兄恋 双子入れ替わり 編
俺が妹で私が兄で
連続真夏日三日目。 じりじりと肌を焼く太陽の下、山瀬千尋(やませちひろ)は鼻の下に溜まった汗を乱暴に拭った。止めどなく溢れる汗は、湿度のせいで一向に乾かない。体温を下げないそれは、水分を奪うだけ奪って、不快感のみを与えていた。 「ちーちゃん、私、喉乾いた」 双子の妹の千春(ちはる)が自動販売機の前で立ち止まった。 「俺も乾いてる」 「私、お金持ってない」 強い光の下で街路樹も、車道を走る自動車も、自販機も、皆彩度を増していた。千尋はディスプレイのガラスに反射した光に目を眇める。焼けたアスファルトが足元からも熱気を放っている。世界が眩しくて目眩がした。 Tシャツ姿の千尋の手には、ゼリーの入った小さなコンビニ袋が下がっている。制服姿の千春の手には、バイオリンのケースが下がっている。 彼女の所属する吹奏楽部は全国レベルの強豪で、休日練習も当たり前。ふらふらとコンビニに買い物に出た千尋と違って、千尋よりもよほど元気に見える彼女は、この暑い中厳しい練習をした後なのだ。 黒いケースは熱を吸収して熱いだろう。金具部分なんかは火傷するほどに焼けているだろう。 「どれ?」 千尋はポケットから財布を出して尋ねた。 「さすがちーちゃん! 午後ティーが良い、ミルクティ!」 この暑いのに甘いものを飲むのかと思いつつ、千尋は柔らかな色のペットボトルの下のボタンを押した。販売機はすぐにガコンと音を立ててそれを吐きだす。 しかし、取り出し口を覗いた千尋は首を傾げた。 「なんか違うのが出てきた」 「スポドリっぽいね」 「業者が入れ間違えたのかな」 「んー。まあ、それでも良いや」 千春は希望したものとは違うそれを受け取ると、豪快に喉を鳴らして、ぷはーっと息を吐いた。その様子に千尋の喉も鳴る。 「俺にも頂戴」 「もちろんですとも」 二人が回し飲みしたその飲料水の名前は『Substitution〈入れ替わり〉』。二人が目に止めなかったラベルには「効力の期間:一か月」「製造元:世界の不思議研究会」としっかり説明書きがされていた。 なお、自販機の取り出し口の奥には、ミルクティのボトルが取り残されていた。 翌朝。千尋は、けたたましく鳴る目覚まし時計の音で目を覚ました。手繰り寄せて見た文字盤の指す時刻は午前6時。普段の起床時刻より一時間半も早い。セットする時間を間違えたか、と、もそもそと二度寝に入ろうとした。 その時、バンッと扉を開けて何かが飛び込んできた。 「ちちちちち、ちーちゃんっ!!」 大層慌てふためいて、妹しか呼ばないあだ名で自分を呼ばったのは、自分だった。 目が覚めたら妹と中身が入れ替わっていた。これってなんてラブコメ? なんて妹とじゃ何のどきどき展開も期待できない。 その日は、二人して仮病を使って学校を休んだ。両親は心配していたけれど、事情を話してもふざけていると思われるだけだろう。 話し合ったが、どうして入れ替わったのかも分からなければ、どうしたら戻るのかも分からない。 「とりあえず、学校をどうするか」 「お互いの振りして通うしかなくない?」 「部活は?」 「女装して出る」 「はぁっ!?」 「ウィッグ付ければ多分ばれないよ。腹筋とストレッチはやっても組んではやらないし。いやー、ちーちゃんが華奢で助かったわ」 人が気にしていることを、と千尋は途端に不機嫌になり、じっとり眉を寄せる。 「声が違うだろう」 「そこはそれ、マスクして誤魔化すから」 「どうしても引かないつもりかよ」 弱った声を出すと、千春はしゅんと眉を下げる。それを見て千尋はうっと息を詰めた。本当は止めてほしいが、彼女がどれだけ部活に青春を捧げているのか知っているから、「止めろ」と言うのは酷な気がした。 「絶対バレるなよ」 「もちろん! 任せて!」 兄の心遣いを正しく受け取った千春は、喜色満面で答えた。 ――こうして、双子の奇妙な生活が始まったわけだが…… 「はぁ……」 昼休み。階段脇の裏口から中庭に出た千尋は、入り口前の段差に座り込み、溜息を吐いた。 彼のいる中庭は、校舎に沿って植木が植えられているために一、二階からは見えない。三階は特別室のみで、生徒がここを覗くことは少ない。 誰も使わないどころか、ほとんどの生徒が目も向けない中庭は、白砂利が敷かれた中心に、蔦の屋根を持ったテーブルセットが設えてあったりと、無駄に整備されている。しかし、白砂利に反射する太陽が、落ち込んだ千尋には眩しすぎて、そこまで行く気力は出なかった。 連続真夏日五日目。 猛暑の中、わざわざ屋外にいるのは、妹の友達との会話が成立しなかったからだ。千尋は、元来の人見知りであるのだが、その上話の内容も殆ど分からなかった。 スイーツの話に、ファッションの話、ドラマの話に、芸能人の話、音楽の話。前半はともかく、後半の話にもノれないなんて、自分が物事にいかに興味が無いのかを思い知った。 (千春の方はうまくいってるみたいだったのにな……) もともと自分には友人と呼べる友達は居ない筈なのに、社交的な妹は自分が普段話さないクラスメイトとも関わっているようだった。 暑さのせいか、思考が暗い所でループする。再びため息を吐こうとすると、背にしていた裏口が開いた。驚いて振り返ると、目の合った男子生徒が「うわっ」と、失礼にも嫌そうな声を上げた。 「……んだよ」 「え、あ、すみません」 千尋が不機嫌さを隠さずに睨むと、彼は目を見開いた後に戸惑いがちに謝ってきた。 千尋は、彼のさっきの反応は、嫌そうというわけではなく、ただ人が居ることに驚いただけなのかもしれないと思い直す。しかし、まじまじその顔を見るとイケメンというかハンサムだったので、また腹がたった。 「こんにちは、可愛いお嬢さん。同席良いですか?」 「お嬢さんって何だよ。てか何、お前居座るの?」 「落ち込んでる女の子を一人にできないじゃないですかぁ」 「情けない顔を知らない奴に見られたくない、とか思ってるかもしれない、って考えはないの?」 その言葉に、それまで千尋の刺のある返答にも笑みを消さないでいた彼が、少し驚いた顔をした。 「何、その顔」 「いえ、やっぱり知らないんだなぁ、と思って」 その、自分を知っているのが当たり前みたいな態度にまたイラっとする。 「知らないけど、何? お前、有名人なわけ? 残念だったな、思ったより知名度が低くて」 千尋が盛大に嫌味を言うのに、彼はまたへにゃっと笑う。千尋は拍子抜けすると同時に、自分ばっかりピリピリしていることに罪悪感を持ち始めた。 「はい。王司遊馬(おうじゆうま)です」 彼は何が楽しいのか、笑顔のまま名乗る。 その名前は千尋にも聞き覚えがあった。サッカー部のエースで、その名前と容姿、人当たりの良さから女子に人気で、男子にまで『プリンス』なんて呼ばれている一年生だ。 千尋の反応に彼が驚くのも当然。この学校じゃ、知らないのがおかしいくらいの有名人だった。 「先輩は? そのリボンの色、二年生ですよね」 「……山瀬」 千春と名乗るが何となく躊躇われて、名字だけで返した。 「じゃあ山瀬さん、よろしくお願いします」 何をよろしくするんだよ、と思ったがわざわざ口にはしない。気にすることもない唯の社交辞令だろう。 「もしかしてここ、お前の指定席だったりすんの?」 弁当を広げる遊馬に話しかけると、彼は首を横に振った。 「そういう訳じゃないです」 「女の子に追われてたのか? モテすぎんのも大変だな」 「あ、やっぱり俺のこと知ってました?」 「名前だけな。嫌でも耳に入る」 そう言ってすぐに、まずったな、と思った。二年生の間でも噂されていると分かったら、調子に乗るのではないかと思ったのだ。 しかし、遊馬は何でも無いように「そうですかぁ」何て言って、ふわっと笑った。 そんな彼を、讃頌されることに慣れているのかと思うと、また腹が立つ。そうですねプリンス様は違うますよね、とそこまで考えて「違ぇだろ」と千尋は頭を掻いた。 卑屈な上に他人を妬むとか……。自分は思っているよりも今の状況に参っているらしかった。言い訳になるが、普段はこんなにまで他人を下げずんだりしない。 「別に逃げて来たとかじゃないですよ。でも、教室で食べると視線が気になるんで、見つからないうちに外に出るんです。やっぱり外の方が気持良いですよねぇ」 「ふーん」 千尋は彼がハンサムだということは考えないことにした。顔を除けば悪い奴じゃない。むしろ良いやつだ、認めよう。 気を取り直して改めて彼を見ると、半袖シャツから伸びる白い腕が目に付いた。サッカー部なのに、焼けない体質なのだろうか。語尾が間延びするようなふわふわした口調もあって、外部活の人間にはあまり見えなかった。 (体育会系は得意じゃないから丁度良いや) 千尋はとにかく、キラキラとか熱血とか青春といった言葉の似合う人間が苦手だった。 そんなことを考えていると、見つめる視線に遊馬が身じろいだ。 「俺と一緒は居心地悪いか」 それを見て千尋はまた、そんな卑屈な言葉をかけてしまう。 「あははっ。山瀬さん、変なこと訊きますね」 「そうかな……ははは」 「変」と笑われて、千尋は瞳に影を落とした。 (やっぱり、変わってるんだ。だから、人付き合いもうまくいかないのかな)、なんて。 「すみません。気、悪くしました? 違いますよ、変というより面白いってことですよ。居心地悪いならここに居るわけないじゃんって」 慌てて弁解する遊馬に、千尋は、そんなに取り繕わなくて良いのに、と思う。今だって、妹の友達と話が合わなくて逃げて来たところなのだ。自分に周りに合わせる力が無いのは分かっている。 眉間に皺を寄せる千尋に、遊馬は困った様に眉を下げた。 「そんな顔しないでください。折角、可愛い顔なのに。あ、でもアンニュイな表情もそれはそれで良いですけど」 遊馬の表情はしょぼくれた犬のようなのに、励まし方はその名のとおり王子様のようだ。 「……お前、口説き慣れてんな」 「そんなことありません!」 慌てて否定する彼に千尋が「ぷふっ」と笑うと、彼もふにゃふにゃした口調に戻って笑った。 「皺なくなりましたね。良かったぁ」 「なに、無自覚でそんな気障なの?」 眉間を指して言う彼に、千尋は「はあ」と呆れた声を出した。 「正直者なんですよぉ」 「あと、気障なセリフ言うときだけ口調がはっきりするのな」 「心に響くように」 「決め顔すんな」 軽く背中を叩いたら、またふにゃっと笑う。 「なんか、お前と居るのは楽だな」 千尋の口からそんな言葉が溢れた。 千尋と千春のことを知らない彼には、ボロをだす心配もないし、イラついたおかげで人見知りも発動しなかった。その上、噂通りに人当たりが良いから、こんな自分でも話しやすい。 「え」 遊馬の頬がほんのりと赤く染まった。色白だからよく分かる。 「暑いの?」 「え?」 「顔、少し赤いから」 「いや、別に! 大丈夫です!」 何故か取り乱した遊馬に、千尋は軽く首を傾げた。 昼休み。千春は姿の見えない兄を探していた。一階には居ない。二階にも居ない。校舎内には居ないのかな、と外に出て校舎を回って中庭にたどり着く。すると、植木の影で誰かがこそこそと動いているのを見つけた。 「何してるの?」 声を掛けると、しーっと、人差し指を口の前に立てられる。 振り向いたのは、大きなタレ目が可愛い、さらさらヘアーの少年だった。ネクタイの色からして同い年。タレ目と、さらさらの髪の毛は、千春や千尋とお揃いだが大きさと色が違う。千春の目はタレ目だが細いし、髪も彼の方が黒々として艶やかだ。正に美少年。美少年は植木の向こうを指さした。 「あ」 千春は思わず声をあげる。そこには探していた兄とプリンスが居た。 「あの子、誰だか知ってるの?」 「あ、えっと……わた、俺の兄、いや、妹だよ」 「あの子さ、プリンスに気があるのかな」 「さあ……ないと思うけど……」 なにしろあれは自分の兄である。 「そんなことより、君はこんなところで何してるのかな?」 千春は逆に彼に質問してみた。 「盗撮」 「え!?」 しかし、可愛い顔で堂々と犯罪宣言をされて、驚いた。細い目を見開いた千春を後目に彼は続ける。 「プリンスの盗撮だよ。高く売れるんだ。女の子と一緒じゃだめだけどね。君は何をしに来たの?」 「妹が気になって」 この言い方じゃあシスコンみたいだな、と思ったが、まあ良いかと思い直す。 千春の言葉を聞いた美少年は何か思いついたように微笑む。今まで殆ど表情が動いていなかったものだから、そのやけに綺麗な笑顔は逆に怖かった。 「僕は影木幻十郎(かげきげんじゅうろう)。君は?」 「山瀬千尋」 「女の子みたいな名前だね」 それは千尋のコンプレックスだ。でも、千春は何とも思っていないので、曖昧な笑みで返した。 「丁度良いから、付き合ってよ」 影木が綺麗すぎる笑顔のまま、千春に向けてカメラのシャッターをきる。 こうして四人の奇妙な昼休みが始まった。
嫉妬じゃない?
千尋と千春の体が入れ替わってから一週間がたった。途中で夏休みに入ったが、補講が前期・後期と入っているため、実質休みはお盆しかない。それでも、帰宅部の千尋は午前で帰れるのだが、遊馬と話す時間が楽しくて、毎日必要のない弁当を持って来ていた。 その日もいつものように中庭に向かっていた千尋は、その途中、聞こえてきた会話に足を止める。通り道の階段の影で交わされる声は、緊張した面持ちの女の子のものと、相変わらずふわふわした遊馬のものだ。 「あ、あの。私、ずっと好きでした。サッカーしている時とか、ずっと遠くから見てて。以前、資料を運んでる女の子を手伝ってるのを見て、優しい人なんだ、て、思って。でもそれが羨ましくて……嫉妬、したんだと思います。だから、その……特別になりたいと思いました」 緊張で声を震わせる彼女の言葉は可愛くて、儚くて、真摯で、関係ない千尋まで心を揺り動かされる気がした。 「……ありがとう。嬉しいよ」 遊馬の言葉に、千尋の鼓動が早くなる。 「でも、気持ちに応えることはできない。ごめんなさい」 続いた言葉に胸を撫で下ろした。 「どうしてですか? あの、わたし、王司君の好みに近づけるように頑張るし、それに……」 「ごめん、今。気になる人がいるんだ」 (好きな人いるんだ) 何故かつきんと胸が痛んで、千尋は戸惑い、シャツの上からそこを押さえた。 「……っ、分かりました。話、聞いてくれてありがとうございますっ……」 ただ立ち尽くしていた千尋は、女の子がこちらに来る気配に気づいて慌てた。今更隠れる場所も時間も無かった。 「きゃっ」 「うわっ、ごめん!」 案の定、角から飛び出して来たその子と衝突した。小さく声を上げた彼女は大きな瞳に涙をいっぱい溜めて、それでも小さな声で「ごめんなさいっ」と言って走り去る。 (って、めっちゃ可愛いんですけど!? あいつなんでふってんの? 俺なら絶対付き合うのに! くそう、ハンサムくそう!!) 少し前の胸の痛みも忘れて、心の中で女泣かせの遊馬を理不尽に罵倒していると、「山瀬さん!?」と当の彼が陰から飛び出して来た。さっきの女の子とのやり取が聞こえていたらしい。 「あ……ははっ、」 また隠れるのを忘れていた、と千尋は気まずさに意味なく笑った。 「なに。お前、好きな子居んの?」 「……はい。いや、好きと言うか……良く分からないです」 「あの子めっちゃ可愛かったじゃん。もったいねぇ」 「……」 いつも通りの昼休み、校舎の影で広げた弁当を前に、遊馬は沈黙した。 (もったいないって、みんな言うんだよな……) しかし、遊馬は名前も知らない人にいきなり告白されても、付き合おうという気持ちにはなれなかった。 (やばい……?) 黙り込んでしまった遊馬の隣で、千尋は気まずさに冷汗を垂らす。 本当に、なんで隠れなかったんだ俺。なんで逃げなかったんだ俺。と、今更な後悔をした。 「まあ、でも。好きじゃないんじゃ、しょうがねぇか」 苦し紛れに、ははっと躍ける千尋に、遊馬はぱっと顔を綻ばせた。 「あの」 「え、なに?」 遊馬は、千尋が自分の気持ちを認めてくれた、と思って喜んだのだが、そんなことは知らない千尋は、憂い顔から笑顔に変わったハンサムに無闇に心を揺さぶられた。ハンサムはやたらにそんな表情をしたらいけないと思う。 (男にときめくとか、暑さで頭おかしくなったかも) 千尋は眉を顰めて彼から目を逸らした。 「山瀬さん。それって、嫉妬ですか?」 「はあ!? ちっげぇし! いや、違くもないのか……?」 さっきの女の子の顔を思い出して唸る。 顔の良いやつばっかりモテてずるい。俺だって可愛い女の子に告白されたい。できればさっきの子みたいに目が大きくてふわふわした女の子が良い。と、つまり女の子に告白された彼が妬ましい。 「イケメンもハンサムもみんな爆発しねぇかな……」 「物騒!」 思考を声に漏らしてしまうと、隣のハンサムが自身を抱き締めて大げさに身を震わせた。 「やっぱ男ならああいう可愛い女の子とハーレム作りたいとか思うわけだよ」 「えー、山瀬さん? 暑さにやられました?」 暑さにやられていることは、千尋自身も分かっている。シラフだったら、男にときめいたりしない。 「お前もそう思わないか? ふわふわの女の子に囲まれてさぁ、いや思わないのか。あんな可愛い子が向こうから来てくれてるのに断るんだもんな。うん、やっぱないわ」 「山瀬さんの方が可愛いと思いますけど」 勝手にうんうん頷いていると、遊馬が例のきめ声で言った。それに千尋は、お前も暑さにやられたのか、と哀れみの視線を向ける。しかし、見た目は千春なわけだし……と、首を捻るが最終的に、中身は俺だぞ!? と、結局彼の頭がいかれたという結論で落ち着いた。 「今日の最高気温は……」 「三十七度です」 「じゃあ仕方ない」 「? あの、山瀬さんはそういう人居ないんですか?」 遊馬は千尋のよくわからない発言にキョトンとした後、気を取り直して尋ねた。その顔がまたイケメンというか、懇願するような空気を纏っていて、新たな扉を開きかけた千尋はふるっと肩を震わせる。 うわ、ちょっと!? その顔反則なんですけど、思わずドキッとするじゃねえか!! 俺をホモにするつもりか! ホモにするつもりか! と。 「い、居ないかなぁ。ていうか、お前、その気になったらすぐその子落とせるだろ。今ちょっと、ドキッとしたんだけど」 はは、と笑ってごまかすと、ハンサムな顔が近づいてきた。白い砂利で光に慣れた目を影が覆って、一瞬状況が理解できなくなる。 「本当にそう思いますか?」 「ふ、ぇ?」 近いんですけど。 逃げようしても、顔の両脇に遊馬の腕がある。これが噂の壁ドンですね。初体験です。ありがとうございました。 「山瀬さん」 (やばいやばいやばいやばい、近い近い近い近い) どアップにも耐えられるハンサムを呪う余裕も無い。 三角座りしてた俺、グッジョブ。身体は密着しないからな! 顔はあと数センチで着くけどね! と彼に見えない位置でグッと親指を上げてサムズアップした。しかし、予想外にその手のひらが汗を掻いていて、自分の動揺を思い知る。千尋は、恥ずかしさに「嫌だもう」「なにこれもう」と泣きたい気持ちになった。 「お前、こんなとこ誰かに見られたら、誤解されるぞ」 「されません」 「……っ、お前なぁ」 「なんで逃げないんですか?」 「なんでって……」 理由なんかねぇよ、びっくりして逃げるっていう選択肢を忘れてただけだよ! といっそ怒鳴りつけてやりたいのに、喉が震えて大声なんて出せなかった。 「山瀬さん」 「――っ、やだ!!」 鼻先の触れそうな距離で名前を呼ばれて、千尋はついに彼を突き飛ばして逃げた。彼が教えてくれた選択肢だ、文句はあるまい。残してしまった弁当はどうなるんだと一瞬頭をよぎったが、心臓の方が大事だ。もう限界だった。 中庭には弁当と共に、頭を抱えた遊馬が取り残された。 何という事でしょう、何と言う事でしょう! いつものように、草むらからプリンスとちーちゃんを観察していたら、あんなことになってしまうなんて!! ちーちゃんとプリンスがキス!? ちーちゃんホモだったんですか!? 胸のドキドキが止まらない! というかそれ、私の体です。 「……君の妹、プリンスに興味無いんじゃなかったっけ?」 内心で荒ぶる千春に影木が感情の読めない声で尋ねた。 「冷静になって影木くん。あれはプリンスの方が押せ押せだったよ」 「でも千春ちゃん殆ど抵抗してないよね。満更じゃないよね」 無表情で責める彼に、千春は「一番混乱らしているのは私だ」と訴えたいところだ。が、 「千春ちゃんとプリンス、キスしてたね。ねえ、今どんな気持ち? ねえ、今どんな気持ち?」 (こいつ思ったより余裕じゃねぇか) 千春は影木の死んだ瞳を見つめ返して、 「えっと、腐に目覚めそうです」 と口走った。 「え?」 「あ。ごめん混乱してる」 「……そうみたいだね」 影木は残念なものを見る目で千春を見た。 それにまさかの興奮を覚えてしまった千春は、「私が腐とMに目覚めたら、どっちもちーちゃんの所為なんだから!」と全てを兄の責任にした。 ****** (山瀬さんに会いたいな) 風に揺れるポニーテールを思い出して、遊馬はそっと溜息を吐いた。 遊馬が千尋に言った「好きかどうか良く分からない人」とは、まさに千尋その人のことだった。 遊馬は昔からモテていたわけではない。二年前に急に身長が伸び始め、その頃からやりたいサッカーのプレイに体がついていくようになって、いつの間にかプリンスだ何だと持て囃されるようになっていたのだ。 最初のうちは、単純に嬉しかったのだが、休み時間の度に女の子に囲まれたり、遠目に見つめられたりと、今では注目されることに少し疲れてしまった。 中庭に出たのはあの時が初めてだった。女の子の視線から離れるために来た筈なのに、そこに山瀬さんがいて、思わず嫌そうな顔をしてしまったかもしれない。それに気がついたのか、彼女は露骨に顔を顰めたけれど、自分はそれにほっとした。名前は聞いたことがあると言われて、それでも態度を変えない彼女が嬉しかった。「あのプリンスか!」なんて手のひらを返すように燥がれたら、すごく嫌だったと思う。 本当に、久しぶりに気を張らないで女の子と話ができた。 (……それだけだと思ったんだけど) 女の子に告白されたとき、彼女の顔が浮かんでしまったのだ。 手紙や、口頭で思いを告げられる度、嬉しいと思う反面、困ったな、と思っていた。だって、自分は彼女たちと同じだけの好きを返せないから。 いつか、彼女ができたという友達に「羨ましい」と言ったら、「嫌味か」と返されたことがある。好きな人同士で恋人になることに憧れるのは、そんなに変なことだろうか。 『好きじゃないんじゃ、しょうがねぇか』 だから、山瀬さんがそう言ってくれて嬉しかった。そこではっきり彼女が好きだと自覚した。でも、 ――あれから、彼女は中庭に来なくなってしまった。 といってもまだ三日なわけだけど、……すごく寂しい。 (ああ、なんであんなことしたんだ俺) 遊馬は壁際に追い詰めた彼女のことを思い出して顔を覆う。 でも、ほんと山瀬さん可愛かったな。顔真っ赤にして、目をうろうろさせて、絶対嫌がってる顔じゃなかったもの。……そうだと思うんだけど…… 山瀬さんに会いたい。でも、会いに行って拒絶されたら立ち直れない気がする。でも、弁当箱も返さないといけないし…… ぶつぶつ言いながら遊馬は二年の廊下を彷徨い歩いていた。傍から見たら完全に変な人だが、ハンサムだから許される。不審な目どころか好意の視線を向けられている不条理。 そうしていると遊馬は、横髪が耳のところだけ跳ねたストレートのポニーテールを発見して、瞳を輝かせた。 「山瀬さん!」 相変わらずキューティクルが眩しいその人に駆け寄ると、千尋は口の前で人差し指を立てて、 「しーっ」 とジェスチャーをした。 何それ可愛い。キュン死にしちゃいますよっ! 「何してるんですか?」 「尾行」 小声で聞くと、そんな答えが返って来た。遊馬は千尋の視線を辿る。その先で、小柄な男子生徒二人が談笑していた。 「どっちですか?」 「あー、ええと。可愛い方」 千尋は男子生徒二人――影木と千尋の姿の千春に視線をやったまま答えた。 「……どっちも可愛いですけど」 「はあっ? お前の目ぇ腐ってんじゃねぇの!? どう見ても黒髪の方だろうがっ」 カッと顔を火照らせる千尋に遊馬は、 (え、なんでそこで赤くなるの? 可愛いんですけど!) と胸を押さえた。 「え、いや、でもどっちも可愛いですけど」 「うるさいなっ! 可愛くねぇよ!」 千尋は赤い顔のまま両拳を胸の前で握って抗議するが、遊馬はそんな姿にだって身悶える。 「うわぁ、山瀬さん可愛いです!」 「――っ! 誰にでも言ってんじゃねぇか!」 「わーっ、ごめんなさいぃ! ギブ、ギブッ! 肩パン痛いです!!」 女の子の力でも連続で肩を叩かれるのは痛かった。 「まったく、お前のせいで見失っちまったじゃねぇか」 「すみません……」 あれだけ騒いでいれば当然のこと。ターゲットを見失った二人は、いつもの中庭で弁当を広げていた。 「何、へらへら笑ってんだよ」 「だってぇ、山瀬さんとまたお昼一緒に食べられて、嬉しいんですもん」 「お、まえ! そういう恥ずかしいこと、さらっと言ってんじゃねぇよ」 「山瀬さん、可愛いー」 「うるさい」 千尋が口を尖らせてぶつぶつ文句を言うが、そんな姿さえ遊馬の目には可愛く写る。文句の合間に「俺だって……」なんて言葉が聞こえれば浮かれてしまう。 「ていうか、俺はお前くらいしかまともに話せる奴が居ないんだからな。それだけだ」 照れ隠しなのか分からないそのセリフは、本当だったら凄く寂しいと思うのだが、遊馬にとっては「山瀬さんに友達いなくて良かった!」である。大変失礼なことは遊馬にも分かっているが、嬉しいものは仕方ない。 「あの、あの人のことが好きなんですか?」 浮かれた気持ちのまま訊いてしまい、遊馬は「あ」と口を閉じた。「そうだ」と肯定されたら落ち込むのに、でも一度出てしまった言葉は取り消せない。 「はあ!? 違えよ!」 「違うんですか?」 しかし、すぐに否定されて胸を撫で下ろした。 「なんでそうなるんだよ」 「だって、尾行してたじゃないですかぁ」 「あ、あれは、最近千春が、あっ……妹があいつと仲良いみたいだから、ちょっと気になっただけだし」 「なんだ、そうなんですかぁ」 「そうだけど」 「そっかー」 遊馬は安心して、へにゃっと笑った。 「妹さんと仲良しなんですね」 「うーん……。仲良いって言うか、凄い奴だと思うよ」 それに対して、千尋の笑顔は少し寂しげだ。 「俺さ、もっと上の私立の学校を目指してたのに、落ちちゃったんだ。でも、妹は最初からここを狙ってて。それも、吹奏楽を本格的にやりたいからって、理由もちゃんとしてて。あいつは目的があってここに居るのに、自分には何もない。それだけじゃない。あいつはすごく明るくて、いろんなことに興味があって、友達もたくさんいて……、双子なのに俺とは正反対だ」 千尋が無理をして笑っていることが分かって、遊馬は思わず華奢な肩を掴んでいた。その顔を覗き込んで訴える。 「そんなことないです! 山瀬さんは、自分のこと何にも無いなんて言うけど、人の自分より優れたところを素直に認めて尊敬できるのって、なかなかできることじゃないと思います。山瀬さんは、すごく魅力的な人です――ったぁ!」 ――叩かれた。 「い、痛い……」 「痛いのはお前の頭だ!」 「もー、照れちゃってぇ」 「うるさい!」 照れ隠しで暴力に出てしまうところも可愛いと思う。自分はもう末期かも知れない。 遊馬は真っ赤な顔で「笑うな!」ときゃんきゃん吠える千尋に、ふにゃふにゃ笑うのを止めなれなかった。 「すごく良い雰囲気だね」 何を話しているかは聞こえないけど、表情で分かる。 千尋と遊馬の様子を植木の影から覗いていた影木は、覗き仲間の千春に言った。 「ソウデスカネ」 彼の言葉に千春はきれいな棒読みで返す。その心では邪な葛藤が繰り広げられていた。 どうしよう、燃える。いや、萌える。兄で萌えても良いものか。どうだろう? と。 「どう見てもそうじゃん。あー、もう。もったいない!」 「何が?」 表情を崩さずに口調だけ取り乱す影木に、千春が訊いた。 「プリンスだよ! 女子に興味なさげだったから期待してたのにーっ! ホモじゃないなんてぇ!」 ごめんなさい、ホモです。あと、影木君そんな人だったんですね。 千春は、オタク趣味の後輩が「男同士の恋愛が好きな女の人を『腐女子』、男の人を『腐男子』って呼ぶんですよ!」と教えてくれたことを思い出した。つまり彼は腐男子か。私は今から腐女子です。 そして千春は、彼の予期せぬ告白に促され、さっきまでの葛藤に決着をつけた。 (兄萌上等! 私は腐女子! ちーちゃんは受け!) ちなみに男同士の恋愛において、女役を「受け」男役を「攻め」と言うらしいことも、例の後輩から授かった知識である。 「あのね、影木君。信じられないかもしれないんだけど、実は……」 何かあった時に味方がいた方が良いよね、腐男子の! と言う訳で千春は影木に全てを話した。
女の子革命
千尋と千春の体が入れ替わってから二週間。千尋は人生で初めて女の子から呼び出しをされた。 女の子から、というのは過去に千春と間違えられて男から呼び出されたことがあるからだが、ここでは関係ないので割愛する。 ところで、何を隠そう千尋は女の子が大好きだ。細身でもふくよかでも筋骨隆々でもそれぞれの良さがあると真剣に思っている。しかし…… 「うんぬ……」 千尋は眉を顰めてなんとも言えない声を出した。埃臭い旧校舎で待ち構えていたのは、先輩後輩入り混じった六人の女生徒だったのだが、その雰囲気は全然甘くも酸っぱくもない。 「呼ばれた理由、分かるわよね」 長い髪の毛先を緩く巻いた少女が、威圧感たっぷりに切り出した。 良く考えなくとも今の千尋は千尋でなく、千春である。愛の告白なんて待っている筈がなかった。しかし、可愛らしいメモ用紙に書かれた可愛らしい丸文字に、うっかり浮かれてしまったのだ。男心を弄ばれたのだ。悲しい。 「山瀬さん、最近プリンスと仲良いわよね?」 返事がないことにじれたのか、彼女が追って言った。 「仲良くないよ、付き纏ってるだけでしょ?」 「それで仲良いつもりになってるの? 何それ、いたーい」 それに他の女の子達が言葉を足して、くすくす笑う。その様子は一見して可愛らしいが、纏う空気が「嫉妬」「嘲笑」「嫌悪」と、どろどろ濁って気持ちが悪い。 「そっかー……」 千尋はショボンと項垂れる。自分は女の子という生き物に夢を見すぎていたようだ、と。 (王司、ごめんな。俺が間違ってたよ) 彼女たちの中に、最近見知ったばかりの顔を見つけて心の中で謝った。他の子の影で、暗い顔を俯かせる彼女は、先日遊馬に告白していたあの子だった。 今まで「女の子なら何でも良い。誰でも良いから付き合いたい」状態の千尋だったが、今、革命が起きていた。 (もったいないとか言ってごめんな) 再び彼に謝罪して溜息を吐く。 「そうよ、プリンスはあんたのことなんて何とも思っていないんだから、いい気にならないでよね!」 そんな千尋の反応に、手応えがあると勘違いした巻き毛が、悪役らしい笑みで言い放つが、 「仲良いつもりにも、いい気にもなれないなんて、可哀相だな」 言い返した千尋に「な!?」と顔を歪めた。見た目だけは美人だと思っていたが、それも改めたほうが良さそうだ。 千尋は人と話すのが苦手だが、それは所謂「くだらない話」が苦手なだけであって、言いたいこと、言うべきことがはっきりしていれば主張できる。だからこそ、とっつき難いと思われているのかもしれないが、言われっ放しでいるのは無理だった。 「ちょっと気に掛けてもらえてるからって、調子のってんじゃないわよ!」 「ああ、俺気に掛けてもらってんだぁ、嬉しいなー」 「大体何よあんた。プリンスの何のつもりなわけ? 恋人でもないくせに、ベタベタしないでよ! 勇気出して告白した女の子が泣いてるのに、そんなのおかしいじゃない!」 ヒステリックに叫ぶ巻き毛が、影に隠れたその子を指さした。 「ねえ、そこに隠れてる子。止めなよこんなこと、後悔するよ」 千尋がその子に直接言うと、「黙れ!」と、巻き毛が唸った。 「この子は関係ないのよ! 私達がしたくてしてるの!」 巻き毛の支離滅裂な反応に、自分から引き合いに出しておいて……と、千尋は呆れる。 「じゃあ何でその子がここに居るの? 『自分たちはその子のためにしてるんだ。私利私欲でしてるんじゃないんだ』って、言い訳する為じゃないの?」 影の女の子がビクッと震える。巻き毛の様に気が強すぎるのも嫌だが、弱すぎて流されるがままなのも、なんだ。 (俺、けっこう選り好みする質だったんだな……) と千尋はしみじみ思った。 「っ、迷惑なのよ! あんたのせいで……!」 「あんたのせいで、何? 俺が居なかったら何なの? 君たちは誰のために俺を呼び出したの? あいつに近づく女は皆憎いの? その子だって抜け駆けしたんじゃないの? ああ、だから言い訳に使うなんて、エグいことができるんだ?」 「減らず口を叩かないで。それも『あいつ』だなんて馴れ馴れしい。彼だって迷惑してるのよ!」 「それ、あいつが言ったの? 君たちの願望でしょ。すごいよね、あいつのためだって言って友人関係にまで口出ししちゃうんだから」 上の学校を狙っていたと言うだけあって、千尋の頭の回転は早い。落ちたことを悔やんでいるという向上心もさる事ながら、負けず嫌いも相当なものだ。 千尋は彼女の言葉に一つ一つ丁寧に返して、 「迷惑? それ、そっくりそのままあんたらに返すよ」 と、ニコリと笑った。 口で勝てなくなった巻き毛は、ふるふる拳を震わせて、千尋に掴みかかった。それを千尋は「うおぉ!?」と咄嗟に避ける。 (女の子でもこういう時、暴力に出るのかよ!?) 今まで家族以外の女性と本当に関わりのない人生を送っていた千尋である。己の中の女の子象が音を立てて崩れるのを感じた。そんな中で、次の行動を考える。 てか、どうにかしないとな。俺の体なら良いけど、これ千春の体だしな。癪だけど、 ――逃げる! 身を翻せば、声が背中に突き刺さる。 「追えぇぇええっ」 (はえぇぇええっ!?) 降り向けば、千尋よりも背が高ければ手も足も長い女の子が、凄まじい勢いで迫って来ていた。足の筋肉も申し分ない。はっきり言って勝てる気がしない。振り向かなければ良かった。 「陸上部のエースを舐めるなよ!」 エース何してんだ!? 「短距離よ!」 聞いてない! 「捕まえた!」 ――捕まった…… その勢いで床に押さえつけられると、千尋は「ちょっと、傷付いたらどうしてくれんだ」と憤った。しかし、押さえつけてくるそいつを睨み上げて、すごいことに気が付く。 (こいつ、俺に馬乗りしてやがる!)と。 「……あの、ここからレズビアン的な展開とか期待したらダメですか?」 「はぁ? お前何言ってんの?」 希望が絶たれた。しかし、その展開になっても、鬼の形相のこの人達とじゃ嬉しくないか、と思い直す。――いや、嬉しいか? 違う、しかっりしろ俺。ここままじゃ千春の体が……! 「声出しても無駄だよ、ここからじゃ向こうの校舎までなんか届かないんだから」 千尋を押さえつけた陸上部のエースは勝ち誇るように言うが、千尋はそのおかげで気が付いた。 (あ、そうだ声出せば良いんじゃね?)と。 おあつらえ向けに今は千春の体だ。吹奏楽で鍛えた彼女の肺活量は凄まじい。大きく息を吸った千尋は、渾身の力で、 「火事だぁぁぁああアアアッッ!!」 と叫んだ。 ****** その時、遊馬は旧校舎の入口でそわそわと中の様子を伺っていた。様子のおかしい千尋が気になって後をつけて来たのだ。 朝から千尋は、とても機嫌が良かった。お昼を一緒した時も、いつも難しい表情をしている顔ににこにこ笑みを湛えて、鼻歌交じりに意味もなく遊馬を小突いてきたりした。そんな千尋を前に、遊馬も釣られて嬉しい気持ちになった。しかし、その理由を尋ねれば、 「放課後呼び出しされちった」 なんて無邪気に笑われ、遊馬は思わず「はあ!?」と叫んだ。 「何だよ、その反応。お前はモテるから分からないかも知れないけどな、一般生徒にとって告白は一大イベントなんだからな!」 そんな遊馬の反応に、千尋はせっかくご機嫌だった眉間に皺を寄せる。 (そうじゃない、そうじゃないんです山瀬さん!) どこまで鈍いんだこの人は、俺結構アピールしたよなこの人に! と、遊馬の心は荒れた。 学年の違う遊馬が、彼の機嫌が『朝から』良いのを知っているのは、休み時間の度に彼の様子を伺っているからである。ちなみに遊馬にストーカーの自覚はなく、千尋は慣れない体で躓いた時や、授業道具を運ばされた時など、どこからともなく現れる遊馬に、 (こういうところがモテるんだろうな、ハンサムすげぇな……) などと呑気に感心していた。まあつまり、過程はアレだがアピールはできている、筈だった。 「呼び出し、されたんですか……?」 「だからそう言ってんだろ」 「行くんですか……?」 「行くけど」 「告白されるんでしょ?」 眉を下げて言外に行かないでくれと懇願する遊馬に、浮かれた千尋は気が付かない。 「そっかー、俺告白されちゃうのかぁ、そっかー」 「山瀬さん!!」 今まで見たこともない表情で、ふにゃっと笑う千尋が可愛くて、それが悔しくて、遊馬は彼の言葉を遮った。 「付き合う、つもりですか……?」 絞り出したような掠れ声で訊く遊馬に、千尋はキョトンと目を瞬いた。 「いや、それは話を聞かないと分からないけど。どっちにしたって、会ってからだろ」 遊馬もその考えは最もだと思うし、誰彼構わず付き合うというつもりではないと分かり、ほっとする。が、やはり気が気じゃない。 「いつ、どこに、誰に会いに行くんですか!?」 「飯食ったらすぐに、場所と人は――」 ――秘密! と悪戯っ子のようにニシシと笑う彼に、遊馬は身悶える。 (くっそ可愛い!) しかしどうして、こんなシュチュエーションでは手放しで喜べなかった。 そうして結局、場所も相手も教えてもらえなかった遊馬は、仕方なくこうして彼の後を付けて来たのだ。包み隠さず教えられていても、ついて来たかもしれないが、「かも」「れば」を語ればきりがないので、そんな妄想は捨て置く。 しかし、もうすぐ昼休みが終わってしまう。夏休み中で授業の無い午後でも、遊馬は部活に行かなければいけない。日常的に女の子に呼び出しをされている遊馬だから、誰も詮索はしないだろうが、女の子に構って練習が疎かになることも、周囲にそう思われることも嫌だった。でも、 (旧校舎とか怪しすぎ! ていうか山瀬さん遅い! 告白聞くだけならそんなに時間かからないでしょ!? もしかしてお付き合いすることになってそのまま……!? いや、山瀬さんに限ってそんなこと……でも相手が無理やりって可能性も……!! いやぁぁああ!! そんなのダメだぁ!! どうして、どうして俺は山瀬さんを引き止めなかったんだ!!) やはり千尋のことが心配でそこから動けない。いっそ迷惑がられても迎えに行ってしまおうか、それがダメでも少し覗きに行ってしまおうか、そんなことをぐるぐると考え出す頃、 ――火事だぁぁぁああアアアッッ!! その声は聞こえた。 「大丈夫ですか!?」 遊馬は迷わず声の方向に走り、その光景に固まる。すっと血の気が引いて顔から表情が消えるのを感じた。 「……なに、してんの?」 手足の長い短髪の女の子が千尋に馬乗りになり、その周りを五人の生徒が囲んでいる。 「何してんだって聞いてんだよ!!」 初めて聞く遊馬の恫喝に、千尋までもが身を震わせた。彼がいつも千尋に見せる、ワンコのような顔は見る影もなく、やけに真剣な表情で、白い肌は青ざめていた。 正面から彼の怒気に当てられた女の子達は、泣きそうな顔で震えている。こんなところを本人に見られたのだから、死にたい位の気持ちになっているに違いない。 「私たちは、別に……」 「別に、何? 女の子一人を大勢で囲んで何してんの?」 「あ、あの……」 「とりあえず山瀬さんの上から降りろよ」 「は、はい……っ」 遊馬に言われて、やっと短髪が千尋の上から降りる。重りの無くなった千尋は、差し出された遊馬の手を取って立ち上がった。 「山瀬さん、大丈夫ですか?」 「え、うん。平気」 平気だと言うのに、無事を確かめるように、体中触ってくる遊馬に、千尋は「千春の体に気安く触ってんじゃねぇよ」と言いたくなったが、あんまり彼が必死なものだから止めておいた。 「あ、あの……」 気の強そうだった巻き毛が、弱々しい声を掛けた。 「……なに、あんた達まだ居たの?」 それに返す遊馬の声は氷のように冷たい。 「消えなよ、目障りだ」 声とともに刺し殺すぞと言わんばかりの視線を投げられて、彼女達は息を詰めて逃げて行った。しかし、その中に一人、逃げずに残った子が居た。先日遊馬に告白していた女の子だ。 「君は……」 「ご、めん、なさい……っ」 声を掛ける遊馬に彼女はぽろぽろ涙を零して謝った。その姿に遊馬は「ちっ」と舌を打つ。 (謝るのは、俺にじゃないだろ……)と。 「おい、王司」 千尋に咎められ、ぐっと眉を寄せる。 女の子が泣くのは嫌いだ。こちらに非があるときはもちろん、向こうに非があるときでも自分がすごく酷い奴な気がしてくるし、一方的に責められている気分になる。外からは問答無用でこちらが悪者扱いされる。卑怯だと思った。 「いいから消えなよ」 「王司!」 彼女は唇を噛み締めて、走り去った。足音が遠ざかっていくのを確認して、遊馬は千尋に向き直る。 あの子の態度が気に入らなかった。俺にさえ許されれば良いのか、山瀬さんのことなんてどうでも良いのか、肝心なところを間違えているから、涙を見せられても媚びているように見えて余計にイラついた。 「王司……」 千尋は、遊馬の強い視線を受けて、続く言葉を飲み込んだ。 彼女の涙を見て、思わず彼を咎めるような声を出してしまったが、それが突発的な感情に流されたエゴだと気がついたのだ。 「ありがとう」 だから、本当に言うべき言葉を探して、伝えた。 「来てくれてありがとう。俺のために怒ってくれてありがとう」 遊馬は目を見開いて、表情を崩した。青ざめた、冷たい怒りを宿した顔が消える。しかし、いつものふにゃふにゃした表情でもない。不安そうに、今にも泣き出しそうに崩れた顔は、叱られた犬の様だった。 「すみません……っ」 「なんでお前が謝るんだよ」 「だって、俺と一緒に居たせいでしょ?」 「そうだけど、それでお前が悪いってことにはならないだろ。呼び出しに応じて、ひょいひょいこんなところまで来た俺も俺だし。第一、俺が好きで一緒に居たんだ。友達と一緒に居て何が悪い。いちゃもんつけてくる方がおかしいんだ」 千尋のその言葉に遊馬はいっそう複雑な気持ちになる。 自分のせいで山瀬さんが危険な目に合ったのが悔しくて、それを山瀬さんが何とも持っていないのが嬉しくて、好きで俺と一緒に居たのだと聞いてそれも嬉しくて。でも、今日一日あんなに楽しみにしていた呼び出しが、こんなことになってしまって、この人の気持ちを思うと悲しくて。全部をひっくるめて、この人のことが愛しくて。 「……山瀬さん、恰好良すぎですよぉ……」 情けない犬の顔に、いつものふにゃふにゃの笑顔を足した複雑な表情になった遊馬に、 (なんだよ、こいつ全然ハンサムじゃないじゃん) と千尋は小さく笑う。 「でも、俺も対抗したからな。口では勝ったし」 そう言ってふと、ずっと影で縮こまっていたあの子のことを思い出した。 「あの子、お前に告白した子さ。理由にされたんだ」 基本的にフェミニストである千尋は、遊馬が彼女に怒りを覚える理由がどこにあろうと、誤解を持ったまま評価しているかもしれない、という現状が気がかりだったのだ。だから別に、彼女を許してやれだとか言うつもりは無い、のだが、 「だから、何ですか。山瀬さんが許しても、俺は……っ」 そんな千尋の気持ちなど読み取れる筈もない遊馬は、語尾を震わせて俯いた。 「すみません、心狭いですよね」 「いや、ちょっと嬉しいし」 「山瀬さん!」 遊馬はガバッと顔を上げて、はにかむ千尋と目が合い、両手で顔を覆う。 「やばい、俺今すごく情けないところを見せてる気がする……」 「お前年下だろうが。俺ばっかり情けない姿晒してられるか」 「山瀬さんが男前過ぎる~!!」 そして可愛すぎる! と座り込んで膝に顔を埋めた。 遊馬が顔を隠して黙り込んでしまうと、途端に千尋は不安になる。 (あれ、大丈夫だよな? さっき一応笑ってたよな?) と。 「……これが原因でもう会わない、とか言い出さない、よな?」 だって、自分が彼の立場だったら、彼が自分のせいで危険な目に遭うようなことがあったら、彼のために距離を置こうとするかも知れないと思ったのだ。 その呟きを聞いた遊馬は、がばっと顔をあげて掴みかかる勢いで千尋に迫った。男一人を支えられるわけもなく、千尋はぺたんと後ろに座り込んでしまう。 「――っだぁ、もう! かっこいいの!? 可愛いの!? 俺をどうしたいの!?」 「え、……おい?」 肩を持って、ぐらぐら揺さぶってくる遊馬に、千尋は視線で抗議する。 「放すわけないじゃないですか! バカですか!?」 「な、先輩に向かってバカってなんだよ、バカって!」 「そこに食いついちゃうところがバカですよぉっ! あーもう、抱き締めたいこの衝動!」 「うるさい!」 「きゃうんっ」 叩いたらやっぱり、犬みたいに鳴いた。 離れないなら良い。千尋はほっとして、薄い唇でふわりと弧を描いた。
囚われる
「あの、山瀬さん居ますか?」 電子辞書を忘れた遊馬は、千尋の教室に借りに来た。千尋と千春が入れ替わってから三週間がたつが、二人の関係は良好だ。 先の『火事だぁっ!』事件から、遊馬は休み時間に千尋の教室を覗いたり、千尋を探して回ったりすることを控えたりもした。しかし、千尋の方がそれを許さず、気づけば隣に居るなんてことがしばしば続き、遊馬も開き直ったのだ。 上級生の教室は慣れないうちは緊張したが、常連となった今はそれ程でもない。千尋を呼び出すために他の生徒に話し掛けるのは初めてだが、もはや見知った顔という感じだ。声をかけられた生徒も「お、プリンスじゃん」と気軽に返してくれた。 「山瀬妹ならそこに居たけど」 「あ、いえ。お姉さんの方に用があるんです」 訂正すると、相手は「ん?」と首を傾げた。 「山瀬は兄と妹の双子だけど」 「え?」 「あれ、山瀬妹居ないな、さっきまで居た筈なんだけど……」 廊下に顔を出すその人につられて、遊馬も廊下に視線を巡らせる。すると遠くに、小走りでポニーテールを揺らす後ろ姿を見つけた。 「山瀬さん!」 遊馬に呼ばれた千尋は、全速力で走りだした。 千尋には、やましいことなど何もない筈なのに、説明のしようがなくて、とにかく混乱したのだ。 「待ってください!」 しかし、すぐに追いついてきた彼に手首を掴まれる。そのまま引っ張られて、空き教室に連れこまれた。 「捕まえた!」 (……捕まった) 「お、まえ……っ、速すぎ、陸上部のエースより、はやい……っ」 「サッカー部のエースです」 そうでした。 千尋は、この状況からどう動いたら良いのか分からなくて、呼吸を整えることに集中した。 遊馬は、だんだんと俯いていく千尋の顎を掬って顔を上げさせると、強制的に目線を合わせる。 「俺に隠してることありませんか?」 「……え、と……」 「妹、いませんよね?」 黒目勝ちな瞳に見つめられて、千尋はうろうろと視線を彷徨わせた。 居るよ、本当は。でも、本当のことを言っても信じてもらえるわけがない。 「なんだよ、嘘ついたのは悪かったけど……」 本当に最初から嘘をついていれば良かった。そうすればこんな変な事態にならなかったのに。 心臓がずくずく悲鳴をあげる。 「そう言うこと言ってるんじゃないんです」 じゃあなんだよ。 「どうして嘘ついたんですか。というか、良く分からないです。どういうことなんですか?」 嘘じゃねぇよ。むしろお前にだけ本当のことを言ってたのに…… 「……お前に、関係無いだろ」 どうしたって説明できないから、結局こんな風にしか答られない。最低だ。 嘘を疑われて、弁解できなくて、突き放すようなことを言って。先週女の子たちに呼び出された時はあんなに弁が立ったのに、それより大事なところで役に立たない。 恐る恐る千尋が、逸らしていた視線を遊馬に合わせると、彼は何かに耐えるように眉間に皺を寄せていた。 「……そんなこと、言わないでください」 柔らかそうな唇が震えながら言葉を紡ぐ。 「初恋なんだ。関係無いなんて、言わないでください」 ****** 千尋は、薄暗い階段の脇で足を止める。無意識のうちに体が勝手に動いていたようだ。今日はここに来るつもりは無かったし、ここから先へは足が進むことを拒否している。 数メートル先の扉を睨みつけた。ガラスの嵌められたそれには、植木の影と、白砂利に反射して脅威を増した強い光が映っている。千尋はその場所から目を逸らすと、方向を変えないまま階段を上って行った。 光は見えなくなったのに、薄暗い中、眩しいまでに輝くその一点が、数メートルの距離を超えて網膜に張り付いていた。 立秋を迎えて、暦の上では一応秋。しかし実際には、八月も始まって間もない猛暑の只中。千尋は強すぎる日差しを避けて、木陰に身を隠した。 前後左右で絶え間なく鳴き続ける蝉の音に、どうせ一週間の命なら、一斉に生まれて一斉に死ねば、夏の不快要素が半減されるのに、などと理不尽なことを考える。 風が千尋の細い髪を凪いだ。こうして緑に囲まれて、風を感じていたら、額の汗も爽やかなものに感じられないだろうか。 「爽やか……」 千尋は立てた膝の上で腕を組み、頬杖をついた。目の前のグラウンドでは、蝉に負けない声を上げて、男たちが汗を散らしてボールを追いかけている。あの様子がきっと爽やかというものだ。 千尋は、昼休みに中庭に行かなくなってから、昼食の場所をグラウンド脇に移した。草地にビニール袋を敷いて、弁当を食べる。ピクニックみたいで少し楽しい。 本当は、弁当なんて食べずに帰っても良いのだ。でも、中庭に行けなくなったことに気付いたその日、ぐずぐずしている間に昼休みが終わってしまって、もう食べずに帰ろうかと思った千尋は、しかしグランドを見て、離れられなくなってしまった。だから、ここで一人で弁当を食べた。そうしたら、遊馬が自分の日常に欠かせないものになっているのだと分かってしまった。なんとなくグランドを眺めているだけのつもりなのに、どうしても、彼を目で追ってしまうから。 千尋は深く溜息を吐いた。 あいつが好きなのは千春だ。俺じゃない。好きと言われても仕方ないし、何にもならない。勘違いさせてしまったことがやるせなかった。 グランドで、一際大きな声が上がった。仲間に肩を叩かれて、色白で、太陽の下が似合わない彼が、ワンコみたいに笑っている。千尋はサッカーのことを良く知らないが、今までできなかったことができるようになったんだな……、とは分かった。 あいつは俺と過ごす昼休みが無くなっても、成長していくし、あいつの前から俺が居なくなっても、大丈夫。それなのに俺は、こうして未練がましくグラウンドに通って、彼を見ている。そのくせ、もう手の届かない彼に、寂しさと懐かしさがこみ上げて泣きたくなる。 「不毛だな」 千尋はグランドに向かって呟いた。 「王司、最近調子良いじゃん!」 部活後。サッカー部員達が帰り支度をするロッカールームで、キツネ目の先輩が遊馬に声を掛けた。 「え、そう、ですか……?」 お調子者だが面倒見の良い彼からの評価に、普段だったら素直に喜ぶところだが、後ろめたい気持ちのある遊馬は戸惑ってしまう。 「なんだよ、歯切れ悪いな」 「いえ、ありがとうございます」 「お前何かあったのか?」 隣で着替えていたハーフアップの先輩も話に加わってきた。 「なんか急かされてるっていうか、サッカーに逃げてる感じがする」 次期部長候補の彼は、部員一人一人をよく見ている。特に、遊馬のことは同じポジションということもあり、気にかけてくれていた。 「すみません」 「いや、謝ることじゃないけどな。でも力みすぎて怪我でもしたら困るだろ。大事なエースなんだから」 「なんだよ、王司。一丁前に悩み事かよ」 「おい」 次期部長に制されて、キツネ目の先輩が「はーい」と肩をすくめる。 遊馬は、次期部長の促す視線を受けて、眉を下げて打ち明けた。 「好きな人ができたんです」 「え!?」 「はあ!?」 今までに何人もの女子に告白されて、ことごとく断ってきた学園の王子の告白に、二人だけでなくロッカールーム中から声が上がった。 「す、すみません。こんなことで」 遊馬は慌てて謝った。 きっと皆は俺が部活や勉強のことで悩んでいると思ったのだろう。女関係かよ、と嫌な気持になったかもしれない、と。 遊馬だって、千尋のことで部活に支障が出るのは絶対に嫌だと思っていた。だからこそ力み過ぎるという結果になってしまったのだが。 「いや、悪い。べつに『こんなこと』とか思ってないからな。ただ驚いただけで。それで?」 しかしすぐに訂正されてほっとする。 「告白したんですけど、」 「はあ!?」 二連続の爆弾発言に、再び声が上がる。 やっぱり駄目だったかと遊馬が不安を顔に滲ませると、次期部長は慌てて「いや、悪い! 驚いただけだから!」と謝って、続きを促した。 「返事を貰えずに避けられてて……」 「いや、そんな女止めちまえよ」 「嫌です!」 キツネ目の先輩の忠告に即答すると、彼は「oh……」と横文字の声を漏らした。 「それに、答えずにうやむやにしよう、とか考える人じゃないんです。きっと、返事に迷っていて。答えが出るまでは会わない、とか、そういうことだと思うんですよね」 「そりゃ、気が気じゃないな」 次期部長が頷いた。 「それもですけど、会えないのが普通に辛いです。それに……」 遊馬は考えるように言葉を詰まらせた。 「妹が居るって聞いてたんです。自慢の妹だって。でも、本当は居ないことが分かって……」 「嘘までつかれてたのかよ」 キツネ目の先輩の言葉に遊馬は頭を振る。 「いや、嘘とかじゃなくて。何か隠されてるっていうか……すみません、うまく説明できなくて」 キツネ目の先輩はそこまで聞いて「じゃあさ」と提案した。 「とりあえず会えば良いじゃん」 と。 「え」 「は?」 遊馬と次期部長はそろって訝しげな声を上げた。 「だって、会わないようにしてるのはその子の勝手だろ? 会ったら答えを出せなくなるってわけじゃないんだから、王司が会っちゃえば良いじゃん。隠し事されてるのは考えたって仕方ないし、親密になるうちに打ち明けてくれるかも知れないだろ? それとも何、あからさまに逃げられたりすんの?」 「そんなこと無いと思いますけど……」 遊馬は最近の千尋を思い浮かべる。遊馬が声をかけると、ギクッと肩を強ばらせて、早口に挨拶をしてすぐ逃げてしまった。よそよそしい態度の千尋に、遊馬からも声を掛けることができなくなって、もうしばらく話もしていない。 「じゃあもう、お試しとか言って手とか繋いだって良いじゃん。ハグまでは友達同士でもするって、ばあちゃんだって言ってんぞ」 軽い調子で笑うキツネ目の先輩の発言に、今まで千尋のことを考えていた遊馬は、その様子を生々しく想像してしまい、カッと色白の顔を赤く染めた。 「ハ、ハグなんてできません!」 「いや、べつにやれとは言ってないから。ちょっと友達より上のことしてみて、恋人になってからのことを意識させるのも手じゃないかって言ってんの」 予想外にウブな遊馬の反応に、キツネ目の先輩が引き気味で言った。 数日後、遊馬は遊園地のチケットを持って二年の教室に向かった。しかし、そこで遊馬は酷い光景を見てしまう。 千尋と、以前話題に上がったおかっぱの男子生徒が、親しげに話していたのだ。この前までその位置は自分のものだったのに、そう思ったら声なんて掛けられなかった。 『そんな女止めちまえ』 『嘘までつかれてたのかよ』 キツネ目の彼に言われた言葉が頭をよぎる。 (彼女は、そんな人じゃない筈なのに……) もう何を信じたら良いのか分からなかった。
縋る
「千春!」 「ちは、ち、ちーちゃん。どうかした?」 弁当片手に教室を出ようとした千尋は、上機嫌な千春に呼び止められ、出来の悪い笑顔で返した。自分の顔に向かって、ちーちゃんと呼ぶのにはいつまでたっても慣れない。 「うん。ちょっと付き合ってよ」 「え、ちょっと!?」 千春はどもる千尋の手を引いて、強引に理科室に連れ込んだ。 カーテンを閉めた室内は、教室や廊下に比べれば少しひんやりとしている。蛇口付きのテーブルが並ぶ中、その一つに誰かが座っていた。最近、千春と仲の良い黒髪の美少年だ。美少年は千尋の姿を見つけると、笑顔で近づき右手を差し出した。 「初めまして、山瀬千尋君。僕は影木幻十郎」 千尋の思考は停止した。 「………ぇ」 「初めまして、山瀬千尋君。僕は影木幻十郎」 「え? え!?」 (何これどういうことなの!? なんで俺のこと千尋って呼んでんの!?) 脳内で叫んだ千尋は視線で千春に助けを求める。しかし彼女は、 「全部話しちゃった。てへぺろ」 て、俺の顔でやっても可愛くないから! 「てへぺろって、なに。お前、信じちゃったの!?」 影木の方を見ると、 「信じちゃった、てへぺろ」 て、こっちはちゃんと可愛いし! 顔面格差! 「だって、その方が僕に都合が良いし、薄い本が熱くなりますし」 て、何なの馬鹿なの? ツッコミどころのオンパレードだが、影木はそれらを「まあ、それは冗談として」で片付けた。 「僕だって、千春ちゃんの話だけで信じられる訳が無かったからね。君たちの周りの人に色々話を聞かせてもらったんだ。最近、山瀬兄妹おかしくない? って」 千尋は嫌な予感にひくりと目尻を動かした。 「千尋君に対しては、『すごく明るくなった』『話しやすくなった』『今まであんまり話したことなかったけど、けっこう良い奴だったのな』って。千春ちゃんに対しては、『最近すぐに居なくなる』『話が合わなくなった』『もっと明るい子だったのに』って。で、それを聞いて千春ちゃんの話を信じることにした」 理由のカードを出し終えた影木に「これなら納得できる?」と、伺うわれた千尋は、眉間を寄せて片眉を下げる、悲しいような諦めたような顔になった。 確かに、その話を聞けば入れ替わりに納得できるのかもしれない。というか、 (俺、やっぱり周りからそういう風に見られてたのか。分かってたけど、改めて言われると……) 「ん~……、ちーちゃん誤解されやすいんだよね。本当は優しくて、筋の通った良い男なのに」 千春に励まされて、無理に笑顔を作る。 「そう言ってくれるのはお前だけだよ」 ――ああ、いっそ消えたい。 千尋は引き攣った笑顔の裏で自分を罵倒した。 「そんなことないでしょ」 そんな気持ちを知ってか知らずか、影木は無表情のままそう言った。 千尋にはそれが上辺だけの無責任な言葉に感じられて「お前に何が分かるんだよ」と、彼が悪いわけでもないのに、怒りをぶつけそうになる。 「少なくともプリンスはそう思ってる筈だよ。――で、何があったか話してみない?」 しかし、彼の口から出た意外な名前に、怒りなどどこかに行ってしまった。 「は!? なんであいつのことを!?」 「僕たちは何でもお見通しだよ」 「ちーちゃんとプリンスがラブラブなのも知ってるよ!」 千春まで何を言い出すのか。 「そんなんじゃねぇよ!」 「キスまでしたくせに~」 千尋が反論すれば、千春は口を尖らせて、千尋を煽る。 だから俺の顔でやっても可愛くないんだって! と、千尋は地団駄を踏みたい気持ちになった。 「何だよそれ、してねぇよ!」 「でもこの目で見たのよ」 「俺の顔で女言葉を使うな。見間違いだろう。ちゃんと見たのかよ」 そこまで言って心当たりを見つけた。 (あの時の壁ドンか! だから、誤解されるって言ったのに! されません。とか言い切りやがって! 嘘つき!) 言い募る千尋に千春は「そういえば」と、その時のことを振り返る。 「顔が近いとは思ったけど、キスしてるところは見えなかった……かも?」 そうでしょう、そうでしょうとも! と千尋はうんうん頷いた。 「と言うかなぁ。千春の体だぞ、そんなことする訳ないだろ!」 「ちーちゃん!」 千春は指を組んで潤んだ瞳で千尋を見つめた。だから俺の顔でやっても(以下略) 「感動してるところ悪いんだけど、結局プリンスと何があったの? 僕の心が全裸待機してるんだけど」 そう言って割り込んだ影木に千尋は、全裸待機ってなんだ? と思う。しかし流行に疎い自分が知らないだけだろうと勝手に納得して、遊馬とのことを全部話した。 「あー、嘘をつかなかったことで逆にこんがらがっちゃったのか……。もうさ、全部本当のこと話すしかないんじゃない?」 三人が教室の隅から椅子を持って来て、並んで弁当を広げる中、顔に似合わないコンビニ弁当を食べながら、千尋の話を聞き終えた影木が言った。 「そんなの今更言えるわけないだろ。告白までされたんだぞ。実は男でした……って、最悪だろ……」 そう言う千尋の箸からプチトマトが転がっていった。 「でも、じゃあどうするの? このまま逃げるの? それって誠実じゃないと思う」 そう言う千春もプチトマトを取りこぼした。さすが双子だ。 「だって、他にどうしたら良いのか分からないんだ。……はっきり断れば良いのか……」 尻つぼみになる千尋の言葉に、影木が答える。 「君はどうしたいの? それで良いの?」 「嫌だけど……」 「結局のところ君はプリンスのことをどう思ってるの? そこをはっきりさせないと、どうにもならないんだけど」 感情の読めない影木の瞳が、千尋を見つめた。 「……俺、は……」 その日も千尋は、グラウンド脇の植木に寄りかかって、サッカー部の練習を眺めていた。相変わらず日差しは強い。水分補給は忘れないけれど、こうも暑いとぼーっとしてくる。 結局あの後、千尋は影木の質問に答えることができなかった。その後は影木もその話題を出すことは無かった。ただ、彼と話をすることは多くなった。 彼の前だと嘘をつく必要がないから楽で、秘密を共有している感覚も心地よくて、千春が居ない時でも二人で行動することが多くなった。 それでも、この心地よさは何か違うと感じた。でも、何と何が違うのか、とは考えなかった。 ――ゴッ 「――たっ」 思考を巡らせるうちに、いつの間にか居眠りをしてしまっていた千尋は、後頭部の衝撃に意識を浮上させる。寝ぼけ眼を広げると、足元にサッカーボールが転がっていた。 「すみません――」 掛けられた慌て気味の声が、途中で途切れた。 「山瀬さん?」 千尋はその人の顔を見ることもなく走り出した。 「山瀬さん!」 足場の悪い道で躓いて、転ぶ前に腕をとられる。 そこでやっと千尋が彼――遊馬を振り返ると、彼は練習中よりも真剣な顔をしていて、そんな顔を見てしまったら、動けなくなった。 「どうして何も言わずに離れて行こうとするんですか!? 俺、ずっと見てたんです! 昨日も、今日も、山瀬さんが影木先輩と一緒に居るところ。影木先輩が好きなら、そう言えば良いじゃないですか! 変に気を使わないでください……、そんなの、俺……」 「そうじゃない!」 そうじゃない。……でも、その続きが出てこない。 ふわふわした口調を取り去って、遊馬が必死に話すから。ハンサムな顔を歪ませて叫ぶから。千尋は自分の気持ちも纏まっていないのに、そう叫んでいた。 「……さっき、どうしてあそこに居たんですか。……もしかして、いつも居た……とか……」 千尋が黙ってしまうと、すこし落ち着いたのか、遊馬が探るように口を開いた。 それでも彼は千尋を離さない。彼の腕から彼の体温と一緒に、その思いが流れてくる気がして、胸が苦しくなる。 「それは、だから……お、俺だって、お前のこと……、その、なんていうか……」 気持ちを理解するより先に言葉が溢れてきた。千尋は、頬を染めて目を泳がせる。しかし、甘酸っぱい気持ちは遊馬の次の言葉で凍りついた。 「千春さん?」 それは、遊馬が何度も、心の中で呼んでいた名前だった。自然とその呼び方が口を出てしまったのだ。千尋は細い筈の瞳をまん丸く見開き、固まる。ついさっき口を出てしまった、言葉と気持ちに押し潰されそうになる。 そうだ、俺は今、千春だった。何してるんだよ、こいつが好きなのは目の前の可愛い女の子なんだよ。冴えない男の千尋じゃないんだ。 「千春さん!?」 千尋は、掴まれた腕を振りほどいて再び走り出そうとした。 自分の気持ちだってきっとそうだ。千春の体だから、女の体だから、遊馬への気持ちを勘違いしているだけだ。だって、俺はゲイじゃない。こいつのことは良い奴だと思うけど、普通に、男のまま出会っていたら、こんな風に思わなかった。 「待ってください! 今、何を言おうとしたんですか!?」 振りほどこうとした腕は千尋を離さない。強く掴んでくる大きな手に、彼の本気を感じて泣きたくなった。ツンとした鼻を啜ると、土の匂いが迫ってくる。 「千春さん!」 「……千春って呼ぶな」 「――っ、山瀬さん!」 千尋を捕まえる彼の手が、びくっと震える。彼を傷つけた。もう、顔を上げることもできない。 顔を伏せてしまった千尋を前に、遊馬が言葉を絞り出だす。 「……今は、言えないなら言わなくても良いです。ただ、俺は山瀬さんが好きです。そのことは考えてほしい」 「分かった……」 ――分かりたくないけど。 もう千尋は自分の気持ちに気がついてしまった。 彼のハムスターのようにふにゃっと笑う口元に、なよなよしてるなよ、とイラついたけど安心した。俺に懐いて、尻尾を振って寄ってくるのは可愛いと思った。根暗な部分を見せても受け入れてくれて、俺を肯定してくれて、嬉しかった。 彼のファンに呼び出された事件の後、彼は千尋から距離を取ろうとしていた。気が付けばいつも視界に入っていた存在が、見えなくなってしまったその時に感じた気持ちは『寂しい』だけでは説明できない切なさがあった。あの時彼を追いかけてしまったのは、今彼から逃げても結局離れられないでいるのは…… 考えないようにしていた結論が、出てしまった。今自分は本当の体にいないから、これは間違いなのかもしれない。けど今この瞬間はどうしようもなく…… ――どうして、お前は俺のことを好きになってしまったんだろう。 ――どうして、俺はお前のことを好きになってしまったんだろう。 「それで、デートに誘いたいんですけど。俺はデートのつもりですけど、山瀬さんは遊びに行くつもりで来てくれて良いです」 ……どうして俺は千春じゃないんだろう。 「一緒に遊園地に行きませんか? チケットはあるんです。山瀬さんと行きたくて用意したんです。……あの、お試しってことで……ダメですか?」 飼い主を待つ犬みたいな、その目は反則だ。「ダメだ」と、その一言が言えなくなった。だからと言ってすべてを話す勇気も無くて。 「……分かった。……行く……」 追いかけられて、掴まれた腕を離してもらえないのが嬉しくて、デートに誘われたのも嬉しいのに……、辛い。彼を騙す結果になるということも、結局自分の首を絞めているのだということも分かっているから。 消え入りそうな震える声で答える千尋に、遊馬は困ったように眉を下げて笑った。
昼休みの続き
デート前日の夜、千尋は布団の中で、何度も寝返りばかり打っていた。楽しみなのもあったが、後ろめたさの方が勝っていて、うだうだと考え込んで眠れない。やっと睡魔が訪れたのは、夜も明け始めた頃だった。 隣の部屋の目覚ましが、寝不足の頭に響く。 (俺の目覚ましより早いとか、千春の奴、何でこんなに早くセットしてるんだよ。日曜だぞ、今日)と、千尋は不満に唸りながら布団を引き寄せ、頭から被った。すると、 「ちちちちち、ちーちゃんっ!!」 久々に聞く高く通る声とともに、勢いよく部屋のドアが開け放たれた。しぶしぶ目をこじ開けて、千尋は混乱する。そこには正真正銘姿からして完璧な妹が居た。 「ちーちゃん! 戻ったよ、ちーちゃん!」 「うぇ、え、あ、え?」 飛びついてきた千春に肩を揺さぶられ、千尋は意味を成さない声を繋いだ。 「しっかりして、ちーちゃん! 元に戻ったんだよ! 私達! なんで目覚ましかけてたの?」 「ぇ、あ、――ああっ!」 千春の目覚まし発言に、やっと完全に目を覚ました千尋は、逆に千春の肩を掴んだ。 「千春!」 「何?」 「お前は今日、王司とデートなんだ!」 「え、ええ!?」 「最寄駅の改札前集合なんだ!」 「え? え?」 「服装は昨日考えたんだ!」 「は? い?」 「さあ、行って来るんだ!」 「ちょい待ち!」 逆に揺さぶられる立場になって、脳をグワングワンいわせながらも、千尋の話を飲み込んだ千春は、暴走する彼を止めにかかった。 プリンスとデートって何だ。しかも今日なのか。服装考えるって、それも女の子のデート服考えるって、凄く楽しみにしてるじゃないか。 「それ、私が行ったらダメでしょ!」 「何で!? どうして!? 俺が千春で千春が王子とデートなんだよ!?」 「ちょっと何言ってるか分かりませんね」 「だから、俺が千春で千春が俺で千春が千春だから」 「黙らっしゃい!」 「痛い!」 千春は混乱する千尋があまりに煩く、収集が付かないので彼の頬をベチンと叩いた。力加減をミスって結構な音がしたが、構うものか。 「ちーちゃんが行かなくちゃダメでしょ! プリンスの気持ちも考えなよ!」 よよよ……と頬を押さえてショックを受ける千尋を怒鳴りつけた。 「だって、俺が行ってどうすんだよ! 俺はお前の兄だよ! 今の俺は千春じゃないんだ! 俺が行ったって、迷惑なだけだよ! 誰だこいつってなるよ! そんなの……俺……」 話しているうちに下を向いてしまった千尋は、そこで一度言葉を切ると、次の瞬間顔を上げて、ぐいっと、その顔を千春に寄せる。 「お願い! 今日だけで良いから、千尋の入った千春のふりをしてくれよ! その後はお前の好きにして良いから! お願いだから!」 涙の溜まった瞳に見つめられて、千春はやるせない気持ちになった。この頭の固い兄をどうしたら良いものか、と。 大体、この兄は、自分の気持ち、相手の気持ちをちゃんと理解しているのだろうか。いや、理解したからこそデートに行くことになったのか。あれ、じゃあ、ちーちゃんは自分がプリンスのことを好きだと認めてる? 「……分かった」 「千春!」 「私の好きにして良いのね? じゃあ、このまま私がプリンスと付き合っても良いのね?」 「え、ちょ、千春!?」 慌てる千尋に千春は確信する。 こ・れ・は!! やっと進展する機会が訪れたと言う訳ですね! と。 ならば今後のことはまた、腐仲間影木と相談するとして、今はとりあえずデートを乗り切ることにする。千春は千尋に見えない位置でサムズアップした。 ****** 「山瀬さん」 千春が改札を抜けると、すぐに遊馬が駆け寄って来た。 尻尾をぶんぶん振った犬のようなテンションだが、ふんわり微笑みを湛えた彼の周りには、キラキラ星の幻覚が見える。駅前は、髪を染めたり固めたりしておしゃれをしたお兄さんに、スーツを着たダンディなおじさま、どこかへ遠征に行くのかスポーツバッグを持った集団など様々な人が行き来するが、雑踏の中でも彼は誰より目立っていた。 オフホワイトのサブリナパンツに、淡いモスグリーンのカットソー、グレーとウルトラマリンのグラデーションのパーカーを羽織ったスタイルは、爽やかかつ纏まりがあり、その中に年相応に砕けた愛らしさも演出されている。デートにふさわしい服装だと千春は評価し、ハンサムの本気に圧倒された。 ちなみに千春の服装は、膝上丈のオレンジ色のフレアスカートに、黒い丸襟の付いた白のカットソーを合わせて、サーモンピンクのフード付きカーデガンを羽織っている。箪笥を隅々まで探したのであろう、さっぱりした私服の多い千春の中では、なかなか可愛らしいコーディネートである。女の子らしい女の子が好きな千尋が本気で選んだ服装だと思うと何とも言い難いのだが、まあ彼も本気だった。 「おはようございますぅ」 「あ、ぷ、おはよう、王司君」 (危ない、プリンスって言っちゃうところだった) ぎりぎり失敗を免れた千春が遊馬を仰ぎ見ると、彼は何故だか不審そうな顔をしていた。 「……」 「あ、え、」 さっきまで星や花を飛ばしていたハンサムが無言になってしまい、千春はおろおろとその顔を窺った。 「あ、すみません。いつも王司って呼び捨てなのにどうしたのかと思って」 「あ、ごめん! 緊張しちゃってるみたいで。王司だよね! 王司! あははっ」 頭を掻いて、慌てて言い直す。 (ちょっと、ちーちゃん! ばれたくないなら、そういうことは先に言っておいてよね!) 「はい! 山瀬さん! 制服も良いですけど、私服も可愛いですね」 遊馬の顔に、すぐにふわふわの笑顔が戻ってきた。その上さらっと気障なセリフを言われてしまい、嬉しいやら、驚くやらで、彼に特別な感情を持っていない千春も、さすがに狼狽えてしまった。 「う、へぇっ、あ、ありがとう。王司も格好良いよ」 「……」 噂に違わぬ王司の王子っぷりに、どもりながらもお礼を言うと、またも訪れた沈黙。 (え、なに? また私何か失敗した? 今日一日もつか不安っていうか、もう無理な気がするよぉっ!) 千春は、うわーんと心中で涙を流しつつも、ここは流すしかないと彼を促す。 「あ、えーと、王司? 早くいかない?」 「……千春さん」 「はい?」 引っ張っていこうとする千春を彼が引き止めた。静かな声で呼び止められた千春は(なんで名前?)と振り返って、目を見張る。そこには至極真面目な表情の彼が居た。 「俺の知ってる山瀬さんは何処ですか?」 彼の言葉に、千春は「愛だ」と唖然と呟いた。 ****** 全盛期よりは幾分勢いの落ちた蝉しぐれの中、千尋は薄暗い廊下で膝を抱えていた。場所は、中庭に続く出口の前。扉に背を付けて、膝に顔を埋める。 本当は、これで見納めにしようと、白砂利の眩しい中庭に出るつもりだったのだ。でも、できなかった。扉ひとつ隔てた先にあるその世界が眩しすぎて、ガラスの向こうを見るのが辛かった。 廊下の隅で、目を閉じて、千尋は記憶の中の中庭に降りる。眩しかった。空も、庭も、彼も、何もかもが眩しすぎた。 「最初から、俺の居るような世界じゃなかったんだ……」 小さな声がスッと空間に消えていく。受け止めてくれる人なんて誰もいない。 自分には影が似合っている。影から彼を見ているのが似合っている。サッカーの練習だって、影から見ていたじゃないか。キラキラ光る世界を木陰から覗いていたじゃないか。 今頃彼は千春とデートだ。良いじゃないか。千春は可愛いし、ひねくれた自分と違って性格も素直だ。このまま付き合うのかもしれない。そうしたらきっと二人共幸せだ。 制服の上からぎゅっと胸を掴んだ。 「何だよ、何でまだ好きなんだよ……っ」 じわっと目頭に熱いものがこみ上げる。千尋の体に戻っても、この気持ちは消えなかった。今更友達からやり直そうだなんて思えない。 彼が遠い。記憶の中では、こんなに近くで笑っているのに、現実の彼はこんなにも遠い。もう、会えないかもしれない。他人に戻ってしまったのだと、次に廊下ですれ違ったら、視線が合うことすらないのかと思うと悲しくなる。もう自分が彼と関わることができるのは、いや、彼を意識できるのは、遠く影からボールを蹴る姿を眺めることだけなのだろう。リアルな想像に、目元を押し付けた膝頭がじんわりと湿った。 しばらくそうしていると、遠くから、誰かの足音が聞こえてきた。ばたばたと駆け足に、こちらに近づいてくるようだ。 (人が落ち込んでるっていうのに元気な奴。廊下を走ったらいけないって、教わらなかったのか) そう思いつつ、ゆっくりと顔を上げた千尋が見たのは、影から飛び出してきたハンサムだった。 「千尋さん!」 千尋は咄嗟に状況を理解できなくて、思考が真っ白になる。 だって、彼がここに居る筈がない。その名前を呼ぶ筈がない。 「ディ、ディフェンス!」 近づいてくる遊馬を前に、咄嗟に出てきたのがこのセリフ。さっきまでサッカーのこととか考えていたのだから仕方ない。 「オフェンス!?」 「――っと見せかけてぇっ!」 「あぁっ!」 千尋は、彼が一瞬怯んだ隙をついて、転がるように逃げ出した。しかし、サッカー部のエース相手に、勝てるわけもない。二人の距離はすぐに近づいてしまう。 ああ、ちょっと前にもこんなことあったな――て、何だよ俺、こいつから逃げてばっかりじゃん。それじゃどうにもならないのに……。ほんと、何してんだろ? 意味分かんねぇ。 「王司!」 意を決した千尋はくるりと、彼に向き合った。が、 「て、え、うそっ!!」 人は急には止まれない。いきなり動きを止めた千尋に、遊馬が突っ込んだ。と、思ったのだが…… (あれ、痛くない?) 衝撃に備えて、反射的に瞑っていた瞳を、千尋は恐る恐る開いた。すると、目の前には、痛みに眉を顰める遊馬の顔が。 「王司!」 どうやら、倒れる瞬間、彼が千尋をかばうように体勢を入れ替えたらしい。おかげで、彼を下敷きにした千尋は全くの無傷だ。 「おい、お前なに俺なんかかばって……、エースの大切な体なのに……!」 慌てて彼の上からどこうとするが、当の彼が千尋の腰をがっちりホールドしているために叶わなかった。 「……王司?」 「――やっと、捕まえた」 「は、離せ!」 「嫌です」 走ったせいか、倒れたせいか、彼の声は掠れて、別人のように聞こえる。 (何だよ、こんな……嫌だ。俺が騙してたから? 怒ってるのか?) 大きな黒い瞳を眇めて真剣な顔をした遊馬に責められて、千尋の胸がずくずく痛んだ。 「なんでここに居るんだよ! デートはどうしたんだよ!」 「俺が誘ったのは千尋さんです!」 彼の目から逃げたくて、逃げられなくて、千尋は半泣きで目を瞑って耳を塞いだ。 「千尋さん、聞いて」 しかし、遊馬にその腕をとられ、体を反転させられる。今度は逆に千尋が彼に乗られる体勢になって、両手を床に縫い付けられた。 「やだ! 嫌だ、聞きたくない!」 「家に行っても居なくて、もしかしたらって思ってここに来ました。話がしたくて」 「嫌だって言ってんだろ!」 「千尋さんが好きなんです!」 「……ふ、ぇ?」 暴れていた千尋は、遊馬の言葉に動きを止めた。 「……お前が好きなのは、千春だろ?」 そう言えば、彼はハンサムな顔をすっと近づけてくる。 「違います。あなたです。山瀬千尋さんが好きなんです」 そんな真剣な顔で、そんなことを言われても信じられなかった。 「だって、俺、何の取り柄もないし、男だし、可愛くないし、」 「千尋さんは可愛いです」 「馬鹿言ってんじゃねぇよ! ハンサムの癖に喧嘩売ってんのか!?」 そう言い放った瞬間、千尋は遊馬を見て、息を止めた。思い切り罵倒した筈なのに、彼がふんわり笑ったのだ。 「――千尋さんは、やっぱり、山瀬さんだ……」 (山瀬さんはいつもそうだった。自分に自信がなくて、ひねくれていて……) 「喧嘩なんて売ってません。千尋さんは、外見も中身も全部可愛いです」 「嘘だよ、だって、俺、冴えないし……、お前には不釣り合いだし、」 遊馬は往生際の悪い彼の口を掌で塞いだ。 「これ以上俺の好きな人を悪く言うのは、例え千尋さんでも許しません」 「……っ」 見る間に千尋は頬を染めて、目を逸らしてしまう。その姿は可愛いし、遊馬の手と比較すると、彼の小顔が強調されるし、掌で覆った口元は柔らかいし、掌に吐息がかかるしで、遊馬の鼓動は跳ね上がった。 「俺、千尋さんに会ってから一ヶ月しか経ってないのに、千尋さんの良いところたくさん知ってます。芯がブレないところ、理不尽に屈しないところ、ピンと張った背筋、男気のあるところ。全部に惚れました。自分に自信がないところは、支えてあげたい、ほっとけないって思うし、恥ずかしがってすぐ手が出るところは可愛いと思います。ね? ちゃんと千尋さんのことが好きでしょう?」 言い募るごとに遊馬の下で、千尋は身を縮めて喜びと羞恥に顔を真っ赤に染めて悶える。そんな彼を見てたまらなくなった。 「千尋さん可愛い。キス、しても良いですか?」 「え、ちょ、まっ!?」 彼の口を覆っていた手を退けると、小さな唇が露わになる。 可愛い。全部が可愛い。 でも、真赤になって身を縮こませる千尋に遊馬は、ほんの少し罪悪感を覚えて、唇ではなく額に優しく唇を落とした。すると、大きく目を開いた千尋の、その瞳が潤んで揺れる。 「……っ、ふ、ぇ」 「え、嘘!?」 「ふぁーんっ」 見る間に大粒の涙が頬を伝い、しまいには大号泣。そんな彼を前にして、遊馬はとにかく慌てた。 「うぇ、え、なんで、どうしよ、え? なんでぇ?」 「うっ……ぐ、っひ……」 どうしたら良いか分からず、泣きじゃくる千尋を抱きしめる。 「千尋さん! どうしたの? なんで泣くの? いきなりキスしたから?」 千尋は遊馬の腕の中で首を振った。 「……放し、て……」 「嫌です」 その願いは即座に拒否する。最早反射だ。 「……なんだよ、だって……っ」 「だって?」 「結局、デコにする……っ、とか、やっぱり、男だから……っ、無理ってぇ……!」 遊馬は皆まで聞かずに、その口を自らの口で塞いだ。 「んん……っ!?」 抵抗されても止められない。酸素を求めて薄く開いた口に、舌を差し入れる。 慣れないのか、逃げる舌を捕まえる。遊馬だって慣れているなんて言えないが、とにかく彼との距離をゼロにしたくて、もっと深くまで触れ合いたくて、衝動のままに口内を舌で撫で回した。そうしているうちに、さっきまでとは違う理由の涙が、千尋の瞳から零れ落ちる。 「ん、んぁ……っ、ふ……っ」 くぐもった声さえ外に逃がすのがもったいなくて、遊馬は、捕まえた舌と一緒にそれを吸い込んだ。 (これは、もう千尋さんが悪いでしょ……?) 自分に言い訳をして、満足いくまで蹂躙してからやっと唇を離した遊馬は、ぐてっと脱力する千尋の頬を支えて、言った。 「千尋さん。好きです。答えてください」 「……ムカつく」 息を乱して、肩を上下させつつも、きりっと顔を決める遊馬に、千尋は眉を顰めてそう言った。 「え?」 「経験豊富なんだろ!? 余裕持ちやがって! ばーか、ばーか!!」 罵倒の後、遊馬の唇に柔らかなものが押し当てられる。 「……ばか」 目の前には照れてそっぽを向く彼が居て、 「千尋さんっ!」 遊馬は可愛いすぎる彼を抱き潰した。 ****** 「千尋さん! 俺、また千尋さんとこうやって一緒に居られて、幸せです!」 昼休み。白砂利の眩しい中庭の隅で、弁当を広げた遊馬は、千尋にふにゃふにゃの笑顔を向けた。 「お、まえ、そういう恥ずかしいこと、よく平気で言えるな!」 それに暴力で答える千尋はどうしたものか。 「ぶー、だって本当ですもん」 「――っ、俺だって……その……」 ぶぅたれる遊馬から目を逸らして、口の中でもごもご言う千尋。腕で顔を隠しても、赤い耳が覗いている。そんな愛らしい反応に、プルプルと身悶えた遊馬は、我慢できずに彼に飛びついた。 「千尋さん、大好きですっ!」 「ぎゃーっ! はーなーせー!」 「いーやーでーすーっ」 「君のお兄さん、おいしいね」 「そうでしょう、そうでしょうとも」 そんな二人を影から見守る腐女子と腐男子。四人の奇妙な昼休みは、新学期が始まっても続いていた。
兄恋 双子入れ替わり 編<完>