兄恋 鬱と馬鹿とエロス 編


 

女好きと腐

「ちーちゃんは女の子が大好きなんだよ」  ミルクティのストローを咥えて、やけに真剣な表情で言う千春に、影木幻十郎は眠そうな瞳をゆっくり瞬いた。  千春は、幻十郎の腐った仲間、不仲間である。二人は毎日の昼休みを植木の影から彼女の兄――ちーちゃんと、その恋人である学園のプリンス王司遊馬の観察、もとい、二人を見守ることに使っている。今も正にその時間で、彼女はさっきまで、遊馬の口の端に付いたご飯粒を千尋がとってやるのを見て、「ちーちゃんが、ちゃんと先輩してる!」など少々失礼な感動を味わっていた筈だ。 「急にどうしたの?」 「そう思ってたんだけど、違うかも知れない。ちーちゃんは元からホモだったのかもしれない」  話が繋がった。  千春は実の兄で萌える、兄不幸な妹である。そんな彼女が投げた「ちーちゃんは女の子が大好きなんだよ」が「だからプリンスと付き合うなんておかしい。何かの間違いだ」に繋がる筈がなかった。しかし、彼女の言わんとすることは、幻十郎的萌から外れていたりする。 「萌えの究極ナチュラルホモォではないというのか」 「ナチュラルホモォはまた違う気がする」 「じゃあ言い直す。『男が好きなんじゃない。好きになった奴がたまたま男だっただけだ』を否定するのはなぜだ」  そう、幻十郎は、女好きが男を好きになる、という萌を彼に感じていたのだ。 「エロ本が無いからだ」 「探したの?」 「そりゃあもう」 「何故に」 「エロ本を見つけてプリンスにそれとなく伝えて、萌え展開に持ち込めないかと思った次第」 「まこと立派な心がけ!」  妹にエロ本を捜された千尋に同情しつつも、萌えの為なら仕方ないよね、と幻十郎は不義理な彼女を褒め讃えた。 「でも一冊もありませんでした」 「ふーん。でも今のご時世、夜のおかずなんてものはネットやらなんやらで手に入るわけですよ」 「履歴も確認済みなわけですよ」 「予想以上に徹底してた」 「萌えの為ならえんやこらぁ。でも、履歴もそりゃもう綺麗なものだったのよ」  彼女の答えに、幻十郎は「うーん」と唸る。その声はどうにも力が入っていないので「ふぅーぬ」という感じなのだが。まあ、納得いかずに唸った。  千尋が女好きなのは、少し見ていれば分かるのだ。可愛い子とすれ違えば、視線で追うし、遊馬が告白されればギリッと悔しげに奥歯を噛み締めていた。彼が千春の体でいた時には、遊馬に告白する女の子の方に嫉妬しているものだと思ったのだが、まさかの「女子にモテる遊馬爆発しろ!」ギリィ……っ! だったとは。  千尋が女好きであることは幻十郎にとって確固たる事実だった。おかずが無くても年頃の男子だ、やることはやっているに違いない! つまり彼の「やりかた」を究明すれば良いのだ!  次の休み時間、幻十郎は早速千尋を訪ねた。 「千尋君って好きなタイプは王司君なの?」 「え? いや。普通に可愛い女の子が好きだけど。なんで?」 「別に。気になっただけだよ。好きな女の子のタイプとか」 「ふーん。そうだなぁ……可愛い子が良いな。目が大きくて、やせ過ぎじゃなくて。優しい子」 「うん。王司君だね」 「うん。っじゃ、ねーよ! 女・の・子! 柔らくて可愛い女の子! そこは女優とかアイドルとかの名前出すところだろ!? 身近なとこなら一年の若林春香ちゃんとかいるでしょうに!」  千尋の好みが遊馬と丸被りだったから、幻十郎は自然に彼の名前を出したのだが、千尋は赤面してそう捲し立てた。怒って赤くなったのではなく、照れて赤くなってることが分かってしまうから、この男は美味しい存在だというのだ。幻十郎はうんうんと頷いた。  ところで、千尋の言う一年とは、千春の部活の後輩で、彼女と仲の良い、彼女に腐った知識を植え付けた犯人でもある、いわば自分たちのお仲間だった筈だ。 「ああ、あの腐女子」 「ふ?」 「いや、なんでもない。ゆるふわな感じだね。たれ目ではないけど」 「雰囲気はたれ目だから。良いんだ」  腐の意味が分からないながらも、理解が得られて満足したのだろう。千尋はうんうんと頷いた。  次に、幻十郎は遊馬を訪ねた。 「王司君」 「あ、え……と、影木先輩。どうしたんですか」  放課後にはサッカーの練習があるのだろう。エナメルバッグを肩に下げた彼は戸惑い気味に尋ねた。思えば幻十郎が彼と一対一で話すのは初めてかもしれない。 「うん。ちょっと千尋君のことで訊きたいことがあって」 「なんですか?」 「王司君って元から千尋君みたいな人がタイプだったの?」 「え……うーん。そうかもしれませんねぇ」  初めての話題がエロ本の話の延長などとは思いもつかない遊馬は真面目に考えてくれる。 「ツンデレのデレが無い感じが好きです」  でも、真面目に考えた結果出てきた答えは、 「変態だね」 「そんなことないですよー」  正直に感想を述べた幻十郎に遊馬は笑顔を絶やさないながらも、不満げに答えた。器用な表情筋である。 「でも、王司君ってモテるから、なかなか千尋君みたいに罵倒してくれる人はいなかったんだろうね」 「そ・う・な・ん・で・す・よ! 千尋さんの罵倒は至上ですよ! 愛のある罵倒っていうんですか! 照れからくる罵倒がたまりません! 千尋さんにデレたセリフは必要無いですね! 罵倒した後に見せるちょっと不安げな表情が至上のデレです!――どわぁっ!」  身を乗り出して力説していた遊馬は、突如背中に衝撃を受けてつんのめった。 「気持ち悪い!」  振り返れば、眉を寄せつつもほんのり頬を染めた千尋が右足を挙げている。 「あ、ゆるふわな女の子が大好きな千尋君」  幻十郎がふざけてそう言えば、千尋は何故か偉そうに腰に手を当てて答えた。 「ああ、そうだ俺がゆるふわガール好きの千尋だ」 「え!? 千尋さん、俺にゆるふわガールになれって言うんですか!?」  悲壮感溢れる表情で言う遊馬に千尋の返す言葉は、 「お前なんぞ知らん」  つれない。 「千尋君のエロ本は、ゆるふわガール」 「なんで影木先輩が千尋さんのエロ本知ってるんですかぁ!?」 「いや、違うけど」 「じゃあ何?」  否定する千尋に幻十郎が詰め寄る。これは彼の「やりかた」を知るチャンスだ。 「いや、べつにエロ本とか持ってないし」 「想像力で補えると言う訳ですね。分かりました」 「まあ、そうだけど」  的外れなことを言えば正解を教えてくれるかな、などと思って適当に言った言葉を肯定された。 「え、本当に!? どんな妄想!?」 「いや、教えないけど」 「あれですか、パソコンで変態プレイを調べて好みの女の子で妄想ですか」 「そ、そんなこと、してるわけないだろ……っ」  もう一度的外れなことを言えば、と適当なことを言うと、今度は否定された。でも、この反応は…… 「図星か」  想像力で補う発言は恥ずかしくないのに、これに肯定するのは躊躇うってどういうことだ。「変態プレイ」か「女の子で妄想」か、どれが彼の琴線に触れたのか。直接的な言葉はダメということか。分かりました。可愛いです。 「千尋さーんっ」 「ああ、もうお前うるさい!」  幻十郎が勝手に納得して萌えていると、遊馬が半泣きで千尋に飛びつき、千尋はそんな彼をもう一度蹴り飛ばした。 「千尋君は女の子が大好きだったよ」  中庭の植木の影で、幻十郎は調査の結果を千春に報告した。 「そっか。まあ、そうだよね」  兄の性癖を教えられた千春は何でもないように頷いた。 「ちなみに好みのタイプは若林春香ちゃんだって」 「それは脈無いわ」 「脈無いんだ」 「要らないしね」 「そうだね」  腐女子腐男子は頷き合う。実の妹に性癖を知られた上に、好きなタイプの子に脈無し認定された千尋はとても可哀想だ。しかし、二人は今日も清々しい気持ちで千尋と遊馬を見守るのだ。 ****** 「男って、乳首感じるのかな」  単語帳を捲りながら、やけに真剣な表情で言う千尋に、幻十郎は眠そうな瞳をゆっくり瞬いた。  千尋は、学園のプリンスである遊馬と交際する、腐男子幻十郎の大好物「ゲイ」である。幻十郎と千尋の関係は、彼の妹の千春を介する友人……なのだろう。しかし、千尋は幻十郎と千春が腐っていることどころか、「腐」の意味すら知らない。  先日、千尋の好みのタイプ、オカズについて詮索してから、彼は幻十郎相手に躊躇無くそういった話をするようになっていた。友人の少ない彼は、今まで猥談をしたことなどなかったのだろう、その話は唐突に始まり、表情はとても生き生きとしている。 「急にどうしたの」  幻十郎は様子を見るために、努めて平静を装ってそう返した。 「俺は女の子の胸なんて触る機会無いんだろうな……て、思ったら何となく」 「僕はまた、おかずにすべく変なプレイを捜してる中で興味が沸いたのかと」 「すまない。その通りだ」  幻十郎が千尋を気に入っている理由の一つに、彼の女好きが挙げられる。「女の子大好きなのに、男と付きあっている」萌えるじゃないか。その女好きはそれを全く隠そうとしない。今回も唐突に飛び出した女の子中心の話題に、幻十郎は「ひゃっほう」と思いつつ、あることを望んでいた。 「王司君に触ってもらったら」  すなわちホモが見たい。 「それはどうだろうか」 「きっと学園のプリンスは経験豊富でテクニシャンに違いないよ」  そうだ! ホモが見たい! 「それは……どうかな……」 「どうかねぇ」  幻十郎は彼が興味を持つように、含みを持たせて呟いた。 ――さあ、僕にホモを寄越すのだ! ******  幻十郎の罠に嵌った千尋は、早速その日の昼休み、遊馬を物理室に呼び出した。  どうしてわざわざこんなところに呼び出すのかと不思議に思いつつ、遊馬はその扉を開けた。すでに千尋は教室の真ん中で待っている。しかし、その表情が思いのほか沈痛であることに気づき、遊馬は足早に彼に近づいた。 「どうしたんですか? 千尋さん」  彼を心配して、顔を覗き込むと、彼は真剣な顔のまま、 「乳首ってさ……男でも感じんのかな……」  と言い出した。 「え」  まさかの話題に遊馬は間抜けな声を出す。 「……さぁ」 「なんだよ、お前は良いよ? 女の子にモテるんだから! 女の子の反応見りゃ良いじゃん!可愛いじゃん! 俺はそうはいかないじゃん!! 乳首イラレ勝負だこの野郎!!」 「ちょっと、どうしたんですか?」  遊馬は戸惑い慌てた。目の前の恋人はあくまで真剣だ。何が彼をこの話題に導いたのか。 「知らないよ! お前なんか知らないよ! どうせテクニシャンなんだろ!」  詰め寄る彼にたじろぐことしかできない。 「え、ちょっと!?」 「教えろよ! 俺にそのテクニックを教えろよ!」  しかし、その言葉に遊馬は目の色を変えた。 「良いんですか?」 「え、何が?」 「実践指導を行います」  B舎一階の端にある第二物理室。中学の教科に関係ないその特別教室は、体育祭前に道具の一時保管場所にされている以外に使われているところを見たことが無い。  そこに並べられた蛇口の付きの大きな机の一つの下で、千尋は遊馬に背中から抱かれて、甘い吐息を漏らしていた。 「ふ……ン……っ」  乳輪を優しくなぞられて、中心のそれが次第に主張を始める。 「……どうですか?」  赤く染まっているであろう耳に、唇で触れられて、吐息とともに囁かれれば、ゾクゾクと体が震えた。  最初は、くすぐったいという程でもない、ただの違和感だった。その違和感が、指先で撫でられるうちに、大きくなって、無性に恥ずかしくて居た堪れなくなって、泣きたいような気持ちになった。それでも我慢して耐えているうちに、千尋の顔を覗き込んだ遊馬の目の色が変わるのが分かって、彼の鼓動と呼吸が早くなるのが分かって、快感より先に空気に飲まれた。 「べ、つに――ぅん、ぁ……っ」  尖った突起に軽く爪を立てられて、甘い疼きが声となって外に漏れる。  千尋は、口を出た甘い吐息に、目を見開いて固まる。「うそ……っ」と呟くのに被せて「気持ち良い?」なんて訊かれて、否定したいのに追って攻められたらまた声が出た。  遊馬は、悔しそうに顔を歪めて、戸惑って不安げに瞳を翳らせる千尋の危うさに、息を呑む。 「う、ん……っ、やぁ……っ」  中心を攻めるのを止めて、再び乳輪に沿って円を描くように指を滑らせると、じれったそうに千尋が身をよじらせた。 「何が嫌?」 「……っ、遊馬の癖に――っぃ、ぁ……っ」  遊馬が意地悪く問えば、彼は上目使いに睨みつけてくる。その様子が可愛くて、もの欲しそうにツンと尖ったそれを指先で擽った。 「や、ん……っ、ふ……っ」  指先がそこを撫でるたびに、色づいた小さな花弁のような唇が、甘い吐息を漏らす。 「千尋さん可愛い……」  遊馬は囁やいて、彼の反り始めた背をそっとなぞった。 「ひぅぅう……っ、ばかっ! 胸だけって言った――んぁ!?」  ゾクゾクと這い上がってきた快感の波に身を震わせた千尋は、のけぞって抗議の声を上げる。しかし、それは指先で突起を弾かれたことによって遮られた。 「はーい。すみません」  両乳首の先端を立てた指でなぞるように引っ掻かれて、痺れに似た快感に喉が震える。自分の置かれた状況に理解が追いつかなかった。  だって、こんなのおかしい。男なのに、胸をいじられて感じるなんて、今まであることを意識すらしなかった場所が、こんな…… 「ふぅ……っん……ぁ、ぁ……んぁ……っ」 「こうですよね?」  焦らされて、焦らされて、千尋の瞳に涙の幕が張っていった。 「やぁ……っ、ひ……ぃっ」  徐々に指先に力を込められて、千尋は逃げようと身じろぐ。しかしそれは、当の遊馬に背中から抱えられているため叶わない。 「お前、やっぱりおかしいよ。なんで男なのに、こんな……っ」 「おかしいのは俺じゃなくて千尋さんじゃないですかね。男なのに、ここでこんなに感じて」 「~~っ」  指の腹でそこを押し潰されて、きゅーんと痺れるその感覚に、千尋は顎を反って眉根を寄せた。 「可愛い。可愛すぎて苛めたくなっちゃいます」  言いながら、遊馬はくっきり綺麗に浮き上がる突起の角に指を掛けて、クリクリと向きを変えさせる。 「あ……っ、あ……っ、あ……っ」  断続的に訪れる快感に、千尋は身を縮こませた。 「千尋さん、下きつくないですか」  そう言って遊馬は、主張する千尋の中心をわざと刺激するように、スラックスのファスナーを下げた。 「え、な――、んぁぁあ……っ」 「ああ、すみません。態とじゃないんですよ?」  白々しいセリフを紡ぎつつ、下着の出口からそこを取り出し、慰めるという名目でそこを撫でる。 「やぁ……っ、ひ……っ、やめろ……っ!」  股を擦り合わせて、彼が抗議の声を上げるので、そこを弄るのは止めにして、手を元の位置に戻した。 「はい。ここだけって約束ですもんね」  そう言って、乳首を引っ張れば、小柄な彼が大きく背を逸らせて声を上げる。 「ひぁぁあああっっ!」 「感度良すぎです。可愛い」 「ひやぁ、や、んぅ、ん……っ、ぁあっ、ふにゃぁあ……っ」  そのままそこを親指と人差し指で挟んでこりこり捏ねると、彼は甘い悲鳴を上げて、びくびく震えた。 「もっと?」 「やだっ、まって、ちょっ、やっぁ、ああ……っ、ひぅぅうっ、」  もう無理だと、首を振るのに、問答無用で指に力を入れられる。ほんの少しの痛みを伴うそれに、声が止まらない。 「んぁぁあ、あ、あぁ……っ!」 「千尋さん、下見て。すごいことになってる」  ぷくっぷくっと先走りの蜜を溢れさせるそこを示して言えば、千尋は真っ赤な顔で涙を散らして首を振った。 「や、やだ……見るな……っ」  恥ずかしがる彼が可愛くて、色っぽくて――  遊馬は舌なめずりをすると、衝動のまま彼の真っ赤な耳を食み、そそのまま直接耳孔に言葉を吹き込んだ。 「――美味しそう」 「~~っ!?」  千尋は声もなくビクッと体を強ばらせる。  吐息混じりの低くかすれた声に、つま先から頭の天辺まで震えが走る。全身の毛穴が開いて髪の毛がぶわっと逆立つ感覚がした。 「千尋さん、どうですか? 胸だけでイけそうですか?」  聞きながら、遊馬は千尋の足を跨いで彼に向かい会う。 「え、なに、ちょ、まって、」  千尋の静止を無視して胸の色付く果実を口に含んだ。 「ひっ――」  たっぷりの唾液でそこを濡らして、熱い舌先で押しつぶす。 「く、口ダメ、だ……ぁっ、ぁあっ、やぁああ……っ」  抗議の声を無視して肉厚な唇でそこを挟んで柔く刺激し、前歯で甘噛みしつつ舌先で先端を擽った。 「あ、あ、だめ、もう、もう……っ、」  彼の手が頭を掴み、離そうするので、スパートをかける。もう一方の乳首を捏ねくりつつ、口に含んだそれをちゅーっと吸った。 「――っひ、ん、ぁああァァ……っ!」  指先まで力を入れて欲を放つ千尋の上で、イく寸前に手を伸ばしその蜜を受け止めた遊馬は、恋人のもっともいやらしく可愛らしいその姿を脳に焼き付けた。 「……イきましたね」 「――はぁ……っ、はぁ……っ」 「勝負、俺の勝ちですよ?」 「……しょう……、ぶ……?」 「イラレ勝負って言ってたじゃないですかぁ」  そこで、そんなことも言ったなぁと、千尋は少し前の会話を思い出した。 「俺が勝ったんだから、お願い聞いてくれますよね!」 「え、」 「これからたくさん開拓させてください!」  俺、あれ、勢いで言っただけなのに……  自分で撒いた種とはいえ、千尋は先のことが一気に不安になったのだった。 「――って、相談をされてね。だから今頃、あるいは近いうちに、二人はあんなことやこんなことをすると思うんだよ」  幻十郎は、千尋にされた相談の内容をそのまま千春に伝えた。実の兄の赤裸々な話に、千春は乙女のように胸の前で手を組んで「ふぉぉお!」と感嘆の声を漏らす。  千尋は自分が食物にされていること、ましてやそれを妹と共有されていることなど知らない。だからきっとこれからも、友人の少ない彼は唯一猥談をできる存在である幻十郎に、こういった話を持ちかけ続けるだろう。そして幻十郎は、またこうして千春と共有するのだろう。このことを千尋は知らない。知らないし、知らない方が幸せだ。





 

男の尊厳

「千尋くん、暗い顔してどうしたの? 何か悩み事?」  黒髪おかっぱキューティクル、大きな目にバサバサ睫毛の美しい少年が訊ねた。 「実は……オナニーの仕方を間違えていたみたいなんだ……」  栗色ショートさらさら髪の毛の、細いたれ目にツンと釣った眉の可愛い少年が答えた。  中休みの理科室に、風が吹き込みカーテンが揺れる。紅葉が一枚ひらりと床に舞い落ちた。  遊馬と千春がそろって部活で居ない時、千尋と幻十郎は二人でいることが多々あった。友人の少ない千尋は、幻十郎に心を開き、悩みを相談するようになっていた。そしてまた、今日のように唐突に猥談を始めることもあった。 「ちなみに、どんな?」 「皮オナ……」  窓辺に椅子を並べて、片ひじをサッシの外の木枠にかけて向かい合う。吹き込む風は秋の匂いがした。夏の強い日差しは徐々に勢いを無くして、今は柔く澄んだ光が教室に差し込んでいる。その情景だけを見れば、甘酸っぱい青春の一ページ……なのだが。 「床オナ、足ピンオナが悪い、というのは知ってたんだけど、皮オナが悪いとは思っていなかったんだ」  内容が全く甘酸っぱくない。肉肉しい。 「……皮オナ普通じゃない?」  幻十郎は、この男はまた面白い話をしだしたな、今回はどう転がるかな。などと考えつつ答える。  床オナは、床やベッドにペニスを擦りつけて行うオナニー。足ピンオナは、足をピンと伸ばして行うオナニー。この二つは、得られる刺激が本番と異なるために、本番でうまく感じることができなくなるという危険があると聞く。しかし、皮オナは周りの皮を持って擦るオナニー、一般的な筈だと思った。 「亀頭オナニーというものがあるらしい。皮を剥いて、亀頭を擦るんだって。早漏対策になって、皮が伸びるのを予防するから包茎対策にもなるんだって。――やってみた」 「どうだった?」 「痛かった」 「だったら、止めれば良いじゃない」と、幻十郎はその言葉を飲み込んだ。代わりに、 「僕には良く分からないな。王司君にも聞いてみたら良いんじゃない?」  と、綺麗な笑顔で提案する。  表情筋の死んだ幻十郎のここ一番の笑顔は、千春や勘の良い人には怖いと言われる裏のあるものだが、幸か不幸か千尋には全く伝わらなかった。 「ねえ、王司君」  幻十郎は、機会を逃しはしまいと、放課後練習の休憩に入った遊馬を早速捕まえに行った。 「影木先輩?」 「今ちょっとだけ良い? 渡したいものがあるんだけど」  近づいてきた彼にコンビニの袋を見せて言う。 「近いうちに千尋君と二人きりになる予定ない?」 「今日も一緒に帰って、多分千尋さんの家に行くと思いますけど?」 「うん。じゃあさ、これ必要だよ」 「え、なんですかこれ?」  袋を受け取った遊馬は、中身を確認して「はあ!?」と声を上げた。 「本当に何ですかこれ、ちょっと!?」  と、遊馬が訊くのに、幻十郎は、 「グッドラック!」  と親指を立てて颯爽と去っていってしまった。  どうしたどうしたと、チームメイトが寄って来そうになって、遊馬は慌てて「何でもないです!」とロッカールームに走る。  渡された袋には、何かのメモと、思春期の少年には用途が一つしか思いつけないローションと、何故か女性用のストッキングが入っていた。 ****** 「――と、いうわけなんだ」  相談があると呼ばれた遊馬が恋人の家に来てみると、彼は真面目な顔でオナニーについて語りだした。この感覚知ってる、なにこれデジャブ。乳首開発に続く彼の奇行に、遊馬は頭を抱えた。 (なんだこの人、頭良いのに馬鹿すぎる……)と。  千春の体だった時には猥談や好きな子の好みの話などする訳もなく、彼のこんな面は知らなかったのだ。もう、しみじみ馬鹿だなぁ、と思った。ついでにこのことを予測して遊馬に道具を渡してきた幻十郎に対しても、どこか頭のネジが外れているんじゃないかと思った。  しかし、 「じゃあ、早速脱いでください」  これは据え膳であると判断して、千尋をベッドの端に座らせて、そう促す遊馬も相当おかしい。馬鹿だ。そうでなければ馬鹿を騙す酷い奴だ。 「えっと、俺だけ……?」  遊馬にそんなふうに笑顔で、軽く指示されて、千尋は動揺した。  目隠し用の白いカーテンは薄く、窓からは夕焼け色の光が差し込んで、蛍光灯と協力して部屋を明るく照らしている。 「俺が脱ぐ意味あります?」 「いや、そうなんだけど……」  いくら遊馬しかいないとはいえ、白昼堂々一人人前で下半身を晒すなんて。と、千尋が渋っていると、遊馬が手を伸ばしてきた。 「俺が脱がせましょうか」 「い、や……! 大丈夫、脱ぐ、よ」  自分で脱いだって、脱がされたって、脱ぐことには変わりない。身を縮めながらズボンとパンツを下げた千尋は、下半身に注がれる視線に萎縮した。  蛍光灯の下に晒されたそこを遊馬がじっと見つめている。 「あ、のさ……あんまり見ないでほしいんだけど……」  耐えられなくて膝を閉じるのに、すぐに遊馬の手が膝を割ってきて、開かされてしまう。彼がそのまま膝立ちで、千尋の足の間に滑り込むと、股間の正面の位置にハンサムな顔がきた。 「っ! なに!?」  いきなり距離を詰められて、後じさりする。彼の鼻先と自分の局部が触れ合いそうなほど至近距離にあった。 「何って。これからもっとすごいの、見せてくれるんでしょ?」  千尋の膝を押さえていた手で、すっと内股を撫でて遊馬が言った。  かぁぁぁああっ  千尋の顔が真っ赤に染まる。顔が熱い、視界が滲む。 ――見られてる、見られてる、見られてる……っ  好きな人の顔が、あらぬ所のそんな近くにあって、こんな明るい場所で、そんな至近距離で。 「あ、千尋さん。ちょっと興奮してます?」  遊馬が千尋の右手をとり、そこに触れさせた。 「んっ」 「ほら、反応してる」 「や……っ」  そのままくちゅっと先っぽを擦らされて、鼻から声が漏れた。  心臓が、バクバクと五月蠅く鳴る。こんな風に興奮してるなんて、それを指摘されるなんて、変態みたいじゃないか。 「きつオナは慣れないと、このままじゃ痛いんですよ。ローションとか使わないと。はい、千尋さん」  この台詞のこの情報、もちろん遊馬がもともと持っている知識ではない。幻十郎に渡されたメモに書いてあったことである。  千尋が悶々としている中、遊馬は同じく彼に渡されたローションを取り出した。 「それ、かけてください」  促すと、千尋は恐る恐るそれをゆくっりと垂らした。予想外に冷たかったのか、ぷるっとそこが震える。 「震えた」 「うるさい!」  ローションをかけられたそこが、てらてらと光る。千尋は生々しくて見ていられない、と目を逸らした。 「皮、剥いてください」  目を逸らしたまま、ゆっくりと皮を剥く。 「……う、く……っ」 「痛くなかったでしょ?」  こくんと頷く千尋の頭を、遊馬が「可愛い」と撫でてきたので、「年上を子ども扱いするな」と、その手を弾いた。 「じゃ、そのまま擦ってください」  言われるがままに擦ると、今までのオナニーでは感じたことの無い快感が千尋を襲った。 「ふぁ、あ、あ……何これ……っ」  感じるのが辛い。 「ん! ぁ……っ、ふうン……っん! 声……っ」  オナニーなのに声が止まらない、なんで。 「手、止めちゃだめですよ」 「あっ、あっ、やだ……っ」 「気持ち良さそう……。もっと色々試してみてくださいよ、ねえ。」  規則的に擦るだけだった手を取られて、指を持って、くにっと尿道に立てられる。 「ひゃ、ぁあ……っ!」  ゾクゾクと這い上がる寒気にも似た快感に、顎がのけぞった。 「泣かないで」 「う、ん……っ」  目じりを撫でられて、慰められる。それでも手を止めることは許してくれないのだろう。  強い快感に襲われ続けて、全身に力が入った。気持ち良い、気持ち良すぎる。しかし、今までにない快感を、射精に繋げることができなくて、出したいのに出すことが適わない。 「は、ぁ……っ、ん……っ苦しい……っ」 「うんうん、大丈夫大丈夫」 「も、や……っ」 「ギブアップですか?」 「だって……、出ない……っ」  やだ、やだ、と泣きながら首を振ると、遊馬がごくりと喉を鳴らして、千尋の体をベッドに完全に押し上げた。 「じゃ、俺がやってあげますよ」  そう言うや否や、ポケットから取り出したストッキングで遊馬は千尋の両腕をベッドヘッドに縛り付ける。道具の使い方までメモに書いてくれた幻十郎は自分たちを一体どんな目で見ているのかと思うが、据え膳は食べる。 「え、ま、何!?」  自分より大きな男に膝の上に乗られて、完全に動きを封じられてしまった千尋は、戸惑いと不安に顔を曇らせた。 「大人しくしててくださいね。ちゃんと気持ち良くしてあげますから」  遊馬はハムスターの口みたいなハンサムな笑顔でそう言うと、ポケットからもう一つストッキングを出した。それにローションをたっぷりかけて、ひくひくと震える千尋の亀頭に当てる。 「……行きますよ」 「や、やだ、まって……っ、ま――!」  ゴクリと遊馬が唾を飲み込んで宣言すると、緊張した雰囲気に千尋の恐怖が促される。及び腰の彼を後目に、遊馬がストッキングを左右に引いて擦ると、千尋はビクンと体を跳ねさせて、細いたれ目を大きく見開いた。 「――ひ、ぎぃぁあああっ!? や、あぁあっ!!」  絶え間なく、絶叫が喉を吐いて、ジタバタと手足が暴れる。あまりの反応に、遊馬も不安になるが、痛いのだったら「痛い」と言う筈だし、痛みを伴うほど強く擦ってはいない。 「千尋さん、どうですか?」 「いや、いやだぁっ!! やめ、やめてぇえっ!!」  ピリピリした空気を纏って尋ねてくる遊馬に、千尋は反乱狂で訴えた。  摩擦によって生まれた、電流のようなビリビリした強い快感の波に翻弄される。抵抗何てできないし、する気もないのに、手足がもがいてがくがくとベットが揺れる。  目の前がチカチカして、何がどうなっているのか分からなくなる。頭がぐちゃぐちゃで、彼が何を言っているのか、自分が何を言っているのかも分からなくなる。  恐い。彼に手を伸ばしたいのに、触れて安心したいのに動けない。 「はぁぁあアア……ッ!」  一際強い快感が這い上がってきて、頭の先から足の先まで痙攣した。  千尋のその反応に、遊馬は「あれ?」と手を止める。いつの間にか彼を攻めていた遊馬も肩を上下させて荒い息を繰り返していた。 「イきましたよね……?」 「ひ、ゃ……!? さわ、触るな!」  遊馬が未だ膨らんだままの千尋のそれに手を添えようとしてくるのに、抵抗する。 「退けよぉ……っ」  千尋はおどおどと膝を立てた遊馬の下から足を抜いて丸くなる。 「うそ、何これ、出てない、なんで……っ」  千尋は自分が射精していないこと、肌が敏感になって、じりじり焦がれるように疼くこと。自分が異常な反応をしていることを理解して一気に不安が押し寄せてきた。 「ふ、ぇ……っ、やだぁっ、怖いぃいいっ!」 「ち、千尋さん落ち着いて」 「やだぁ! 俺もう男じゃないんだ、出ないんだ……っ!」 「で、出ますよ! きっと我慢しすぎてうまくいかなかっただけですよ!」 「やだぁああっ!」  体は変だし、遊馬は怖いし、散々で。頭もぐちゃぐちゃなままで混乱して子供のように泣きじゃくった。  えぐえぐしゃくり上げる千尋に、遊馬はそっと手を添える。丸まった彼のお尻の方から手を入れて、膨らんだままの局部を撫でた。 「え、や、やだまって」  指先で根元を揉んで、大きく開いた指の又で挟んで捻る。緩くなった太ももに手首まで突っ込んで、その手首で双球を、手のひら全体で中心を擦るように揉んだ。 「きっとイけるから大丈夫ですよ、泣かないでください」 「あ、あ、あ~~っ!!」  どんな風に触っても、千尋の体は大げさに反応した。遊馬は悶えながらうつ伏せになってしまった彼の背中に覆いかぶさって、背の下の方に口付ける。千尋はそれにも反応して背をしならせた。 「遊馬、やだっ」  浮き出た肩甲骨の輪郭に沿って指を這わせると、そこがビクッと跳ねて、上半身が崩れる。 「やだってば、ぁっ!!」 「でももう少しですよ。ね?」  千尋はどろどろに崩れた顔を枕に押し付けて、首を振る。今までこんな風に感じたことはなかった。気持ちよすぎて息も止まりそうだ。亀頭を指で挟んでくいくいと角度を変えるように動かされて、腰が蕩ける。根元からヌかれてカリに指が引っかかったところで、親指で先端を擦れて身が捩れる。 「ひ、ひゃ、ひぁんっ」  先走りの上を滑るように指を動かされて、意味を成さない喘ぎが唾液と一緒に枕に吸い込まれた。  もう無理、おかしくなる、おかしくなった。朦朧とする意識の中でそんなことをぐるぐる考えていると、不意に、彼の指がぐいっと蜜口を抉った。 「ひンっ、ぁア!?」  瞬間、熱いどろっとした液体がそこから溢れ出す。それが尿道を広げて出てくる感覚に、また腰が砕けるのに、「出ましたよ! ほら!」と遊馬が無邪気に絞り出そうと手を動かしてくるから堪らない。 「~~っ!!  ~~っ!!」  千尋は首をブンブン振ってもがいた末に、がくっと首を落とした。  ぺちぺちと頬を叩かれて目を覚ますと、ハンサムな顔が心配そうに千尋を覗き込んでいた。 「――死ぬかと思った」 「でも、意識飛ばすほど気持ち良かったんでしょ?」 「死ぬかと思った!」  じっと顔を見て訴えた筈なのに、ジワリと視界が滲んで顔が見えなくなる。 「次からもっとソフトに行きましょうか」  瞼に優しくキスされて、ポロリと瞳から雫が落ちた。 「……そうして」 「『いやいや』って、泣きだしたら出させてあげます」  腰に腕を回されて安心する。 「ちゃんと、抱き締めてくれないと……やだ……」  言うつもりもない言葉がするっと口をついてしまうと、ぎゅぅっと苦しいほどに抱き締められる。 「千尋さん、可愛すぎますよ!」 「優しくしてくれないと、やだ……」 「誓います!」  抱き締められながらキスをする。気持ち良い、満たされる。 「……」  見つめ合い、唐突に思い出した。 「いや、これオナニーの話だから」  千尋が言うと、 「いや、そもそも恋人が俺の時点で早漏がなんだって心配いりませんから」  と、遊馬が答えた。  千尋ははっとして固まり、その場に崩れ落ちる。 「あ~……」  死ぬ思いをしたのに、意味が無かったなんて……って、いや……? 「千尋さん? その顔なんですか?」 「……」 「なんで不満げなんですか」 「……だって、」  俯いてぼそっと呟いた声は小さすぎて聞き取れず、遊馬は彼に耳を寄せた。 「俺だって男だし!!」  しかし続いた声は予想外に大きく、遊馬は「うわっ」と耳を塞いだ。 ****** 「プリンスも悪よのう」 「いやぁ……やりますな」  茶碗越しに壁に耳を当てた千春と幻十郎は口々に言う。 「それにしても今回も影木君はよく動いたね」 「わざわざ、きつオナで検索掛けた甲斐があったよ」  二人はコツンと拳を突き合わせて健闘を称え合う。  隣の部屋からは千尋の「ふざけんな!! 俺にだって男の尊厳が――」うんぬんの罵倒を追って、遊馬の謝罪が聞こえてきた。





 

眉間の皺

「まーた、皺寄ってますよぉ」  遊馬はそう言って千尋の眉間をぐりぐりと指先で擦った。  千尋は彼のその笑顔を不安に陰る瞳で見つめた。 ――キーンコーンカーンコーン 「廊下を走るな」と大きく書かれた、ポスターが風にたなびく。午前の授業の終わりのチャイムと共に、教室を飛び出した千尋は、何かに急き立てられるように走りだした。  白砂利の眩しい中庭に出る扉は、階段の向こうにある。中庭に出ずに階段の裏に回れば、階段の下のスペースを利用した倉庫があった。千尋はその倉庫の扉を開けて、中の空気を吸う。暗くて、かび臭くて、陰気で――居心地が良い。  千尋は、人に誇れるものが何もなかった。勉強だけは人より少しできたが、千尋の父親は「勉強よりも価値のあるものがある」という考えで固まった人だった。一見柔軟に思える意見だが、実は違う。柔軟な考えとは、勉強でも運動でも芸術でも、優れたところを見て伸ばすことだろう。しかし彼の父は、勉強なんて二の次だった。勉強しか取り柄のない千尋より、音楽の才能のある千春の方がすごい、という扱いをあからさまにする。 「これだからお前は」「所詮お前は」幾度となく言われた言葉だ。それでも、千尋には勉強しかないから、机にすがっていた。それなのに、受験にも失敗して何もなくなった。  落胆すら見られない、すました表情の父に「まあ、勉強なんて特別できなくても生きていけるんだから、これからはもっと他の物に目を向けてみたらどうだ」と、そう言われて。今までのことが全て無駄だったのだと、絶壁から突き落とされた気持ちになった。彼の認めない勉強だけど、頑張り続ければいつか認めてくれると思っていたのに。  進学してから、彼の言うように、友人関係を見直そうとした。でも、無駄だった。人見知りは根っからの性格で、どうにもならないし、周りに適当に合わせるなんて器用なこともできなかった。体験入部にだって行ったけれど、それも駄目だった。運動部の上下関係、文化部の孤立した雰囲気。ともすれば排他的ですらあるそこに馴染めなかった。  そうして頑張って、挫折した結果、千尋の心は脆くなった。  誰にも会いたくない瞬間がある。暗闇に溶け込みたい時がある。自分が何者かも考えたく無くなることがある。  千尋は倉庫の扉を閉めて、そこに座り込み、膝を抱えた。落ち着く。しかし、痛い。 「どうせ俺なんて……」  つぶやきが薄暗い空間に溶ける。  皆が普通にできることができないのが情けなかった。遊馬のことだってそうだ。自分は普通の恋愛すらできない。男なのに女みたいに甘やかされて、なけなしのプライドがぼろぼろだった。  ズゴー……  飲むヨーグルトの紙パックが、音とともに萎れていく。 (千尋さん今日は来ないのかなぁ……)  空になった弁当箱を抱えて、遊馬は見えない耳をぺたんと折った。 ――キーンコーンカーンコーン  予鈴に急かされて弁当を片付けていると、背後で音がした。曇りガラス越しに倉庫から人が出てきたのが分かる。しかし、遊馬が扉を開けた時には、走り去るその人の後ろ髪しか見ることができなかった。  グラウンドは、暑さが和らぐとともに砂埃が多く舞うようになった。いつものように軽快に走り回り、白黒のボールを追う遊馬は、動きは普段と変わらないものの、表情が違かった。練習中はいつも楽しそうに笑みを湛えている表情が硬い。 遊馬の脳裏には、昼休みの終わりに見た後ろ姿がこびりついていた。 (あれは、千尋さんだった。……でも、どうして?)  やっと残暑を抜けたと思ったら、すぐにシャツ一枚では肌寒く思う気候にかわった。秋はいつ来ていつ去って行ったのだろう。特に今日は九月末にあるまじき寒さで、衣替え前にもかかわらず、多くの生徒がセーターを着込んでいた。生徒指導の先生も見て見ぬ振りだ。  そんな中、彼は暗く寒いあの場所で何をしていたのだろうか。最初は、何かの道具をとりに入っただけかと思った。でも、すぐに違うと分かった。だって自分は彼が来るのを待って、ずっと耳を澄まして彼の気配を探っていたのだから。  不安と焦りが、遊馬の色白の顔をより白くし、表情を固まらせていた。  部活中いつも同じ木の陰から見ている千尋の姿がなく、終了後に見に行っても、彼はそこに居なかった。  正直遊馬は焦っていた。先日彼に半無理矢理きつオナレクチャーをしたのを境に、彼の態度が少しずつおかしくなっていることに今更気が付いたのだ。 (やっぱりやりすぎた? 調子に乗りすぎた?)  しかし、彼が言い出したことだし、あれだけ馬鹿なことを言う人がそんなに繊細だとは思えなかった。  遊馬は携帯電話を取り出し、先月登録したばかりの番号に繋いだ。 『もしもし』 「もしもし、千春先輩ですか」 『うん。えっと、もしかしてちーちゃんプリンスのこと避けてる?』  いきなり確信を付いた彼女に、やはり何かあったのだと、息を呑む。 「そ、そうです」 『うーん……と』 「先輩?」 『ちーちゃんね、たまにそうなるの』  優しいソプラノが続ける。 『なんていうか、軽い躁鬱っていうのかな? 最近色々あったし、考えすぎてるのかもしれない』 「い、いろいろってやっぱり……っ」 (きつオナだけじゃなくて乳首開拓も入っているの!? 他のところも開拓させてとか言ったから警戒してる!?) 『言ってもね、昔からだから、プリンスがどうって話じゃないよ! ちーちゃんね、小さいことを気にするの。例えば私の方が友達が多かったり、私の友達と話が合わなかったり。そんなの些細なことなのに』 「あ、そっちですか」  双子の妹と体が入れ替わった事についてだと分かり、ほっと息を吐く。しかし、それなら自分を避ける理由が分からない。 『プリンスのことも、ちーちゃん元々女の子大好きだし、思うところはあるかも。無条件に甘やかされてるのも、逆に不安になってるかもしれない』 ――元々女の子大好きだし  そういえば、馬鹿だと呆れるような言動をする千尋だが、それは全て男としての思考からくるものだった。俺が男だから悩んでる? 俺が彼を女扱いしてる? でも、 「甘やかしてるつもりは……」  無い、とは言えなかった。 『変だよね。思ったように行動した結果、甘やかしてる感じになっちゃうだけなのに。プリンスが甘やかしたくなる魅力をちーちゃんが持ってるってことなのに、自分に自信がないから理解できないんだよ。プリンスは、ちーちゃんのそういうとこ面倒だって思う?』 「思いません」  そうだ。自分は彼を好きだから、大切にしたいと思って行動しているだけ。触りたくて触って、可愛い愛しいと思って接しているだけだ。女の子だなんて思ってないし、結果甘やかしてしまうだけだ。 『正直に言って良いんだよ。面倒だったら、放っておけばそのうち勝手に浮上するから』 「思いません! 勝手に浮上するとか、言われても、そんなの……」  彼女の言葉に被せ気味に答える。浮上するまで、彼が一人で苦しむのかと思うと辛かった。空気は澄んでいるのに、全身を嫌な汗が包んでいる。 『ありがとう』  千春は、ほっと気の抜けた声で答えた。 『ちーちゃんは、こうなると私とも話をしなくなるの。なんていうか「頑張ってる」っていうか、ちーちゃんが「凄い」って思う人と一緒に居るのが辛くなるんだって。プリンスは、ちーちゃんにとって雲の上の人だよ。だから、今会っても苦しめる事になると思う』 「でも、そんなのおかしいですよ……」  遊馬は肌同士が接触しないように、肘を持ち上げた。汗を流していない体がべたべたして凄く気持ち悪い。彼の気持ちも理解できなくて気持ちが悪い。 「俺にとっては、千尋さんだって凄い人だし、俺だって、雲の上って言われるほど凄いやつでも、聖人君主でもない。失敗だって、反省だって山ほどしてます」 『だってそれ、ちーちゃんは知らないもん』  その言葉にハッとする。 『ちーちゃんとどうしても一緒に居たいなら、ちょっとちーちゃんのところまで降りて行ってあげてよ』  それから、二三言交わして通話を終えた。意識の外にあった秋の虫の声が耳に届くと、すっと気持ちが落ち着く気がした。 ******  背の高い木に背中を預ける。日が落ちるのが早くなって、部活動終了時刻には空が朱色に染まるようになった。冷たい風に、下に敷いたビニール袋がカサカサ音を立てる。  グランド脇の植木の影で、千尋はいつものように、遊馬を目で追っていた。今日の彼はいつもより真剣で、男前に見える。でも、それを好きだとは思えなかった。  笑顔の彼は可愛くて、ハンサムで、好きだ。試合中の真剣な顔も恰好良くて好きだ。俺に迫ってくるときの、その……切羽詰った顔も、好き……  でも、今日の彼の顔は千尋の気持ちを暗くした。辛い、悲しい、寂しい。そんな気持ちになるのは、もしかして彼がそう感じているからだろうか。  首を振ってその考えを追いやる。きっと勘違いだ。自分の気持ちが沈んでいるからそう思うだけだ。  遊馬が部室に戻るのを見届けて、次の行動をどうしようか迷った。千尋はいつものように彼を見ていた。しかし場所が違う。いつもの場所とはグランドを挟んで向かい側の林の奥で、木の影に隠れるようにして彼を見ていたのだ。  普段なら、彼を待って、一緒に帰る。でも、彼はここには来ない。自分は彼に会いたくない。  眩しい存在は、自分を照らしていると感じる時もあれば、自分の醜悪な部分をあばかれていると感じる時もあった。自分の周りは、眩しいものだらけで、その代表が彼と妹で、二人を見ると辛くなった。  定期的に、好きなものから逃げずにはいられない、そんな気持ちになる。そして、そう思う自分をいっそう醜いと感じてふさぎ込む。千春はそうなった千尋に極力近づかないようにしてくれる。千尋も、すぐに良くなることが分かっているから深刻にはならなかった。でも、彼はどうだろうか。こんな自分を知ったら気味が悪いと思うだろうか、面倒くさいと思うだろうか。そう考えると不安だった。  彼が嫌いなわけじゃない。会いたくないわけじゃない。好きなのに、好きだから……  丸二日、彼を無視してしまった。メールでも何でも良いから連絡しないといけないのに、でも、今は彼と繋がりを持ちたくない。  日が落ちて、いっそう気温が下がってきた。身体を丸めても、首元が寒い。 (寒い。会いたい。でも、会いたくない。……会いたいのに、会えない) 「……遊馬」 「千尋さん!!」  呟きに、ある筈の無い答えが返って来た。 「千尋さん」  体を捻って振り向くと、欲しかった体温に包まれる。ビニールが風に飛ばされる。制服の膝が柔らかい土に埋まった。 「遊馬、何で……」 「そんな風に呼ばれたら、来ないわけないじゃないですか……」  彼の腕が脇の下を潜って、背に回される。密着するように抱き寄せられて、背がしなった。「――っ、お前のせいだ!! 俺は、こんな筈じゃなかった」  彼の匂いに包まれて、安心してしまいそうになる。そのことにお穏やかな気持ちでいられなかった。 「いつも女々しい、面倒くさい。友達もできない。お前にも頼りっぱなしのやられっぱなしで、情けない……」  今も、勝手に離れて行った自分を迎えに来て、怒るどころか抱きしめて甘やかして。それなのに自分は八つ当たりして、甘えている。こんなんじゃ、駄目なのに…… 「千尋さんの目はすごいですね。他人の良いところばっかり見て覚えちゃう。でも、千尋さん自身を見るときは曇っちゃうんですね。千尋さんはこんなに魅力的なのに」  俯いた顔を上げさせられる。今いつも以上に不細工な顔してるから、見せたくないんだけど。 「向上心を持つのは良いですけど、上ばっかり見てたら疲れちゃいますよ?」 「お前だって上見てるじゃねぇか。知ってんだぞ。お前の目標ペレなんだろ」  千尋は、ツンと口を尖らせて彼の瞳から目を逸らした。 「いやいや、彼、サッカーの王様だからね!? それと比べられてもね!? フォワードやってたらほとんどの選手はペレ信仰してると思うよ!?」 「あとお前んとこの新部長、お前がすごい勢いで追いかけて来るって、ビビってたぞ」 「部長が!? 何それ嬉しい!――じゃなくて」  遊馬は横道に逸れそうになる話を無理やり戻した。 「俺は良いんですよ。俺のは『俺すげぇ! よっしゃもっと頑張ろう!』ですけど千尋さんのは『俺はどうしてこんななんだろ、誰それはもっとアレなのに』って感じじゃないですか。千尋さんだってすごいのに。もっと自分を認めてくださいよ」  逸らされた千尋の目線を追って、ふわりと笑いかける。 「俺、千尋さんが思ってるみたいに、偉いやつじゃないですよ」  彼の瞳が遊馬を写したことを確かめて、深く息を吸いこんだ。 「黒歴史その一。幼稚園の頃、仲良くしてくれた女の子に、恋愛感情を抱かれていると妄想して酷いことを言った。黒歴史その二。小学生の時、相手の迷惑を考えず何度も同じ相手に告白をした。その三。好いてくる人を鬱陶しく感じて、人見知りをして、友好的に話しかけてきたクラスメイトを無視した。――全部後悔してるし、反省してます」  指折り数えて言い終えて、いつの間にか外してしまった視線を彼に戻す。 「千尋さんは、こんな俺を駄目な奴だと思いますか?」  少し声が震えた。こんな風に自分が気にしていることを口にして、彼がそんな人じゃないと分かっていても、万が一軽蔑されたら、嫌な気分にさせたらと思うと怖かった。 「そんなの……誰だって……」  でも、彼の反応を見て安心する。 「千尋さんは? 千尋さんのダメなところはもっとダメなんですか? 誰もが目を逸らすような残虐なことをしたんですか? 反省も後悔もしないで、悔しいとも悲しいとも思わないで、のうのうと生きているんですか?」  千尋はぐっと拳を握った。  やった方は覚えていなくても、やられた方は覚えている。その逆に、やられた方が覚えてないことでも、やった方が覚えていることだってある。千尋は全部覚えている。気にしていないと思っていた筈の周囲からの言葉を、ふと思い出して押し潰されそうになる。重ねて言われれば心にこびり付く。自分の軽率な行動はいつまでも記憶から消えないで、心を蝕む。受験で負けた記憶はまだ色あせずにジクジク頭の片隅を蝕んでいる。 「俺は、いつだって、……悔しい」  低く震える声で答えると、遊馬の口元がふんわり弧を描いた。 「最後にもう一つ。今、千尋さんが会いたくないって思ってるのに、会いに来ちゃいました。すみません。でも、……千尋さんが俺に会いたくなくても、俺が千尋さんに会わなくちゃ、死んじゃいそうだったんです。千尋さんが心配で、千尋さんに会いたくて死んじゃいそうだったんです。だから、許してくださいね」 「……」 「怒ってます?」 「それ、黒歴史なの?」 「それは、千尋さんの反応次第ですかねぇ」  千尋は、情けなく眉を下げる彼の胸に飛び込んだ。彼の体温に、涙腺を容赦なく攻め立てられて、ぐっと奥歯を噛み締める。 「……会いたくなくなんてなかった」  熱くなった目頭を遊馬の胸に擦り付けると、彼が息をつめたのが伝わってきて、千尋は噛みしめた歯を緩めた。 「会いたくなくなんてなかった!」  歯の力を抜いた代わりに、彼のシャツを握る手に力が入って、声を出すと同時に、溜まった涙がこぼれ落ちた。 「千尋さん、好きです」 「知ってる」  今彼はきっと千尋の好きな切羽詰った表情をしている。 「大好きです」 「知ってる」  見たいのに見れない。そう思ったら、彼の両手が頬を挟んで顔を上げさせられた。目の前いっぱいに、ハンサムな顔が写る。予想通りの表情に胸がきゅんきゅん苦しくなって、思わず顔を下げようとしたら、余計に顔を近づけられた。 「千尋さんが俺から逃げたら、全力で追いかけます。迷惑に思われても、何処までもしつこく」 「うん」  こいつは俺を殺す気か。胸の苦しいのに耐えられなくて、千尋の眉間に皺が集まった。 「千尋さん、また眉間に皺がよってますよ。千尋さんの眉間に皺がよる時は他の人からしたらどうでも良いようなことを、考えすぎている時ですよ」 「……むり……っ」  指摘されても眉間から力が抜けなかった。 「可愛い顔が台無しなんで止めてください」 「可愛くないし」  余計に眉間に力が入る。嫌なわけじゃない。これはきっと、ときめき皺だ。苦しくて、嬉しくて、喉が詰まった。 「無理なら、俺が何度でも伸ばしますよ」  遊馬の唇がそこに触れる。彼が来るまであんなに寒かったのに、今は身体中が沸騰したみたいに熱を持っている。 「……うん」  どうにかそう答えたら、今度は唇に熱い口づけを送られた。 「影木君~、どうだった?」  千尋と遊馬の姿が見えなくなったグランド脇の林の高い木を見上げて、千春が声を掛ける。するとすぐにトンと枝を蹴って幻十郎が降りて来きた。 「すごく……良かったです」 「その受け答え、影木君がやると嵌りすぎてて怖いね」 「そんなことより、ビデオに撮っておいたんだけど」 「おお! さすが影木君! ありがとう!!」  幻十郎は笑顔で答える千春の頭に、色の変わり始めた葉が一枚乗っているのを見つけて、摘まんで取ってやった。 「君はとことんお兄さんを食い物にするね」 「心配してるのは本当だよ」  彼の言葉に、千春は輝かせていた目を伏せる。 (私は、ちーちゃんのところまで降りて行かなかったから……) 「千春ちゃん?」 「なに?」 「いや、どうかしたのかな、って」 「萌えを噛みしめてたところだよ」  そう答える千春の頬を、強い西日が射して影を作った。





 

好きなものは好き

 自室に帰った千尋は白いビニール袋から、青いパッケージを取り出した。最近、三日に一遍は買っている白い棒アイスだ。チュッと先端を吸ってみる。甘い。チロチロと先を舐めて、溶けだした白い蜜が側面を流れていくのを下から舐め上げる。甘い。上からカプリと銜え込んで、入るところまで押し込む。苦しくて少しえづいたが、それさえも快感に変わる。甘い。  ズボンのファスナーの上から、反応し始めた自身を撫でる。 「……ふっ」  冷たいアイスで冷えた筈の口内から熱い息が漏れだした。  決して男らしいとは言えない小さな体でも、女のような顔でも、千尋は年頃の健全な男子だ。性に対する興味はひくほどある。だからつまりこれはあれだ。察して欲しい。  一方その頃千尋の恋人である遊馬は、千尋の部屋のクローゼットからその一部始終を覗いていた。 (何やってるんですか千尋さん、何やってるんですか千尋さん! 何やってるんですか千尋さん!?)  変な汗が噴き出した。  一応言っておくが、遊馬は変態をこじらせて彼の部屋に侵入して覗き行為を犯しているわけではない。丁度千尋がコンビニにアイスを買いに出て留守にしている時にやって来て、千春に上げてもらったのだ。不法侵入ではない。クローゼットに隠れているのも、どうせなら驚かせようという悪戯心からで、まさかこんな展開になるとは思わなかったのだ。 (挙動不審だからって、様子見なんてしなければ……でも、早いうちに出て行ってたらこの光景は拝めなかった? いやいや)  ぐるぐると考えている間にも、千尋はアイスの先っぽを舐めたり吸ったり、溶けた部分を下から舐め上げたりを、吐息交じりに繰り返す。あまりの扇情的な光景に、遊馬の思考はそれを目で追うことに支配されてしまう。  自慰しながら喘ぎ交じりで、アイス全体を喉に付くまで銜え込み、舌を絡める。そんな彼を見たら、 (だ、ダメです! そんなにしたら……! ぁあ……っ)  千尋は擬似フェラをしているわけだが、それを見ている遊馬は当然フェラをされている気分になってしまう。息子はもれなくビンビンだ。 (何でそいつはアイスなんだ! なんで俺の息子じゃないんだ!? むしろ俺が千尋さんのをしゃぶりたい!!)  と、煩悩がとめどなく溢れ出した。  そうしている間に、千尋は舐めきった棒を吸いながら愛らしいそれを震わせて達する。ティッシュで濡れたそこを適当に拭きとって、体をベッドに投げ出した。 (どのタイミングで出ていこう……)  遊馬がそう考えていると、肩を上下させ深い呼吸を数回繰り返した千尋の薄い唇が「……遊馬……」と、切なげに言葉を紡いた。  その声に「はい!!」と迷わずクローゼットから飛び出す。  受け止め手の居ない筈の呼びかけに、ありえない場所から返事をされた千尋は、目を見開いて固まった。  ばんっ! と勢いづけて登場したのは、一番会いたくて、ある意味一番会いたくないそいつ。 「…………は?」  千尋はかろうじてその一文字を発して、興奮の収まりつつあった顔を、赤いのに青いという複雑な色に染めていった。 「千尋さん」 「え、え」 「千尋さん、俺のことちゃんと好きだったんですね」 「はぁぁああああ!?」  キラキラと効果音が付きそうな笑顔で言われて、千尋は叫んだ。 「好きに決まってんだろ!? 好きでもないのにわざわざ男と付き合うかよ!?」 「え、俺たちって付き合ってたんですか!?」 「つきあって、おま、つきあって……っ!?」  ショックだった。  付き合っていると思っているのは自分だけだったのかと、なにそれ虚しい。彼の中では片思いのままだったのかと、なにそれ悲しい。 「だって、ちゃんと好きだって言われたことないですし」 「好きって言わなきゃ分からないのかよ!? 俺今までお前と相当な事してるけど、それは俺が糞ビッチだったってことで片付いてんのか!? そうなのか!?」 「だって……世の中には色々な関係の人が居るじゃないですか。例えばほら、セフレとか……?」  しゅんと肩を落とす遊馬に、千尋はぐっと息を飲み込んだ。  確かに、自分は一度も彼に思いを伝えていなかった。自分はどうしたって女の子が好きだから。遊馬を好きだと、認めたくなかった。どうしても口に出したくなかった。これは自分の勝手なプライドの問題だ。  はぁぁあ……  千尋は大きく息を吐いた。 (でもそれも、この前吹っ切れた)  こいつが俺の駄目な部分もひっくるめて俺を好きだと何度も言ってくれたから、俺も男を好きになったんじゃなくて、王司遊馬を好きになったんだって納得した。 「好きだよ。俺もお前のこと」  口にすると、ぎゅっと抱き締められた。筋肉の付ききっていない体はもっちりしていて気持ち良い。 「で、結局。何してたんですかぁ?」  ほわんとしている千尋を抱きしめたまま、遊馬は意地悪く訊いた。 「えぇ、そこ戻る? てかお前こそ何してたんだよ」 「いや、千尋さんを驚かせようと思って、隠れてたんですけどぉ……」 ――ねぇ、何してたんですか?  直接耳朶に言葉を吹き込むと、千尋の肩がぴくんと震える。彼は遊馬のこの声に弱い。 「アイス、美味しかったですか?」  遊馬はベッドに放られていたアイスの棒を拾って口に含み、肉厚な唇で挟んで、挑発的な瞳を千尋に向けた。 「千尋さんがあんまりエッチだから、俺もうこんなになってるんですけど」  中心の高ぶりを千尋の膝に擦りつけると、彼は「……あ」とか細い声を漏らした。 「責任とって下さいよ」  千尋の意識が一気にその膝に集中した。やけに喉が渇く。いや、喉の渇きに似た感覚がして、声もなく小さく頷いた。  潔く下半身を晒した遊馬がベッドに腰かけると、千尋は彼に向かい合って、床に座り込んだ。目の前に、遊馬の高ぶりがある。アイスの様に白くない、見慣れた形をしたそれは、なぜか甘そうに見える。  先端を指先で撫でると、すぐにじわじわと濡れてきた。彼の液の付いた指先を舐めてみる。苦い。でも、何故か甘く感じる。 「……っ」  彼が息を呑んだのが分かった。ああ、きっと彼のだから甘く感じるのだ。手を添えて固定し、先端を舐める。小さくそこが震えると、擦れる舌先がむず痒くて、気持ち良い。唇で挟んで柔く揉むと、唾液と先走りの混じった液がつっと彼の側面をなぞっていった。 「は、ぁ……っ」  遊馬の口から甘い吐息が漏れる。千尋はそれが滑り落ちて陰毛に留まるまでを見届けると、その痕を舐め上げ、先端をじゅっと吸った。彼のつま先がくっと丸くなる。 「……っ、千尋、さん……っ」 「なに?」  先端を指先で擦りつつ答える。 「ぁ……っ」  どくどくと脈打つそこに唇を寄せて、キスをしながら彼を見つめる。切羽詰った瞳と視線が絡まった。 「――遊馬」  吐息を多量に含んだ声で呼ぶと、彼の手が千尋の頭を掴んでそこに押し当てた。 「っ、あ……すみませ……っ」  すぐに彼は力を抜いたが、千尋は構わずぐりぐりと鼻先をそこに擦りつける。 「ちょっ、千尋さ……っんっ」 「遊馬」  箍が外れたようにそこを舐めしゃぶった。何度も舌先で往復して、先端を咥えて、根元を指で揉む。  彼の息が上がるにつれて、千尋も昂ぶった。乱れたままだったズボンの前から自身を取り出して、同時にヌく。横からしゃぶって甘噛んで、上がる声に興奮した。  喉に突くまでしゃぶっても、口内に収まらなくて、咥えきらない付け根を陰毛ごとヌく。手のひらが痒い。彼の股間からも、自分の股間からもあられもない音が漏れた。 「あ、く……っ」  遊馬は喉を絞るような掠れた声を上げた。  遊馬の股間に顔を埋めつつ自慰に及ぶ千尋の痴態に眩暈がした。直接の刺激もそうだが、間接的な刺激により追い詰められる。彼と視線が絡むたびに、彼に名前を呼ばれるたびに、どうしようもなく胸と股間が疼いた。 「千尋さん、もう……っ」  千尋は突き放そうとする遊馬の手を無視してスパートをかける。どくっとそこが脈打って、口内をどろっとした液体が満たす。何とも言えない味と感触に、思わず口を離すと、当然千尋の顔を白濁が汚す。 「あ、千尋さん! すみませんっ」  慌てて顔を拭ってこようとする遊馬の目を見つめながら、唇に着いたそれを舐めとった。  千尋の赤い舌が、白いそれを掬うのを見て、ひうっと遊馬の喉が鳴る。 「何これ不味い」 「当たり前でしょう!?」  扇情的な光景もなんのその、全てを打ち壊す千尋の発言に、遊馬は思わず素でつっこんだ。 「俺、男にこんなことしたいとか思う日が来るなんて思わなかった」 「はあ」 「マジ信じられねぇ」 「信じてください」 「俺さ、最近オカズお前なんだけど、末期」 「末期じゃないですそこがスタート地点です」 「だってさぁ」  吹っ切れたなんて言って、未練タラタラじゃないか。と、苦笑いして、遊馬は情緒のないことばかり飛び出す彼の口を摘んで告げる。 「次のアイス役は、千尋さんね!」  すぐに真っ赤になった彼をベッドに組み敷いた。





 

少女漫画的

 ストレートロングをポニーテールに縛った少女千春は、ふわふわの巻髪を耳の下で二つに結んだ某腐女子若林春香と二人、オシャレなカフェのちょっとお高いパフェを前に瞳を輝かせていた。  夏の暑い日。大会が終わったら一緒に食べに行こう、と約束してずっと楽しみにしていたパフェである。今はもう秋だが、美味しいものに季節は関係ない。いつ食べたってパフェは美味しい。 「春香ちゃん~!」 「千春先ぱ~い!」  スプーンで掬って一口頬張り 「「美味しいー!!」」  千春はいつもツンと釣っている眉を、細い垂れ目と一緒に下げて、ほわんと頬に手を添える。春香は丸い瞳を潤ませて、にまにまと口元を緩めた。 「やっぱり噂になるだけありますねぇ」 「高いだけあるよねぇ」 「甘すぎない生クリームがしっとりスポンジに絡んで」 「濃厚なバニラアイスとスキッとオレンジシャーベットのハーモニー」 「底に敷いてあるクラッシュアーモンドクッキーがもう」 「「最高~~」」  二人して蕩ける声で存分にパフェを讃頌する。 「そうそう、そう言えば先輩、坂口先輩とどうなんですか?」  ひとしきり感動して落ち着いたところで、春香は女子が大好き恋バナを切り出した。 「え? 何が?」  しかしそれに対する千春の反応は鈍い。折角面白いことになっていると思ったのに、彼女に自覚は無いようだ。 「もしかして先輩気づいてないんですか? 坂口先輩、千春先輩のことすごく好きじゃないですかぁ」 「そうなんだ?」  千春は疑問形で返しながら、外に跳ねる横髪を耳に掛け直して、パフェを食べ続けた。 「にっぶいですねぇ。でもその反応だと脈無しですか」 「鈍いとは失礼な。そんなこと言ったら、正君だって春香ちゃんのこと好きじゃん」  坂口も正君も同じ吹奏楽部の部員だ。坂口が自分のことを好きだと言うのは初耳だが、正君が春香にアプローチを続けているのは周知の事実だった。 「私は知ってますもん。それ」 「え!? 知ってんの? 知ってて放置なんだ?」  しれっと返す春香は、見た目ゆるふわなのに中身は全然ゆるふわじゃない。 「だって告白されたわけでもないのにフれないじゃないですか」 「あーあー」  千春は、正君可哀そう、と声を上げる。まあ、彼女の言うことももっともなのだが。例えばこれで、彼女が正君に思わせぶりな態度をとっているとかなら別だが、彼女の正君への接し方は他部員への態度と変わらない。 「先輩は彼氏が欲しいとか思わないんですか?」 「恋はしてみたいなぁ」  千春の答えに春香は意味ありげに頷いた。 「あー……そうですよね」 「何が言いたい?」 「いやぁ、先輩は彼氏が欲しいから男を捜すってより、好きな人ができたから付き合いたいって思考の人なんだなぁ、と」 「だって、好きでもないのに付き合って何が楽しいのさ。疲れるだけだと思うけどな」 「なるほど」 「両想いが良いよね。こっちが好きなのは当然だけど、あっちも好きじゃないと、付き合わせてるってなるのも気詰まりだし」 「夢見がちなのか、合理主義なのか」 「あー、少女漫画みたいな恋愛したーい」  両手の指を組んで、乙女ポーズで千春が言うので、春香も一緒に乙女ポーズをとる。 「姿が見えたら幸せになって」 「手が触れたら、ビビッと電流が走って」 「目が合ったら、あっぷあっぷで」 「笑いかけられたら、涙が出ちゃう!」 「「おっとめ~」」  最後は二人で声を合わせて、けらけらと笑った。 「や~だ~! 楽しそう~!」 「現実にありえないですよ」  バンバンと机を叩いて、笑い続ける千春に、春香は冷静に言った。 「あるよ。ちーちゃんとか。」  しかし、それに対する千春の答えは予想外。春香は、気持ち身を乗り出した。 「双子のお兄さんですよね。そんな恋愛してるんですか」 「そうだよ。マジうらやま」 「へぇ。でもそんな感じします」  千春と良く似た顔立ちの彼は、性格は千春と違い、神経質でインドアな感じのする大人しい人だ。悪く言えば内気で根暗。恋愛も純愛を好みそうなタイプだと思った。 「ちーちゃん可愛いもん。大事にしてもらわなくちゃ」  春香にしてみれば、苦手なタイプの彼女の兄だが、彼女にとっては可愛く見えるらしい。しかし、この言い様は…… 「あれ、もしかして成就してます?」 「してますしてます。もうラッブラブ」  あの手のタイプが好きな人は他にもいるようだ。千春からは、曲がったことが嫌いで真面目で自分に厳しい人だと聞いていたから、そんな彼のラブラブな様子を春香には想像できなかった。 「相手、私の知ってる人ですかね?」  少し興味が出て聞いてみたのだが、彼女は口元に人差し指を当てて教えてくれない。 「ん? 内緒」 「えー」 「他人のことは言えません」 「じゃあ、先輩のことで良いです」 「それはさっき話したじゃない」  このまま恋バナは終わりか。と、春香は残念に思った。もっと面白いネタは無いだろうか。 「そう言えば最近お昼どこで食べてるんですか? 教室じゃないみたいですけど、もしかして……」 「ちーちゃんと恋人のラブラブ昼休みを物陰から見守ってる」 「何それ、不毛」  ある意味面白いが。 「一人でカップルの観察とか、虚しいですよ」 「一人じゃないもん。仲間がいるもん」 「いるんですか、そんな物好き」 「隣のクラスの影木君」 「本校のカワイイ系男子代表じゃないですか!!」  それこそ私の求めていた話です! と、春香はパッと瞳を輝かせた。 「可愛い顔してるよねぇ」 「先輩と並んだら百合にしか見えませんね」 「怒られるよ」 「内緒で」  口止め料に、パフェのてっぺんに乗っていたさくらんぼを、千春のパフェに移した。 「で、で、影木君とフラグは立たないんですか?」 「立たないんじゃないかなぁ」 「でも、お兄さんカップルの観察に付き合ってくれてるんですよね?」 「違うよ、だってあれはただの腐友で」 「え?」 「あ」  千春は、しまった、と口を手で覆った。 「腐友?」 「あ、あー……」  春香が反復して聞き返せば、彼女は少し迷った後、ずいっと身を乗り出して、春香の耳に口を寄せた。 「あのね。内緒だよ? 誰にも言っちゃだめだよ?」 ――ちーちゃんの恋人、プリンスなの。 「えええええええええええええ!?」 「しーっ! しーっ!」  思わず上がった叫び声を、立てた人差指で制される。 「すみません! え、でも、え!?」  プリンスと言えば、サッカー部のエース、学校一のモテ男、王司遊馬のことだ。一時期千春と噂になって、千春が関係を否定し続けた過去のある王司遊馬だ。 (あれはそういう……) 「デリケートな問題なんですよ」 「そうですね」 「腐女子なら、二人の愛、守ってくれるよね?」 「もちろんです!」  春香は千春の手を力強く握った。 「でも、そっか、ふぇー……」  二人のことを考える。神経質で小柄なお姫様と、ふわふわ笑う優しい王子様。ナイスカップリングじゃないですか。あの二人がラブラブなのか。 「恋、したいですね」 「ですなぁ」  二人はうっとりとそう呟いた。 ******  ある日の放課後錬の休憩時間、千春は春香に呼びかけた。 「春香ちゃん」 「はーい」 「ちょっと恋バナを聞いてくれないか」 「いいともー!」  元気のいい返事をする彼女を連れて、部屋の端に移動する。 「今日さ、影木くんが可愛かったんだよ」 「ほうほう」  腐った話ではなく、彼女自身の恋バナであったことに、春香は瞳を爛々とさせた。 「昼休みにいつも一緒にご飯食べてるって言ったじゃん。で、いつも影木君の方が先にそこにいるんだよ。で、しゃがんでカップルを観察してる影木君の旋毛がね、気になって」 「何故に?」 「さらっさらなんだもん。旋毛がくっきり分かるんだもん」  そう言う彼女の髪だってサラサラだ。彼はどちらかというと艶々だ。と、春香は思ったが、話に関係ないので言わないでおく。 「で、ちょっと触ってみたんだけどさ、そしたら『ひぁっ』って声あげて、めっちゃ可愛い!」 「いつも冷静すぎて目が死んでる影木先輩の『ひぁっ』頂きました!」 「で、調子こいて止めないでいたら『止めて!』って手払われたんだけど、影木君腰抜けてるし、顔真っ赤だし、可愛くてまた触ったの。そしたら『やめてって言ってるでしょ!!』って涙目になって」 「きゅんきゅんじゃないですか!」 「『女の子の前でこんなかっこ悪いことになるなんて』とか思ってるのかな、とか思ったら可愛くて! もう、『かわいー!!』って抱きしめるよね!」 「おおう!」 「いや、抱きしめると言うより頭を胸に抱え込んだんだけど」 「いやん! 先輩、大胆!!」 「そしたら、影木君なんて言ったと思う?」 「なんて言ったんですか?」 「『はしたない!!』って。自分、普段ホモ相手にはしたない妄想、言動しかしてないくせに『はしたない!!』とか言うの!!」 「かーわーうぃーうぃー!!」 「溢れ出すこのパッション~」  くう~っと二人で悶えていると、みんなの視線が集まっていることに気付いた。  話しているうちにテンションが上がって、声が大きくなっていたらしい。二人はコホンとわざとらしく咳払いをした。 「恋ですか?」  トーンを落として春香が聞いてきたので、 「まだ、かな?」  と千春は曖昧に答えた。 ******  朝。登校すると早速、春香は千春に突撃した。 「せんぱーい。」 「おう、バカ林!」 「若林であります!」 「そうか、若林どうしたん?」  ここは二年の教室である。二人は学年は違えど仲の良い春春コンビ。しかし、やはり後輩が先輩の教室に来るのには抵抗があるのだろう、朝学活の前にしろ休み時間にしろ千春の方が春香の教室を訪ねるのが常なのだ。こうして春香の方がやってくるなら、何かしらの理由がある筈だった。 「合コン行ったんですか? 聞きましたよ! 影木先輩と何があったんですか!?」  春香は千春に掴みかかる勢いで捲し立てた。  千春が、クラスメイトに誘われて合コンに参加したのは昨日のことだった。合コンに行くとは言っていたが、影木の話を知っているとは、耳が早い。しかも、それは千春が春香に話したくて仕方がないと思っていたことでもあった。 「行った行った。聞いて聞いて。影木君登場前から話すから」 「聞きます聞きます」  では早速、と千春は春香を連れて人気の無い階段裏まで移動する。 「相手の男子の一人がしつこく絡んで来てさ」  廊下にお尻が付かないように座って千春は話を切り出した。足は開いていないのでヤンキー座りではない。 「先輩モテますね」  春香に手を叩いて囃されたが、千春は盛大に顔を顰めた。 「嬉しくないよー。何かちゃらちゃらしてるし、べたべた触ってくるし、連れ出そうとしてくるし。嫌だって言ってるのに『またまたぁ』って」  思い出すと胸がイライラムカムカする。 「うわぁ、面倒くさい」 「何? 自意識過剰? 女の子が自分に反抗すると思ってないの? って」  吐き出すように言い捨てる。 「いるんですね、そんな人。結構イケメンだったんですか?」 「プリンスのがイケ様だよ」 「プリンスと比べたら可哀そうですよ」 「じゃあ、宮本君くらいだった」 「サッカー部の新部長ですよね。あの人もプリンスのせいで目立たないけどイケメンですよね」 「宮本君は性格もイケメンだもんね。でもそいつは顔だけなんだもん。顔だけじゃダメだもん。うざいもん。女の子達も笑って見てるだけだし。微笑ましい光景じゃないよ?」 「顔に騙されている」  春香は、膝に顔を埋めてふてくされる千春の頭を、ポンポンと撫でた。 「でね、途中トイレに逃げたんだけど、トイレから出たら、待ち伏せしてたの!」 「何それ怖い」 「壁ドンされた。格好良いと思ってるのかな? 迷惑だって」 「『ただし好きな人からに限る』な諸刃の剣ですからね」 「逃げようとしたら、腕掴まれて『何で逃げるの? 俺は話がしたいだけなのに』って、しゅんとされた」 「うざい! きしょい! 先輩逃げて、超逃げて!」 「確かに顔は可愛い方かもしれないけど、そのこっちの都合なんかお構いなしっていうか、可愛い子ぶればなんでもうまくいくみたいな態度がムカついた。何でみんなこんなのに騙されるの? って」 「顔ですよ、顔」 「しかも腐っても男だから力が強くて逃げられないしで、泣きたくなって」 「せんぱーいっ」  今起こっていることではないのだが、春香はたまらなくなって千春の体を抱きしめた。 「そしたら、横から『邪魔』って声が聞こえて」 「まあ、トイレの前塞いでるんだから当然ですよね」 「影木君だった」 「う、うわぁ……っ」 (ここで登場したのか、影木先輩。それは惚れる。むしろ私が惚れる) 「そいつが私から離れて道を開けたら、影木君が『うん。ありがとう』って言って私の手を引いて回れ右して、何か言いながら追ってくるうざ男を無視して、そのまま合コンやってるテーブルに『この子お持ち帰りするから』って言って、呆然とするみんなを置いて一緒に店出てきた」 「格好良い! 救世主! 惚れちゃう!!」 「もう、きゅんきゅんだよ!」 「恋ですか!」 「もう恋で良いか!」 ――先輩が恋した!!  春香は「むきゃぁぁああ」と奇声を上げて立ち上がり、地団太を踏んだ。 「アプローチしますか?」 「しない! このままで楽しい! 今楽しい!」 「楽しいか!」 「楽しいぞ!」  テンション鰻上りの二人はそろってアハハと高く笑った。  楽しい! なんて楽しいんだ、恋愛!!  しかし、好きであることに満足してしまった春香の恋が進展するには、相当な時間が掛かるそうな。





 

ずるい

 ふわふわの髪をレースのシュシュで、耳の下で二つにまとめて、シャーベットカラーのカーデガンのボタンは木目、スカート丈は膝を余裕で越して脛の真ん中まで隠す。  制服姿でありながら、森ガールな雰囲気を漂う樹海ガール(腐女子隠喩)な春香は、クラス全員分のノートの束を抱えて、ときたま重さに唸りながら廊下を歩いていた。 「うわぁ、大変そうだね。手伝うよ」  声を掛けられた春香だが、バランスを崩してしまいそうで振り向けない。しかし、その人がすぐにノートの3分の2を受け取ってくれたので、自由に動くことができるようになった。その優しげな声から彼が誰だかは分かっている。 「プリンスありがとう」  隣を見ると、学園の王子――王司遊馬がふにゃふにゃしたハム笑いを浮かべていた。  ハムスターみたいな口のハンサムな微笑み、ハムサムスマイル頂きました。と、春香はぐっと彼の笑顔を噛み締める。親しくもない女子を紳士的に助けてくれるなんて、さすがプリンス。こんなスマイルを貰ったら一般女子は即座に自慢して回るだろう素敵スマイルだ。  そう、実のところ同学年ながら春香は遊馬とそれほど親しくない。しかし一方的な親近感は抱いていた。彼が親しい先輩のお兄さんと付き合っていると聞いたからだろう。あの時から春香は遊馬や千尋を見つけてはにまにまし、幾度となく脳内であんなことやこんなことをさせたのだ。時に切なく、時に甘く、時に激しく。 「1人?」 「ん? 係は2人なんだけど今日は風邪で休みなんだ。私、体力には自信あるから一人でも平気かと思ったんだけど、やっぱり重いねぇ」  あらぬ方向に思考を飛ばしていた春香は、遊馬に話しかけられてふにゃっと笑った。  こんな腐れ神でも心配してくれるのか。いや、擬態してるから当たり前か。 「でも、よくここまで1人で運んだよ。若林さん、細いしか弱そうなのに」 「か弱いとは何ですか。これでも部活で鍛えてるんだよ!?」 「ゴメンゴメン。馬鹿にしたとかじゃなくて、若林さんって、ふわふわしてて守ってあげたくなるようなオーラ出てるじゃない?」 「マジですかぁ」 「マジですよぉ」  しかし、この発言はどうなんだろう。 「プリンスはそうやって誰でも口説くの?」 「え、口説いてないよ!?」 「えー? 口説いてたよぉ。ダメだよ、誤解されちゃうよぉ?」 「えー……そっかぁ、なんでだ? 何がいけなかったんだ?」  無自覚って怖い。そういえば、と春香は思い出した。 「入学してすぐはプリンスに口説かれたっていう女子が大量発生したよねぇ」 「あー……」  遊馬が気の抜けた、情けない声を出した。  ハハハ、これは千尋先輩も大変だ。 「若林さんも誤解したの?」  そこでこてんと首を傾げて尋ねる遊馬はさすがあざとい。ハンサムだから似合うんデスネ。他の人にやられたらキュンとくるどころか腹立たしい発言内容と仕草だ。ただしイケメンに限るとはこのことか。 「いや、私はプリンスに恋人居るの知ってるし」 「え!?」  春香の発言に遊馬はカチンと固まると、唇をわなわな震わせた。 「ま、まさか相手も……?」 「いやぁ、ははっ……」  はい、知ってます。 「え、え、なんで!?」  慌てる遊馬が心底面白、いや、楽し、いや可愛いと思う。うん可愛い。  彼は恋人が大切だから、彼を守りたいから、知られることを恐れているのだろう。しかしきっと心のどこかで彼との関係を自慢したい、「この人俺の恋人ですよ」と吹聴したいと思っていたりもするのだろう。美味しいです。 「まあ良いじゃない。誰にも言わないよぉ」 「ほ、ほんとにほんとに誰にも言わないでね!」 「もちろん! 茨の道でも応援するよぉ」  ごちそうさまでーす。春香はホクホク心を満たした。  二人でノートを持って教室まで行くと、女子も男子もわーわー騒いだ。優しいねぇ、なんて男子に絡まれる遊馬を見て、春香は「ご愁傷様です」と心の中で呟いた。あ、クソ羨ましいとか言って絡まれた。私もご愁傷様です。 「おい、バカ林!」  廊下から声を掛けられて、絡まれていた春香が振り向くと、入口前で千春がちょいちょいと手招いていた。 「若林であります!」  お決まりの返答をしながら廊下に出る。 「あのさ、春香ちゃん」  彼女が声を潜めるので春香も小声で返した。 「何でありますか?」 「春香ちゃんとプリンスが喋ってると予想以上にふわふわしてて頭痛くなる」 「マジですかぁ」 「マジですよぉ」  それ、小声で言うことですか? 「あとね、さっきのちーちゃんが見てた」 「マジですかぁ」 「マジですよぉ」  これは小声で言うことですね。 「ところで昼休みには二人で一緒にご飯を食べているわけですが、行きますか?」 「行きませんよ!」  春香は千春の誘いを即座に断った。 「え、行かないの!?」  本気で驚く千春は、本当に春香が誘いにノると思ったのだろうか。 「だって私、千春先輩と影木先輩も応援してますもん」  彼女の言う「行く」とは、プリンスと千春の兄である千尋の昼休みの会合を一緒に覗こうということである。毎日二人を覗いている千春と幻十郎に混ざるということである。それが許されるか、否! 「あー……」  あー、じゃないですよ、あー。早く進展してくださいよ面白くない。まあ、目下のところは、 「お土産期待してますね!」 「よし、任せとけ!」  餌全裸待機ですホモォ! ******  弁当を前に、遊馬はマフラーで目の下まで覆った。寒い。  寒風吹きすさぶ白砂利の中庭だが、冬になってからも遊馬と千尋はここで昼休みを過ごしている。彼と出会ったとき、遊馬はファン視線から離れるためにここに来た。だからここに居ると2人の世界が作れるような気がして場所を変えようとは思わなかった。  背にした引き戸が開いて、待ち人が来る。 「千尋さん、遅かったですね」 「おう」  忠犬宜しく遊馬が懐くが、千尋はそれだけ返して腰を下ろした。気持ちいつもより距離が離れているし、覇気が無い。  とりあえず様子を見ようと二人で食べ始めるが、会話が無い。遊馬が話しかけても、「ああ」「うん」と聞いているんだかいないんだか。  時間を掛けて弁当を食べ終えた千尋がデザートのゼリーを取り出す。 「夏蜜柑の炭酸ゼリー、まだ売ってるんですね」 「千春が作った」 「千春さんすごいですね!」 「うん」  夏蜜柑の炭酸ゼリーは千尋の好物だ。夏が好きで、冬が嫌い彼。もしかしたら彼が暗いのは季節のせいもあるかもしれない。 「寒くないですか?」 「別に」  遊馬はそっけない彼を覗き込んだ。 「……なんだよ」 「眉間、皺寄ってますよ」 「寄ってない」  指摘して余計に皺の寄ったそこに指を当てる。 「千尋さんの眉間に皺が寄ってる時はどう」 「どうでもよくない!」  声を荒げて言葉を遮る千尋に、遊馬は押し黙った。  はっとした千尋が何か言いたげに口を動かして、視線を逸らす。 「千尋さん、どうしたんですか? 俺、何かしましたか?」 「何も」  千尋は眉間に皺を寄せたまま突き放すように言う。遊馬はその頬を両手で挟んで自分の方を向かせた。 「何も無いわけないじゃないですか。こっち見て言って下さい」 「……っ」  ぺちんと手を振り払われて、遊馬は逆に振り払ってきた彼の手を掴んだ。  強張った顔。千尋が睨みつけてくるように見えるのは彼が涙を堪えているからか、それとも本当に遊馬を睨んでいるのか。 「なんでもない、お前は悪くない」  氷のように冷たい手が震えている。 「良いです、教えてください」 「やだ」 「なんで」 「だって、こんなの、めんどくさい……」  その言葉に、遊馬の中で何かが切れた。 「……っ! 何が面倒なんですか!? 心配してるんじゃないですか! 俺、恋人ですよ!? なんで、……そんなこと言うんですか……っ」  彼は俺のことを面倒だと思っていたのか、いつからそんな風に思っていたのか。 「ち、違うお前の事が面倒なんじゃなくて、俺が!」  遊馬が気持を抑えようと繋いだ手に力を込めると、絡められた千尋の指がぎちぎちと悲鳴を上げた。 「……遊馬……」  千尋は俯いてその指に視線を落とす。彼の顔を見ていられなかった。  遊馬が悲しそうな顔をしている。きっと彼の心も悲鳴を上げている。――こんな俺のために…… 「――俺が遊馬にとって面倒くさいんだ」  そう言うと、遊馬がきつい目で千尋を見てきた。彼にこんな目で見られるのは、体が戻った直後に彼から逃げ回った時以来だ。 「……勝手なこと言わないでください」 「……ごめん」 「千尋さん面倒くさい」 「……っ!」  一定の距離を保ったまま遊馬が言った。千尋が言い出したことだが、実際に彼の口から言われると心が跳ねる。逃げ出したいと思うのに、しっかり手を掴まれて逃げ出せない。 「まだ、言ってくれないんですか。言ってくれないと離しちゃいますよ」  離せと言おうとしたら、逆にそんなことを言われた。  遊馬の手から力が抜ける。もう逃げられる。 「……っやだ!」  千尋はぎゅっと自分から彼の手を握った。  やだ、逃げても良いって言わないで、離さないで、置いて行かないで――  遊馬は手を引いてその胸に千尋を引き寄せると、しっかり抱きしめて長く息を吐き出した。 「はあああぁぁぁ……。離すわけないじゃないですか! 離さないから理由を話しなさい!」  そのままぎゅうぎゅうと強く抱きしめると、千尋はやっと話し出した。 「だ、だってお前ずるい。お前ばっかり女の子にモテる。俺、若林さんのファンだったのに、やっぱりお前と仲良い、ずるい」 「は?」 「お前、かっこいいし、ハンサムだし、優しいし、サッカー上手いし、モテるし、ずるい」 「千尋さん、今デレ大放出なんですけど」  遊馬が赤くなった顔を手で覆うと、突き放されたと感じたのか、千尋がぎゅっとしがみついてきた。ああ、もう! 可愛い! 「お前はより取り見取りなのに、女の子選びたい放題なのに、俺はお前しかいないのに……っ」  千尋は午前中のことを思いだす。恋人の遊馬と憧れの春香が仲良さげに並んで歩いていた。遊馬と春香は美男美女で、どちらも人当たり良く優しくて、異性にモテて、友達がたくさん居て、すごくお似合いで。 「離したら、どっかに行っちゃうのは……、俺じゃなくて、お前の方じゃんかぁ……っ」  置いて行かれると思って寂しかった。自分だけ違うんだと思って悲しかった。 「馬鹿だなぁ、千尋さんは、本当に」  遊馬は呆れた声でそう言うと、千尋のサラサラの髪をわしゃわしゃ撫でた。 「もう、若林さんのファンとか言うからびっくりしたじゃないですかぁ」 「……ファンだし……」 「嫉妬しちゃったんですねぇ」 「だって、ずるい」  千尋は撫でてくる手にすり寄った。  優しい声で慰められてほっとする。撫でられて安心する。背中をポンポン叩かれて、子供扱いするなって、思うのに、嬉しい。 「俺じゃなくて可愛い女の子たちに嫉妬したんでしょ?」 「そんなじゃない」  どちらに嫉妬したかなんて分からない、多分どちらにも嫉妬したのだ。 「千尋さんの方が可愛いのに」 「っ、目ぇ腐ってんじゃねぇの……?」  遊馬は千尋の顔を上げさせて、目じりの涙を拭って眉間にキスをする。 「選びたい放題なんかじゃないですよ。千尋さんしか選べないんです。だから、何処にも行かないでくださいね」  ふわっと笑う彼に、千尋は小さく頷いた。 「――て、感じだったよ!」  放課後、部活に行った千春は早速春香に昼休みの報告をする。 「萌え補給完了! まじるんるんご機嫌丸です! ところで影木先輩とは?」  春香は地団駄を踏んで、きゃはーと喜び、わくわくを隠さず千春についても質問した。 「『大丈夫?寒くない?』って聞いたら、『君が言っちゃうんだ?』って返されたよ」 「先輩、それは無いデス」  しかし彼女の答えは面白くない。千春は「ガチしょんぼり沈殿丸デス」と肩を落とした。





 

開拓

「俺が勝ったんだから、お願い聞いてくれますよね! これからたくさん開拓させてください!」  乳首イラレ勝負(乳首を捏ねくる勝負)の後に遊馬が千尋に言ったこの台詞を覚えているだろうか。千尋は忘れたかった。でも、遊馬は覚えていた。そして、宣言通り開拓を進めていた。 ******  遊馬は部活終わりに頻繁に千尋の家に遊びに行った。共働きの千尋の両親は、平日は遅くまで帰って来ない。その上千春は、千尋と遊馬の仲を応援してくれているため、遊馬が遊びに行けば彼と二人きりにしてくれた。しかし、部活終わりの男子中学生の胃袋は限界に近いし、体も疲れている。だから本当に名残惜しいが遊馬が千尋の家にいるのは長くても一時間程度だ。  サッカー部も吹奏楽部も最終下校時刻のぎりぎりまで活動をするので、二人と千春が帰る時間はほぼ一緒だ。千春の方が帰るのが早い時は、千尋達が帰った時に千春が顔を出すが、千尋達のほうが先に居る時はわざわざ千尋の部屋に顔を出すことなく、自分の部屋に向かう。  勉強熱心な彼女は帰ってからもバイオリンの練習をしたり音楽を聞いたり、ときたまネットをしたりと時間を使っているので、歓迎はするが干渉する気は無いのだろ――と、遊馬は思っている。  つまり、遊馬と千尋が何をしようと、邪魔する者も、咎める者も居なかった。  今日も、千尋の部屋にお邪魔した遊馬は、そわそわと落ち着かない様子で身構えている彼をぎゅっと抱きしめる。 「っ、今日もやるのかよ……?」  遊馬は息を詰める千尋にふんわり笑うと一度彼を離した。柔らかい微笑みだが、千尋にはこれが黒微笑(死語)に思えてやまない。遊馬は鞄を置くと、ペンケースだけを持ってベッドに座り、千尋を手招いた。 「やりますよ~。前の勝負俺が勝ったんですからぁ」  恐る恐るといった様子で近づいてきた千尋の手を引き、ベッドにうつ伏せに組み敷く。手早く彼のズボンとパンツを下ろして下半身を露にし、腰を持ち上げた。 「ちょい待て待て待て!――ふぁあ……っ」  明るい電灯の下、とんでもない恰好を晒す羽目になった千尋は声を荒げる。しかし遊馬はなんのその、彼の蕾に口付けをして黙らせる。ちゅうっと吸い付くと、彼の力が抜けて腰を突き上げるような恰好でベッドに沈んだ。 「千尋さん、かーわい」 「うっせ、ほんとマジで止めて、やだ……」 「こんなに反応してるのに?」  指先で入口を撫でるとひくひくと反応した。初めていじった時はこんな反応はしなかった。これは遊馬の努力の結晶だ。 「なあ、この体勢、やだ……」 「俺は問題無いですけど」  というか今更だ。もう何度この体勢で彼を凌辱したか分からない。まあ、そのたびに彼はこうやって抵抗するのだが。  遊馬はペンケースから綿棒を取り出し、彼の蕾にあてがった。彼のそこがひくんっと反応する。口では嫌だと抵抗するが、実のところここでの快感を教え込まれた彼は本気で逃げようとはしない。ただ、形だけでも嫌がるそぶりを見せないと、矜持を保てないのだ。そんなところも可愛いと思う。 「遊馬……?」  ほら、何もしないでいればもの欲しそうな目がこちらを向いた。それににんまりと笑い返して、綿棒を動かす。内側から外側に、穴を広げるように入口の皺をなぞると、彼の腰が震えて、その手がぎゅっとシーツを掴んだ。さわり心地の良いお尻を撫でながら、そこを擦る。 「ぅ……っ、ん……っ」  小さな口からくぐもった声が漏れ出す。この行為が、それほどの快感をもたらしているとは思わない。この後に与えられる快感を知っているから、それを考えて昂ぶっているのだろう。遊馬は綿棒のほんの先だけを尻口に引っかけ、ぐりんと回す。 「……ぅぁっ」  彼はびくんっと震えて、より腰を突き出すような体制になった。もっと奥までいじって欲しいとそこがひくつく。遊馬は綿棒を一度外してローションを垂らし、もう一度挿入した。今度はさっきよりも奥まで、綿棒の可動域を出たり入ったりさせる。擦るわけでもなくただ行き来させていると、穴がきゅうっと締まって微かに腰が揺れた。 「可愛い」 「なっ」  遊馬が呟くと、千尋がカッとなって声を上げる。想定済みだ。そのタイミングに合わせて内壁を擦ると「あ……っ」っと案の定可愛い声を上げた。 「っひ、ひぅ……っ、ぁっ、」  しばらく彼の可愛い声を堪能して満足すると、次にペンケースからお尻の丸いタイプの鉛筆を取り出す。それに先ほどと同じようにローションを垂らし、そこに埋めた。  最初は浅く、徐々に深く、ゆっくりと出し入れを繰り返す。時たま彼の良い所を擦ると、彼は「んっ!」と甘い声を出した。竿の方も完全に反り返り、震えている。遊馬の方も彼の痴態に痛いくらいに張りつめていた。  千尋の腰が物足りなさ気にゆるゆる揺れる。細くて引っかかりの無い鉛筆だ。長さも太さも綿棒よりあるが、表面がつるつるな分刺激は少ない。遊馬はそれを抜くと、今度は三色ボールペンにローションを垂らして挿した。それにも慣れたら次はポ○カ。だんだん太くなる仕様だ。だが、やはりひっかかりは無いため穴を広げただけであまり感じないらしい。しかし焦らされれば焦らされるだけ感度は増していく。  ポス○を抜くと、相変わらずそこは物足りなさそうに収縮を繰り返す。いじられて赤くそまり、ローションで濡れたそこは卑猥に見える。  ひくつくそこに今度は鉛筆を三本挿して穴を開いた。 「……ぁ、ちょっと、ダメっ! 止めろっ!」  秘部を暴かれるのが恥ずかしいのだろう、そうやって抵抗するのも遊馬を煽るだけなのだが。 「まあまあ、ちょっとだけ見せてくださいよ」  意地悪くそう返すと、彼がぷるぷると首をふる。 「ちが、そうじゃなくて……っ、……イっちゃいそう……っ」 「え」  恥ずかしいとかじゃなかった。広げてイっちゃいそうとか、何それエロい。 「ひっ、何……っ」  遊馬は何も言わずに彼の前の根元をきゅっと握り、イけないようにすると、広げたそこに息を吹き込んだ。 「ひぁあっ! ぁ、ぁ、ぁ!?」  彼は出してないのにビクンビクンと断続的に痙攣を繰り返す。遊馬はその光景に喉を鳴らした。  以前「変になった」と言って彼が泣き出した空イきだが、勉強の結果、危ないものではないことは分かっている。ネット社会って素晴らしい。  もっと彼を乱したい。征服心、嗜虐心を擽られた遊馬は彼の根元を紐で縛った。 「な、何すんだよ!? やだ……っ!」 「大丈夫、気持ち良いですから」  できるだけ優しい微笑みをつくった筈だ。しかし目の色だけは誤魔化せないのか、千尋は安心するどころか、びくびく震えだした。  そんなところも可愛い。遊馬は鉛筆を抜いて、そこに挿すものを綿棒に戻した。広がった穴には細すぎるが、それが逆に千尋の快感を煽る。耳に髪の毛を入れるとぞわっとするだろう、あの感覚だ。擦られない分こそばゆい。 「ひやぁあ……っ、ゃ……んっ! やだっ! 変になる、やだっ!! やだぁ……っ!!」  後ろだけでこんな風になったのは初めてだ。いやいやと首を振って枕に顔を擦る付ける彼がたまらなく愛しい。  もう本当に、自分のをここに挿してしまいたい。でも、そうしてしまったら、彼の可愛い姿を堪能しつくす余裕のないまま終わってしまう。遊馬は綿棒で苛め倒すと、今度はイボの付いた指サックを指に嵌めて、そこに挿した。ネット通販で購入した半アダルトグッズである。ネット社会って素晴らしい(再び)。ローションの滑りを借りて、ずるずるごりごりと彼の内壁をえぐる。 「あぁっ! んぁっ! ひやぁん……っ!」  千尋の体がビクビク波打つ。前立腺を絶妙な力加減で刺激すると、彼は枕に顔を擦りつけて、快感に耐えた。  先ほどドライでイったばかりで、いつ彼がイっているのか分からない。もしかしたら震えるたびにイっているのかもしれない。  枕に向かって、ふーっふーっと息を漏らす彼を上向けにして顔を見た。苦しそうに眉をひそめて、半分開いた口の端から涎が垂れて、細いたれ目はとろんと蕩けてほとんど見えなくなっている。 「千尋さん、入れても良いですか?」  何をとは言わない。彼も分かっているだろう。実のところ遊馬はまだ千尋に入れたことが無い。彼が苦しくないように、ずっと開拓を続けてきたのだ。でも、ここまで蕩けているのだ。もう大丈夫だろう。こくんと千尋が頷くのを確認して、自身を押し進めた。 「ぁぁああアア……ッ!」  これでもかというほど慣らしたが、さすがに入口がぎちぎちと悲鳴を上げる。しかしその痛みさえ快感なのか、上がる悲鳴は何処か甘い。  遊馬を引き込むように動く熱い内側に、入れただけで熱が爆発しそうになって、息を詰める。千尋が背中に腕を回してきたので、遊馬も彼をぎゅっと抱き締めた。  遊馬は全部を押し込むと、彼の根元を縛っていた紐を外し、そこだけでも射精できる彼の胸の実を引っ掻きながら律動を開始した。 「や、ぁ、ぁ、だめ、それダメ……っ!」  ダメと言いつつ、彼が胸を大きく逸らす。もっと弄ってくれと言っているようにしか見えない。だからそこを思い切り捏ねくりまわすと、そのたびに後ろがきゅんきゅん締まった。 「やばい、千尋さんの中。気持ち良い」 「い、やだ、胸、やっ」 「無理、こうすると、後ろ締まって気持ちよくなるの、止まんない。腰蕩けそう」 「イヤだって、ばぁあっ!!」  抜き差しの角度を変えて反応する場所を探り、良い所に当たるように腰を動かす。 「ひゃ、あっ! ぁぁああんっ!」  加減ができなくなって、乳首を押しつぶすように転がして、竿も腹筋を密着させて擦る。 「あ――っ!」 「っ!」  彼がイったのを追って遊馬も熱を放った。 「千尋さん、大丈夫ですか?」  ぐったり横になった千尋は、にまにま笑う遊馬を殴った。寄り添うように横になった彼の、彼氏面にイラッとする。 「大丈夫じゃねぇよ……」  目を瞑ると瞼の奥がちかちかした。 「最後までやるなんて聞いて無いし……」 「んー、でも無理やりじゃないですよ」  千尋はころんと寝返りを打って遊馬に向き合い、広い胸板にすり寄った。 「……当たり前だろ」  お前だからやらせたんだから。  色んな気持ちを押し殺して、それでも彼だから許したのだ。でも、 「俺はお前の彼女じゃない」 「知ってますよ。俺の可愛い彼氏です」 「可愛くない」 「そこは俺の主観なので否定されても困ります」  そう言って遊馬は、吐息で笑って千尋の眉間に触れた。 「そこで皺寄るんですね」  眉間を押されて千尋は、無意識にそこに力が入っていたことに気がついた。 「千尋さんは俺のこと可愛いと思ったことないんですか?」 「……ないこともない?」 「それと一緒ですよ」 「犬みたいだなって」 「それは同意しかねますけど……。千尋さんは犬より猫ですかね」 「にゃあ?」 「なにそれ可愛い! 俺帰んなきゃいけないのに、どうするんですか! 持って帰っちゃいますよ!?」  遊馬は一気にテンションを上げて千尋の肩を掴んだ。千尋は抱き寄せようとしてくる彼の胸を、指を丸めた手でゴスゴス叩いた。 「うるさいにゃ、早く帰るにゃ」 「いたっ、何なのこの人、帰らせる気無いでしょ、可愛い。けど痛い」 「にゃー、にゃー?」 「やばい、何これ可愛い、どうしたの? 甘えたなの?」  遊馬は殴るのを止めて甘えた声を出す千尋に萌悶えて、彼の耳の後ろの生え際から、柔らかい髪に指を差し入れる。 「俺、初めてだったんだけど」  千尋は彼の指を擽ったく思いながら、ぼんやり彼を見つめた。 「もう、帰んの?」  上目遣いで甘える千尋の仕草に、遊馬は「ひぁあっ!」と身を震わせて「帰りません!」と叫んだ。直後、 『じゃあ、お菓子とジュース持ってくるよ!』  隣の部屋から掛けられた千春の声に、 「「きゃー!?」」  二人して甲高い悲鳴を上げた。  遊馬が動揺して上げた「帰りません!」の大声だけを、彼女がたまたま聞いていたのだと思いたい二人だった。





 

居場所

「……うわ」  目覚ましの音に身を起こした千尋は、腰の違和感に眉を潜めた。  夏休み明けに教室に入ると、夏前よりも明らかに勉強をしている生徒が増えた。冬休みが終わると、また増えた。二年時が終わりに近づくにつれ、徐々に周りの空気が変わり、受験を意識するようになっていた。かく言う千尋も夏と冬の二段階に分けて塾の時間を増やしている。  三年になってからでは遅い、と塾でも学校でも、受験、受験と急かされる。千尋は中学受験で一度失敗しているから、早めの準備が大事なことは分かっている、勉強はしなければいけないと思う。しかし、受験を意識するたびに卒業を、終わりを意識させられて、胸が騒いだ。  冬になり風が冷たくなってからも、昼休みは変わらず白砂利の中庭で過ごしている。千尋と遊馬にとって、ここは秘密の場所で、特別な場所だった。  千尋はそっと隣に座る彼を盗み見る。  今日は一緒に居られた。明日もきっと一緒に居られる。でもその先は分からない。  彼は相変わらず全校生徒の人気者。部活動中に彼を見ているのは千尋だけじゃないし、頻繁に女の子に呼び出しだってされている。  彼はいつ自分から心移りしてもおかしくない。在学中でも、いつこの関係に終わりが来るか分からない。卒業して、距離が離れたら尚更だ。 「眉間」  遊馬に人差し指でそこを小突かれた。 「また、くだらないこと考えてたんでしょう」 「くだらなくは、ない」  捨てられたらどうすれば良いのか、分からなくなってしまっただけだ。 「俺、お前と付き合うために――」  言いかけて口を閉ざす。言っても仕方がないと思った。  彼と付き合うために、色々なものを諦めて、我慢した。  それは男のプライドだったり、羞恥心だったりするのだけれど、それらを押し殺すうちに、「こいつに責任を取らせたい」だとか「いつまで一緒に居てくれたら納得してやれるか」だとか、そんなことを考えるようになって、先日、ついに全てを明け渡したら、何があっても許してやるものか、と思ってしまった。 「何言いかけたんですか? 言ってくれなきゃ分かりませんよ」 「良い。どうにもならないから」 「何がですか?」 「未来」 「俺の未来に少なくとも千尋さんはいますよ」  どうしてそんな言葉を曇りの無い目で言えるのか。 「……分かんねーじゃん。そんなの……」  居た堪れなくて視線を外すと、やんわり両手を彼の拳に包まれた。 「分かります。俺はずっと千尋さんを離しません。千尋さんが離れていこうとしたらヤンデレのごとく付いて行きます」 「気持ち悪い」  嘘だ。本当は、恰好良すぎて泣きたくなった。本当にずっと一緒にいるか? 責任取るか? 「おおう、辛辣~っ」  おどける彼が好き過ぎて、それだけ不安は大きくなる。もう、彼が居ない未来なんて思い描けなくなっていた。 「そう思ってれば良い。……でも、俺はもしお前が俺のことを好きじゃなくなったとしても、今の言葉尻をとって、嘘つきだとか言うつもりは無いから」  今彼が何と言っても、来てもいない未来に絶対はない。 「そっちこそ、そう思ってれば良いんですよーだ」  彼の口調がきつくなってきた。それでも否定する言葉が止まらない。 「……障害多いし。男女だって、バンバン別れるのに。男同士じゃ尚更、続かなくて当たり前」 「男女で別れる人もいるし、別かれない人もいますよ。男同士だって同じでしょ」  かぶせ気味で諭された。でも千尋には彼の自信が分からない。  彼に責任を取らせたいとか言いながら、千尋だっていつ気が変わるか分からない。彼が居ない未来は思い描けないのに、彼が居る未来を盲信することもできなかった。 「でも、俺達が喧嘩して、別れるって言ったって、誰も止めな――」  ハンサムな顔が急接近して、口を塞がれた。 「俺達が止めますよ」  ハムスターみたいな緩い笑顔が千尋の目の前にあった。こんなに面倒くさい性格をしている千尋を彼はいつも宥めてくれる。 「……ごめん」 「なにを謝ってるんですか」 「今だけじゃ嫌だ。俺、そういうふうにされたし」  色々なものを壊した。今捨てられたら刺し違えてでも彼を殺す自信がある。  彼の肩に額を寄せて千尋が言うと、彼が苦く笑う気配がした。 「だから、ずっと居ますって」 「ふむ」  千尋のクラス担任である山本は、プリントを片手に、何とも言えない声を漏らした。  山本の担当するクラスは、来年最高学年に上がる。最後の年だから、良い思い出を作ってもらいたいし、受験生にストレスはできるだけ減らしてやりたい。そんな思いから、この学校では三年生の最後のクラス決めは、友好関係をより考えて行っている。その参考になるのが、今手元にあるプリントだった。 ――学園生活は何色だろうか。楽しいか。苦しいか。何をしているとき幸せだと感じるのか。仲の良い友人はいるのか。 「あ、それ。友好関係調査アンケートですね。何か問題ありました?」 「これ、山瀬のなんですけど……」  声を掛けてきた同僚に問題のプリントを見せる。 「休み時間の過ごし方、勉強。仲の良い友人、無回答ですか」 「どう思います?」 「どうって、どうなんですか? 普段の様子は」 「大人しくて手のかからない、勉強ができる以外に特出することのない、普通の子ですよ」 「ああ、手のかからない子ってなんだかんだ良く見てあげられませんもんね。でも、ちょっと気にしてあげたらどうですか。うちに溜めるタイプの子もいますし」  同僚の言葉に「そうですよね……」と返して、冷めたお茶を一口啜った。 「二人で組んで意見の交換をしてください」 「四、五人のグループを作って発表をしてください」  千尋は、指示されたこの言葉に、特に苦手意識を持ったことはない。  二人組と言われたら、近くで特定の相手のいなさそうな人、今回なら隣の席の宮本と組むし、グループなら大人しそうなところに適当に混ざる。仲が良いと言える友達は居なくても、嫌われてはいない。信頼できる仲間は居ないけど、敵も居ない。だって、自分は必要最低限の言動で、必要な意見の交流しかしないのだから、好かれることも嫌われることもあるわけがない。  それ自体を辛いと思ったことはないけれど、劣等感には常に苛まれていた。皆が普通にできることが、どうして自分にはできないのだろう、と。  今朝提出した、白い部分の目立つアンケート用紙が脳裏を過ぎり、ずきんと顳かみが疼いた。  白砂利の庭が日光を反射する。冬になり、夏よりも眩しいと思うことは無くなったが、それでもキラキラ輝いて見える。 「世の中顔の良い奴なんていくらでも居るし、性格の良い奴だってたくさん居るし、そしたら顔が良くて性格が良い奴だって割と居るし」 「そうですねぇ」  鬱発言だと気付いているのかいないのか、千尋の隣で遊馬がのんびりと相槌を打った。 「あれ? 何の話ですか?」 「友好調査アンケートみたいなのやった」 「なんて書いたんですか?」 「友達の名前が浮かばなかった」  世の中顔の悪い奴なんていくらでも居るし、性格の悪い奴だってたくさん居るし、そしたら顔が悪くて性格の悪い奴だってたくさん居る。  千尋は縋るように彼の気配を探った。  なんでお前は俺と居るんだろうな。お前は顔も性格も良いのに。あるいは性格が良いから俺と一緒に居られるのか。俺はこんな、友達すら満足に作れないような男なのに。 「千尋さんはすごく良い人ですよ」 「何だよそれ」  思考を止めて、彼を仰ぐと、眉間に指を当てられる。 「あー……」  また皺が寄っていたらしい。 「もう、千尋さんってば可愛いんだからぁ」 「んー」  甘い声。甘い笑顔。こいつに話せば何でも許される気がした。 「甘いなぁ」 「甘いの好きでしょ?」  遊馬は微笑んでとびきりの甘い声で囁いて、思う。  千尋さんは知らないんだ。本当に悪い奴は俺の方なんだってことを。  この人に頼られることも縋られることも嬉しいし、俺のことでこの人が不安になるのも嬉しい。友達の名前が浮かばなかったって聞いて安心してる。眉間の皺を伸ばしながら、この人は俺のモノなんだって思ってる。俺が笑顔の下でそんなことを考えてるなんて、知らないでしょう? 「友達はそりゃ、たくさん居たら楽しいかもしれませんけど、それも人によりますよ」  遊馬は千尋の薄い手を握って、細い目を覗いた。 「皆でワイワイやるのが好きな人はたくさん友達を作れば良いですけど、たくさんの人の中に居るのが辛い人は無理して頑張ることないです。女子は特にですけど、グループをつくるでしょ? それって、一緒に居て楽な人、楽しい人で集まってるんですよ。だから、千尋さんもそういう自分の居場所だって思える場所があれば良いんです」 「ね?」と伺えば、千尋は小麦色の肌をほわっと赤く染めた。 「ほんと、可愛いなぁ」 「可愛くないって言ってんだろ……」 「えー可愛いですよ」 「可愛くない」 「俺の中では一等可愛いです。あー、可愛い」 「もう、うるさい!」  しつこく言うと、ゴッと肩を殴られる。でも手加減してくれるからそんなに痛くない。けど、彼は殴った後に申し訳なさそうな顔をする。 「あ、おい放せよ!」 「あはははっ」  そんなところも可愛くて、遊馬は千尋をぎゅっと抱きしめて笑った。 「放せ!」 「ちょ、暴れないで」  抵抗する彼にまた痛い思いをした。  昼休み、山本は千尋の様子を見に教室にやってきたが、そこに彼の姿はなかった。 「あ、先生! どうしたんですか?」 「あ、ちょっと。山瀬どこ居るか分かるか?」 「兄の方? なら、いつも昼休みに入るとすぐにどっか行っちゃいますよ」  それは、毎日行く場所があるとうことか。それとも長い休み時間をクラスで過ごすのが辛くて、よそでぼっち飯というやつをしているということだろうか。 「どっちの方向に行くか分かる?」 「あっち」 「そうか、ありがとう」  彼のこれまでの様子からすると後者な気がした。指された方向に急ぎ足で歩き出した山本の背を、先ほどの生徒の声が追ってくる。 「何か伝言あるなら言っときますけど!」 「いいや、もう少し探してみるよ」  とりあえず空き教室を順に見ていくことにしよう。  二階の空き教室にも、三階の特別室にも彼の姿は無かった。外で食べるには辛い気候だ。もしかしてこれは、便所飯のフラグだろうか。  一人寂しく便所飯。想像してみると、彼がなまじ整った女顔をしているだけに余計に悲しくなった。しかし、今日はもうトイレをまわる時間は無い。休み時間中歩き回った疲れがどっと出て、窓に両手をついて、大きく息を吐いた。  すると、そこに彼がいた。  ほとんどの人が目を向けることもない無駄に整備された中庭の隅に座っている。一緒に居るのは、サッカー部のエースの王司遊馬だ。二人でじゃれ合って、全身で笑っている。 (なんだ、ちゃんと居場所があるじゃないか)  山本は、二人につられて笑みをこぼした。





 

ないものねだり

「お前ら、部室で何てもん広げてんだよ」  蛍光灯の安っぽい光の下で、グラビア本を中心に集まる部員に、サッカー部部長の宮本が言った。 「何って、エロ本。今日クラスで回したやつ」 「回って来たんじゃなくて回したのかよ!」  集団の中心のキツネ目の根岸が答えるのに、宮本がつっこんだ。 「またまたぁ、硬いこと言うなよ。お前が部誌書き終わる頃には帰るからさ。な、王司!」  ロッカー側を向いて着替えている途中だった遊馬は、唐突に話を振られて「はい!?」と素っ頓狂な声を上げた。 「お前もこういうの嫌いじゃないだろ?」 「えー、でも俺にはもう必要ないっていうかぁ」  同意を求められて苦笑いする。 「ほう?」 「だって俺には可愛い可愛い恋人が居ますし~」 「ほう」  惚気けてふにゃふにゃ笑う遊馬に、根岸は「ふむ」と頷くと、周囲に目配せしてその本を遊馬のエナメルバッグにそっと忍び込ませた。  エナメルバッグは着替えを出すために、ロッカーから遊馬の足元に移動されていたので、気づかれずに犯行を行うのは簡単だった。 「宮本、俺らやっぱり先帰るわ」  何事も無かったかのように、自分の荷物をもって根岸が言うと、我関せずでペンを動かしていた宮本が顔を上げた。 「もう良いのか?」 「やっぱり、こういうのは家でゆっくり見るべきだよな」 「今更だな」 「気が変わったの! じゃあな~」 「はいはい、お疲れ」 「お疲れ様です」  根岸に続いてぞろぞろ出て行く部員達を、遊馬は何の疑いもなく見送った。 ******  遊馬はその日も例にもれず、千尋と一緒に帰ってそのまま千尋の家に上がった。  しばらくして遊馬が手洗いに立つと、彼のエナメルバックのファスナーが半分開いていることに千尋は気がついた。そこからぐちゃぐちゃのまま突っ込まれた練習着が覗いている。 「まったく、適当でも良いから畳んでおけよな」  と、それを引っ張り出した。気分はだらしない亭主を持った新妻である。仕方ないなぁと思いつつ、なんだかんだ世話を焼くのが楽しいのだ。  しかし、千尋は練習着やタオルの下から出てきた『爆乳天国』のロゴに表情を無くす。バサリと、手にしていたものを床に落として、無表情のままそれを開いた。  安っぽいタイトルだが、中身はなかなかに上物だ。迫力! という感じではなく、こう、ふんわりもっちり包まれたい感じのやんごとなき胸達は、正直なところ千尋の好みだった。  しかし…… 「はあ!?」  戻ってきた遊馬は声を上げて唇をワナワナ震わせた。 「ちょ、千尋さん、何を……っ、そ、そ」  きわどいポーズをきめるモデルにじっと目を落とす彼に駆け寄る。 「そんなもの見ちゃいけません!!」  慌てて遊馬が本を奪い取ると、彼は呆然と遊馬を見上げてきた。その瞳がじわっと滲んで、ぼろっと涙が溢れ出す。 「え、え、ちょっと!? 今日、情緒不安定な日でしたか!?」  慌てた遊馬が彼の肩に手を触れようとすると、その手を叩き落として千尋は訴えた。 「お前は良いよ!? 男役なんだから! でも俺はお前にあ、あんなことまでされて……っ! もう、引き戻せないのに……っ!!」 「引き戻らないでください! 願ったり叶ったり!」  バシンッ! 「痛い!」  遊馬が寧ろ喜ぶと、千尋はその肩を思い切り叩いて罵倒する。 「知るか、馬鹿! 馬鹿馬鹿馬鹿!!」 「もしかして、ずっとそんなこと考えてたんですか?」 「馬鹿」と言うごとに胸をぼかぼか叩いてくる千尋の手をとって、遊馬が訊いた。 「じゃあ、千尋さんは男の穴に突っ込めるんですか?」  その問いに千尋は「……は?」と動きを止める。 「あれ? 無理かも……?」  正直遊馬にだって突っ込みたくないと思った。他の男なら尚更だ。まじか、男のケツに突っ込むのって結構覚悟が要るのか。考えたこともなかった。  千尋が目から鱗が落ちたような気持ちになっていると、遊馬がふふっと柔らかく笑った。 「俺だって同じですよ」  遊馬は優しい目で千尋を見つめる。こんなふうに怒っている時でも自分の言葉をちゃんと聞いて考えてくれる彼の、そんなところが好きだな、と思った。 「俺だって、もう引き返せない。千尋さんを離すつもりなんてありません」  すっかり大人しくなった彼にそっとキスをして、「あー、良かった」などと思う遊馬だが、そんな気持ちは彼の爆弾発言で吹っ飛んだ。 「じゃあ遊馬、パイズリさせろ」 「は」  バンッ! 「俺じゃ、不満があるって言うのか!?」  エロ本を床に叩きつけてそう言う彼に遊馬は「えええええ!?」と叫ぶ。なんだこれ、大人しくなったなんて幻想だった。 「あ、あのね。千尋さん。それ、部活の先輩に悪戯で入れられたんですよ。俺、今初めて見たんです。もし俺が巨乳好きだったら、千尋さんどころか千春先輩にだって惚れないでしょ?」 「千春を馬鹿にするな!」 「何これ面倒くさい」 「め、面倒くさいって、めんど……っ」 「面倒くさ可愛い! 千尋さんは面倒くさ可愛いなぁ~!」  ショックを受けて涙目になる彼を慌てて宥める。そう言えば彼に「面倒くさい」は禁句だった。面倒くさい。 「可愛いと思うなら、俺にパイズリされても良い筈だ!」 「そこに戻るんだ!?」 「遊馬」 「はい」  きりっと表情を改められて、遊馬も思わず改まる。 「……遊馬……」  続いて眉を下げて訴える視線で攻撃されて、「はうあ」とダメージを受ける。が、しかしこれはどうにも。 「あのね、千尋さん。俺にも羞恥心というものがあってですね」  ガンッ 「バイオレンス!!」  暴走する彼を宥めようとした遊馬は、胸をどつかれて叫んだ。 「お、俺にはあんなことしておいて、自分は羞恥心がとか……。そんなこと言うのかよ!? 俺は、だって、あんなの……っ」 「ごめんなさい千尋さん! 全面的に俺が悪いです! そうですよね、千尋さんと俺の間に限って、今更恥ずかしいことなんてありませんよね!」  慌てて謝り、彼の手を引く。涙を堪えて言葉を詰まらせる彼に折れないわけにはいかなかった。 「はい、そうと決まったら寝ましょう寝ましょう!」 「投げやりじゃん!」 「今からムード作るんです!」 「無理じゃん!」 「そう言えばいつだってムードなんて無かったことに気がつきました!」  遊馬は千尋をベッドに押し倒して、さてどうしようかと考える。 「で、胸無いのに、パイズリってどうやるんですか?」 「うーん? とりあえず体勢が逆?」  千尋は一度身を起こすと、シャツを脱いで、遊馬のズボンとパンツをズリ下げた。遊馬は思わずその光景から目を逸らす。なんだこの状況。前から思っていたけれど、この恋人ちょっとおかしい。 「やばい、これ。すげー疲れる」  腕立てのような体勢で、遊馬の股間に胸を擦り付けていた千尋が言った。 「でしょうね」 「これ、気持ち良いか?」 「ある意味興奮はしますけど、気持ち良くはないですね」 「だよな」  全くムードが無い間抜けな絵面と会話だ。 「……千尋さん、やっぱりこれポジション逆ですよ」 「ん?」  遊馬は眉を下げて困ったような視線をよこす千尋と、体勢を入れ替えて彼を押し倒し、彼の胸に自ら股間を押し付けた。 「お、ぅ、あっ!?」 「やっぱり、こっちの方がやりやすい。けど、より変態チックに……」  マヌケからの変態だ。改善は……されているのか?  彼のくりっと硬くなった小さな実で裏スジやカリの溝など自分の感じる場所を擦ると、思いのほか気持ちが良い。自身を擦りつけることで彼が喘いでいると思えばより興奮した。 「ぁ、ちょっ、遊馬……っ! これ、ま、んっ、ぁ……っ」  千尋は、自分に馬乗りになって、両手で支えたペニスを胸に擦りつけてくる遊馬に、吐息混じりに講義した。  遊馬が自分の乳首にそこを擦りつけて興奮しているのだと思うと何とも言えない気持ちになるし、自分が彼のそこを擦りつけられて感じているのだと思うと今更ながら羞恥に悶える。 「ん、は……ぁっ、千尋さんっ!」 「ひゃぁん!?」  尿道を押し付けられて、千尋はビクンと上半身を跳ねさせた。  遊馬が千尋の小さな乳首を尿道にぐちぐち当てて、カリを軸にグリグリ角度を変えて押し付ける。先走りが乳首を犯して、ぐじゅぐじゅと隙間から漏れたそれが、柔らかな摩擦を産んだ。 「や、やぁっ、遊馬、それ、だめ……っ」 「俺がこれ、一番気持ち良い、から……っ!」 「ん、ゃアッ……!」  千尋は太股を擦り合わせて快感に耐えた。中心に刺激が欲しくて手で触れたいのに、両脇を挟む遊馬の足が邪魔で手が届かない。 「やっぁ、ゃっ! ゆうっま、ぁア……っ!」  遊馬の腿を叩いて身を捩って訴える。 「千尋さん、下は届かなくても、こっちは触れますよっ」  遊馬に手を取られて、自身の乳首に指が掛かるように置かれる。そのままぐいっと押し付けられて、「ひぁ!」と高い声が上がった。 「ほら、自分でやって」 「ん、んン……っ」  促されるままに、撫でたり弱く引っ掻いたりと、自分が感じるように指を動かす。 「千尋さん、それいつも俺がやるやり方ですね」 「はぅん……っ、ん!」  にやっと意地悪く笑う彼に指摘されて、羞恥とともに何とも言えない感覚が湧き上がる。「可愛い」と笑われてムカつくのに、胸への攻めにまた声を上げてしまって、恥ずかしさと情けなさにじわっと視界が滲んだ。 「でも俺もう直ぐイっちゃうから、もう少し強く触りましょう。ね?」 「ぁ、ぁ、あっ、ゆうま、や、」  そう言って遊馬は、スパートを掛けてペニスを強く擦り付け、逆側は千尋の手に自身の手を重ねて彼の親指の腹でグリグリ押し潰す。 「んぅ、やだっ、やだぁっ、やぁぁあ……っ!!」  千尋がビクンビクンと痙攣すると、遊馬も彼の胸を白濁で汚した。 ****** 「ちょっと先輩! これ、俺のエナメルに勝手に入れたでしょう!?」  朝練前。遊馬は件のエロ本を根岸に突きつけた。 「お裾分けじゃん」 「昨日恋人に見られて大変だったんですからね!」 「え、見られたん? 怒られた?」  憤る遊馬に根岸は好奇心を隠しきれずに尋ねた。 「泣かれ怒られ殴られ蹴られて、パイズリされましたよ!」  しかし、その答えは斜め上だ。 「なにそれ、怖い」  根岸は真顔で呟いた。





 

これから先も

「山瀬さん!! そこもっと丁寧にできないの!? 音が繋がって間抜けになってる」  甲高い声が演奏を遮った。 「は、はい。すみません」  その年の新入生カラーのリボンを結んだ少女が、よく通る声で答える。  秋の大会に向けて練習に熱が入る暑い夏、ささやかな風の入る講堂は、少女たちの熱気で蒸している筈だった。しかし、緊張した空気はキンと冷えて、少女たちの背中を流れる汗は冷たい。 「ひとりでそこから弾いてみて」  少女は、バイオリンの旋律で応える。力強くそれでいて優しい、力の湧いてくるような音だ。しかし、その音もすぐに止められてしまう。 「ストップ! そこが違うって言っているのよ。今日は違う場所でそこだけ練習してなさい。あなた一人のせいで全体の練習を遅らせるわけにはいかないから」 「すみません……」 「謝って欲しいんじゃないのよ。邪魔だから出て行って、て言っているの」  再び静まり返った講堂で、道具を片づける音だけが空々しく響く。少女は唇を固く結んだままそこを後にした。  その後すぐに再開した全体演奏は、途中音が乱れても最後まで通しで行われた。 ******  琴子は服飾関係の企業に勤めるOLである。彼女は翌日取引先に持って行く手土産を入れるのに、丁度良い袋がないか、娘の部屋を物色していた。娘の部屋といえど勝手に漁るのはどうかとも思ったが、急ぎの用事で今は夜も遅く、彼女を起こしてしまうのも忍びない、とケータイのライトを頼りにして探していた。 「あった、あった」  押し入れから可愛らしい柄の紙袋をいくつか発見し、それを引っ張り出した。するとその奥に花柄の箱を見つけて、その中にも紙袋が入っているのかと思い、開けてみる。 「……え」  そこには、いくつかのUSBとアルバム、それからおそらくアルバムから漏れた数枚のスナップ写真が入っていた。  それを見て琴子は固まった。写真の被写体は全て、息子と知らない男子生徒の二人なのだ。それも、仲が良いと言うだけでは済まされない。とても甘い空気を纏っている。 「え、そんな、え……?」  知ってはいけない、見てはいけないものを見てしまった心持ちで、恐る恐る写真を確認すると、抱擁している写真に、明らかに唇同士が触れ合っている写真など、言い逃れできないものまで出てきてしまった。 「ち、ち、千春ー!!」 「はい!?」  大声を上げると、すやすやと眠っていた娘が飛び起きた。  朝の早い千春と生活を共にするうち、少しの物音では目を覚まさない、目を覚ましたとしても無意識に二度寝をする太い神経を養っていた千尋は、少し前に彼の母親が千春を叩き起したことも知らずにすやすや寝息を立てていた。 「千尋、起きなさい」 「……ぅ、ん……?」  チェックのパジャマをきっちり纏った神経質そうな男性、千尋の父――悟が彼の肩を揺すり動かすと、返事とも言えない吐息が応える。 「千尋! 起きなさい!」 「……ん、は!? え、何!?」  苦手意識のある父の声で起こされ、ビクッと身を縮ませて飛び起きた千尋は、その父に写真を叩きつけられて、更にきゅうっと心臓を縮めた。  なぜ彼がそんなものを持っているのか、そもそもなぜそんなものが存在しているのか。そこには、がっちり唇を合わせる遊馬と自分が写っていた。 「来なさい」  部屋を出て行く父の後ろを無言でついて行く。気分は死刑台に上る死刑囚だ。空気がやけに冷たく、スリッパの音はやけに響く。この場所が、自分という異物を排除しようとしているかのように思えた。  リビングのテーブルでは、千尋や悟と同じくパジャマにカーデガンを羽織った千春と、スーツ姿のままの琴子が待っていた。千春は居た堪れなそうに俯き、琴子は神妙な面持ちでテーブル中央に置かれた箱の中身をじっと見つめている。  悟に促された千尋が彼と琴子に向き合うように千春の隣に座ると、 「これから緊急家族会議を始める」  と悟が切り出した。 「まず千尋、この写真は何だ」 「私が隠し撮りした写真よ」 「それも問題だが、今の議題はそれじゃない。この写真の彼と、どういう関係かと聞いているんだ」  悟は千春を制して続ける。 「お前はまともな恋愛もできないのか。お前は何ならできるんだ。まともな友好関係も築けていないと思えば、こんな……」  彼の言葉に、千尋は俯きぐっと唇を噛み締めた。 (そんなこと、俺だって分かってる)  でも、分かっていても、どうにもできなかった。自分は何もできない。何の取り柄もない。 「何とか言えないのか!」  何とか、言えることなんて無いじゃないか。 「やってるよ」  千尋が何も言えないでいると、千春がそう呟いた。 「ちーちゃんはちゃんとやってるよ!」  俯いていた彼女が顔を上げて、きっと悟を見つめる。 「お父さんに、何が分かるのよ! 殆ど家にだって居ないくせに!」 「それは」 「分かってる。お父さんが家族のために働いてるのも、だから家にいる時間がないのも分かってる。でも、それは理由になっても、私たちを見てない事実は変わらない」  千春は、ぐっと拳を握り、深く呼吸をして続ける。冷えた空気は、頭を冷やすどころか胸を冷やして鼓動を早めるばかりで、なんの役にも立たなかった。 「お父さんは、事あるごとに私とちーちゃんを比較して、私のことばっかり凄い凄いって褒めて。ちーちゃんが努力してる姿を見てもいないのに、どんなに悔しがってるかも知らないくせに」  悔しさに、視界が滲む。いつまでも自身を過小評価する兄が、気が付けば不安定に自分を避ける兄が、彼に対する何もかもが悔しかった。 「ちーちゃんが、お父さんの前で萎縮して、話せなくなったのは、お父さんのせいだよ……」  千春は、じっと千春を見つめる千尋に視線をやった。今、彼のところに降りていかないといけない。 「ちーちゃんだけじゃない。私だって……。私は、今の学校に入学してから、いじめにあった。先輩にいびられて、部活に参加できないようにさせられて、音楽なんか止めてやろうかって思ったこともある」  再び、悟を見据える。 「私たちのことで、お父さんたちが知らないこと、たくさんあるよ。全部分かった気になって、私たちの今までを無かったことにしないで」  千春は言い終えると、勢いのまま席を立ち、千尋の手を引いてその場を後にした。早足で部屋に向かう二人に、悟も琴子も声を掛けることができなかった。 「ごめんね。こんなことになって」  千春の部屋に連れ込まれた千尋は、部屋に入るなり謝ってきた彼女に「いや……」と言葉を濁らせた。  写真について言いたいことは山ほどあったが、それよりも、 「俺も、お前のこと見てなかったな……」  ついさっきの彼女の告白の方が大事だった。  そんな千尋に千春は眉を寄せて切なく笑う。 「見せるわけ無いじゃん。格好悪いもん」 (そんな意地で、見せなかった。ちーちゃんのところまで降りていかなかった)  千春は頭を振ってその考えを振り払った。  自分の弱い部分を見せていたら、なんて考えは、自分にも千尋にも失礼だと思った。  でも、写真のことを責めるよりも千春を心配してしまう彼が、千春は本当に好きなのに、彼自身が自身の価値を分からないでいることは、悔しい。自分がその原因の一つになっていることが苦しい。 「ちーちゃんは、私がピリピリしてた時期を知ってるでしょ。何の障害もなく、今の私がいると思ってないでしょ。お父さんは違うの。そういうの、何も知らない。だから仕方なく言ったんだよ。ちーちゃんのことだって……」  どうしてお父さんは彼を分かってあげないんだろう。私たちを見ていないことに気がつかないんだろう。すこしでも見ていれば、分かる筈なのに。  千春は不安に瞳を翳らす千尋を抱きしめた。 「ちーちゃんは、何も悪くないよ」 「千春……」 「何も悪くならないよ。私が何とかするよ。プリンスはずっとちーちゃんのことが好きだし、私はずっとちーちゃんの味方だよ。一緒だよ」  彼を抱きしめる腕が震える。彼の体も震えている気がした。  その夜は、久しぶりに二人で同じ布団に入った。千尋が何度も寝返りを打つから、その度に千春は「ちーちゃん」と、彼を呼んで、手を握って。彼がちゃんと寝入る頃に、千春も眠った。 「千尋さん!」 「……遊馬」  中庭に降りた千尋は、先にいた彼が、座ったままワンコのように自分を見上げてくるのを見て、目を眇めた。 「どうかしました?」  千尋がじっと見つめていると、遊馬は「ん?」と首をかしげる。千尋はそんな彼にピッタリくっつくように腰を下ろして、肩に頬を擦り寄せた。 「え、千尋さん!?」  白い頬を赤らめて戸惑った声を上げる彼に、腕を回してぎゅっと抱きつく。 「……遊馬、俺……」 (……無理だった)  反対されても、離れられなかった。  自分と彼の仲を賛成してくれる人より、反対する人のほうが多い。家族なら尚更。  障害ばかりで、いつ離れるか分からない。気持ちが変わるか分からない。と、ずっと考えていた。でも、今がきっとその時だと分かるのに、離れることは考えられなかった。 「遊馬……」 「どうしたんですかぁ? 千尋さん」  ただ名前を呼んでしがみつく千尋を、遊馬はいつもの柔らかい笑顔で見つめた。その笑顔を見て、千尋もなんだか気持ちがふわっと落ち着く気がした。 ****** 「私たちの知らないところで、成長しているのね」  千尋と千春の出て行ったリビングで、琴子が言った。 「なんだ、お前は千春に言われたからって、俺に意見するのか。今まで何も言わなかった癖に」 「そうよ。千春に言われて、子どもに言われてやっと気がついたの。このままじゃ駄目だって」  威圧感のある語彙で責める悟をじっと見据える。 「貴方は、娘にあれだけ言われて、少しも考え直そうとしないの?」  神経質な顔を崩さない悟だが、付き合いの長い琴子には、彼がこの状況に焦っていること、子ども達に突き放されて戸惑っていることが分かった。 「私はずっと、千尋はすごいと思ってた。頑張ってるって。でも、私だけじゃ駄目なのよ」 「それとこれとは話が違う」 「今は、こっちのほうが大事よ。男と付き合っている云々を先にしたら、一生分かり合えないわ」  琴子の強い視線に、悟はぐっと言葉を詰まらせた。 「……俺は、別にあいつが劣っていると思っていたわけじゃない。勉強しかできないあいつが受験に失敗して、……それでも夢中になれる何かができれば良いと思ったんだ」  自分は、自分なりに考えて、子ども達を導いてやろうと行動していたつもりだったのに、どこで間違えたのだろう。 「できることがたった一つしかなかったら、それが無くなった時にどうする? ……ずっと、そう言ってきたつもりだった」  言い終えて、握った拳に視線を落とす。 「あの子、勉強だったら何でもできるわよ。国語も数学も理科も社会も。それら全てがなくなることなんてあるかしら? 外から見たら、ただ机に向かって、ずっと同じことをしているように見えるかもしれないけど、本人は驚く程たくさんのことを吸収しているのよ」  琴子はふっと息を吐いて、微笑んだ。 「友達だって、居ない居ないと思っていたけれど、友達を飛ばして恋人を作っているじゃない。ちゃんと、成長してる」  しかしその言葉には悟がしっかり顔を上げて返した。 「いや、それとこれはまた問題が別だろう」と。 「そうですか」  琴子が答えて会話が途切れる。しばしの沈黙が落ちた。  「……明日、あの子達にかける言葉を考えないとね」  琴子の声が、静かな空気に溶けていった。  翌日の夜。急いで帰宅した悟が千尋の部屋を訪ねると、彼は背中にべったり千春を貼り付けて出てきた。彼の後ろで、じーと千春が見つめてくるのに戸惑いつつも、悟は千尋の頭にポンと手を乗せる。 「あー……、その。次の受験で返上しなさい」  そう言って、外に手招きながら悟が部屋を出て行くと、千尋と千春は目を瞬いて顔を見合わせる。それから急いで彼を追ってリビングに向かった。 「それでは、第二回家族会議を始める」  昨夜と同じ並びで四人が席に着くと、悟が切り出した。 「俺の意見を固める前に、二人の話が聞きたい」  彼の言葉に、千春が嬉々として立ち上がり、例の箱に入ったアルバムと写真に加え、どこからか日記まで引っ張り出して来た。それらを広げて千尋と遊馬しか知らない筈のエピソードを語りだした彼女に、千尋は始終泡を食う。 「な、なんでちは、千春!?」 「それは言ったらだめだ!」 「うわぁぁああああ!?」  と。  彼女の暴挙のおかげで、千尋は机に突っ伏して動かなくなったが、勢いに押された悟は交際を認めた。頑固で気をしっかり持っている筈の悟が焦点を合わせずに頷いたのだ。  最後、 「それに、ちーちゃんがプリンスと付き合ってても、私はちゃんと男の子が好きだから! 孫は任せて!」  と言った千春に、千尋はばっと顔を上げ、悟は目に光を蘇らせて、第三回家族会議が始まりかけたが、それは千春の力でうやむやになった。 ****** 「千春ちゃん、昨日来なかったけど何かあったの?」  ぐるぐるに巻いたマフラーで、声を篭らせながら訪ねてきた幻十郎に、千春はえへへと笑って彼の旋毛を擽った。 「ふぁ……っ! ちょ、王司君に気づかれたらどうするの!?」  無表情を崩して、赤い顔で抗議する彼に、千春は「ごめんごめん」と謝って、隣に座る。 「で、何かあったの?」 「うん。ちょっとね。でも、もう大丈夫」  千春は心配してくれる幻十郎にそう答えて、遊馬が背にする扉に視線をやった。 「遊馬!」  中庭に出た千尋は勢いづけて遊馬に突撃した。 「え、千尋さん!?」 「俺、お前じゃなきゃだめだ。多分、もう離せない」  遊馬は、目を瞬いて、ぐっと息を飲み込む。今まで、散々彼に言い続けて、何とか彼に認めさせようとしてきた。それがやっと…… 「なにを今更なこと言ってるんですか~~ッ!!」  斜め後ろから抱きついている千尋を、遊馬は体勢を変えて正面から力の限り抱きしめた。  空が青い。砂利が白い。ふわっと吐き出す息も白かった。開き直って見た景色は千尋を歓迎するかのように、キラキラ輝いてた。


兄恋 鬱と馬鹿とエロス 編<完>