしい。 「あんたのせいで、おかしくなったんだ」 (焦らして欲しいとか言っちゃうし、俺Mじゃないのに! 出さないでイっちゃうし、俺女じゃないのに!)  しかも、今までの百パーセントが、もう百パーセントじゃなくなってしまった。そんなのもう、一人になったら耐えられないじゃないか。 「責任とってもらいますから……っ!」 「俺も責任とってもらうから」  正宗は、切れ長の瞳をキッと釣り上げる孝一に、襟を伸ばして首と肩を見せた。  そこにくっきり残った歯型に、孝一はさっと顔を青くする。肩の方の痕なんかは、何重にもなって、かさぶたが出来ていた。 「逃がさねーよ」  正宗はショックを受ける孝一を今度こそ抱き込んで宣言する。孝一はその言葉に、「こっちの台詞っすわ」と返して自棄糞でぶつけるようなキスをした。正宗がひくっと目尻を動かし微かに眉を顰める。それを見て、昨夜その舌も噛んでいたことを思い出した孝一は、瞳で笑って、それを思い切り吸ってやった。





 

猟奇的彼氏

「どうした李都、強面がよりすごいことになってんぞ」  正宗は、鼻頭にぐっと力を入れてうんうん唸っている李都に声を掛けた。  二人が通う学習塾は、生徒のレベルによって上から順にABCDとクラスが分かれている。先週行われたテストで、正宗はBクラスから李都はCクラスから、それぞれAクラス入りを果たした。そして今日、李都はAクラスの担任に呼び出しをされていたので、進路関係で何かあったのだろうと正宗は見当をつける。 「志望校の話?」  訊かれて、李都は手にしていた白い封筒を正宗に見せた。 「俺、庭白勧められたんだけど、どうしたら良いだろうか」  正宗は目を見開いて、驚いた表情のまま言った。 「それ、俺に相談したらダメだったな」 「なんでだ!?」  驚く李都に、男も女も魅了する笑顔で答える。 「だって、俺お前と一緒に行きてーもん」  と。 「み、宮本……っ!」 「李都!」 「「うぉぉぉおおお!!」」  学習塾の廊下で繰り広げられる男同士の熱い友情劇。ちなみにこの二人、学生の中ではガタイの良い方であり、雄叫びをあげながら抱擁する彼らを (何あれ、あつぅい……)  と他生徒は遠巻きに見つめた。  そんな中、一人の男子生徒が二人に特攻を仕掛ける。 「いってぇ!」  正宗の肩を清々しいまでにバンッ! と叩いたその人畔戸琉惺(くろとりゅうせい)は、李都と身を縮めて肩を摩る正宗に、 「今日は小春日和ですな!」  と陽気に片手を上げた。  指定外セーターに、腰パン、ノーネクタイ。ボタンをしていないシャツから派手な柄のロックTシャツを覗かせた彼は、見た目はアレだが実はAクラスから落ちたことのない成績上位者だ。  畔戸はモスグリーンのタートルネックを着込む正宗の襟を引っ張った。 「これ暑くね?」 「失敗したな、とは思ってる」  正宗は彼の手を振り払うが、彼はめげずに「広げよう、広げよう!」と再び手を伸ばしてきた。 「馬鹿、やめろ!」  やめろと言われればたやりたくなる年頃である。畔戸は抵抗されて寧ろ面白いと思いながら、正宗の襟を広げ、そして目を見張った。 「なななな、なんだよこれ!?」  首にくっきり残った歯型を指して唾を飛ばされ、正宗は視線を泳がせる。 「あ! もしかして肩もか!!」 「ねぇよ! 肩にはねぇよ!」 「さっきの痛がりようはそうだろう! 見せねぇならあるとみなすぞ!」 「あー、もう! あるよ!」 「見せて!」  引くつもりの全くない彼に、正宗は「何だよ、もう……」とついに肩の傷まで覗かせた。 「う、うわ……!」  興奮した畔戸に襟を引っ張られて首が絞まるし、襟も伸びる。 「李都! 宮本のやつ首と肩にえげつない歯型付いてんだけど!」 「叫ぶなよ!」  正宗はついに黒い頭を殴って引き剥がした。  畔戸は「痛い」と言いつつ、しかしすぐに李都を見て吹き出す。 「お前は顔に似合わずウブだな!?」 「う、うるせぇ!」  声を上ずらせて叫ぶ彼は首まで真っ赤に染めていた。 「お前女に縁なさそうだもんな」 「こいつ彼女いるぞ。年下の可愛いの」 「まじか!?」  軽口を叩いた畔戸は正宗に否定されてぐぬぬと唸り、 「お前らに話したいことがある! 帰りにファミレス付き合ってもらうからな!」  びしっと二人に人差し指を向けて言い渡した。  塾最寄りのファミレスで、正宗と李都、向かいに畔戸という並びでボックス席に入った。  ちなみに正宗と李都は畔戸にドリンクバーを奢らせようとしたが、「この前英語教えただろ!? それでチャラだし!」と畔戸が抵抗したために割り勘である。 「で?」 「リア充爆発しろ」 「呪うだけなら帰るぞ」 「すみません、本題あります。行かないでください」  腰を上げた正宗に畔戸は深々と頭を下げて、やっとその本題に入った。 「最近彼女とうまくいってないんだよな」 「お前彼女居るんじゃねぇか、爆発発言取り消せよ」 「うまくいってねぇって言ってんだろ! そんな痕見せびらかしやがって!」 「無理やり見たんだろうが」  ぎゃーぎゃー騒ぐ彼を正宗は呆れつつ促す。 「で、なんでうまくいってねぇの」 「彼女が疑り症の束縛系なんだよ。ちょっと女友達と話してるだけで『浮気か』って。全然信用してくれねぇの。どう思う? ついこの前だって、Aクラスの子に古文の分からないところメールで訊いただけで『浮気か』って。勝手にメール見るとかありえなくね?」  畔戸はストローを弄りつつ一息で言い切った。頭の回転が速いと口の回りも早いのかもしれない。 「お前の彼女同級生?」 「いや、後輩」 「寂しいんじゃねぇの?」 「受験生が勉強優先するのは仕方ねぇじゃねぇか。お前らだってそうだろ」  ストローを噛んで反論する畔戸に、正宗は「こっちの話は置いておいて」と正面から右に、見えないボックスを移動させる動作をして続ける。 「彼女は、自分がお前に勉強教えるわけにはいかないから、同い年のその子に嫉妬してんだろ、て言ってんの」  畔戸はむぅと考える、が、やはり納得いかなかった。 「でも、メールを勝手に見たから嫉妬してんだろ? 見なきゃ良いじゃん。俺だって、あからさまに他の子と連絡とってるのを見せびらかしてるわけじゃないんだぜ?」 「まあ、それはその子が悪いかな」 「だろ!?」  同意を得られて身を乗り出す彼に正宗は肩をすくめる。 「いや、『だろ!?』って……。お前な、妥協しないと続かないぞ? 俺は妥協するところすらないけど」 「このタイミングで惚気るなよ、宮本この野郎」  畔戸はテーブルを叩いて講義して、もう一人の友人に話を向けた。 「李都は? 李都は彼女に浮気疑われたらどうすんの?」 「不安にさせて悪かったな、と思うけど」 「お前そんな殊勝なタマかよ!?」  畔戸の失礼な反応に李都はむっとして口を開こうとしたが、それより先に正宗が拳を握って反論した。 「馬鹿お前、李都は川島さん溺愛してんだよ。浮気を疑われてキレるような奴に川島さんは渡せん!」 「なんでお前がその川島さん? の保護者気取ってんだよ」 「川島さんはサッカー部の愛娘だからな」  畔戸に対する正宗の発言に、李都は「初耳だよ」とつっこんだ。 「そういえば李都は浮気を疑われたことはないけど疑ったことはあったな」 「ややこしくなる話は止めろ」 「え、何その話詳しく聞きたい」 「ほら、こいつが食いついただろ!?」  隣と前から詰め寄られて、正宗は眉を下げて頭を掻く。 「いや、悪い。別に面白くないぞ。疑うって程のことでもなく、身内で状況把握したし。彼女のほうも積極的に動いて誤解を晴らしたし」 「詳しく教えてくれねーの?」 「参考にはならないだろ」  深追いしても仕方なさそうな反応に、畔戸は「ちぇー」と口を尖らせ、話を戻した。 「宮本の彼女はそういうことねぇの?」 「疑われたことも無いし、疑ったこともねぇな。ラブラブだから」 「こいつにのろけ話させるなよ。全身痒くなるからな」  李都の言葉に「まじか」と思いつつ、畔戸は続ける。 「じゃあ、もしな。浮気を疑われたらどうする」 「別に? どうしても疑っちゃうくらい、俺のことが好きだってことだろ? 可愛いじゃん」 「あ、李都やばい。もう痒いわこれ」 「だから言っただろ」  わざとらしく後ろ首を掻く二人に「失礼だな」と正宗は苦笑いした。 「だいたい好きだから疑うって何だよ、好きなら信じろよ」 「どうでもよかったら疑いすらしないだろ。恋は盲目なの」  ぶうたれる畔戸に正宗がしれっと言う。シラフでそんなキザな台詞が言えるのかと畔戸は二の腕をさすった。 「李都どうしよう鳥肌立った」 「だから言っただろ」 「失礼だな!」  そっちが訊いたくせに! と荒ぶる正宗を後目に畔戸はコーラをごくごく喉に流し込んだ。ぷはっと景気よく息を吐いて言う。 「でもそういう捉え方もあるのか。じゃあ今度疑われたら甘やかす感じでいってみようかな。『誤魔化さないで』とか言われそうだけど」 「言い合いになるより良いだろ」  スッキリした表情の畔戸に正宗が言うと、彼はうんうんと頷いてにやりと笑う。 「ところで、お二人は夜の方はどうなの?」  話題の変換が早い。そして下世話だ。 「止めろよ、李都が固まってんじゃねぇか」 「お前はほんと顔に似合わずウブだなぁ」  本日二度目の畔戸の台詞に李都は「う、うるぜぇ!」と声を上ずらせた。そんな彼に「うるぜぇ」って、と畔戸はまた笑う。 「まあ、その感じじゃ李都はまだか。でも宮本の方はお盛んなんでしょ? その猟奇的な彼女と」  にやにや笑いながら煽られて、正宗は顔を顰めた。 「そういう話したくないんだけど」 「俺も聞きたくないんだけど」  畔戸は「またまたぁ」と軽口を叩くが、正宗と李都は本気である。 「いや、マジで。相手が可哀想だろ」 「俺知り合いだから気まずいし」  しかし、この畔戸琉惺という男。人を挑発するのは大得意、もっと言ってしまえば挑発するつもりがなくとも怒らせてしまう、言わば挑発の達人であった。 「そんなこと言って、テクないから言えないんじゃねぇのぉ? お相手満足してないんでしょ、可哀想~」  正宗にだってプライドがある。嘲笑と共にそんなことを言われて、つい口が滑ってしまった。 「お前な……。この痕見てんだろうが! 気持ち良すぎて耐えられなくて噛んできたんだからな!」  と。 ――バシャッ  次の瞬間、正宗は頭上から水をかけられて思考を停止した。  畔戸が「……は?」と声を漏らす。  おそらく、今状況を一番分かっているのは、正宗と向かいっていた畔戸だろう。畔戸は、正宗の後ろの席から身を乗り出したツンツン頭のイケメンが、彼にコップの水をぶっかけたのを見ていた。畔戸が言うのもなんだが、髪を綺麗にセットしてピアスを付けた彼は、品行方正な正宗とは縁がなさそうに見える。  彼は唖然と見上げる正宗と目が合うと、 「サイテー」  と一言ぶつけて席を立つ。慌てた正宗が「源氏!」と呼びかけて彼を追った。 「何あれ」と畔戸が、「え、何で源氏が!?」と李都が困惑していると、 「李都先輩!」  とお下げ頭の女の子が、さっきの彼のいた席から顔を出した。 「川島さん!?」 「俺も! 俺も居ます!」 「おう、何だ王司か」 「反応の差がえげつない」  女の子と一緒に出てきたイケメンというかハンサムは、李都の対応に咽び泣く仕草をした。  今まで呆けていた畔戸は「この子が川島さん!?」と思わず腰を浮かせる。 「可愛いじゃん! ずるい! 俺もこんな可愛い彼女欲しい!」  騒ぐ畔戸を「そんなだから浮気を疑われるんだろ」と李都が小突いた。 「源氏!」  正宗が彼を追って店を出ると、彼は店の前でタオルを持って待っていた。 「ごめんなさい」  正宗の頭にタオルを掛けながら謝る彼に、「……なんで?」と促す。 「俺、全部聞いてたんです。だから部長が本当は、あんな話するつもりじゃなかったって、分かってたんですけど、カッとなって」  孝一は赤くなった顔に手の甲を当てて語尾を震わせた。 「麻子さんも居たんです」 「あ、あー……。ごめん」  正宗は彼の背を押して歩き出した。仲の良い後輩の女の子にそんな話を聞かれたら嫌だよな、と彼を伺うと、ちょんと指を握られる。拗ねているが怒っているわけではないらしい。正宗はいじらしい彼の手を、指を絡めて握った。暗いし、別に誰も見てやしないだろう。 「お前ら何してたの?」  目尻を染めた彼に訊いた。  素直に甘えたくないのだろう、眉を顰めて俯く彼の顔を無理やり上げさせて苛めたい。畔戸や李都に、ノロケが痒いなどと言われたが、可愛いのだから仕方ないと思う。 「月曜日は麻子さんと王司と三人で、部活帰りにファミレスで話してるんです。三人とも相手が受験生だから」 「そうなんだ。じゃあ、塾帰りにファミレス寄ったらお前らに会えるのか」 「王司が一人で寂しがるっすね」 「山瀬も同じ塾なら良かったのにな」  歩いているうちに公園が見えると、孝一は正宗に肩をぶつけて、彼の腕を抱いて肩口に額を押し付けた。  正宗は、その猫が甘えるような仕草に微笑んで、「寄り道しよ」と手を引いた。 「濡れてるのに、風邪引きますよ」  誘ったのは彼の方なのに、そんなことを言う。 「少しだから」  正宗は遊具の影に連れ込んだ彼を抱きしめた。そうしてしまえば彼も正宗の背中に腕を回す。ジャンバーが少し邪魔だが、彼の体は正宗の腕にすっぽりはまった。  彼を抱きしめると、足りなかったものが満たされる気がして落ち着いた。自分の足がボールを蹴るためにあるのだとしたら、腕は彼を抱くためにあるんじゃないかと、そんなことを思う。 「冷たい」  髪に頬をすり寄せると、孝一が呟いた。抗議かと思ったが、覗いた眉が心なしか下がっているので、謝罪の意だと理解する。 「これ、俺が相手だってバレちゃいましたよね」  孝一は正宗の髪を梳きながら言った。  以前正宗に告白した女生徒に嫉妬して、自分が恋人だと知られるのが嫌なのかと、彼に詰め寄ったことがあるが、孝一だって無闇に関係を主張して危ない橋を渡るつもりはないのだ。 「俺、正宗さんの障害になりたくない」 「大丈夫だよ。考えすぎ」  正宗は孝一の頭を撫でて、 「お前が障害なら、しょうがいない(しょうがない)、なんちゃって」  とギャグを飛ばし、「寒っ」と震えられて苦笑いした。 「寒くて悪かったな」 「責任とって温めてください」  孝一は正宗の首に腕を回して、強い視線で見つめて言う。正宗はその挑発的な仕草に、ふっと笑った。 「何ですか」 「いや、」 ――こっちが食われそう、って思って。  囁きと共に唇を合わせる。瞳を光らせてにやりと歯を見せる正宗に、孝一はあるはずのない女の部分が刺激される気がして、 (どこがだよ)  と心中で唱えた。 ****** 「宮本ぉぉぉおお!!」 「うるさっ!」  翌日。正宗は畔戸の怒号に耳を塞いだ。 「彼女と別れた! てかあいつ浮気してやがった!」 「まじか」 「お前もあいつと別れただろ!? 水ぶっ掛けてくるような恋人と別れただろ!? 別れろ!!」 「はあ?」  浮気をする人ほど浮気を疑うなどという説があるが、彼の彼女はそうだったのだろう。浮気をされた彼には同情する。しかし、「別れろ」の言葉は聞き捨てならない。 「ざけんな絶許」  正宗は冷たい声で答えて、親指を下に向けた。





 

クリスマスは特別だから

 十二月に入ると、すぐに街中がクリスマス色に染まる。本番は一ヶ月近くも先だというのに、駅前も商店街も夜になると、白や青の光に包まれた。 「源氏はクリスマスどうするの?」  街が騒ぎ出して二週間。月曜恒例の部活終わりの集まりで、ドリンクバーから帰ってきた孝一に遊馬が訊いた。 「千尋さんが、25日は塾が休みなんだって」 「塾講師もクリスマスくらい休みたいよな」 「でも受験生に休みはないからって、多分会ってくれない」  しゅんと項垂れる遊馬の頭にへたれた耳の幻覚が見えた。 「追い込み時ですしね」  スイーツのページを真剣に見つめていた麻子が顔を上げて言う。ファミレスのメニューでも、クリスマス限定の商品が煌びやかに主張していた。  孝一は暖かいカップを引き寄せてふっと息を吐く。 「俺は何も言われてないけど……。授業も部活も普通にあるんだし、クリスマスって言っても平日だろ」 「もう、孝一先輩ロマンがないですよ! ちょっと表通り出ればイルミネーションだってあるし、クリスマス色に浮かれた商店街を歩くだけでも特別な気分を味わえるんですよ! お得です!」  拳を震わせて熱弁する麻子に、「ロマンとは」と二人は思うが、 「私は李都先輩と約束してますよ。李都先輩達の塾は休みじゃないけど、早い時間に終わるみたいです」  続けて嬉しそうに報告されれば、どうでも良くなった。 「じゃあプレゼントも渡せるな」 「はい! 孝一先輩のおかげでどうにか間に合いました」  彼女の手提げに入っている、今日完成したばかりのマフラーは、孝一が指導したものだ。  そう言えば、彼女に指導する間に、孝一の手元には自分には大きすぎるカーディガンが出来あがっていた。色合いも、自分よりきっと彼に似合う。 (クリスマス、ね……)  孝一は雪のように白い生クリームをかき混ぜて、黒い液体に溶かした。 ******  クリスマス当日。孝一は商店街の中心にある大きなツリーの下で、自然に弧を描く口元を大きなマフラーで隠していた。  あの後すぐに正宗にクリスマスに会おうと誘われた。26日からは冬休みに入る。正宗は冬期講習が始まるが、孝一の家から直接行くと言うからお泊まりコースだ。  なんだかんだと言って、孝一はこの日を楽しみにしていた。外でデートは久しぶりだし、特別な日だと思えば浮かれてしまう。彼が来たら何をしようか。麻子さんに教えてもらった店でケーキを買おうか、それとも遊馬が見つけた店でチキンを買おうか。考えると嬉しくて、何度も時計を確認した。  しかし、時間になっても彼は来なかった。 「授業、長引いてるのかな……」  人ごみから聞こえる楽しそうな笑い声。瞳に映る青や白のイルミネーション。  店から漏れる定番のクリスマスソングがまた一曲終わる。 「あ……」  背格好の似た人が来て、ふわっと心が浮いたが、人違いだった。孝一の前を通り過ぎたその人は、孝一より後からここに来た女性の肩に触れて、二人で歩き出す。  しゅんと気分が落ち込むと、遠くで手を振っている人が見えた。満面の笑みのハンサムだ。その隣には小さく手を振る千尋が居る。 (会えたのか)  孝一が手を振り返すと、二人は人ごみに消えていった。  それにしても、寒い。こんなに寒いのに、どうして皆平気で笑っていられるんだろう。アスファルトを睨み付けていると、舞い降りた白い雪がそこに染みを作っていった。 「畔戸!」  授業終わり。遊ぶぞと盛り上がる集団に、正宗は突撃した。 「なになに、お前もカラオケ来んの?」  そう返す畔戸に、正宗は右手を差し出して言う。 「ケータイ貸せ」 「何で」 「トイレに沈没して壊れた……」 「そりゃ災難だな」 「源氏との待ち合わせ時間もう過ぎてんだよ! 山先が張り切るから」  山先こと山崎先生は生徒想いの良い先生なのだが、よく熱が入りすぎて授業を延長させた。先日彼女に振られたばかりの畔戸は良いぞ良いぞもっとやれ、と思ったものだが、恋人持ちにはそれは迷惑だっただろう。それこそ「もっとやれ」というものなのだが。 「カラオケ来るなら貸してやるけど」 「行かねぇよ!? 源氏と約束してるって言ってんだろうが」  捲し立てる正宗に、畔戸は「へーへー」とおざなりに応えてケータイを貸した。 「あ、もしもし源氏――っ、ておい!」  恋人の番号なんて覚えてるもんなんだな、と思って正宗を眺めていた畔戸は、電話が繋がったところでケータイをひったくった。ちょっとした悪戯心である。 「あ、もしもし源氏君? 俺宮本の友達で畔戸っていうんだけど、今日宮本と約束してたんだって? ごめんね。今皆でカラオケ来ててさぁ」 「は? お前、何言ってんだ」 「大人数で騒いでてノリでいつの間にか、ってことあるじゃん?」 「おい、返せ!」  ケータイを奪おうとしてくる正宗をひょいひょい交わす。 「宮本って女子に人気だし、帰すと盛り下がるんだわ! だからそっちはドタキャンってことで!」 「畔戸!!」  何とか言い切ったところで、畔戸はついにケータイを奪われた。 「源氏!」  正宗が慌てて呼ぶと、彼はこの状況ではおかしいくらいに落ち着いた声で『はい』と答えた。もっと怒っていると思ったのに、拍子抜けする。 「授業が伸びただけで、カラオケとか行ってないからな。すぐそっち行くから」 『良いですよ。カラオケ行って』 「は?」 『塾の人達は行くんすよね? こっちはこっちで楽しくやるんで、もう来なくても良いですよ』 「は!? おい源氏!」  どういうことかと聞き返そうとしたが、もう通話が切れていた。もう一度かけ直すが、電波が届かない所にいるか、電源が入っていない――と無機質な声が返ってくるだけ。 「あれ、もしかして修羅場……?」  やっちゃった? と恐る恐る尋ねてきた畔戸に正宗は「覚えてろよ……」と言い捨てて、待ち合わせの場所に急ぐ。 「ちょ、俺のケータイ!」  畔戸の声が背中を追ってきたが、もちろんケータイは返さなかった。  うっすら雪化粧を施された学校は、少ない電灯に照らされて、校舎も地面もきらきら輝いている。敷地の奥にある部室棟の屋根の下で、作り終えた雪のオブジェを前に孝一は「うわぁ……」と引いた声を出した。  タライから上げた氷に石を打ちつけ、かき集めた雪をぎゅうぎゅう握って圧縮した。作業工程は殺伐としていたが、でき上がったそれは柄にもなく可愛らしいものになった。ハート型の氷の板の上に、器用に作られたライオンと猫が座っているオブジェは、なんというか――流石に自分でも引いた。 (俺、めっちゃ会いたいんじゃん)  知ってたけど……  ライオンは彼、猫は自分と、見る人が見ればすぐに結びつけるだろう。こんなふうになるなら、変な意地を張らずにあのまま彼を待っていれば良かったんだ。  でも、畔戸からの電話にとにかくモヤモヤして、イライラして、あの時はどうしても正宗に当たってしまった。自分ばっかり楽しみにしてるみたいで悔しくて、女の子に人気だから、とか言われて、俺のなのにって思った。どうせ俺のところに帰ってくるんだから、と思って放り投げたくなった。  でも、しばらく一人遊びをして満足したら、途端に寂しくなってしまった。  ケータイを取り出して電源を入れる。きっと連絡が来ていると思ったのだが、確認する前に着信が入った。  手に伝わる振動に驚いて、肩が跳ねる。 『源氏! 今どこにいる!』  慌ててでると、彼の必死な声が耳に届いた。 「雪、めっちゃ綺麗です。グラウンド、真っ白で、まだ誰の足跡も無くて」 『学校か!?』 「俺、雪の妖精になります」 『お前、元からフェアリーじゃん』 「雪にダイブして、両手スライドさせて雪の妖精作ります」 『は!?』  孝一は彼の声に答えずに通話をぶち切った。また変に弄れた対応をしてしまったけれど、まあ良い。 「正宗さん、早く来ないかなぁ」  だってきっと彼は慌てて来てくれるから。  オブジェに向かって呟くと、白い息が薄闇に消えていった。 「居っねぇし……!」  学校に駆け込んだ正宗は、校庭を見回してしゃがみこんだ。  畔戸の悪ふざけの後すぐに待ち合わせ場所に行ったが、既に彼は居なかった。彼の家にも人の気配はなく、相変わらず電話も繋がらない。どうしようもなくて、待ち合わせ場所に戻ってみれば、浮かれた空気に自分だけ取り残された気持ちになって、彼もそうだったのかと思うと逢いたくて仕方なくなった。何度も時計を確認して、電話も掛け直して、やっと繋がって。「雪にダイブする」なんて言われた時には心臓が止まるかと思った。  肌寒くなった頃から、彼は正宗の体温で暖を取るようになった。二人きりになると、すっと擦り寄って来て。彼の頬や首筋を幾分体温の高い正宗の手で触れると、ほわっと筋肉を緩めて目尻を染める。彼を構うようになったのだって、冷水にさらされた彼の手を温めてやったのが始まりで、だから――  そんなことをしたら、全身が凍えてしまうじゃないか、と。 「は~」  正宗は深く呼吸をして駆け出した。流石に彼は学校の敷地内にはいるだろう、とりあえず部室から見に行こう、と。 「源氏!」  サッカー部の部室前で、膝を抱えて座り込んでいる孝一を見つけた。  ぐるぐるに巻いたマフラーに顔を埋めて、膝に額を押し付けて俯いていた彼は、正宗の声で顔を上げる。 「妖精は?」 「雪が足りなかったので、妖精はやめて雪うさぎ作りました」  孝一は立ち上がると、駆け寄ってくる正宗に近づき、彼のコートを指先で摘んだ。  正宗は屋根の下に居なかった孝一を咎めながら彼の肩や頭に薄く積もった雪を落とした。孝一はそんな彼からぷいと目を逸らして、数体の雪うさぎと例のオブジェの置かれた地面に視線を落とす。 「大量だな」  雪のライオンと猫を見た正宗が孝一の肩を抱き寄せると、彼は正宗の肩に頭を預けて、はーっと赤くなった手に息を吹きかけた。 「手袋どうした」 「雪いじってたらびしょ濡れになりました」 「冷たいんだけど」 「はい」  氷かと思うくらいに温度がないその手を、走ってきたばかりで温まった正宗の手で包むと、孝一はふにゃっと目尻を緩めた。  正宗は彼の手に自分の手袋を被せると、彼の冷たい頬を両手で包んで「ばか」と罵る。彼は寒さで鼻も赤いし、耳も赤い。 「感覚無いっす」  敏感なはずの耳をぎゅっと握られて、孝一は首を傾げた。 「冷えすぎ」  そのまま体温を分け与えるように正宗が触れていると、しばらくして孝一は「ん」と声を漏らす。 「ふぁ……っ」  薄い唇から蕩けるような息が漏れ、柔らかい頬が桃色に色付く。切れ長の瞳がじんわり湿って、その瞳に見つめられた正宗は、衝動に任せて彼に口づけた。 「んっ、ん……っ!」  孝一は、柔らかくて暖かい唇と舌を受け入れる。同時に、耳の後ろをくすぐられて、戻ってきた感覚に震えた。冷たい耳を、熱い手が這う。軟骨の溝を親指で揉まれると、舌先までジンと痺れた。 「ひゃっ、んン!」  痺れる舌をじゅっと吸われて、腰から力が抜ける。耳から舌、舌から喉と、むず痒く疼いて鼻の付け根から眉間の上までぎゅっと苦しくなる。 「……っ、部長……」  油断したら、いろいろなものが溢れてしましそうだった。 「寒かった……っ」  寒かった。会いたかった。一緒に居て欲しかった。周りが皆羨ましかった。 「俺だって、部長が居たら、」 ――寒くなかったのに。  ぐっと顳かみに力を入れた孝一に、正宗は長いため息を吐く。 「帰ろう」  そう言われて、孝一の瞳から堪えていた涙が一粒溢れた。 「やだ」  鼻に掛かった声で言うと、正宗が大慌てで目元を拭ってくる。 「俺、部長と何もしてない。やだ」  もう涙は止まったが、声は震えて上ずった。  正宗は必死で、涙を堪える孝一を抱きしめて頭を撫でて涙の痕に口付ける。「ふぁ、ば……っ」と息を詰まらせながら彼が言うのを、馬鹿と言いたいのだろうと正宗は読み取った。  正宗の行動で、彼の瞳からまた涙が溢れ出した。切なげに眉を寄せる彼の頬を撫でて、瞼に口付ける。 「や、も……っ、くち、っん!」  ねだられるままに、口にキスをする。ゆっくり唇を押し当てると、彼の方から舌を差し出してきた。感触よりも、繋がる行為に心が震える。 「源氏さ、クリスマスっぽい料理作れる? お前の好きなこと取っちゃうことになるかもだけど、一緒に作りたいなって」  唇を離して乱れた息を整えてから、正宗が言った。 「俺とクリスマス、しよ?」 「しゃーないっすね」  孝一はスンと鼻を鳴らして口元を緩めた。  家に帰ると、まず風呂を沸かした。とりあえず冷え切った体を温めるために二人で入る。狭いけど密着すれば大丈夫。熱い湯に浸かると、じんわり手足の先が痺れた。 「どうしてこんなことしたんだ?」  正宗が孝一を背中から抱えて訊いた。 「……ムカついたから」  孝一はぼそっと呟く。 (俺も受験生だったら良かったのに……)  自分の知らない彼のテリトリーに入っている人、自分の知らない彼を知っている人が憎い。重いと言われても、彼を独り占めしたかった。自分が彼の一番でないと嫌だった。だから、電話の向こうの楽しげな笑い声、賑やかな空気に嫉妬して、嘘でもそちらを選ぶと言われてすごく悲しくて、彼が人気者だなんて分かっているのに、わざわざ自分の立場の危うさを突きつけるようなことを言われて、怖かった。けど…… 「もう良いの?」 「……あの電話、すごく嫌で、困らせてやろうと思って、逃げた。けど……、俺の方が、困った……」  正宗はとぎれとぎれに言葉を紡ぐ孝一の腹に腕を回して、ぎゅうっと抱き締める。 「寂しかったん?」 「……」 「心臓に悪いから、ああいうの止めて」  耳元で囁やくと、孝一の首筋が小さく震えた。正宗の中心が孝一のそれを下から押し上げるように首を擡げる。 「っ!? 部長、当たってますけど」 「我慢しろ」  孝一の胸に手を当てると、忙しない鼓動が伝わってくる。彼の背中に当てた正宗の胸の鼓動も、どくん、どくん、と煩く鳴った。  薄く浮き出た肋骨を指先でなぞると、薄い唇がふるふる震える。脇腹に触れると、ひくっと筋肉が動いて逃げた。孝一が身を捩るようにして膝を引き寄せ、反応し始めた自身を隠すと、正宗は彼の膝の間に手を回す。 「ひぁっ!?」  股の裏からそこに触れると、高い声が上がった。浴室に反響する声に、首筋まで赤く染めた孝一が慌てて自らの手で口を塞ぐ。正宗が三本の指で会陰を揉むように撫でると、口を塞ぐ指の合間から甘い吐息が漏れ出した。  息を詰める孝一の顎を掬って唇を寄せると、彼は口を引き結んで視線を逸らす。 「源氏? 嫌なのか?」 「嫌じゃないです、けど。……クリスマス……」  正宗は彼の顎から手を離して、ぽんとその頭を叩いた。 「……そうだな。クリスマスするよな」 「から、」  孝一は上半身を捻って、正宗の肩に手を添える。クリスマスはなんとなく特別な気がして、どうしてもそれらしいことがしたいと思うが、彼も欲しい。 「今は、触るだけで」  だから、そう言って精悍な顔の端にリップ音を鳴らすだけのキスをした。 「今は」じゃあ夜は? 「触るだけ」触るのは良いのか、触られたいのか?   彼の言葉と行動の一つ一つがいじらしくて、正宗は彼を再び抱き寄せる。 「俺、今日手加減できそうにないんだけど」 「いつもあれで手加減してたんすか」  正宗は口元をヒクつかせる孝一の頬を、言葉の綾だよ、と言って抓った。  豪華な料理がテーブルに並ぶ。  リースの形に盛ったサラダに、クラムチャウダー、ローストビーフ。七面鳥は流石に無いが、鶏肉に野菜やお米を詰めて焼いてもみたし、ノンアルコールのシャンパンもある。部屋の明かりを豆電球だけにすれば、雰囲気は倍増した。 「今日幸永さんは?」 「深夜帰り」 「まじか。クリスマスなのにな」 「年末進行だって」  二人で作った料理を二人で食べて、二人で片付ける。 「正宗さん、独り占めだ」  同じ布団に入った孝一が言うと、息を詰めた正宗が咄嗟にその口を塞いだ。 「煽んな」 「どうしてですか?」  手を剥がした孝一が言う。 「めちゃくちゃにされたいから煽ってるのに」  その言葉にかっと目の色を変えた正宗が彼を組み敷いた。 ******  翌日。登塾した正宗に畔戸が駆け寄った。 「宮本! あの後どうだったんだよ?」 「すっげー大変だった。あいつ行方くらますし。でもまあ、最終的には……いや、もう凄かった……」  気にして訊くと、彼はにやける口元を隠しながら言う。その反応に、一応昨日の電話の件を反省してもなくもなかった畔戸は安心して腹を立てた。 「思い出し笑いとか変態じゃん! スケベ! リア充! ケータイ返せ!」 「このカーディガンプレゼントされたんだけど、手作りなんだ」 「なんだよ、クリスマス直前に振られた俺への当てつけか!? てゆうか、すげぇなあいつ」 「直前? 浮気の子は直前って程じゃなかったよな」  正宗の質問に、畔戸は「はっ」と笑って髪をかきあげる。 「その後また彼女できたの。俺ってばモテるからさぁ。……まあ、今回は他に好きな奴ができたって言われて別れたんだけど……」  しかし得意げな瞳はすぐに陰った。 「お前の彼女なんでそんな風船みたいなやつばっかりなんだよ」 「風船を繋ぎ留めたいと思ってしまう狩猟本能が……!」 「自業自得じゃねぇか」  正宗は自身の体を抱いて苦悩のポーズをとる畔戸の額をがっと掴んだ。





 

遠距離なんて

 デパートでは年末セールが始まり、世間は一気にお正月ムードになった。孝一たち行きつけのファミレスのデザートメニューも苺やクリーム中心のものから抹茶や餡子中心のものに変わり、年明けはここに栗きんとんが仲間入りするらしい。 「えへへ、クリスマス会えたんだよ~! 会ってくれないとか俺が勝手に思ってただけで、向こうは一緒に過ごす気でいてくれたみたいで~、お願いしたら逆に怒られちゃった~」  クリスマスが開けて一番の集まりで、遊馬は普段からふにゃんと緩んでいる口元を一層緩めてデレデレと口を開いた。 「ハンサム崩れてんぞ」と孝一が指摘すると「え~?」と頬を抑えるが、笑みは消えない。 「孝一先輩はどうだったんですか?」 「俺は二人で豪華ディナー作って食って寝た」  麻子の質問に完結に答える孝一を、麻子と遊馬がニヤニヤ笑う。そんな二人に孝一は「なん?」と眉を寄せた。 「いやぁ、幸せそうな顔してるもんだから、そんな簡単に言っても、思うところがあるんだろうなぁ、と」  意地悪く笑う遊馬に、孝一は唇を尖らせる。 「別に何もねぇよ」 「宮本先輩と一緒なら何しても幸せってこと~?」 「そんなんと違くて! 特別何をしなくてもクリスマスって日付に踊らされて浮かれられるってこと。ほんとお手軽」 「それは宮本先輩と孝一先輩二人共の話ですか?」  遊馬に煽られて、目を眇めて嘲笑気味に語っていた孝一は、麻子の問いかけに言葉を詰まらせる。実際、浮かれていたのは彼より自分だ。 「……知らない」  しかしそんなことは口にしたくないので、そう吐き捨てた。 「まあ、そういうことにしといてあげるよ」  遊馬が切り上げると、孝一は「上から目線がムカつく」と言ってぷいと横を向き、小さくくしゃみをした。 「風邪ですか?」 「いや、べつに。誰か噂でもしてるんじゃないの」  心配する麻子に孝一はそう返す。「宮本先輩かな」と呟いた遊馬は、横目で睨んで黙らせた。 「はぁ……、川島さんはどうだったの?」 「イルミネーションを見に行ったんですよ! とっても綺麗で、そこで李都先輩がすごく改まって話しかけて来てですね」  深く息を吐いて孝一が麻子に話を向けると、麻子はぱっと顔を輝かせて楽しげに話し出す。 「庭白に行きたいと言われました」  しかし、続いて出てきた言葉に、孝一と遊馬はそろって「はあ!?」と声を上げた。そんな話は孝一だって初耳だった。 「それで!?」  乗り出す遊馬に麻子はキョトンと目を瞬く。 「それでも何も、励まして応援しましたけど」 「でも遠距離恋愛だよ、引き止めたりしなかったの?」  更に聞かれて首を傾げた。 「だって進路ですよ? 李都先輩が決めたことに口出せないじゃないですか。私が反対したからって鬼百合に行くのは違うし、部活とか将来のこととか考えたら庭白の方が良いですもん」 「そりゃそうだけど……」  釈然としない遊馬はそう言葉を濁らせた。 「――くしっ!」  何とも言えない空気に抑えたくしゃみの音が響く。この日は麻子が孝一を気遣う形で解散した。  受験を間近に控えたAクラスだが、実はそれほどピリピリしていない。授業を真面目に聞き、積極的に質問をし、休み時間は適度にふざける。オンとオフがはっきりしている生徒が多いのだ。もちろん休み時間に授業の予習や復習をする生徒もいるが、それも友人と顔を突き合わせて互いに教え合い切磋琢磨する、休み時間特有の時間の使い方をしていた。  しかしそんな和気藹々とした空気の中、一人もんもんと不機嫌を垂れ流す男が居た。 「李都」  貧乏ゆすりと溜息を繰り返す彼の肩を、骨ばった大きな手が叩いた。聞き慣れた声に李都が顔を上げると、予想通り長めの髪をゴムで括った色男が目に入る。 「何だよ宮本」 「何だよ、じゃねぇよ。これみよがしに溜息なんか吐いて」 「これみよがしってことはないだろ」  李都は言ったそばから溜息を吐きそうになり、慌てて口を塞いでバツ悪く眉を寄せた。 「……やっぱり庭白に行こうかと思って。クリスマスに川島さんに言ったんだよ」  観念してそう零すと、「お前は馬鹿か」と横から声が掛かる。 「うわ、出た」 「どこから沸いた」  話に割り込んだ畔戸に、二人は顔を顰めた。 「なんでクリスマスにそんな話をするんだよ、幸せな気持ちで過ごさせてやれよ。数日前に進路の話をしておいて、彼女が落ち込んでるところでクリスマスに凝った演出して感動させるのが、雨降って地を固まらせるテクニックだろうが」  明らかに歓迎されていないのにスカした態度で居座り、あまつさえ周囲にそれを受け入れさせてしまうのは畔戸のキャラクターの成せる技だろう。  肩を竦めて話を続けた畔戸に、正宗は呆れ顔で「クリスマス前にフラれた御人に言われても」と返した。 「あれは彼女が悪いんだよ!」 「そういうことにしといてやろう」 「というか俺が気にしてるの、逆」  畔戸と正宗の言い合いを、李都の神妙な声が遮った。 「庭白に行きたいって言ったら笑顔で応援されたんだけど、釈然としなくてな。俺は喧嘩覚悟だったのに……」 「雨すら降らなかったってことか」 「宮本は知ってるだろうけど、俺から告白して付き合うことになったじゃないか。でも川島さんの態度って、良い後輩の時から変わってねぇんだよ。このままじゃ友達から先輩後輩、そのうち知り合い程度の関係になっちまうんじゃないかって思ってさ」 「李都のくせに繊細だな」 「うるせぇ、薄々そういう反応される気はしてたよ」  李都は畔戸の言葉に納得しつつも、彼の腹を結構な力で小突いた。その様子を見て正宗は「俺はお前の気持ち分かるぞ」と李都に同意する。遠距離恋愛をあっさり受け入れられて寂しく思うのは、少し前に正宗も通った道だった。 「そういうのは一人で考えていても仕方がないから、話し合うのが良いと思うんだけど」 「でもこれ、ただ俺が女々しいだけの話だからな。面倒くさがられて終わりゃしないかと」  唸るように言う李都に、正宗は良い返しが思いつかなかった。  好きな人には強がりたい、弱いところを見せたくないと思うものだ。正宗は孝一の弱い部分を全て受け止めてやりたいと思うが、自分が弱音を吐いた時に彼がどう思うかは分からない。不抜けたことを言って呆れられる可能性を考えれば、小さなことは言いたくなかった。まして自分たちは男同士だが麻子は女だ。彼女が守られるタイプだとは思わないが、その分、男の弱音を女々しいと感じるかもしれない。  正宗は考えた末に、「あー……」と声だけで返してその場を濁した。 ****** 『ちょっとそれ、李都先輩が自分勝手なんじゃないっすか? 置いて行くのはそっちなのに、勝手に不安がってるとか』  夜、麻子の様子を聞こうと思った正宗が孝一に電話をすると、塾での話を聞いた彼は、突き放すようにそう言った。その言葉に、正宗の胸がズキリと痛む。 「不安になるのは仕方ないだろ。そりゃ置いて行かれる方は寂しかもしれないけど、会えないのはこっちも一緒なんだから。それに不安だって言ってそっちを困らせてるわけでもない」 『そういうふうに、他所でうじうじしてるのが鬱陶しいって言ってんですよ』 「本人に言ってるわけじゃないんだから良いだろ。誰にも相談すらしたらいけないって言うのかよ」  正宗自身が責められているようだった。弱い部分を見せたくないと思いつつも、受け入れて欲しいと思っていた。でも、彼は認めてくれないらしい。  はぁ……、と受話器の向こうで溜息が聞こえた。 『そんなことしてる間にすることがあるだろって言ってるんです。麻子さんも、強がってないで態度に出せば良いんだ』 「うじうじするなとか、強がるなとか、結局どっちなんだよ」 『どっちとかじゃないんですよ。どっちも悪いことしてないし悪いことが起きたわけでもないのに、もだもだしててイラつくんです』  ままならない気持ちを持て余しているのだろう、孝一の声は震えていた。正宗の荒んだ気持ちがすっと凪いでいく。使う言葉が強いために勘違いしそうになるが、彼の本心はいつだって優しい。 「お前は、不安になったりしないの?」 『……っ、俺だって不安になりましたよ。主にあんたの失言のせいで勘違いして。でもそのおかげで開き直れました。何があってもしがみつくってあんたにぶつけましたよね? この場面で掘り返すとか、意味解んない……』  不安定に揺れる声に、正宗は「ごめん」と謝った。 「俺らが喧嘩する意味ないな」 『……』 「明日お前んち行くから」  返事の無い彼に続ける。今すぐ顔が見たかった。話の続きは会って話せば良い。「来なくていい」と言葉の刺を抜かない彼に「来て欲しいってことだな」と返して笑った。 「李都が落ち込んでたかと思ったら、今度はお前がイラついてんのかよ」  せわしなく指先で机を叩いていた正宗は、声を掛けてきた畔戸に「ああ?」と視線を返した。 「柄が悪いな」  茶化されて小さく笑う。  畔戸はお調子者だが、気が立っている友人に声を掛けるような面倒見の良さを待っている。空気が読めないために神経を逆なですることもあるのが難点だが、都合の良い時に楽しいことだけ共有するタイプの人間より、気持ちが良い。こういう時に、正宗は彼を「知り合い」ではなく「友人」だと思うのだ。 「機嫌が悪いのは俺じゃなくて源氏の方。俺は早く帰りたいだけ」 「あいつ気強そうだよな。一目しか見てねぇけど」 「あの節もその節もどうも」  畔戸のせいで起きたいざこざを匂わせて言うと、彼は「いや~」と頭を掻いた。 「で、また何かあったのかよ? 俺は何もしてないわよ?」 「そんなんじゃない」  今回はべつに喧嘩じゃない。ただ、彼はずっと不安だったんだろうな、と。  彼の言葉はいつも素直じゃない。強がって、気持ちを押し殺す。だから全身で可愛がって、甘やかさないと、本音が聞けない。言葉だけじゃない。声だけじゃない。小さな息遣いに、表情、体の小さな反応まで全部拾って、彼の想いを受け取りたい。  そんなことを考えて、はっとする。 「どうした」 「いや、庭白に行ったら、すぐに会いに行くこともできなくなるのかと思って……」  訝しげに窺う畔戸に、正宗はぽつんと漏らした。





 

弱音

 幸永を見送った孝一は、自室のベッドに座り込んだ。なんだか頭がぼうっとして、体に力が入らない。  少し前からおかしかった。クリスマス翌日の朝に喉の調子が悪くなり、それが良くなったと思えば鼻にきて、鼻呼吸ができなくなるとまた喉が痛くなった。鼻を何度も噛むうちに頭まで痛くなってきて、正宗から電話があったのはそんな時だった。  いつものように頭が回らず、考えるより先に言葉が出ていた。話の内容はよく覚えていないが、会話の雰囲気と、話している時の気持ちはなんとなく覚えている。  確か自分はイライラしていて、彼もイライラしていた。自分の語気が荒くなると彼も荒くなった。言い争うような感じになって、そのうち彼の言葉から力が抜けて、その後はろくな話もしないで通話を切られた気がする。  あれは何だったのだろう。今はどういう状況なのだろう。胸が騒いで気持ちが悪かった。  ~♪  着信音に目を覚ますと、体が冷え切っていた。掛け布団の上に倒れたまま寝落ちてしまっていたようだ。なんとか通話ボタンを押すと、ふにゃふにゃした声が耳に届く。 『もしもし源氏?』 「……うん」 『部活始まってるけど、何かあった?』 「……ううん」  口を動かすのも億劫で、唸るような声で返事をする。 『もしかして動けない?』 「……うん?」 『誰もいないの?』 「……まさむねさん」 『宮本先輩が居るの?』 「来てくれる……」 『そっか、分かった。お大事にね』 「ん……」  それを最後に通話が切れる。まぶたを開けているのも辛くて、目を瞑るとすぐに意識が沈んでいった。 ――なんだろう、暖かい……  汗に湿った肌を、硬い掌が撫でる感触に、孝一は再び目を覚ました。 「悪い、起こしたか」  覗き込んでいた正宗が眉を下げる。彼がしてくれたのだろう、孝一は下に敷いていたはずの布団をしっかり掛けて、額には冷えピタが貼られていた。 「……なんで?」 「来るって言っただろ」  起き上がろうとして制される。その優しい手つきに不安が溶けていく気がした。 「食欲あるか?」  聞かれて孝一は頭を振る。胃は空っぽで、喉もからからなのに何も口に含みたくなかった。怠けたがる体をなんとか動かして、布団から手を出し、彼に伸ばす。すぐにぎゅっと両手で握られてほっと息を吐いた。 「……お腹痛い」  訴えれば、片方の手で布団の上から摩ってくれる。 「頭も痛い……っ」  続けて言えば、冷えピタの上から撫でられた。 「薬飲む前に何か食べないと。インスタントのお粥があるけど、食べられるか?」  答えられずにじっと見つめる孝一に、彼は「持ってくる」と言って部屋を出て行く。  お盆に、深めの皿に盛り付けた粥と蓮華、水と薬を乗せて戻った正宗は、身を起こした孝一の背中を支えて、冷ました粥を彼の口に運んだ。 「ゆっくりで良いから」  少量を口に含んだ孝一は小さく顎を動かして咀嚼する。雛鳥のように身を委ねる彼の姿に、正宗は庇護欲を刺激させられ、胸がきゅぅっと鳴るのを感じた。  孝一がもういらないと首を振ると、薬を飲ませる。錠剤を口に入れると、指先に彼の唇の粘膜が触れて、生々しい感触にどきりとした。 「まさむねさん……?」  くったり力の入らない彼の、濡れた瞳に見つめられて息を飲む。誘われるように薄い唇に顔を寄せると、「いや」と掌で制された。 「うつるから……」  目を伏せた彼のまつげが震える。 「何かあったら呼べよ」  正宗は頭を振って煩悩を振り払い、部屋を出た。 「はぁぁあああ……」  扉の前で座り込む。時刻は午後二時を回ったばかりで、まだ日は高い。この時間、塾に居る筈の正宗がここにいるのは遊馬から連絡があったからだった。  慌てて合鍵を使って孝一の家に上がれば、彼は布団も掛けずに倒れていて、肝が冷えた。その上「まさむねさん……」なんてうわ言のように呼ばれて、胸が苦しくて。苦しげな姿が色っぽいだなんて酷いことを考えてしまい頭を抱えた。 「誘惑が多い……!」  両手で顔を覆って呟いた正宗は、そのまま頬をパンと叩いて立ち上がる。勝手に麦茶を貰って寛いでいることにした。  正宗が部屋を出て行いくとすぐに、孝一は布団に潜って眠ろうとした。しかし、すこし体調が回復したからか、今朝のように気を失うような眠りに付くことは叶わなくて、意識が遠くなると謂れのない心細さに押しつぶされそうになった。  彼はもう帰ってしまったのか、物音一つ聞こえない。誰も居ないのだと思うと怖かった。静かな場所は嫌いだ。自分の罪を突きつけられた気持ちになる。  孝一は縋るようにケータイに手を伸ばした。 『もしもし』  すぐに聞こえてきた声に小さく息を吐く。 「……まさむねさん、帰っちゃったんですか……?」 『居るよ』  言葉と共に部屋のドアがノックされた。 『勉強してただけ』 「そっか……」  すぐそこに彼がいると分かると、すごく安心した。 『そっち行こうか?』 「……いらない。でも一人で寝るの、嫌なんです」 『じゃあ子守唄でも歌おうか』  孝一は電話にも関わらず無言で頷く。伝わるはずがないのに、それでも正宗は歌いだした。彼の声を聞きながら丸くなると、孝一はケータイを握り締めたまま、いつしか意識を手放していた。  孝一が目を覚ますと、外はもう真っ暗だった。起き上がっても少しぼうっとする程度まで体は回復している。 「お腹すいた」  喉も乾いた。  布団から抜け出して部屋を出ると、リビングのソファに、正宗が座っていた。 「部長、まだ居たんですか?」  声をかけると立ち上がって近づいて来た彼に額を小突かれる。「痛い」とぼやくと掌を額に当てられた。 「随分熱が下がったな」 「もう調子良いです」  ソファに座らされて体温計を渡される。 「部長、怒ってない?」  孝一は台所に向かった正宗に聞いた。 「怒ってるように見えるかよ」  すぐに戻ってきた彼は「幸永さんが作ったやつだけど」と言って孝一の前に粥の椀を置いた。 「父さん帰ってるんだ」 「今お風呂」 「部長は、塾休んだんですか」 「どうせ早くお前に会わなくちゃと思って、集中できてなかったから良いんだよ。明日はお前が大丈夫そうならここから行くし」  正宗は手を合わせてお粥を食べ始めた孝一の頭を、邪魔にならないようにそっと撫でた。孝一はその感触に、嬉しいのに切なくなる。 「部長、変なこと言っても良いっすか」 「なに」 「……さみしい」  今日、彼は会いに来てくれた。昨日みたいに、俺が訳わからなくなったら、来てくれる。俺の言葉が足りなかったら、会いに来てくれる。でも、遠距離になったら、そんな風にできない。 「開き直ればって思ったのに、怖いんです」  追いかけるから、彼に呆れられても諦めないから、と思ったけれど、実際に彼が離れていってしまったら、死ぬほど寂しいし悲しいに違いない。 「俺のこと、捨てないで……っ」  正宗は小さく震える孝一の肩を抱き寄せた。 「どうしてそんな思考になるんだよ」 「だって、電話じゃ伝わらないから会いに来てくれたんでしょう……?」 「会いたいから会いに来たんだよ」  消え入るような声で窺う孝一の肩を撫でて宥める。 「お前が好きだから会いたくなるんだ。会えなくなったら、きっともっと会いたくなる。好きだから、会えるまでずっと会いたいって思ってる。捨てようなんて思うわけないだろ」  孝一も彼にぴったりくっつくように身を寄せる。熱が引いたからか、何となく昨晩の会話を思い出すことができた。 「……あの電話、部長のことを言っているみたいだった」 「幻滅したか?」  孝一は小さく自嘲する彼に慌てて首を振る。 「部長が不安に思ってたなら、直接言って欲しかった。俺ばっかりじゃ、嫌だ」  そう言うと、彼は瞬きを一つしてふわりと笑った。 「分かった。これからはちゃんと言うな」  こくりと頷くと、精悍な顔が近づいてくる。孝一はそれを避けて体温計の数字を見せた。 「まだ微熱あります」 「だめ?」 「だ、だめです……」  孝一は顔を伏せて身を縮める。彼の体調を思って我慢しているのに、そんな聞き方はずるい。 「ごめんごめん。しないから、ちゃんと食べな」  諦めて促した正宗は、目元を中心に顔を赤く染めた孝一に「……いじわる」と、平常時には言わないだろう優しい語彙の罵りをもらい、ぴきりと固まった。 ******  孝一の風邪が全回復してから、正宗に直接会うことができたのは、年が開けた一月一日の午前だった。二人は地元の学問の神様が祀られる神社に初詣にやってきた。  鳥居の外まで続く列に並び、賽銭を投げ入れる。 (正宗さんとずっと一緒に居られますように)  願い終えて列から外れると、「随分真剣だったな」と正宗が窺ってきた。 「部長が不幸になるように祈りました」  無表情で答える孝一に彼はからっと笑う。 「それ、多分俺幸せになるやつ」 「部長は?」 「多分お前と一緒」 「それじゃあ、わざわざ学問の神様にお願いする意味無いじゃないっすか」  正宗の答えを孝一は鼻で笑った。しかしその目尻が嬉しそうに染まっているのを見て、正宗は目を細める。志望校合格は絵馬でお願いすることにして絵馬掛所に向かうと、同じく絵馬を掛けに来た李都と麻子に出くわした。 「なんだ、随分仲良さげじゃないっすか」  孝一が言うと、「はい!」と麻子の明るい返事が帰ってきた。 「既成事実作りましたからね!」  嬉しそうに報告する彼女に李都が慌てる。 「既成事実とか、ちがっ! キスまでだからな!」 「へー、キスしたんすか」 「へー、キスしたのか」 「あぁぁあああ!!」  自ら墓穴を掘って頭を抱える彼を、孝一と正宗がにやにや笑う。彼女に恋人らしい態度を取ってもらえないという彼の悩みは失くなったようだ。 「ねえ、部長」  孝一は家に帰ると、連れ込んだ正宗に腕を絡めた。 「俺もう風邪治ったんですよ」 「? そうだな」  分かっていない彼の首に腕を回して上目遣いで首を傾げる。 「風邪、治ったんですよ?」  見つめればやっと意図を理解した彼の、瞳の奥がぎらりと光った。唇を重ねると、お互い何度もお預けをくらった最愛の味に酔いしれる。 「ほんとお前、そういうのどこで覚えてくるんだよ……」 「内緒です」  悪戯が成功した子供のように、くすっと笑う孝一を、正宗はぎゅうっと抱き締めた。 「やばい、可愛い。これ俺のなんだぜ……?」 「誰に言ってんすか」  言葉ではあしらいながらも、孝一も彼の肩に手を添える。  たった数日でも、会いたいを重ねる時間は切なかった。でもその分、触れればこんなにも満たされる。孝一は添えていた手を彼の肩甲骨までしっかり回して抱きついた。





 

サプライズ不参加

 一月二八日は孝一の誕生日である。そのことを孝一は当日の朝、幸永に言われるまで忘れていた。それというのも、御馳走やケーキを目当てに誕生日までの日にちを指折り数える弟が居ないからだろう。学校でも、だれも自分の誕生日を気にしている素振りは見せなかった。サッカー部では部員の誕生日を毎回祝っているが、自分は選手ではないから対象外だろうし、そもそも孝一自身忘れていた行事を他の人が覚えているとは思えない。 「源氏! あと五分、あと五分待って!」 「お前、うまく隠そうっていう気が一切ないよな……」  しかし放課後部室前で遊馬に出迎えられて、祝ってもらえるのか、と納得した。が、彼の隣で佇む李都の存在は予想外だ。それは李都も同じだったのか、つっこみという小言を零した彼は、孝一を見て首を傾げた。  孝一は李都が自分を祝うためにわざわざ来てくれたのかとも考えた。でも彼はなぜここに孝一が居るのか分かっていないようで…… 「じゃあ、二人ともドアを開けてください」  脳裏に浮かんだ可能性にまさかと思い、二人は慌ててドアノブ引いた。 「李都、源氏、誕生日おめでとう!!」 「「はぁぁあああ!?」」  予感的中。部員に一斉に祝われた二人は、お互いを指さして叫び声をあげた。 「げーんーじー」  正宗は、顰め面でケーキを食べる孝一の腕をつんつん突いた。 「ケーキ美味いか?」  孝一は顰め面のまま頷く。 「まだ機嫌治らないか?」 「……べつに」 「ごめんって。みんな準備に夢中でお前らにお互いのことを知らせるのをすっかり忘れてたんだよ」  孝一は正宗の言葉に一層眉に力を込めて、ぬぅっと唸る。  皆が祝ってくれるのは嬉しいし、麻子が一生懸命作ってくれたケーキは味わって食べたい。けれど、李都の誕生日を自分だけ知らずに何の準備もできなかったことが悔しくて、手放しに喜べないことがさらに悔しかった。 「俺だけプレゼントも用意してないし……」  ぼやく孝一に、根岸がひょこひょこ近づいてきた。弧を描く細い釣り目をのっぺり顔に張り付けた彼は、いつも飄々として楽しそうに見える。 「じゃあ李都と二人で買いに行けば良いじゃん。どうせ李都も用意してないんだろ?」  そんな彼の発言に、李都と正宗は「「え」」と声を上げ、 「李都先輩良いんですか!?」  瞳をきらきら輝かせる孝一に李都は再び「え」と間抜けな声を上げ、正宗は「は?」と低い声を発する。 「今源氏の機嫌を直せるのは宮本じゃなくて李都だったってことだな!」 「黙ろうか根岸」  ぴきりと緊張した空気にさらに爆弾を投下する根岸を、野島が慌てて口を塞いで黙らせた。 ****** 「日曜日、本当に李都と出掛けるつもりかよ」 「そうっすね」 「せっかく俺と休みが合うのに」  夜、孝一の家に上がりこんだ正宗は、孝一と並んで彼のベッドに寄りかかり、拗ねた声で言った。  正宗と李都は同じ塾の同じクラスに通い同じカリキュラムを受けている。だから孝一と李都の予定の合う日イコール正宗と孝一の予定の合う日なのだ。つまり正宗は孝一とのデートを一回逃すことになる。 「李都先輩と休みが合うのも日曜ぐらいなんで」 「あっそ」  正宗の棘のある態度に、孝一は膝を抱えて目を伏せた。  正宗とのデートは自分だって楽しみにしていたし、それがなくなるのは正宗にも悪いと思う。でも、李都の誕生日は年に一回しかないのだ。今日自分だけが彼を祝えなかった悔しさを、二人で出掛ける楽しみに変換することがそんなに悪いのだろうか。イラついている正宗にイラついてしまう自分が嫌だった。 (せっかく誕生日に泊まりに来てくれたのに、こんなにギスギスするなんて……)  ぎゅっと拳を握ると、すぐ隣で正宗のため息が聞こえた。身を縮めると、緊張した手の甲を彼の掌に包まれる。驚いて顔を上げると、熱の籠った瞳と至近距離で視線が交差する。思わず逃げようとすると、取られた手の指を絡めて捕まえられた。  大きくて固い手に包まれて、鼓動が高鳴る。 「……触って、良いですか?」  掠れた声で懇願すると、すぐに手を引かれて抱きしめられた。  しかし孝一は、そうじゃないと首を振る。 「違くって、今日は俺が触るから、部長は動かないでほしい……」  正宗の腕の力が緩むと、孝一はその胸に頬を擦り付け、次いで肩口に鼻を埋めて息を吸う。  「はぁ……気持ちいい」  逞しい背中に腕を回して、肩甲骨を撫でながら熱い息を吐いた。  大好きな人の均一のとれた体は綺麗で格好良くて興奮する。そんな体に無遠慮に触れられることが嬉しくて、彼の匂いと体温に包まれて安心した。  正宗は体を弄られるこそばゆさに身を縮め、触りながら「気持ちいい」などと口走る孝一の淫らさに拳を握った。  孝一は、正宗の背筋を撫でながら頭を下げて、シャツの上から彼の胸を舐める。 「ちょ、おい! 源氏!?」  ぞわぞわっと正宗の上半身に震えが走った。  孝一は構わず彼の乳首を探しだし、軽く吸って甘噛みする。正宗は彼が動くたびに「……っ」と息を詰めた。 「部長のここ、小さくてこりこりして、可愛いっす」 「~~っ、お前な……っ」 「いつも部長がこうやって俺のこと苛めてるんですよ?」  孝一は、脇腹を指先で、腹筋を掌で撫でるように上から下へと手を這わせる。胸を攻めるとき、指で腹を擦るとき、ぴくっとそこが痙攣するのが面白い。 「擽ったいですか? それとも気持ち良いですか?」  意地の悪い笑みを浮かべた孝一に尋ねられて、正宗はぐっと息を飲む。  太ももを撫でた彼に「あ、すごい……、固い」と蕩けた瞳を向けられて、熱い吐息で囁かれたら溜まらなかった。 「部長、弱い場所とかないんですか? そこを触られたら平静じゃいられない、みたいな」  きわどい場所に指を這わせながら言う孝一に正宗は喉を鳴らす。もうすでに平静なんかじゃいられなかった。  孝一はシーツを掴む正宗の手に自身の手を重ねて、甲を撫でる。 「手、触りたい」  力の入った指を丁寧に広げ、掌の皺を指先でなぞる。逃げようとする手首を掴んで指を口に含んで吸い、指の股を舌で擽った。 「正宗さん、気持ち良くないですか……?」  彼の腰に跨り、彼の股間にぐいぐいと自分のそれを押し付け、指を口に含んだまま上目づかいで伺う。 「……っ、源氏!」  正宗はついに孝一をベッドに引きずり上げて組み敷いた。 「まだ、やだ、まって! やだ、正宗さん!!」  腰に跨り服を捲ろうとしてくる正宗に、孝一は手足でもがいて抵抗するが彼は止まってくれない。仕方なしに彼の弱点である膝を擽り撃沈させた。 「ふひゃぁっ!?」と崩れ落ちる正宗に「まだ弱点見つけてないから駄目です」と嘯く。  今までずっと孝一は、正宗に好き勝手に嬲られてきた。でも孝一だって男として正宗を好いている。孝一の愛撫に耐える正宗を見て、征服欲がふつふつと湧き上がっていた。  幸永は深夜まで帰らない。人の良い正宗は、誕生日を口実にすれば少しくらいの我儘は聞いてくれるだろう。つまり今こそ下剋上のチャンス!  「足触ったらダメですか? それで終わりにしますから」  懇願すれば、正宗は恨めし気な視線を向けながらも大人しくしてくれる。孝一は彼の下から抜け出し、逆に彼に仰向けに寝てもらうと、生で触りたいと言いながら勝手にズボンを下げた。慌てて上体を起こした彼に止められそうになったが、何か言われる前に、と太ももに顔を埋めてふくらはぎを撫で、口づけをしながら爪先まで頭を下げていく。 「やっぱ、すげぇ」  サッカーで鍛えられた足は無駄な贅肉が無くしなやかで、孝一はうっとりと感嘆の声を漏らした。  足の甲を撫でて、アキレス腱を指で挟んで下から上に撫でる。指先からぞくぞくと這い上がってくる快感に、正宗の喉が震えた。  孝一は口を引き結んで耐える正宗の濡れた瞳を覗きながら、指の腹を揉み足裏を擽った。 「ひぁあっ!?」  逃げようとする足を、足首を掴んで引き留める。  頬を紅潮させて呼吸を乱す正宗を前に、孝一は口元に危ない笑みを浮かべた。 「手より、こっちのがキます?」 「もももういいだろ!? ほら、弱点分かったんだし!」 「そうっすね。本当はあんたの弱点なんて最初から知ってたんですよ」 「へ?」  孝一は「ね?」と答えながら正宗の膝頭に指先を揃えて置く。 「え、うそっ、やめ……っ」  そっと開きながらそこを撫でて擽った。 「ひぁぁあああっ!?」  正宗は脊髄反射で膝を跳ねさせ、孝一の下から足を抜いて逃げる。 「部長」 「こっち来んな!」  ベッドの端で膝を抱えて、涙目で怒鳴る正宗に、孝一は口の端をうずうず波立たせた。 「五分だけ、五分だけ自由にさせてくれたらいつも通り気持ち良いことしましょう」  正宗はぎらぎら光る孝一の瞳に怯える。今にもぱくっと食べられてしまいそうだ。 「五分も遊ばれたら壊れる!」 「じゃあ三分! カップ麺作る時間!」 「断る!」 「じゃあ俺にも触ったらダメっすから!」  二人は同時にごくっと唾を飲む。孝一は引くつもりがない。正宗にもそれが伝わってきた。自分が引かなければ、孝一に触れられない。ここまで焦らされて生殺しなんてありえなかった。 「……一分……」 「一分っすね!」  ぐるぐる悩んだ末に正宗がか細い声を絞り出すと、孝一は対照的に溌剌とした声で答えた。 「それじゃあ、失礼します」  孝一は渋る正宗の足首を持って膝を緩く伸ばし、足の甲の上に腰を下ろす。腹筋補助の体勢になって彼の下半身の自由を奪い、膝頭と膝裏を攻めた。 「もうっだめ、やめ……っ! ふひ……っ!」  すぐに音を上げて蹴り上げようとしてきた足を押さえつける。  シーツをぎゅっと握って悶える正宗の姿に孝一は生唾を飲み込んだ。  正宗は膝から脳天に上ってくる、擽ったさなのか快感なのか判別のつかなくなった暴力的なまでの触感に身悶える。孝一を傷つけたくないのに、勝手に飛び跳ねる足が怖かった。 「あっ、あっ、ン~~!!」  のどを吐く悲鳴を、唇を噛んで押し殺す。首を振って限界を訴えるのに、孝一の手は止まらない。今何秒たったのだろう、一分はこんなに長かっただろうか。怖いし気持ち良いし恥ずかしいし、訳が分からなかった。 「……っ、正宗さん!」  切羽詰まった声で呼ばれて、何かが切れた。 「ひ、ぅ、ひぁっぁあっ!! んぁぁああ……っ!!」  正宗は嬌声を上げて全身を震わせる。孝一は正宗の腰に座りなおして、後ろ手に膝を弄ぶ。正宗に縋るように抱きつかれて恍惚とした。 「――部長、一分経ちました」 「は、ぁ……っ、ん、終わった……?」  掠れた声で確認されて、声もなく頷く。乱れた髪、紅潮した肌、濡れた瞳と唇。正宗の全てが色を放ち、孝一を誘惑した。だから、孝一は今度は正宗に成されるがまま、ベッドに組み敷かれる。 「ここも、触れよ……」  手を取られ、彼の股間に宛がわれて目を瞬いた。 「まだ触ってなかっただろ?」 「怒ってますか?」  鋭い瞳に捉えられ、不安になって尋ねる。 「怒ってはないけど、くるものはあったな」  言葉の通り彼のそこは、がちがちに固くなって、先が少し湿っていた。下着のゴムの下に招かれて、直接触れさせられると、手を犯されている気持ちがした。 「ちょっと、部長っ」  すぐに溢れ出したカウパーが、くちくち水音を立てる。彼の形を、感触を、掌で感じた。 「は、ぁっ……部長じゃないだろ? 孝一」 「っ、正宗さん!」  正宗は孝一の指をぐにっと先端に押し付けた後、びくびくっと脈打つそこを彼の掌で覆い、白濁を放つ。  熱くどろっとしたものを注がれる感触に震えながら、孝一はもう片方の手で自身の股間をギュッと押えた。正宗に手を拭われる間も、膝を抱えて身を縮める。 「源氏?」  肩に触れられて、耳まで真っ赤に染めて小さく震えた。  正宗に触れているときから、徐々に熱が溜まっていた。彼の膝を攻める間、何度も奥歯を噛みしめて耐えた。それが、彼に好きにされて、限界を超えた。――押えた股間はぐっしょり濡れてしまっていた。  正宗は孝一の手に手を重ね、変色したそこをやんわり押す。 「いやらしい孝一君は俺のを触るだけで、気持ち良くなっちゃったのかな?」 「あ、や……っ、まさむねさ……っ」 「どうしてほしい?」  猟奇的な瞳で笑う彼に孝一は、下剋上はまだ叶わないと諭され泣きを見た。 ****** 「源氏は何か欲しいものあるか?」 「すぐには思いつかないっすね」 「俺も思いつかねぇな。今欲しいのは漫画とかゲームだけどわざわざお前から貰うのもなぁ」  日曜日、孝一と李都はテナントを覗きながら百貨店を歩いていた。どの店も個性豊かにディスプレイされていて目を奪われるが、これというものが見つからない。そんな中、孝一は男性向けアクセサリーショップの前で立ち止まった。 「ピアス? 欲しいのか?」 「あ、いえ。すげぇ好みなんで自分で買おうかな、と」  答えながらも、赤と黒のラインの入ったシルバーのリングピアスから目が離せない。 「これくらいの値段なら買えるぞ。プレゼントこれじゃだめなのか?」  その一つを取って李都が提案すると、孝一は首を横に振って赤面する。こういうものは正宗から貰いたいなどと考えてしまって、乙女な妄想に顔が火照った。  一方その時正宗と麻子は、買い物をする二人を尾行していた。 「李都先輩と孝一先輩が仲良くしてると嬉しくなるんですよ~」  と二人が言葉を交わすたびに、麻子はにまにまと笑みを浮かべる。対照的に、正宗は端正な顔を凶悪に顰めていった。そんな中、アクセサリーショップの前で立ち止まった孝一に李都が話しかけた。その途端、慌てて首を振って顔を赤く染めた孝一を見て、正宗は彼らを突撃した。 「審議!!」 「え!? 部長!?」 「正宗!?」 「だめですよ! 宮本先輩!」 「川島さんも!?」  麻子が追ってきたが、知ったことかと孝一を抱きしめ、李都からピアスを奪い取る。 「部長?」 「これは俺が買う」  腰を抱いたまま言う正宗に、孝一は一層顔を赤く染め上げた。 「ぶ、部長はスマホケースくれたじゃないっすか! 二つ目はいいっすよ……」  考えていた人が突然現れるわ、公衆の面前で抱きつかれるわ、欲しかった言葉が貰えるわで、孝一の頭はパニックだ。焦りでどもり、恥ずかしさに言葉尻は小さくなった。 「じゃあ、割り勘」 「俺が自分で買いますって」 「片方俺が貰うから!」 「は?」  孝一は聞き返してから意味を理解してぶわっと赤面する。もともと熱かった顔がさらに熱くなり、目じりに涙が滲む。顔どころか手首までも熱かった。  それは、正宗さんと俺でワンセットのピアスを使うということで、そうしたら正宗さんの耳に俺と同じピアスが揺れるということで……  そこまで考えて、孝一は慌てて首を振った。 「嫌っす!」 「なんでだよ!」 「部長はビアスなんてしたらダメっす!」  共有することを否定されたと思った正宗は食って掛かるが、孝一のその言葉に動きを止める。 「俺がピアス穴開けるのが嫌なのか」  孝一は小さく頷き、彼の持つピアスを引っ張った。 「放してください……」  しかし正宗は放さない。だってピアスは買ってあげたい。共有したい。 「先輩、こういうのに通して首から掛けたら良いんじゃないですか?」  拮抗する二人に店の奥からチェーンを見つけてきた麻子が声をかけた。 「でかした! 川島さん!」  正宗はすぐにそれを受け取り、孝一の手を引いて店の奥に進む。 「で、ピアスこれで良いのか? 他のも見て決めた方が良いんじゃないか?」  目についたピアスを手にとっては、孝一の耳に宛がう。その度に孝一は肩をすくめて小さく震えた。正宗は眉を下げて頬を淡く染めるその姿に、喉を鳴らす。 「これも似合うな」 「これ穴拡張しないと入らないやつっすよ」 「じゃあだめか。お前の耳はこのままが可愛いもんな」  耳を摘まんで囁やかれて、孝一は膝から崩れそうになり、慌てて体勢を整えながら後ずさる。 「わ、わざとやってるでしょう!?」 「昨日の仕返し」 「性質悪……!」  孝一はにやにや笑う正宗を、左耳を手で庇いながら睨みつけた。 「悪い悪い、つい。で、結局最初のが良いのか?」 「はい」  孝一は伸びてきた正宗の手を払いながら答えた。頭を撫でようとしただけなのに、警戒された正宗は、苛めすぎたことを反省する。会計を済ませて李都たちと合流しても距離を取られて、悔しいのでとりあえず李都を睨みつけた。  しばらくして、男性客とすれ違いざまに肩をぶつけた孝一が正宗に寄ってきたので、抱きしめてから肩を抱いて歩いた。  その夜、結局決まらなかったプレゼントの代わりに、孝一は李都を家に招いて夕食を振る舞った。 「で、当然のように宮本も居るんだよな」  李都が呟く。メインは彼だが、孝一はその場にいた麻子と正宗も招待していた。 「というかプレゼント本当にそれで良かったのか?」  夕食後、李都は正宗の膝の上で李都の贈ったがま口金具を眺める源氏に尋ねた。 「三十六センチ角丸大玉口金具……!」  しかし瞳を輝かせて呟く彼は、李都の質問に気が付かない程がま口に夢中らしい。 「なあ李都、そろそろ川島さん送って帰った方がいいんじゃないか」  プレゼントを気に入ってもらえたことを嬉しく思い、頬を緩めていた李都は、正宗に声を掛けられると慌てて麻子を連れて孝一の家を後にした。 「源氏ぃ、正宗さんとおそろいのピアスは眺めてくれないのかよぉ?」  二人きりになったリビングで、正宗は孝一の肩に顎を載せて拗ねた声で尋ねる。孝一は彼にちらっと視線をやり、すぐに逸らした。 「……俺の中で、部長のイメージって赤なんですよね」  孝一の呟きに、正宗は今日買ったピアスを思い浮かべてにやける。  シルバーに二本のラインが入ったその赤は自分、だったら黒はこいつか。今だって目じりを赤く染めているくせに。 「部長うざい」  孝一は「へー、ふーん」などと甘ったるい声を漏らす正宗の腹に肘をめり込ませた。  翌日塾では、首から掛けたピアスを見てにやける正宗と、彼を見て苦笑いを浮かべる李都と、そんな二人を見て首を突っ込みたくてうずうずしている畔戸の姿が目撃された。





 

追想葬送

「そこの男の子達、ちゃんと歌いなさい。あなた達の先輩を送り出すための歌なのよ」  音楽の時間は、卒業生へ贈る歌の練習の時間になった。 (卒業、か……)  何の気なしに窓の外に目を向ければ、梅のつぼみが膨らんでいる。  去年の今頃は、こんな風に誰かの卒業を寂しく思う日が来るなんて思わなかった。こんな風に人のために心を動かす日が来るなんて思わなかった。  胸に冷たい風が吹き込む。泣きたくなるほど切なくなる、けれどどこか甘さを持つその痛みに孝一は目頭を押さえた。 ****** ――♪  チャイムが聞こえてすぐに玄関を開けた孝一は、扉の向こうに居たその人に腕を引かれて胸に抱かれ、視界を遮られた。 「確認する前に開けたらダメだろ」 「んー。お帰りなさい、部長」  注意しながらも甘やかす彼の胸に、顔を埋めたままくぐもった声で返した。 「ただいま」  正宗は目じりを染める孝一の喉を撫でて顔を上げさせる。黒猫じみた彼にはついこうしてしまうが、まだ一度も喉を鳴らしてくれたことはない。  顔を上げて、やっとまともに正宗を見た孝一は、切れ長の瞳を見開いた。いつもハーフアップにされていた髪がバッサリ切られている。 「ああ、そうそう前期入試に向けて切ったんだ。さっぱりしただろ?」  そう言って正宗が横髪を梳かす、その爪も短く切られていた。 「源氏?」 「爪」 「ああ、爪も切ったんだ。いつまでもお前にばっかり頼っていられないからな。こんなことだけど、やっぱり自分でやっちまおうと思って」  さっぱりした顔で笑う正宗に、孝一はぎゅうっと顔を顰めた。 「源氏、嫌だった?」 「何が」  強がる孝一に正宗は眉を下げる。 「今日も夜食ある?」  頷く彼の頭を撫でる。 「いつもありがとうな。お前のご飯楽しみにしてるから」  気持ち表情の柔らかくなった孝一の額にキスをした。  胸がざわつく。多分、考えなくてもいいようなことを考えている。今が楽しい、幸せだ、それだけで良いはずなのに、昔の自分と比べようとしてしまう。見えない未来の自分を想像して比べてしまう。 「環境が変わることが、怖いんだ……」  孝一はコチコチと時計の音だけが響く自室でひとりごちた。  それからしばらく、スーパーでもらったフリーペーパーを広げて眺めていると、風呂から上がった正宗が髪を拭きながら部屋に入ってきた。 「ただいま、っうわっ!?」 「びっくりした」 「耳がぞわってした」  いきなり叫んで肩を竦めた正宗は、小指で耳を掻きながら首を捻る。 「俺耳かきできないんだよな。うちの母さん、耳かきが壊滅的に下手で、小さい頃痛い思いしてからトラウマで、耳に棒入れらんねぇの」  孝一は、隣に腰を下ろした正宗の耳を引っ張り、中を覗いた。 「全然見えませんね」 「そうそう、しかも垢が粉系らしくて? なかなか取れないって深追いされて流血したんだ」  口や眉を不自然に動かしながら苦々しげに話す正宗に、孝一は胸のあたりがムズムズして、彼の耳孔めがけてフッと息を吹きかけた。 「うぉぉお!?」 「俺、耳かきめっちゃ得意なんですよ」  耳元で囁き、慄く正宗から一旦離れて、引き出しを漁る。 「パパラパッパラー。ベビー粘着綿棒あんど普通の耳かき~」 「もしかして今掃除のノリになってないか?」  常にないテンションで道具を掲げた孝一は正宗の指摘に、 「耳 “掃除” ですよ」  とニッと笑った。 「もしかして緊張してますか」 「いや、ほんと耳かきだけは苦手で……」 「悪いようにはしませんから」  孝一は正宗を膝の上に寝かせると、ぎゅっと目をきつく瞑って身構える彼の耳を、リラックスできるように優しく撫でる。  まずは綿棒を壁に当てないように耳に入れ、抜くときにゴミを巻き込むように優しく擦りながら出し入れする。 「はぁ……、粘着綿棒だから、粉系でもちゃんと取れます……っ」  垢のついた綿棒を見て恍惚とした。 「ね、ちゃんと気持ち良いでしょう? 正宗さん」  襞をなぞりながら名前を呼ぶと、彼の肩がぞわりと震える。 「今、反応しましたね」 「……今すぐ押し倒したいくらいに気持ち良いわ」 「我慢してください」  粗方ごみが取れたところで、木製の耳かきに持ち替えて、穴の中を擽った。 「ふ、ぁ……っ」 「仕上げに耳かきの後ろのほわほわでちょっと奥までカスをはらいます」 「ひぅ……っ」  最後にフッと息を吹きかけると、頬を染めて身を竦める正宗に 「可愛い」  と囁き、耳を染めて涙目で睨む彼に、逆の耳を向けるよう指示する。孝一は恍惚の表情のまま正宗の両耳のゴミを綺麗に取り除き、彼をとろとろに蕩けさせた。 「ね、正宗さん。俺上手かったでしょ?」 「……ほんと、天にも昇る気分だったわ」  身を起こした正宗は、飢えた野獣の瞳で孝一の耳に手を掛けた。 「ん……っ」 「俺もお前にやりたい」 「い、や……っ、それは、やめておきましょっ……?」 「どうして?」  正宗は兎のようにぴくぴく震える孝一に、瞳以外でにっこり笑う。怖い。孝一の背筋が震えた。 「俺が耳弱いの知ってるでしょう?」 「だからやりたい」 「うわぁ……」 「お願い、優しくするから」 「あんたの優しくするって、大概優しくないんで」 「気持ち良いの好きだろ?」 「うざい」  耳の後ろを撫でながら説き伏せてくる彼に、孝一は為すすべもなく表情筋を弛緩させ、それでもなんとか糸より細い理性を繋ぎとめるようとする。 「……俺、結構あれですよ? 自分でしても、その……声、出たり……」 「俺に耳弄られるの嫌?」 「……いやじゃないですけど……」  孝一は自分の身を抱いて赤く染まった顔を伏せる。耳を触られてじわじわと募る快感に、それ以上を期待してしまう。 「とりあえず右からな」  膝の上に引き倒されて、もうどうにでもなれ、ときつく目を瞑った。しかし、孝一は正宗に身を委ねてしまったことをすぐに後悔する。 「んっ」  耳たぶを摘まれただけで甘い声が上がり、 「は、ひっ……ン」  擦られてもいないのに、細い麺棒を出し入れされるだけで耳から喉までムズムズと快感が這い回る。 「ちゃんと、やってください……っ」  正宗の膝を掴んで丸くなると、彼の太ももがびくっと反応した。促された正宗は、孝一にされたのと同じように、内壁を擦り上げる。 「ひぁんっ!」  孝一はびくびく震えながら、暴れて抵抗しそうになる体を必死で抑えた。 「ま、さむねさ……っ! もう、やだ……っ」  訴えつつ、正宗の膝に爪を立ててカリカリ引っ掻く。正宗は喉を震わせて、衝動を抑えた。今すぐ彼をめちゃくちゃに抱きつぶしてしまいたかった。 「痒いところないか?」 「ありま、せんン……っ!」 「ここ気持ち良いんだ?」 「ひ、ぁ、ぁ……っ」  顕著に反応した場所をこすこす擦られて、孝一は耐えがたい快感に足もぞりと動かした。 「やぁ……っ!」  正宗は、もう無理だと逃げようとする彼の頭を無理やり押さえつけ、綿棒から木製耳かきに持ち替える。 「待て、ゴミ取れそう」 「ん~~っ!!」  異物がある場所が一番気持ちが良いのに、それを掻き出そうとするのだから堪らない。孝一は爪先をくっと丸めて、全身に走る快感に打ち震えた。 「取れた」 (やっと、終わっ……!?) 「ひぁンっ!?」  正宗の呟きに油断した孝一は、襞をなぞられて高い声を上げた。 「それ、やらなくて良い……っ」  正宗は口の端を痙攣させて訴える孝一を無視して、耳かきの反対側で仕上げをする。  ほわほわした毛玉に犯される感触に、孝一は唇を噛んで耐える。今まで触れられなかった奥まで毛先に侵入されて、全身に鳥肌が立った。気持が良いのに逃げ出したい。 「ひぁあっ!!」  敏感になった耳孔に息を吹きかけられて、はちきれんばかりの熱を声に乗せ、股間を押さえた。  正宗は、孝一の顔を覗いて生唾を飲む。頬を紅潮させて、半開きの口から一筋涎を零した彼の瞳は、涙を湛えて揺らめいている。 「次、左……な」 「左はいい……、左はいや……」  ぎらぎら光る瞳で告げる正宗に、孝一は乱れた呼吸の合間に拒否を示す。右耳でもあんなになってしまっというのに、より感度の高い左耳ではどうなるか……。恐怖に背筋が寒くなった。 「源氏、やりたい。やらせて、孝一」  しかし、無理やり寝返りを打つように体勢を変えさせられて、掠れた声で下の名前を呼ばれたら絆されてしまう。 「そんなん、ずるい……」  孝一は目の前の腰に腕を回して抱きついた。  正宗は身構えて震える孝一の髪を梳いて、耳に手を添え、ゆっくり綿棒を挿入する。 「ひ、ぁ、ぁああ……っ!?」  瞬間走った衝撃に、孝一の体がびくんと跳ねた。 「やだ、やっぱり無理っ!」 「動くな、危ないだろ」 「いやだあ!」  足を泳がせ、正宗の腰をぎゅうぎゅう抱きしめる。腕の強さに孝一の快感の強さを読んだ正宗は、興奮で呼吸を乱した。 「ひ、う、う……っ、もう、や……っ、ぁあっ!」  正宗の背中に爪が立てられる。それでも解放せずに攻め続けると、いつしか抵抗する声は小さな嗚咽に変わっていった。 「――はい、お疲れ様」  正宗が満足して仕上げの息を吹きかけるころには、孝一は声も上げずに顎や首の筋肉をぴくぴく痙攣させ、焦点を結ばない瞳を宙に漂よわせていた。 「……すげぇな、お前。耳だけでイケるんだ?」  肩を上下させて茫然としていた孝一は、正宗の呟きに慌ててそこに手を当て、ぐっしょり濡れた感触に羞恥で身を震わせる。 「あ、あんただって、もうガチガチじゃないっすか……っ」 「そりゃ、お前の反応見てたらこうなるだろ」 「へ、変態!」  反撃したのに開き直られて、悔しさにボロッと涙が零れ落ちる。 「泣き顔、すげぇそそる」  正宗の膝に頭を預けたまま上目使いで睨みつけてくる彼が可哀そうで可愛くて、正宗はついつい口を出た言葉で追い打ちをかけた。 「変態! 変態!」  身を起こした孝一は罵倒しながら正宗の胸を押すが、正宗は攻撃する彼の腕を取って抱き寄せ、涙で濡れた頬撫でた。条件反射で目を閉じた孝一は、そのまま正宗に身を委ねて薄い唇を緩く開く。正宗は、こんな状況でも自分を信用しきっている彼に呆気にとられて目を瞬いた。 「……キスしないんですか?」  焦れた孝一は目を開け、不満げに促す。 「えっと、お前、キス好きだよな」 「……だって、俺、初めてなんです」  戸惑いがちに尋ねる正宗に、孝一はなんだか自分の行動を責められている心地がして、不安に目を伏せ、言い訳をした。 「キスは、正宗さんしか知らないんです。耳も、感じるって知ってるのは正宗さんだけ」  そう言って、はっとする。 「ご、めんなさい。重い感じにするつもりじゃ、無くて……」  彼からは、たまに苛められることはあるけれど、愛されて大切にされて、幸せな気持ちばかりもらっているのに、関係のない過去の話を持ち出してしまった。  孝一が濡れた頬にまつ毛の影を落とすと、正宗は後悔に白くなった彼の顔を上げさせ、そっと唇を重ねた。可哀そうにも冷たくなった頬の熱を取り戻そうと、薄い耳たぶを揉みながら下唇を食む。  すぐに孝一は体を弛緩させて甘い吐息を漏らした。感度の上がった耳を弄られて、舌先が痺れた所を吸われると、生理的な涙が浮かぶ。 「焦らさ、ないで」  震える声で懇願する。 「やだ。焦らされてる時のお前、すげぇ良い顔するから」  しかし意地悪く唇で弧を描いた正宗は、なおも孝一を言葉で嬲り、赤く熟れた唇を親指の腹でなぞった。 「俺のこと欲しくて欲しくて堪んないって顔」  低く掠れた声で囁かれて、孝一の下腹部がぎゅんと苦しくなった。 (あんただって焦らしてる時、すごい顔してる癖に) 「正宗さん、俺も正宗さんが欲しい。たくさん欲しい」  俺だけじゃないでしょ、あんただって俺のこと欲しいって顔してる。 「お前、煽るなぁ」  鼻先の付く距離で正宗の瞳を覗いていた孝一は、その言葉に眉を顰めた。正宗が孝一を追いつめているのに、彼はいつも孝一が淫に誘っているかのように言う。 「……俺、淫乱なわけじゃないんですよ」 「いや、淫乱だろ」 「違います!」 「ああ、分かった分かった」 「分かってない!」 (……何も分かってない……)  ぎゅっと正宗の胸元の布を握ると、そこに皺が寄った。正宗は俯いてしまった孝一の髪をそっと撫でる。 「なあ、それ。前の学校のことか?」  躊躇いながら尋ねると、がばっと顔を上げた孝一は、ハクハクと口を動かした後、一度口を引き結んでから言葉を紡いだ。 「俺、前の学校で……モテたんですよ。女子に」 「今もモテるだろ」  ぞわりと胸が騒いだ。孝一の手が震える。  正宗は力が籠って血色の悪くなったそれを温かい手で解いて、冷たくなった体をぎゅっと抱き締めた。孝一は正宗の肩に額を預けて続ける。 「告白されて毎回振ってたら、そのうち一人がホモなのかって訊いてきて、否定できなくて」 「うん」 「それで、俺がホモだって、噂になって」 「うん」 「呼び出されたんです。当時好きだった相手に。……噂が広まった後だったから、ちょっと、本当にちょっと期待して」  強張る背中を撫でて孝一を促していた正宗は、孝一の額を肩から離して、彼の口の横にキスをする。 「ちょ、こんなことで嫉妬しないでください」 「う~ん、それもだけど。震えてたから」 ――かぁああ  孝一の頬が桃色に染まる。 「ごめんな、それで?」  正宗は血色の良くなった彼にほっと息を吐いて促した。 「あの、この話、気持ちの良いものじゃないから、聞きたくなかったら、その……」 「話してくれるなら聞きたい。俺は他人から聞いた断片しか知らないから」  むしろ話してくれて嬉しい、と不安に瞳を影らせる孝一の頬を撫でる。 「……それで、行ったら、その人以外に四人男が居て」  震える声に彼を抱く力を強くした。 「ひどいこと、たくさんされて……っ」 「お前、拘束されるの苦手だよな」 「……手足縛られて、胸弄られて……嫌なのに、苦しいのに、声が漏れて……」  孝一は正宗の胸で嗚咽を漏らす。 「何で乳首なんかで感じるだろうって、もげれば良いのにって、思って……っ」  大きく息を吸い、正宗の匂いと鼓動を感じて何とか自分を落ちつけようとした。 「それから薬盛られて……、カメラの前で自慰強要されて……っ」 「爪」 「……っ」  それでも無意識に噛んでいたのだろう、僅かに欠けた爪先を咎められる。代わりに下唇を噛むと「噛むな」と言って無理やり彼の指を口に入れられた。 「ぅ、ひ……っ」 「大丈夫、ここに居るのは俺だけ。な?」  孝一は口内の異物感に涙目になりつつも、こくこく頷く。 「ごめん、辛いこと思い出させた」  正宗の手首を掴んで指を引き抜き、首を振る。 「嫌じゃないなら、聞いてほしい……」  聞いて、終わりにして欲しかった。 「嫌なんかじゃねぇよ」  その言葉にほっとする。 「それで、顔も知らない男に好き勝手されて、嬲られて……」  続けて話し出すと、正宗の愛撫が大胆になった。 「俺のことを変態だって言った。気持ち悪いって言った。反応するたびに笑われた……!」  正宗は身じろぐ孝一のシャツの下に手を侵入させる。 「ぁ……っ、ちょっ!?」 「良いから続き」  孝一の話に胸がむかついて仕方なかった。  自分の知らなかった彼の過去。今もなお彼の心を蝕む記憶に、自分にはどうしようもない事なのに歯痒い。どうして当時自分はそこに居なかったのか、どうして彼を助けてくれる人はいなかったのか、どうして彼がそんな目に遭わなければいけないのか。 「っ、次の日、何とか学校に行ったら……っ、下駄箱に呼び出しの手紙があって……。やばい写真と、ビデオが同封されてて、脅されてるのに、俺、行けなくて……!」  孝一の声が上ずる。記憶と、愛撫に翻弄された。 「……それで、そのまま逃げた」  話を終えた孝一は、揺れる瞳で正宗を見上げる。 「俺は、縛らない。無理やりやらない」 「はい……」  正宗の言葉を噛みしめる。過去は過去だ。変えることはできないけど、今じゃない。今、自分を傷つけるものはここに居ない。口元を緩める。今目の前にある現実に幸せを感じた。  しかし、過去を晒してすっきりした孝一とは反対に、正宗は明かされた事実に行き場のない想いを抱えた。 「っ、あの、さっきから手が……」 「ん?」 「ぅん……っぁ」  だから、今手の中にあるこの存在をとろとろに溶かして、甘やかせて、幸せにしたいと思った。 「淫乱じゃない話は?」 「あっの時のことを、思い出すんですっ」 「部長、あいつらと殆ど同じことして、る」  孝一は、手を止めて目を見開く正宗を一瞥し、呼吸を乱したまま続ける。 「でも俺、部長だと嫌じゃないんです。部長はあいつらと違って、俺のことちゃんと愛してくれるから。それが伝わってくるから嬉しくなる。俺も部長のこと好きだから、ぜんぜん違う」 「源氏……」 「淫乱じゃないんです。上書きされるのが嬉しくて仕方ないんです」  言い切った孝一は自らベッドに身を投げ、シャツたくし上げた。 「良いぜ、乱れな」  すぐに正宗は彼に覆いかぶさり、胸に顔を埋める。 「ぁ、ひぃあ……っ!」  こりっとした実を熱い口内に招き、くちゅくちゅ音を立てて責める。 「んぁ、ぅん……っ!」  ぬるっと滑る唾液で濡らして、肉厚の舌で舐る。筋肉で押しつぶされたそこを今度は柔い唇の肉で挟んで揉むと、中心の穴が開いてきた。 「っ、あ、……だめ……っ」  放置していたもう一方も同じように育ててから先端にじゅっと吸いつき、もう片方の開いた穴にも爪を立てて可愛がる。 「んぁあぁっ!!」  背を撓らせて喘ぐ孝一の中心に手を添えると、ぐちゃぐちゃに濡れたそこに触れられた孝一は、思わず正宗の手首を掴んだ。 「だめっ、下っ!」 「何? 自分でやってるとこ見せてくれんの?」  余裕のない表情で正宗が言う。孝一は言葉を飲んで首をふった。 「部長が居るのに……っ、一人とか、いや……っ」  想像しただけで虚しさに睫毛が震える。 「馬鹿だな」 「え?」 「そいつらは馬鹿だ。お前みたいなやつ、愛さなくてどうするんだよ」  正宗は、孝一を見下ろして言った。  こいつを好き勝手にしたそいつらが許せなかった。まだ誰も触れていない、何も知らない体を愛もなく蹂躙したそいつらを嬲り殺したいと思った。 「正宗さん!」  孝一は彼の言葉に感極まって抱きついた。  もし、あの時あんな目に遭わなかったら、この人に会えなかったかもしれない。過去があるから今があるのだと思えば少しは救われる気がした。 「今は、正宗さんが居るからいい……っ」 ****** 「あ、耳かきだぁ。孝一耳かきするの上手かったよね。久しぶりにしてくれな……正宗君、顔怖いよ」  帰宅した幸永は、耳かきを手にしただけで威嚇され、訳が分からずただ慄いた。





 

来ちゃいました

 大人びた彼は周りと慣れあうことこそなかったが、とても優しい空気を纏っていた。だからクラスメイトは彼を仲間の一人と認識していたし、みんな彼が好きだった。  それは私も。  彼は異性からの人気もあって、告白されている場面を何度か見たことがある。でも、彼はどんなに可愛い子からの告白でも断った。  また彼が誰それを振ったのだと、そんな噂が流れる程に彼に告白する女生徒が増えた。なぜだろう、彼は恋に興味がないとか、隠しているだけですでに恋人がいるだとか、そう思って告白する人はむしろ減るものなんじゃないか、と不思議に思った。  でも私も彼女たちと変わらない。  彼を心から好きなった人は、そんな不確かなことで彼を諦めることはできないのだ。彼が恋人を作らないのは本当に好きな人じゃないとだめだから、だって彼はまじめで誠実だから。そんな風に考えて、彼が誰かを振るたびに、彼への気持ちが大きくなる。  そしてそのうち、こう考えるのだ。もしかしたら彼には好きな人がいるかもしれない、大人しい彼はきっと恋愛でも慎重で、好きな人に自分から想いを伝えることもできないのだろう、と。そして彼が自分に向けてくれた些細な優しさを思い出して、それを支えに彼に告白するのだ。だって、彼の好きな人は自分なのかもしれないから。 ――でも、それって盲目ってやつじゃないの?   私は知ってた。気づいてしまった。私は彼に告白できる人たちと違って、自分に全く自信がなかったから。彼に近づくことすら躊躇して、直接優しくされたことすらなかったから。  私が彼に惹かれたのは、遠目で見た彼の纏う空気が素敵だと感じたから。私は観察者だ。  第三者として彼の生活を覗いていた私には、彼を見る女の子と同じように、彼自身が見つめている相手がいることに気が付いていた。 「源氏君って、ホモなの?」  彼がそんな質問をされた時も、私は遠目で眺めていた。彼は答えなかった。質問をした彼女は醜い顔をした。私は、今さら気づいたのかと思うと同時に、そんなことでそんな顔をするのかと思って呆れた。  彼は、少しバツが悪そうだったが、何でもないようにその場を立ち去った。それだけ。だから私もそれだけのことだと思った。  それからのことは、悪い夢を見ているようだった。  人の地位が転落するのは一瞬。  クラスメイトは距離を置いて彼を取り囲んだ。汚い言葉を浴びせて、時には暴力を振るった。でも臆病な私には何もすることができなかった。――何もできないまま、彼は突然学校を去っていってしまった。 ******  今朝は霜が降りた。  孝一は寒いと震える体を起こして朝食を用意し、身支度をして、いつも通りの朝を過ごした。違うのは父を送り出してから。学校に休みの連絡を入れてベッドに転がり、メールを作成する。 『今日試験ですね』 『やれるだけやってくる』  すぐにきた返信にまた返事を送った。  今日は、庭白百合学園高等学校の前期入試の日だ。午後十二時半からの一般常識と称される筆記試験と面接のみの試験だ。面接の順番によって、早ければ二時半過ぎ遅ければ午後四時ごろに終わるらしい。  彼は今頃もう電車に揺られているのだろうか。  孝一には計画がある。試験終わりの正宗の前に現れ、ラブコメ宜しく「来ちゃった」とハートマーク付きの台詞を送るサプライズだ。  孝一はケータイを手放してしばし微睡み、時間を潰した。  二度寝を済ませて早めの昼食をとると、黒い髪をワックスでセットし、誕生日に貰ったピアスをつける。厚手のコートとマフラーで武装し駅へと向かった。  暖房の利いた電車内は眠気を誘う。睡眠を充分とった筈の脳がパンケーキのような甘い誘惑に弛緩する。全指定席の特急電車では、椅子を倒して眠る人も多い。しかし、他人しかいない空間で眠りにつけるスキルを孝一は持っていなかった。  目的地まで乗り継ぎ三回、人込みに緊張して強張る体を急かして動かした。  久しぶりに一人で乗る電車は、拷問に近かった。転校してきてから孝一は一度も一人で公共の交通手段を利用していない。部の遠征ではいつも正宗か遊馬が近くにいたからそこまで気を張らずにすんでいた。  人と肌が触れるのが怖い。誰かの息遣いを間近で感じるのが怖い。不規則に揺れる足元、走馬灯のように流れる風景に、どんどん大きくなる不安に気持ちが押しつぶされそうになる。  奥歯を噛みしめて耐えていると、緊張の糸に何かが触れた。  孝一は吊革を強く握り、薄く眉を寄せてあたりを伺う。 (気のせい……?)  誰かに見られている気がした。首筋に手を当てて首を傾げる。  きっと気のせいだ。一年以上人混みを避けていたから、神経質になっているのだろう。  孝一は自分に言い聞かせてケータイを開いた。そこには今朝正宗と交わしたメールが写されている。 彼の言葉を視線でなぞると、少しだけ落ち着いた。  雲一つない青空の下、制服姿の少年少女が疎らに散っていく。ある者は友人と肩を寄せ合って、ある者は興奮気味に急ぎ足で、ある者は肩を落としてのろのろと。  そんな中一人の少年は、他とは違う方向に進みケータイを開いた。 〈孝一〉今日試験ですね 〈正宗〉やれるだけやってくる 〈孝一〉落ちても受かっても俺は喜ぶんでテキトーに 〈正宗〉受かるけどな!  〈孝一〉あ、でも落ちたら後期受けるんすよね。なら前期で受かっちゃってください 〈正宗〉早く構って欲しいってこと?  〈孝一〉高校行ってもどうせサッカー三昧でしょ。受験でなまった体を早く鍛え直せって言ってんですよ 〈正宗〉鬼マネージャーの元で励むわ(笑)  受験後の高揚冷めやまぬ中、正宗は道中繰返し読んだ文章を眺めた。  どんなお守りや参考書より、彼からのメッセージが一番効いた。もちろん受かるつもりでいるが、落ちても良いという言葉はずいぶん肩を軽くしてくれたのだ。 ――でも、どうせなら前期で決めたいよな 「はやく思う存分構ってやりたいし」  口角を上げて独りごちた正宗は、軽く走り出す勢いでグラウンドに向かった。  見慣れない広いグラウンド、新設された綺麗な部室塔。 「あ~~」  正宗は仄かに浮かんだ暗い気持ちを払うように首を振った。  ホームシックには早すぎる。ここで新生活が始まる、そう気持ちを奮い立たせなければ。  グラウンドに降りて辺りを見渡すと、サッカーゴールの横にボールが一つ転がっていた。それを足の甲に引っ掻けて持ち上げる。ボールに集中すれば、不安な気持ちは霧のように四散した。 「制服汚れるぞ」  どれぐらいそうしていただろうか、ほんの数分しかたっていない気もするが、ボールに触れていると気づけば日が暮れている、なんてことも珍しくない。しかし校舎の側にはまだ受験生が数人うろついているから、本当にそう時間は経っていないようだ。  正宗は声の主を振り返り、彼の視線が正宗の持つボールに向けられていることに気が付いて慌てて言い訳をした。 「あ、すみません。グラウンドを見に来たらボールが転がっていたからつい。これサッカーの部の備品ですよね」 「いや、それ俺の私物」 「そうなんですか!? すみません、勝手に使って」 「気にするな。片づけ忘れた俺が悪いんだ」  正宗が慌ててボールから離れると、彼はそのボールを拾って砂を払う。 「宮本正宗」 「え、なんで俺の名前」 「スカウトしたんだから顔ぐらい知ってるさ」  驚く正宗に、彼は表情を変えないまま植木の影を指さした。 「ところで、あそこでずっとお前のことを見てるやつが居るんだけど」  彼の指す方に視線をやった正宗は、驚きに目を見開いて声を上げる。 「源氏!?」  呼ばれた彼は、びくっと肩を跳ねさせると慌ててこちらに駆け寄り、決まり悪げに視線を逸らした。 「何で居んの」 「……驚かせようと思って」 「馬鹿野郎、心臓止まるかと思ったわ!」  予期せぬ事態に正宗が思わず声を荒げると、孝一はぎゅっと眉を寄せて身を縮めた。  その様子に正宗は首を捻って彼の強張った肩に手を置く。 「俺これ回収に来ただけだから帰るわ」  様子を見ていたボールの持ち主が踵を返すと、正宗は慌ててその背中に向かって叫んだ。 「あの、試験受かったら、サッカー部入るんで! よろしくお願いします!」 「おー、期待してんぞ」  彼は背を向けたまま手を振って、そのまま去って行った。  孝一は、彼の背中が見えなくなってもじっとその方向を見つめていた。 「源氏、帰るか」  正宗が声を掛けて手を差し出すと、孝一はその手を両手で挟んでぎゅっと握りしめて、正宗を見つめてきた。  捨てられることに怯える子犬のようなその目を見つめ返して、正宗は彼の強張った頬をもう片方の手で撫でる。 「どこかで休んでから帰るか?」  眉を下げて尋ねると、孝一は小さく首を振る。 「大丈夫っす。寄り道して見つかったら心象悪いでしょ」 「でもお前、顔色悪いぞ」 「ちょっと人酔いしただけっす。早く帰りましょう」 「源氏?」 「早く」  手を引いて急かす彼に並んで、早歩きで校門を出た。 「そういえばお前学校は?」  車両の隅の壁に孝一を閉じ込めように立った正宗は、腕の中に納まった状況の彼に尋ねた。 「さぼりました」 「おい」  二人はそれぞれが朝乗った電車と同じ路線の、逆方向へ向かう電車に揺られている。  今朝と環境はほとんど変わらない筈なのに、正宗が傍に居るというだけで、孝一は落ち着いた気持ちになれた。 「来ちゃった、ってやりたかったんですけど、なんか……忘れてました」  孝一は呟くように言って、思い起こす。  庭白で正宗を見つけた時、すぐに声を掛けることができなかった。その時彼は、グラウンドでボールと戯れていて、そこに彼がそうしていることがとても自然に見えたから。  高校生が彼に声を掛けに行ったとき、取らないでと叫びたかった。正宗と話している高校生はとても遠い存在に見えて、去っていく高校生に正宗を重ねて胸のあたりが凍えそうになった。彼が遠い存在になってしまう錯覚をした。  軽口を叩く余裕なんてなかった。 「それ見たい」 「え」  孝一は正宗の声にはっと顔を上げた。 「あざとく」  正宗が続けると、孝一は一つ瞬きをして彼の意図を理解した。 「上目づかいで」  彼の言葉通り意識して彼を見上げる。 「可愛らしく」  言葉に応えるように小首を傾げて、 「――来ちゃった」  と呟いた。  目の周りがじわっと熱を持つ。孝一は居たたまれなくて視線を泳がせる中、その様子を正宗が真顔で見つめていることに気づいてますます顔が熱くなる。 「でも、俺可愛くないっすけどね」 「可愛いけど」  言葉とともに顎下から耳の裏を撫で上げられて、ぶわっと産毛が逆立った。 「ふぁ……っ」  意図せず吐息が漏れると、距離を縮めてきた正宗によって壁に押し付けられる。「混んできた」と言い訳をする彼に、小さく頷いて返した。 「会いに来たのは驚かせるためだけ?」 「……良いニュースと悪いニュースがあります。どっちから聞きますか」 「答えは?」 「これが答えです」 「えー、じゃあ悪い方から」 「じゃあ良い方から」 「何でだよ」  孝一の捻くれた物言いに正宗が低く笑う。 「良いニュース、一人でも庭白に行けました。悪いニュース、でも疲れました」  孝一は彼から顔を隠すために彼の胸に額を押し付けて緩く瞳を閉じた。  実際に彼が行くであろう学校に人で行くことで、地面が繋がっていることを実感できた。でも同時に、一人で行くのはハードルが高いと実感した。高校に足を踏み入れて、別の世界だと感じた。早く彼を連れて帰りたかった。 「乗り慣れないもんな、電車」 「慣れたら楽になりますか」 「楽になる必要あるかな」  優しい手に頭を撫でられながら逡巡する。  辛くても、会いたいと思えば会いに行ってしまえるんだろうな、と思った。でも、 「でも、会いに行く頻度は減りますよ」  それでも良いのかと恨めしげな視線を向ければ、「俺が会いに行く」と何でもない事のように言われて、嬉しいはずなのに孝一の中の捻くれた部分が反発する。 「でも、俺が突然現れるとあんた凄く良い顔するんですよ。驚いた、信じられない、でも嬉しい、そしてテンパる。気持ち悪い」 「最後のどこに掛かった」 「俺」  ぷいっと顔を背けて吐き捨てる。  正宗の驚いた顔を見て可愛いと感じる自分が気持ち悪いのだ。反発したはずなのに結局彼を喜ばせてしまってバツが悪い。むかつく。別にいいけど。 「もっと分かりやすくデレろよ、おら」 「こういうのが好きなくせに」 「はー? そういうこと言う?」  小突いてくる彼の手をむず痒く感じた孝一が顔を顰めると、再び彼は切り出した。 「俺も良いニュースと悪いニュースがある」 「良いニュースから」 「じゃあ悪いニュースから」 「はいはい」  さっきの仕返しをされて軽く流す。 「俺は逆に距離を実感した」 「ダサいっすね」  孝一と正反対の正宗の言葉に、孝一は真っ向から反発した。 「うわー、生意気」 「あんたが行く場所は、空の上でも異次元でもない。地面と空気の先にある。そんな当たり前のことを実感して、俺は寧ろ拍子拭けしましたよ。しかも日帰りできるし。なんなら毎週末に会いに行きましょうか?」 「さっきの弱音はどこ行ったよ」  そんなものは見えないところに隠した。薄い布を被せただけの簡易な目隠しだ。孝一は意識の端でちらつくそれに必死で見ない振りをして、喧嘩腰で続けた。 「ふん。冗談に決まってるっしょ、面倒くさい。交通費もバカにならないし」 「そうだな」  正宗はそんな強がりに見ない振りをして孝一の視線から目を逸らす。  孝一は足を肩幅に開いて不安定な床を踏みしめた。  二度目の乗り換えをする頃にはすっかり通勤ラッシュの時間に重なってしまった。 「源氏ー、生きてるかぁ?」  耳元で話されて孝一の肩が跳ねる。  孝一の荷物は乗り込む前に正宗に奪われた。ぎゅうぎゅうの車内にひるむ前に抱き寄せられて、背中に回った彼の腕に支えられている。匂いも吐息も感触も、彼のものしか感じなかった。 「息がきもい」 「きもいは傷つく」 「そこで喋らないでください」 「俺は左をフリーにする方が怖いけど」  孝一は眉間にしわ寄せて口を噤んだ。 「やっぱ、お前一人で乗せたくないな……」 「ラッシュを避ければ良いでしょう」 「四時間かかるのに難しくないか」  孝一は甘やかしてくる彼の腹に拳を入れた。 「いっつ! 狭いんだから暴れんなよ!」 「……会いに来るなって言うんすか」  喉の奥で声が震えた。  強がれるから立っていられた。そんな足元が揺らぐ。  正宗の弱音と甘言は孝一を鼓舞してくれる。でも、これは違う。努力をする前から否定しないでほしい。要らないなんて言わないで。 「さっきからなんなんですか、俺に行って欲しくないのかよ」  強くありたいから強がる。強がるのは本当は弱いからだ。人混みが怖い、彼は自分を求めてない。マイナスが二つになったら折れてしまう。  視界が滲むと、慌てた彼の肩に、力任せに顔を押し付けられた。 「ごめん、やっぱり慣れて」  腰に回っていた手が一層力強く孝一を抱いた。そこから彼の言葉にならない感情が伝わってきて、歓喜する。  孝一は彼の裾をギュッと握って「ん……」と短く返事をした。 ******  地元に帰る頃にはすっかり日が暮れてしまった。  二人は真冬の夜の寒さにマフラーに顔を埋めて身を縮める。 「寄って行かないんですか?」  アパートの前で尋ねる孝一に、正宗は残念だと眉を下げた。 「一応家族に報告しないといけないから」 「そうですか」  あっさりした言葉で返しながらも、しゅんと肩を下げる孝一に後ろ髪を引かれながら彼が部屋に入るまで見送った。  冬の乾燥した空気が肌を攻める。ピリッと棘のある感覚に、正宗は眉間に力を入れた。 「そこの人」  正宗は、十字路の塀の向こうへ、意識してのんびり声を掛けた。死角で、誰かが動く気配がする。 「逃げないで。何か話があるんじゃないのか」  慌てて続けると、間もなくして暗がりから気の弱そうな少女が顔を出した。





 

男嫌い克服訓練

 その夜はこの時期には珍しく、滝のように雨が降っていた。傘の向こうは紐の暖簾で仕切られたように視界が悪い。それなのに、見逃すことができなかった。  好きな人を捉えたら、すぐさま脳に伝達する。レーダーのようなそれは普段なら便利で嬉しいものだ。しかし、この時ばかりは違った。  彼は紐の暖簾の向こうの植木のそのまた向こうのガラス窓の奥のテーブルに居た。ファーストフード店の窓側の席で、女の人と二人でドリンクを飲んでいた。  胸が堪らなく苦しくなる。頭が焼けるように頭が熱くなる。  孝一はその光景から目を背けて逃げた。  早足で歩くから、傘を持つ手に雨が当たって氷のように冷たくなった。大股で歩く足も濡れて、冷たいとも痛いとも感覚が無くなった。 ******  寒い上、風の強い朝。普段なら一番のりであろう早い時間、すでに部室の鍵が開いていた。 「おはよう、源氏」  遊馬は洗濯物籠の横で影のように立たずむ彼に声を掛けた。 「……はよ」  遊馬の挨拶に彼がおざなりに返すはいつものことだ。彼は人の入り乱れる朝練前後と放課後練前後は必要最低限の入室しかしない。  いつも通りであれば、彼は遊馬に鍵を渡して洗濯籠を持ってさっさと部室から出ていくであろう。しかし、今日は難しい顔をして遊馬をうっそりと見つめ、口を開いた。 「なあ、ちょっと俺の手を握ってみてくれないか」  促されるままに遊馬が彼の手を握ると、彼は小さく眉を顰めて「大丈夫」と呟く。 「源氏?」 「いや、お前に触られるのは大丈夫なんだな、と」 「ふーん」  大丈夫と言いつつも良い気持ちはしないのだろう、渋い顔をする彼にそれでも嬉しく思って、遊馬はふにゃっと口角を上げる。 「次は千尋さんか」 「千尋さんじゃハードル低すぎじゃない?」  遊馬は、離した手を軽く振りながら言う孝一に首を傾げながら意見した。 「じゃあ、サッカー部」 「李都先輩?」 「ラスボス」 「仲良いのに」 「体格と雰囲気のハードルが高いんだよ」  遊馬は、存外孝一のことを気に入っている李都を思って苦く笑う。彼が聞いたら確実にショックを受けるだろう。 「でも、どうしてそんな突然」 「……突然って訳じゃない」  遊馬は苦しげに言い返す孝一に、事情があるのだろうと察した。また、彼の悩みと言えばほとんどが我らが元部長宮本正宗関係だ。忘れないで同盟の一員として力になる他ないだろう。 「源氏と仲が良くて体格が近いって言うと根岸先輩だよねぇ」  だから、身近で協力してくれそうな先輩の名前を出してふわりと笑った。  サッカー部を引退して六か月。朝練のない余裕ある朝を迎えることにも慣れた今日この頃。身体測定では毎年平均身長をぎりぎり超える、身軽さがとりえのサッカー部員、つるっと丸い額と狐のような細い目がトレードマークの少年は、朝一番、下駄箱を開けるとカッとその目を見開いた。  根岸健介一五歳、彼女いない歴イコール年齢。今までその手の話は一切なく、部活動に青春をささげてきた。ときめきはなくとも、部活内クラス内共にムードメーカーの地位を築き、何の不満もない日々を送ってきた。  そんな彼の下駄箱に入っていたのは白い封筒に入った一通の手紙。 「え、根岸、それって」 「嘘だろ!? 根岸だぞ!?」  数人の生徒に覗かれた根岸は、手紙を引っ掴んで逃げ出した。聞き捨てならない言葉もあったが、仕方ない。忙しい受験生といえど思春期、この手の話はどこまでも掘り下げられ、晒される。現に根岸が他の誰かの下駄箱にラブレターらしきものが入っているのを見つけたら確実に煽る。  根岸は人気のない場所まで来ると、はやる気持ちを抑えて丁寧に手紙を開いた。 『根岸先輩へ、  相談したいことがあります。迷惑でなければ昼休みに駐輪場に来てください。正宗さんには言わずにお願いします。  源氏孝一』 ――パン!   振りかぶって手紙を床に打ち付けた。 「お前かよ!!」  心からの叫びがガランとした廊下にこだました。  三枚目のお調子者の友人が、ラブレターを貰ったらしい。朝からクラスメイトに絡まれた彼は意地になって否定するが、だったら何を貰ったのかという質問には言葉を濁らせた。  気にならないわけがない。彼の反応は周囲、もとい野島康司の好奇心を一層擽った。  昼休み、野島は何食わぬ顔で教室を出る根岸を尾行した。根岸は毎日特定の友人と昼食をとるわけではない。野島やクラスメイトと食べることもあれば、他のクラスや時には下級生のクラスに紛れ込んでいることもある。しかし今日はそのどこにも向かわず、一直線に校舎裏の駐輪場に歩いて行った。 (やっぱりラブレターだったんじゃないか。別に隠さなくてもいいのに)  鼻白んだ野島は、こうなったら彼女の顔を拝んでやろう、と、まだ来ぬその人と鉢合わせ無いように並べられた自転車の影に身を潜めた。  根岸を呼び出した相手はすぐに現れた。 (なんだよ、源氏かよ)  その顔を見て肩を落とす。しかし予想は外れたが、これはこれで不思議だ。彼が根岸一人を呼び出して何の話があるのだろう。  何か声を掛ける根岸に、孝一は小さく口を動かして右手を差し出した。不思議そうにその手を握る根岸に、彼はもう片方の手も差し出して、ずいっと体を近づける。 「え、何ちょっと、近くねぇ?」  ワントーン上がった戸惑い気味の根岸の声が、野島の耳に届いた。 「動かないでください!」  つられた孝一も声を張る。 「大人しく俺に抱かれてください!」  言葉と同時に抱きつかれた根岸がさっと顔色を無くす。野島の顔からも血の気が引いた。 「「のぉぉぉおおお!?」」  根岸と野島、二人の叫び声が重なった。 「なになになになに!? そっち側!? そっち側に目覚めたの!? そんでその場合の対象は俺なの!?」  混乱した根岸は突然現れた野島に疑問すら持てずに縋りつく。 「やめろ根岸、こいつとあいつの性生活を匂わせる発言はやめるんだ!」  野島は根岸を抱き込み、孝一から距離を取った。 「ち、違います! 慣れようと思ったんです! 男に!」  あらぬ誤解を受けたことにようやく気が付いた孝一が慌てて説明すると、 「慣れようと思ったんです?」 「男に?」  抱き合う二人はそれをそのまま反復した。 「部長離れしたいんです!」  孝一は決意に拳を握る。  この学校に転校して来たばかりの頃、孝一は世界から目を逸らして、一人で殻に閉じこもっていた。でも、正宗のしつこいスキンシップに絆されて、遊馬の呑気な性格に救われて、少しずつ殻を破ることができた。怖いと思っていた先輩たちとも仲良くなれた。誕生日に李都と二人で出掛けたことは孝一の中では大きな進歩だ。もう大丈夫なんだと自信も持てた。でも、 「まだ駄目なんです。一人で人混みを歩けるようになりたいし、満員電車にだって乗れるようになりたい。部長が居なくても、一人で生きていけるようになりたいんです!」  孝一は切れ長の瞳で根岸を見つめた。 「だから、協力してください!」  野島は彼の真摯さに絆された。可愛い後輩がこんな風に頼ってきたら力になりたいと思ってしまう。しかしそれは野島の話だ。当の根岸は違かった。こんなことに協力して正宗に知られたら、と考えるととても面倒くさかった。望んで馬に蹴られにいく趣味はない。だから答えは、 「え、嫌だ。ここまで成り行きで来たんだからこれから先も成り行きで良いじゃん」 「よくないんです!」  孝一は彼の言葉を真っ向から否定した。 「……すぐに平気になりたいんです」  すん、と声のトーンを落とした孝一は、一昨日の土曜日の出来事をぽつぽつと話し出した。  その日、今日は泊まりに来られないと正宗から連絡が来た。普段ならもう十分もすれば彼が訪ねてくる時間。迎える準備もほとんど出来ていた。雨模様の天気も相まって、孝一の気分は落ち込んだ。  しとしとと降りつづけた雨は次第に激しくなり、ザーザーバチバチと雨音が主張し出す。そんな中、雪永から傘を忘れたと連絡が入り、孝一は音から想像したとおりの土砂降りの中、最寄り駅まで彼を迎えに行った。  その道中、見てしまった。見知らぬ女性と二人で会話をする正宗を。  事象だけを上げればなんてことはない。  彼は孝一との予定をキャンセルした。でも、いつでも都合が付くわけじゃない。他の人と会っていた。でも、深刻な内容ならそちらを優先することもあるだろう。知らない女性と二人きりでお茶を飲んでいた。でも、孝一だって麻子と二人で出掛けることはある。  冷静になろうと自問自答する中で、それでも『嫌だ』という気持ちばかりが膨れ上がった。  談笑というには二人とも表情が硬すぎた。女性側が正宗に好意を持っているようにも見えず、孝一がやきもきする必要はない。 ――それなのに、なぜ?  「と、考えた結果、俺が部長に依存しすぎているからだという結論に達しました。もうね、こんな風に苦しくなるの嫌なんです。今すぐ独り立ちしたいんです。精神的に安定したいんです」  熱く語る孝一に、根岸は神妙に尋ねる。 「え、何それ浮気?」  と。孝一はぶんぶん首を左右に振って否定した。 「だから、そういう感じじゃなかったんですってば。もっと事務的なのに、深刻というか。甘い感じは全くしませんでした。受験の話でもしてたのかもしれないっす」 「事情は分かったけど、なんで俺なの」 「見た目のハードルが低かったので」 「男らしくないってか!」 「……李都さんや野島さんよりは」 「くそー! ふざけんなよ、くそー! 面白そうだから手伝ってやる!」  根岸は地団太を踏んでサムズアップした。 「は?」  支離滅裂な彼の反応に野島が唖然と呟く。 「え、良いんすか!?」 「今日から部活終わりに自習室に俺を迎えに来い! 特訓だ!」  根岸は、驚きながらも喜色をあらわにする孝一の肩に手を添えて、への字型の眉をきりっときめた。 「どういう心境の変化なんだ?」 「別に、宮本の焦った顔が見てみたいって、だけだけど」  放課後。自習室の前の廊下で、小声で尋ねる野島に根岸はあっけらかんと答えた。  孝一は正宗を擁護したが、正宗の行動が孝一を不快にさせたのは事実。以前はいろいろあったが、今や根岸にとって孝一は可愛い後輩だ。そんな彼から助けを求められれば手を貸したくなる。というか、正宗に一泡吹かせてやりたく思った。  進学校を希望していない根岸は塾の予定が詰まっているわけではないし、好都合なことに孝一と家の方向が一緒だった。登下校を一緒にするだけでも正宗は不快に感じるだろう。しかし孝一は男嫌いを克服したいだけ、根岸はそれを手伝っているだけ。誰も悪いことをしているわけではない。孝一が正宗にされたことをそのまま返す。目には目を歯には歯を。 「大義名分のもとにあいつをいたぶれることに血湧き肉躍っているわけだよ、ふはははは」 「怖ぇよ」  根岸の台詞に野島は鳥肌の立った二の腕を擦った。落書きのような顔と飄々とした態度では緩和しきれない腹黒発言だ。  そうしていると、階下から二人分の気配が近づいてきた。 「せんぱぁい、お疲れ様でぇす」 「お疲れっす。お待たせしました」  律儀に頭を下げる遊馬と孝一に、根岸は手を振って答える。 「待ってない、待ってない。いつもなんだかんだこれ位の時間まで残ってるし。たまたま集中力切れたから外に出てただけだから」  根岸はそう言ながら孝一に近づくと、するっと彼の手をとり、身を縮める彼の隣に並んだ。 「じゃあ、俺たち帰るから!」  涙目になる孝一をしり目に、楽しげに階段を下りていく根岸の指は、しっかり孝一の指に絡んでいた。 「王司」 「野島先輩」  残された二人は波乱の予感に青くなる顔を突き合わせ、「なにあれ怖い」と声を合わせた。  まだ暖房の効かない教室で、正宗はぐったりと上半身を机に預けた。板に触れる頬が冷たい。  快活で爽やかと巷で評判の彼が、死んだ魚のような目をしているのには訳がある。可愛い恋人に最近避けられているようだからだ。  校内ですれ違うと無視はされないものの、気まずげに目を逸らしてそそくさと逃げるように去っていく。距離が遠ければ、ぎこちない動きに明らかに気が付いていると分かるのに、気づいていないふりをされる。  心当たりは先日のドタキャンだが、文句を言うか拗ねるかされても、こんな中途半端に避けられる原因になるとは思えない。  答えの出ない疑問に正宗がもんもんとしていると、隣で静かに勉強をしていた千尋が廊下から呼ばれて席を立った。 「どうかしたの、影木君」 「いや、ここじゃちょっとあれなんだけど」  何の気なしに正宗がそちらに視線をやると、おかっぱ頭の少年とバチリと目が合った。彼、影木幻十郎は正宗にぎこちない笑顔を向ける。その表情に正宗が訝しむと、影木の視線を追って正宗に気が付いた千尋がハッとして、影木の背中を押しやった。  実に怪しい。正宗は、そそくさと教室を出て行く二人の後を付け、二人の入った空き教室の前で聞き耳を立てた。 「単刀直入に聞くけど、源氏君、根岸に乗り換えたの?」  ガラガラと音を立てて戸を閉めた千尋が、ようやく掴んでいた影木の手首を放すと、影木は早速本題に入った。 「相変わらず耳が早いな」 「あの二人毎日一緒に登下校してる。恋人つなぎで歩いてるところを見た子もいる。それに宮本の様子を見ればそう考えるでしょ。今は僕と千春ちゃんがごまかしてるけど、噂になるのも時間の問題だよ」  お前らそんなことしてるのかよ、と瞠目する千尋に影木が続ける。 「どうせプリンスから聞いてるんでしょ」  確信を持った質問に、千尋は小さく吐息を漏らした。ここまで知られているのに隠し通そうとすれば疚しいことがあると言っているようなものだ。遊馬はこのことが変にこじれないように身内で解決したいと言っていたが仕方がない。 「乗り換えたとかじゃなくて、男に慣れたいらしい」 「それで根岸?」 「根岸君に慣れたら野島君、最終的には李都君に抱きつけるようになりたいらしい」 「はたから見たらクソビッチじゃん。でも、そういうことか」  影木はあきれつつも納得する。みんなに知らせないとなぁ、と呟きながら千尋を促して教室を出ようとし、入口で立ち止まった。 「あら」 「ぎゃっ」  影木は口元に手を添えて平坦な声を漏らす。突然立ち止まった彼の背中からそれを見た千尋が小さく悲鳴を上げた。 「ちょっとその話、詳しく聞かせてもらおうか」  額に青筋を浮かべた話題沸騰中の男前が二人を待ち構えていた。  汗と砂の匂いのする練習後の部室で、一足先に帰る準備を終えた孝一は部室を出ようと扉を開けて、大きく目を見開いた。 「どこに行くのかな?」  入口を塞いで立つ彼が、張り付けたような笑顔で問う。その後ろには冷や汗をかく根岸と野島と李都の姿があった。 「部長……」  孝一は、会いたかったけれど会いたくなかった彼の名前を呟いた。  正宗の纏う空気が肌を刺す。 「まだ李都先輩まで行ってなかったのに」 「やめろ」  予期せぬ彼の登場に、戸惑った孝一の台詞が空回りする。 「李都先輩は可愛い後輩が悩んでいるのに協力してくれないんですか」 「やめろ」  食い気味に制止する李都に畳み掛けると、その度に空気が重くなった。  孝一は地面に向けた目を泳がせる。 「……源氏」  地を這う低音に責められて、孝一はぐしゃっと顔を顰め、 「俺は悪くない!!」  意地になって反抗した。だって自分の行動には意味がある。責められる謂れはない。 「男に慣れるために手をつなぐ必要があるのか。抱きつく必要があるのか」 「接触するのが嫌なんだから慣れるためにはそうするしかないっしょ」 「でも二人だけの空間ですることはないな。満員電車を想定するなら、おしくら饅頭よろしく、ここに居る男全員と背中や肩を押し合う方が近い状況になるだろう」 「俺の都合でそんなに一気に大人数の時間を貰えません」 「じゃあ、お前が悪くないならどうして、俺を避ける!?」  孝一は反論できずに固まった。強気な心が一気に萎れる。  本当は根岸と接触するたびに、正宗に触れたいと思っていた。でも、男に慣れる特訓をしているのに、すぐに彼に助けを求めようとしてしまう自分が悔しくて、それと同時に彼に内緒で誰かと過ごしていることが後ろめたくて、避けなくてもいい場面でも彼を避けた。 「それは……」 「もういい」  正宗は何とか言おうとする孝一を切り捨てて、鋭い視線を向けたまま、彼の肩を押して部屋の中央に立たせた。戸惑いなすがままの彼から素早く離れて、部員全員に彼を囲むよう指示を出す。  部員の視線がおろおろと二人の間を行き来した。 「源氏を中心に集まれ」  正宗は重ねて冷たい声で告げる。  命令するのは元部長だ。部員は戸惑いながらも彼の指示に従った。 「もっと密集しろ」 「お、おい宮本」  部員が孝一を中心にぎゅっと集まると、その様子を見守るばかりだった李都が正宗に咎める声を掛けた。  今は完全に見えなくなってしまったが、波に呑まれるように男たちに埋もれる間際、孝一は目を見開き絶望の表情を浮かべていた。 「離れて良いぞ」  正宗の指示で解放された孝一は、真っ青な顔でその場にへたり込んだ。  震える体をどうにかしたいのに、誰かの汗が移った自分の体に触れることが嫌で動けない。体に残る誰かの皮膚、呼吸、体温の感触が気持ち悪い。仲間に対してそんな風に考えてしまう自分に吐き気がする。  こんな時、いつも助けを求めたいと思うのに、求めた彼が自分をこんな状況に置いた張本人だなんて。人混みに彼の姿が見えなくなる瞬間、目の前が見えなくなった。思考を放棄するほどに悲しかった。  もう、誰も助けてくれない。彼が敵なら立っていられない。  その身を支える術を無くした孝一は、焦点の合わない瞳からはらはら大粒の涙を零した。  気の強い彼のそんな姿を初めて見た部員はぎょっとして、恐々と彼から距離を取る。そんな中、元凶の正宗が彼にゆっくり近づき膝をついた。 「源氏」  孝一は、両腕を広げて迎い入れる体勢の彼を前に、未だ呆然として動かない。 「孝一、おいで」  再び促されて、思考を置き去りにしたまま孝一の体だけが動いた。ふらふらと眼前の胸に体を預けると、ふんわりと抱きとめられる。 「ふ、ぇ……っ」  全身で彼を感じて、込み上げる安堵に嗚咽が漏れた。  正宗は、しがみ付いて震える彼の背中を撫でながら深いため息を吐く。 「なぁ、これじゃだめなのか?」  自分の感情に手いっぱいの孝一は、彼の言葉の意味を図りかね、ただただ濡れた瞳を向けた。 「辛くなったら俺が慰めるんじゃだめなのか」  正宗はせっかく上げた孝一の顔を再び胸に押し付けて、苦しげに尋ねる。その言葉を理解した孝一は、溢れる感情に口元を歪めた。 「部長、俺離れしたいっすか?」 「離れるわけないだろ」 「俺も離れて欲しくないっす」  いろいろ吹っ切れた孝一が、彼の胸に額を擦り付けて告げる。 「俺、部長離れするの、止めます」  二人を取り囲む男たちの脳内にオールウェイズ・ラヴ・ユーが奏でられた。 ****** 「部長、今日塾は」 「さぼり」 「不良」  数か月ぶりに下校を共にした正宗は、孝一の部屋へあがると早速彼を柔らかな布団に横たえる。 「まあ確かに、今からいけないことするし、な?」  するっと彼の手に指を絡めて爪先に唇を落とした。  正宗の気障な仕草に孝一の目元が赤く染まる。  正宗は彼の手首を掴みなおすと、先細りの指を口に含んで舌を絡めた。捕まえた彼の手首が震える。逃げようとする彼の指にじゅうっと吸い付き、指の股を舌先で擽った。 「は、ぅン……っ」  孝一の鼻を甘い吐息が抜ける。  神経の集まる指先を粘膜が包み、熱く柔らかい舌先が器用に指の間を蠢き濡らしていく。  孝一は体の中心に集まる熱に、もぞりと腰を動かした。 「ぁ、ぁ、ぁア……ッ」  ぬめりのある液体を掌に塗りこまれ感触に高い声が上がった。 「ここにこの感覚を覚え込ませたら、もう誰とも手なんて繋げなくなるだろう?」  正宗は、手全体を舌と唇で嬲られて腰が砕けた孝一を見据えて告げる。その物騒な視線と言葉に、孝一の脳裏で警鐘が鳴り響いた。  翌日、孝一を見かけた根岸がその手を握ろうとすると、真っ赤な顔の彼に振り払われた。 「ま、ま、ま」 「ま?」  利き腕をもう片方の手で庇いながら、はくはくと口を動かす彼の言葉を根岸が反復すると、 「正宗このやろぉぉぉおおお!!」  踵を返した彼は三年の教室の方向へと走り去った。





 

とびきり甘い贈り物

「サッカー部で一番チョコレートを貰うのはだーれだ?」 「サッカー部に限らず校内で一番貰うのが王司と予想」  キツネ目の少年の問いに曲者顔の少年が答える。 「普段は話しかけられないけどイベントをきっかけに勇気を出す女子にかけて源氏が一番と予想」  ついでキツネ目の少年が自分の見解を発表した。  二月十四日、バレンタインデー。サッカー部OBの根岸と野島は部室の扉を開け放ち、久方ぶりに乗り込んだ。 「「さて、正解は!?」」  そして眼前に広がる光景に静止する。可愛くラッピングされたチョコレートが山盛りいっぱいに入った大きな紙袋が六つ、ドーンと部屋の中央に鎮座していた。 「源氏君でした~」  着替え途中の遊馬がむふふと笑いながら先の質問に答えるが、OB二人は狭い室内で圧倒的な存在感を示す紙袋をまじまじと見て、首を傾げた。  どの袋も同じようで、所有者が分からない。一番数を貰ったのは孝一だとして、どこまでが孝一のものなのか。また、他の部員がそこそこモテたとしても、一人で一袋貰うとは考えられない。同じ袋に入れてしまって大丈夫なのだろうか、と。  もちろんOB二人が冷静に思考したわけではない。おろおろそわそわとクエスチョンマークをたくさん飛ばしながら深層心理下でぐるぐると思考していた。 「それ全部源氏のですよ、すごいですよねぇ」  そんな心を読んだかのような遊馬の言葉に、二人は「全部!?」「王司は!?」と声を裏返した。 「恋人以外からは貰わないんですぅ」 「のろけかよ」 「まあ、恋人からも貰ってないんですけど」 「なんかごめん」  肩を落として遠い目をする遊馬に謝り、ついでに落ち着いた。 ――それにしても  根岸はまじまじと大袋を見て唸る。冷静に見ても異様な光景だ。  贈り物であふれかえるサッカー部なんて二次元の世界だと思っていた。それもこれらすべてのチョコレートが一人に当てたものだなんて、非現実的すぎてもはや嫉妬もおこらない。ネタでしかない。 「なにがどうしてこうなった? いったい何人から貰ったんだよ」 「全校の女子からですよ」 「え、全校って、学校の女子全員から貰ったのか!? むしろそれでよくこの量に納まったな!?」  普段穏やかな野島も声をはってつっこんだ。 「迷惑にならないように量に制限付けたらしいです」 「何それ凄まじい」  テンションが一周まわって、真顔で呟いた。 「でも、これには深いわけがあるんです! 全部義理チョコなんです!」  そんな二人に、外野から声がかかる。 「居たのか源氏」  会話の流れでは外野だがしかし当事者だ。 「会話に入るタイミングが分かりませんでした。あと、どうしていつもさっさと帰る俺がまだ残っているのかといえば、この量のチョコレートを持って帰るのを王司に手伝わせるためっす」  根岸は部室の隅で空気と同化しようとする孝一を中央まで引っ張るが、手を掴んだ途端に泣きそうな顔になった彼に、手を振り払われたのは解せなかった。  時は一か月前に遡る。 「孝一先輩! 李都先輩に美味しいチョコレートを贈りたいので協力してください!」  がばっとお辞儀をして、拝むように両手をすり合わせる麻子の願いを、孝一は二つ返事で受け入れた。  数日後。 「孝一先輩、私の友達にも一緒にチョコレート作りの指導をお願いできませんか?」  麻子の再びの願を二つ返事で受け入れた。取られる時間も手間も変わらない。  源氏孝一のプロ顔負け料理教室(ハート)愛を込めてチョコレートを(麻子命名)はバレンタイン直前とその前の週の日曜日の二日間開かれることになった。  ちなみに孝一はあくまで講師であって、会場や道具、材料の準備は孝一の指示の元、参加者が協力して行った。だから孝一は当日まで知らなかったのだ、このチョコレート教室に一二年生の女子ほぼ全員が集まるなんてことは。 「え!? なんで!?」 「わ、私の友達です……」  多すぎる女子を前にして思わず叫んだ孝一に、麻子が冷や汗をかきつつ答える。 「そんな馬鹿な」 「ごめんなさい! なんだか大事になっちゃって言い出せなかったんです!」  孝一は土下座する勢いで深く頭を下げる麻子を宥めて事情を聞き出した。  始まりは、場所を確保する際に調理室を借りようと考えたことだった。毎週土曜日に部員の昼食を作るために孝一が借りていることもあり、学校からの使用許可は簡単に取れた。しかし、休日の使用の優先順位は料理部が上ということで、一応料理部にも確認を取るように指示された。  その足で料理部を訪ねると、条件付きで許可を貰えた。その条件が、料理部も教室に参加させること。料理部は引退した三年を除いて総勢五名。それくらいなら、と麻子たちは了承した。  その数日後、つまりは一昨日。麻子の教室に出向いた料理部の部長が眉を下げてこう言った。 「源氏君のチョコレート教室なんだけど、二年生の間に広まっちゃって、参加人数増えちゃったんだけど」 「何人ですか?」 「うん。全員」 「は!?」 「二年女子全員。七十人」 「ええ!?」 「もちろん材料は個人で負担するし、人数も二日に分けて三十五人づつにするから! 教室に納まる計算だから!」 「そんな急に言われても」 「そういうことでよろしくね!」 「ああ、っちょ、先輩~!?」  嵐のようにやってきて、嵐のように去って行った彼女に麻子は為す術もなかった。 「ねえ、麻子。今の何?」 「明後日源氏先輩主催のチョコレート教室があるってこと?」 「何それ聞いてない」  そして追撃。一年女子に囲まれた麻子は彼女らの要求も呑むしかなかった。 「――という訳でして」 「なるほど、作りたいお菓子のリクエストがどうしてこんなに豊富になったのか納得した」  しかしこのままでは人数が多すぎてまともに指導できないと二人が話し合っていると、ポニーテールの先輩が話しかけてきた。 「源氏君に川島さん、日曜日なのに何してるの? 賑やかだね」 「千尋さんの妹さん!? なんで日曜日に」 「引退したての吹奏楽部を冷やかしに来た山瀬千春であります! しかし部室を覗くと誰も居ませんでした。なぜだ」  つっこむ孝一に丁寧に自己紹介を交えて答えつつ、彼女は調理室を覗いた。 「ああ!! 吹奏楽部居るじゃん!!」  そして調理器具を準備する後輩を見つけ、すぐに状況を理解する。 「ええ~!? なにこれずるい! 三年を除け者にしてぇ!! ずるいずるいずるい~!! 知ってたら参加したい人いっぱいいると思うよぉ!?」 「……麻子さん、千春さん、料理部部長さん。ちょっと作戦会議をしましょうか」  一気に膨れ上がった参加人数に頭を抱えた孝一は、三人を別室に促した。  会議の結果、二回に分けて行う予定だった教室は一日三回ずつの計六回に変わり、指導方法は個人の造りたいものに臨機応変に対応する形から、回ごとに別のお菓子を一斉に教える形に変わった。  作るものは、アレンジしやすいクッキーとブラウニー。  手間のかからないフォンダンショコラ。これはメレンゲを作る必要がない分焼き加減が難しいが、焼きすぎたらガトーショコラだと言ってしまえば素人目には分からない。  そして女子力高めのマカロン。初心者歓迎生チョコトリュフ。ローカロリーな豆腐チョコケーキ。  会議後、調理室に戻り参加したい回ごとに生徒を集めて人数を調節し、どうにかほぼ全校の女子生徒の要望を叶えた。  そしてその結果、お礼のチョコが大量に届いたという訳だ。 「モテモテじゃんか」 「だからただのお礼ですってば」  口をとがらせる根岸に孝一はそっけなく答える。 「全部がお礼なわけねぇじゃん! 俺知ってんだからな! 球技大会でお前のファンが増えたのも、調理実習で源氏シェフのKOU'Sキッチンって呼ばれてんのも、ゴキブリ叩きゲームでさえも頼りになるって言われてんのも知ってんだかんな! ゴキブリは引かれろよ!!」 「何それ、俺当事者なのに知らない」 「あーあ、これでゲイだなんてもったいないよなぁ」 「別にもったいなくないですよ。素敵な彼氏様が居ますし。ノーマルでも彼女いない人はもったいないですけどね」 「なんだと!?」 「おさえろ根岸! 確かにムカつくが落ち着くんだ!」  孝一に掴みかかろうとする根岸を野島が後ろから羽交い絞めにして抑えた。 「ていうか先輩たち何しに来たんすか」 「そんなのバレンタインのおこぼれをもらいに来たに決まってんだろ!」 「なにそれ可哀そう」 「きぃぃ!!」  生意気を言う孝一に、取り押さえられたままの根岸が地団太を踏む。 「まあ、好きなだけ持って行って良いっすけど。あとそこに俺と麻子さんで作ったのもあります」  孝一は大袋の影に隠れたケーキを指さした。艶やかなチョコレートに覆われた、断面が綺麗な層になっているそれは、とても手作りには見えない。 「せっかくなんでアルコールを飛ばしたオペラつくりました」  勧められたそれを手づかみで口に運んだ二人は、感動に頬を染めて、おおおと唸った。 「それで、川島さんは?」 「李都先輩にチョコ渡してから来るそうです」  チョコレートの付いた指を舐めながら聞く野島に孝一が答えると、 「正直あいつが一番羨ましい」 「同意」  OB二人が頷きあった。 ****** 「正宗きゅんは~罪な男でちゅね~」 「気持ち悪い」  登塾早々、畔戸に絡まれた正宗は苛立ちげに鼻に皺を寄せた。 「なになに? 源氏ちゃん居るのに女の子からチョコレート貰っちゃったん? ん?」 「俺宛のチョコじゃねぇし」  乱暴な口調で、重たい鞄を机に投げる。そんな常にない正宗の様子に畔戸は首を傾げた。 「なんか、機嫌悪い?」 「別に」  正宗は音を立てて椅子を引き、ドカッと腰を下ろすと、頬杖をついて明らかにふて腐れる。  彼がこんな態度になるのも無理はない。孝一と過ごす筈の休日を二回も逃し、バレンタイン当日の今日も彼が会いに来ないせいで顔も見ていないのだ。塾の後に彼の家を訪ねる予定だが、それでは自分から貰いに行くことになってしまう。できれば彼から会いに来て渡して欲しかった。正宗はとにかく孝一の愛が欲しいのだ。  極めつけに畔戸が絡んできた原因である鞄の中の包。たった今、孝一宛てのチョコレートを押し付けられたものだ。断りきれなかった自分も悪いが楽しくない。  正宗がイライラを逃がすように人差し指で机を叩いていると、鞄のポケットでケータイが震えた。新着メールを開いて「あー!?」と叫ぶ。 「なんだよあいつら、俺より先に源氏のチョコ貰ってんじゃねぇよ!」  打ち震える正宗に、畔戸が苦笑いをしてひらひらと掌を振った。 「あー、はいはい。何となく分かったわ」 ――ピンポーン  チャイムの音に心躍らせた孝一は、開けようとした玄関扉を奪うように外から引かれて、バランスを崩して外に立つ彼の胸に倒れ込んだ。  孝一を抱きとめた正宗は孝一ごと自身の体を玄関に押し込む。 「う、う、う、え……?」  靴を履いたままの正宗に背がそれるほど強く抱きしめられた孝一は、状況を飲み込めないながらも、彼の体温と匂いに胸を高鳴らせた。  体のしなりと胸の痛みが共鳴して、じんわり脳内麻薬が広がる。ほわんとした気持ちで正宗の背に腕を回して抱き返すと、眉を寄せた渋い顔に見つめられた。 「……ただいま」 「お、お久しぶりです」  孝一がそう返すと、正宗は下まぶたをひくりと痙攣させて、ぶつけるようなキスをして、その場に孝一を押し倒す。 「ひゃんっ!? ちょ、ちょ、たんまたんま!」  間髪入れずに裾から侵入してきた冷え切った指先から孝一は身をよじって逃げる。正宗の手を掴んで抵抗すると、彼は大きな舌打ちをして風呂に向かった。 「何あれ……」  突き放された孝一はしばし、脱衣所につながる引き戸をぼけっと見つめた。 『源氏、どうしよう!? 千尋さんが、千尋さんが……かわいい~~~!!』 「うっせ」  正宗が風呂から出るのを待つ間、孝一は遊馬から掛かってきたテンションの高い電話をぶち切った。  部屋の隅に置かれた正宗の鞄を横目で睨みつける。 (どう見ても本命チョコじゃねぇか)  無造作に空いたジッパーから、綺麗にラッピングされた包が覗いていた。  ガラッと脱衣所の扉が開閉する音がして、廊下を歩く足音のあと、自室の戸を叩かれる。 「入るぞ」 「どうぞ」  ぼそっと返すと、湯気を纏った正宗が入室し、孝一を見てすぐに彼の隣に置かれた六つの大袋を視認して顔を顰めた。 (俺に会いに来ないで、その間にこれだけのチョコレートを貰ってたわけ?) (何で俺以外から本命チョコ貰ってんの?)  冷やかに眇めた二人の視線が交差する。 「それなに」 「それなんすか」 「「……」」  正宗は鞄から出した包を孝一に突き出した。 「お前宛だよ」  孝一は目を見開き刹那に眉を顰める。 「……どういう気持ちでこれを俺に渡すんすか?」 「……」  答えない正宗から包を受け取り、机に置いて部屋を出る。  すぐにチョコケーキを持って帰ってきた孝一は、訝しげに視線を寄越す正宗の顔面にそれを投げつけた。 「ぎゃっ」 「俺はこういう気持ちで受け取ります」  正宗はフローリングの床に落ちたケーキの残骸を呆然と見つめ、 「はぁあ!?」  叫んだ。  怒号に似たそれに孝一の肩がびくっと跳ねる。 「俺のチョコケーキ!! ひどい!!」 「いや、俺が作ったやつですし」  いそいそと落ちたケーキを拾う正宗を前に、孝一は縮みあがる心臓を撫でつけた。 「なんだよ、俺より先に根岸たちにチョコ渡してるし、なんかたくさんチョコ貰ってるし。俺が居るんだから断れよ」 「全部義理ですし、今まさに部長経由で本命チョコもらいましたし、あんたが言ってること意味わかんない」 「こっちは事情があるんだよ!」 「こっちだってありますよ!」  孝一は言い合いに乱れた呼吸を「はぁぁ」と大きなため息で整え、正宗の前に腰を下ろし、複雑な顔で机の上の包をそっと撫でた。 「おれ、このチョコどうすれば良いんすか……」 「俺こそ顔面のクリームどうしたらいいかわかんねぇよ」 「そんなの、こうすれば良いでしょう?」  顔を背ける正宗の頬を両手で挟んで頬に付いたチョコレートを舐めとり、 「部長のバーカ」  罵る。 「なんすか、機嫌悪いと思ったら嫉妬してただけっすか。心臓に悪いんだよバーカ!」  バーカバーカと繰り返す孝一の顔に、正宗は拾ったケーキを鷲掴んで打ち付けた。 「ぶっ!」 「仕返し」  そのまま目も開けられないでいる孝一の唇を啄み「あっま……」と呟く。 「~~っ」  ふるふる震えながら薄く瞳を開ける孝一の、零れそうな涙と目に近いチョコレートを一緒に舌で掬った。「源氏が好きすぎて不機嫌になりましたぁ、ごめんねぇ」 「っ、乱暴にすんな……っ」  拗ねた顔のまま頬を染めた正宗が孝一の頭をぐりぐり撫でまわすと、「うぅっ」と唸った孝一が正宗の手を掴んで抗議する。  すると一変、ふわふわと髪を揉みながら顔中にちゅっちゅと、くすぐったいキスを落とす正宗に孝一は真っ赤な顔で肌を震わせた。 「~~っ、もう、だからあのチョコどうすれば良いの!」 「あんなもんお前の好きにしろ。そういう条件で預かったから」  正宗は答えながらケーキを崩して孝一の耳の後ろに塗った。びくっと跳ねたそこに舌を這わせる。 「ん……っ、ぁ」  甘い声を聴きながら耳全体を食んで息を吹き込む。 「ひやぅっ、ぅ~~っ!!」  無意識に身を捩って逃げようとする孝一の背におぶさり、服をたくし上げた。  武骨な指先がケーキのなれの果てをざらざらと背中に塗りたくる。孝一は下から上に這い上がってくるその感触と、次にそこを舐められる期待に身構え、浅く早い息を繰り返した。  ぬるりと熱い感触が、背骨中心に上から下にゆっくり降りていく。時折薄い肉に歯を立てて、くちゅっと水音を立てクリームを吸われ、腰が震えた。  正宗は孝一の背中に舌を這わせながら彼の尻を撫で上げ、腰が上がってきたところで、彼のズボンとパンツを下げながらお尻の割れ目に指を挿し入れた。 「ひゃぁ……!?」  割れ目から会陰を経て震える中心にクリームを塗りつける。 「あ、あ、待って……っ、やだっ」  先走りと混ざってぬるぬるざりざりと股間を刺激するそれに、孝一はか細い悲鳴を上げた。  谷間に鼻先を押し付けて、双玉から尻のケーキを舐めとると、孝一は「んぁあ……っ」と腰を突き出してガクガク震える。 「こっち向いて」  蕩けた顔で振り返る孝一に笑顔を向けて仰向けにさせ、服を完全に脱がせて、削げた腹にケーキを乗せて掌で崩して伸ばす。そうするだけで孝一は「あ……っ、あ……っ」と睫毛を震わせた。  へそから腹筋を丹念に舐めて、乳輪にクリームを滑らせる。 「まさむねさん……、まさむねさん……、はやく……っ」 「早く?」 「たべて……」  熱の籠った懇願に、正宗は喉を鳴らして真っ赤に熟れた実をジュウッと音を立てて吸った。 「ぃんンッ!! ~~っ!!」  右胸を吸いながら、左胸に先端にクリームを塗り込むと、組み敷いた腰がビクン、ビクンと跳ね上がる。  舐めて啄み、擽って、満足するまで味わうと、体を放してチョコクリームを纏ったままヒクヒク震える彼の中心を見据えて呟いた。 「……チョコバナナ」  程度の低い発言に孝一の拳が飛ぶが、正宗は構わずに彼の中心をしゃぶりながら、クリームまみれの指先を蕾に挿入した。 「んっひゃ、ぁあっ」  良いところをザリッと擦れば高い声が上って、口内のそれも反応する。  久しぶりに体を開く彼の負担にならないよう、じっくり解す。その間に艶めいた悲鳴が「嫌だやめろ」から「もうやだ早く」に変わっていった。  正宗は力の入らない孝一の足を大きく開いて肩に乗せ、ひくつく蕾に自身を宛がう。 「……いただきます」  一思いに突き上げれば、とびきり甘い嬌声が脳を揺らした。 ****** 「今年はチョコレート貰えないんだぁって諦めかけてたら、千春さんから連絡が来てぇ。千尋さんが朝からそわそわしてるって教えてくれたんだよぉ。 『今日はバレンタインデーだ! あいつにチョコを渡すぞ!』『渡せなかった……だってあいつモテるもん。俺からのチョコなんて要らないし……』『でも、やっぱり渡したい!』『でもこんな遅い時間に迷惑だよな……』って。  朝からだよ!? 朝から葛藤してるとか、千尋さんどれだけ可愛いの!?」  バレンタイン後の「忘れないで同盟」の集まりで、相好を崩した遊馬が惚気ると、にまにまと頬が緩むのを抑えきれない麻子も彼に続いて報告を始めた。 「私は、顔を真っ赤にしてケーキを受け取る李都先輩がとっても可愛らしかったので、思わずセクハラしちゃいました」 「「セクハラ!?」」  彼女の発言に遊馬と孝一の声が重なる。 「チョコレートを口移しで」  きゃっと声を上げる彼女は発言内容も仕草も可愛い。が、 「俺は……」  次の報告を期待する二人の視線を受けて、孝一は言葉を詰まらせた。  自分もセクハラをされたと言えば言えるかもしれない内容だが、彼女の様に可愛らしく報告できるものではない。 「なんというか、今回も相当頭悪かったなぁ……」  だから、もうすっかりホワイトデーの装いに変わった街に顔を向けて、遠い目をして呟いた。





 

正解は彼に教えてもらおう

 研ぎ澄まされた包丁の刃に少年の柔らかな面が写る。その表情は質感の柔らかさに反してきつく、固く閉ざされた心の暗い場所で、熱いものがマグマのように静かにドロドロと煮え立っていた。  今から三日ほど前のことだ。孝一の家に来る時間がいつもよりも遅くなると連絡を寄越してきた正宗が、少女と肩を並べて歩いているのを見つけた。以前正宗とファーストフード店に一緒に居た少女だ。二人はあの時と同じように、いやそれよりも真剣な表情で話し込んでいた。  その日孝一の家に来た正宗は、聞いてもいないのに、塾の先生の指導に熱が入って授業が長引いたと嘘の理由を話しだし、正宗が風呂に入っている間に盗み見ようとした彼のケータイにはロックがかかっていた。 ――殺そう  彼を殺して自分も死のう。彼からすべてを奪って自分の身一つを差し出そう。  孝一がそう思うのに充分だった。もう正宗が何と言おうが関係ない。自分が不安で、彼の何も信じられなくなりそうで、辛い。彼の気持ちが自分だけに向けられないことが辛い。エゴだと分かっていても感情が蓋の隙間から溢れ出た。  それから三日間、不安定な心を鎮めるために何度もこの包丁を研いだ。鏡のように曇りのないこの刃に彼を閉じ込めてしまえたら……  今日、2月20日は公立高校前期試験の合格発表だった。その結果を持って彼はうちに来るという。きっと彼は合格しただろう。ここから電車で4時間もかかるあの学校に。  孝一は静かに包丁を置くと、棚から白い錠剤の入った瓶を取り出した。 ****** 「んぅ……?」  目を覚ました正宗は、自由の効かない手足をぐっぐと動かし、霧がかったように鈍い思考をゆるゆると巡らせた。 「あ、目が覚めましたか」  正宗の横になるベッドの脇に立つ孝一が直立したまま呟いた。正宗の記憶は、彼に入れてもらったコーヒーを飲んだところでぷつりと途切れていた。 「え、源氏? 何だこれ……」  目の前には恋人、手足は紐でベッドに繋がれている。それについて尋ねると、孝一は危うげに微笑み、すぐに泣きそうに口元を歪ませて目を伏せた。安っぽい蛍光灯の光を真上から浴びた睫毛が濃い影を落とす。  正宗は命綱なしで細い糸の上を歩くような、少しでも間違えれば深く暗い谷底に一人で落ちて行ってしまいそうな孝一のその手を掴もうとするが叶わず、腕を拘束する紐をみしりと鳴らした。 「……っ、おい、どうしたんだよ」  訳が分からなかった。さっきまで――自分の思う「さっき」から実際にどれほど時間が経っているかは分からないが――孝一はいつも通り自分を迎えてくれて、自分は無事に試験に合格したことを報告し、二人で喜び談笑していたはずだ。時折孝一の表情に影が落ちることもあったが、それは彼にはよくあることで、正宗はいつも通り彼を甘やかしたのだ。  それなのに強制的に眠らされて、気が付けば壊れそうな彼が目の前にいるのに何もできない。 「ねえ、正宗さん。俺訊きたいことがあるんすけど」  孝一は焦点の合わない瞳を揺らして、消え入りそうな声で言った。 「……昨日、何してました……?」 「……あーー、ファミレスで勉強会だな」  とっさにそんな言葉が口をついた。しかしこれは本当のことではない。本当のことではないし、孝一も分かってしまっているだろう。真っ青な唇を戦慄かせ息を詰まらせる彼に、言うべき言葉は確実にこれでは無いのに、正宗には正解が分からなかった。 「二人でですか?」 「……何が言いたいんだ」  聞いてしまってから緩く首を振った。彼の聞きたいことは分かっている。 「お前が思っているようなことは無いぞ」 「俺が思ってることって」 「浮気はしてない」   じっと孝一の瞳を見つめると、孝一はぎゅっと顔を顰めて唇を噛んだ。 「……っ、で、も……っ!」  今にも崩れそうな体、崩れそうな表情なのに、その瞳はからからに乾いている。 「じゃぁ、なんで……」  無意識に力が入っているのだろう彼の全身が強張って震えた。 「あの人は特別? なんで何度も会ってるの? 頼られたらいくらでも手を差し伸べるの? なんであんなに辛そうな顔で話を聞くの?」 ――ポタリと床に赤い滴が落ちて染みを作った。 「げ、んじ……っ、何してんだお前! やめろ!!」  正宗はひゅっと息を飲みこみ、叫んだ。孝一の背中に隠れた、おそらく手の指先からだろう、水滴が落ちるまでの光景が瞳に焼き付いていた。 「もうやだ、苦しい。醜いよこんなの。あんたの優しさが憎いんだ。それが無かったら俺なんて見向きもされなかったのに、俺だけのものにならないからって壊したくなるんだ。全部潰したくなるんだ」  孝一は正宗を見ているのにそれを認識していないようだった。正宗の顔を見ずに声を聴かずに、泥のような言葉を吐きだす。腹の底でぐるぐると唸り声をあげる感情を押し殺した、静かで平坦な声で悲鳴を上げる。 「違う源氏! あいつは俺に会いに来たんじゃない、お前に謝りに来たんだ!」  正宗はそう言ってしまってから、しまった、と顎にぐっと皺を寄せた。それを彼に言うつもりはなかったから。 「……は?」  しかし孝一が反応したことに気を持ち直す。 「ちゃんと話すから、それを置いてこれを解け!」 「やだ」  からからの体から、からからの声を出す孝一の体から、鮮血がまた滴り落ちた。 「孝一!」 「いやだよ、怖い……」 「何が」 「正宗さん、いなくなっちゃう」  ようやく正宗を正しく見た孝一の声が湿り気を帯びる。 「居なくならない」 「嘘だ、遠くに行くじゃないか! 俺以外の人に心を砕くじゃないか! 俺は別に特別でも何でも無いんだ。たまたま人より不幸で可哀そうだったから放って置けなかっただけで、俺自身にあんたが構うような価値なんて無いし、だから」  ぼたぼたっと、床を濡らす赤の量が増した。 「孝一! 紐を解け!! 説明するって言ってんだろ!!」 「やだぁ……っ!」 「嫌じゃない! 嫌いになるぞ!」 「う、ぁ……やだ……」  孝一はぐしゃっと顔を崩し、しゃくり上げながら背に持っていた包丁を見せた。ギラリと凶悪に光を反射するそれに正宗はひくっと喉を閉まらせながらも懸命に彼に語り掛ける。 「そうだ、良い子だから。そのままこの紐を切れるな?」  宥めるように優しい声音を作ろうと思うのに、刃元で切れたのだろう彼の左手の小指が真っ赤に染まっているのを見て、動揺で声が上ずった。その赤に目がくぎ付けになり、耳の奥で心臓の音がバクバク煩く鳴り響く。  孝一が包丁で正宗の腕を拘束する紐を切ると、すぐに正宗はその包丁を奪って、自分で足の拘束を切り不自然に鋭い包丁を部屋の隅にスライドさせた。  無言のまま孝一の腕を掴んで険しい表情で傷口を確認する。力んだことで血が多く出てしまっただけのようで傷自体はそれほど深くない。それよりも刃元に押し付けてできた筋が痛々しかった。  正宗は棚から救急箱を取り出して素早く手当てをした後、包帯を巻いた手を苦しそうな顔で見つめてそっと撫でた。 「……どうして、ちゃんと守れないんだよ……っ」  困惑する孝一を抱き寄せて肩に頬を寄せる。それからじっと息を殺して、しばらくして深い息を吐くと共に話し始めた。 「――初めて彼女に会ったのは、前期入試の日だ。お前と別れた後、お前を尾行していた彼女に接触した」  明菜と名乗った彼女は、孝一の元同級生だった。彼女は自分が孝一の理解者であり、彼の為に何かしたいのだと言い募ったが、孝一に惚れていることはすぐに分かった。  とても不快だった。そんな彼女が孝一に接触することもそうだが、何より過去の事件に孝一を二度と関わらせたくなかった。だから、彼女から聞きたいことだけ聞いたら、さっさと引き取ってもらおうと思ったのだが……  生徒たちに孝一の事件はいじめが発展した傷害事件として伝わっている。実行犯は全員少年院に入り、孝一の転校よりもそちらのほうが大きなニュースになっていて、同じ学校に通う孝一の兄弟は、労いや心配する言葉をかけられることはあっても孝一が原因でいじめにあったりはしていない。生徒のほとんどは周りの空気に流されて孝一にひどいことをしてしまったり見て見ぬふりをしてしまったが、今は仲直りをしたいと思っている。だからまた、地元に顔を出しに来てほしい。と、彼女は言った。  正宗の聞きたいかったことはそのすべてであり、それを聞けば終わりにしてよかった。しかし、彼女の孝一への真心を、語りから察することができたために彼女を無下にすることができなかった。それから何度か彼女と会い、孝一に会いたがる彼女を説得して相談に乗っていた。どうしても孝一に謝りたいという彼女を説き伏せて、仕方なく孝一へのチョコレートも受け取った。 「――俺は彼女に優しくなんてないし、割とお前のことしか考えてないよ」  すべてを聞き終えた孝一は、ぐにゃりと体から力が抜けてしまう。 「なんすか、それ……あんた、受験生でしょ? あんなに大変そうだったのに、なんで俺なんかのために、そんな……」  彼に一瞬でも不満を持った自分が恥ずかしくて、悔しかった。 「それなのに俺、ごめんなさい……っ」 「許さない」 「っ、」 「……許さない」  正宗は息を詰める孝一の手を取り、包帯の上から掌で包んだ。ただ彼を守りたかった。でも、結局彼は傷ついてしまった。 「一生許さない。俺の気も知らないで勝手に苦しんで、ふざけんな。……一生離さねぇから」  正宗のまっすぐな瞳が孝一の胸を射抜く。孝一は、彼の言葉がじわっと心に染み込んで、泣きたくなった。彼がいればもう何も怖くないと思えた。 「――あの、正宗さん。次、いつその人に会う予定ですか」 ******  カランと扉のベルを鳴らして二人の少年が店に入ると、手前の席に着いていた少女が慌てて立ち上がり、身を乗り出した。彼女、明菜にとって待ち望んだ瞬間だった。 「源氏君、私……っ」  彼と再び会えたことへの歓喜と心咎めに彼女は声を震わせる。しかしそれを彼が制した。 「まって。正直俺はあんたの顔も名前も覚えちゃいなかった。だから謝る必要はないし要らない。俺の居場所はここにあるから、そっちに居場所は要らない。それだけ言いに来た」  明菜はすっと顔色を無くし、唇を震わせる。第一声で明菜の願いをすべて否定されてしまった。 「で、でも」  尚言い募ろうとする明菜を、孝一は首を振ってさえぎった。 「俺は、あんたたちに捨てられた時、あんたたちを捨てたんだよ。分かってよ」  明菜はきゅっと口を結んで、彼を見つめた。目の前の彼は自分の知る彼とは明らかに変わっていた。いじめにあう前とも後とも違う。 「……源氏君は、今幸せ?」 ――私たちの元に帰らないほうが幸せ?   明菜の問いに孝一は、たっぷり沈黙して自身の心を探りながらゆっくり口を開いた。 「……過去に魘されて叫ぶ前に、慰めてくれる人がいるんだ。……苦手なことも辛いこともたくさんあるし、もう無理だ、嫌だって思うけど、俺を諦めないでくれる人がいるから、少しずつ息をするのが楽なった」  孝一が隣に立つ正宗を覗うと、すぐに自分を見つめる視線にぶつかった。 「俺は今すごく恵まれてる。そのせいで自分をどうしようもなく惨めに思うこともあるけど――幸せに、なりたいな……」  孝一が遠い目をして切なげに微笑みを浮かべると、その体をふわりと包まれた。孝一は自身を囲む腕の中でぷすっと噴き出す。 「部長、なんて顔してるんすか」  愛しい人の優しさと体温に包まれて、四肢を弛緩させる。 「あー……今、この瞬間はめっちゃ幸せ」  二人を見ていた明菜は、ふぅっと吐息を漏らした。 「そっか、分かった。もう、これで終わりにする。でも最後に言わせてほしい」  願い出ると、孝一の視線が返ってきた。 「私、本当に源氏君のことが好きだった。好きだったのに、付きまとうようなことをして迷惑かけてごめんなさい。これからは、源氏君が……っ、新しい場所で幸せになることをっ、」  ほろほろと勝手に熱い滴が頬を伝う。きちんと伝えたいのに声が震えた。 「願ってます……っ!」  孝一は「ありがとう」と言ってふにゃりと笑った。  これが明菜の見る彼の最後の表情になる。もう彼には会わないのだと、恋心と決別するのだと思うと、心に大きな穴が開いたようで、寂しくて空しくて悲しくて涙が止まらなかった。 「部長、また誰かがこうやって連絡してきたら俺に教えてください。知っても知らなくても辛いなら、部長の近くが良い」  二人になってすぐ、正宗が考えても分からなかった正解を孝一が教えてくれた。





 

第二ボタン

 制服のボタンを付け替える24時。この頃夜中に光物をいじることが多いなと、銀色に輝く縫い針を見て他人事のように考えた。 ******  三年生の中学卒業の日。感動の式を終え、サッカー部の集まりも終えた後に、遊馬は千尋との別れを惜しんでいた。 「千尋さん、ごぞじゅぎょうおめでどうございまずぅぅ……っ!」 「うわ、汚ねぇ」 「ひどいでずぅ~!」  憎まれ口を叩きながらも、千尋は号泣する遊馬の涙をハンカチで拭ってやった。  晴れ渡る空と白い雲の下、別れを惜しみ巣立つ背中を押す言葉とすすり泣く声が聞こえる。お祭りのように騒ぐ人もいる。そんな中、 「そのボタン返せー!!」 「嫌よ! 振られたんだからいいじゃない!!」  ざわめく空気を、猛スピードで駆け抜ける男女が切り裂いた。 「え、何あれ。すごいスピードで走って行ったけど、宮本君だったよね?」 「は、はい。えー、何があったんだろう……」  困惑する二人に背後から聞きなれたボーイソプラノの声が掛かる。 「何があったと思う?」 「うわ、影木先輩!?」  神出鬼没な彼に肩を跳ねさせる二人に、彼は正宗を示して「びっくりするよ」と忠告するが、びっくりなら彼のおかげで、すでにしている。 「源氏君が宮本君に別れたいって言ったら、あの子がすぐさま宮本の第二ボタンを奪って逃げたんだ。神業だった」 「あー、なるほど……って、エェ!?」  しかし彼の話はびっくりどころか、とても信じがたいものだった。 「「別れた!?」」 「あら良い反応」 「いやいや嘘でしょ、あの二人が分かれるなんて! て言うかあんた何でそんな淡々としてるんですか!?」  取り乱す遊馬に影木は努めて冷静な声で対応する。 「いや、僕だって信じられなかったし、信じたくなかったよ。あの準ベストカップルが分かれるだなんてそんな、考えただけで今すぐ投身自殺できるレベルで動揺してるし、一緒居た千春ちゃんなんて目撃してすぐ覗き見してた木の上から落ちて今保健室に居るし、僕は彼女に頼まれて真相を解明するべく彼らを追い掛けて来た訳だけど、もう足もガクガクでマヂ無理リスカしよ……」 「むしろ他人のことでどうしてそこまで追い詰められてんですか!?」 「これは腐ったもののサガだよ! ああ~~準ベスト~~!! ちなみにベストカップルは君たちだから~!!」  結局冷静さを捨て頭を抱えて取り乱してしまった影木と、未だ状況についていけない遊馬と千尋の耳に、ひときわ大きな声が飛び込んできた。 「離せ! 何すんだ!」  絶賛話題沸騰中のサッカー部部長の叫び声だ。三人は顔を見合わせて現場に向かった。 「根岸先輩! 野島先輩!」  遊馬は人だかりの中に見つけた二人に駆け寄った。 「これ、どういう状況ですか?」  二人の視線の先では正宗が学校一ガタイの良い生徒指導員に取り押さえられている。 「いやぁ、はたから見たら正宗が女子生徒を追いかけまわしてたわけじゃん? 取り押さえるじゃん」 「無罪を主張するだろ? 取られた第二ボタンを取り返すって。でもそれって――」 「「名誉じゃん!!」」  漫画であったら集中線が引かれているだろう、二人は迫真の表情で声を合わせた。根岸の糸目はカッと見開いていた。 「いやだ! あのボタンは源氏のなんだ!!」 「いやいや、お前振られたんだろ? 先生お前らがそういう関係だったとかちょっと複雑だけど、そこは認めるよ。でも振られたんだろ?」 「違う、俺は認めてない!」 「宮本、あれだぞ? 往生際の悪い男は嫌われるぞ?」 「先生は何も分かってない! あいつがあんなこと言うわけない、何かの間違いだ!」  教師の拘束を解こうと抵抗する正宗に、無表情の氷の女王が歩み寄り、彼の目の前に仁王立ちで立ちふさがった。 「部長」 「源氏!」 「あのボタン、あの人に渡しちゃって良いっすよ」  カオスな空間に落ちた場違いに飄々とした声に、正宗が目を見開いて固まる。その瞳に映るのは絶望の二文字だ。  彼らを見守る生徒たちは固唾を呑む者、小さく頭を振る者、青ざめて震えるものと様々だが、誰かが漏らした「信じられない」との呟きが全員の総意だった。  そんなピンと張った糸のように緊迫した空気に、孝一は軽く言葉を落とした。 「ダミーだから」 「だ、だみー?」  孝一の口から紡がれた予想外の単語に、正宗は呆然とその言葉を繰り返す。 「昨日、俺の予備のボタンと交換しておきました」 「じゃあ、本物は……?」 「俺が保管してますよ」  数秒、誰もが言葉を失った。  彼らを中心にぽかりとあいた空間に、間の抜けた風が吹き抜ける。 「……あの、二人ともちゃんと話し合いましょうか」  そろ~っ、と遊馬がそう言うと、生徒は各々頷いた。 「え、何これどういうこと?」  畔戸は戸惑いの声を上げた。自校の卒業式を終え、お祭り気分のまま塾仲間である正宗と李都に会いに来た彼は、複雑な感情を抱え混沌とした空気を纏う集団を前に立ちすむ。 『あ、畔戸琉惺』  なぜか面識のない連中にもフルネームで名前を呼ばれ、ひくっと頬を引き攣らせた。 ****** 「別れてください」  その言葉を受け入れられず、一度は耳を素通りした。 「別れましょう」  孝一の再びの言葉に、彼との思い出が走馬灯のように正宗の頭を巡る。彼との出会い、洗濯場での思い出、付き合うまでの紆余曲折に、すれ違いと嫉妬のすったもんだの毎日に、ようやく中学の事件と決別した先日の会合…… 「いや、ありえないだろ!!!?」  この期に及んでそんなあっさり別れるとか、マジで。 ****** 「はー、また拗らせてんねぇ」  流れで御呼ばれしてしまった孝一のアパートで、彼に出された麦茶を飲みながら畔戸はしみじみ呟いた。  この場に居るのは彼と遊馬と千尋と影木と千春と野島と李都と麻子。普段孝一と父の雪永と時々正宗しか使わないリビングでは過密だ。暑苦しさを感じつつ、李都は彼に尋ねる。 「拗らせるとは」 「いや、だって。意味が分からないだろ? あの正宗が別れを切り出されるようなことするわけねぇじゃん。だから、なんかしら拗らせたんだろ?」 「畔戸琉惺、源氏のことは知らないだろ」  知ったように言う畔戸に、今度は野島が返した。 「あの二人が愛し合ってることは馬鹿みたいに伝わってるけどね。俺完全に部外者なのにね。あと何で君たちは俺のことを知ってるの? そんでフルネームで呼ぶの?」  今さらな彼の疑問に、 「畔戸琉惺は畔戸琉惺だから」  と、野島 「噂はかねがね」  と、影木 「うわぁ何それ、やーな感じー」  その反応に畔戸はイーッと歯をむき出してソファの背もたれに仰け反った。 「でもまぁ、拗らせるのはいつものことみたいだけど、振られて混乱してるところで第三者に第二ボタン奪われて逃走されるって……っ」  そのままくつくつと笑いだす畔戸を野島が「ほら、それだ!」と指さした。 「これが畔戸琉惺だ!」 「俺の評価なんなのよ!」  騒がしいリビングと扉一つで隔たれた八畳の洋室、孝一の自室で孝一と正宗は向かい合う。  隣とは一変して重い沈黙が訪れると思いきや、孝一は立て板に水のごとく話し出した。 「俺、部長と会ってから短い時間だったけど、いろんなことがあって、不安になることも沢山あったけど、やっぱり幸せで……。でも、だからこそ別れたいです」 「どうして」  彼の意図が分からない正宗は、唸るように低い声で問いただした。 「どうして別れる必要がある?」  孝一は自身の胸を拳で押さえて、続けた。 「遠距離の間に浮気されたら刺しに行く自信があります。この前の件で確信できました。だから、恋人関係を一度白紙に戻して、自分が高校に入ったらもう一回やり直したいんです」  その言葉に正宗は、頭にカッと血が上るのが分かった。 「俺が信用できないのか」 「……俺は、部長が思っている以上にずっと弱い……」  正宗の指摘に、孝一は目を伏せ声を絞った。 「俺は部長以上に自分自身を信用できない。俺には俺の嫌いな部分がたくさんある。例え部長がそれをすべて受け入れてくれているとしても、俺はいつまでも今のままじゃない。外見も中身も変わる。いつか愛想を尽かされるかもしれない。絶対なんて無い」  孝一は彼を本当は信じたいし、すでにほとんど信じていた。でも、それを認めてしまえば、もしもの時に耐えられない。 「俺は、部長が近くに居ないだけで不安になる。死にたくなる。部長が俺を見限ることだけじゃない。誰かを好きなることだけじゃない。誰かが部長に想いを寄せているかもしれないって、そう考えるだけで死にそうなくらい苦しくなる。  だって、俺はあんたのものだから! あんたは俺のものの筈だから! 名前のある関係がなまじあるから物理的な繋がりが無いことに苦しくなる! だから、一度他人になって!」  孝一は、歪に揺れる瞳を正宗に向けた。 「……俺、また好きになってもらえるように頑張るから……」  正宗は、彼の悲痛な叫びを受けて、おぼつかない思考のまま彼の気持ちを汲んでしまった。 「なに、まだ話し合い終わらないの?」  アパートに来る途中、コンビニ寄ると言って別れた根岸が、ひょこっとリビングに顔を出した。 「おお、根岸何買ってきたんだ?」 「んー? まああれだ。野島君、影木君、畔戸琉惺、ちょっと」  野島が声を掛けると、根岸はちょいちょいと三人を指で招く。  廊下側の入り口前で四人がごそごそしていると、ようやく孝一と正宗が部屋から出てきた。 「あ、おい。宮本、大丈夫か……?」  心ここに非ずな正宗に李都が声を掛けるが、まともな反応は返ってこない。 「ちょっと源氏……」  孝一の方に遊馬が声を掛ければ、彼は「別れました」と一言。  そんなこと、正宗が認めるはずがないと信じていた面々は、驚きに声を上げた。根岸に至っては奇声をあげて孝一の肩に掴みかかった。  最近慣れてきたとはいえ、男性不信の孝一に男の自分が急にこんなことをすれば、とっさに正宗に助けを求めるだろうと思ったのだ。しかし、予想外にも彼は小さく肩を揺らした他無反応。逆に正宗の方がはらはらと両の目から涙を溢れさせた。 「え、ま!? 正宗さん!?」  慌てて駆け寄った孝一を、正宗はしっかと抱きしめて膝から崩れ落ちた。 「嫌だ……、触るな……っ」 「どうしたんですか?」 「俺の、俺のだから……!」  孝一は、震える彼の背中を撫でて、肩に押し付けられた彼の頭を胸に抱く。 「ごめんなさい、別れるのやめます」 「……ぇ」  正宗は、濡れた瞳を孝一に向けた。 「だから、泣かないで」 「いやでも、お前別れたいって、」  孝一は、正宗の頬を掌でんで、不安に揺らぐ瞳を正面から見据える。 「部長はどうして泣いているんですか。部長の気持ちを何も聞いてません」 「俺は――お前を離したくない。誰にも触らせたくない。別れたら、嫉妬する資格も、文句を言う資格もなくなる。もしお前がどこかに行きそうになったときに、何もできなくなる」  今目の前に居る彼を一時でも離したくなかった。 「それは、嫌だ……」  孝一は諦めたようにふっと吐息を漏らすと、正宗の額に自身の額をこつんとぶつけた。 「引き留めるからには責任持ってくださいね」 ――パーンッ!!  乾いた大きな音と共に火薬の臭いが部屋に漂う。驚いたみんなの視線の先では扉の前で袋を漁っていた四人がクラッカーを構えていた。 「いや、なんだよそれ」 「いやぁ、どうせ丸く収まるんだろうと思って。買ってきちゃった」 「――ふ、ふふっ」 「あははっ」 「根岸はなんでその三人を選んだのっ!?」 「愉快犯の匂いを感じて」 「俺初対面なのに!?」 「あはははっ」  二人暮らしのアパートが、軽やかな笑い声でいっぱいになる頃、この日ばかりは仕事を早めに切り上げた雪永が帰ってきた。  今日はめでたい卒業式だ。さあ、今からでもお祝いをしよう。 ******  みんなが帰り、一人になった夜。孝一は寂しがる胸にガラスの小瓶を抱いて眠った。 「末永くよろしくお願いします」  小瓶の中で、金のボタンが一つカランと音を立てて彼を慰めた。


カウントダウン編 <完>